(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)

題:(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1873年4月30日(明治6年4月4日)日清修好条規(にっしん
 しゅうこうじょうき)が、この日に、批准書交換がされ
 て発効した。
  特命全権大使・副島種臣、天津において李鴻章と日清
 修好条規を締結調印する。
  日清修好条規は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、
 天津で、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約。
  李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、
  朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきと
 の考えから1870年7月27日(明治3年6月29日)に、
  柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、
  次いで、正規の大使として伊達が送られ、副使となっ
 た柳原とともに詰めの交渉を行った。
  平等条約ではあったが、その内容は、両国がともに欧
 米から押し付けられていた不平等条約の内容を、相互に
 認め合うという極めて特異な内容であった。
  この条約の特異性から、当時、東洋に進出していた主
 要な欧米列強から横やりが入った。
  軍事同盟の密約の疑惑を持たれるなどした。
  また、領事裁判権の存在などに対する反対論があった
 りして、批准が遅れた。
  しかし、マリア・ルス号事件や、琉球御用船台湾漂着
 事件の影響などから、批准の必要性が高まった。
  そこで、これらの事件の決着を付ける必要性もあった
 ために、清を訪れた外務卿・副島種臣によって、1873年
 (明治6年)4月30日に批准書交換がされて発効した。
1873年5月25日(明治6年4月29日)明治天皇陛下が、習志野
 原に行幸(近衛兵の演習を観覧される)
  大和田原(現・陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田
 街道を挟み、高根台周辺までの地域)で、
  陸軍トップの西郷隆盛の指揮の下で行われた近衛兵の
 大演習を御観閲された明治天皇陛下によって、
  同年・1873年5月13日に、勅令が発せられ、習志野原と
 命名された。
  この事を記念して、同地に、「明治天皇陛下駐蹕之処
 の碑」という紀念碑が建てられた。
  その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が、習志
 野と呼ばれるようになった。
1873年5月(明治6年4月)天皇陛下の御名を使用許可した。
  因みに、現在の御璽は、金印(18金)で、大きさは3寸
 (約9.09cm)四方の角印、重量は約3.55kgある。
  印文は、「天皇御璽」(2行縦書で右側が「天皇」、左
 側が「御璽」)と篆刻されている。
1873年5月26日(5月1日)日本が、万国博覧会に初めて参加
 した。
  ウィーン万国博覧会 (1873年5月1日~10月31日)に、
 日本政府が、初めて公式参加し、日本館が建設された。
  新しい日本を、全世界にアピールしなければならない
 という使命感からだった。
  1,300坪(4300平方メートル)ほどの敷地に、神社と
 日本庭園を造り、
  白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。
  産業館にも、浮世絵や工芸品を展示し、
  名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほど
 の東京谷中天王寺五重塔模型や、
  直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描
 いた提灯などが人目を引いた。
  これらの選定は、ドイツ人のお雇い外国人ワグネルの
 アイデアによった。
  ワグネルは、日本が、まだ近代工業が未発達であるた
 め、西洋の模倣状態の機械製品よりも、日本的で精巧な
 美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断した。
  日本全国から優れた工芸品を買い上げ、東洋のエキゾ
 チシズムをアピールした。
  そして、人目を引く様に大きなものとした。
  目論見どおりに、神社や日本庭園は大いに評判となり、
 展示物も飛ぶように売れた。
