(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)

題:(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年4月5日、大日本農会が、東京に創立された。
  公益社団法人大日本農会(だいにほんのうかい)は、
 元農林水産省生産局所管の公益社団法人。
  主な目的は、農業の発展・農村振興など
1881年4月7日、農商務省が設置された。
  農林、商工行政を司る中央官庁の農商務省を置き、農
 林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を担当
 した。
  明治政府は、日本の産業の資本主義的発展を達成する
 ために、殖産興業政策を、その課題として掲げた。
  そして、農・商・工の各分野で、行政指導を懇切丁寧
 に進めて行った。
  欧米の機械制工場制度の移植や、鉄道・電信の導入な
 どを促進した。所管する役所は工部省(1870設立)、
  そして、農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代になると、めまぐるしく
 機構の改廃が行われた。
  また、その統合を重ねるという過程で、相互に補完し
 あいながら、資本主義育成策の重要な部分をなして来た。
  ただ、これまでの産業行政や殖産興業政策は、内務省・
 工部省・大蔵省などに分散していたことが、官業政策の
 限界と、殖産興業経費の過重が明らかとなって来た。
  そのために、政策の転換と、産業行政の一元化を図る
 ため、1880年に、工場払下概則を発令し、この年・1881
 年に、農商務省を設け、統合した。
  外務卿・河野敏鎌(こうのとがま)を農商務卿に任命
 した。
  因みに、この農商務省は、1925年に、農林省と商工省
 に分け、分離して、発展解消された。
  現在の農林水産省と通商産業省の前身。
1881年4月8日、三省堂書店(さんせいどうしょてん)が創
 業した。
  この日、亀井忠一・万喜子の母子が古書店として創業
 した。
  日本初の「日本百科大辞典」などを刊行した。
  三省堂書店は、書店ゼロの留萌に進出した。
  これは、「子供に必要」と地元の訴えに応えたもので、
 日本経済新聞が、2011年7月22日に報じた。
1881年4月25日、陸前・福島の大火(約1780戸焼失)
1881年4月26日、初めて、天皇陛下の主催で、吹上御苑で観
 桜御会が開かれた。
  皇族、大臣、参議、各国公使、来日中のシャム王族な
 どが招かれた。
  これは、不公正条約の条約改正を促進させる意図のも
 とに開かれた。
1881年4月、東京に、12か所の憲兵屯所が新設された。
  1881年3月には、フランスの憲兵制度を模範にして、憲
 兵条例が制定され、
  その第一条に、憲兵の役割を「陸軍大臣ノ管掌ニ属シ
 主トシテ軍事警察ヲ掌(つかさど)リ兼テ行政警察司法警
 察ヲ掌ル」と規定した。
1881年4月、自由・民権などを凧に託して凧揚げ大会が開か
 れた。
1881年5月4日、小学校教訓則領(しょうがっこうきょうそ
 くこうりょう)が定められ、初等・中等・高等に区分し
 た。
  初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年。
1881年5月8日、鶴見~横浜間が複線化した(5月7日説あり)
  鶴見~横浜間の鉄道の複線化工事が完成して、新橋~
 横浜間が複線運転になった。
  単線が複線化して、ますます鉄道ダイヤが密となり、
 使いやすくなり、だから人々も利用するという好循環で
 日本の鉄道は、急速に敷設距離数が伸びて行く。
  そして、今、鉄道技術は、日本の得意の技術・お家芸
 となっている。
1881年5月31日、勤王家・蒲生君平(がもうくんぺい、学者)
 に正四位を追贈。
1881年5月、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が、関西
 貿易会社を設立した(1835年~1885年)
  薩摩藩出身、長崎の海軍伝習所で航海や砲術を学び、
 勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・佐野常民・高杉晋作らと
 交遊し、また、トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、
 開明的知識を得た。
  1859年(24歳)の時、水夫として上海に行きドイツ汽
 船を購入した。
  1863年(28歳)の時、薩英戦争が起こると、寺島宗則
 と共に、イギリス艦隊と交渉し、戦い、捕虜となり、横
 浜に拉致された。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(30歳)の時に、薩摩藩留学生の引率者として
 ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・フランス)を視察し、
 紡績機械や武器を購入、また、貿易商社設立契約や、万
 国博への出品委託を行なった。
  渡欧中、薩摩藩主へ富国強兵に関する18カ条の建言書
 を送った。
  1866年(31歳)に帰国して後、御用人席外国掛に任ぜ
 られ、外国貿易や鹿児島紡績所の建設・長崎小菅修船場
 の建設・薩長合弁商社設立の計画を行うなど、薩摩藩の
 殖産興業政策を推進した。
  そして、藩の開明派の指導者となり、藩の貿易発展に
 活躍した。
  明治維新後に、外国事務掛、外国官権判事、大阪府判
 事を歴任、大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の
 建設にかかわるとともに、通商・為替会社設立などを契
 機に大阪経済界とも接触した。
  そして、1869年(34歳)の時、その官僚や外交官を経
 て、実業界・実業家(政商)へ転じた。
  大阪株取引所(現:大阪取引所)や大阪商工会議所(
 1878年)の創設などに力を注ぎ、
  また、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立し、事業を
 おこすことにも尽力した。
  その主なものは、金銀分析所、弘成館(鉱山経営)、朝
 陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社、阪堺鉄道、
 大阪商船、神戸桟橋会社、堂島米会所、大阪株式取引所、
