(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)

題:(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1883年8月、清仏戦争が起きた(ベトナムの取り合い)。
  中国の清と、フランスの戦いである。
  また、1885年4月にも、この2つの国は戦争している。
  フランスは、インドに於いて、イギリスとの植民地の
 奪い取り(争奪戦)に敗け・・、
  「それなら別のアジアの国を植民地にしよう」とベト
 ナムへやって来て・・植民地にしようと進出して来た。
  まったく武力の強い、欲深いヨーロッパ列強の国々が、
 アジアの弱い国々を分捕(ぶんど)るという、弱い者い
 じめのしたい放題だった。
  このフランスの領土的野心の行動は、1840年代から始
 まっていた。
  そして、この戦争に負けた清国は、また一つ、朝貢国
 (清国へ貢物・みつぎものを持って訪れる国)が減った
 のだった。
  ベトナムが、フランスの支配下に入ったからで・・、
  清国への朝貢国は、次々と減って行っていた。
  朝貢国が減るということは、『清国では、皇帝の徳が
 なくなって行く』という意味があった。
  中国・清を中心とする『アジアの秩序が崩壊している
 事態』であった。
  清に残された最後の朝貢国は朝鮮だった。
  清は朝鮮を失いたくないと、強く思っていた。
  そこで、日本を敵視した。
  明治維新、産業を興し、そして、学び、努力して、国
 を富ませ、強くしてきた日本が、力を持って来ていた。
  この状況から、日清がぶつかる時が来ていた。
  日本は、開国した朝鮮に、その近代化を手助けした。
  また、朝鮮の、独自の国を守ろうという、力を得たい
 とする行動を援助した、軍隊の制度改革を援助した。
  色々と援助する日本だったが、日本の改革に取り残さ
 れた一部に、冷遇されたと不満を持つものが居た。
  そのエネルギーが、壬午事変(じんごじへん)として
 暴発した。
  1882年に起きたこの事変に、清は、この時に乗じ、
 数千の軍隊を派遣して来た。
  また、なんだかんだと清は、軍隊を派遣して来た。
  1884年には、日本の明治維新を見本として近代化を進
 めたいと金玉均たちの起こしたクーデターの時も、
  清は、軍の力を行使し、押さえ込んだ(甲申事変・こ
 うしんじへん)
  日本の軍事力は、この時点では、清にはおよばなかっ
 た。
1885年11月11日、三条実美太政大臣、黒田清隆の右大臣任
 命につき、諸参議と協議を行った。
  開拓使長官・黒田清隆は・・、
  「北海道開拓使官有物払下げ」を申請して・・
 (1400万円余の官営開拓事業をわずか39万円・無利息30
 年賦で、同郷の薩摩藩政商・五代友厚らに払下げようと
 した)
  「それは、汚職なのだ」という事件が、1881年に起き
 る。
  そして、払下げは中止となった。
  黒田は、北海道開拓10年計画の終了にあたり、1400万
 円の国庫金を投下した官有物を、五代友厚に払い下げよ
 うとした。
  払下げは、すでに閣議決定を経て、公式に発表されて
 いた。
  大隈重信が大反対をした。
  世論も攻撃をした。
  政府は、立往生をした。
  しかし、これは、権力闘争の色があり、喧嘩両成敗の
 決着となった。
  大隈は辞職し、黒田の行なった払下げは中止に・・、
  大隈の国会開設が急進的国会開設論で・・、
  また、イギリス流議院内閣制を推していたのも懸案(
 けんあん、問題とされながらまだ解決がつかない問題)
 になっていた。
  この政変を、決着を付けられたのが、明治天皇陛下の
 『1890年(明治23年)に国会を開設する』という詔が、
 1881年10月12日に、下りてだった。
  因みに、この黒田清隆は・・、
  薩摩藩の出身で、戊辰戦争で活躍し、五稜郭開城に際
 して榎本武揚(えのもとたけあき)を助命し、
  明治政府では、開拓次官、そして、後に、参議兼開拓
 長官として北海道開発に力を尽くした。
  そして、1888年に、首相となり、一度、失脚した大隈
 重信(外相)とともに、条約改正を試みた・・が、失敗
 する。
  1883年7月20日の、岩倉亡き後・・、
  その岩倉にあった調整能力は喪失状態であった。
  現状の太政官制と大臣とを前提とする限り、新たな政
 治関係の創出はむずしく・・、
