(増補版)334E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年3月)

題:(増補版)334E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年1月14日、千島に占守郡(しゅむしゅぐん)などが設置
 され、千島国となった。
  因みに1878年8月に、占守島の千島アイヌ(首長アレキ
 サンドル・プリチンまたはチェルヌイ)が、日本国籍を
 取得した。
  そして、1879年9月9日(明治12年7月23日)に、郡区町
 村編制法の北海道での施行により、行政区画としての占
 守郡が発足した。
1876年1月23日(12月27日)明治天皇陛下が、雜司谷村に陸
 軍び御閲兵をされた。
1876年1月27日、警視庁が、売淫罰則を制定した(法令類纂・
 巻之63,法令全書)
  1872年に、娼妓解放令が出されていた。
  1876年のこの布達で罰則が決められた。
  (1872年明治5年太政官布告第295号)
  人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之
 ニ付テノ貸借訴訟ハ取上トス 一 人身ヲ売買致シ終身又
 ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背
 キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名
 目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ
 事ニ付自今可為厳禁事
  (売淫罰則)
  警視庁第23号 1876年明治9年1月27日
  売淫罰則左ノ通相定候条此嘗各区ヘ可相達候事
  第一条 凡ソ許可ヲ得スシテ売淫ヲ為シ及ヒ媒号容止
    スル者初犯ハ拾円以内再犯以上ハ弐拾円以内窩主
    初犯ハ拾五円以内再犯以上ハ三拾円以内之罰金ヲ
    科ス
    但シ父母等ノ指令ヲナス者ハ其罰ヲ指令者ニ科ス
1876年、恤救規則(じゅっきゅうきそく、救貧法)論議盛ん
  明治新政権は、それまで幕府や藩などで実施していた
 救貧政策を、
  1874年(明治7年)に、明治政府の太政官達162号によ
 って布達された慈恵的(じけい、慈愛の心をもって他に
 恵みを施すこと)な貧民救済制度。
  済貧恤救は人民相互(共同体的性格による救済)の情
 誼によるべしとし、それで救済できない貧困者や70歳以
 上の労働不能の者、障害者、病人、13歳以下の児童等に
 一定の米代を支給することを定めた。
  「極貧ノ者独身ニテ廃疾ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル者」
 「独身ニテ七十年以上ノ者重病或ハ老衰シテ産業ヲ営ム
 能ハサル者」「独身ニテ疾病ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル
 者」「独身ニテ十三年以下ノ者」
  給付は現物(米)から現金給付(米代等)へ
  1931年(昭和6年)救護法制定とともに廃止。
  因みに、明治政府の要人(大久保)は、イギリスのマ
 ルサス主義な救貧法批判は知っていた(岩倉遣外使節と
 して学んで来ていた)。
  その論理は、パターナリズムに代表される貧困層への
 チャリティーの考えは効果がなく、膨大な貧困層の増加
 をもたらすだけであるとの推論から導かれており、
  1834年の新救貧法に体現される給付の縮小というホイ
 ッグ党の経済学の考え方に発展した。
  反対者たちは、「マルサスの法案は、貧困層が海外に
 移住し、低賃金で働き、粗末な種類の食物での生活を余
 儀なくするように考案された」と述べた。
  貧困層の暴動や放火を招いた。
1876年1月(12月)斉藤一諾斎(さいとういちだくさい62歳)
 が没した。
  武蔵国江戸出身。幕臣の家に生まれる。
  1818年(6歳)の頃、浅草今戸の潮江院にて出家。駒込
 吉祥寺の僧となり、甲斐国山梨郡など、各地の住職を歴
 任した。
  1868年3月に、甲陽鎮撫隊(新選組)が甲州へ訪れると、
 56歳にして入隊。
  甲州勝沼の戦いに敗れた後は、土方と共に宇都宮・会
 津への転戦し、仙台で新政府軍に降伏した。
  釈放後、多摩郡中野村(現、八王子市由木中野)に定
 住して学校を設立。
  土方家、近藤家、佐藤家と深い交流を持った。
1876年2月2日、大阪の大火(道頓堀芝居小屋より発火、16
 街道に延焼(「大西芝居の火事」)
1876年2月20日、大阪毎日新聞が創刊された。
1876年2月20日、東京府王子村(現、北区)に、最初の洋紙
 専門工場が建てられた(現在の王子製紙)
1876年2月26日、日朝修好條規(江華嶋條約)
  日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が調
 印され、効力が発生した。
  全12款からなり、日本と李氏朝鮮との間で締結された。
  朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権をもつ独立国
 だと明記した。
  李氏朝鮮が、それまで世界とは限定的な国交しか持た
 なかったが、開国する契機となった。
  この条約を契機にして、アメリカ・イギリス・ドイツ・
 フランス・ロシアと似たような内容の条約を締結した。
  これを契機に、李氏朝鮮は、世界の資本主義の中へ入
 って行った。
  この頃は、アメリカ・西欧列強が弱肉強食を旨として
 浸透してくる時期だった。
  1866年には、フランスが、キリスト教が関係する丙寅
 迫害の報復として、軍艦7隻・総兵力1000人で、朝鮮の江
 華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生したり、
  1871年には、アメリカ合衆国が、ジェネラル・シャー
 マン号事件(1866年発生)の報復として、軍艦5隻・総兵
 力1200人・艦砲85門で、朝鮮の江華島に攻撃・占領を行
 なわれたり、いい様にやられていた(辛未洋擾)。
  日本との条約の主な内容は、外交使節の相互派遣、釜
 山などの2つの港の開港、開港場での日本領事の領事裁判
 権を規定。
  修好は、国家と国家とが親しく交流するという意。
  これを機に、朝鮮のエリート官僚が、次々と日本に来
 て、進展した日本を学んだ。
  また、日本の指導者たちも、朝鮮の独立の大切さと必
 要性を指導し、また、朝鮮近代化を説いた。
  加那大学の崔基鎬(チェケイホ)教授が、本「日韓併
 合」で以下の様な事を書いている。
  朝鮮の李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に結ばれ
 た「日朝修好条規」は全文12条からなる。
  この修好条規の第1条に「朝鮮国は自主の国」とあるこ
 とは、極めて重要な意義を持つ。
  1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂(り
