(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)

題:(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年5月23日、憲法草案の提出
  井上毅(いのうえこわし)法制局長官が、憲法草案を
 伊藤博文へ提出した。
  憲法についての着手は、1886年(明治19年)5月に、伊
 藤の呼びかけで始まり、
  翌・1887年(明治20年)5月のこの時に、憲法草案に甲
 案・乙案を伊藤へ提出された。
  ロエスレル(お雇い外国人、ドイツ法学者・経済学者)
 も、伊藤に出した草案を参考にして、憲法作成は始動し
 た。
  同年・1887年6月~1887年8月にかけて、夏島(現在の
 神奈川県横須賀市)にあった伊藤の別荘で作業を行い、
 伊東・金子も交えて4人で討論しながら、草案完成に向
 けて全力を尽くした。
  1887年10月に、高輪(現在の東京都港区)の伊藤の屋
 敷に移り、重ねて議論した。
  そして1888年(明治21年)4月27日に、草案が完成した。
  3日後の1888年4月30日に、伊藤は、首相を辞任し、代
 わりに憲法審議機関として枢密院を創設し、自身は、議
 長として引き続き憲法作成に取り掛かった。
  井上ら3名も、枢密院書記官として伊藤の側に仕えて
 憲法審議に参加した。
  (井上のみ、書記官長に就任、法制局長官も兼ねる)、
  顧問官に任命された政治家達と議論を尽くした末に、
  1889年(明治22年)2月11日に、大日本帝国憲法は公布
 された。
  因みに、1887年(明治20年)12月に、山縣有朋の提案
 で、伊藤が保安条例による強権発動におよび、憲法制定
 のため努力したとしても、政府と国会の衝突が不可避で
 あり、憲法が空文化するとして、井上毅は辞表を提出し
 た。
  これは、憲法草案作成中の第1次伊藤内閣を危機にさら
 すこととなったため、伊藤は、井上毅の慰留に努めた。
1887年5月23日、榎本武揚、佐野常民ら16名が、勲功により
 子爵を、高崎正風、井上良馨ら18名が男爵を授けられた。
1887年5月24日、黄綬褒章が制定された。
  黄綬褒章は、業務に精励し、他の人の模範となる者に
 授与される褒章で、日本の褒章の一つ。
  1887年(明治20年)に、初めて、臨時制定のかたちで、
 沿岸防衛事業に私財を献納する人に授与するとされた。
  (明治20年勅令第16号)、「私財ヲ献納シ防海ノ事業
 ヲ賛成スルモノニ授与スル」
  受章第1号は、中井新右衛門。
  これは、数年間続いたが途絶えた。
  そして、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に、
 廃止された。
  その後、1955年に、褒章条例が改正された際、緑綬(
 りょくじゅ)褒章から「実業に精励して模範たるべき人」
 を切り離し、復活新設した黄綬褒章に当てることとなっ
 た。
1887年5月26日、三菱社が、日本初の鋼鉄製汽船の「夕顔丸」
 を竣工した。
  三菱炭坑社高島炭坑向け貨客船206トン、330馬力、
  1962年(昭和3年7)4月1日、船齢75年で廃船され、解
 体された。
1887年5月30日、文部省が、熊本に第5高等中学校(第五高
 等学校 (旧制))を設立を決定した。
  略称は「五高」(ごこう)。
  後進校は熊本大学。
  1887年5月、第五高等中学校設立され、本科・予科を設
 置した。
  1887年8月、長崎に医学部が設置された。
1887年5月、中江兆民 「三酔人経綸問答(さんすいじんけ
 いりんもんどう)」が刊行された。
  3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪
 傑君、南海先生が酒席で議論する物語。
  ヨーロッパ列強を批判して、完全民主制による武装放
 棄や非戦論などの理想論を展開する者に対し、
  反論する者が、中国進出を主張する。
  そして、その両者の論争を、現実主義的立場に立った
 者が調停するという構成。

1887年6月1日、首相の伊藤博文はじめ、井上毅、伊東巳代
 治、金子堅太郎が、憲法草案作成に、金沢海岸・東屋で
 取り組み始めた。
  井上毅は遅れて参加した。
1887年6月1日、司法省の法律顧問ボアソナードが、条約改
 正について意見書を提出した。
  ボアソナードは、条約改正検討案の裁判管轄条約案に
 反対する意見書を提出した。
  井上案は、主権を侵害しているとした。
1887年6月2日、監軍部条例(勅令第18号)が制定された。
  監軍部条例を改正して、監軍部を東京に置いた。
  監軍部条例が制定されて、教育総監部の前身である第
 二次「監軍部」が設置された。
  その任務は、「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍
