(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、報道:
・アングロ・ジャパニーズ・エヴィユ(9月27日)
 日本人が編集した最初の英字新聞。
 大阪で発行された。
1885年、論・文学・本:
・福澤諭吉 「日本婦人論.後編」
  封建的観念からの人民の解放は、福沢生涯の宿願であ
 った・・が、
  日本の家庭に於ける、婦人の地位は、旧態依然たるも
 のがあったので、
  これが、解放のために立論したものが「日本婦人論」
 であった。
  明治十八年六月四日から十二日まで、八回にわたり時
 事新報社説として発表せられた。
  われわれは、この論説の単行本を未だ目挙したことは
 ない。
  明治三十一年、福沢生前に刊行された五巻本「福沢全
 集」の第五巻には、「日本婦人論後編」の前に収められ、
 大正十五年版「福沢全集」第六巻にも、後編と併せて収
 められ、
  そのときには、「明治十八年七月発免」と記されてい
 るが、これは果して何に拠って斯く記したものか明らか
 でない。
  当時の時事新報広告などによって、われわれの探索し
 た限りでは、「日本婦人論」が、単行本として刊行され
 た証跡は見当らない。
  しかし、福沢の残後、年月を経るに従って、次第に福
 沢の婦人解放論の代表的著作と目され、
  いろいろの形で、他の婦人解放論と併せて複刻出版さ
 れるに至った。
 「日本婦人論後編」は、明治十八年七月七日から十七日
 まで十回にわたって時事新報社説として発表せられた。
  この頃の社説は、すべて漢字片仮名まじりのやや固い
 文章で綴られるのが常であったが、
  この後編に限り、平仮名まじりの平易な文体で婦人に
 読み易いようにと配慮が加えられた。
  この後編は、その翌月に、四六版洋紙活字版の小冊子
 として刊行せられた。
 紅洋紙の薄い表紙で、「福沢諭吉立案/中上川彦次郎筆
 記/ 日本婦人論後編全一冊/明治十八年八月出版」の文
 字を飾り枠で囲ってある。
  序言二頁、本文六十三頁、奥附一頁、巻末に広告四頁
 を附けている。
  奥附には「明治十八年七月十五日出版/同年同月出版/
 定価金十七銭/抜萃兼出版人大分県士族石川半次郎東京
 日本橋区通三丁目十一番地寄留」と記し、その左側に売
 捌所書店名が列記してある。
  奥附の署名人石川半次郎は当時の時事新報発行名義人
 で、その寄留先は時事新報社の所在地である。
  巻末の広告頁は黄色の紙を用い、第一頁が時事新報の
 広告、二頁以下が発免書目録で、慶応義塾出版社および
 時事新報社の出版書目を掲げ、発売所として時事新報社
 と中近堂との名を併記してある。
  (日本婦人論. 後編 - Keio Universityより)
・田口卯吉 「日本開化之性質」 (9月)
  田口卯吉は、明治の経世家(けいせいか、経世の論を
 説いた知識人)。
  福沢諭吉と並び称せられた啓蒙思想家。
  号は鼎軒。黄東山樵・畠山機知・田口十内・牛嶺逸士
 のペンネームをもつ。
  経済学者・歴史家であるほか雑誌主宰者・史料編纂者・
 政治家・実業家でもあり、その活動領域は多彩である。
  学者であると同時に実践家でもあり、森鴎外からは、
 西洋と東洋に通じた「二本足の学者」と敬称された。
  江戸生れ。佐藤一斎の曾孫。下級幕臣の子で、しかも
 幼年で母子家庭となり、
  明治以降、ひどい困苦流浪生活の中で英学・医学を学
 んだ。
  1872年(明治5年)大蔵省翻訳局上等生徒となり、
  1874年、同省紙幣寮に出仕、
  1878年、退官する。
  在職中は、英書翻訳のかたわら経済学や開化史を修得
 しつつ、著述や新聞投書で保護貿易政策を批判した。
  1878年、「自由交易日本経済論」を刊行し、経済自由
 主義を唱えた。
  この主張は、1879年創刊の「東京経済雑誌」上で精力
 的に展開された。
  1877年~1882年に、「日本開化小史」を出版し、一躍
 文名を顕す」(日本思想史辞典[2009:624])
・有賀長雄 「文學論」
  有賀長雄(あるがながお)は、明治・大正期の国際法
 学者、外交政治史家、社会学者、陸軍大学校教授、早稲
 田大学教授。
  1913年(大正2年)、袁世凱に招かれて渡中、大総統法
 律顧問として清国憲法制定に尽力した。
・坪内逍遥著『当世書生気質』分冊刊行(6月)
  坪内逍遥は、かねて『遊学八少年』という戯作の構想
 を抱いていた。
  勧善懲悪を否定し、写実主義を主張した文学論『小説
 神髄』の執筆に続いて、
  1885年(明治18年)4月に書き始め、6月に『一読三歎
 当世書生気質』第1巻を刊行。
  好評のため翌年・1886年1月までに第17巻を刊行した。
  明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼
 として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ
 様子も描く。
  日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開
 された理論の具体化であるとされる。
  ただし、文体は、戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心
 には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった
 兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩
 年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説
 類をすべて〈別冊〉にくくりこんだ。
  この小説は、当時から世評が高く、長く読み継がれた
 ため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解さ
 れるのを苦にした野口英世が、清作という本名を英世に
 変えたという。
・坪内逍遥著『小説神髄』第一冊刊(9月)
  明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを
 汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するため
 の政治小説が中心だったが、
  『小説神髄』は、道徳や功利主義的な面を文学から排
 して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義
 を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与し
 た。
・坪内逍遥 「妹と背鏡(いもとせかがみ)」
  「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出
