(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)

題:(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年6月5日(4月18日)平民の乗馬を許した。
  中近世の日本では、馬術は、長く武芸の一つとして位
 置づけがなされていた。
  それ故、乗馬は、基本的に武士のみに許されていた。
  それ以外は、馬子など別の者に馬を引かせる場合に限
 って騎乗が許された。
  たとえ、自分の馬でも自ら手綱を握ることはできなか
 った。
  1871年になって、平民の乗馬が許可された。
1871年6月8日(4月21日)西郷隆盛が、島津忠義(薩摩藩主
 →鹿児島藩知事、華族)に従い、廃藩置県に備えて、常
 備兵四大隊を率いて京都に入った。
1871年6月10日(4月23日)初めて鎮台(ちんだい、軍政機
 関、鎮守府)を設置する(明治初期の常備陸軍)。
  東山道本営を、陸前石巻(分営:福島・盛岡)、
  西海道本営を、豊前小倉(分営:博多・日田)に設け、
 地方の警護にあたった。
  1888年に、師団と改称した。
1871年6月11日(4月24日)戸口調査のため民家各戸に番号
 を記入せしむ。
  1871年戸籍法に基づいて、1872年に実施。
1871年6月(4月)「安愚楽鍋(あぐらなべ)」(著者:仮
 名垣魯文、かながきろぶん)が出版された。
  牛鍋を囲む庶民の雑談の形で,文明開化の世相を滑稽
 に描いた。
  田舎(いなか)武士、職人、生(なま)文人、芸者、商人
 などの登場人物の会話のなかには、蒸気車、伝信機(てれ
 がらふ)、こうもり傘など、開化の文物が縦横に取り上げ
 られている。
  すでに牛なべは、文明開化を象徴する食べものになっ
 ていた。
  この6年後の1877年頃には、牛鍋屋は急増する。
1871年6月(4月)お雇い外人
  お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、
 幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、
 欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用され
 た外国人のことで、欧米人を指すことが多い。
  そして、その国籍や技能は多岐に亘り、
  1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)
 までに、
  日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の
 者の資料として、『資料 御雇外国人』や『近代日本産業
 技術の西欧化』がある。
  この資料から、2,690人のお雇い外国人の国籍が確認
 できる。
  内訳は、イギリス人 1,127人、
      アメリカ人  414人、
      フランス人  333人、
      中国人    250人、
      ドイツ人   215人、
      オランダ人   99人、
      その他    252人 である。
  また、期間を1900年までとすると、
      イギリス人 4,353人、
      フランス人 1,578人、
      ドイツ人  1,223人、
      アメリカ人 1,213人 とされている。
  1871年(明治3~4年)の時点で、太政大臣・三条実美
 の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったのに
 対し、
  外国人の最高月俸は、造幣寮支配人ウィリアム・キン
 ダーの1,045円であった。
  日本人の大臣の1.7~1.3倍という超高給だった。
  その他、グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・
 デュ・ブスケが600円で雇用されている。
1871年6月18日(5月1日)大井川の輦台渡、廃止となる。
1871年6月26日(5月9日)車馬道、人道の制、初めて東京
 市街主要大通りに開く。
1871年6月27日(5月10日)新貨条例
  新貨条例定めて、一円を単位とする。
  新貨条例を制定、「円」 と「金本位制」。
1871年6月30日(5月13日)参議・副島種臣(そえじまたね
 おみ)が、樺太の境界問題の解決のため、ロシアへ派遣
 を命ぜられた。
1871年7月1日(5月14日)種痘苗を各府県に頒ち、種痘を
 奨励する。
1871年7月15日(5月28日)洋服屋開店広告初めて現われる。
  洋服の普及の初め、洋服店が出現した。
  横浜の五十二番街、及び、東京茅場町に各一軒の洋服
 屋が開店した。
1871年7月(5月)木戸孝允が、『新聞雑誌』を創刊した。
  「新聞雑誌(しんぶんざっし)」は、参議となる木戸
 孝允が出資して、出身藩の長州藩の山県篤蔵(やまがた
 とくぞう)に、東京で創刊し、発行させた新聞だが、
  紙名は、ニュースの他に世間の雑事も掲載するという
 意味(政治・経済・教育・人事のほか、海外事情の紹介)。
  そして、新政府の文明開化や廃藩置県などの政策を、
 国民に周知徹底させることを意図していた。
1871年7月、食肉が広まり、販売権をめぐって商人・南屋喜
 重に屠牛場免札が許された。
  そして、8月に、屠牛場の開設が鑑札制となった。
1871年8月4日(6月18日)陸奥の尻屋岬燈台が竣工する。
1871年8月11日(6月25日)西郷隆盛と木戸孝允が、参議と
 なる 。
  この後に断行される廃藩置県によって、公卿と諸侯の
 大半が一掃される。
  そして、維新の功臣が政府の中核となる。
  この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き
 連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人
