(増補版)382E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年3月~1883年4月)

題:(増補版)382E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年3月~1883年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年3月22日、国庫出納条例が制定された(4月17日説あり)
  日本の銀行業が成立していく速さは早かった。
  1872年に、国立銀行条例が制定され、
  1876年に、それが改正されると、わずか3年後の1879年
 には、国立銀行の数は153行に達した。
  その後は、おびただしい数の私立銀行・銀行類似会社
 が生まれた。
  1883年には、全国の銀行数は1000行を越えていた。
  銀行資本金も急増を続けた。
  明治期の日本の経済発展は、まず、金融機関、海運、
 鉄道、郵便、電信事業、道路の開発・整備に始まった。
  そして、繊維・鉄鋼などの工業分野に広がって行った。
  この頃までの銀行資金総額に占める民間預金の割合は、
 10%~20%と極めて低率であった。
  資金の大部分は、政府資金と株式によって調達されて
 いた。
  1884年以降は、日本の民間預金のシェアーは急速に増
 大し始めるが・・、
  1873年~1894年の段階において、銀行は、十分な民間
 預金を集めることが出来なかった。
  銀行を通じて資金が、社会へ大きく流れて行くという
 状況は、この次の世代へ行かなければならなかった。
  この様な状況の中で、どのようにして産業資金を供給
 するかであった。
  政府は、維新当時は、主として豪商・豪農に為替方を
 依頼し、
  国庫金の出納を管理させていたが、
  銀行制度を持つに至り、各地の国立銀行や主要な私立
 銀行などに為替方の主体が移って行った。
  その様な中で、政府は、民間が、高い利息で苦しまな
 いで資金が供給されるというシステムを作りたいとした。
  国立も私立も、銀行の政府預金は高い比率にあった。
  (1880年の国立銀行で25%、1876年の私立の大銀行の
 安田銀行で56%だった)
  また、1874年に民間銀行の倒産があり、この時から、
 政府は、官公預金の大蔵省による集中管理方式への切り
 替えを始めていた。
  そして、設立された日銀による国庫金の管理に重点が
 置かれるようになって行く。
  (参考)政府は、1883年4月、日銀に「国庫金取扱方」
 を命じ、
  同年・1883年6月、従来の「大蔵省為替方」は廃止され、
 新たに以下3つが設置された。
  1、国庫取扱所
  国庫に納めるべき金の収納と送納を行う機関。日銀が
 扱う。
  2、現金取扱方
  3、金銭取扱方
  (参考)1882年末、総預金に占める官公預金の比率は、
 国立銀行44.7%、三井銀行44.7%、安田銀行40.8%
1883年3月26日、井上馨外務卿が、日清通商章程満期につき、
 条約改正希望を清国公使に通告した。
1883年4月1日、新聞紙条例を改正した(4月16日説あり)
  発行保証金制度、行政権による発行禁止・停止権、新
 聞紙差押え権などの新設・拡大によって、新聞弾圧の意
 図をますます強くした。
  しかし、新聞界の反対があって、1887年12月28日と1897
 年3月19日の改正などで、行政権による発行停止・頒布の
 禁止・差押え権などは廃止された。
1883年4月9日、秋山好古(あきやまよしふる、陸軍軍人)
 が、陸軍大學校(1期)に入学した。
1883年4月10日、大倉喜八郎らが発起人となり、中華料理店
 「偕楽園」が開業した。
1883年4月11日、文部省が、農学校規則を制定した。
  この時、文部省は、達第五号で農学校通則を定めたが、
  これは、1881年に起きた、農業や商業についての学校
 に対する管轄権について、農商務省との軋轢と行き違い
 があった。
  それは、1881年4月7日に、太政官達第二十五号をもっ
 て布達された農商務省職制に、
  農商工の諸学校に関する管理が・・、
  「官立ノ農商工の諸学校、農工業模範の建造物及ヒ博
 物館ヲ管理シ民立農商工ノ諸学校ヲ監督ス」・・
  ・・と、書かれたことに対し、
  文部省が、教育令の既定を根拠に、その変更を太政官
 に求めた。
1883年4月12日、馬場辰猪、政治講談論議を禁止される。
  馬場辰猪(ばばたつい)は、日本の思想家、政論家、
  急進的で国粋的な人だった。
  江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)に、鉄砲洲
 にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、
 経済学を学んだ。
  そして、その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にてオ
 ランダ人グイド・フルベッキに英語を習い・・、
  明治2年(1869年)、慶應義塾に戻り、のちに教師も務
 めた。
  1883年には、警視総監・樺山資紀から東京での政治演
 説の禁止を申し渡され(6ヶ月間)
  その後は、著作活動に入った。
  1884年の加波山事件に関して、「露国虚無党の利器と
 称する所のダイナマイト」に着目し、
  明治18年(1885年)11月に、横浜・山手のモリソン商
 會で「ダイナマイトは売っているか」と尋ねたため、密
 偵に発見され検挙された。
  爆発物取締罰則違反に問われて、大石正巳と共に逮捕
 された。
  翌年・1886年6月、公判で無罪判決を受けた後、アメリ
 カに亡命して講演を行う。
  アメリカでは、政府批判の講演を行い、駐米公使とし
 てアメリカにいた陸奥宗光を尋ねた。
  しかし、病苦と貧苦に耐え切れず、明治21年(1888年)、
 肺結核と肺炎のためフィラデルフィアのペンシルヴァニ
 ア大学病院で没した(38歳)。
  没後の明治29年(1896年)11月2日に、谷中天王寺で、
 辰猪の没後8周年祭が催された。
  その時、福沢諭吉、尾崎行雄、犬養毅、中江兆民、田
 口卯吉、荘田平五郎、金子堅太郎、渡辺洪基、中上川彦
 次郎、矢野文雄、大石正巳ら140名ほどが参列したという。
1883年4月12日、参謀本部内に、初めて、陸軍大学校が開設
 され、この日に開校された。
1883年4月16日、西洋流の園遊会が、初めて、大隈重信邸内
 に催された(立憲改進党結党1周年祝賀、来賓者110数名)
1883年4月19日、米公使が、下関取極書に基づき償金78万
 5000ドルを井上馨外務卿へ返還した。
  幕府と条約4カ国が横浜で下関戦争の賠償取極めに合
 意した時から、およそ3年2ヶ月も経つ頃、
  アメリカの国務長官・ウィリアム・スーワードから下
 院外交委員長・ナサニエル・バンクスに宛てた、1868年
 1月8日付けの1通の書簡に、以下の様に「相当する理由
 のない日本よりの賠償金」について書かれている。
  下院外交委員会委員長 N・P・バンクス閣下 殿
 拝 啓、
  名誉をもって以下の如くご通知します。
  1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本と
 の取極め書の条項により、
  本政府は、日本政府より、本質的に相当する理由のな
 い、この取極書に述べられる賠償金支払い分としての
 金貨・60万ドルを受領しました。
  この総額は、合衆国登記公債に投資され、議会の処分
 決定を待っています。   敬 具
        ウィリアム・H・スーワード
  この金貨・60万ドルは、「下関戦争」での合計300万ド
 ルの下関戦争賠償金のうち、
  アメリカに支払われるべき78万5千ドル分の半分に相当
 する金額と、その公債の利子も含め、当時アメリカ政府
 の手に渡っていたものだった。
  (日本は、他のアジアの各国と同様に、弱小国家とし
 て、この様なべらぼうな大金を、アメリカ・ヨーロッパ
 の列強各国から課される『圧迫・いじめ』に会っていた)
  通常ならアメリカ政府の歳入として国庫に納入されて
 もおかしくない入金だが、
  その後に、残りの支払い分や長期に渡る公債の利子も
 合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金」とも
 呼ばれ、その処分について民間をも巻き込んだ熾烈なロ
 ビー活動が繰り返され、
  アメリカ議会では15年もかけて、繰り返し、その処分
 方法が論じられ、ようやく
  1883年2月に、日本が、アメリカに支払った全賠償金額
 を日本政府に返還する決定がなされ、そして、4月に返還
 された。
  アメリカ国務省で、登記公債に投資するなどの特別処
 理がなされたのは・・、
  当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バン
 クス委員長宛てに、「本質的に相当する理由がない」 と
 個人的見解を書いた以外、その詳しい経緯を公にしてい
 ない。
  「相当する理由がない」、つまり、受け取る理由のな
 い賠償金なら、
  または、取り過ぎた賠償金なら、アメリカが、何故、
 こんな賠償要求をしたのか?