  太政官制の改革が喫緊(きっきん、差し迫っていて、
 重要なこと)の課題となっていた・・、
  この頃、三条実美が、右大臣補任を主張した。
  三条は、自分の引退に繋がりかねない太政官制の改革
 には反対だった。
  止む無く、右大臣に黒田清隆を推薦した。
  そして、微妙な波紋を広げたこの問題も・・、
  曲折の後に、天皇陛下が、先ず組織を定めて、然る後
 その人を議するべしとの事態打開に動き、
  伊藤の期待した内閣制度創設へとようやく動き出した。
  12月に入ると、伊藤はかねて用意していた内閣制度案
 を提出し、
  諸参議の了承を得て、
  これを受けて、三条が、即日、官制改革案と総理大臣
 は伊藤が適任である旨を上奏した。
  そして、早くも12月7日に、機構改革と、伊藤の内閣総
 理大臣就任が内定した。
1885年11月11日、足利織物講習所が設立された。
  足利の織物の発展に貢献した人たち
  工商会の父:川島長十郎
  川島長十郎は、五十部町の人で嘉永元年(1848年)4
 月、当時丹南藩の領地であった五十部村の目付役、平右
 衛門の子として生まれました。
  明治5年学制発布とともに小学校設立に尽力し、村の
 人びとの敬意を受けて戸長(村長)になります。
  明治12年、栃木県議会議員になり10年間勤続、その間、
 足利織物の発展に尽くしました。
  当時足利織物は粗製乱造がたたり声価が失墜していま
 したが、彼は各地の業界を視察、組合設立の必要を説き、
  明治15年足利工商会を組織しました。
  明治18年(1885年)には、染織講習所設立に尽力し、
 さらに明治21年には、足利、簗田機業組合の2代組合長に
 就任しました。
  評価の悪かった足利輸出織物が他に比類なしといわれ
 るようになった影には、他の先達とともに、川長こと、
 川島長十郎の力が大いにあずかっています。
  (足利市ホームページより)
1885年11月13日、華族女学校の開校式(皇后宮行賓)
  東京に華族女学校が開校し、屋内体操場が竣工する。
  華族女学校行啓
  後に、学習院女子中・高等科になる、皇族・華族子女
 のための官立の教育機関として華族女学校の名で東京・
 四谷に創立された。
1885年11月14日、最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑
 業組合が成立した。
  日本の発展と共に必要とされて、採炭量は年率20%で
 伸びた。
  筑豊炭田の石炭産出量は、1882年(明治15年)が19万
 1000トン)で、3年後の1885年(明治18年)が35万3000
 トンとなった。
  当時、日本の平均の伸び率は10%位だった。
  この様な中、筑豊の炭坑主たちは、福岡県の指導のも
 とに、
  1885年11月に、筑豊石炭坑業組合を設立した。
  以後、筑豊の石炭鉱業の発展に士道的役割を果たした。
  組合の初期の目的は、価格決定権など、石炭市場の主
 導権を握っていた問屋勢力から、主導権を回復する事に
 あった。
  生産者による流通支配が成功する確率は、どの産業に
 おいても高くないが、
  特に、流通における卸売業者(問屋)が、生産者を支
 配する形態は歴史上どの産業にもあったが・・挑戦的な
 行動であった。
  そして、このような行動は、古くにもあった。
1885年11月18日、兵式体操を学校で実施するため、教員の
 体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)養成を決定する。
  体操伝習所は、1878年、東京に設置された文部省直轄
 の西洋式体操の教育機関で、
  日本で最初の体操専任教師が養成された。
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として、西洋の体操
 を導入した。
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その跡を継いで、
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
  また、手引書を出すようになって、ようやく体操が、
 全国的に普及しはじめた。
  その体操は、軽体操と呼ばれ、
  後には、普通体操と呼ばれるようになるが、内容は、
 やはり保健的性格のものであった。