 を参議とすべしとした。
  そして、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保ら
 の賛同を得たが、木戸本人が固辞したため、
  西郷自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に、
 参議に就任した
1871年8月12日(6月26日)民部省が長崎~上海の通信を開
 始した。
1871年8月23日、ドイツ医学の輸入の初め、
  ドイツ人教師が到着した。
  大学東校(東京大学医学部の前身、以下、東京大学と
 いう)で、ドイツ式医学教育を本格的に始めた。
  明治政府は、1870年(明治3年)、東京大学(医学校:
 大学東校)兼病院において、3年契約で、2名の医師を招聘
 したい旨をドイツ連邦公使に依頼した。
 先方の条件には、医学校の長たるべきこと、天皇陛下の
 侍医たること・・などが盛り込まれていた。
  契約は成立したが、肝心の教師たちは、なかなか来な
 かった。
  この時、プロシャ(ドイツ)は、普仏戦争のまっ最中
 だった。
  来る予定の二人の教師は、現役の軍医だったので、来
 日がなかなかできなかった。
  肝心の教師が来ないとなって政府は苦慮した。
  そこで、ボードイン(オランダ出身の軍医、長崎養生
 所のポンぺの後任)に頭を下げて、1870年8月(明治3年
 7月)に、帰国するまで講義してくれるよう頼むという始
 末だった。
  それでも、まだ、約束の教師は来なかった。
  今度は、フランス人のE. マッセを12月まで雇用した。
  そして、翌年の1871年になっても、まだ来なかった。
  急場しのぎで、アメリカからデンマーク人 O.シモンズ
 を招いた。
   1871年8月23日に、ようやく、ドイツ人教師たちは、
 夫人同伴で横浜港に着いた。
  1871年8月25日の朝、一小隊の儀伎騎兵に護られた陸軍
 一等軍医正(中佐)のミュルレル(1824年生まれ、47歳)は、
 華々しく東京大学(東校)玄関に到着した。
  彼は、ただちに、ドイツ語で演説を始めた。
  この急場を、松本良順の弟子で語学に秀でていた司馬
 凌海(しばりょうかい)が通訳した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)廃藩置県
  廃藩置県の詔書が出る。
  この日・明治4年7月14日、午後2時、東京にいた各藩の
 知藩事56人が皇居大広間に呼び出され、
  そして、明治天皇陛下によって廃藩置県の詔(みこと
 のり)が発布された(以下、その詔)。
  朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万
 国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム
 ヘシ朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ
 各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久シキ或ハ其名ア
 リテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対
 峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト
 為ス是レ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令
 多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
  (数百年因襲いんしゅうの久ひさしき
  或あるいは其その名ありて其実そのじつ挙あがらざる
 者あり
  何を以もって億兆を保安し
  万国と対峙たいじするを得んや
  仍よって今 更に 藩を廃し県と為なす)
  ・・
  藩は、県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京へ
 の移住が命じられた。
  各県には、知藩事に代わって新たに中央政府から県令
 が派遣された。
  なお同日、各藩の藩札は、当日の相場で政府発行の紙
 幣と交換されることが宣された。
  当初は、藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道
 府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。
  また、飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と
 比べると弱かった。
  そこで、明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統
 合された。
  その後、県の数は、明治5年(1872年)69県、明治6年
 (1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876
 年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治
 14年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了し
 た。
  だが、今度は、逆に、面積が大き過ぎるために地域間
 対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て
 来た。
  そのため、次は分割が進められて、明治22年(1889年)
 には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着い
 た。
  江戸城明け渡しという形で、流血を見ずに 中央政権の
