(増補版)427E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年6月)

題:(増補版)427E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年6月17日、利根川橋梁の完成
  日本鉄道の利根川の橋梁が完成した。
  この橋が完成し、日本鉄道大宮~宇都宮間が全通した。
1886年6月21日、陸軍軍医学舎が開校した。
  陸軍軍医学舎は、1888年(明治21年)12月に、東京・
 新宿区戸山へ移り、陸軍医学校と改称された。
  現在、国立国際医療センターとなっている。
  明治維新以来、日本は、西洋医学の普及を急務とした。
 とりわけ、医学教育者・軍医・地方衛生指導者の育成を
 緊急課題と捉え、他の教育分野に先駆けて、医学の教育
 制度の整備をして来た。
  既に、1877年に、唯一の官立医学校で、唯一の大学の
 東京大学医学部が出来ていた。
  この学校の本科生は、お雇い外国人教師から直接指導
 を受け、原語(ドイツ語)で医学書を理解する事が要求
 されたエリート学生たちであった。
  この中から、また、医学を教える教員が輩出もされた。
  東京大学医学部は、1886年の帝国大学令によって、帝
 国大学医科大学として再編された。
  そして、1899年には、京都帝国大学医科大学が成立し、
 1903年には、卒業生を輩出し始めた。
  そして、各府県においても、医学教育制度は、明治初
 年代から独自に発展をしていた。
  頻発するコレラ・赤痢・腸チフス・天然痘などの急性
 伝染病の対策がまた緊急の課題だった。
  1870年代の後半以降に、東京大学医学部の本科卒業生
 が輩出され始めると、この府県立病院兼医学校は、この
 卒業生たちを病院長や医学校長などに破格の月俸(150円
 程度)で招聘した。
  この卒業生たちの勤務先を見ると、大学病院・軍・府
 県立病院兼医学校に行き、または、留学生となっている。
  また、全国各地から引き合い、移動性が高くなってい
 る。
  1886年まで、医学校における医学教育制度は、東京大
 学医学部本科と、別課医学および府県立医学校という二
 つの水準の学校に集約されている。
  また、官公立医学校による医学教育以外に、近世以来
 の徒弟修業による医師養成の経路も存続していた。
  これは、公教育を経由しない医師養成経路が残ってい
 ることを意味している。
  また、明治意思に全から開業していた者に、一代限り
 で無試験での継続開業が認められた。
  また、明治維新以来、官庁や官公立病院に奉職してき
 た者にも、無試験での開業が認められた。
  これ等の開業免許が与えられた医師たちの大部分は漢
 方医で、近世以来の伝統的な医師たちで、量的には最大
 だった。
  でも、時代は、西洋医学を急速に吸収して行った、そ
 して、普及して行った。
  明治の日本医療は、この新しい局面において、また、
 この最初の課題に対して、合理的に、そして、最善に、
 解答を得て行った。
  優秀な日本人たちであった。
1886年6月25日、北海道土地払下規則」が公布された。
  北海道土地売貸規則が廃止され、北海道土地払下規則
 が公布された。
  北海道(蝦夷地)の和人の定住地は、ほとんど道南の
 和人地(だいたい箱館近傍から熊石を結ぶ一帯)に限っ
 ていた。
  その他の地は、海岸線と内陸の河川に沿ってアイヌの
 集落と、和人の商人の経営する漁場(ぎよば)があった。
  開拓使時代において、松前藩や幕府の手で、漁場を中
 心に開拓が進められた。
  そして、1869年(明治2年)7月、「諸省卿(しょしょう
 けい)同等」の長官をいただく開拓使を設置し、開拓使長
 官が任命された。
  1869年8月に、北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
  1870年2月に、樺太開拓使も置かれた。黒田清隆が専務
 となった。
  1871年8月に、黒田は道内と共に樺太も巡視した。
  そして、1886年のこの時、「北海道土地払下規則」が
 公布され、
