(増補版)454E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年8月~1887年9月)

題:(増補版)454E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年8月~1887年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年8月15日、熊本県の三角港が開港し、開港式が行われ
 た。
  三角港は、港湾法上の重要港湾で、港則法上の特定港
 に指定されている。
  西港(旧港)と東港に別れているが、西港は、世界遺
 産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産
 業」の構成資産の一つとなっている。
  近代的港湾として、日本最古である。
  そして、宮城県の野蒜築港、福井県の三国港とともに
 明治の三大築港と呼ばれている。
  1880年(明治13年)、熊本県は、坪井川河口の百貫港
 (現在の熊本市小島・百貫石周辺)を候補地をして内務
 省に貿易港の建設を申請した。
  1881年、熊本に派遣されたオランダ人・水理工師:ロ
 ーウェンホルスト・ムルデルは、調査の結果、宇土半島
 先端のこの地(西港)が、百貫港より優れた天然の良港
 であるとして築港を進言した。
  そして、設計指導の下、
  1884年から3年の歳月をかけ築港された。
1887年8月19日、日本最初の皆既日食観測が行われた。
  この日食は、101年ぶりの皆既日食で、関東から東北に
 かけてが皆既日食だった。
1887年8月20日、最初の軍艦建造
  東京石川島造船所にて、帝国砲艦「鳥海」の進水式が
 行われた。
  私立造船所における、帝国軍艦建造の最初の記録だっ
 た。
  石川島平野造船所で、1888年12月27日に竣工した。
  日清戦争では、旅順・大連・威海衛攻略作戦等に参加
 した。
  1908年4月1日に、除籍され雑役船に編入、佐世保海兵
 団練習船として使用された。
1887年8月、皇太子東宮宣下(氷川清話)
1887年8月、ボアソナードや谷干城らの意見書が、自由民権
 派の手によって秘密出版され、国民に流布され、広く知
 られた。
  ボアソナードは、フランスの法学者、教育者で、日本
 の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、
 国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任した(勲一等
 旭日大綬章受章)
  明治政府の法律顧問として、1873年(明治6年)来日し
 たお雇い外国人の一人だが・・、
   当時の日本にとって急務の課題だった不平等条約の撤
 廃のため、国内法の整備に尽力した。
  そして、日本近代法の礎(いしずえ)を築いた。
  「日本近代法の父」と呼ばれている。
  司法省明法寮、司法省法学校のほか、東京法学校(現:
 法政大学)、明治法律学校(現:明治大学)、旧制東京
 大学の教壇にも立った。
  1895年、離日(22年間という長い期間、日本のために
 働いて戴いた)
  1910年、南仏コート・ダジュールにて没する(85歳)
  ボアソナードの講義は、高度で且つ難解であったとい
 う。
1887年8月、本願寺普通教校生徒らが、「反省会雑誌」を創
 刊した(のちの中央公論)
  前身は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で、
 高楠順次郎らの学生有志が、1886年に組織した「反省会」
 の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』だった。
  禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。
  そして、この年・1887年に、創刊された。
  1892年《反省雑誌》となり、
  1899年(明治32年)1月、《中央公論》と改題され、発
 行所は反省社。
  明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛を
 いち早く起用するなど、名編集者として知られた。
  大正期には、吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義
 的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論を
 リードした。
  また、小説欄は新人作家の登竜門だった。
  1914年、中央公論社となった。
1887年9月4日、富士山頂にて気象観測行われた。
  中央気象台技師・正戸豹之助、及び、お雇い外国人・
 ドイツ人のクニッピングによって、登頂し、山頂で3日間
 気象観測が行われた。
  因みに、クニッピングは、「日本の天気予報の父」と
