(増補版)307E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年7月~1872年11月)

題:(増補版)307E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年7月~1872年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年7月19日(6月14日)明治天皇陛下が御巡幸され、長
 崎港に入港した。
  7月19日(6月14日)の夕方、西国巡幸の明治天皇お召
 艦「竜驤」が、長崎に入港した。
  駐伯所には、広運館に近い島原町の旧町年寄・高木邸
 があてられた。
  西役所跡には官立学校広運館、立山役所跡には県庁が
 あったが、建物は老朽なため、大波止の新桟橋から上陸
 された。
  天皇陛下は、西郷隆盛陸軍大将、徳大寺実則宮内卿、
 河瀬真孝侍従長らを従えて、行在所まで行進され、
  本五島町の脇山啓次郎ら5人の少年が高木邸で給仕役
 をつとめた。
  脇山啓次郎は、脇山勘助長崎電軌社長の父、のち長崎
 商業会議所会頭。
  7月20日(6月15日)、東京出発以来の西国巡幸は、ず
 っと炎暑続き。
  でも、この日、朝から雷雨、涼風が流れる。
  天皇陛下は、外出なさらず、行在所で、県内の産物や
 県民所蔵の古い書画、珍器類を御覧になられた。
  午後から、ふたたび強い日が照りつける天気だった。
  縁先から、近くの本下町、今下町の町民有志があげる
 長崎名物ハタあげを御覧になられた。
  旅館上野屋に泊まっていた西郷隆盛が、近衛兵を連れ
 て来て、庭先の空き地で調練をはじめ、
  天皇陛下は、縁先の椅子から御覧になられた。
  7月21日(6月16日)、宮川権令の先導で立山の県庁へ。
  役人たちの執務の状況を御覧になる。
  そして、大波止からお召艇に乗り、工部省所管の小菅
 の修船所(ソロバンドッグ)へ
  汽船・感通丸の船架引き揚げ作業を御覧になる。
  小菅から飽の浦へわたり、造船所の各機械場や工作所
 を御視察される。
  7月22日(6月17日)、御出発の日。
  大波止までの沿道をうめた官民による奉送の列の中を
 天皇陛下の行列が進み、
  御召艦「竜驤」は、長崎を離れ、熊本へ向けて出帆し
 た。
1872年7月20日(6月15日)鉄道停車場内で、新聞紙の販売
 が許可された。
  日本で初めて、新聞販売契約が締結された。
  以後、新聞発行部数は増加して行き、新聞販売業界も
 発展した。
  1872年(明治5年6月)「郵便報知新聞」として創刊さ
 れた。
  初期は、大隈重信の改進党に近い政論紙として大きな
 影響力を持った
1872年7月26日(6月21日)山内容堂(やまうちようどう、
  豊信、土佐藩主)没する(1827年~1872年)
  山内容堂逝去(氷川清話)
  近代日本へ導いた要人の一人。
  幕末の四賢侯の一人として評価される。
  門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループの中心
 人物の吉田東洋らを登用し、藩政改革を断行。
  黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し、
  将軍継嗣問題にあたり、大老に就いた井伊直弼と将軍
 継嗣問題で真っ向から対立した。
  容堂は、松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜の擁立に尽
 力。
  しかし、ことは成らず、安政の大獄の強圧のなかで、
 隠居願いを幕府に提出し隠退したが、謹慎を命ぜられた。
  忍堂と号した。
  しかし、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。
  1862年(文久2年)、勅使東下のなかで活動を再開し、将
 軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き、公武合体を
 はかり、公武合体運動を進めた。
  1867年6月(慶応3年5月)、薩摩藩主導で設置された四
 侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主
 導を嫌い欠席を続ける。
  結局、この会議は短期間で崩壊。
  1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、将軍・慶喜に
 大政奉還を建白、公議政体論による幕府権力の温存を計
 った。
1872年7月27日(6月22日)明治天皇陛下が、鹿児島に御到
 着された。
1872年7月29日(6月24日)学制発布
  学制の趣旨を明記した太政官布告とともに学制が公布
 され、日本の近代学校制度が成立した。
   1872年8月5日(7月2日)の説あり。
  下等小学4年、上等小学4年の「4・4制」。
  文部卿・大木喬任により、教育行政方針九箇条が、太
 政官布告で領布された。
  この太政官布告で、学校の系統、組織に関する 教育行
 政組織を規定した学制が発布された。
  これによって日本の教育が、日本という国家の教育行
 政の下に行われることになった。
1872年7月29日(6月24日)北海道・手宮港を小樽(おたる)
 と改称された。
  近世は小樽内と言っていた、アイヌ語の「オタルナイ」
 (砂だらけの沢、砂浜のなかの川)に由来する。
  1870年に、小樽仮役所が設けられ、1871年には、開拓
 使小樽出張所となり、
  1872年に、戸長役場が設置された。
  日本は、1872年5月15日(4月9日)に、庄屋・名主・年
 寄などの称を廃止して戸長をおいていた。
  戸長役場(こちょうやくば)とは、明治時代初期に、
 戸長が、戸籍事務などを行った役所のことで、現在の町
 村役場の前身にあたる。
1872年8月4日(7月1日)全国に郵便施行
  (1871年1月24日、郵便法布告、東京―京都―大阪間で
 開始)
  1872年8月に、前島がイギリスより帰京すると、郵便役
 所は、さらに、横浜、神戸、長崎、函館、新潟と、全国
 展開が図られ、
  江戸時代に地域のまとめ役だった名主に、自宅を郵便
 取扱所とする旨を要請、
  1873年(明治6年)に、全国約1100箇所の名主が、郵便
 取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
1872年8月4日(7月1日)副島種臣外務卿が、大江卓にマリ
 ア・ルズ号の取調べを命じた。
1872年8月7日(7月4日)すべての土地に地券を交付。
1872年8月7日(7月4日)西郷兄弟、丸亀より帰京へ(西郷
 隆盛が近衛都督に就任した)。
1872年8月15日(7月12日)明治天皇陛下、御帰京。
1872年8月17日(7月14日)最初の求人広告が出る(乳母の
 雇い入れの広告)
  1872年2月に創刊された東京日日新聞に広告記事が出た。
  広告の内容は、
  「乳母雇入度ニ付心当りの者ハ呉服橋内元丹波守邸内
 天野氏へ御尋可被下候。本乳にして乳さへ宜しく候へば
 給金ハ世上より高く進ずべし」とい4行の広告。
  現代文に訳すと、
  「乳母を雇い入れたいので心あたりの方は(中略)御
 尋ねください。本乳にして乳さえよく出るならば給金は、
 世間並みのところより高く差し上げます」という内容。
  因みに、この日の記事は、大蔵卿井上馨の「官書公報」、
 二番手が「司法省より文部省へ御達ニ相成候書面ノ写」
 で、
  最下段には、郵便の出し方「宛名はしっかりと」とい
 った駅逓寮(のちの郵便局)布告があり、官報の趣が残
 っている。
1872年8月22日(7月19日)参議・西郷隆盛が、陸軍元帥と
 なり、近衛都督(このえととく、日本陸軍の近衛部隊の
 名称)を兼任する。
1872年8月(明治5年7月)本木昌造が、神田に印刷工場を創
 立した(1869年6年、長崎活版伝習所設立)
1872年8月(明治5年7月)ウサギを飼うことが流行した。
  1872年10月7日(9月5日)ウサギ市場を禁止した。
  今は、愛玩動物として、普通に飼われている兎だが、
 もともと日本には飼いウサギは居なかった。
  (野兎は居たが・・)、
  明治時代になって、海外から舶来品として輸入された