 す意味。
  つまり夫婦の生活を描写するという意味。
  この小説は、「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都
 合で結婚させられた夫婦のいずれもが、不幸な結婚生活
 を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再
 現しようとしている。
・東海散士『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』刊(10月)
  佳人(かじん)は、美しい女性の意味で、
  会津の遺臣である東海散士が、アメリカにわたり、フ
 ィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、ス
 ペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で、
  後に、中国の明朝の遺臣も加わる。
  いずれも、亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進も
 うとするかれらの交情が描かれる。
  なお、この話の中でハンガリーのコシュートが亡国の
 代表として各編に登場する。
  東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史へ
 の注釈などが加わり、前半では、小国が大国に依存した
 状態では民族的解放ができないこと、
  小国の国民は、国を守る気力を持たなければならない
 こと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説か
 れている。
  後半になると、作者自身が、谷干城に随行してヨーロ
 ッパを視察したときの体験が混ざり、また、金玉均との
 交友から朝鮮半島をめぐる議論や、日清戦争後の三国干
 渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人
 の面影は作品からは遠ざかっていく。
・近藤瓶城編『史籍集覧』正編刊了
  岡崎藩の儒者近藤瓶城が、編纂した江戸時代までの日
 本の国史の叢書。
  1881年~1885年刊。1900年~1903年の改定版では、全
 465種1135巻。
  群書類従に漏れた諸書を通記、纂録、別記、雑類に分
 けて収録した。
・三遊亭円朝 「塩原多助一代記」
  創作された落語・人情噺。
  実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語。
・植木枝盛 「貧民論」
  植木は、青年時代から独自のアジア主義(小国主義、
 アジア連合論)を説き、
  興亜会(日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的とす
 る)の会報をよく読み、
  アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言った。
  アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
  改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易
 という手段でのアジアの独立振興を志向した。
  新聞で、キリスト教を痛烈に批判した。
・硯友社創立、『我楽多文庫』創刊(2月)
  近代日本文学で初の文芸雑誌。
  同人雑誌の先駆。
  硯友社の機関誌。
  硯友社(けんゆうしゃ)は、1885年、尾崎紅葉、山田
 美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足した文学結社。
  「我楽多文庫」を発刊した。
  川上眉山、巖谷小波らが参加し、当時の文壇で大きな
 影響を与えた。
  1903年(明治36年)10月の紅葉の死によって解体した。
  近代文体の確立など、その意義は大きい。
・『女学雑誌』創刊(7月)
  1885年7月20日、創刊された日本初の本格的女性誌。
  1885年(明治18年)7月~1904年(明治37年)2月まで、
 526号、計548冊刊行された。
  巌本善治が長く編集人を勤めた。
  『日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを
 希図す』と創刊号の『発行の主旨』にある。
  『女学』とは、『女性の地位向上・権利伸張・幸福増
 進のための学問』とされる。
  (参考)希図:きと、希望して計画すること。
1885年、歌・流行・世相:
・歌 :琵琶歌 「南洲追憶」(作:勝海舟)
・髪:束髪(そくはつ)
  日本髪と並んで普及した女性の結髪の一つ。
  この束髪は、当時の鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響
 もあって女学生の間に人気を博した。
  その束髪は、洗い髪を香油を用いて整え、それから額
 中央から髪を左右に分け、後頭部で一度束ねてから三つ
 編みとし、それから髷をつくり、「西洋下げ髪」「西洋
 上げ髪」「マーガレイト」「伊太利(イタリア)結び」な
 どにまとめあげた。
  「夜会(やかい)巻き」もこれから出た髪形の一つ。
・生活:麦藁帽子値上り
・生活:馬の飼育奨励
  この年の記録から・・、
  獣医開業試験規則制定。
  戦時病馬厩服務規則制定。
  陸軍の馬医部馬医を獣医部獣医に改称。
  馬医生を看馬長へ改称。       
  民有種牡馬、牛取締に関する規則公布。
  宮内省が、藤波言忠子爵と新山荘輔子爵をヨーロッパ
 牧畜視察に派遣。      
  下総種畜場、宮内省への移管により下総御料牧場に改
 称。
  大日本獣医会発足。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
・産業:大麦作盛ん
  北海道の事例・・、
  農業経営を安定させる施設については、逆に積極的な
 方策がとられた。
  すなわち、共立商社の設立、備荒貯蓄制度の実施、輪
 作・牧畜の奨励などが主なもので、特に、輪作補助規程
 を設けて、大麦・大豆・あわなどの輪作を奨励し、
  地力の維持増進、略奪農業の防止に努めた。
  このように、直接的な援助の廃止にかかわらず、この
 地に残った移住者たちは、自立経営の意欲も盛んになり、
 それ以後、作付反別および収穫高は飛躍的に増加し、殊
 に、産馬の振興によって牧草・えん麦などの飼料作物は
 急激に増え、
  1902年(明治35年)には、総作付面積の4割強を占め
 るに至る。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
.
