(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)

題:(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年8月25日、中国・四国地方に暴風雨。
  堤防決壊。
1884年8月、儒学者の元田永孚(もとだながさね)が、「
 国教論」を起草した。
  福沢諭吉の「徳育如何(1882年)」から始まった道徳
 教育のあり方をめぐる論争が始まった。
  1890年(明治23年)の「教育勅語」発布に至るまで、
 徳育の混乱時代で、多くの識者の意見が発表された。
  代表的な意見は、12編ある。
  明治維新以降の日本は、制度面では、西洋を手本に、
 それなりの成果をあげることができたが、
  他方、道徳では、古いものに代わる新しいものを見出
 せず、空白状態にあった。
  儒教の復興を説く者もいたが、
  福沢諭吉は、社会の「公議輿論」こそ道徳の基本であ
 ると主張した。
  因みに、
  福沢の「徳育如何」の諸言に・・
  「方今、世に教育論者あり。
  少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜(けい
 そうふそん)なりと称し、
  その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。
  福沢先生、その誣罔(ふもう、作り事を言って人をそ
 しること)を弁じ、大いに論者の蒙を啓ひらかんとて、
  教育論一篇を立案せられ、中上川(なかみがわ)先生
 これを筆記して、
  『時事新報』の社説に載録せられたるが、今、これを
 重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
        明治一五年一一月」
  また、この頃の主な代表的意見は・・、
  加藤弘之は、1887年(明治20年)に「徳育方法案」を
 出版し、
  「道徳の大主・・旨とするは愛他心」であるとして、
 宗教の必要性を説いた。
  小崎弘道は、加藤の意見に賛成し、
  「道徳は到底宗教に依らざれば実行す可らざること」
 を「六合雑誌」に掲載した論文で再三繰り返した。
  杉浦重剛は、「日本教育原論」(1887年)で、
  「理学」こそが道徳の向上に寄与すると説いた。
  さらに、山崎彦八の「日本道徳案」(1889年)は、
  「鍛錬主義」を主張し、慣習の力をもって道徳を教え
 ることが肝要だとした。
  そのほか、道徳教育の方法をめぐってさまざまな意見
 が出され、西村茂樹の「日本道徳論」(1887年)もその
 一つである。
  この論争は「教育勅語」発布によって終焉した。
  近代日本の「内部の開化」をめぐる論争だった。
1884年8月、外務卿・井上馨が、条約改正に関する覚書を、
 各国公使へ送付した。
  「内地開放は、領事裁判権の全廃と同時に行う」とし
 た。
  領事裁判権は、不平等条約によって定められた治外法
 権の一つだった。
  日本での外国人の事件が、日本人が裁くことが出来な
 いという条項だった。
  在留外国人が起こした事件を、本国の領事が本国法に
 則り裁判するという権利で、日本は裁判権を失っていた。
1884年9月1日、1883年10月に発生したマーシャル・ラエ島
 の日本人虐殺事件の調査に、二人を派遣した。
1884年9月5日、宇品港(広島港)の築港に着手した。
  県令・千田貞暁が、県下の良港開削を計画し、土地の
 興行に資するため、どんな大船でも出入出来るようにと、
 築港費18万円の予算を立てた。
  しかし、地元の宇品沿岸一帯の農民は、漁場を奪うも
 のだとして、猛烈に反対した。
  続いて、巨額の築港費に伴う増税を恐れた人達が、こ
 れに相呼応して反対した。
  千田県令は、説明して回り、必要性を説いた。
  築港が、海運業にもたらす大きな良い効果、また、国
 際的発展の門戸として、重要な役目を果たす事などを説
 き、築港の急務を叫んだ。
  そして、工事に着手した。
  しかし、工事が始まると反対論者は、以前に倍加して
 攻撃した。
  特に、築港費が予算を超過したのを理由として、遂に
 県令は、同県を追われた。
  新潟県への転任の止むなきに至った。
  そして、やっと1889年(明治22年)に、築港工事が完
 成した。
  この宇品港は、この後、日本の大切な港として発展し
 て行った。
  千田県令の先見の明が、今更の如く認められ、その功
 に依って勲二等が叙された。
  また、瑞宝章も授けられた。
  また、広島県の代表者が、遠く宮崎県に赴き、当時・
 同県知事たる千田氏へ、感謝の意を述べたという逸話も
 ある。
  築港のため追われた者が、そのため賞せられて、後に
 男爵にさえ列せられた。
  港に面する広場には、長くその遺徳を表彰する銅像が
 建立された。
1884年9月16日、竹久夢二(たけひさゆめじ、画家、詩人)
 が、生誕した。
  岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)
 に、代々酒造業を営む家に、次男として生まれた。
1884年9月22日、星亨(ほしとおる)が、官吏侮辱罪で逮捕
 された。
  新潟県での、専制的な政府を批判する演説会だった。
  演説会に立ち会った新潟県警の警察を言論で侮辱した。
  そのために、「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と
 40円の罰金刑を受けた。
  尚、服役中、自由党解党にあい、獄中から反対した。
  演説内容は・・、
  「ロシアに国会なく、ドイツに国会はないに等しい。
 両国は国民の義務として徴兵をしているが好ましくない。
  宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。
  私が、政治を行なえばその様なことは行わない」・・
 などだった。
1884年9月23日、加波山事件(かばさんじけん)
