(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)

題:(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、
  1871年11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置
 とある。
  仮名垣魯文は、この年に出版した『安愚楽鍋』で・・、
 肉食を賛辞し、以下のように書いている・・、
  「士農工商老若男女、腎愚貧福おしなべて、牛鍋食は
 ねば開化不進奴」・・と、
  文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかもその
 象徴のように信じて食べている・・と、
  牛肉は旨かったのだろうが・・、
 こんなところにも、西洋崇拝の、当時の、盲目的追従の
 姿が記されている。
  そして、魯迅は書く・・、
  「一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひ
 と、叫ばざるもの殆ど希なり候」・・と、
  味噌を入れ、葱(ねぎ)を入れ食べたが・・、
 異臭だと感じたらしく・・
 (現代人は涎・よだれが出るのだろうが?)、
  山椒を投ずれば、臭気を消す・・と、記している。
1871年11月13日(10月1日)東京湯島の大成殿にて、最初の
 博覧会開かれた。
  別の説では・・下記の記述がある、
  京都では、日本最初の博覧会が、明治4(1871)年、西本
 願寺で行われた。
  また、別史料では・・、
  近代日本では、新しい文明の成果や他国の文化を人々
 に伝える啓蒙的な役割を果たすことで、
  1871年(明治4年)5月の九段下の西洋医学所薬草園に
 て行われた大学南校主催の物産会(当初、博覧会の名で
 企画されたが、直前に物産会に名称変更)や、
  10月の京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都
 博覧会社主催)が、国内の博覧会、最初期のものである
 ・・と。
1871年11月14日、第1次府県統合が実施される。
  全国で、それまでの3府302県が、3府72県に統合さ
 れた。(75府県になったという説もある)
  因みに、第2次府県統合は、1876年4月18日と8月21日の
 2度に渡って行われ、府県が38までになっている。
  そして、1888年に、8つの県が復活し45府県となった。
  因みに、この時、復活した県は、宮崎県、佐賀県、香
 川県、徳島県、鳥取県、奈良県、福井県、富山県。
  これで、ほぼ現在と同じ姿となった。
  そして、1890年に、府県制の法律が制定・公布され、
  1899年に、法律改正され、
  1900年までに、全府県で府県制が施行された。
1871年11月20日(10月8日)欧米派遣の特命全権大使、決定
  岩倉具視(いわくらともみ、公家、政治家)を右大臣
 に任じ、
  そして、特命全権大使として欧米各国派遣が命じられ
 た。
  また、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚文を、
 副使に任命した。
1871年11月30日(10月18日)伊予国佐田岬に、燈台竣工す。
1871年11月、鍋島閑叟(なべしまかんそう、直正、佐賀藩
 主)逝去(氷川清話)
  藩政を改革し、殖産興業政策を推進した名君。
  佐賀藩は、前代藩主の放漫財政によって、藩財政は、
 破綻寸前で、
  藩財政は窮乏、郷村の疲弊は著しかった。
  閑叟は、改革派の側近を置き、藩政改革に着手、
  郷村の復興と、農商分離の政策を行なった。
  特に、目覚ましいのは、均田制度と称された土地分給
 政策で、
  本百姓の維持政策をとり、農商分離の徹底を目指した。
  また、陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増
 産を行ない、財政を潤した。
  また、商人の郷村での、土地保有を徹底的に排除し、
 改革を推進した。
  長崎警備の任についていて、西洋技術の優秀性を良く
 知って、早くから洋式兵備を採用し、大砲などの近代的
 兵器を備え、強力な軍備を整えた。
  そして、西洋文明を積極的に採用し、軍備近代化(大
 量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた)、
  そして、1852年に、我が国、初めての反射炉建設を成
 功させ、
  蘭学奨励・種痘などを行った。
  幕末には、薩長土肥と言われる実力を持つ雄藩となっ
 た。
  戊辰戦争の時は、その強力な軍事力によって官軍の重
 き位置を示した。
  大隈重信、江藤新平らの藩の実力者を、新政府に送り
 込み、そして、
  明治維新後、議定・軍防事務局輔・上局議長・開拓使
 長官などを歴任した。
1871年12月2日(10月20日)伊万里の深川長右衛門、同地
 より佐賀まで、私設電話架設を出願許可される。
  幕末の1867年に、国際博覧会のパリ万博に、幕府の出
 品参加の要請に応じたのは、薩摩藩と佐賀藩だけだった。
  この時、深川長右衛門は、佐賀藩からフランスへ行っ
 ている人間の一人となっている。
1871年12月5日(10月23日)東京で邏卒(らそつ、巡査の旧
 称)3,000人を新採用し、置いた(⇒1874・1・15東京警
 視庁)
  明治という時代になって、東京府の治安維持にあたっ
 た府兵は、諸藩から選抜された藩兵であった。
  しかし、いちじるしく統制に欠け、
  そして、その上、1871年8月の廃藩置県で廃止せざるを
 得なくなった。