 大阪商法会議所(現在の商工会議所)、大阪商業講習所(大
 阪市立大学の前身)など。
1881年6月18日、小学校教員心得を制定(6月17日説あり)
  「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育
 ノ弛張ハ国家ノ降盛ニ係ル其任タル重且大ナリト謂フヘ
 シ今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲ
 シテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ何ニ由テカ尊
 王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシ
 テ富厚ナラシメ以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ
 小学教員タル者宜ク深ク此意ヲ体スヘキナリ因テ其恪守
 実践スヘキ要款ヲ左ニ掲示ス苟モ小学教員ノ職ニ在ル者
 夙夜黽勉服膺シテ忽忘スルコト勿レ」
  尚、約1ヶ月前の1881年5月4日には、「小學校教則綱
 領(しょうがっこうきょうそくこうりょう)」(明治14
 年文部省達第12号)が出されている。
  第一条:小学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第二条:小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩
     及唱歌、体操トス
      但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
  第三条:小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、
     算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続ニ地理、歴史、図
     画、博物、物理ノ初歩ヲ加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ
     裁縫等ヲ設クルモノトス
  第四条:小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、
     算術、地理、図画、博物ノ初歩及唱歌、体操、
     裁縫等ノ続ニ化学、生理、幾何、経済ノ初歩ヲ
     加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ経済等ニ換ヘ家事経済ノ
     大意ヲ加フルモノトス
1881年6月、「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け「海員寄宿所」を開設した。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  また、高等海員養成所を併設し、高等海員の養成に着
 手する。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所
 を設け、主要な港に配置し終える。
  1886年(明治19年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
1881年7月2日、パストゥール予防注射に成功。
  フランスの化学者で細菌学者のパスツールは、1880年、
 狂犬病の研究を開始し、
  1881年に、弱毒性変異炭疽菌株によるヒツジの免疫実
 験の成功を発表した。
  続いて、プュイ・ル・フォルにおいて炭疽免疫公開実
 験を行って、完全に成功し、
  同年・1881年、ニワトリコレラと炭疽のすべての成績
 をロンドンの国際医学会で発表した。
1881年7月6日、天皇陛下へ、岩倉具視が、憲法制定意見を
 上奏した。
  岩倉具視の憲法構想とは・・、
  憲法について岩倉具視が、上奏した意見書を、箇条書
 きで記したもので、起草者は、井上毅と言われている。
  (1)欽定憲法(きんていけんぽう、君主によって制定
 された憲法。大日本帝国憲法など)たること、
  (2)漸進主義をとること、
  (3)プロシアをモデルとすること、
  (4)内閣組織は議院と距離を保つこと、
  (5)二院制の採用、
  (6)選挙のあり方(制限選挙)など、
  その内容の大半が、明治憲法に採り入れらた。
  そして、この時・1881年、これを基にした「大綱領」
 が天皇陛下に上奏された。
1881年7月9日、明治生命が開業した。
  福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより、東京・木挽町に、
 有限明治生命保険会社が創業した(日本最初の生命保険
 会社)。
  設立は7月8日。三菱財閥系。
1881年7月、北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計
 台)が、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化し
 て日本初の時計台を設置した。
  「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を
 米・ハワード時計会社に注文したが、到着した機械が、
 予想以上に大きかったため、
  玄関正面部と、鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して設
 置した。改修費は1329円。
  8月12日に、初めて4km四方に鐘を響かせて時を告げた。  
  この演武場は、1878年に建築されていた。
  尚、これは、開拓長官の黒田清隆の発案による。
1881年7月21日、黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払下げ
 計画を太政大臣に申請した。
1881年7月29日、「中學校教則大綱」(文部省達第二十八号)
 が公布された。
  第一条:中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中
    人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ル
    カ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス
  第二条:中学科ヲ分テ初等高等ノ二等トス
  第三条:初等中学科ハ修身、和漢文、英語、算術、代
    数、幾何、地理、歴史、生物、動物、植物、物理、
    化学、経済、記簿、習字、図画及唱歌、体操トス
    第四条 高等中学科ハ初等中学科ノ修身、和漢文、
    英語、記簿、図画及唱歌、体操ノ続ニ三角法、金
    石、本邦法令ヲ加へ又更ニ物理、化学ヲ授クルモ
    ノトス
  第五条:中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科
    ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理
    科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコ
    トヲ得
  第六条:普通文科ハ高等中学科中ノ三角法、金石、物
    理、化学、図画等ノ其科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減シ
    修身、和漢文、英語、本邦法令等某科ノ程度ヲ増
    シ又歴史、経済、論理、心理等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第七条:普通理科ハ高等中等科中ノ和漢文、英語、本
    邦法令等ノ某科ヲ除キ又ハ其程度ヲ減シ金石、物
    理、化学、図画等某科ノ程度ヲ増シ又ハ代数、幾
    何、測量、地質、重学、天文等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第八条:初等中学科卒業ノ者ハ高等中学科ハ勿論普通
    文科、普通理科其他師範学科、諸専門ノ学科等ヲ
    修ムルヲ得ヘシ
  第九条:高等中学科卒業ノ者ハ大学科、高等専門学科
    等ヲ修ムルヲ得ヘシ
     但大学科ヲ修メソトスル者ハ当分ノ内尚必須ノ
    外国語学ヲ修メソコトヲ要ス
1881年7月29日、北海道官有物を、関西貿易商会に払下げ決
 定した。
  しかし、世論の反対で10月12日に中止に至る。
  7月21日に、北海道開拓使官有諸施設払下げ問題が起こ
 り、
  民権派は、激しく政府を攻撃した。
  これに対して政府は、10月12日、10年後に国会を開設
 するという詔書を出すとともに、大隈参議を罷免した。
  民権派は、10月29日自由党を結成した。
1881年7月30日、明治天皇陛下が、東北、北海道巡幸御発輦
1881年8月1日、開拓使官有物払下げ事件が起こる。
  黒田清隆が、官有物を格安で払い下げた。
1881年8月2日、「学生」の称の始り
  東京大学本科生が学生と呼ばれるようになる。
1881年8月19日「師範学校教則大綱」(文部省達第二十九号)
 が公布された。
  第一条:師範学校ハ小学校教員タルニ必須ノ学科ヲ授
    クル所トス
  第二条 師範学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第三条 初等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、物理、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、
    体操トス
     但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ以
    下之ニ傚フ
  第四条 中等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾何、
    記簿、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、体操
    トス
  第五条 高等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾可、
    代数、経済、記簿、本邦法令、心理、教育学学校
    管理法、実地授業及唱歌、体操トス
  第六条 師範学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ某学科ノ
    程度ヲ斟酌シ農業、工業、商業等ヲ加フルヲ得殊
    ニ女子ノ為ニハ本邦法令、経済等ヲ除キ若クハ某
    学科ノ程度ヲ斟酌シテ裁縫、家事経済等ヲ加フヘ
    シ
  第七条 高等師範学科卒業ノ者ハ小学各等科ノ教員タ
    ルヲ得ヘク中等師範学科卒業ノ者ハ小学中等科及
    初等科ノ教員タルヲ得ヘク初等師範学科卒業ノ者
    ハ小学初等科ノ教員タルヲ得ヘキモノトス
  第八条 師範学科ヲ修メントスル生徒ハ品行端正、体
    質強健、年齢十七年以上ニシテ小学中等科卒業以
    上ノ学力アル者タルヘシ
     但年齢ハ土地ノ情況ニ因リ十五年以上トスルモ
    妨ケナシ又初等中等学科卒業ノ者ハ高等師範学科
    第四年級ニ入ルコトヲ得
  第九条 師範学校ノ修業年限ハ初等師範学科ヲ一箇年
    トシ中等師範学科ヲ二箇年半トシ高等師範学科ヲ
    四箇年トス
1881年8月20日、勅を奉じて編纂せる元田永孚(もとだなが
 ざね、漢学者)の修身教科書「幼学綱要(ようがくこう
 よう、幼童のための欽定教訓書)」刻本(こくほん、印
 刷した本)完成する。
1881年9月、横浜に、連合生糸荷預所(れんごうきいとにあ
 ずかりしょ)が設置された。
  生糸取引方法の改革を主張する「生糸売込問屋」らと、
  それを阻止しようとする「外国商館」との間で紛争が
 生じた。
  茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作らの横浜生糸売込問
 屋は、従来、外国商館が現物を引き込んで検査、計量を
 行っていた取引は、弊害が多いと批判した。
  そして、検査・計量を、連合生糸荷預所で行う見本品
 取引に改めた。
  また、同所を通じて輸出生糸流通を独占的に掌握しよ
 うとした。
  外国商館は、一致して取引を拒否しつつ、対抗した。
  9月下旬~11月中旬まで、約2ヵ月にわたり外国商館へ
 の生糸売込みは途絶した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-06-15 03:33 | 皆様とともに 幸せになりたい


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