  この規則によって、開墾希望者は、一人10万坪まで、
 未開地が無償貸与され、
  開墾成功後には、1000坪1円(現在の4044円ほど)で
 購入することができた。
  また、これ以外にも、開拓者へ与えられた優遇措置は、
 1891年(明治24年)北海道庁第二部植民課が刊行した北
 海道移住問答に、北海道に移住すると受けられる恩典が
 列挙されている・・が、
  ・開拓者が払い下げで得た土地には、20年後でなけれ
   ば地租・地方税が課せられない、
  ・地租は、地価の100分の1(他府県の地租は100分の2.5)、
  ・所得税は、官吏以外には およばない(無税)、
  ・酒造税は、一般税額の半額。
  ・菓子・醤油、及び、車税は免除(消費税・自動車税
   は無しという様なもの)
  ・徴兵令は、函館・福山(松前)・江差を除き試行さ
   れない・・など、
1886年6月25日、日本薬局方制定が公布された。
  日本薬局方が、制定(公布)される。
  日本薬局方は、日本国内で、医療に供する重要な医薬
 品について、その性状および品質の適正をはかるため、
 品質・純度・強度の基準を定めた公定書で、
  江戸時代では、オランダの都市薬局方を訳したものが
 知られており、
  最も古いものは、中川淳庵が訳述した「和蘭局方」だ
 といわれている。
  その後、宇田川玄真、中井厚沢、藤林普山、江馬木留
 園、緒方洪庵等がそれぞれ翻訳している。
  明治初期には、軍関係行政機関である兵部省が、1871
 年(明治4年)に、軍医療を設置され、
  翌年・1872年に、兵部省が陸軍省と海軍省に分離され、
 陸軍、海軍それぞれに薬局方が発行され、日本薬局方の
 先駆的役割を果たした。
  外国人教師のエーキマン、ゲールツ、ランガルト等の
 協力を得て、編纂され、
  1886年(明治19年)に内務省令により「日本薬局方」
 が制定された。
  1887年(明治20年)に「日本薬局方」が施行となった。
  1888年(明治21年)にはラテン語版、
  1890年(明治23年)に註釈版が刊行された。
  1891年(明治24年)に日本薬局方が改定された。
1886年6月29日、第七回条約改正会議
  第六回条約改正会議(1886年6月15日)に引き続いて、
 第七回条約改正会議が行われた。
  この会議で、イギリス・ドイツ両国共同案に基づいて、
 改正交渉を行うことを決定した。
1886年6月、人類学会が、東京人類学会と改称された。
  日本人類学会は、1884年(明治17年)、当時、東京大学
 理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成された
 「じんるいがくのとも」という団体に端を発する。
  1886年(明治19年)には、機関誌の第1号を出版し、
 同時に会の名称は「東京人類学会」に変わった。
  黎明期の人類学会では、イギリス留学から帰り、東京
 大学人類学教室教授となった坪井正五郎を中心に、
  解剖学の小金井良精、多くの海外調査を行った鳥居龍
 蔵、軟部人類学の足立文太郎などが活躍し、
  土器、石器、動物遺物、人骨、 生体計測、成長、比較
 解剖学、 考古遺跡、言語、
  そして、有名な日本先住民のアイヌ説、コロボックル
 説など広範な話題が提供された。
  これらが後年、考古学会、民族学会、民俗学会などを
 生み出す母体となった。
  坪井正五郎氏は大正になって亡くなりましたが、昭和
 になると長谷部言人、清野謙次らが登場し、
  人類学研究はますます広範囲になり、会員も増えた。
  1936年(昭和11年)には、新たに設立された日本民族学
 会とともに、東京人類学会・日本民族学会の第1回連合
 大会が開催された。
  東京人類学会は、1941年(昭和16年)、日本人類学会と
 改称された。
  連合大会は、そのまま続き、第2次大戦中一時途絶えた
 が、
  1996年(平成8年) の第50回大会まで、足掛け60年間続
 いた。
  連合大会時代には、人類学における自然人類学と民族
 学は密接不離のもので、
  人類学者は、両方の知識を統合さ せておかねばならな
 いという気風があった。