 交代が実現した 翌年の1868年6月11日に、新政府の統治
 機構である政体書が発表された。
  これが、現在の都道府県の前身と言え、府県 が、最初
 に設けられたのが、この政体書だった。
  薩長土肥がリードした「版籍奉還」は1869年7月25日に
 行われ、諸侯は 新政府から任命されたという形になり、
 「知藩事」となった。
  藩に対しては、「藩制」などによる統制が加えられた
 ものの、基本的に、まだ、地方は、殿様の支配が続く分
 立体制だった。
  財政問題と余剰人員化した士族とを抱えて 苦しい諸藩
 だった。
  脱落する藩も出てきた。
  軍事・教育・司法・財政を、「全国一致之政体」にし、
 近代国家に脱皮したい政府にとっても、中央政府の強化
 は大きな問題だった。
  これを解決したいために行われたのが、この廃藩置県
 だった。
1871年8月29日(7月14日)外国はびっくり:廃藩置県の「
 外国新聞報道」
  この廃藩置県が行われた時、外国の新聞記者は、これ
 は凄(すご)いと、各社が外電を打った。
  一つの体制が滅びていく時には、ヨーロッパであれば、
 間違いなくギロチンになる様な世界的革命である廃藩置
 県を、日本は、血の一滴も流さずにやった・・と、
  「武士階級の最終的な自己否定」であった廃藩置県で
 あったからだった。
  廃藩置県の断行は・・、
  廃藩置県案は、西郷隆盛、大久保利通・木戸孝允ら薩
 長の要人間で密かに練られた。
  そして、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信ら
 の賛成を得て成案となった。
  そして、この日、新政府は、在京の知藩事を皇居に集
 めて廃藩置県を出した。
  そして、藩は府県となった、知藩事は免職された。
  そして、中央政府から府知事・県令が派遣された
  旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き、中央集権をはか
 った。
  そのままに、県に置き換えたため、細かく分かれ、全
 国で3府302県になった。
  飛地も多く、地域としてのまとまりも弱いというとこ
 ろもあった。
  これは後に、11月14日に、統合され、3府72県になっ
 た。
1871年頃、裏側の諸要素が見えない明治
  明治以来の日本人が、久しくヨーロッパの明るい側面、
 近代的なシンボル、自由や平等や進歩だけを受け入れよ
 うとし、
  その背後にある、これとは正反対の方向へヨーロッパ
 を引っ張っている裏側の諸要素が、
  如何に根強いかを見ないで、
  極めて表面的で空疎な理想主義に走っていた。
1871年~1872年、何でも西洋が良いの風潮
  この頃、何でも、かんでも、「西洋に学べ、西洋に遅
 れを取るな」の風潮が世を風靡した。
  この叫びが、日本全土を駆け巡り、野火の様に広がっ
 て行った。
  西洋の何も分からない時代、ただただ、西洋は進んで
 いる、西洋から学べとなっていた。
  こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト
 教を良きものと盲信した。
.
  そして、今日の言葉・・、
.
  かつては「建設省」という「省」があった。
  その頃の日本は、何もない時代だった。
  日本は、一生懸命に建設した。
  その努力のかいもあって、幸いにも目的は達して、そ
 の省の名前は、国の形に不相応になった。
  そこで、その省の名前は変わり、建設省の名前は無く
 なった。
  マンションでも何でも、竣工すれば、出来あがれば、
 建設されれば、その次に、「その維持」に意を配るのが、
 当然の行動となる。
  維持費の積み立てもする。
  その維持の実施を考える「組織も作られる」。
  何もしないで、放っておけば、「何でも壊れる」ので、
 当然の行為だ。
  国は今、「社会資本」に「維持メンテナンス」が「必
 要」で「大切な時」なのである。
  国には今、「社会資本」の「維持メンテナンス」の「
 組織が必要な時」なのである。
  「社会資本メンテナンス省」、もしくは、「社会資本
 メンテナンス庁」が必要な時なのである。
  NHKのような組織などが、間違い観念を煽り、有り
 もしない「2016年問題」が煽られる状況となっている。
  その様なインチキに煽られ、公的機関は、まだ、使え
 る多くの社会資本を壊して、作り直そうとしている。
  もう地球資源の多消費型社会は終焉しているのにだ。
  その様な状況の、地球の状況の中を、多くの公的機関
 の建物・社会資本が壊される事になっている。
  NHKのインチキ放送が、「2016年問題」が持ち上
 がって乗っかり煽っている。
  また何と、この多くの社会資本は、「壊すという方針」
 になっている。
  「そう簡単に壊すなよ」と言いたい。
  「リユースする道を考えよ」と言いたい。
  デザイン良く耐震補強すれば良いだろうに・・。
  建物内部だってセンスの良い設計事務所に依頼すれば、
 びっくりするくらい、見違えるほどになる。
  まだまだ、社会資本は使えるのだ、大切に使って行き
 なさい。
  リユースならば、費用は半分で済む。
  その残った半分の費用は、そのお金は、国民へ還元せ
 よ。
  そうすれば、社会が潤(うるお)い、景気を刺激する。
  金のない時に無駄遣いはしないこと。
  このNHKのインチキ放送で、損害賠償を請求される
 リスクまで、国民は負う羽目になっている、その可能性
 は否定出来ない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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by suba28 | 2016-02-22 00:44 | 皆様とともに 幸せになりたい


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