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(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)

題:(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年6月中旬、第1回医術開業試験が施行された。
  歴史・・、
  1874年(明治7年)「医制」が公布された。
   (文部省より東京・京都・大阪三府に布達)
    国家の試験による医師の開業許可制を採用した。
  1876年(明治9年) 内務省は「医制」を全国に及ぼす。
    各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  1879年(明治12年)内務省は「医師試験規則」を各県
   に達し、全国統一の試験を実施した。
  (大学卒業者等に対しては無試験で開業免許を授与し
   た)。
  1883年(明治16年)内務省は「医師免許規則」及び「
   医術開業試験規則」を布達。
  1884年(明治17年)より試験実施。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまでは、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入により、新規に開業する医師は、西
 洋医学の知識が必須になった。
  これは、医師の西洋化において画期的な出来事だった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
1884年6月15日、わが国最初の女性専門誌『女学新誌』が
 刊行した。
  (近藤賢三編集)が修正社から発行した。
  ⇒翌・1885年7月20日に『女学雑誌』になった。
  初代編集人の近藤賢三は、婦人論が活発になった風潮
 をみて、それを1年で廃刊し、新たに「女学雑誌」を創刊
 した。
1884年6月24日、和解調停の勧解略則が制定された。
  勧解(かんかい)は、紛争当事者のどちらか一方の申
 し立てによって、裁判所の裁判官が、民事上の争いを和
 解させる制度で、
  江戸時代にあった内済(ないさい、事を荒立てないで
 調停する制度)をもとにして、フランスのコンシリエイ
 ションの影響を受けて成立した制度であり、
  この年に、勧解規則が制定され、治安裁判所に勧解係
 2名を置いて、勧解事件を取り扱った。
  勧解略則施行心得では、勧解係1名は、その地方の資産
 家で、風俗習慣を熟知する人望ある者を選任することに
 なっていた。
1884年6月25日、日本鉄道が高崎まで延長され、明治天皇陛
 下の御臨席のもとで上野駅で開通式が開かれた。
  この日、陛下は上野~高崎間を往復、御乗車された。
  この年、高崎、前橋まで延長され、全通した。
1884年6月25日、貞明皇后の御生誕
  旧摂家・公爵である九条道孝の四女として御生誕の後、
 大正天皇陛下の皇后となられた。
1884年6月26日、参謀本部に測量局が設置された。
  陸地測量事業が、参謀本部に管轄統一された。
  そして、1888年に、測量局が、陸軍参謀本部陸地測量
 部を経て、
  翌年・1889年に、参謀本部陸地測量部となった。
  陸地測量部によって、本格的な全国の三角測量と水準
 測量が行われ、
  正確な地形図が作成された。
  発足時には、参謀本部測量局など以前の組織による測
 量、また、内務省地理局による全国測量の業績があり経
 験豊富な技術者も配属されていた。
  部内の職制は、三角科、地形科、製図科、修技所が設
 置され、
  三角科は、三角測量を主とした広範囲の大地測量を担
 当、
  地形科は、三角測量後の内部の詳細な地形や地物を測
 量した。
  また、修技所は、第二次大戦中、教育部に改称され、
  陸地測量部は、第二次大戦終結の1945年まで継続した。
  その後、地理調査所をへて国土地理院になり、
  教育部(旧修技所)は、国土交通大学校測量部に引き
 継がれた。
1884年6月26日、フェノロサが、岡倉天心とともに関西を巡
 り、法隆寺夢殿の救世観音像を発見し、公開へ・・、
1884年6月、菊亭香水(きくていこうすい、佐藤蔵太郎)の
 『惨風悲雨 世路日記(さんぷうひう せいろにっき)』
 が刊行した。
  明治末年までに、数十万部のベストセラーとなった。
  内容の一例は・・、
  CがBに何か食べさせて馬にしてしまうのだが、馬にな
 ったBにAがなすびを食べさせると、元のBに戻ることが
 出来たという
1884年7月6日、工部省が、長崎造船局を廃止とし、郵便汽
 船三菱会社に貸し下げ、長崎造船所と改称した。
  郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が、政府から25年
 間借り受けることになった。
  この時、郵便汽船三菱会社は、政府と共同運輸会社と
 の戦いの真最中であったが、基幹産業として着目した。
  岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と、造船所経営の必
 要に迫られて、官から民に移譲した。
  急速な近代化を図りたかった。
  背景には官営事業の失敗もあった。
  1887年(明治20年)4月に至り、岩崎彌之助(岩崎弥太
 郎の弟)が、大蔵大臣伯爵・松方正義に長崎造船局の払
 下げを申請した。
1884年7月7日、華族令を定める。
  華族を5爵に定め、制度化する華族令が制定された。
  公爵11人、侯爵24人、伯爵76人、子爵327人、
 男爵74人。
  (氷川清話)華族に五爵を置く。
  この日、制度取調局の局長・伊藤博文を中心に制定さ
 れた。
  従前の華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区
 分し、基本的に旧公家の華族は家格により、旧諸侯の華
 族は石高により、それぞれの爵位を授爵した。
  また、国家に勲功ある者を新たに華族に列し、勲功に
 よりそれぞれの爵位を授爵した。
1884年7月14日、群馬県・中小坂鉱山を、坂本弥八へ払下げ
 の許可をした。
  この鉱山は、群馬県下仁田町にあった鉄鉱山で、
  江戸時代末期に発見されたと考えられる。
  幕末には、水戸藩が設立した反射炉で使用される鉄を
 供給したり、
  江戸幕府による、溶鉱炉建設予定地ともなった。
  明治維新後は、1874年(明治7年)に、イギリス人技師
 を雇い入れ、洋式高炉などの近代的な製鉄設備の建設を
 開始した。
  イギリス人技師とスウェーデン人技師の技術指導のも
 とで本格的な近代製鉄を始業した。
  民間経営で、良質な鉄を比較的安価に生産することに
 成功し、日本の製鉄業の草分けとなった。
  その後は、1961年(昭和36年)まで断続的に操業が行
 われた。
  中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期
 は、諸外国との緊張が高まりを見せており、
  1850年代、とりわけ1853年(嘉永3年)のペリー来航以
 降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってき
 た。
  すでに、18世紀末の段階で、欧米では、旧来の青銅製
 の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようにな
 っていたが、
  1840年代、高島秋帆、そして、江川英龍らが、鉄製の
 大砲の採用を進言した。
  しかし、1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄
 製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多
 くが不良品であった。
  鉄製大砲の鋳造が上手く行かない原因は、これまでの
 日本の製鉄原料となっていた砂鉄が、大砲の砲身の材料
 鉄としては不向きで、
  岩鉄、すなわち、鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考
 えられた。
  当時、水戸藩の徳川斉昭は、強硬な攘夷思想を持って
 おり、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して
 鉄製の大砲を鋳造することにした(成功せず)。
  万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、
 ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業
 を興す必要性を痛感した。
  小栗の進言によって、1865年(慶応元年)横須賀造船
 所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元
 として中小坂鉄山が注目されることとなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:カイロ会談と天皇陛下のお言葉
    (アメリカ・イギリスへの攻撃禁止)
.
