(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)

題:(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年8月20日、三池鉱山が三井組へ払い下げられた。
  1876年(明治9年)この年に、旧三井物産が設立された。
  そして、この頃、三池炭鉱は、工部省の直営事業であ
 った。
  幸いなことに、出炭量が増えて、販路の開拓に苦慮し
 ていた。
  1877年(明治10年)工部卿であった伊藤博文は、その
 輸出がひらめいた、そして・・、
  旧三井物産社長の益田孝に、三池炭の輸出を持ちかけ
 た。
  益田は大牟田まで赴き、その石炭の質を確かめるため、
 実際に、七輪で焚いてみた。
  硫黄分が多く、着火しやすい良質な三池炭に感心した
 益田は輸出契約を締結した。
  そして、翌年の1878年には、三池炭輸出の委託販売権
 を獲得した。
  三池炭は、旧三井物産を通して、上海、香港、シンガ
 ポールなどの海外各地へ輸出された、そして同時に、
  旧三井物産も外国に支店を増やした。
  海外展開を大きく拡張して行った。
  明治政府は、官営事業の民間への払下げを打ち出して
 いた。
  民間企業の充実・・そして、拡充・・、
  ・・が、しかし、三池炭鉱は、優良事業として民間払
 下げをせず・・官営を続けていた。
  1888年(明治21年)、しかし、ようやく・・三池炭鉱
 の払下げが決定した、そして、入札が行なわれた。
  政府の指値は、400万円という高額だった・・当時とし
 ては破天荒な金額であった。
  たとえば、三菱に払い下げられた長崎造船所は9万円だ
 った。
  価格に関わらず三池炭鉱を落札しなければならないと
 した益田は、三井銀行を説得し、100万円の融資を取り付
 けた。
  三菱と熾烈な競争が展開された・・、
  その結果、455万5000円で、三井組が三池炭鉱を落札し
 た。
  この時、三池炭鉱と共に三井が手に入れたかったのは
 人材としての鉱山技師・團琢磨(だんたくま)だった。
  黒田藩勘定奉行の養子であった團琢磨は、1871年、岩
 倉使節団とともに渡米し、マサチューセッツ工科大学で
 鉱山学を学んでいた。
  1878年に帰朝し、東京大学助教授などを経て、
  1884年、工部省に採用され、三池鉱山局に勤めていた。
  三井組の三池炭鉱落札の時、團は、三池炭鉱の湧水対
 策を学ぶため、欧米各国の炭鉱を視察中であった。
  ニューヨークで、民間に払い下げられた「その事実」
 を知った。
  職場の払下げにより、失職した。
  行き場を無くした團は、義兄に相談し、義兄のの斡旋
 で、福岡県庁への入庁が内定していた。
  しかし、益田は、これを聞いて驚いた。
  益田は、以前から團の才能を買っていた。
  「三池の落札価格に、團の価値も入っている」と、益
 田は、主張した。
  そして、福岡県庁の2倍の給金で、團を招聘した。
  1889年、旧三井物産は、「三井炭鉱社」を組織した。
  團は、事務長に就任した。
  1893年には、三井鉱山合名会社が設立された。
  専務理事となった團は、最新の排水ポンプによる湧水
 問題の解決をした。
  また、三池築港など鉱山事業などをして・・その手腕
 を発揮した。
  後に、三井合名理事長まで上り詰めた。
  三井の雄となった。
  三井鉱山は、三井のドル箱として・・、
  三井銀行、旧三井物産とともに・・戦後、石炭産業が
 斜陽化するまで「三井の御三家」の一角を担い、三井を
 支えた。、
  三井財閥の発展を支える大切な中核事業として存在し
 た。
  そして、日本を支えた。
  (三井広報委員会のホームページを参考にした)
1888年8月21日、尋常師範学校設備準則を制定した。
  この法律で、我が国初めての『修学旅行』という言葉
 が使われた。
  1886年(明治19年)に、師範学校令が公布され、わが
 国の師範教育制度は、ここにはじめて整備への第一歩を
 踏み出した。
  これ以前から、理知的に進んでいた日本は・・師範教
 育も、すでに、発展して来ていた・・が・・、