  茨城県下で、自由党の加波山事件が起きた。
  河野広躰ら自由党員16人が、茨城県加波山に立て籠も
 り挙兵檄文をまいた後、下妻警察署町屋分署を襲撃した。
  自由民権運動は、激化して来ていた・・
  そして、政府の対抗する圧力に狂暴化して行った。
  1884年9月に、宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に
 出席予定の太政大臣・三条実美(さねとみ)以下の顕官暗
 殺を計画し、
  茨城自由党員・富松正安(とまつまさやす)らを同志に
 引き入れた。
  彼らは、落成式が9月15日に行われるという情報を得て、
 計画実行のために、一方では、河野らが東京・神田神保
 (じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って、資金を得よう
 として失敗し、
  他方では、鯉沼が、爆裂弾の製造中に誤って重傷を負
 った。
  その上、落成式は延期された。
  官憲は、強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)
 らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏して
 いることをつきとめ、事態は急迫して行った。
  栃木・茨城・福島の自由党員16人は、1884年初めには、
 県令・三島通庸(みしまみちつね)らの暗殺を計画してい
 た。
  1883年末には、政府転覆を目指して爆弾の製造を開始
 していた。
  また、政府転覆を企てていた栃木県党員・鯉沼九八郎
 らと結び、大臣顕官の暗殺を計画した、しかし、失敗し
 ていた。
  これら自由党員が、茨城県の加波山に集まって「革命
 挙兵の檄」を発表し、挙兵した。
  警官隊と交戦(衝突)し、数日で鎮圧された。
1884年9月25日、夕刊紙の今日新聞が創刊した。
  小西義敬によって、日本初の本格的夕刊紙として東京
 で創刊された。
  後の都新聞、そして、東京新聞。
  主筆は、仮名垣魯文
1884年9月26日、加波山事件の14人が解散して逃亡するが、
 後、全員逮捕された。
1884年9月、秩父地方の農村で、自由党員・井上伝蔵に指導
 された秩父困民党が結成された。
1884年9月、荻野吟子(おぎのぎんこ)が、試験に合格し、
 女医第1号となる。
  日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術
 開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年~1893
 年)ほか何人かの女性医師が開業していた。
  西洋医学を学んだ女性医師としては、シーボルトの娘・
 楠本イネ(1827年~1903年)がいる。
  荻野吟子は・・、
  1870年(明治3年)に、夫からうつされた淋病がもとで
 離婚した。
  上京し、順天堂医院に入院。婦人科治療をうけるが、
 そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、
  男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験か
 ら、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたい
 という決意により、女医を志した。
  1875年(明治8年)に、東京女子師範学校(お茶の水女
 子大学の前身)の一期生として入学し、
  1879年(明治12年)に、首席で卒業した。
  1884年(明治17年)9月に、医術開業試験前期試験を他
 の女性3人と受験し、
  吟子1人のみが、合格して、資格を得た(翌年の後期
 試験も合格し、開業した。
  新聞や雑誌が「女医第一号」として大きく扱った)
1884年10月1日、帽子商・小山梅吉が、国産の蝶ネクタイ
 第1号を造った。
1884年10月1日、海軍艦隊編成例が、制定された。
  日本海軍における最初の艦隊編成を定めた単独法令で、
 「聯合艦隊」の名称が、初めて登場した。
  「二艦隊以上ヲ集合シテ聯合艦隊ヲ編成スルコトアリ」
  1894年(明治27年)7月19日に、聯合艦隊が、初めて
 実質的に編成された。
  警備艦隊が、沿岸警備充実を目的とし「金剛」「赤城」
 ほかの砲艦で、同年・1894年7月13日に編成された。
  ・・が、西海艦隊へと改称されると共に、常備艦隊と
 西海艦隊によって「艦隊規定例」による最初の聯合艦隊
 が編成され、
  司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が、
 兼務する事になった。
1884年10月1日、古河市兵衛が、本所鎔銅所を開業した。
  古河鉱業本所溶銅所伸銅所(現:東京市麹町区八重洲
 町一丁目)
  同社は、元と古河鉱業事務所と称し、
  明治八年(1875年)古河市兵衛氏の創立に係るものな
 り。
  同氏は、眇たる一行商より身を起して遂に天下の富豪
 となり、
  銅山王の名を天下に轟かしゝもの、蓋し堅忍不撓幾多
 の辛酸を嘗めて其経営に力を致しゝに由らずんばあらず
 ・・と、渋沢栄一記念財団のホームページにあるが、
  以下の記述もある・・、
  日本の銅は、ほとんどが海外に輸出されていたが、産
 出された粗銅は品質が不安定で、
  海外での評価はまだまだ低かった。
  市兵衛は、その解決のために精銅事業への進出を決意、
  1884年、東京の本所に、本所溶銅所を開設した。
  溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。
  銅加工品の生産である。
  精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加
 工品の生産によって国内市場を広げていく。
  これが市兵衛の狙いだった。
  銅を中心とする多角経営への第一歩だった。