 飼いウサギに人々は熱中した。
  その内、珍しい品種に、高価な値段が付けられ、投機
 の対象となった。
  あちこちで兎会が開かれた。
  兎の価格はバブル状態となった。
  なかには、わざと兎に色を染めて、珍種として売りつ
 けるという詐欺事件も発生した。
  公的機関も、対策に乗り出した。
  大阪府は、1872年(明治5年)、「兎売買ノ市立・集会
 禁止」に関する布令を出した。
  そして、取締りを始めた。
  東京府は、重税が府達された。
  この達府後、急速に兎バブルは収束した。
  兎を、多数、養兎していた人が、破産に追い込まれた。
  その様な破産者が多数現れた。
  高騰していた兎が、5銭という超安値で叩き売られた。
  それでも処分できない兎が、多数、居た。
  別史料に・・、
  1873年(明治6年)、税法が、東京府により府達された。
  1876年(明治9年)に、兎取締規則に改正され、
  1879年(明治12年)に、廃止に至る。
  内容:
  ・飼育しているウサギの届出を義務化
  ・ウサギ飼育1匹に対して、月1円の税の徴収
  ・無届でウサギを飼育した場合、1匹につき2円の罰
   金。
  ・ウサギの兎会の催し禁止、及び、競売の禁止
  因みに、この頃の1円は、米30kgが購入できる額で、
  かなりの重税が課せられた。
1872年9月2日(7月30日)井上馨、人身売買の廃止を正院に
 建白し、同時に、人権の自由を説いた。
1872年9月3日(8月1日)わが国初の官立図書館「書籍館(
 しょじゃくかん)が、湯島聖堂内に開館した。
  1874年に、浅草文庫(浅草)となり、
  1875年に、元に戻り東京書籍館と改称し、
  1877年に、(図書を東京府に移管し)東京府書籍館と
 なり、
  1880年に、(文部省所管になり)東京図書館と改称し、
  1885年に、(湯島から上野公園へ移転し)
  1896年に、帝国図書館に昇格して、唯一の国立図書館
 になり、
  戦後の1949年に、国立国会図書館支部上野図書館にな
 り、
  2002年5月5日に、子ども向けを充実し「国立国会図書
 館支部上野図書館・国際子ども図書館」となった。
1872年9月4日(8月2日)、学制が公布される(学制発布)
  文部省が、国民の皆学を目指し、全国に学制を発布し
 た(9月5日説あり)
  近代教育発程の第一歩たる「学制」を制定(学区制と
 就学奨励)
  学制は、全国を大学区、中学区、小学区に区分し学区
 制によって小学校、中学校、大学校を設置した。
  小学校制度も決定し、下等小学4年、上等小学4年の計
 8年。
  長崎県は、九州でも重要視され第6大学区本部となっ
 た。
  中学区は、諌早・北高来郡第1中学区となり長崎の広
 運館を第1番中学校にした。
1872年9月5日(8月3日)司法職務定制を制定。
  この司法職務定制によって、検察官にあたるものとし
 て検事が置かれた。
  そして、刑事裁判の請求、及び、立会いに従事するも
 のとされた。
  初めは、検事が公訴権を独占していなくて、裁判所が、
 職権で審理を開始する場合も認められていた。
  しかし、数次の司法職務定制改正や、検察制度の理解
 の深化に伴って、不告不理の原則が確立され、検事が刑
 事訴追を行う専門機関として認知されて行った。
  不告不理の原則(ふこくふりのげんそく)とは、刑事
 訴訟法上、検察官の公訴の提起がないかぎり、裁判所は
 事件について審判を行わないという原則。
1872年9月7日(8月5日)府県裁判所(ふけんさいばんしょ)
 の設置開始(旧暦8月3日説あり)。
  府県裁判所は、1872年9月5日(明治5年8月3日)司法省
 によって定められた5種 (司法省臨時、司法省、出張、府
 県、区) の裁判所中の1つ。
  本裁判所が民事を始審し、刑事の懲役以下の判決をす
 る任務をもち、
  本裁判所をもたない府県では、地方官が裁判官を代行
 することなどが明示された。
1872年9月7日(8月5日)水戸に鎮台分営を設けた。
1872年9月12日(8月10日)天保山、及び、和田岬燈台が竣
 工した。
1872年9月28日(8月26日)開拓使・函館支庁の福士成豊(