  そして、遊戯場が、次第に、体操場と呼ばれるように
 なっていく。
  しかし、この伝習場での体操は、室内体操場で実施す
 ることを前提にしていたため、
  屋外が、体操実施の場として本格的に機能し始めるの
 は、1886年に、兵式体操が、学校へ導入されてからであ
 った。
  実際に成果をみるのは、体操学校(現,日本体育大学)
 や、東京高等師範学校体操科(現,筑波大学体育科学系)
 などの体育教員養成学校が整備されてから・・、
1885年11月18日、明治天皇陛下が、日比谷操練場に御閲覧
 された。
  日比谷公園・・、
  維新後、江戸時代には鍋島・毛利家など8家の大名屋敷
 だった現・日比谷公園は、一時、政府の推奨により桑畑
 や茶畑に転用された。
  しかし、1871年(明治4年)に、陸軍日比谷操練場とし
 て使用され、
  1885年(明治18年)から、陸軍日比谷練兵場と名称を
 変え、
  その後、政府は、練兵場を青山へ移し、
  日比谷官庁街計画を立てたが、
  1889年(明治32年)の東京市区改正設計において、「
 帝都にふさわしい公園」をつくることを決定した。
  現在の日比谷公園の礎が着手された。
  そして、陸軍省は永田町(現・憲政記念館付近)に、
  海軍省は、築地(現・中央卸売市場)に設置されてい
 た。
1885年11月21日、黒田清隆が、右大臣就任を辞退した。
1885年11月23日、大阪事件
  大阪事件:自由党員による国内改革計画
  自由党の大井憲太郎ら、自由民権運動の再興をめざし
 た朝鮮でのクーデターによる日清対立計画が発覚し、大
 阪で逮捕された。
  最終的な逮捕者は合計で139人に上った。
  (氷川清話)大井憲太郎らの朝鮮クーデター計画(大
 阪事件)
1885年12月10日、文部省内に図画取調掛が設置された。
  後の東京美術学校。
  東京芸術大学の説明に・・、
  前身は、1879年、音楽の調査・研究をはかるために、文
 部省に設置された音楽取調掛を引きついで、
  1887年に、発足した東京音楽学校と、
  1885年に、国粋保存と日本画振興のもとに、文部省専
 門学務局設置の図画取調掛が発展して、
  工部大学校付置の工部美術学校を母体として、同じく、
 1887年に、設置された東京美術学校がある・・と、
1885年12月12日、公立小学校の修業期間について、1年で
 1学級の学年制に改められる。
  この年に、文部省は、等級制を廃して、半年単位の級
 編成をやめ、
  修業期間1年をもって1学級とすることとし、学年制が
 小学校に普及していくこととなった。
1885年12月16日、東京大学理学部鉱工業関係学科を分離し、
 工芸学部を新設。
  また、文学部政治学科を法学部に移し、法学部を法政
 学部と改変。
1885年12月21日、朝鮮と海底電線設置条約続約に調印した。
  因みに、1896年には、日清戦争で獲得した台湾への電
 信線敷設のため、日本最初の本格的海底ケーブル敷設船
 となる沖縄丸を導入。
  国産船では小笠原丸が、1906年に、太平洋横断ケーブ
 ル工事を目的として建造された。
1885年12月22日、内閣制度が発足
  内閣制度が確立し、設置された。
  伊藤博文が初代の総理大臣に就任し(宮相兼務)
  (第一次伊藤博文内閣が発足)、
  井上馨外務卿が外務大臣となった・・ほか。
  最初の内閣は、11名で構成された(内閣総理大臣、及
 び、宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・
 農商務・通信の各大臣を置く)
  閣僚は、薩長土肥で構成された。
  また、宮中に内大臣をおいた(三条実美)
  宮内以外の諸大臣で内閣を組織することを定める。
  太政官制を廃止し、内閣制度が発足(施行)
  太政大臣、左右大臣、参議の制を廃し、新たに内閣各
 省を置き、官制改革が行われる。
  また、工部省と参事院、制度取調局を廃止し、
  宮中顧問官と逓信省を新設、
  工部省所管の燈台局・電信局を逓信省へ、
  鉄道局を内閣直属に、
  鉱山・工作関係事務を農商務省へ、
  長崎造船所を大蔵省へ移管した。
1885年12月23日、内閣法制局と宮内省御料局を設置した。
  初代法制局長官・山尾庸三を任命した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:怨念が、充ちて行く
.