  そこで、欧米のポリスを模範に、邏卒をおくこととし
 た。
  取締組を編成し、邏卒総長には、川路利良(かわじと
 しよし)が任じられた。
  この3分の2にあたる2000名が、鹿児島県士族であった。
  そして、帯刀を禁じて、3尺棒を持たせた。
1871年12月8日(10月28日)大阪日報(浪華要報)の創刊、
  この頃、府県庁支援の新聞が、次々と刊行された。
  1872年1月(明治4年12月)に、廃刊となった。
  その後、『大阪新聞』が、1872年4月(明治5年3月)創
 刊され、
  1875年5月(明治8年4月)に廃刊した。
  この新聞は、大阪府の援助で出した半官半民の新聞で、
 官衙町村役場等で購読された。
  そして、その後、『浪花新聞』が、1876年1月(明治8
 年12月)に創刊され、
  1877年12月(明治10年11月)に廃刊した。
  この新聞は、大衆層を対象とする、ふり仮名付き口語
 文の称新聞だった。
  街頭で呼び売りを行なって、人気を博した。
  そして、『大坂日報』が、1876年3月(明治9年2月)に
 創刊され、
  1882年3月(明治15年1月)に休刊した。
  この新聞は、大阪裁判所の判事グループが発起、推進
 した政論中心の大新聞で、社説入りでふり仮名はなし。
  この新聞が、紆余曲折を経て、後に、大阪毎日新聞と
 なった。
1871年12月15日(11月4日)最初の停車場の新橋駅が、落成
 した。
  明治5年4月(1872年5月)新橋停車場本屋が落成し、明
 治5年6月(1872年7月)、乗降場落成の説もある。
  開業は、1872年10月14日(明治5年9月12日)、
  初代の新橋駅は、今の汐留駅(しおどめえき)。
  横浜停車場と同型で、
  米国建築技師のリチャード・ブリジンスの設計、
  煉瓦造二層の洋館(木造石張り2階建ての説がある)
1871年12月18日(11月7日)漂流していた琉球漁民のうち、
 54名が、台湾原住民に殺害された。
1871年12月20日(11月9日)大臣・参議が、岩倉邸で、朝鮮
 問題の着手順序について協議した。
1871年、こじれる朝鮮への外交権(日本の国書の受取拒否)
  昔も今も、難しい国・朝鮮・・、
  1867年に、釜山倭館へ行って、対馬藩の家老は、明治
 新政府が、成立したことを、大院君政権へ伝えた。
  しかし、朝鮮側は、日本の新しい主権者が「皇上」と
 名乗っていることを理由に、国書の受け取りを拒否した。
  そして、この年・1871年、江戸時代以来、対馬藩にゆ
 だねていた対朝鮮の外交権を、日本外務省へ移管した。
  この時も、朝鮮は、日本の国書の受け取りを拒否した。
  かたくなな朝鮮だった。
  1872年に、外務丞・花房義質が、釜山へ行き、草梁倭
 館を接収して、大日本公館と改称した。
  これに対して、大院君政権は、強硬に退去を要求した。
  そのため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論
 が台頭する一因となった。
  その後、1875年の江華島事件を経て、翌年・1876年、
 日朝修好条規が締結され、
  日本外交使節は、ソウルに駐在となった。
  ここにおいて、釜山の倭館は、200年の歴史を閉じるこ
 とになった。
  因みに、江華島事件(こうかとうじけん、カンファド
 じけん)は、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突で、
  朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦・雲揚号が、江華
 島、永宗島砲台と交戦状態となった。
  明治新政府が成立した日本は・・、
  1868年(明治元年)12月19日に、新政権の樹立の通告
 と、条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求
 める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
 李氏朝鮮政府に送った。
  しかし、大院君のもとで、攘夷を掲げる朝鮮政府は、
 西洋化を進める明治政府を訝(いぶか、不審の目で)し
 み、
  冊封体制下では、中華王朝の皇帝にのみ許される称号
 である「皇」を、
  また、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っ
 ている・・などと、理由にして、
  日本からの国書の受け取りを拒否した。
  日本は、その後、何度も国書を送ったが、
  朝鮮側は、その都度、何らかの理由を付けて、受取り
 を拒否した(書契問題)。
  早期の問題解決を望んだ明治政府は、
  対馬藩が間に入らないで、直接、話し合った方が問題
 解決するとして、外交権を政府の元に置いた。
  そして、明治政府の外交官が派遣されたが、まったく
 なすすべがなく、
  この時の外交官の佐田白茅は、帰国ののち、1870年に、
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建
 白書を提出したくらいだった。
  この時点で、局面打開をしようとする外務省は、朝鮮、
 および、清国への担当者派遣など、複数の手立てを講じ
 た。
  そして、日清修好条規が、1871年9月13日に、締結され
 るに及んだ(この時は、朝鮮との条約締結に至らなかっ
 た)
  ここに、状況をさらに複雑にする話がある。
  アメリカと朝鮮との関係である。
  1871年4月に、アメリカ艦隊が、江華島を占領した。
  これを、朝鮮は奪還しようとした(辛未洋擾・しんみ
 ようじょう)。
  この発端のところに・・、