 ふくしなりとよ、船大工、通訳、測量技師、気象観測者)
 が、プラキストンの観測機器を譲り受けて、自宅に設置
 し、気象観測をはじめた。
  函館気象測量所は、我が国の気象観測所における気象
 観測のはじまり。
  日本で最初の気象台となった。
  気温、気圧、曇天日数、雨雪日数、湿度、水蒸気張力、
 雨量、雪の溶解水容積などを測量した。
  後に、統計表は、航海術にも農業にも大いに役立つこ
 とになった。
  1939年1月11日(昭和14年)国営に移管、中央気象台函
 館測候所と改称した。
  ・東京、1875年6月1日、開設。
   東京府第2大区(赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構
   内にて気象業務を開始。
   1887年1月1日、中央気象台として発足する。
   管轄は内務省
  ・札幌、1876年9月1日、開設。
   開拓使雇のウイリアム・ホィラーが、石狩国札幌区
   東創成通り教師舘内で観測を開始した。
   1879年10月28日、国営へ移管し、文部省所管となり、
   中央気象台札幌支台へ改称した。
  ・長崎、1878年7月1日、開設。
   内務省地理局長崎測候所が、初の国費により設置し
   た。
  ・広島、1879年1月1日、開設。
   明治政府に、国営で整備する余裕がなく、広島県が、
   広島測候所を設置した。
   1939年11月1日に、国営に移管した。
   中央気象台広島測候所となった。
1872年9月14日(8月12日)貢租米の金納が許可される。
1872年10月2日(8月30日)農民間の身分制を禁じ、職業の
 自由が許可された。
  家抱・水呑百姓解散と農民職業自由許可。
1872年10月2日(8月30日)上田虎之助が、新橋駅停車場構
 内で西洋食物店の営業をはじめた。
  駅を利用する乗降客や見送り、出迎えの客などのニー
 ズに応えて作られた(6月30日?)
1872年10月9日(9月7日)東京~大阪間の電信が開通した
 (1872年4月説あり)
  1869年(明治2年)には、東京~横浜間で電信(公衆電
 報)業務が開始され、
  これによって、国内初となる電気通信事業が始まった。
  以後、官用通信や新聞報道、あるいは、相場などの金
 融商業通信が増加の一途をたどった。
  そこで、通信設備の充実と電信線の拡充とが急務にな
 った。
  しかし、当時、通信設備の日本における電信技術は、
 欧米に比べると圧倒的に劣っており、
  電信機についても、高額な輸入品に依存せざるをえな
 かった。
  このため、明治政府は、工部省に製機掛(後に製機所)
 を設置した。
  そして、電信機の国産化を目指した(1879年に至り10
 台が製作され、1906年に302台が製作された)。
  電信線についても、明治政府は、驚異的なスピードで、
 建設工事を進めていった。
  政府が工事を急いだのは、短い区間では電信のメリッ
 トを十分に享受することができないこと、
  そして、政府機構の国家の基盤を確立するために、通
 信網を整備する必要があった。
  それ故、1971年8月に、新たに創設された工部省は、ま
 ず、東京~長崎間の電信線の架設に着手した。
  この時のお雇い外国人は、、イギリス人監督長エドガ
 ー・ジョージだった。
  全区間を6分して着工したが、工事は困難を極め、その
 過程で、電柱の転倒や、電線の切断などの民衆の妨害に
 も遭遇した。
  1872年4月に、京都~大阪間が開通した。
  そして、1873年2月に、神戸~長崎間が開通し、東京~
 長崎の全線が結ばれた。
1872年10月14日(9月12日)新橋~横浜間の鉄道の開業式が
 行われた(鉄道記念日)
  新橋~横浜間で鉄道営業がスタート。
  横浜~新橋間に鉄道が開業した。
  京浜鉄道成る(氷川清話)
  日本の鉄道が、品川=横浜(現在の桜木町)間の29キ
 ロの仮営業で開始された。
  新橋~横浜間の日本で初めての鉄道が仮営業から正式
 開業
  開業の式典が催され、明治天皇陛下のお召列車が横浜
 まで往復した。
  10月15日(9月13日)鶴見駅が開業し、旅客営業が開始