  「うちわ」は、1週間に数千本を売りつくした。
  皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場
 し、建設中の反り橋の渡り初めをした。
  皇帝一行は、カンナの削りくずに興味を持ち、女官に
 丁寧に折りたたんで持って帰らせたと言われる。
  万博終了時には、イギリスのアレキサンドル・パーク
 商社が、日本庭園の建物のみならず、木や石のすべてを
 買いあげるほどだった。
  ウィーンでのジャポニスムは、その後、1890年代の分
 離派・クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継
 がれた。
  因みに、アレキサンドル・パーク商社と契約した起立
 工商会社は、ウィーン万博を契機に、日本政府が作らせ
 た会社で、
  日本の工芸品を売ることで外貨獲得に貢献した。
  1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎屋を再現し、
 好評を得た。
  この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は、後
 に美術商としてパリのジャポニスムの立役者となった。
1873年5月30日(5月5日)深夜1時過ぎ、皇居(旧江戸城)
 に発生した火災により、「皇居、太政官とも残らず焼失」
 し、午前4時30分、ようやく鎮火した。
  皇城炎上(氷川清話)
  明治天皇・皇后両陛下は、赤坂離宮(旧紀伊藩邸)に
 避難なされ、皇居が再建されるまで、ここを仮皇居とさ
 れた。
  太政官の諸記録は、「大使事務書類、往復文書、応接
 書とも」ことごとく焼けてしまったとある。
  使節の手もとにある書類をまとめて持ち帰ってもらい
 たいと、三条太政大臣以下、西郷、後藤らの参議が連名
 で希望している。
  因みに、明治5年5月5日未明、皇居女官部屋から出火し、
 西丸の大半を 焼き、江戸以来の主要な建物をほとんど焼
 失したの記述もある。
1873年5月(4月)東京の京橋に西洋料理店、精養軒が開業。
  街には、「西洋散髪」 「西洋牛肉」の看板。
1873年6月4日(5月10日)最初の陸軍大将に、西郷隆盛が任
 命された(現制の陸軍階位ではない)
  官制改正で、元帥の階級が廃止されたため、西郷隆盛
 はその時点で陸軍大将となった。
  階級としての元帥制度の運用は極めて短期間で終了し
 た。
1873年6月9日(5月15日)図書縦覧所「集書院(しゅうしょ
 いん)」が開設された。
  京都の集書院は、1872年に創設された。
  集書院は、一般開放をした図書館としては、文部省が
 明治5年(1872)に開設した東京の 書籍館につぐもの。
  また、公立の公開図書閲覧施設としては最初。
  集書院は、日本で最初の公立図書館。1873(明治6)年、
  京都府が現在の中京郵便局の場所に設置。
  以上の様に、記述に食い違いが見られる。
1873年6月20日(5月26日)特命全権副使・大久保利通が、
 帰朝した。
  1873年4月24日(3月28日)マルセーユ経由で、この日、
 横浜に着いた。
1873年6月28日(6月4日)各府県へ御真影下賜。
  最初、奈良県に天皇陛下の写真が下賜され、以降「御
 真影」が各府県に相次いで下賜された。
1873年6月29日、清国派遣全権大使が清国皇帝に謁見した。
1873年6月(明治6年5月)井上馨が、大蔵大輔を辞職した。
  明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚
 職事件を追及され、5月に辞職した。
  尾去沢銅山事件は・・、
  江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人・鍵
 屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、
  身分制度からくる当時の慣習から、その証文は、藩か
 ら商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっ
 ていた。
  1869年(明治元年)、採掘権は、南部藩から鍵屋茂兵
 衛に移されたが、
  諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で、大
 蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明
 治4年)に、この証文を元に返済を求め、
  その不能をもって、大蔵省は、尾去沢鉱山を差し押さ
 え、鍵屋茂兵衛は破産に至った。
  井上は、さらに、尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人で