  1866年に、アメリカの武装商船のジェネラル・シャー
 マン号が、朝鮮住民を殺害し、略奪行為をした事件があ
 った。
  この時、朝鮮は、報復として焼き討ちをして撃退した
 事件だった。
  アメリカは、通商を求めに行ったのだと言い、朝鮮は、
 難破船なので処理しようとしたと言った。
  また、朝鮮は、慣例によって、薪・水を支給した上で
 退去を命じる方針であったと言った。
  そして、朝鮮は、問題解決のための朝鮮側の使者の乗
 った船を転覆させられたと言い、
  使者を捕縛されたと言った。
  そして、朝鮮領の住民が、砲撃を加えられ、死者が出
 たと言った。
  それ故、これに激怒した住民が、シャーマン号へ攻撃
 を開始したのだと言った。
  数日間の戦闘の後、アメリカのシャーマン号は座礁し
 た。
  ここで、朝鮮は、シャーマン号を襲い、焼き討ちにし、
 乗組員を殺害した。
  アメリカは、1871年に、この事件の謝罪と、通商を求
 めた、そして、
  アメリカのアジア艦隊に命じ、朝鮮を攻撃した。
  こんな辛未洋擾(しんみようじょう)がある中、日本
 は、朝鮮と問題解決の努力をしていた。
  朝鮮が、攘夷の意思を強めていたこともあって、交渉
 は進展しなかった。
  こんな経緯の中、1871年、岩倉使節団が、西欧に派遣
 されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は、
 1873年まで、事実上の棚上げとなった。
  しかし、留守の政府は、事態を打開しようと動いた。
  日本は、会見を求めた、
  朝鮮の地方外交官は、倭館を大日本公館と改名したこ
 とに激怒した(書類上の問題)。
  貿易などすべてがストップした。
  この様な事、そして、国書などの拒絶による交渉の行
 き詰まり、その交渉の中にある日本への侮辱行為などな
 ど、
  ものごとはスムース(滑らかに、順調に)に進まなか
 った。
  この国は、昔から難しかった。
  この国は、必ずしも、アメリカとも、うまくは行って
 なかった。
  中国とは、冊封(さくほう)体制の関係から、中国を
 「天子」とし、朝鮮の長と取り結ぶ君臣関係(宗主国と
 朝貢国の関係)で、波風は立ってない様にして経過して
 いた。
1871年12月23日(11月12日)岩倉使節団が、欧米へ。
  近代日本を作るための視察と、実情調査とも言える。
  この行動、直に西洋文明に触れるという体験は、非常
 に貴重な体験を与え、影響は大きかった。
  また、この時に同行した留学生たちも、帰国後、日本
 の構築に大きく貢献した。
  使節団は、この日、アメリカ船「アメリカ号」で横浜
 港を出航し、
  一路、サンフランシスコへ向かった。(~1873年まで)
  その後、アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.Cを訪問
 し、
  アメリカに約8ヶ月という長期滞在となった。
  その後、大西洋を渡り、イギリス → フランス →
 ベルギー、オランダ、ドイツ → ロシア → デンマ
 ーク、スエーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン
 万国博覧会視察)、スイス・・の12カ国。
  帰途、ヨーロッパ諸国の植民地であるセイロン、シン
 ガポール、サイゴン、香港、上海などの実状も見た。
  そして、出発後の約1年10ヶ月後、1973年11月2日に、
 横浜港に帰着した。
  留守政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論が争われていて、
 使節団の帰国後の明治六年政変へとなった。
  使節団の構成は、使節46名、随員18名、留学生43名の
 計107名だった。
  使節は薩長が中心で、
  書記官などは、旧幕臣から選ばれていた。
  特命全権大使:岩倉具視、副使:木戸孝允(桂小五郎)、
 大久保利通、伊藤博文、山口尚芳をはじめ、明治政府の
 中心人物たちで構成され、
  目的は・・
  1.条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出
   する。
  2.江戸時代後期に、諸外国と結ばれた不平等条約を改
   正する(条約改正)ための予備交渉
  3.西洋文明の調査
  使節団の主目的は友好親善、および、欧米先進国の文
 物視察と調査であったが、
  各国を訪れた際に、条約改正を打診する副次的使命を
 担っていた。
  明治政府は、旧幕府と締約された各種条約を、新政府
 のものとに置き換えるべく、明治初年度から順次交渉を
 続けていたが、
  1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって、欧米十五
 カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降、1ヵ年
 の通告をもって、条約を改正しうる取り決めであったの
 で、
  明治政府は、この好機を捕えて、不平等条約の改正を
 図ったのだった。
  岩倉大使、欧米に出発(氷川清話)
  対外関係の実務は、幕府の方が経験豊富なため、登用
 されていた。
  江戸から東京になったからといって、過去の価値(幕
 府の経験)が、弊覆(へいり、惜しげもなく棄てる)の
 如く捨て去られた訳ではなかった。その様な日本だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-02-28 01:08 | 皆様とともに 幸せになりたい


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