  両学会は、1968年(昭和43年) に、第8回国際人類学民
 族学会議(会長・岡正雄)を東京と京都で開催した。
  また、1984年(昭和59年)には、日本人類学会の100周
 年、日本民族学会 の50周年を迎え、第38回連合大会 (
 大会長・猪口清一郎)において、同時に記念式典を行った。
  しかし、その後、時代が変わり、学問の細分化がさら
 に 進んでくると、共同開催の意義は薄れ、
  1996年(平成8年)、第50回大会をもって連合大会には
 終止符が打たれ、
  その後は、両学会とも単独で学術大会を開いている。
  2002年(平成14年) に、両学会の協力で国際人類学民
 族学中間会議(会長・尾本惠市)を開催した。
  なお、日本民族学会は、2004年(平成16年)に、日本
 文化人類学会と名称を変更した。
  人類学細分化の傾向はその後も続き、1978年(昭和53
 年)には、生理人類学懇話会が人類学会内に作られ、
  この会は、その後、日本生理人類学会として独立した。
  また、京都大学を中心として戦後台頭してきた霊長類
 学も、1985年(昭和60年)に独立した学会として発足した。
  さらに、1999年(平成11年)には、日本人類学会や生物
 学関連の学会員による学際領域の学会として、日本進化
 学会が設立された。
  この様に、日本人類学会は、明治時代に人類学の唯一
 の学会として発足したが、
  その後の学問の発展、研究者の増加などを背景に、多
 くの関連 学会を生み出し、日本の人類学研究の中心的役
 割を果たしてきた。
  現在の人類学会では、自然人類学(形質人類学)の研究
 者を中心に、人類の起源と進化、変異や適応、化石人類、
 日本人の起源、生体計測、歯の人類学、成長、霊長類、
 生態学など広範囲な研究発表が行われている。
  (日本人類学会ホームページを参考にした)
1886年6月、海軍兵器製造所が、クルップ式25mm砲の製
 作と試射を行う(1885年説あり)
  「せいぜい砲架の修理をする位が関の山」と言われた
 海軍造兵所の技術は、
  1871年(明治4年)2月以来、イギリスのアームストロ
 ング社において、造砲術を取得して来た原田宗助(後の
 海軍造兵総監)が、
  1877年(明治10年)5月21日に、帰国、
  全工場の指導にあたったことにより発展の緒につくこ
 とになった。
  次いで、1878年(明治11年)に、製鋼技術研究のため
 大河平才蔵(のち海軍造兵大監)が、
  ドイツのクルップ社に派遣され、1881年(明治14年)
 に、帰国した。
  1882年(明治15年)には、これら2名の技術者を中心に、
 製鋼法を研究するとともに、
  製鋼、および、鍛工工場を新設、
  「十二月鎔鋼用黒鉛○○ヲ創製シ従来使用ノ外国製『
 モルガン』○○二劣ラサル良品ヲ得タ」
 ・・という。
  こうして、日本最初の黒鉛○○により兵器造修用鋼材、
 及び、鈩地金を製造した同じ年・1882年に、練習艦「鳳
 翔」用12斤ナポレオンカノン砲の砲架二基を製造した
 (海軍における最初の鉄製砲架)。
  1884年(明治17年)、海軍兵器製造所が製造した鋼に
 よって、四連機砲四挺を完成した(海軍の最初の機砲)。
  また、1885年(明治18年)には、クルップ式短七セン
 チ五砲一門及び同砲架を製造した(海軍の最初の砲身)。
  そして、1886年(明治19年)には、12センチ以上17セ
 ンチまでのクルップ式鋼鉄榴弾を創製した。
  なお、1887年(明治20年)には、機械の新設、製鋼炉
 の改築、蒸気力の増設があり、
  蒸気力の総高153馬力、職工総数800名に達した。
  (呉市海事歴史科学館研究紀要、千田武志氏論文を参
 考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1898年という・・年は・・?
.
1898年1月3日、アメリカのアジア艦隊の旗艦・オリンピア
 が長崎に入港した。
  続いて、1月18日、横浜に入港した。
  これは、アメリカの威勢活動で、日本への威圧だった・・、
.
1898年4月25日、アメリカ議会が、スペインへ宣戦布告した。
.