 の教育を担当した。
  長官は、天皇に直隷する監軍(大将または中将)で、
 以下、参謀長(少将または大佐)、将校学校監(少将)、
 騎兵監(少将または騎兵大佐)、砲兵監(少将または砲
 兵大佐)、工兵監(少将または工兵大佐)、輜重兵監(
 少将または輜重兵大佐)が置かれた。
  監軍は、勅命により検閲使として軍隊を検閲する役割
 も担った。
  騎兵監などの各兵監は、それぞれの本科に関する調査、
 研究、審議、立案を担った。
1887年6月2日、軍事参議官条例が公布された。
  (明治20年勅令第20号)
  第一条:軍事参議官ハ之ヲ帷握ノ中ニ置キ軍事ニ関ス
     ル利害得失ヲ審議セシム
  第二条:軍事参議官ハ左ノ如シ
     陸軍大臣、海軍大臣、参謀本部長、監軍
  第三条:凡ソ事陸軍ニ関スルモノハ陸軍大臣参謀本部
     長監軍之ヲ審議シ海軍ニ関スルモノハ海軍大臣
     参謀本部長之ヲ審議ス
  第四条:凡ソ事陸海両軍ニ関スルモノハ各参議官ニ於
     テ之ヲ審議ス
1887年6月7日、長崎造船所が、郵便汽船三菱に52万7000円
 で払い下げられた。
  長崎造船所は、1857年、オランダ人技師の指導で、江
 戸幕府が建設した長崎鎔鉄所に始まった。
  1875年に、郵便汽船三菱会社(九十九商会が改称)が、
 横浜に三菱製鉄所を建設、船舶の建造・修理を始めた。
  明治政府官営から1884年三菱へ貸与され、官営長崎造
 船局を借用の形で、事業を継承して長崎造船所とし、
  1887年に、正式に払い下げられた。
  1907年、三菱合資会社に造船部がつくられ、造船業務
 を統轄したが
  1917年、独立して三菱造船(株)となった。
  そして、1917年の三菱造船独立後、その主力造船所と
 なり、
  日本の近代造船業の揺籃(ようらん)期から、長く日
 本造船業の造船技術、および、建造能力の首座を占め続
 けた長崎市にある、日本の代表的な造船所として輝かし
 い足跡を残した。
  日本造船業の代名詞的存在であって、現在も、三菱重
 工業の主力造船所として、世界有数の進水実績を誇って
 いる。
  造船技術の粋を集めた巨大戦艦(武蔵)を建造(1942年
 に完成)したのも、ここ(三菱重工業長崎造船所)であった。
  1857年(安政4年)、江戸幕府が長崎鎔鉄所を建設したこ
 とに始まるが、これは修理工場で、欧米の西洋型艦船の
 入港に対処するためだった。
.
  (今日の言葉)
.*
  題:都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
.*
1941年12月7日、真珠湾の攻撃の直前のこと・・
  ハワイのアメリカの索敵機(さくてきき、敵軍の位置・
 状況・兵力などをさくる飛行機)は、日本が真珠湾攻撃
 する頃には、81機もあって、敵の襲撃を警戒していた。
  当然、日本とアメリカの戦端が、今日、開かれるか?
 明日、開かれるか?・・と、ピリピリしていた時は、最
 大の警戒態勢を敷かれていた・・
  ・・一触即発の時は最大の警戒体制が敷かれている「
 はずだった」・・が・・?
  何故か? 日本が、真珠湾攻撃をする時に限って・・
 ・・? 
  何故か? 2機しかが・・任務にあたっていなかった。
  さらに・・おかしなことに・・??
  それも、そのすべてが・・日本が来襲するであろう日
 本側を警戒していたのではなく・・
  日本が攻撃してくるであろう・・日本とは反対の側を
 警戒していた。
  こんなおかしなことが・・重なって起きていた。
  ハワイに、大きな守りの穴をあけていた。
  日本がハワイを攻撃するときに限って・・この様な状
 況がハワイの軍港では起きていた。
  これなら、日本の連合艦隊の大部隊が・・発見される
 わけがない。
  この様なヘンなことが真珠湾では起きていた。
  さらに・・
  「防潜網(ぼうせんもう)」というものがある。
  これは、鋼鉄製の網である。
  これは、潜水艦の侵入を防ぐために港の入り口や海峡
 の水中に敷設されたもので、
  アメリカは、当然、ハワイの大切な軍艦を守るために
 ハワイの軍港の入り口には、防潜網を張り巡らせていた。
  そして、普通に行われる、警報装置や機雷と連動して
 その潜水艦を攻撃する機能も持っていた。
  日本は、連合艦隊に先行して潜水艦を真珠湾に向かわ
 せていた。
  そして、真珠湾に近づいたとき、その潜水艦より、ま
 た、小さな潜水艦をも発進させて、真珠湾内に入って行
 こうとした。
  しかし、日本の潜水艦隊は、この防御網に阻まれた。
  当然、日本の潜水艦が、防御網に引っかかれば、アメ
 リカも知る所になる。
  日本がハワイを攻撃したとき、日本の連合艦隊が到着
 する前に、アメリカの駆逐艦が、日本の潜水艦と交戦し
 たという事件があった。
  これを、アメリカは、ひたすら、日本の潜水艦ではな
