(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)

題:(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年、ハリエット・タブマン氏(1820年または1821年~
 1913年3月10日)の半世紀『ハリエット・ダブマンの生涯
 の情景』が、この年・1869年に、出版された。
  そのハリエット・ダブマン氏が、アメリカの新20ドル
 札の肖像になった。
  (時事通信社)は・・、
  2016年4月20日に、アメリカ合衆国のルー米財務長官は、
 新20ドル札に奴隷解放運動家の黒人女性、ハリエット・
 タブマンの肖像を採用すると発表した。
  欧米メディアによると、米紙幣に黒人の肖像が採用さ
 れるのは初めて。
  女性は「1世紀余ぶり」(長官)で、マイノリティー
 (少数派)重視を掲げるオバマ大統領のレガシー(遺産)
 づくりとの見方もある。
  自身も奴隷だったタブマンは、1800年代半ばに地下運
 動で多数の奴隷を逃亡させて自由の身にしたほか、女性
 の参政権獲得にも尽力。
  ルー長官は「米国の価値観や民主主義を体現した」と
 讃(たた)えた。(時事通信社)
  また、(毎日新聞)は・・、
  米紙幣に黒人女性が採用されるのはこれが初めて。
  女性としても19世紀末以来、約120年ぶりとなる。
  (女性差別や女性蔑視などない日本は、すでに樋口一
 葉氏がお札の肖像となっている・・筆者記入)。
  女性の参政権を認めた憲法修正19条施行から100周年に
 なる2020年にデザインを確定し、発行する予定。
  奴隷だったタブマンさんは、19世紀半ばから奴隷解放
 運動に参加。
  黒人奴隷を米国南部諸州から北部各州に逃がす「地下
 鉄道」と呼ばれる秘密輸送ルートを構築した。
  昨年6月に財務省が紙幣のデザイン一新を図る考えを表
 明して以後、タブマンさんの採用を求める声が相次いで
 いた。
  ルー長官は「単なる歴史的な存在にとどまらず、模範
 的なリーダー」と採用の理由を説明した。
  現在の20ドル紙幣に使われているジャクソン大統領の
 肖像は、紙幣の裏面で引き続き使われる。
  米紙幣に女性の肖像が使われるのは、1891年~1896年
 に発行された1ドル銀兌換(だかん)紙幣の、初代大統
 領夫人マーサ・ワシントンさん以来(遠い昔の話・・筆
 者記入)。
  タブマンさんは3人目(毎日新聞)。
  ハリエット・タブマン氏は、アメリカ合衆国メリーラ
 ンド州ドーチェスター郡出身の奴隷だった。
  後に、奴隷解放運動家、また、女性解放運動家。
  特に、地下鉄道(アンダーグラウンド・レールロード。
 アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助す
 る秘密結社)の女性指導者のひとりだった。
  メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた。
  5歳からメイド兼子守りとして働かされた。
  (奴隷の子は、『自由』を持って生まれて来たのでは
 なかった。
  何が『自由の国だ』なんて言うのだ・・アメリカ。
  アメリカは遅れた国で、普通の人間を、奴隷にして使
 役するという悪事を行なった上に、
  さらに、この様な、生まれて来た子供にまで『奴隷と
 いう運命』を背負わせた。
  そうする事によって、自分たちに利があるのでその様
 にした。
  そこには、悪意があるだけで、愛の存在する社会では
 ないし、あるのは、ただ『低俗なる倫理観』『我が利が
 得られれば』の欲の世界しかなかった。
  この様な事は、是非、世界記憶遺産に登録すべきで、
 また、銅像を建立するべきだ・・と思いたくなる)
  ハリエット婦人は、1844年ごろ、同じく奴隷であるジ
 ョン・タブマンと結婚し、長年の奴隷生活に堪え続けた。
  奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐え、
  さらに酷いことに、この奴隷監督から頭部に受けた殴
 打は、後遺症を残し、
  生涯ナルコレプシー(脳疾患・睡眠障害)とてんかん
 に悩まされることになった。
  奴隷国・アメリカ合衆国は、人権蹂躙(じんけんじゅ
 うりん)が酷く、低劣な厳しい状況だった。
  1847年、ハリエット婦人の奴隷主が死に、奴隷が売ら
 れことになった。
  この事を知ったハリエット婦人は、脱出を渋る夫を残
