(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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by suba28 | 2017-01-09 05:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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