(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)

題:(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年12月17日、大隈重信、河野敏鎌が、立憲改進党を離
 党した。
  総理の大隈と副総理の河野が仲間割れで離党した。
  この仲間割れは、大隈の求心力低下が原因だった。
  直接的には、1884年になると、組織改革を巡る紛糾が
 強まって、解党論まで出てくる始末だった。
  首脳部の離党があったが、慶應義塾系と嚶鳴社系を中
 心とする集団指導体制で、辛うじて解党は防がれた。
  しかし、ほとんど活動は、不可能状態となった。
  過激な事件があちこちで起き、政府の取締りも厳しく
 なり、また、自由党も、1884年10月29日に、解散し、
  この後の1884年11月頃より、立憲改進党内に解党論が
 出てきた。
  そして、この総理と副総理や、めぼしいメンバーの離
 党が起きた。
  党内には大きな動揺が走った。
  しかし、規約を改正して集団指導体制を取って、党は
 維持された。
  大隈は、脱党したとはいえ、その後も影響力は強かっ
 た。
1884年12月20日、華族就学規則が制定された。
  華族の方たちの多くは、明治の新政府の新しいポスト
 には就かなかった(就けなかった)が、
  政府は、こうした華族の方たちに、国会開設の際には、
 上院議員として政府の一翼を担っていただこうと期待し
 ていた。
  この事もあり、幕末に志士として活躍した優秀な士族
 の方たちにも爵位を授与していた。
  また、華族の資産が、日本の資本主義経済の成立や、
 発展に、大きくかかわっていたことが、経済史の視点か
 ら、学究の徒により研究され、確認されている。
  華族制度は、過去の事象ではなく、現代社会において
 も大切な意味を持っている。
  失われつつある社会集団の民族史的研究など、研究す
 る意義が深いと言われている。
  庶民文化の研究の必要性と同等に、エリート層文化へ
 の理解を深める必要性はあり、そして、高い重要度があ
 ると指摘されている。
1884年12月23日、院内鉱山が、古河に払下げ許可となる。
  院内鉱山は、院内銀山とも言い、
  秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山で、
 「東洋一」の大銀山とうたわれ、
  年間の銀の産出量は、日本一を何度も記録した。
  明治期に、鉱山王であった古河市兵衛が働いていた小
 野組が経営権を握った。
  そして、その小野組が解散した後の1884年のこの日に、
 工部省から古河市兵衛へ払い下げられた。
  古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、
  同時に買収した日本国内の他の鉱山から、西洋で学ん
 だ技術者を連れて来て、近代的な鉱山経営を行った。
  これにより、ますます銀の産出量は増え、
  古河は、院内のほか、阿仁鉱山など、東北地方を中心
 に多くの鉱山の経営を行った。
  その利益を元手に、日本最大の鉱山であった足尾銅山
 を買収し、古河財閥を作り上げた。
  明治時代、院内は、日本4位の銀山だった。
1884年12月24日、外務卿・井上馨を朝鮮に遣して談判
  井上は、1884年12月4日に起きた甲申事変で、朝鮮の宗
 主国だと清が介入するため渡海した。
  そして、翌年・1885年1月9日に、李氏朝鮮と漢城条約
 (かんじょうじょうやく/ハンソンチョヤク)を締結し
 て危機を脱した。
  朝鮮側の全権大臣は金弘集であった。
  また、1885年4月には、伊藤が、清と天津条約を締結し
 ている。
  漢城条約締結時に、日本が朝鮮王宮に入ったことが問
 題となったが、
  日本は、朝鮮国王の親筆書があることと、また、朝鮮
 国王の玉璽の捺された詔書があることを示し、要請によ
 って入城したことをはっきり示した。
  このようなやりとりから、解決は平行線を辿った。
  ここで、井上馨は大局的判断をして、両国関係の速や
 かなる修復こそが肝要だとし、
  「朝鮮国内で日本人が害されたこと」「日本公使館が
 焼失したこと」という明白な事実のみを対象に、交渉を
 早期妥結することを提案し、その他の事は棚上げとした。
  この提案は、最終的に朝鮮側の同意を得て、条約への
 進捗を見た。
  この交渉の中、清国が話し合いに介入する一幕があっ
 たが、第三国の容喙(ようかい、横から差し出ぐちをす
 ること)をきっぱり許さず、条約の締結がなされた。
  締結された条約の内容・・、
  第一款:朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明す
