(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)

題:(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年10月1日、日本最初の鉄道死亡事故
  東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
  東海道線・住吉駅~西ノ宮駅(現:西宮駅)間で上り
 旅客列車と、下り回送列車が正面衝突した。
  上下列車は、本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、
 上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列
 車の機関方(機関士)が、臨時列車の到着後、旅客列車
 を待たずに発車したのが事故の原因。
  上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
1877年10月4日、山田顕義少将、野津鎮雄少将、大山巌少将
 らが、東京に凱旋した。
1877年10月10日 征討総督・有栖川宮熾仁親王、参軍・川村
 純義、伊藤祐磨少将らが、東京に凱旋した。
  同日、書を岩村県令に贈り、戦後、大いに窮迫せる士
 族に授産の途を講ぜしむ。
1877年10月10日、長崎県令の北島秀朝(きたじまひでとも)
 が、長崎市内にコレラが流行し、制止されたが避病院(
 ひびょういん、伝染病専門病院)に、コレラ患者を見舞・
 慰問し、本人もコレラに感染し、在職中に死亡した、享
 年36歳。
1877年10月12日、『東京毎夕新聞(とうきょうまいゆうし
 んぶん)』が創刊した(夕刊紙の始まり)
1877年10月17日、学習院が開校した。
  私立の華族学校開業式、天皇・皇后の両陛下が親臨(
 しんりん、天子や貴人が、その場所にみずから出向くこ
 と)、勅諭・令旨を賜わる。
  あらためて「学習院」の勅額を下賜される(神田錦町)
  学習院開校(氷川清話)
  1884年(明治17年)4月、宮内省所轄の官立学校となる。
  初代院長は、旧三池藩第8代藩主で子爵の立花種恭。
  華族の子弟教育を目的とし華族会館が経営。
1877年10月26日、車駕(天子)、上野公園に幸し、内国勧
 業博覧会に臨まれる。
 (注)車駕(しゃが)天子が行幸の際に乗られるくるま。
1877年10月、新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせき
 じょ)が開業した。 
  新町屑糸紡績所は、明治新政府によって群馬県新町(
 現・高崎市)に設立された官営模範工場で、内務卿・木
 戸孝允(たかよし)の設立伺(うかがい)などを経て、この
 年に開業した。
  1887年に、三井に払い下げられ新町三越紡績所となり、
 新町は、昭和初期まで製糸業の町として発展した。
  また、紡績所は、1911年に、鐘淵紡績新町工場となり、
 近年まで生糸をつくっていた。
1877年11月2日、科学博物館ができた。
  1872年に、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源
 をもち、
  創立は、1877年に、教育博物館が設置されたときとし
 ているが、その後、高等師範学校の附属となり、
  博物館としては、活動が停滞していた時期もある。
  大正時代に、科学博物館設立の機運が高まったことを
 受けて、1930年に、上野公園内に新館(現在、日本館と
 呼ばれている建物)が建てられ、
  その翌年・1931年には、東京科学博物館と改称され、
 東京市の施設となった。
  そして、1949年に、国に移管され、現在の国立科学博
 物館となった。
1877年11月20日、京都~大阪間の鉄道貨物運輸が開始され
 た(12月1日説あり)。
  因みに、1873年(明治6年)9月15日に、新橋~横浜間
 の貨物営業、および、小荷物の受託を開始した(取扱駅
 は新橋・横浜)
  また、1874年(明治7年)12月1日に、大阪~神戸間の
 貨物営業が開始された。
1877年12月6日、京都仙洞御所にて、軽気球を上げる。
 (かなよみ11・22/大阪日報12・8、明治11年1・6)
  「来月六日には西京旧仙洞御所内にて大小二ツの軽気
 球が登るに付て、是を見るは通券(きつて)一枚三銭宛
 で、西京新聞の配達人が持てゐるから夫を買て中へ這入
 ので、外に売捌處も何も御座なくと、該社の新聞に見え
 ましたから、同府の看客(おきやく)さまへお取次」(
 かなよみ)
 「一昨六日の西京招魂祭の時、仙洞御所に気毬の飛び上
 るを見ん為めに、各校の生徒が教師を隊長とし美々敷扮
 立(いでたち)、幟を押立て、続々と進みしは、肥境に
 出でし薩軍の景況なり」(大阪日報12・8)
  「(前略)昨十二月の招魂際に西京の旧仙洞御所の御
