(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)

題:(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年3月 天満紡績・平野紡績会社が設立された。
  天満紡績(てんまぼうせき)は、大阪近郊に存在した
 紡績会社で、
  1887年3月のこの時に、第三十四国立銀行頭取の岡橋治
 助ら大阪の商工業者が中心となって設立され、
  資本金は60万円で、
  本社工場を、大阪府西成郡川崎村(現在の大阪市北区)
 に置いた。
  翌・1888年に、約7000錘の工場が完成して、操業を開
 始し、
  続いて、約27000錘規模の第2工場の建設も開始した。
  第2工場は、1889年に完成し、資本金も120万円にまで
 増やした。
  これによって創業から2年余りで、当時の日本国内屈指
 の紡績会社となった。
  ところが、その矢先の1889年9月、天満紡績争議が発生
 し、
  その5年後の1894年1月にも大規模な争議が発生した。
  そのためか、増資と減資を繰り返すなど、経営は不安
 定となり、役員を総交替させるなどの措置を取ったもの
 の、状況は回復できず、
  1900年3月、同じ西成郡を拠点とする大阪合同紡績と合
 併した。
  以上の様に日本の産業革命期の紡績業は突出した成長
 をした。
  そして、それを大企業が先導した。
  日本農家の副業的な綿生産は、欧米からの低価格・高
 品質な綿糸に駆逐されるて行く。
  明治10年(1877年)には、わが国の輸入総額の3割~4
 割が、輸入された綿製品の輸入額となる。
  この様な巨額の綿糸輸入額に危機感をいだいた明治政
 府が、近代的な機械紡績を奨励した所以である。
  因みに、日本最初の洋式紡績工場は、1867年に竣工し
 た薩摩藩営の鹿児島紡績所である。
  この様に、近代紡績への日本の試みは早いのである。
  この様な経緯の中、渋沢栄一の慧眼(けいがん、物事
 をはっきりと見抜く力)により、海外製品に対抗しつつ、
 近代紡績業を事業として成功させるために、10000錘規模
 以上の工場を建設する必要を感じていた。
  この構想は、大坂紡績として実現した。
  (下記部分は、法政大学イノベーション・マネジメン
 ト研究センターの論文を参考にした)
  平野紡績の沿革は・・
  1887年3月25日、平野紡績、14代末吉勘四郎・津田六蔵・
    中瀬九兵衛らは、平野紡績の設立手続きを行なう。
  1887年6月7日、平野紡績創立、資本金250,000円、社長
    に14代末吉勘四郎。
  1887年8月2日、菊池恭三が平野紡績に入社。
  1887年10月12日、平野紡績が、技師菊池恭三に紡機購
    入と技術研究のため渡英を命じた。
  1888年4月、平野紡績の本社工場起工、英人トーマス・
    ウォルター・ドランスフイルドを据付けと連転指
    導のため招聘。
  1888年6月、平野紡績社長に金沢仁兵衛就任。
  1889年5月1日、平野紡績操業を開始、11,520錘。
  1889年6月26日、尼崎紡績・平野紡績は技菊池恭三の傭
    聘を発起人会できめる。
  1889年9月6日、尼崎・平野の両紡績会社で菊池恭三傭
    聘契約書を交換。
  1890年5月30日、尼崎・摂津・平野の3紡績会社間で菊
    池恭三の傭聘契約書を交換。
  1893年、第2工場増設。
  1895年(明治28年)10月1日、平野紡績取締役金沢仁作
    が大阪紡績の山辺丈夫と上海に赴く(11月0日帰国)。
  (ニチボー株式会社、75年史を参考にした)
1887年4月18日、文部省が、仙台に旧制高等学校の第二高等
 中学校を、そして、金沢に第四高等中学校を設立を決定
 した。
  この第二高等中学校は、中学校令に基づき、全国で5校
 のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立され
 た。
  1886年設立の東京の旧制一高、京都の旧制三高に次ぐ
 ものであるが、
  高等中学校としては山口高等中学校に次ぐ全国第4番目
 の設立となる。
1887年4月20日、鹿鳴館で大仮装舞踏会(4月25日説あり)
  伊藤博文首相主催の仮装舞踏会が開催された。
  日本の識者・庶民の常識が、欧化主義批判をした。
  これに、世論がさらに沸騰した。
1887年4月21日、富山市の大火(約900戸焼失)
1887年4月22日、条約改正列国会議が終了した。
  条約改正会議で、欧化政策に基づいた法典と外国人も
 参加した司法制度の整備を行うことで、治外法権撤廃を
 決定した。
  そして、この第26回条約改正列国会議は終了するが、
 外国人を登用するなどの条件に、政府部内を中心に反発
 の声が挙がった。
  さかのぼる事、この条約改正会議は、1886年(明治19
 年)7月、関税率改正については、ほぼ日本の原案に近い
 案が合意をみた。
  内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井
 上は、それを認めると法権回復交渉のカードを失うこと
 となるため拒否した。
  また、「泰西主義(西洋、もしくは西洋かぶれ)」に
 基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外
 務省内に設置した。
  日本が、制定する法律を各国に「通知」する件を巡っ
 ては、やや交渉が難航した。
  各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に
 合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解した