 ある岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「井上馨所有」
 という高札を掲げさせ、私物化を図った。
  鍵屋茂兵衛は、司法省に一件を訴え出て、司法卿であ
 った佐賀藩出身の江藤新平が、これを追及し、井上の逮
 捕を求めるが、長州閥の抵抗でかなわず、
  井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。
  これが尾去沢銅山事件。
1873年6月(5月)妻の離婚請求が許可される。
1873年7月5日(6月11日)第一国立銀行が設立(創設)され
 た(日本初の銀行)
  紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案した民間経営
 の商業銀行第1号店
  江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核
 にして設立され、
  資本金は、双方100円に、一般応募44円をあわせた244
 円、
  紙幣の発行も認められる。
  ただし、兌換紙幣で、金との交換が条件だった。
  8月1日に、営業を開始した。
1873年7月7日(6月13日)外国人訴訟規則を定め、改定律令
 領布される(磔の刑、晒首などの旧制を廃した)
1873年7月9日(6月15日)伊予灘釣島の燈台竣工する
1873年7月9日(6月15日)宮古島の人々が、ドイツ船を必死
 に救出し、ドイツ皇帝も感謝した。
  ハンブルグ出帆のドイツ商船・ロベルトソン号が、沖
 縄県宮古島沖で台風に遭難した。
  この日からさかのぼること1か月前の5月14日:
  ドイツのハンブルグ港を出港した紅茶などの交易を行
 なうスクーナー型の帆船 R.J.ロベルトソン号
 (長さ約40メートル、幅12メートル、総トン数216トン)
 は、中国の広東に、この日、入港した。
  この船の所有者は、船長で、かつ、貿易会社を経営す
 るドイツ人のエドュアルド・ヘルンツハイム。
  福州(ふっちゅん)港に向けて出港する時に、2人の
 中国人を乗船させた。
  6月8日:福建省の福州港に入港し、紅茶の積み込み作
 業などを行った。
  7月2日:福州港から、オーストラリア南部のアデレー
 ド港に向け出港した。
  出港後、船長は、天候が悪化しはじめたので東シナ海
 から太平洋に抜けるコースを予定より北側に変更した。
  運命の7月9日:先島の南を航行中に台風に巻き込まれ
 る。
  暴風の中で、必死の操船作業中、ロベルトソン号のマ
 スト2本が折れた。
  この時、乗組員2人が、マストの下敷きになり負傷し、
 その後、死亡。
  また、嵐にもまれる甲板で、他のドイツ人2人と中国
 人1人も負傷。
  この日、帆船が積んでいた3艘のボートのうち、2艘が
 流されてしまう。
  この時、すでに、船は、航行不能となり高波にもまれ
 ながら漂流をはじめた。
  7月11日:この日の夕方、3日間漂流していたロベルト
 ソン号は、宮古島の宮国地区で、当時は浦穴川といわれ
 ていた海岸から約1,100メートル沖にあるサンゴ礁に座
 礁した。
  遠見台で見張りをしていた宮古島の番人が、すぐに外
 国船が座礁したことに気づき、役人に伝えるとともに、
 村人に呼びかけ、救助に向かう準備を始めた。
  村にあった長さ4メートルの小型舟で、救助に向かお
 うとしたが、この時には、まだ波が高く、とても沖まで
 救助に行くことが出来なかった。
  そのうちに夜も更け、その日の救助は止む無くあきら
 めた。
  しかし、村人は、船の乗組員を励ますために、海岸で
 夜通し、かがり火を焚(た)き続けた。
  7月12日:朝早くから、村人は、役人と共に舟の操作が
 上手な漁師を選び、2艘の船でロベルトソン号に救助に
 向かうことにした。
  沖のロベルトソン号を見ると、乗組員が長い白布を振
 って必死に救助を求めているのが見えた。
  波はまだ高く、とても船を出せるような状態ではなか
 ったが、この様子を見ていた漁師たちは、勇敢にも危険
 な海に船を漕ぎだした。
  高波のために漁師たちの漕ぐ船は、何度も転覆しそう
 になった・・が、
  日ごろから荒れる海で漁をしている漁師たちの巧みな
 操船でなんとかロベルトソン号に着いた。
  ロベルトソン号には、負傷者3人と女性1人を含む8人い
 ることが分かった。
  早速、ロベルトソン号に1艘だけ残っていたボートを
 海に降ろし、
  彼らの大切な手荷物もできるだけボートに積み込んで
 3艘は海岸へと戻った。
  一方、救助活動にあわせ、村の在番所は急ごしらえの
 救助センターとなった。
  病人や負傷者のために医師も2名が呼ばれ、手当てを始