1943年11月22日~27日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本の無
 条件降伏を改めて要求した。
  日本の降伏がはっきり自覚されて、この会議が開かれ、
 そして、この発言になっている。
  この時は、広島・長崎に原爆が落とされる1年9ヶ月以
 上も前の事である。
  こんなに早い時期から、アメリカの戦争遂行の最高責
 任者であるアメリカ大統領ルーズベルトは、「アメリカ
 が勝つことは間違いない」という見解にあった。
  であるならば、戦争を早く終わらせるために、広島・
 長崎に原爆を落とすのだ・・というアメリカの論理は、
 成立しない。
  「作られた論理だ」と・・この点からも言える。
  この頃、アメリカの極東専門家らの間でも「降伏後の
 日本をどう扱うか?」が話し合われたりしている。
  このように、日本の敗戦は誰の眼にもはっきりしてい
 た。
  原爆投下の必要性は、「まったくと言ってない」。
  中国の重慶では、国民党の孫文の長男の孫科(立法院
 長・国会議長)が、「日本の戦犯を厳しく処せ」と言う
 ほど、日本の敗戦は誰でも知る、世界的に知られること
 になっていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは・・、
  「日本の自動車や航空機のエンジン製造を禁じる」と
 か、
  「軍工場、軍艦の造船所を取り壊す」とか、
  「日本人ほど憎むべき敵はいない」とか、
  「(日本人を)飢えで死なせるほどではない」とかと、
  日本との戦争に、もう勝つという確信の中に居て・・
 好きな発言をしている。
  この様な戦争が、1年9か月続き、原爆が落とされる。
  必敗の日本に落とす必要性は、明らかにまったくない。
  うっぷん晴らしと言える。
  また、アメリカが手に入れていた次期の兵器・原爆の
 威力確認(性能確認)からの投下だった。
  卑劣な、軽蔑すべき・・人体実験。
  白人種のドイツ人の頭上には落さないとヨーロッパで
 言われているように、
  キリスト教の「有色人種の蔑視」の観念に洗脳され、
 マインド・コントロールされた流れの中で、日本人への
 『安易な原爆投下行為』だった。
  (第一次世界大戦後の会議で、日本はあれほど「有色
 人種への蔑視はするな」と言っていたのに・・である)
  日本の敗戦後が、いろいろ話し合われるこの頃・・、
 アメリカのヘラルド・トリビューン紙は、次の報道をし
 た・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない」と、
  この様な論説記事を掲載した。
  そして、この論説記事の中に・・、
  日本の真珠湾攻撃の約2か月前に、天皇陛下が、日本陸
 軍と海軍に対して、
  「アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じる」という攻撃
 禁止をしていると報じた。
  その裏付けとして、アメリカ国務省の公開文書に、そ
 の証拠があると解説した。
  しかし、アメリカのこの様な動きを中国は牽制した。
  中国は、日本の天皇制を嫌った。
  この時も、中国は、国家主導でキャンペーンをした。
  今も昔も、中国のやることは同じだった。
  この中国のキャンペーンは、びっくりするぐらい幅広
 く行われ、影響があった。
  アメリカの外交誌「フォーリン・アフェアーズ」を動
 かし、反対報道された。
  また、米上院の委員会でも議題となった。
  因みに、このカイロ会談に、蒋介石を出席させたのは
 ルーズベルトであった。
  蒋介石が、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日
 戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった。
  その中国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、
  第一次世界大戦で得た日本の領土の返還させ、また、
 台湾などの返還や、常任理事国入りさせて・・などと持
 ち上げて、寝返りしないようにした。
  大戦中、それまでの蒋介石は、英米からの支援が少な
 いことに不満を持っており、日本に寝返るのではないか
 と噂が絶えなかった。
  しかし、素晴らしい支援が得られるからと夫人同伴で
 カイロ会談に出席した。
  そして、日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束さ
 せられ、
  蒋介石が日本と停戦する事を禁じさせられた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-08-10 15:49 | 皆様とともに 幸せになりたい


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