 して北部のフィラデルフィアへ逃亡した(夫は、射殺を
 恐れたのであろう)。
  逃亡の途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である
 地下鉄道を支援していた組織に助けられた。
  フィラデルフィアでは、レビ・コフィンやトーマス・
 ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウン
 らの黒人奴隷解放運動家と交流を持ち、
  奴隷解放の地下鉄道の「車掌役」として、その奴隷解
 放の運行をはじめた。
  1850年~1860年の間に、約19回の南部との往復を繰り
 返し、300人余りの奴隷達の逃亡を助け、自由に導いた。
  ハリエット・タブマン婦人は、一度も捕えられず、「
 救助者・車掌」として成功をおさめた。
  そのためタブマン婦人に掛けられた賞金額は、合計4万
 ドルを超えた。
  (アメリカは、非人道的な国で、奴隷を射殺すること
 が許されていた、ダブマン氏は必死だったと思う)。
  南北戦争中は、コックおよび看護婦として働くととも
 に、
  北軍のためのスパイをも務めた。
  タブマン婦人へ、アメリカ政府は、恩給の支給をしな
 かった(卑劣な差別である)。
  ダブマン婦人の晩年は、ニューヨーク州に拠点を構え、
 身寄りのない元奴隷や、戦死した黒人兵の遺族への支援
 を続けた。
  1913年に、肺炎で死去された。93歳だった。
  アメリカ合衆国は、人種差別の国で、黒人奴隷解放家
 の運動内容や、その歴史、そして、その存在は、ひた隠
 しに隠した。
  それが、黒人の方々の努力によって、隠されて来た事
 実が、最近になって、徐々にその一端、その歴史が明る
 みに出て来た。
1876年9月1日、開拓使雇のウイリアム・ホィラーが、石狩
 国札幌区東創成通り教師舘内で気象観測を開始した(日
 本最初ではない)。
  後に、1879年10月28日(明治12年)に、国営へ移管し、
 文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
  因みに、日本最初の気象観測は、1872年で、
  函館地方気象台の前身である「函館気候測量所」が、
 日本で最初の気象観測をはじめた観測所。
  1872年(明治5年)から観測を開始している。
1876年9月6日、元老院に憲法起草を命じる詔勅
  明治天皇陛下は、元老院議長・熾仁親王を召され、国
 憲草案の起草を命じられた。
  この頃の、自由民権家は、皆、明治維新を闘った尊皇
 家で、天皇陛下の御存在に、国民の権利、国の利益の究
 極の擁護者の地位を仰ぎみていた。
  例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎ら
 の憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、
  天皇陛下による立法行政司法の総轄や、軍の統帥権、
 天皇陛下の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝
 国憲法と同様であった。
  この日・1876年9月6日(明治9年)、明治天皇陛下は、
 「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅
 語」を発っせられた。
  この勅語は・・、
  「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を
 成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。
  なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。
  朕、まさにこれを撰ばんとす」
 ・・として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと
 命じられた。
  元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。
1876年9月13日、府県裁判所(ふけんさいばんしょ)を地方
 裁判所と改称
  府県裁判所は、1872年9月5日(明治5年8月3日)司法省
 によって定められた5種 (司法省臨時、司法省、出張、府
 県、区) の裁判所中の1つで、
  1875年5月4日、府県裁判所職制章程が定められ、それ
 によって本裁判所が民事を始審し、刑事の懲役以下の判