 めた。
  この後、村人たちは献身的な看護をし、食事も十分に
 元気づけをした。
  村人の献身的行動に、大過なく日にちが過ぎ、27日後、
 宮古在番所が、自らの責任で船を与え、帰国させる道を
 開いた。
  8月9日:平良港に停泊していた官船の試運転が、ヘル
 ンツハイム船長と乗組員によって行われた。
  8月11日:村人が多数動員され、官船に必要物資の積み
 込みが始まった。
  8月16日:ヘルンツハイム船長と乗組員のために、在番
 所で盛大な送迎会が行われた。
  8月17日:出港の日、宮古島よりヘルンツハイム船長と
 乗組員のために大量の贈り物が船に積まれた。
  その目録があるが、1.羅針盤(らしんばん)、2.薪
 と木炭、3.飲料水、4.食料・・など、
  こうして、ヘルンツハイム船長と乗組員は、感謝と帰
 国できる喜びにあふれ、宮古島の多くの人の見送りを受
 け出港した。
  船がサンゴ礁の間を無事に通過し、安全な外洋に出る
 ことができるようにと、池間島の船大工が所有する船な
 ど2隻のくり船が、水先案内を務め、伊良部島の沖合12km
 まで見送った。
  そして、その後、1876年1月、手記で、宮古島の話を
 知った皇帝・ヴィルヘルム 1世は、すぐさま謝意を伝え
 る使節として艦船・チクローブを日本に派遣することを
 決め、
  そして、博愛記念碑を宮古島に立てることにした。
  1876年3月16日、ドイツ皇帝の勅命による艦船・チクロ
 ーブ号が、宮古島に到着した。
  1876年3月22日、チクローブ号の使節団、日本政府、沖
 縄県、宮古島の代表が出席して、博愛記念碑の建碑式が
 行われた。
  皇帝ヴィルヘルム 1世が、宮古島でドイツ人が救助さ
 れたことを知ったのは、新聞記事だった。
  記事には、「宮古島の人々は、他の国では考えられな
 いくらい親切で、代償を求めることなく必要なものを分
 け与えてくれた」・・と、
  救助された後の待遇も、どれほど当時の世界常識では
 「到底考えられないほどの心温まる日本人のおもてなし」
 であったかが綴られていた。
  この記事が、ドイツ皇帝による博愛記念碑の贈呈へと
 つながった。
1873年7月18日(6月24日)皇后宮、英照皇太后宮が富岡製
 糸場を行啓された。
1873年7月18日(6月24日)明治2年以来の衆議院の制を廃し、
 左院に属す。
1873年7月22日(6月28日)地方の農民、徴兵令に「血税」
 の文字があるのを誤解して動揺する。
1873年7月27日、副島が、清国から帰国。
1873年7月29日、西郷が、使節暴殺論書簡を板垣に送る。
1873年8月17日、西郷を、朝鮮へ派遣するを閣議内定。
  朝鮮は鎖国の真っただ中、通商を求めたアメリカと交
 戦もした。
  通商を求めても拒絶されたり、日本との関係も色々と
 こじれていた。
  この年、留守政府は、事態を打開するため、使節の派
 遣をすることとし、第一弾として、西郷隆盛を正使とし
 て朝鮮に派遣することが決定した。
  そして、居留民保護を目的とした派兵を含んでいた(
 征韓論)。
  そこに、欧米から帰国していた岩倉具視、大久保利通
 らは「内政の充実が優先で、征韓論などもってのほか」
 と反対した。
  激しい政治的な攻防が行われた。
  反対派だった岩倉具視は、天皇の裁可を戴いて、
  「西郷の朝鮮派遣は行わない」と、先の決定を覆した。
  そして、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣、
 後藤象二郎ら征韓派の参議は辞職し、政府を去った(明
 治六年の政変)
  ここに、大久保利通政権が樹立される。
  主な顔ぶれは・・、
  参議兼内務卿 大久保利通(薩摩)
  参議     木戸孝允(長州)         
  参議兼外務卿 寺島宗則(薩摩)
  参議兼大蔵卿 大隈重信(肥前)    
  司法卿    大木喬任(肥前)
  参議兼工部卿 伊藤博文(長州)   
  陸軍卿    山縣有朋(長州)
  参議兼海軍卿 勝安芳(幕府/勝海舟のこと) 
  開拓次官   黒田清隆(薩摩)
  大久保利通が就任した内務卿は、この政変を機に、大
 久保が、設立した内務省を所管する役職。
  内務省は、大蔵省・司法省・工部省から、勧業、戸籍、
 駅逓(えきてい)、土木、警察などの業務を移管し、
  後には地方行政、治安維持なども担当し、内政につい
 て、非常に強大な権力を握ることになる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-03-16 04:19 | 皆様とともに 幸せになりたい


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