 庭に揚がるは、西京軽気球会社にて製する物を飛すは、
 観客都を傾け、切符の売れ高四万枚なりとぞ。
  然れば京童のみならず大津、伏見、淀、鳥羽、桂、嵯
 峨や小室の人々、丹波、丹後の山奥からも出て来たに相
 違なし。(後略)」(大阪日報・明治11年1・6)
 〈編者註〉この京都仙洞御所の軽気球は、京都府知事槇
 村正直の肝煎りで、学務課の原田千之助が立案し、島津
 源蔵と三崎吉兵衛が制作したもので、いわば初めての民
 間飛行、初めて木戸銭をとって見せた軽気球である。
 (山崎)寅吉が搭乗した気球は見事に飛揚し、入場料一
 人三銭(生徒半額)の切符が48,800枚売れ、売上高1,000
 円余を計上したという(『気球の歴史』)。
  大成功といっていい。
  早速この軽気球を買いに来た者があり、翌年正月、大
 阪城外の馬場にての興行が決定した。
1877年12月6日、蓄音機が発明された。
  トーマス・エジソンが、蓄音機の試作品によって、
 "Mary had a little lam..." (メリーさんの羊)と録音
 し、その再生に成功した。
1877年12月12日、「清輝艦」(国産の軍艦)が発航(はっ
 こう、船舶が港を出発して航海に出ること)した。
  日本艦船として初めてのヨーロッパへ遠征だった。
1877年12月19日、東京大学、第一回卒業証書授与式
  東京大学の第1回卒業式は、この日に行われたが、この
 時、卒業証書を授与された理学部化学科の3名は、すでに、
 同年・1877年7月に、卒業していた。
  しかし、「卒業式の方法等に関し議論ありし結果」数
 ヶ月を経てからの式となった。
  「午後一時に文部大輔綜理同補其ほかハ高座に着れ卒
 業生徒ハ高座の下に並び雇教師教授其ほかとも着席が定
 まると」、
  濱尾大学総理補が学事報告を行い、加藤大学総理が証
 書を授与した。
  「加藤総理,中村正直学監モルレー交々起ちて演述す
 るところありて」2時間ほどで式を終えた。
  その後、祝宴が開かれた。
  (讀賣新聞,1877.12.20、および、『東京帝国大学 五
 十年史』上冊,1932,pp.484-486)。
  濱尾総理補の報告は、「学校創立以来今日まで沿革の
 大略」であり、
  この学事報告と証書授与、加えて学内の要職にある者
 や来賓の演述という三つの要素からなるのが、
  初期卒業式の最も簡潔な手順であった。
  最初の卒業式において、総代以外の卒業生は、証書を
 受け取り、話を拝聴するのみの受動的な立場だったが、
  1878年(明治11年)3月29日の医学部第1回卒業式では、
 池田総理の奨励の辞に対し卒業生総代が答辞を述べ、
  さらに、製薬学本科卒業生9名全員が各自の研究につい
 て演述を行った。
  『東京 帝国大学五十年史』上冊,1932,pp.488-489
1877年12月21日、電話の開通の最初
  東京工部省電信局より宮内省間に、2回線の電話線を架
 設し、通話を始め、開通した(実用電話最初の記録)
  当時、伝話機と呼んだ。
  工部省は、民部省に所属していた灯台・電信・その他
 の部局と、民部省に付置されていた修技校を引き継いだ。
  そして、当時の工業の殆どすべての部門を管理するこ
 とになった。
  そして、工部省のやり方は、そっくりそのまま西洋の
 やり方を模倣するというやり方だった。
  そうして、一挙に西洋の技術を日本に移そうとした、
 また、西洋式の工業を、日本に興そうとした。
  工部省の事業はしだいに拡張された。
  そして、1875年~1876年頃に、その最盛期を迎えた。
  それ故に、電話の場合も、この様なやり方だった。
1877年12月25日、刑法草案審査局を設けた(伊藤博文を総
 裁とした)
  日本は、総てにおいて、着々を体制を整えて行った。
  この刑法における努力も頭が下がる行為だった。
  この様な先人の蓄積・努力によって今の日本がある。
  1875年(明治8年)9月に、司法省に刑法草案取調掛が
 設置された。
  これによって刑法の編纂が始まった。
  先ず、総則部分が編纂され、「日本帝国刑法初案」(
 第Ⅰ編82条)として、1876年(明治9年)4月に、司法省
 から正院に上呈された。
  それはさらに、「改正刑法名例案」として、元老院に
 送 られたが、不完全であるという理由で、審議を経ずに
 返された。
  そこで、司法省では、1876年(明治9年)5月、新たに
 ボワソナード起草の草案を原案として編纂作業を開始し
 た。
  この作業は、1877年(明治10年)11月に終了し、編纂
 委員から司法卿・大木喬任に「日本刑法草 案」(Ⅳ編
 478条)として提出された。
  そして、さらに、司法省から太政官に上呈された。
  太政官では、1877年(明治10年)12月に、刑法草案審
 査局を設置した。
  そして、そこで司法省草案の審査作業が開始された。
  審査局の審査は、1879年(明治12年)6月に終了した。
  そして、「刑法審査修正案」(Ⅳ 編430条)として、