    ること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
    見舞金、及び、暴徒に略奪された商人の貨物の補
    填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
    しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
    国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
    支給し、工費に充てること。
  (当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減
   額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用い
   るという修正案に改めた)
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応
    しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約
    第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1884年12月25日、海軍省軍事部を廃止した。
  1884年2月に、海軍省達丙第21号により、海軍省軍務局
 を廃して、海軍省の外局組織として軍事部(軍令専掌機
 関)が設置され、初めて軍令をつかさどった。
  (参考)軍令:ぐんれい、明治憲法下で、作戦・用兵
    に関する統帥事務。
1884年12月26日、判事登用規則が定められた(太政官達第
 102号)
  司法官任用のための試験。
  「判事ニ登用スルハ法学士代言人及ヒ試験ヲ行ヒ及第
 シタル者ニ限ル」
  これ以前は、自由任用、または、司法省法学校(正則
 科及び速成科)の卒業生からの任用が行われていた。
  判事登用規則による試験は、1885年から1887年まで、
 計5回行われ、
  合計682名の合格者を出した。
  これには、裁判所内の判事補・検事補・書記を対象と
 した部内試験合格者518名と、
  司法省法学校速成科卒業者101名も含まれており、
  私立法律学校卒業者は63名であった。
1884年12月27日、火薬取締規則が制定された。
  同時に、爆発物取締罰則も布告された(太政官布告第
 32号)
  治安を妨げ、人の身体・財産を侵害する目的による爆
 発物の使用等を処罰することを規定する太政官布告であ
 った。
  施行は、翌年の1885年1月15日。
  この頃の社会情勢において、自由民権運動の急進派に
 よる暴動事件が続発していた時期で、
  警察官に対する爆発物の使用なども行われたという背
 景もあった。
  また、この頃、ヨーロッパでも同種の立法の動きがあ
 った。
1884年12月27日、往復ハガキの発行が始まった(1885年1月
 1日説、1885年3月説あり)
1884年6月、清仏戦争(~1885年6月)
  ベトナムの領有・植民地化を目指すフランスと、
  清国は、ベトナムの宗主権を主張し
  ベトナム藩属国(宗主国の清国に対して、下位の意味
 を込めて藩属という)として、その宗主権があるとし、
  その清(中国) とフランスの戦争(フランスの領土的
 野心の戦争、1840年代からくすぶっている)。
  アジアにおける植民地獲得競争で、イギリスにインド
 から締め出されたフランスは、
  ナポレオン3世(在位:1852年~1870年))の治世以来、
 積極的なインドシナ政策を推し進め、
  その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。
  フランスのインドシナ進出は、19世紀後半のナポレオ
 ン3世時代に積極化した。
  1862年以降、フランスは南部ベトナムを占領し、植民
 地化し、第1次サイゴン条約(1862年、ベトナム王朝と締
 結)をした、ついで、
  1874年にベトナム王朝と結んだ第2次サイゴン条約によ
 って、フランスがベトナムを実質上保護領化すると、
  清は宗主権を主張してフランスに抗議した。
  1882年、フランスは、北部利権の確保を目的として、
 H・リビエールを派遣して、ハノイを占領した。
  1883年、清国の劉永福(りゅうえいふく)に率いられた
 黒旗軍はリビエールを倒し、フランス軍を駆逐した(1883
 年5月19日、ハノイ攻防戦にてリビエール戦死)
  フランスの第2次フェリー内閣は、成立後に活発となり、
 強硬政策に転じ、