1898年、アメリカが、赤子の手をひねる様な米西戦争で、
 フィリピンを奪い取った。
  勝つと分かっている戦争を始めて、その戦争相手の国
 (スペイン)が持っていると称した国や領土を奪った。
  まさしく、この戦争がそうだった。
  アメリカが宣戦布告して始まったこの戦争は、1898年
 7月、わずか3ヶ月でアメリカは勝った。
  アメリカは、キューバとフィリピンを手に入れた。
  勝てば手に入れられると思っていたアメリカの行為だ
 った。
  パリ条約を、12月に結んで、手に入れたことを確定さ
 せた(手に入れたと思い込んだ)。
  その他、スペイン領だったプエルトリコやグアム島を
 買った。
  (売る国の持ち物でないものを買ったということ)
  買ったと言ったって、この様な時点で買うという行為
 が公正さを欠いている。正義に反している。
  また、この年、アメリカは、ハワイ諸島やジョンスト
 ン島までをも、自分の新領土と称して植民地として手に
 入れた。
  その後、地元のフィリピンの方々の意思を無視したア
 メリカがあった(約束を果たさないアメリカ)。
  このアメリカの行動に対し、フィリピンの方々は独立
 運動を起こした。
  アメリカが買ったと称した行為が成立していないと、
 当然に思っていた。
  本当の持ち主なのだから・・、
  しかし、アメリカは、これを力で抑え込んだ。
  そして、俺のものだと植民地とした。
  これらの行為を行うにあたって、アメリカ大統領は、
 「神意だ(キリスト教の神の意思だ)」と言った。
  この筋立てを作ったのは海軍長官だったルーズヴェル
 トだった。
  強烈なキリスト教の信徒だった。
  また、この筋書き通りに行くように独立運動者を扇動
 したりするアンフェアな事をアメリカはした。
  その時、独立運動者たちに旨い事を言った約束は、そ
 の後、果さないという卑怯な事をした。
  そして、アメリカは言った、「イギリスが香港に拠る
 ように、アメリカもマニラに拠る」と。
  マニラを拠点にして、次なる目標・中国だとアメリカ
 は言う、「支那(中国)の門戸を開放すべし」と、
  要は、私(アメリカ)も中国からの益が欲しいだった。
.
1898年4月25日~8月12日、米西戦争
  そして、米比戦争へ(1899年~1913年)、
  (アメリカが、フィリピンの方々を、60万人を虐殺し
 た)、
  米西戦争の結果、フィリピンの統治権が、スペインか
 らアメリカに移った。
  米西戦争(フィリピンを巻き込む、アメリカとスペイ
 ンの戦争)の最中に独立を果たしたのもつかの間、
  1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権が、スペ
 インからアメリカに譲渡された。
  (別に、スペインの国でもないものを売るという行為
 がおかしい?)
  (また、買うという行為も おかしい?)
  (まったく、正当化の演技?)。
 1899年1月21日に、フィリピン共和国がフィリピン人によ
 って建国された。
  5月18日に、フィリピンの南方の地方のサンボアンガ共
 和国がサンボアンゲーニョによって建国された。
  フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植
 民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、
  米比戦争で60万人のフィリピン人が、アメリカ軍によ
 り無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。
  1901年に、アギナルドが、アメリカ軍に逮捕されて第
 一共和国は崩壊し、
  フィリピンは、旧スペイン植民地のグアム、プエルト
 リコと共にアメリカの主権の下に置かれ、
  過酷な植民地支配を受けることとなった。
  1903年に、サンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの
 反乱は1913年まで続いた。
  フィリピン史では、1899年2月~1902年7月までを、フ
 ィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
  1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。
  小さな村でパトロール中のアメリカ軍二個小隊が待ち
 伏せされ、半数の38人が殺された。
  アーサー・マッカーサー将軍は、報復にサマール島と
 レイテ島の島民の『皆殺し』を命じた。
  少なくとも10万人は殺されたと推定されている。
  また、マッカーサーは、アギナルド軍兵士の出身者が
 多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家
 畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
  白人同士の戦争では、将校へ銃を向けないなどの不文
 律(ふぶんりつ、成文化されていない、公式に書かれて
 いないルールのこと)があった。
  しかし、この不文律は、キリスト教の有色人種蔑視の
 教義で、有色人種に対して無差別殺戮がなされた。
  アメリカ上院に報告された数字では、アメリカ軍は、
 1902年までの4年間で20万人を殺害(虐殺)したと報告さ
 れた。
  戦死者数は、20万人~150万人と公に記録されている。
.
  そして、次の話・・、
.
 題:キリスト教国・フィリピン・・そして、座談は、創造的である。
.