 太政大臣に上申された。
  翌・1880年(明治13年)3月、「刑法審査修正案」は、
 元老院に送られた。
  そして、同年・1880年4月16日に、審議を終了して、
 翌日これを上奏した。
  「元老院修正案」は、内閣で承認された。
  そして、1880年(明治13年)7月17日に、太政官布告
 第36号刑法(4編430条)として公布された。
  そして、1882年(明治15年)1月1日から施行された。
  西洋流の近代的な内容だった。
1877年12月25日、地方長官に国産愛用を諭告
1877年12月26日、西南戦争の凱旋巡査、東京に整列式
  吹上御庭にて先頃凱旋になりし警視隊の整列式を天覧
 在せられ、石井権中警視その他三間、田辺の両少警視も
 出張せられ・・、
1877年12月26日、勝海舟、帰朝す(氷川清話)
1877年12月27日、新紙幣2700万円を発行し、西南戦争の戦
 債を補う。
  大蔵卿としての大隈は、殖産興業政策を主唱する大久
 保と意見を同じくしていたが、
  同時に、財政支出のむだ(官庁建築の制限、剰余金の
 「回産復生」資本への流用、官庁の輸入品使用制限、秩
 禄処分)を省き、かつ不換紙幣を銷却し、準備金を充実
 することを提唱していた。
  大隈といえども、財政の均衡や紙幣整理の必要を重視
 していなかったのではなく、経済発展と財政均衡・紙幣
 整理を両立せしめようとする企図が強かった。
  以後の財政政策史上にくりかえしあらわれるこの発想
 を積極主義と言うのならば、大隈はその創始者である。
  ともあれ、1876年(明治9年)、韓国との緊張が緩和し
 たのを機として、政府は最終的な秩禄処分を行い、懸案
 の一つを解決した。
  それは、殖産興業政策に本格的に乗り出すためにも、
 不可欠な処置だった。
  しかし、このためには巨額の金禄公債の発行が避けら
 れなく、
  1890年(明治23年)までの同公債の発行額が1億7,385
 万円に達した。
  その価格が暴落するのは目に見えていた。
  その対策として考えられたのが、国立銀行条例を改正
 して、同公債を資本金として国立銀行を成立させ、
  正貨兌換をあきらめて、金融の疏通をはかり、士族の
 生業の道をひらくことだった。
  公債を抵当に国立銀行券の交付をうけて営業を行わせ、
 準備率も資本金の2割でよいとした。
  これ以後、国立銀行設立が急に盛んになり、1879年(
 明治12年)までに、既設4行を含めて153行が設立の許可
 をうけた。
  その仲に、旧大名華族の資本を集めた最大の第十五国
 立銀行(資本金1,783万円)もあった。
  同行は、はじめ、鉄道建設資金の供給を意図していた
 が、1877年(明治10年)の西南戦争勃発に際し、設立を
 いそぎ、政府に戦費1,500万円を年利5分、期限20年で貸
 付けた。
  国立銀行全体の活動も活発で、その銀行券発行高は、
 1880年(明治13年)の年末には3,443万円と、許可限度一
 杯に達した。
  それは、西南戦費調達のために、好都合であったとは
 いえ、重大な通貨増発を惹きおこすことになった。
  1871年(明治4年)以降、各年末の現金通貨ストック量
 を見ると、1873年(明治6年)以降、発行を抑制されてき
 た現金通貨が、この年と翌年に一挙に増発された。
  この増発は、もちろん西南戦争の戦費調達のためであ
 った。
  政府紙幣も、この1年間に2,700万円の予備紙幣を発行
 し、
  戦費総額の4,157万円の大部分は、傭給費、運送費、
 旅費等であって、
  物件費は、軍器費、粮食費等で、全体の2割程度にすぎ
 なかった。
  したがって、軍需のために物資の需給が急に逼迫して
 物価が上昇することはなかったが、関係者の所得増加が
 生じ、やがて社会的需要の増大をもたらしたと考えられ
 る。
  西南戦争後のインフレーションが、1880年~1881年を
 ピークに激化した理由はこの点にあった。
1877年12月、東京株式取引所設立の許可。
1877年12月、勝海舟、「亡友帖」成る。翌年出版す(氷川
 清話)
1877年、朝鮮の人口が減少
  逆に言えば、日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的
 に増加した。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は、自著
 で以下の様に記す・・、
  「日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的に増加した。
  例えば、韓国の教師用国定歴史(国史)教科書による
 と、1777年、総人口は1804万人であったが、100年後の
 1877年には、1689万人で6.8%減少した。
  さらに、1910年には、1313万人となった。
  そして、日韓併合され、それが、32年後の1942年の人
