(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)

題:(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年2月15日、西南戦争始まる(西郷隆盛が挙兵)
  この日は、60年ぶりと言われる大雪だった。
  この大雪の中、薩軍の一番大隊が、鹿児島から熊本方
 面へ向け先発した。
  以後、順次、大隊が出発した。
  2月17日に、西郷隆盛らは、兵1万5,000人を率いて、政
 府尋問と称し熊本へ向かい、東上した。
  これを見送りに行った桂久武は、装備を心配したとい
 う。
  そのため、西郷への友情と責務から、急遽、従軍した
 という。
  熊本鎮台を目指して鹿児島を発った隊には、九州各地
 の不平士族も合流し、総勢は4万余となった。
  一方、政府軍は、有栖川宮を征討総督に任命し、
  陸軍は、山縣有朋中将、海軍は、川村純義中将に指揮
 を執らせた。
  政府の兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送のため、助成を
 受けている三菱に対して、社船の徴用が命じられた。
  三菱は、定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸
 送に注ぎ込んだ。
  そして、この後・・、
  西郷軍は、熊本鎮台を攻めあぐみ、
  田原坂で壮絶な戦いを展開し、
  ついに、敗走する事になって行く、
  そして、宮崎県の各地を転戦する。
  明治天皇陛下は、京都に赴かれ、戦況の報告を受けら
 れたりし、
  天皇陛下が、東京に戻られるのは、7月末に至る。
  その頃になってやっと、政府軍の勝利が見えて来た。
  陛下は、神戸から、三菱社船の広島丸で東京に戻られ
 た。
  西郷隆盛は、鹿児島の城山で、9月24日、自刀する事に
 なる。
1877年2月15日 偕行社(陸軍将校組織)が創立された。
1877年2月18日 西南戦争で、西郷軍に備えて熊本城外の民
 家が焼かれた。
  そして、何故か?この次の日、熊本城からも火が発す
 る。
1877年2月19日、西郷軍の出兵の報を受けた政府は、この日、
 鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を
 決定した。
  そしてまた、この日、西南戦争に関する流言・噂話の
 新聞掲載を禁止した。
  この勃発した西南戦争の戦費を、政府は、紙幣の増発
 でまかなった。
  そのため、膨大な紙幣が流通するようになった。
  紙幣の価値下落が起きた。
  明治政府の発行紙幣に対する信用が、大きく揺らいだ。
1877年2月19日、不審火発生
  熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、
  烈風の中、櫓に延焼し、天守までも焼失した。
  この火災の原因は今もって不明(ただし、官軍による
 自焼説が有力)である。
1877年2月19日、文部省布達により、長崎英語学校が廃止と
 なった。
  また、同時廃止は、「東京女学校」、「愛知、広島、
 新潟の各師範学校」、「愛知、広島、新潟、宮城の各
 英語学校」。
  幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越した。
  英語熱は衰微して行った。
  そして、この後も、多くの外国語学校が減少傾向を示
 した。
  長崎県令・北島は、県が英語学校の土地、建物と書籍、
 器具頭を文部省より譲受けることで存続を図ろうとした。
  1878年(明治11年)3月3日、文部省より長崎県に移管
 され、長崎英語学校は県の所轄として存続した。
  3月22日、長崎県立長崎中学校と改称し、中学校として
 再出発した。
1877年2月20日、この日、薩軍諸隊が、熊本県川尻に到着し
 始めた。
  まもなく、熊本鎮台から派遣された偵察隊が、薩軍の
 隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。
  熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩軍は、
 相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開
 いた。
  軍議では、「熊本に抑えを置き、主力東上の策」と、
 「全軍による熊本城強襲策」が対立したが、
  強襲策が採用された。
1877年2月21日、この日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍
 の大隊は順次熊本に到着し、熊本城を包囲し強襲した。
  この時の戦力比は、薩軍約14,000人に対して、鎮台軍
 が約4,000人であった。
1877年2月22日 「東京日日新聞」の社長・福地源一郎が、