 された。
1872年10月15日(9月13日)マリア・ルズ号の清国人労働者
 を清国使節に引き渡す。
1872年10月16日(9月14日)尚 泰王(しょう たいおう)が、
 琉球藩主に封ぜられた。
  (在位:1872年10月16日 ~ 1879年4月4日)、
  琉球は、薩摩藩の附庸国、かつ、清の朝貢国として一
 定の独自性を保っていたが、
  他府県の廃藩置県も済んだ1872年に、琉球国王尚泰を
 琉球藩王に封じて華族とし、東京に藩邸を構えた。
  附庸:(ふよう)宗主国に従属してその保護と支配を
 受けている。
  琉球王を華族に列す(氷川清話)
1872年10月18日(9月16日)釜山草梁倭館を外務省に接収し
 て大日本公館と改称した。
1872年10月26日(9月24日)横浜に、ガス灯が灯る。
  日本最初のガス燈が、横浜に点火された(旧暦9月29日
 説あり)
  ドイツの商会が、神奈川県のガス会社建設の申請をし
 たため、外国に権益を奪われることを憂い、
  「日本社中」が結成された。
  そして、高島嘉右衛門は、ガス会社建設の権利を得て、
 フランス人技師を招き、1872年に、ガス工場(横浜瓦斯
 会社)を建設した。
  1872年10月31日(明治5年9月29日)夕刻、横浜の地:
 横浜の大江橋(桜木町駅近く現在の国道16号橋)から馬
 車道・本町通界隈に設置されたガス灯を灯した。
  翌年の1873年には、銀座にもガス灯が建設された。
  因みに、高島嘉右衛門は、横浜港の埋め立て事業を手掛け、
 この事により横浜の発展に寄与した事から、「横浜の父」
 といわれている。
  彼の業績により「高島町」という地名が残っている。
  別史料には・・(本件は食い違いが多い)、
  1872年10月31日、横浜に、我が国の初のガス灯が点灯
 した。
  1870年(明治3年)、高島嘉右衛門によって中区花咲
 町のこの地に、ガス会社が設立された。 
  高島は、フランス人技師アンリ・プレグランを招いて、
  1872年10月31日(明治5年9月29日)、神奈川県庁付近
 および大江橋から馬車道本町通りまでの間にガス街灯十
 数基を点灯した。 
  これがわが国ガス事業の発祥である。 
  1874年、銀座通りにガス灯が点灯した。
  1885年10月、東京府から東京瓦斯局の払い下げを受け、
 渋沢栄一らによって東京瓦斯会社として創立された。
  1944年11月、横浜市瓦斯局と合併した。
1872年10月26日(9月24日)メートル原器が制定された。
1872年11月2日(10月2日)芸娼妓解放令
  娼妓年季奉公廃止令、
  娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)
  人身売買禁止と娼妓・年季奉公人解放、遊女・飯盛女
 解放、
  人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之
 ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件
  人身売買を禁じた太政官達第295号。
  1872年(明治5)10月2日布告。
  年季奉公等の名目で売買同様のことが行われてきたの
 を禁じ、奉公は年限を定め、娼妓芸妓等を解放するよう
 命じた。
  続いて出された司法省達第22号では〈娼妓芸妓ハ人身
 ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス〉として、過去の借
 金を返すよう求めることはできないと定めた。
1872年11月3日(10月3日)新橋~横浜間の鉄道専用の電信
 が開設された。
1872年11月4日(10月4日)官営の富岡製糸場が開業した。
  富岡製糸場が、操業を開始した。
  (「富国強兵」の旗印、模範官営工場スタート)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-03-07 04:59 | 皆様とともに 幸せになりたい


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