 口は2553万人で倍近くに大きく増加している。
  この事は、李朝518年の統治が如何にひどいものであっ
 たかを如実に証明している。
  日韓併合によって、韓民族が享受(きょうじゅ、気持
 ちよく楽しいこと)した社会の改善点を上げると、主な
 所で以下の様になる。
  1)両班・常民・賤民などの階級制で、少数の支配者
   が住民の大部分を服従させる悪弊が払拭(ふっしょ
   く、好ましくない者を払い除くこと)された。
  2)法治制度の下に公正な裁判が行なわれるようにな
   り、賄賂(わいろ)の慣習が一掃された。
  3)私有財産制度の確立・処分・移動・職業選択と居
   住の自由と経済秩序の確立。
  4)鉄道・道路・橋梁などの交通機関の整備により、
   経済が活性化し、李朝での飢餓問題も解決された。
  5)教育が普及し、医療制度も近代化して予防制度が
   確立した。
  文教部発行の国定歴史(国史)教科書の日本に対する
 記述には、
  「彼らの国家利益を増やすために、朝鮮を開発し、日
 帝の侵略政策で、民族の経済活動は大幅に委縮し、民族
 産業も、その発展が抑えられ、沈滞せざるを得なくなっ
 た」と、まったくでたらめな記述をしている。
  この様な教え方では、卑屈な考え方を青少年に植え付
 けるに過ぎない。
  我々は、併合時代以前の歴史を顧(かえり)み、日本
 によって他力本願でありながら、近代的産業開発を学び、
 教育によって経済活動にも先進することが出来たのであ
 る。
  一方的に享受する側であるから、初めのうちは屈辱感
 があっても当然だが、日本の援助を受け入れ、誠意を尽
 くして実力を養えば、日本と同等、または、日本以上に
 も発展する事も可能であった。
  今日の韓国と台湾は、日本によって育成された史実を
 認めるべきである。
  台湾の李登輝前総裁は、日本時代にこそ、今日の台湾
 の経済発展の基礎が培(つちか)われたと言い切ってい
 る。
  その姿勢から、韓国・朝鮮の指導者たちは素直に学ぶ
 べきである」と。
  そして、また、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)
 教授は書く・・、
  「19世紀末から20世紀にかけて、世界史上、最も驚異
 的な現象がアジアの極東において、新しい光として輝き
 出した。
  それは、極東の小さな島国と考えられた日本が、旭日
 昇天の発展を示した事である。
  中国(朝鮮も)が斜陽に傾く中、明治維新後の日本は、
 当時の世界の強国・眠れる獅子「清」と戦って勝ち、
  その10年後には、三国干渉以来の仇敵(きゅうてき)
 でもあった「帝政ロシア」と日露戦争を戦い、これを勝
 利に導いた。
  600余年前、自主独立の国であった高麗は、明に戦争で
 勝つ成算と、民族の故地である東北部(旧満州)を取り
 戻す見込みがあったにもかかわらず、李成桂の裏切りに
 よって敵国であった明に臣従し、その属国に成り下がっ
 た。
  そうして建国された李氏朝鮮は、スタートから血で血
 を洗う骨肉の争いと、つまらない権力維持のために、百
 姓の生殺与奪をほしいままにし、
  明の腐敗した儒教を国教とし、住民を四階級に区分し
 た。
  既存の産業を潰(つぶ)し、インフラ整備を完全に遮
 断させたまま、百姓を生屍(いきかばね、民草)に取り
 扱ったために、開化と近代化を志向した志士たちは容赦
 なく処断された。
  悪辣(あくらつ)極まりない李朝の統治下で500年を経
 過した朝鮮に隣接し、この生屍に等しい百姓を再生させ
 たのが、日本であり、日韓併合であった事は歴史が証明
 している。
  だが終戦とともに、北朝鮮では金日成集団が中心とな
 って、再び以前の李朝のコピーと成り下がり、数千万の
 百姓を餓死か、それ寸前の境遇に落として、いじめ尽く
 し、自由と財産を強奪する圧政を続けている。
  北朝鮮の暴力集団を、同胞だとか、まともな国家と見
 なすとは、非常識も甚だしい。
  国連による制裁もない今日、北朝鮮住民の明日への希
 望はまったく見えない。
  国家には、領土・人民・主権の三要素と、国民の生命・
 財産を守る任務があるとされるが、李朝518年間と20世紀
 の北朝鮮では、まったく顧(かえりみ)られていない。
  スターリンによって送り込まれた金日成が北朝鮮で、
 まず着手したのが、日韓合邦時代の北朝鮮住民の生命と
 財産の掠奪(りゃくだつ)であった。
  そして繰り返し、「革命」を合唱した。
  「革命」とは、実力のある有為の人達を殺す事であっ
 た。
  そうして1000万の離散家族を発生させ、数百万人を虐
 殺し、餓死させた」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-05-08 02:57 | 皆様とともに 幸せになりたい


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