  (今日の言葉)
.
題:アメリカの非人道的攻撃の一例:無実の一般市民殺戮
.
1944年11月14日、アメリカの非人道的なじゅうたん爆撃
  この日、東京が、初めて、アメリカによる爆撃を受け
 た。
  無実の一般市民に対する無差別爆撃の国際法違反行為
 だった。
  アメリカは、国際法違反の無実の一般市民を殺戮をす
 る。
  日本は、ハワイの攻撃の時は、一人も一般市民の殺戮
 はしていない。
  アメリカの方々の殺戮はしていない。
  この時、アメリカ軍が、誤射で、自国民のアメリカ市
 民を殺戮しているが・・。
  この東京の様な卑劣なアメリカの市民ターゲット行為
 は、日本全国の都市で、この国際法違反の無差別爆撃を
 行なった。
  東京だけに関しても、以下の様な事が行なわれた・・、
  東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回もの
 爆撃・空襲を受けたが、
  106回もの回数、無実の一般市民をターゲットにした殺
 戮行為がなされた。
  特に、1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、
 5月24日未明、5月25日~26日の5回は大規模だった。
  その中でも、「東京大空襲」と言った場合、死者数が
 この1回の攻撃で、10万人以上と著しく多い1945年3月10
 日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。
  この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。
  そして、この空襲の体験をした・・、
  芸人の毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)氏は、
 (読売新聞、2016年8月13日)で、以下の様な事を言う。
  第二次世界大戦時の空襲のことを言う・・、
  「警報が鳴ったと思ったら、焼夷弾がバラバラ落ちて
 きた。
  『もうだめだ、逃げよう』って、おふくろと逃げ始め
 た。
  火が強い風にあおられるのでとにかく熱くてね。
  『こんなに苦しいんなら死んだ方がいい』と俺が言っ
 たら、
  『死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるために逃げ
 るんだから、そんなこと言うもんじゃないよ』って
 お袋に叱咤(しった、大声を張り上げてしかりつけるこ
 と)された」。
  「逃げる途中で、革の靴が落ちていて拾ったんだけど、
 片方が重いなと思ったら、足首が入っていた。
  無我夢中でその足首を抜いて、靴を履いた覚えがある。
  東京の空は真っ赤だった」・・・。
  「翌日は、一面焼け野原だから、どこが自分の家かな
 んてわからない。
  防空壕を見つけて、ふたを開けた。
  5人ほどが俺をにらみ付けているから、『空襲は終わっ
 たよ』と声をかけたよ。
  でも、動かない。
  よく見ると、息をしていなかった。
  肌がロウ細工のように白く、眼だけがぎょろっとして
 いた」・・・。
  「空襲の最中には、『俺たちは兵隊じゃない』。
  『何で焼夷弾が落ちて来るんだ』って気持ちが、何度
 も湧いた」・・・。
  (世界で一番悪いことをしたのはアメリカ、無実の一
 般市民の大量虐殺・殺戮)
  キリスト教に偏するNHKの元職員の池上彰は・・、
  これも、日本が真珠湾攻撃をしたからと言うのか?
  池上彰は、原爆投下は真珠湾攻撃をしたからと言った。
  真珠湾攻撃は、このブログでも、色々と、数おおく、
 奇襲攻撃ではないとはっきりした証拠で説明しているが
 ・・、
  また、日本の先制攻撃ではないと証明もした。
  この卑怯な言い方をする池上彰は、何でもかんでも、
 日本が真珠湾攻撃をしたからと、テレビで「解説だと誤
 魔化す番組で」言っている。
  アメリカが、先に先制攻撃していたことも、色々な資
 料から、明らかになっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-08-22 05:02 | 皆様とともに 幸せになりたい


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