 決をする任務を持ち、
  本裁判所をもたない府県では、地方官が裁判官を代行
 することなどが明示された。
  そして、この日・1876年9月13日、府県裁判所の廃止に
 伴い、府県裁判所は廃止され、新たに「地方裁判所」が
 開庁された。
1876年9月23日、国産ビール醸造、初めて工業化される(北
 海道札幌の開拓使麦酒醸造所の開業)
  札幌にビールの醸造所を開業。
  北海道開拓使に麦酒 (ビール) 醸造所が設立される。
  日本に初めてビールの醸造が工業化されたのは、1876
 年(明治9年)9月23日、札幌の開拓使麦酒醸造所開業を
 以て出発とされる。
1876年9月23日、儒者:安井息軒(やすいそっけん)が没する
 (78歳)。朱子学派の儒学者。
  日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士で、江戸で昌
 平黌(しょうへいこう)に入り、また、松崎慊堂(こうどう)
 に古注学を学ぶ。
  飫肥(おび)藩校の助教、後、江戸に三計塾を開き、後
 に、昌平坂学問所の教授に抜擢される。
  考証にすぐれ、海防・軍備などの政策も論じた。
  「海防私議」「弁妄」など警世の論がある。
1876年9月25日、大阪堂島に米穀取引所(どうじまべいこく
 とりひきじょ)を開設した。
  1893年(明治26年)、大阪堂島に設立された米穀取引
 所は、江戸時代以来栄えた米市場の後身で・・、
  1876年(明治9年)に設立の大阪堂島米商会所が、改称
 されたもの。
  1939年(昭和14年)配給制度導入のため閉鎖した。
  さかのぼること明治2年(1869年)に、明治政府により
 廃止され、
  それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収された
 が、
  その後、明治4年(1871年)に、「堂島米会所」として
 復活した。
  そして、明治6年(1873年)に、油取引を加えて「堂島
 米油会所」となったが、
  明治9年(1876年)のこの時に、油取引を分離して「堂
 島米商会所」となった。
  明治26年(1893年)に、「大阪堂島米穀取引所」へと
 発展し、
  大正7年(1918年)には、過剰投機により米騒動を引き
 起こした。
  また、昭和14年(1939年)に、米穀配給統制法による
 日本米穀株式会社に吸収され・・幕を閉じた。
1876年10月2日、東京兜町に米商会所が開設された。
  日本で先物取引が開始されたのは、1730年(享保15年)
 のことで、「大坂堂島米会所」で行われた米取引が、最
 初とされる。
  一方、江戸でも間もなくして、日本橋小網町・小舟町
 周辺に米会所が開設され、取引が盛んに行われるように
 なった。
  明治時代に入っても、米の先物取引は活発で、その中
 心を担ったのが、1874年(明治7年)に、日本橋蛎殻町の
 西郷隆盛屋敷跡に開業した「中外商行会社」・・、
  現在、この地には、農産物を専門にする先物取引の市
 場「東京穀物商品取引所」が建っている。
  同取引所の起源に当たる「中外商行会社」は、1876年
 (明治9年)に、発布された米商会所条例により、同年、
 「蛎殻町米商会所」に再編された・・、
  さらに、1883年(明治16年)には、隣町で営業する「
 兜町米商会所」との協議の結果、
  互いの繁栄のため合併が最善という結論が出され、
  「東京米商会所」に改められた。
  その後も、1893年(明治26年)に、「東京米穀取引所」
 に、1908年(明治41年)には、「東京米穀商品取引所」
 へと、度々の再編が行われた。
1876年10月9日、秀英舎が開業した(後の大日本印刷)
  木版から活版印刷に
  秀英舎は、活版での印刷会社として東京・京橋の弥左
 衛門町に創立した。
  秀英舎は、主に新聞印刷や、中村正直の「西国立志編」
 の活版による再版などに代表する書物の印刷会社として
 発展した。
  その頃、活字の供給は、印刷局と築地活版のみが行っ
 ており、
  創立当初は、活字を購入していたが、
  1881年(明治14年)、保田の創案のもと、字母(父型)
 を購入し、活字の自家鋳造を開始した、
  更に、1882年(明治15年)、山下町に製文堂を設置、
 それを本格化させた。
  築地活版や、印刷局の書体を受け継ぐ五号系統と、筆
 跡新しい初号系統の2書体は、ここで形成された。
  明治30年代半ばのことである。
  後に、秀英体(秀英型とも。特に初号系統をいう)と