 軍団御用係の名目で、西南戦争従軍のため出発した。
  福地源一郎・犬養毅が、西南戦争の報道で話題となる。
1877年2月22日、熊本城攻防戦
  西郷軍が、熊本城を包囲し強襲。
  この日、乃木希典少佐が、連隊旗を奪われた。
  夕刻、薩軍の伊東隊の岩切正九郎が、官軍の歩兵第14
 連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。
  一方、総攻撃された熊本城は堅城だった。
  この日の状況から、簡単には攻め落とせないとみなさ
 れた。
  深夜に開かれた再軍議で、熊本城を強襲する一方、一
 部は「小倉を電撃すべし」と決した。
  翌・2月23日に、池上が、村田・深見らの小隊を率いて
 小倉へ向けて出発した。
  しかし、途中で激戦の銃声を聞いて池上は、田原へ転
 進した。
  小倉へは、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。
  熊本城を攻める薩軍は、大砲が少なく、また、装備の
 劣った小銃だった。
  一方、堅城の熊本城に籠もる政府軍は、優勢な大砲と
 小銃で、また、豊富な弾薬を有していた。
  この様な鎮台を攻めることは、無謀この上もない作戦
 だった。
  この戦いの結果、薩軍は、剽悍(ひょうかん、すばや
 く強い)な士の多くを、この攻城戦で消耗してしまった。
  2月24日以降は、膠着状態の対峙状態となった。
  この様な中で、これ以後、官軍が続々と到着するだろ
 うことが予想された。
  そして、予想通り官軍が到着すると共に、戦線は拡大
 した。
  2月20日~27日には、熊本方面へ、
  3月1日~31日には、田原・吉次方面へ、
  3月10日~4月15日には、鳥巣方面へ、
  3月4日~4月15日には、植木・木留方面で激しい戦闘が
 行われた。
  この様な戦闘の中に、薩軍に加担した九州諸県の各隊
 が多くあった。
  熊本隊:1500名、協同隊:500名、滝口隊:200名、
  飫肥隊:800名、佐土原隊:400名、人吉隊:150名、
  都城隊:250名、報国隊:120名、高鍋隊:1,120名、
  中津隊:150名、延岡隊:1,000名・・などだった。
1877年2月23日 東京・名古屋・大阪三鎮台に令して、第二
 後備軍を召集した。
1877年2月25日、参軍・山県有朋、陸軍少将・三浦梧桜らが、
 博多に本営を設置した。
1877年2月25日、西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹らの官位を
 剥奪した。
  そして、その謀反を正式に布告した。
1877年2月26日、稲荷山確保を巡る戦いが行われた。
  ここを巡る争奪戦が、西南戦争の最初の天王山と言わ
 れている。
  あまりにもの激戦で、弾薬不足も出る部隊もあった。
  敵前渡河の強行策も行われたりした。
  官軍も、あまりにもの疲労で追撃できずという状況が
 起きた。
  この戦いでも、薩軍の有力諸将が戦死した。
  この様な激戦の中、伍長・谷村計介は、高瀬の官軍へ
 の使者として、命を賭して、熊本城を脱出した。
1877年2月27日、薩摩軍が大挙して肥後の高瀬において、官
 軍と戦う(熊本城兵は利非ず)
  連絡を取り合って、官軍を挟撃しようとするが、突然、
 の遭遇戦が展開するという事もあった。
1877年2月28日、伍長・谷村計介は、薩軍に捕われるも脱出
 し、漸く高瀬の官軍に辿り着く(薩軍と疑われ、船隈に
 連行)
  この日、熊本県阿蘇谷で農民3000人が暴動を起こす。
1877年3月1日~3月31日、現在の熊本県熊本市北区植木町大
 字豊岡で『田原坂・吉次峠の激戦』が繰り広げられた。
  春先で冷え込みが酷く、雨も降るという厳しい状況の
 中で戦いは始まった。
1877年3月2日、谷村計介が、船隈の営にて野津鎮雄少将に
 危急を報告し、密使の大役を果たした。
1877年3月3日、官軍が、薩軍と田原坂で激戦。
1877年3月4日、この日、吉次峠で、西郷軍の篠原国幹が戦
 死する・・が、政府軍を撃退した。
1877年3月6日、四国と本州を通じる海底電信、讃岐~備前
 間が開通した。
1877年3月11日、官軍は、田原坂防衛線突破のため、この日、
 軍を主力と別働隊に分けた。
  主力は、田原坂・吉次峠の突破のために、
  別働隊は、山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにお
 かれた。
  しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい
 銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、
  田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(
 那智山)を奪うことにした。
  薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵
 卒を当てたが、討ち破られた。
1877年3月11日、孫右衛門が、横浜元町で輸入自転車の貸自
 転車業をはじめた。
  孫右衛門は、1台が銀16枚する自転車を16台購入した。
  1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、在庫の自
 転車が不足するほど繁盛した。
  輸入自転車に加えて、地元の鍛冶や車大工につくらせ
 た国産の自転車も使用した。
  1883年(明治16年)に大火によって自転車を全て焼失、
 廃業となった。
1877年3月13日~14日、抜刀隊を交えた激しい斬り合い。
1877年3月15日、官軍は、この日、薩軍の守備を破り、つい
 に横平山(那智山)を占領した。
  この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入るこ
 とに成功した。
  3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000
 名にのぼる。
1877年3月15日、諏訪公園にて、東京、横浜に次いで九州
 初の第3回内国勧業博覧会を開催。
  出店地域は長崎県、佐賀県。
  出品点数は、1360点。
  会期100日の予定が、西南戦争のため06/22で中止した。
  第1会場・公園入口の建物(のち長崎商品陳列所)。
  第2会場・公園丸馬場テント張り
1877年3月17日、西郷軍に加担した鹿児島県令・大山綱良の
 官位を奪った。
1877年3月18日、佐川官兵衛(さがわかんべえ、会津藩士、
 豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長) 戦死(47歳)
  この日、官軍主力隊本営で、幕僚会議が開かれた。
  この会議での結論は・・、
  これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎなが
 らも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてき
 たが・・、
  この原因として挙げられるのは・・、
  薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生か
 して田原坂の防衛線を築いている・・と見て・・、
  この現状を打破するため・・いち早く堅い田原坂の防
 衛線を突破する必要がある・・だった。
  20日の早朝を総攻撃の決行と決めた。
1877年3月20日、田原坂の大激戦
  政府軍が、激戦の末、田原坂を占領するに至る。
  この日の早朝、官軍は、開戦以来、最大の兵力を投入
 した。
  攻撃主力隊は、豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を
 越え、田原坂付近に接近した。
  そして、雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から、田原
 坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。
  砲撃が止むと同時に、薩軍の出張本営七本のみに攻撃
 目標を絞り、一斉に突撃した。
  薩軍は、官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため
 応戦が遅れた。
  七本では、状況が把握できないまま攻撃を受けざるを
 得なかった。
  薩軍は、防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のた
 め徐々に応戦できなくなった。
  そして、ついに、植木方面へ敗走した。
  官軍の攻撃を成功に導いたのは、別働の吉次峠部隊の
 活躍が大きかった。
  吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。
  これによって官軍主力は、「田原坂突破」一本に的を
 絞ることが出来た。
  しかし、吉次峠部隊の被害は甚大であった。
  駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。
  官軍・薩軍の田原坂での攻防は・・17日間続いた。
  植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破
 られた。
  その後、官軍は、田原坂を下って植木方面までの侵攻
 を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。
  田原坂の戦いで・・薩軍は敗勢へ傾いていく。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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