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(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)

題:(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年7月27日(明治2年6月19日)東京九段に東京招魂社(
 靖国神社)の造営が起工された。
1869年7月29日(6月21日)明治政府として、最初の渡航免
 状を下付した(佐藤進、横浜を出帆しドイツへ向う)
  佐藤進:さとうすすむ、医師、医学者、日本陸軍軍医、
 男爵(1845年12月23日~1921年7月25日)
  この年、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイ
 ツに留学をし、ベルリン大学医学部で学び、1874年(明
 治7年)に、アジア人として初の医学士の学位を取得して
 帰国した。
1869年7月(6月)本木昌造(もときしょうぞう)が、長崎
 製鉄所で金属活字(鉛)の鋳造に成功した。
  1869年11月、本木昌造らのグループが洋式活版術の移
 入を受ける。
  日本の活版印刷技術の先駆者と言われている。
  興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)に、長崎製
 鉄所付属活版伝習所を設立した。
1869年8月2日(6月25日)藩知事家臣を士族と称し、農工商
 民を平民とする。
  封建的身分制の廃止の進捗は・・、
  1869年に、公卿・諸侯を華族に、そして、藩士・幕臣
 を士族・卒に、町人・農民を平民にした。また、
  1870年に、平民に名字の使用許可し、
  1871年に、士族の散髪・脱刀の自由とし、華族・士族・
 平民間の結婚を許可し、職業の自由とした。そして、
  1872年に、全国戸籍調査 →翌年「壬申戸籍」
  裁判上の扱いも四民平等とした。
  1873年に、徴兵令を公布し、
  1876年に、廃刀令を公布した。
1869年8月5日(6月28日)明治天皇陛下、群臣を率いて神祇
 局に臨み、国是一定を天神地祇、皇祖の霊に告げ給う。
  神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)は、
 古代の律令制で設置された、国家機関の一つ。
  天神地祇(てんじんちぎ)は、天つ神と国つ神。すべ
 ての神々。一般に、天神は高天原(たかまがはら)に生ま
 れた神、あるいは葦原の中つ国に天降った神、地祇はこ
 の国土の神とされる。
  国是一定:一定の国是
  議會政治は、神代以来の傳統であり、近代になってわ
 が國に西洋から輸入されたものではないことは、
  明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地
 祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に
  「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる
 天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって
 明らかで、
  「議會政治實現」とは、神代への回帰、
  明治維新における徳川幕府政治打倒、一君萬民國家の
 建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新だ
 った。
1869年8月6日(6月29日)招魂社(しょうこんしゃ、後の、
 靖国神社)が、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京
 招魂社」として、元歩兵屯所跡の火除地に創建された。
  但し、創祀時は、未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣
 工したのは1872年(明治5年)であった。
  また、明治天皇陛下の裁可を得て、1879年(明治12年)
 6月4日に「靖國神社」への改称がなされ、
  また、別格官幣社列格の太政官達が発せられた。
  鳥羽・伏見から箱館戦争にいたるまで、戊辰戦争の全戦
 没者が合祀された。
1869年8月9日、勝海舟、辞表に及ばずの御沙汰あり、更に
 藩知事より藩務諮の為大丞御免願書呈出(氷川清話)
1869年8月13日、勝海舟、外務大丞御免(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)政治情勢の変動に対応して中央集
 権が強化される。
  新しい太政官制が導入され二官六省制がとられた。
  二官六省の制:政府官制を改革し、神祇官・太政官・
 民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省、お
 よび、開拓使・衆議院そのほかを設置し、行政官・6官・
 上局会議を廃止。
1869年8月15日(7月8日)集議院が設置された(公議所が改
 称された)(7月7日説あり)。
  集議院は、明治初期の政府の議事諮問機関で、この日
 の官制改革で、公議所(こうぎしょ)を改称して設置さ
 れた。
  長官には大原重徳、次官に阿野公誠、判官に神田孝平、
 丸山作楽らが任じられた。
  議員は、諸藩の参事1名ずつで構成され、諸藩の意向の