 呼ばれた書体群で、活版印刷減衰の後も、写植書体やデ
 ィジタル・タイプとして覆刻され、
  また、大日本印刷の書体としてポイント制活字、ベン
 トン母型を経ながらも使用され続けている。
1876年10月12日、賞勲事務局(賞勲局、しょうくんきょく)
 が設置された。
  賞勲局は、勲位・勲章・褒章など、栄典に関する事項
 をつかさどる内閣府の一部局で、
  この時・1876年(明治9年)に、太政官正院に設置され
 た。
  この年・1876年12月に、賞勲局に改称した。
  第二次大戦後、1949年に、総理府が設置されると、賞
 勲部に改組され、
  1964年(昭和39年)に、生存者叙勲の再開に伴って総
 理府が設置されると、総理府賞勲局に昇格となり、
  2001年(平成13年)以降は、中央省庁再編により、内
 閣府の管轄となった。
1876年10月24日、敬神党ノ乱(けいしんとうのらん、神風連
 ノ乱ともいう・・士族の反乱・反政府暴動)
  神風連の乱:熊本県士族の大田黒伴雄らが、熊本鎮台
 を襲撃し、また、県令・安岡良亮らを殺傷した。
  この神風連(じんぷうれん)の乱:夜11時、熊本県で
 旧守派の「敬神党」を結成する大田黒伴雄ら170人が、熊
 本鎮台(軍隊)の兵営などを襲撃し、火を放った。
  そして、司令官の種田政明少将を殺害した。
  政府の洋化政策に反発し、廃刀令がきっかけだった。
  この年に、金禄公債条例が発行され、士族の経済的な
 没落が、特に顕著となっていた。
  士族層の間に、明治新政府に対する不満はみなぎって
 いた。
  鎖国攘夷を依然主張する敬神党は、かねてから、新政
 府の洋化政策への激しい憤りを示そうといだいていたが、
  1876年3月の廃刀令の発布に端を発し・・て、
  同年・1876年10月に、党首領・太田黒伴雄らが決起し
 た。
  そして、百数十人に上る武装集団をもって、熊本鎮台
 司令長官・種田政明、県令安岡良亮らを斬殺した・・が、
  翌日、鎮台兵により鎮圧された。
1876年11月25日、福沢諭吉著の『学問のすすめ』が完結し
 た。17編刊、
  初版・重版を併せて・・25万部が出版された。
  一説には、最も売れた書籍で、最終的に300万部以上売
 れたという。
  その一文は・・、
  「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人あ
 りおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあ
 り下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何
 ぞや」
  ・・と、記して・・
  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言わ
 れている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれ
 ども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧
 乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違い
 は何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別
 は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生
 まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を
 勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無
 学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
  ・・と・・、
1876年10月25日、熊本に乱をなす神風連の叛徒・大田黒伴
 雄らが、翌日のこの日に、戦死(その他の者は自首、或
 は、逃走)
1876年10月27日、秋月の乱(あきづきのらん)(10月26日
 説あり)
  福岡県下の秋口で、旧秋月藩の不平士族らが、開明政
 策を掲げる新政府に対して、
  また、政府の対韓政策を批判して起した反乱で、
  主謀者の宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)、磯淳ら
 二百数十人は、