 かった、「クジラだ」「クジラだ」とした話がある。
  本当に、無理な不思議な話を、数多くアメリカはデッ
 チ上げている。
  この「クジラ騒ぎ」と、ハワイ真珠湾の最大警戒の神
 経の突先(とっさき)の潜水艦防御網に、潜水艦が引っ
 掛かったということ。
  当然、アメリカの駆逐艦がこの防御網の所に駆け付け
 ている。
  日本の潜水艦は、何隻も未帰還になっている。
  アメリカに駆逐されている訳であるが・・このすべて
 の交戦について、口にチャックが挟まれたようになされ
 た。
  アメリカの大切な航空母艦に限って、そのすべてが、
 真珠湾外に出ていたという偶然。
  日本の攻撃時に、日本の最大の攻撃目標だったアメリ
 カ航空母艦は、そのすべてが、偶然、真珠湾の外に出て
 いて、他のハワイ島の場所にいたという・・偶然の不思
 議・・、
  すでに、アメリカは、秘密裏に、中国と正式に日本と
 交戦状態にあったことも含め・・、
  日本のハワイ攻撃の時には、日本とアメリカは、中国
 を含め、真珠湾の日本の潜水艦とアメリカ軍艦との間で
 も交戦状態にあった。
  アメリカは、宣戦布告なき日本の攻撃と言うが(東京
 裁判では、宣戦布告書については、「単なる、事務上の
 遅れ」と判決している)
  この様なレッキとした交戦状態を、アメリカが、嘘を
 ついたり、秘密にしたりで・・、
  日本の「宣戦布告なき攻撃」が立ち上がって・・そし
 て、はじめて言える訳であって・・言われ得るという筋
 に入って来ているだけなのだ・・、
  まったく、アン・フェアなアメリカと言いたい。
  また、日本の交信のすべてを、暗号を解読していたア
 メリカは、日本の状況を完全に把握していた。
  秘密が最大級にされるべき、アメリカの日本大使館の
 通信も完全にアメリカは知っている、解読されていると
 いう状況の中、
  日本の連合艦隊も交信し発信するわけであるが、この
 動きも完全にアメリカに把握され、知られ、その動きは
 完全にアメリカの知る所となっていた。
  日本だって、ハワイにアメリカの主力艦隊が居ると知
 っていた訳だから、この時に、ハワイへ向かった訳だっ
 た。
  明日にも戦争状態になるだろうという敵の最大の主力
 艦隊の動向は最大の関心事で、ボケーっと見逃すわけが
 ない。
  四六時中、24時間、その動向は掴んでいた。
  日本の連合艦隊が、ハワイに近づきつつある中の交信
 も知る所となっていて、逐一、ハワイに近づいていると
 ころを、その交信の傍受により把握していた。
  そして、アメリカがやりたいことは、このズーット以
 前から、「日本を叩きたい」・・だった・・、
  特に、アメリカ大統領のルーズベルトは、その一点を
 重要課題としていた。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、「戦争をしませ
 ん」と選挙公約して当選している大統領だった。
  その当時のアメリカ国民の方々には、第一次世界大戦
 の悲惨さから「戦争はしない」という世論が渦巻いてい
 た。
  その様なアメリカ国民の方々の気持ちに答えたものだ
 った。
  ルーズベルトは、何度も、何度も、「私は、戦争はし
 ない」とアメリカ国民の方々へ訴えた。
  この矛盾を抱えたアメリカ大統領・ルーズベルトだっ
 た。
  手のひらを返したように、大統領になったら「戦争を
 する」にできない大統領だった。
  そして、ルーズベルトの取られた方策が、『日本から
 先に手を出させる』だった。
  中国で、アメリカが先に手を出している事は秘密にさ
 れ(後日に、明白な史料が公開された。
  その史料は、アメリカ公文書館にある)。
  日本の「真珠湾の奇襲攻撃」は作り上げられた。
  アメリカの手中にあった日本は、そのすべてが、完全
 に明らかにされる中で行動していた日本のすべてが知ら
 れる中で、
  逆に、何も知らなかったアメリカが演出され、真珠湾
 は攻撃されたと、日本に攻撃された・・という、「虚空
 の嘘劇」が作られた。
  虚空:こくう、何ものもなく、空(くう)なること、
  アメリカ国民の方々の「正義感は掻き立てられ」、世
 論は、一気に戦争実施論に変えられて行った。
  ルーズベルトの言葉に、「私は戦争を作った」がある。
  すべての、何隻もの、日本の先行した潜水艦が、アメリ
 カによって「クジラ」にされたところから、アメリカの
 嘘が始まった。
  「子供だまし」の様な嘘話から始まった。
  撃沈された日本の潜水艦の、浮上した油や空気の泡も
 見ませんでしたとされ、また、撃沈された潜水艦も見ま
 せんでした・・にされた。
  都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-11-06 05:16 | 皆様とともに 幸せになりたい


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