 呼ばれている。
  また、1884年(明治17年)6月1日の日本最初の天気予
 報は、このクニッピングによって行われた。
  この富士山頂の公設の通年の観測は、1932年(昭和7年)
 7月1日からで、外輪山南東に「中央気象台臨時富士山頂
 測候所」が設置され、行なわれた。
  1964年(昭和39年)山頂のシンボルの気象レーダーが
 建設され、翌年・1965年3月から正式運用となった。
  1999年(平成11年)11月1日で、レーダー観測は終了し、
 現在は、気圧、気温、風向、風速などの自動観測が行わ
 れている。
  因みに、これに先立つ1880年(明治13年)8月に、富士
 山頂の気象観測が行われている。
  それは、日本帝国大学の御雇い教師・アメリカ人のT・
 CメンデホールとF・Sチャップリンは、富士山頂の重
 力調査で登山した際に、気圧、気温、湿度を観測した。
  これが、最初と言われている。
  また、日本人の野中至は、富士山頂の通年の気象観測
 の重要性を唱えた最初の人だった。
  そして、野中は、妻の千代子と共に、1895年(明治28
 年)富士山の最高地点である剣ヶ峰まで決死的な登山を
 試み、さらに越冬観測も試みた。
  しかし、10月からの観測は、病気もあって12月22日で
 終わった。
  この努力が、公設の観測所設置へとつながったという
 日本人の輝かしい記録もある。
1887年9月16日、井上円了(いのうええんりょう)が、私塾
 「哲学館」を開校した。
  井上円了は、仏教哲学者、教育者だった。
  1877年(明治10年)、京都・東本願寺の教師学校に入
 学し、
  1878年の翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれ、上京
 し、東京大学予備門入学した。
  その後、東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究した。
  あらゆる学問の基礎である哲学を学ぶことが、日本の
 近代化にとって重要である・・との観点から、
  その教育に大きな力を注いだ。
  「諸学の基礎は哲学にあり」が、教育理念だった。
1887年9月17日、外務大臣の井上馨は、条約改正が破綻し、
 この失敗から辞任した。
  条約改正会議は、無期延期となった。
  外務大臣のポストは、総理大臣の伊藤博文が、臨時で
 兼任した。
  井上馨は、1885年(明治18年)、伊藤博文が、内閣総
 理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生すると、
  外務卿に代わるポストとして、初代外務大臣に就任し
 ていた。
  そして、引き続き条約改正に専念した。
  しかし、1887年(明治20年)に改正案が広まると、
  「裁判に外国人判事を任用する」などの内容に、反対
 運動が巻き起こり、
  井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り、分裂の危機
 を招いた・・そのため・・、
  1887年7月に、改正交渉延期を発表し、
  1887年9月に、外務大臣を辞めざるを得なかった。
  そして、井上馨の外務大臣辞任と共に、鹿鳴館時代は、
 その歴史に幕を下ろした。
  鹿鳴館の建物は、1890年(明治23年)に、宮内省に払
 い下げられ、華族会館が一部を使用することになった。
1887年9月21日、横浜に、最初の西洋式の水道が布設された。
  水道は、古くから日本にあった。
  木の樋(とい)を埋め、水源地から水を曳いたれっき
 とした水道布設だった。
  これは、江戸の昔から実施されていた。
  西洋流の近代式水道としては、横浜が最初だった。
  1887年のこの時に、足掛け3年をかけて、水道工事が完
 成した。
  横浜は、1871年(明治4年)にも、53万円の巨費を投じ
 て、水道が開設されていたが、
  江戸の水道のように、地中に木の樋を埋設したものだ
 ったので、永久性は無く、破損の箇所を生じていた。
  その頃、中国・広東で、イギリスの工兵少佐H・S・
 パーマーが、同地の水道布設に招聘されていた。
  その工事の終って、横浜に招いた。
  1885年(明治18年)4月、彼の設計で工事を始めた。
  そして、日本最初の近代式上水道が実現した。
  水源地のろ過装置や、清水を圧力によって給水する方
 法、配水管に鉄管を用いた事など、すっかり従来とは違
 っていた。
  費用も、その頃としては思い切った巨額で、約107万
 4700円に達した。
  因みに、水道布設を最も早く行なったのは、イギリス
 で、1829年、ロンドンで世界最初のろ過法水道が発明さ
 れた。
  列国でもイギリスに学んで、漸次水道布設が盛んにな
 った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦後の『 戦争 』まで作るという愚行をしていた・・、
.