 せいけい)が、明との戦いで遼東(りょうとう)地方奪
 回に出陣し、秘かに敵と通じて、威化島(いかとう、鴨
 緑江・おうりょっこう下流の島)で軍を翻し(回軍)、
  逆に、時の高麗王(禑王・ぐおう)と上官の崔瑩(さ
 いえい、総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪(さ
 んだつ)した結果によるもので、
  敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、そ
 の後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然だった。
  国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。
  李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代か
 ら高麗に至るまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄
 させられ、明の属国としての堕落が始まった。
  この様な環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫
 の精神は圧殺された。
  こうして李朝は、搾取(さくしゅ)と虐政(ぎゃくせ
 い)の中にあり、国王は名ばかりで何ら政策も施さず、
 その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道
 ぶりだった。
  いわば民衆は無政府状態の置かれていたのだった。
  それを考えると、「日朝修好条規」第一条の「朝鮮国
 は自主の国」との言葉の持つ意味の重大さが分かってく
 る。
  だが、清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本
 の狙いは、実際には実現にほど遠く、清の保護下にある
 李朝の専横は変わることなく、民衆は相も代わらず、塗
 炭の苦しみを味わい続けていた。
  近代化と自主独立の道を拒否し続ける李朝の存在は、
 東アジアの情勢に不穏な種を宿していた。
  李朝は1897年、国号を「大韓帝国」と改め、年号を「
 光武」とした。
  王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束
 縛を脱し、独立国家を形成したが、実態は変わるところ
 がなかった。
  1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、
 こうした朝鮮の惨状を見かねて目賀田種太郎(めがたた
 ねたろう、1853年~1926年)を財政顧問として派遣し、
 日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として
 立て直すという体制がようやく緒(ちょ)につくことに
 なった。
  目賀田政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補てん
 するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利
 子、無期限の資金「立替え」を実施した。
  また、そのほか、直接支出で援助した。
  例えば、1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかな
 く、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額
 は全額日本が負担した。
  1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円と
 いう巨額の資金を日本は支出した。
1876年3月2日、新聞号外の始まり
  東京日日新聞社より、朝鮮問題談判の平和落着を急報
 のため号外が発行された。
1876年3月12日、土曜半休、日曜休日制を公官庁で実施
  太政官布告により、官庁や学校は1、6の休日を廃し、
 日曜が休み、土曜日が半休(半ドン)に決まった。
  (なお、振替休日は1973・4・6に立法化)
  1・6日制が改正され、欧米にならって、官公庁の"土
 曜日半日制"、"日曜休日制"に改正された。
  それまでは、"1の日"と、"6の日"を休日としていたが、
 これだと、外国との付き合いに不具合が生じるからと、
  "週休制"にして、"日曜日"が休みになり、土曜日が半
 休となった。
  土曜が半分休みになることを「半ドン」と言っていた
 が、これは、皇居で、今の時報のような時間を知らせる
 大砲「午砲(ごほう)」がドンと撃たれていて、これが、
 ちょうど"正午"を知らせるものだったことから、ドンと
 鳴ったら仕事も終り・・・と「半ドン」となった。
1876年3月15日、植木枝盛が、「民権自由論」などで専制政
 府を攻撃し、筆禍事件となり逮捕された。
1876年3月21日、水交社(すいこうしゃ)が、芝山内に創立
 された。
  旧日本海軍の将校の懇親、研究、共済団体。社団法人。
1876年3月25日、大阪に、書籍館(しょじゃくかん)が設置
 された。
  東京都文京区の湯島聖堂内にあった図書館。
1876年3月28日、「帯刀禁止令(廃刀令)」 公布
  大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁ずる法令。
  太政官布告第38号「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著
 用ノ外帶刀禁止」
  廃藩置県の直後、政府は、散髪脱刀令(1871)を発し
 て礼式以外は脱刀してもよいとした。
  しかし、士族のなかでは帯刀する者も多く、
  徴兵令施行(1873年)以後、国家治安にとって士族の
 帯刀は不都合だとして、
  1875年に、陸軍卿(きょう)・山県有朋(やまがたありと
 も)は、軍人以外の帯刀禁止を政府に建言し、
  翌年・1876年に、帯刀禁止令発布となった
  これによって、士族の封建的諸特権はことごとく奪わ
 れ、神風連(しんぷうれん)の乱のような不平士族の反乱
 が起こる。
  アイデンティテーの否定であったが・・、
  アメリカ合衆国も、当然の事であるが、「銃社会から
 脱するべきである」(遅れた国アメリカ)
  100年を大きく超える以前に、日本はこの様に放棄した。、
  また、秀吉の「刀狩り」を入れれば、気が遠くなるほ
 どの以前に・・すでに・・
  『日本国民は、武器の所有を放棄していた』。
(追伸)射殺された日本の若者。
  今・現在においても、卑劣なことにアメリカで、
  日本の若者が、ハロウィンの日に、ハロウィンの服装
 をして、ある白人のアメリカ人の家を訪れた時、
  そうしたら、射殺されてしまった。
  全く卑劣な行為である。
  ハロウィンの日に、ハロウィンの服装で訪れるのは、
 当たり前でしょう? 普通でしょう?