  全国的に整備された教員養成制度は、まだ、確立され
 ていなかった。
  この師範教育制度の改革を進めたのが、文部大臣・森
 有礼であった。
  森は、国民教育の根本は「師範教育にあり」とした。
  そして、その重要性を認め、
  師範教育の理念を制度の上において・・実現しようと
 努めた。
  1886年(明治19年)4月10日、「師範学校令」が公布さ
 れた。
  そして、この師範学校令、ならびに、その後、これに
 関連して設けた諸規程によって・・、
  小学校・中学校・帝国大学とは全く別個に、独立させ
 て・・「教員養成のための師範学校制度を確立しよう」
 とした。
  師範学校令・第一条:
  「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但
 生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目
 スヘキモノトス」。
  師範学校令に続いて・・、
  1886年(明治19年)5月26日、「尋常師範学校ノ学科
 及其程度」(女生徒については、明治22年10月)、
  1886年5月28日、生徒募集規則、および、卒業生服務規
 則、
  1886年6月4日、尋常師範学校男生徒の学資支給に関す
 る件、
  1888年8月21日、尋常師範学校設備準則・・を定めた。
  高等師範学校については・・、
  1886年(明治19年)10月14日、「高等師範学校ノ学科
 及其程度」、高等師範学校生徒募集規則、および、高等
 師範学校卒業生服務規則・・を定めた。
  尋常師範学校の入学資格は、高等小学校卒業以上の学
 力を有し、年齢17年以上20年以下の者、修業年限は4年と
 した。
  高等師範学校には、男子師範学科と女子師範学科とを
 置き、
  男子師範学科の入学資格は、尋常師範学校を卒業した
 者とし、その修業年限を3年と定め、
  女子師範学科は、尋常師範学校第2学年修了者を入学さ
 せ、修業年限を4年とした。
  1890年(明治23年)3月25日、女子部を分離して、女子
 高等師範学校を創設した。
  (文部科学省のホームページを参考にした)

1888年9月1日、東海道線の浜松駅~大府駅間が開通した。
  愛知県大府市にある大府駅(おおぶえき)が、この時
 のこの開通による官設鉄道線開業により、2線の分岐駅と
 なった。
1888年9月8日、森鴎外が、ドイツから帰国した。
  明治の文豪・森鴎外のこのドイツ留学には、美しいロ
 マンスがあった。
  鴎外の代表作の「舞姫」にもなっているが・・、
  鴎外のドイツの恋人(舞姫ではエリス)は、実際の話
 だった。
  エリスは、鴎外を追って日本へ来た。
  鴎外のこのドイツからの帰国から一週間もたたない頃、
 横浜港に入港した客船のゲネラル・ベーター号から、ひ
 とりのドイツ人女性が降り立った。
  女性の名をエリーゼと言った。
  エリーゼは、現在の銀座五丁目にあった築地精養軒に
 宿泊し、鴎外への気持ちを実現したいとした。
  鴎外と会えることを心待ちにした。
  しかし、このエリーゼの来訪は、海軍中将の娘である
 登志子との縁談が整いつつあった鴎外の周囲を動揺させ
 た。
  鴎外の親戚や友人が、帰国を説得するために精養軒に
 連日通った。
  鴎外自身も数回精養軒を訪れた。
  結局、エリーゼの恋は実現を果たせずに・・来日から
 約1ヶ月後・・ドイツに帰国した。
  しかし、鴎外の心には、生涯エリーゼを忘れることは
 無かった・・と・・言われている。
  鴎外の次女の小堀杏奴の著作に・・、
  「この女性とは、その後、長い間、文通だけは絶えず
 にいて、
  父は、女性の写真と手紙を、全部一纏めにして死ぬ前、
 自分の眼前で、母に焼却させた」・・と、記されている。
  (小堀杏奴「晩年の父」より)
1888年9月11日、高等師範学校附属学校に尋常中学科(現・
 筑波大学附属中学校・高等学校)が設置された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:色々な・・はなし・・
.
紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジ
 ア系のモンゴロイドであった。
  この人々・インディアンの方々は・・、
  氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、
 凍結したベーリング海などを渡って、
  シベリアからアラスカを経由し、
  広大な南北アメリカ大陸各地入り、そして、分散して
 行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会によ
 る独自の文化を育んだ。
  今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が
 我が国土の様な顔をして住んでいるが・・、
  この白人たちの論理は・・、
  「この先住の民であるインディアンの方々が国家を形
 成していなかったから」・・なんて、屁理屈を言う、
  「だから、土地を奪ってもよかったのだ」・・という
 筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」
 という理屈・論理である。
  もし・・ある家が、家庭崩壊していたら・・、
  家庭という状況が崩壊し、家庭が形成されていなかっ
 たら・・第三者は、その家を「乗っ取っても良い」とい
 う論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」。
  そして・・、
  近世まで、北米には、中南米に匹敵するインディアン
 文明が存在しないとされていたが、
  近年発掘が進み・・、
  8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化
 の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によ
 って確認された。
  そのうちもっとも大規模なものは・・イリノイ州セン
 トルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、
  最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・、
  1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界
 遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブ
 スは、スペイン女王の承諾を受け、
  大西洋周りによるアジア発見を志したが、
  1492年に、西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボット
 が、
  北米大陸の東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニュ
 ーイングランド植民地)、
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セント
 ローレンス川を遡って、これをフランスが領有化(カナ
 ダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検
 と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじま
 った。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教の宗教改革がな
 され、プロテスタント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくが
 い、弱い立場の人々を追い詰めて、苦しめること)を受
 けたピューリタン(清教徒)が、1620年のメイフラワー
 号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次
 いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、
 アメリカ大陸に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越え
 られず、餓死者が多く出る・・大変出るという状況だっ
 た。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでし
 まうかという酷(ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦
 しい状態や立ち場)を救ってくれたのが、アメリカ・イ
 ンディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の
 種類を教えてもらい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できな
 いと、人種差別の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された
 頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い
 出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、
 耕作地を拡大したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシ
 シッピー河以東の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪っ
 た。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその
 地の持ち主であるインディアンの方々の追い出しにかか
 った。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せ
 に暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地か
 ら、先に住んでいたアメリカ・インディアンの方々の追
 い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・であ
 る。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事
 なのに・・である。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、
 初めの恩も何も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、
 卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮
 され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、
 河の西へ行けとされた。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシ
 ッピー川以西に追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際
 限なく繰り返された。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、
 また、さらに、インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出
 来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと
 奪って行く、その地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、
 絶滅に瀕している。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々
 を殺戮し、土地を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタント
 の間で『偉業として称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まり
 として、『罪なる行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模
 な抗議が行われている。当然である・・、
.
  そして、次の話・・、
.
1644年、江戸時代の初期のころ、中国では、明朝が滅び
 (1644年)、清朝が成立したばかりだった(1644年)
  明朝の生き残りの勢力の鄭芝龍・鄭成功親子は、台湾
 へ逃れた、
  そして、鄭政権を作った。
  鄭成功は、日本人を母として、日本とも関係の深い政
 権だった。
  この時、清朝の台湾侵略の脅威に脅(おびや)かされ
 ていた。
  その脅威が生じるたびに、鄭成功は、江戸幕府に援軍
 を要請して来た。
  この時、江戸幕府は、鎖国体制だったが、台湾を守ろ
 うと「出兵を決定」した。
  この時の清朝は、「韃靼(だったん)人」による政権
 で(モンゴル)と同じ政権だった。
  鎌倉時代のモンゴル来襲も意識下にあって、出兵の必
 要を感じ、意識し、決意していた。
  老中は、「台湾の安全が、日本の安全に直結する」と
 意識していた。
  今・現代、中国共産党政権が、覇権の拡大路線をとる
 とき、この史実は、よく心しておく必要がある。
  今、完全に北朝鮮は「ロシア離れ」を起こし、中国共
 産党政権の息のかかった中にいる。
  「六か国協議」にしたって、北朝鮮の「核爆弾開発」
 と、「ミサイル開発」の最も大切な「詰めの時期」に、
  北朝鮮が安全に、それなりに、過ごす『時間稼ぎ』に
 使われ、
  結局、北朝鮮の目的が達せられつつある。
  この開発を、裏から応援していたのが、中国共産党政
 権であった。
  中国は、覇権拡大とともに、当然、対抗勢力の分断行
 為をする。
  韓国が、北朝鮮の核開発の進展とともに揺れ出し、38
 度線が、対馬海峡に移ってくる気配も感じられる。
  中国共産党政権の狙いの中に、当然、「日米分断」が
 あり、「太平洋を半分づつ」と、アメリカに言った意識
 もある。
  分断には、まず、「日本を封じ込める」という戦略も
 取る。
  過去に、「ABCD包囲網」で、日本を包囲した記憶
 が消えないのだろう。
  アメリカの覇権に、とって代わりたい中国共産党政権
 がある。
  長期的にも、それを達成したいがある。
  その達成のため、中国共産党政権は、「国際的合意」
 という手を使うだろう。
  簡単に言えば、「クラスのいじめられっ子」状態に、
 そして、「国際的合意だからやれ」と、日本の不利な事
 を押し付けて来るのだろう。
  その発言力を高めるため、「二桁の軍事費」を投入し、
 増大し続けている。
  今までの人類の歴史にない規模の異常な軍事費の急拡
 大を続けている。
  アメリカは、「世界の警察官」の立場はとれないと、
 止めたと、放棄の公言をした。
.
