(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
[PR]
by suba28 | 2016-06-16 16:52 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


by suba28

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
悲惨な戦争を無くしたい
悲惨な戦争を無くせないので
皆様とともに 幸せになりたい
未分類

以前の記事

2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月

フォロー中のブログ

最新のコメント

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

(増補版)568E2/3:1..
at 2017-12-12 04:34
(増補版)567E2/3:1..
at 2017-12-01 06:18
(増補版)566E2/3:1..
at 2017-11-22 06:21
(増補版)565E2/3:1..
at 2017-11-17 06:01
(増補版)564E2/3:1..
at 2017-11-10 07:43

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31