  豊前豊津に進撃し、萩の乱の前原軍と合流しようとし、
  また、熊本の神風連(じんぷうれん)の乱に呼応し挙兵
 した。
  熊本神風連の乱に続いて、攘夷主義を旗印に蜂起し、
 萩の前原一誠と連絡をとりつつ、付近の士族に参加を呼
 びかけたが、進撃なかばにして 11月3日、豊前豊津で、
 小倉鎮台の政府軍により鎮圧され、一味は処刑された。
1876年10月27日、萩の乱(10月28日説あり)
  山口県萩で、長州藩士で、明治新政府参議、兵部大輔・
 前原一誠が、
  守旧主義の立場から 政府を去り、
  郷里の不平士族に擁立されて、
  1876年10月28日に、反政府の旗を掲げ、神風連の乱・
 秋月の乱に呼応して蜂起・・萩に迫った。
  しかし、しかし・・11月6日に鎮圧された。
  前原一誠は、1869年(明治2年)に参議、ついで、兵部大
 輔となったが、
  当時の開明的な政府の方針や、木戸孝允らと対立した、
  翌年・1870年に、辞職、郷里萩に帰っていた。
  そして、一誠らは、不満をつのらせて・・
  1876年10月28日、萩の旧藩校・明倫館(めいりんかん)
 に・・200人余を集めて・・蜂起(ほうき)した。
  しかし、期待した薩摩(さつま)の不平士族らの協力は
 得られず・・、
  広島鎮台司令長官・三浦梧楼(みうらごろう)らによっ
 て・・1週間余で鎮圧された。
  一誠は、島根県で捕らえられ、首謀者8人とともに12月
 斬首(ざんしゅ)された。
1876年10月29日、思案橋事件(しあんばしじけん)
  永岡久茂らの・・千葉県庁襲撃計画・・発覚
  萩(はぎ)の乱に呼応して、永岡久茂(ひさしげ)ら、十
 数名の士族が、
  千葉に兵をあげようとして、未然に・・鎮定された士
 族反乱未遂事件・・。
  永岡久茂(ながおかひさしげ)は、旧会津藩士、戊辰(ぼ
 しん)戦争では、松平容保(かたもり)を擁して、官軍と戦
 い・・そして、敗れ・・江戸に幽閉された・・が、
  1870年、陸奥(むつ)国斗南(となみ)藩権少参事(ごんし
 ょうさんじ)となり、
  ついで、青森県権大属(ごんのたいぞく)などを経て、
 1874年上京し、『評論新聞』の海老原穆(えびはらぼく)
 と親交を結び、萩の前原一誠(いっせい)と通じた。
  1876年10月、熊本で神風連(しんぷうれん)、秋月で宮
 崎車之助(しゃのすけ)らが反乱し、ついで、萩で前原ら
 が蜂起(ほうき)するに及び、
  呼応し・・そして、千葉県庁を襲撃しようとした。
  東京・日本橋の思案橋から船で、千葉に行こうとした。
  この永岡久茂らの会津士族らを、不審に感じた船頭が
 通報・・、
  駆けつけた巡査4人と斬り合いとなった、
  そして、逮捕された。
  計画では・・千葉県庁を襲い・・佐倉鎮台の兵を味方
 に引き入れ・・会津にはいり・・萩の前原と呼応し・・
 政府を転覆させるという・・計画だった。  
1876年10月、「小笠原諸島の領有宣言」
  日本が領有を宣言した当時、すでにイギリスが領有し、
 アメリカ人が入植していた。
  1543年に、スペイン船によって発見。
  1827年に、イギリスが領有宣言。
  1830年に、アメリカ人とハワイ人(当時、ハワイは独
 立国)が入植。
  1853年、ペリー寄港。
  1862年、外国奉行が測量。
  1876年、日本による領有を関係国に通知。
  小笠原に入植したアメリカ人の子孫は、日本に帰化し
 ている。
  小笠原諸島の住民は、日本の領有と統治に賛成し、
  日本の領有に異議を唱えた国もなく、
  日本の領有は国際的に認められて来て、経過し、そし
 て、今・現在に至っている。
  因みに、日本の領土である竹島は・・、
  1905年の110年以上も前のこと、日本は、竹島を島根県
 に含めるという日本の閣議決定をした。
  そして、日本人の役人が、竹島調査のため鬱陵島(う
 つりょうとう)に渡り朝鮮の鬱陵島郡守らに会う。
  鬱陵島にいた朝鮮の官吏らはすぐに、日本が竹島を島
 根県領としたことを朝鮮朝廷に報告した。
  しかし、朝鮮王府は、何の異議も唱えなかった。
  不満をこぼすこともなく、また、
  ただの1度も。全く。黙って、何もしなかった。
  当然のことと理解を示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-04-22 16:10 | 皆様とともに 幸せになりたい


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