1945年8月14日、日本の降伏
  この日、日本の「国体維持の有条件」で、降伏の意思
 がアメリカへ伝わった。
  そこで、アメリカは、即時に、連合国の各国へ通達(
 つうたつ、告げ知らせること)し、連合国の各国は、戦
 争行為を終えなければいけなかったが、その様な状況に
 はならなかった。
  特に、アメリカのルーズベルトに領土欲をそそのかさ
 れたスターリンのソ連軍は、戦争行為を続けた。
  そしてまた、愚かなことだが、この中に、「次なる戦
 争の芽」が、「この時にあった・・存在した」。
  連合国各国は、この日・8月14日の日本降伏によって「
 日本が居なくなって・・抜けた穴」、空白地帯の安定を
 計(はか)る事が出来なかった。
  日本が統治し、重石(おもし)になって、しっかりし
 ていた地帯が、「空白の不安定地帯と化した」。
  そして、「争点の地となっていた」。
  日本がしっかりと存在を示していて、安定していた存
 在を・・つくづく心の内でありがたく思った事だろう。
  アメリカ大統領のルーズベルトの「ソ連スターリンへ
 の愚かなそそのかし・煽(あお)り」で、東アジアにお
 ける領土欲に「目覚めさせられたスターリン」は、
  東アジアに軍事力を集中させ、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)の最末期に・・、
  領土の奪い取りに、ソ連は狂奔した。
  この、8月14日の日本降伏の通達以降も、盛んに戦争を
 続け、領土を奪い、拡大する行為を続けた。
  アメリカに、やっとこの時点で、「ソ連がどこで止ま
 るか?」が・・大問題として浮上した。
  ソ連は、ルーズベルトにそそのかされて、その言われ
 た地(満州・千島列島・大連・旅順)以外にも、ソ連・
 スターリンの欲は広がり、
  朝鮮半島・中国・北方領土へと侵攻した。
  アメリカの思惑とは完全に違っていた。
  ここの思惑違いに、また、「新たな戦争の種」が生ま
 れていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、マルタ会談の後、ア
 メリカ国民の方々へ、
  「少なくとも今後20年は戦争が起きない秩序を確立し
 た」・・と言った。
  しかし、その様な言葉は、アメリカ国民の方々への約
 束は、早くも数ヶ月の後のこの時に、空のどこかへ消え
 去っていた。
  ルーズベルトが撒(ま)いた種(たね)・そそのかし
 が原因で、ソ連の領土欲は止(とど)まることを知らず
 に、
  「アメリカと対峙するという状況」が生まれていた。
  ルーズベルトは、「(第二次世界大戦の)戦争を作っ
 た」と言ったが、
  その戦争の末期になって、この時になって、この様な
 経過のうちに、このルーズベルトは、またまた、「第二
 次世界大戦後の戦争」まで作るという愚行をした。
  マッカーサーが、まだ、マニラ司令部にいるとき・・、
  「ソ連軍が、北海道に上陸した」という電文を受け取
 った。
  1945年8月末頃のことだった。
  マッカーサーは、烈火のごとく怒った。
  即座に、ソ連へ強い抗議を行なった。
  そして、そのソ連からの返信は・・、
  「アメリカ軍こそ、千島列島に上陸した。これは、ヤ
 ルタ協定違反だ」・・と、
  ルーズベルトと、スターリンの「ヤルタ密約」に関し
 ての逆の抗議だった。
  アメリカとソ連の「支配領域の奪い合い」からのやり
 取りだった。
  結局、根拠のない事という事で終わったが・・、
  早くも、「次なる世界の取り合い」による火花が飛び
 交う状況となり、
  ルーズベルトの「そそのかしの仕掛け」が、次なるト
 ラブルの幕まで開けてしまっていた。
  そして、愚かにも、このルーズベルトのそそのかしの
 影響は、この後、とどまることなく続いた。
  そして、愚かにも、この5年後の朝鮮戦争まで引き起こ
 した。
  悲しい事だが・・、この朝鮮戦争で、国連軍と韓国の
 方々が、何百万人もの方々が・・死ぬという・・「ルー
 ズベルトの大罪」は続くのだった。
  マッカーサーが、ソ連軍の北海道上陸の電文を受けて、
 そして、怒ったのは・・理由があった。
  ソ連が、日本の『本土の領土』を欲しがった。
  そして、愚かにも・・、その強い要求である『北海道
 占領』に、アメリカ大統領のトルーマンは、「了解」を
 与えていた。
  マッカーサーは、ソ連に圧力を掛けた。
  幸いにも・・この際限ないソ連の領土欲を押しとどめ
 られた・・が・・、
  朝鮮半島では・・酷い状態となっていた。
  満州から・・朝鮮半島北部一帯に・・殺到したソ連軍、
 中国共産党軍、さらに中国国民東軍が・・入り乱れ、
  混乱が深まっていた。
  マッカーサーは、なすすべなしの状態だった。
  愚かなるルーズベルトの「ソ連スターリンへのそその
 かし・あおり」の大罪の戦争は続いた。
  殺される人が増え続けていた・・、
  そしてまた、愚かにも・・、
  マッカーサーは、日本の占領統治を終えて、アメリカ
 に帰国した時に、やっと、日本の真のことが分かったと
 アメリカ議会で証言した・・、
  「アメリカは、日本の勢力を支那大陸、満州、朝鮮か
 ら駆逐したことで、自分たちの目標を達成したかに見え
 た・・が・・、
  しかし、その結果、アメリカは、過去半世紀に、この
 地域で、日本が直面し、対処してきた問題と『責任』を、
  日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけ
 だ」・・と後悔した。
  『日本が偉大だった』ことが、やっと、分ったのだっ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-11-13 04:44 | 皆様とともに 幸せになりたい


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