  そして、次の話・・、
.
  題:文明開化の地でパンが作られ始めた・・、
.
1860年、パンの発祥(横浜)
  パンの発祥地という事で、横浜に石碑が建った(2016
 年11月9日報道)
  石碑が建った場所は、横浜の日本大通りで、1860年に
 開業したという。
  記事:
  最初にパン店が出来たとされる横浜市中区日本大通り
 に8日、「近代のパン発祥の地」と書かれた石碑がお目見
 えした。
  パン食文化発祥の説明とともに、開港直後から親しま
 れてきた「イギリス流山型食パン」と丸形の「フランス
 パン」の写真が焼き付けられており、早速、観光客らが
 見入っていた。
  同市総合パン協同組合などによると、最初のパン店が
 開業したとされるのは1860年。
  外国人の日用食品街「お貸し長屋」の一角で、内海兵
 吉という人物が、フランス人にパン製法を習って始めた。
  当初は、良い発酵方法がなく、「焼きまんじゅう」の
 様だったという。
  イギリス流の山型食パンは、イギリス人のパン店で修
 業をした打木彦太郎氏が庶民に広め、今も元町にある「
 ウチキパン」が当時の製法を引き継ぐ。
  こうした伝統を多くの市民に知ってもらおうと、パン
 業者が加盟する同組合などが碑の設置を進めて来た。
                 (読売新聞より)
.
  そして、次の話・・
.
1922年11月17日、アインシュタイン氏が来日した(~12月
 29日までの43日間)
  フランスなどを訪れ、そして、日本への訪問を目的に
 夫婦で客船「北野丸」に乗船し、そして、11月17日に訪
 日した。
  アインシュタイン氏は、大正天皇陛下に謁見ている。
  アインシュタイン氏は、ラフカディオ・ハーンが記し
 た美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、
  科学の世界的連携によって、国際関係を一層親善に導
 くことが訪日の目的である・・と語った。
  そして、アインシュタイン氏は、2人の息子にあてた手
 紙に、
  「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。
  謙虚で、物分かりや察しがよく、
  技術に対する勘があるから」・・と、訪日した際の感
 想を述べている。
  広島では、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行
 為を行ってしまったと悔やみ、そして、謝罪した。
  また、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏と面会
 した際にも、同様の理由で、涙ながらに謝罪したという。
.
  アインシュタインには、その言葉に、多くある日本を
 賛美する言葉がある。
  以下の文は、1922年に、アインシュタインが日本を訪
 れた時に、
  日本に託した言葉だと云われている。
  アインシュタインは、日本と日本人に対して、敬愛の
 念を持っていた。
  彼が残した色々な文面には、日本を賛美する言葉が数
 多く残されている。
  アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建
 築をはじめとする・・、
  日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であったと
 言われている。
  日本の良い歴史や、日本人の素晴らしい精神性を学び、
 アインシュタインがこよなく愛した、よき日本人となり、
  世界平和の発信リーダーとなれる国にしましょう。
.
  アインシュタインの言葉・・
.
  近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
.
  その驚異的発展には、他の国と違ったなにものかがな
 くてはならない。
.
  果たせるかなこの国の歴史がそれである。
.
  この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという
 国体を持っていることが、
.
  それこそ、今日の日本をあらしめたのである。
.
  私はいつもこの広い世界のどこかに、
.
  一ヶ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならな
 いと考えてきた。
.
  なぜならば、世界は進むだけ進んで、その間、幾度も
 戦争を繰り返してきたが、
.
  最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
.
  このとき人類は必ず真の平和を求めて
.
  世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いな
 い。
.
  その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、
.
  あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊
 い家柄でなくてはならない。
.
  世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰る。
.
  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
.
  我々は神に感謝する。
.
  神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたこ
 とである。
  (日本を知る会のホームページを参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-12-09 17:27 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


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