  日本の歴史学者は、米国内の世論は 「取りすぎだ」と
 の気運が強く、スーワード国務長官は、その世論に配慮
 して登記公債に入れたと考えられる・・と。
  しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が、横浜で4ヶ
 国と下関賠償取極書を取り交わした1864年9月22日頃や、
  この翌年・1865年、ニューヨーク・デイリー・トリビ
 ューン紙に、フランシス・ホールの下関賠償記事が 「日
 本からの興味ある情報」と題して載った1865年2月15日頃
 のアメリカは、まだ南北戦争の最中だった。
  そして、この記事から2月後の4月14日には、リンカー
 ン大統領が、観劇中に暗殺され、
  同時に、スーワード国務長官自身の命も狙われ、大怪
 我をしていた。
  また、デービス南部連合大統領が、1865年5月5日に、
 南部連合国の閉国を決め、南北戦争は完全に終結したと
 はいいながら、
  実際に、アメリカ政府が、日本からの入金を受領し始
 めた1866年8月頃までは、まだ、テキサス州の各地に小競
 り合いは残っていた。
  そんな長期の内戦や大統領暗殺という大事件があった
 当時のアメリカ世論に、このアジアの片隅の下関賠償金
 に関し 「取りすぎだ」という、そんな気運が発生したり、
  スーワードが、その世論を考慮したりする必要や余裕
 があったのか?
  また、スーワードが、このバンクス宛の書簡を書いた
 約1年前の1867年3月末には、スーワード国務長官が、主
 導し、アメリカ合衆国が、720万ドルで、ロシア帝国領の
 アラスカ購入に調印していた。
  これに対し、多数の共和党議員から「スーワードの愚
 行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などと強い非
 難と反対意見も出されていた。
  結局、アラスカは購入されるけれども・・、
  この様に、永い間外交をしてきた「つわもの」のスー
 ワードが、そんなに簡単に世論に迎合して、日本賠償金
 基金を造のか?
  そして、民間からの基金獲得ロビー活動を含め、全額
 返還に至るのか?
  当時の300万ドルは、途方も無い大金であった。
  当時のドル・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算
 すると、225万両の大金となる。
  下関戦争の前年の1863年の徳川幕府「貨幣方歳出」と
 いう現金歳出は、金換算で705万7千両だという額になる。
  これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、
 1石を2両1分で金換算した148万5千両を合計すると、
  総歳出額は、854万2千両になる。
  つまり、この賠償金額300万ドルという225万両という
 額は、現金支出と現物支給の米を合わせた当時の総歳出
 額の26%強となる。
  1863年の幕府の年間歳出額の4分の1強という、大変高
 額な賠償金額だったという事が分かる。
  因みに、この賠償交渉をした2年前の1862年8月29日に、
 当時の幕府が、蒸気軍艦を購入しようと、幕閣の板倉勝
 静(かつきよ)が、アメリカ公使・プルーインと会談し、
  その時のやり取りの中で、プルーインは、アメリカで
 最新造船軍艦の例として、船の長さが20間~25間の約1000
 トン級の蒸気軍艦で、16万ドル、
  長さが35間の約1500トン級で、大馬力のエンジンを搭
 載して30万ドル位の値段だとしている。
  これから、300万ドルという賠償金額は、35間・1500ト
 ン級の蒸気軍艦が一度に10隻も購入できる。
  更に、1863年5月9日に、幕府が生麦事件で、イギリス
 に支払った賠償金が、44万ドル、
  その後の薩英戦争で、薩摩藩がイギリスに払った10万
 ドルと比べれば、この300万ドルが非常な高額なことが分
 かる。
  幕府は、この莫大な現金を簡単に支払えないので、交
 渉に当たった若年寄・酒井忠眦は、3ヶ月ごとに6分割し
 た50万ドルの支払いを約束した。
  アメリカの国務長官・スーワードの指示で 「他国との
 協調外交」 に方針転換していたアメリカのプルーイン公
 使が、イギリスの武力外交戦略を協調的に支持し、フラ
 ンスもオランダも支持した・・そして、行なわれた日本
 への武力行使の結果がこれだった。
  外国列強の侮辱を晴らすという行為の結果だった。
  被害も受けていないイギリス主導の武力外交を共同し
 てやったという結果がこれだった。
  そして、下関戦争に完敗した長州に代わり幕府が、日
 本政府としての管理責任を取ったのだった。
  返還要求した明治政府の勝利だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-07-17 04:07 | 皆様とともに 幸せになりたい


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