  操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は、日本
 の産銅の約3分の1に達し、
  日本を代表する精銅所の地位を確立した。
  しかし、古川市兵衛の経歴には、1883年とある・・、
  1832年、古河市兵衛、京都の没落した庄屋の子として
     生まれる。
  1844年、御手山稼ぎを廃止する。銅山は休山状態にな
     る。
  1868年、足尾銅山は、明治新政府に没収され、真岡県
     が管轄する。
  1869年、管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
      古河市兵衛、小野組別家に取立てられ、関東・
     東北の事業を任され、鉱山業にも進出する。
  1872年、栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請、
     鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管
     を示唆、野田彦蔵に足尾銅山を払下げる。
  1874年、政府の政策変更で小野組瓦解、古河市兵衛は
     裸1貫で再起を図る。
  1875年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の
     経営を開始、成功を収める。
  1877年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て足尾銅山を
     買収する。半年間妨害のため事業に着手できず、
     木村長七らの間歩調査が行われ再建策まとまる。
  1878年、本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
  1880年、渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
    銅山不振がつづき四代坑長に古河市兵衛の甥・
     木村長兵衛を起用、背水の陣を布く。鷹之巣坑
     開鑿を開始。
     古河は商標をとし、鉱業専業を宣言する。
  1881年、鷹之巣坑で神保の直利を補捉、足尾銅山好転
     に向かう。
  1882年、本口坑開坑で横間歩大直利を補捉、月産銅量
     が前年の年産を突破する。
  1883年、足尾産銅量が発展、日本の首位になる。
     直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所熔銅所
     をそれぞれ創設。
     足尾町内の道路大改修を開始する。
.
  (今日の言葉)
.
  題:正確な情報を惑わすもの・・
   特ダネ意識・キリスト教教義による偏見・国の規模によるプロパガンダ
.
1945年2月、第二次世界大戦のヤルタ会談の直後、
  戦後のドイツ・日本を決める会議が開かれた。
  一般市民の方々が知らないこと、また、知らされない
 事々が多い中、
  今、それらの情報が、真実が公開されて来ている。
  その一方・・
  また、「朝日新聞が始めた慰安婦の虚偽報道」のよう
 に、
  特ダネを書きたいと「嘘が書かれた」という事態もあ
 る。
  この朝日新聞の虚偽報道で、日本が、どれほど大きな
 被害を受けたことか、本当に計り知れない大被害を受け
 た。
  (この様な行為で、真実を知るのに大きな回り道を、
 人々は強いられている)
  また、大東亜戦争(第二次世界大戦)の早期終結を妨
 げた、中国による、アメリカに於いてのキャンペーン。
  それによる、早期終結への攻撃の被害による歴史のね
 じ曲げ、
  そして、ルーズベルト大統領のキリスト教教義「シャ
 ローム」から来る「無条件降伏要求(完全破壊思想)」、
  そして、同じキリスト教教義から来る「有色人種蔑視」
 の「ルーズベルトの日本人嫌悪」。
  これら諸々の事から、「原爆投下に至る不幸へ道」を
 伴った経過の中・・、
  そこへ至る1945年2月に・・ヤルタ会談の直後に、
  ルーズベルトは、自分が考える「ドイツの工業力剥奪」
 や、「ドイツに対する賠償」を打ち合わせる会議(連合
 軍委員会)に、
  ルーズベルトは、この自分の考えと同じ考えであるイ
 ザドア・ルービンを、アメリカ代表として任命した。
  ドイツへの厳しい賠償要求後、戦後占領は避けられな
 いと見られていた。
  そして、その頃に出された日本に対する報告書には、
 「日本経済の最低限度を維持するに必要のないものは、
 すべて没収する」・・とあった。
  この最低限度とは、「日本が占領した諸国の生活水準
 以下の生活水準レベル」という意味だと規定されていた。
  「軍需産業関連の機器はすべて破壊する」、
  「賠償取立ての対象となる工場と機械」が指定され、
  「航空機工場はすべて没収」「陸海軍工廠(こうしょ
 う、旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・
 修理した工場)もすべて没収」「年間150万トン以上の鋼
 材を賠償対象として没収」など、
  日本が二度と一級の工業力を持たないようにとされて
 いた。
  ルーズベルトの頭の中は、戦争に至るものを排除した
 後は、平和国家として復興し、元に戻すなどという甘い
 考えはなかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの頭の中は、「永久に
 他のアジアの国々以下の工業力しか与えず、二度と戦争
 に至る様な工業力は持たせない」という考え方にあった。
  主要な重工業は勿論、完全に、すべて持たせないなど
 だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-08-15 06:47 | 皆様とともに 幸せになりたい


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