  警告もなく、
  また、射殺する行為に対して、何等の罪悪感もなく、
 安易に、まったく安易に、日本の若者の命は奪われた。
  安易に銃が使われた。
 (また、この白人・アメリカ人の悪意は、足などを狙わ
 ずに、心臓を撃ち抜くところにあった)
  その後についても、よくある様に、いつもの様に、こ
 のアメリカの白人に対して、
  なんだかんだと、自分たちだけに都合の良い理屈が付
 けられて、何らの罪には・・問われなかった。
  よく黒人の方たちが、アメリカで、これと同じ様な「
 仕打ちを受けて」、抗議行動をしているが・・、
  まったく、この時も、白人・アメリカ人の罪は、何に
 も問われなかった。
  無罪だった。こんな事がある訳はない・・、
  殺された被害者が有色人種の場合、そして、行為者が
 白人の場合、いつもの様な無罪となった。
  残念ながら、こうなると予想した。
  「この様にならないでくれよ」と思いながらも、無罪
 となってしまった・・
  憤りが・・、今回もそうだったかと、心の湧いた。
  沖縄の場合でもそうだった。
  沖縄で起きた事件でも、まったくこれと同じような悔
 しさを味わわされて来た。
  今回のこの場合もそうなると予想されたが、まったく
 予想通りとなった。
  キリスト教の最高ポジションにいる人が、南米の現地
 から、先住民のインディオの方たちと遭遇した時、
  派遣された現地から、キリスト教の最高責任者へ、「
 この先住民をどのように扱えばよいか?」の問い合わせ
 が来た・・この問い合わせに対して、
  「人間ではない」・・と、このキリスト教の最高責任
 者は答えた。
  ひどい話ではないか。
  キリスト教の教義である「有色人種蔑視」。
  この問い合わせに対する返事から、この答えから、イ
 ンディオの方たちへの殺戮が始まった。
  50年にも及ぶ「大大殺戮(さつりく)」がスペイン・
 キリスト教国によって行われた。
  この行為は、この50年という超長期に、アメリカ新
 大陸の隅々にまで、この大悪事はおよび、行われた。
  このキリスト教の最高部署から出た「人間ではない」
 という殺戮指示によって、
  インディオの方々が、1000万人を超すという驚愕
 する様な多くの方々が・・殺されてしまった。
  一緒にこの殺戮行為に加わったキリスト教宣教師・・、
  また、インディオの方々の金銀・黄金の財貨を奪う行
 為も行なったキリスト教宣教師は、50年もの悪事をし
 てから後に、やっと気付く、
  「このままでは天に召されない」と。
  キリスト教宣教師は、50年もの悪事の後に、「このま
 までは天に召されない」と、本国に、この悪時の事を話
 に行く。
  キリスト教の教義による指示によって、今までやって
 来たことは間違いだと・・やっと気付いた。
  そもそも、この様な「隠れたキリスト教の悪教義」が
 あるキリスト教を信じ、そして、キリスト教のその教義
 による行為を行ったところに、
  「このままだと、天に召されない」という理由が、あ
 るのだ。
  自分だけが、天に、たとえ、召されたって、殺された、
 亡くなったインディオの方々は帰って来ない。
  「自分だけ良ければよい」のキリスト教の理念が、こ
 の話にも出ている。
  キリスト教は、このところを、「(キリスト教の)神
 の義があれば、良い」と言い、
  キリスト教信徒の方々を洗脳し、マインド・コントロ
 ールし、繰って来ている。
  「キリスト教を離れなさい」。
  知らず知らず、交わっていると・・、
  この点に、この様な恐ろしい点に気づかず、違和感を
 持たなくなってしまいます。
  キリスト教との関わりから離れなさい。
  今でも、キリスト教は、皆様の見えない形で、「こと」
 を行っていますが、
  目先の利益などで判断し、関わってしまうようなこと
 がないように・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-04-17 02:27 | 皆様とともに 幸せになりたい


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