  フィリピンは、キリスト教国にされた。
  征服され、駆逐され、強烈に宗主国の宗教にさせられ
 た。
  宗教まで征服した・・征服された。
  精神的征服によって、マインド・コントロールがなさ
 れた。
  大統領もキリスト教の大統領となった。
  そして、国の政策にもキリスト教の口出しがなされた。
  キリスト教の教義である「産児の制限をしてはならな
 い」が押しつけられた。
  このキリスト教の教義で『エイズ』が流行した。
  また、国は、人口増加して行った。
  そして、国は、人口増加に腐心した。
  人口増加と共に、『貧しい方達も増加する』という状
 況だった。
  この様なマイナス面の多いキリスト教の教義から脱却
 したいが本音だった。
  そして、キリスト教の教義に押さえつけられていた『
 国の基準』を、『変えなければならない』という結論に
 達した・・至った。
  キリスト教会は、『エイズが流行』し、『国民の方々
 が困っている惨状』を目のあたりにしているが、
  教義にこだわって、『人々の救済に道を閉ざす』とい
 うことをしていた。
  この様な、人々の救済活動に猛反対した。
  キリスト教の教義を優先に振りかざした。
  教義優先から、目の前の困っている方々を救わず、目
 を閉じるどころか、救済処置に猛反対する始末だった。
  人々が幸せに暮らすという大前提をないがしろにして、
 キリスト教の教義が勝るという行動をしていた。
  困った方々は、結局、困ったままだった。
.
  そして、次の話
.
  早稲田大学の鶴見太郎教授は、『座談の思想』という
 本を書かれた。
  その書評が、読売新聞の2014・1・5に載った。
  書評を書かれたのは、批評家の若松英輔氏である。
  「真実は書き記され得ない」というところがポイント。
  キリスト教の聖書に、キリスト教は、『すべてが書か
 れている』と言うが、「いやいや、そんなもんじゃあり
 ませんよ」と、この本は言っていた。
  確かに、キリスト教自体も「言葉はロゴス」と言って
 いる・・が、
  そのロゴス、言葉にこそ神が居る・宿るのであるのな
 らば、ロゴスの言葉の中に神は居て、聖書の印刷された
 字面には居ないのだろう・・と、巷の話題となった・・、
  「真実は書き記され得ない所にある」
  『鍵となる言葉は、むしろ著作ではなく、座談の中に
 隠されている」・・と言う。
  だから、書かれた記録にだけ根拠を置く歴史観は疑問
 ・・という。
  そして、言う。
  書くのは理性の働きだが、座談には感情が生々しく現
 れる・・と、
  だから、感情の働きを見過ごした歴史は、剥製のよう
 な作りものになっている・・と、
  これは、キリスト教聖書も同じ、キリスト教聖書も、
 作りものの剥製の様なもので、そこには、イエスの真の
 感情や・・伝えたいものは・・無い。
  そして言う。
  座談は、創造的であると、そして又、偶発的で生きて
 いると、座談は、他者と相まって、予測の出来ない展開
 へ進んで行き、他者の言葉が契機となって、話者が、今
 まで何を見て来たか、考えて来たかをより鮮明に自覚さ
 せ表出する・・という。
  驚くようなものが表出する事もある・・という・・、
  座談に誠実さがあり、繰り返し繰り返し、繰り返され
 れば、混迷を切り拓(ひら)く鍵が潜(ひそ)んでいる
 と・・いう。
  そして、沈思がともに大切という。
  そして、「感情と内省、中野重治の誠実」が秀逸とい
 う。
  時代の困難に対して、いつも誠実をもって抗(こう)
 したこの人物の軌跡を、今、考える事の意味は大きいと
 いう。
  そして、「歴史に潜む誠実を見い出す事が出来るのは、
 やはり現代の誠実なる精神だ」・・という言葉で・・結
 んでいる。
 つるみ・たろう=1965年、京都生まれ、。早稲田大教授。
 専門は日本近現代史。著書に「橋浦泰雄伝」など。
,
  そして、アメリカ・・、
1898年5月1日、アメリカ艦隊が、マニラ湾海戦で、スペイ
 ン艦10数隻を撃沈・炎上させて、大勝利した。
  アメリカ艦隊の威力を見せつけた。
  世界で、好きに、横暴な振る舞いをしているアメリカ
 だった。
.
  (追伸)
  Aさんのものを・・、
  Bが、「あれは、俺のものだ」と言って奪い、
  Cが、「ならば、俺に売ってくれ」と言って、Bから
 買ったと言ったって、Cのものになったと言える訳がな
 い。
  この間、ある国が、盗品の美術品を、買って持ってい
 たが、元の本当の持ち主の国へ返還したが、返したが、
 これが正しい、正義の行為なのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-10-02 04:16 | 皆様とともに 幸せになりたい


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