  フエ(ユエ)に派兵してアルマン条約(1883年8月25日、
 フランスとベトナム間で調印された)を強制し、
  フランス保護権の設定、黒旗軍の否認、駆逐を約束さ
 せ、ベトナムをフランスの保護国とした。
  ベトナムの宗主国の清国(中国)は、これに対し、黒
 旗軍の指導者・劉永福を、越南東京(トンキン)(ベトナ
 ム北部)経略大臣とする一方、大兵を北部に派遣した。
  清・ベトナム国境付近のバクレでの両軍衝突を口実に
 フランスは武力を行使し、
  フランス軍はこれを駆逐して、北部一帯を占拠したた
 め、
  李鴻章(りこうしょう)は、1884年5月、天津(てんしん)
 協定を結んで北部からの撤兵を約束した。
  しかし6月、中越国境に近いバクレで、清軍はフランス
 軍を大敗させた。
  フランスは、これを口実に、8月、クールベ提督をして
 福州の清国南洋艦隊を壊滅させ、さらに台湾を封鎖した。
  清は、宣戦に踏み切り、次第に劣勢をばん回した。
  清軍は、中越国境でフランス軍占拠地を奪回し、善戦
 を繰り返した。
  しかし、清国は、戦いに敗れて行った・・、また、
  1885年3月、クレマンソー内閣の成立とともに和議が進
 み、
  1885年6月9日、李鴻章とパトノートル間に清仏天津条
 約が締結された。
  これにより、清は、ベトナムに対する宗主権を放棄し、
 ベトナムのフランスの保護国化・保護権を認め、ベトナ
 ムはフランスの保護領となった。
  また、雲南を開放した。
  しかし、ベトナムの民族派官人は、これに対し、咸宜
 (かんぎ)帝(ハムギ帝)を擁して、1888年まで、抵抗を
 続けた。
  清仏戦争は、フランス帝国主義政策の端緒をなしたと
 ともに、
  清の無力を暴露、民衆レベルの反帝国主義闘争を活発
 化させる因をつくった。
1884年10月、グリニッジ子午線の設定
  アメリカのワシントンで、国際子午線会議が開催され、
  ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が「経度0度」
 に決められた。  標準時制定(1886年)
  アメリカで、万国子午線会議が開催。
  グリニッジ子午線を国際的な本初子午線に制定する。
  1886年7月13日、東経135度の兵庫県明石市の時刻を、
 日本の標準時とすると、勅令が公布された。
  明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件)
  東経135度の子午線を、太陽が通過する時刻が、正午と
 なり、明石市の正午が日本全国の正午に。
  グリニッジから整数の時間差で、自国の標準時を決定
 する。
  経度が15度毎に、時差は1時間。
  明石市は9時間進む位置に。
  (万国子午線会議)が行われるまでは、本初子午線は
 国によってまちまちであった。
  しかし、遠洋航海が活発化するにつれ、それでは不都
 合が生じることがわかり、本初子午線を統一する事にな
 った。
  25ヶ国の代表が集まり決定した場所が、ロンドンのグ
 リニッジ天文台。
  ここは、イギリスの経線測定の拠点だった。
  この決定の背景には、イギリスが経線測定に力を注ぎ、
 クロノメーターによる測定法を確立したという実績と、
 当時、イギリスが世界の海を制覇していたことがあった。
  しかし、これに反対した国があった。
  それはフランスで、今でもフランスは、この決定に不
 満で、国内図に関しては決定以前のとおり、パリに本初
 子午線を設けている。
  プライドの高い国である。
1884年、イギリス:第三次選挙法改正(農民らに選挙権)
1884年11月15日、アフリカ分割が討議されたベルリン会議
 (~1885年2月26日)
  ヨーロッパ各国は、帝国主義的侵略の国で、アフリカ
 を餌食として、取り合っていた。
  人類史上最悪の欲のある西洋列強の姿だった。
  その調整の場が、1884年から1885年のベルリン会議で
 あった。
  各国は、アフリカ固有の民族、文化などの差異をまっ
 たく無視し、恣意的(しいてき、気ままで自分勝手に)
 に国境線を引き、領土を決めた。
  この帝国主義分割によって、全大陸の9割がヨーロッパ
 列強の支配下に置かれた。
  1884年から1985年にかけて、中央アフリカを分割する
 コンゴ盆地条約が結ばれるが、国境線は直線によって分
 割された。
  この様に、アフリカの国境線は直線が多い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:慰安婦のこと・・、今度は韓国が謝罪する番だ。
   まず、ベトナムから・・次は・・、そうそう、自国
   の女性の方々へも・・朝鮮戦争の時もひどかった・・
   ・・アメリカと一緒になって・・
.