2016年9月6日、フィリピン大統領が、アメリカに対して暴
 言を言った・・と報じられた・・が、
  ・・というが、
  ここに至るまでの事を知り、吟味して、「暴言」と決
 めつけたのかが・・疑問・・・?
  (読売新聞、2016年9月7日)には・・、
  フィリピン大統領のドゥテルテ大統領は・・、
  フィリピンの庶民層の『圧倒的支持』を受けて大統領
 となった人である・・と、
  ドゥテルテ・フィリピン大統領は、その様な人だと・・、
  そして、このフィリピンの庶民層の方々は・・、
  旧宗主国のアメリカに対して反感を持って来た・・と
  また、そのアメリカを後ろ盾として、アメリカの陰で
 旨(うま)い汁を吸って来たフィリピンのエリート層に
 対しても、フィリピン庶民層の方々は反感を持って来た
 ・・と、
  その様な歴史の経過の中で、ドゥテルテ大統領の暴言
 と言われる・・発言があった・・、
  ある意味では・・暴言ではない・・
  『公憤である』・・『義憤である』・・、
  (参考)義憤:ぎふん、道義に外れたことに対する、
     また、不公正な事に対する憤(いきどお)り。
  この事によって、アメリカ大統領と、フィリピン大統
 領の会談が取り止めとなった・・・・が・・、
  そのフィリピン大統領ドゥテルテ氏の発言は・・、
  「アメリカは、フィリピンで多くの悪事を働いて来た
 ・・が、今まで謝罪したことがない」
  「アメリカは、我が国・フィリピンを侵略し、我々・
 フィリピン人を牛耳り(ぎゅうじり)支配した」
  「フィリピンは、隷属国(れいぞくこく、奴隷の様に
 隷従する国)ではない」
  「私は、フィリピン国民には誠実に答えるが、彼(ア
 メリカ大統領のオバマ氏)に対しては、気にしてない」
  「彼(オバマ大統領)は何様だと言っているのだ。
  私(フィリピン大統領)も、主権国家のれっきとした
 大統領なのです」
  「我々・フィリピン人が、アメリカの植民地人だった
 のは、遠く過ぎ去った昔のことだ。
  (私の主人顔をするな)、私の主人は、フィリピンの
 国民だけだ。
  敬意は、示されなければならない」
  「質問や声明を投げかけるだけなら(誰にでもできる)
 それだけではいけない」
  「裁判なしで人を殺してきた酷い記録がある」
.
  そして、この発言の翌日のフィリピン大統領ドゥテル
 テ氏の発言・・、
.
  「私の発言が(会談中止の)直接の原因だ」
  「アメリカ大統領への個人的な攻撃と受け取られてし
 まった、(この様に受け取られたのなら)後悔する、(
 しかし、これは社会を良くしたいという公憤だ)」
  (参考)公憤:こうふん、社会の悪に対して、自分の
       利害を越えて発する憤(いきどお)り。
  「すべての国、アメリカとも関係を深め、フィリピン
 独立(1946年に、アメリカから独立した)の方針を進め
 て行くのが我々・フィリピンにとって重要だ」
  (参考)1943年、日本によるフィリピンの解放によっ
 て、フィリピンは独立した。
  しかし、卑劣な事に、アメリカは、この1945年の日本
 の敗戦とともに、フィリピンを、再度、植民地とした。
  しかし、その後、フィリピンの方々は、1946年に、再
 度、独立を勝ち取った。
  そして、この様な、二度にわたるアメリカの植民地時
 代の苦しさを知っている、その庶民層の大統領だった。
.
  そして、この日の、この読売新聞は、別の欄に・・、
  オバマ大統領の発言を載せている・・、
.
  「ベトナム戦争で犠牲になった市民への和解の精神で
 ラオスを訪問した。
  不発弾処理に3年間で9000万ドル(この日レートで、92
 億4000万円)をラオスに拠出する。
  アメリカは、ラオスの傷をいやす道義的責任がある」
.
  (評)アメリカは、歴史が進めば進むほど、そして、
 歴史が経過すればするほど、
  戦争ばかりしているアメリカは・・、
  世界のあちこちで、『アメリカに対する怨念が、充ち
 て行く』
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-09-12 05:06 | 皆様とともに 幸せになりたい


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