 が、
  それを認めると、日本は、法律制定に外国の介入を認
 めることとなってしまうので、井上は、列国が「泰西主
 義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効
 の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付
 け加えることを提案し、各国もこれに合意した。
  かくして、条約改正会議は、新しい通商条約案と英独
 共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみること
 となり、
  1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。
1887年4月25日、紋鼈(もんべつ)製糖所を伊達邦成らに貸
 下げた。
  そして、1890年3月に、払い下げた。
  この製糖所は、日本最初の官営の製糖工場だった。
  現在、日本甜菜製糖、北海道糖業、ホクレンの3社8工
 場で、日本一の生産量を誇っている。
  日本の甜菜業は、1870年(明治3年)東京に官営で始ま
 り、
  同年・1870年、北海道紋鼈(現:伊達市)に製糖所が
 設立された。
  3階建大工場で、機械はフランス式で技術が悪く、1896
 年解散、
  機械は、台湾製糖に譲られた。
  1921年、日甜、北海道糖業で生産再開、戦後合理化し、
 北海道寡占となった。
  北海道糖業道南製糖所入口に台湾返還の日本最古機械
 (三重蒸発効用缶、結晶缶)が残っている。
  (参考)甜菜:てんさい、サトウダイコンの別名。
      甜菜糖は、この大根の根から作った砂糖。
1887年4月25日、木曽川橋梁が完成した。
  1885年(明治18年):着工。
  1887年(明治20年):完成。単線で長さ1,800ft
  1891年(明治24年):濃尾地震により大きな損害を受
   けるが、翌年・1892年に復旧する。
  上り線:618.9メートル、下り線:619.4メートル、
  構造:ワーレントラス橋
  立派な架橋技術が日本に出来上がった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新たな戦争すべき相手が出現したという・・『アメリカの恐ろしい妄念』
   妄念:誤った、よからぬ考え・・邪念・・妄執・・、
.
1945年5月19日、アメリカの新たな戦う相手が現れる・・と、
 感じたと・・
  第二次世界大戦型たがわれているこの時、早くも、ま
 た、愚かにも、アメリカに、「新たな戦うべき相手」が
 現れた。
  この時は、ドイツが敗れ、まだ、盛んに日本との戦い
 がなされている・・
  その戦いの最中のこの時、早くも、アメリカで、共産
 主義の脅威が囁(ささや)かれ始めた。
  何と愚かなアメリカであろうか?
  日本が脅威だと感じたアメリカが、日本との戦争を作
 り(アメリカ大統領のルーズベルトは、「日本との戦争
 を作った」と白状している)、
  そして、この時、その日本との戦いが終わりが近づい
 ているこの時に、
  今度は、共産主義のソ連に脅威を感じた・・と、「新
 たな倒すべき相手」と言い出した。
  アメリカ国務長官代行のジョセフ・グルーは、眠れぬ
 日々を過ごしたと記録している。
  そして、1945年5月19日の朝早く、5時、グルーは起き、
 次なる文を書いた。
  「このドイツと日本との戦争は、『二度と戦争を起こ
 さないための戦争』とはなり得ず、
  ただ、全体主義独裁を枢軸国(ドイツ・イタリア・日
 本)から単にソ連に移し替えただけの事ではないのか。
  (中略)
  ひとたびソ連が、日本に参戦すれば(これも、ルーズ
 ベルトがソ連のスターリンをそそのかして煽(あお)って対日参戦さ
 せたのに)モンゴル、満州、さらに、朝鮮半島が、ソ連
 の手に落ちるだろう。
  そして、いずれは、中国や日本も同じ(ソ連の手に落
 ちる)運命をたどる」・・と。
  グルーは、このメモを、翌日(1945年5月20日)、アメ
 リカの駐ソ連大使とソ連専門家、そして、ヤルタ会談の
 通訳だった者にに伝えた。
  対ソ連外交の最前線に立つ二人は、グルーの意味する
 ところを理解し、大きくうなずいた。
  際限なく繰り返される、超強大な武力を持つアメリカ
 のミス・失敗・・アメリカはそれに気づいた。
  こんなことは戦争する前から分かっていたこと・・、
  ソ連のシベリアの東への拡大は続き、太平洋にぶち当
 たって、南下政策になって、不凍港が欲しいのなんのと
 言っていたではないか?
  そして、日本とぶち当たっていたではないか・・何を
 今さら言うのだ・・?
  共産主義・ソ連が急に出来たわけでもないし・・、
  そして、この年・・
1945年9月28日、占領軍の軍医総監と公衆衛生福祉局長の
 サムス大佐が、東京都衛生局防疫課長に対し、具体的な
 都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用の女性を世
 話をしてくれと要求した。
1945年10月2日、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が、
 東京に総司令部を設置した。
  このGHQの占領政策の基本コンセプトが、「日本を
 改造し、弱体化させる」・・ということも、すでに、歴
 史的に実証済となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-10-30 04:50 | 皆様とともに 幸せになりたい


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