1945年、イギリス人記者のH・S・ストークス氏は、戦争
 における慰安婦の歴史は世界のどこにもある・・と言う。
  また、ストークス氏は・・
  日本は、兵士の性処理にあたって秩序を保って対応し
 た。
  現地の女性の人権が蹂躙されることがないように、「
 慰安所」を設置した。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は、女性の人権に、他国よりもはるかに配慮して
 いた・・と書く。
  そう言えば、アメリカが、第二次大戦後に日本に進駐
 した時、アメリカ軍の駐留地の近くの日本女性が、強姦
 される数が、非常にと書くほど非常に多かった。
  アメリカ兵が、集団で強姦をし続けている状況が起き
 た。
  病院が襲われ、そこの看護婦さんたちが被害を受けた
 という事件もあった。
  こんな事件ばかりだった。
  何らこの事で、アメリカは糾弾されることはないが、
 その様な事が起きていた。
  銅像を建てたら・・銅像だらけになる状況だった。
  まったくひどいことが起きていた。
  そして、イギリス人記者H・S・ストークス氏は、以
 下の様に自著に書く・・、
  現代病としての戦争は、ナポレオンから広まり、社会
 全体に塗炭(とたん)の苦しみを与える様になった。
  ナポレオンによって戦争の在り方が変わり、国全体を
 巻き込むようになった。
  この過程で、兵士相手の売春も拡大した。
  かつて戦場に伴われた女性は、トロイ戦争のヘレンの
 様な王族だけだったが・・
  (注):キリスト教十字軍は、一般兵士の為の慰安婦
    を同行させていた・・ストークス氏のこの記述は
    この事例などを見落としている・・ほかにも事例
    は色々ある)
  今日ではシリア、レバノンなどの戦争地帯は、パリ、
 ロンドン、ニューヨークと並んで世界屈指の売春地帯と
 なっている。
  売春はビッグ・ビジネスだ。
  商魂たくましい女衒(ぜげん、女性を遊女屋などに売
 ることを業とする人)は、チャンスを見逃さない。
  売春は世界で最古の商売であり、売春を世の中から根
 絶させる事は、戦争をこの世から消滅させるぐらいに難
 しい。
  女性や子供は、誰よりも保護されるべき存在だが、戦
 争における人権の蹂躙は女性に限らない。
  歴史を振り返れば、日本は兵士の性処理にあたって、
 おおむね秩序を保って対応した。
  戦場のどこであっても、現地の女性の人権が蹂躙され
 ることが無いように、「慰安所」を設置した。
  (日本の事例ではないが・・)性病が蔓延して、軍と
 して機能しなくなった歴史の教訓がある。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は女性の人権に、他国よりもはるかかに配慮して
 いた。
  慰安婦の問題は、今後も戦争のたびに論議されよう。
  私もベトナムでその現実を目にした(韓国やアメリカ
 がひどかった)。
  こんにちのホーチミン市にアラルサイゴンには、売春
 婦がたむろしていた。
  韓国も、他国の事を批判できるような立場にはない。
  アメリカも日本を占領したときに、真っ先に要求した
 のが、アメリカ兵のために売春施設を設ける事だった。
  (中略)
  今日のマカオの賭博場での最高のサービスは、セック
 スだ。
  一般の社会でも、慰安婦が厳然と存在している。
  性サービスが終焉する日が来るだろうか。
  答えはノーだ。
  それどころか拡大している。
  (アメリカの)ペリーは大勢の男たちを引き連れて、
 アフリカから喜望峰(きぼうほう)を回って、日本まで
 やって来た。
  黒船艦隊に乗っていた男たちの夢は、東洋(日本)の
 女性と性交をしまくることだった。
  現代では、売春は違法として取り締まられているが・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-08-18 16:56 | 皆様とともに 幸せになりたい


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