 反映が配慮されていたが、公議所が議決機関であったの
 に対し、諮問機関ないしは諸藩の政府協力機関であり、
 その権限は縮小され、太政官提出の議案を審議、答申す
 るだけにとどまった。
  公議所(こうぎしょ)は、集議院の前の機関で、やは
 り1869年に開設されていた明治政府の議事機関だった。
  やはり、各藩から1名ずつ任命された公議人から成り、
 幕末以来の公議思想の実行を意図したもので、審議は各
 方面にわたった。
  1869年8月15日の官制改革により集議院と改称された。
  公議所を開き、制度律令を議す(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)、開拓使は、版籍奉還を受けて、
 この日に、実施された官制改革で誕生した中央政府機関
 であった。
  明治政府が、北方開拓のために「開拓使」を置いた。
  また、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を郡制の中
 に組み入れた。
1869年8月15日(7月8日)造幣局は、造幣寮へ改称されて大
 蔵省所属となった。
1869年8月19日(7月12日)高輪談判(たかなわだんぱん、
 贋貨の回収と近代貨幣制度の導入を国際公約する)
  東京高輪において開催された明治政府首脳と、イギリ
 ス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐
 日公使による会談。
  この会談で、日本が官民の(二分金を中心とした)贋
 貨の回収と、近代貨幣制度の導入を国際公約とすること
 になった。
  また、新貨条例や造幣局設置のきっかけとなった。
  倒幕後、明治新政府は、幕府の交わした改税約書を引
 き継ぐこととなり、
  慶應4年5月9日(1868年6月28日)新政府は、銀目廃止
 を布告し、丁銀および小玉銀は廃止され、通貨の両への
 一本化が図られた。
  この時期、日本国内には、多種多様の貨幣が混在し、
 それぞれが、額面でなく、実質価値による相場で取引さ
 れ、
  加えて、贋造貨幣が横行していたことから、
  これらについても、日本国外から改善を求められた。
  明治2年7月12日(1869年8月19日)高輪談判において、
 二分判を主とする贋造貨幣の処理について、新政府と、
 5カ国の駐日公使との間で交渉が行われた。
1869年8月24日(7月17日)太政官令にて三府の外、県と称
 す
1869年8月24日(7月17日)北海道という名称
  蝦夷開拓史となった伊勢国の探検家の松浦武四郎が、
 蝦夷の改名候補を政府に提出した。
  「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」
  候補は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北
 道、千島道。
  すべて地理や歴史に基づく
  北加伊道は、アイヌ民族が、自らの住む土地を「kay」
 と呼び、
  北に位置することから名づけられる
  8月15日、政府による審議を経て、「北加伊道」案が
 「北海道」と改字、
  南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海
 道」で「北海道」に、
  太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称
 十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」による。
1869年(明治2年)北海道茅沼炭鉱にて、炭鉱軌道(茅沼炭
 鉱軌道)が運行を開始した。
  鉄道とはいっても、鉄板で補強した木のレールを使用
 し、牛馬で運行していたものであった。
  これを、日本の鉄道の最初とする説もある。
1869年9月1日(7月25日)定期蒸気船が、初めて、東京~横
 浜間に運輸を開始した。
  毎日2回運輸、片道賃金100匹。
1869年9月5日(7月29日)能楽
  明治最初の、盛大な能楽が、赤坂の紀州藩邸で演じら
 れた。
  能を外交のもてなしとすること自体は、欧米視察後の
 岩倉卿の肝煎りで始まったわけではない。
  確かに、岩倉は、1871年に、岩倉使節団を組織して、
 1873年に、欧米視察をし、その時に、オペラが外国要人
 の饗応に催されることを知り、
  能が、日本で、これにあたると考え、能の再興と外交
 への活用を働きかけたが、
  すでに、岩倉使節団が出発する2年前の1869年(明治2
 年)に、
  早くも、外国賓客のために能狂言の催しが開かれた。
  1869年7月、明治政府は、英国ヴィクトリア女王の次男、
 エジンバラ公アルフレッド王子を迎えた。
  その饗応に、相撲観戦や浅草訪問とともに、観能の催
 しを組み、赤坂の紀州藩別邸で演じた。
  その時の能は、「弓八幡」(喜多勝吉)、「経正」(
 観世銕之丞)、「羽衣」(宝生九郎)、「小鍛冶」(金
 剛唯一)の四番。
  狂言も、「墨塗」「太刀奪」の二番が出された。
1869年9月6日(8月1日)鉄橋
  日本最初の鉄橋が、長崎の浜町通りに竣工した。
  (注)「初代」の銕橋(くろがねばし)が、1868年に
 架けられ、これが、日本最初の鉄橋という説もある。
  1867年(慶応3年)の豪雨にて、橋が大破し、有志らの
 協力を経て、長崎製鉄所の鉄を使った頑丈な鉄橋として
 架け直されることになり、
  設計は、オランダ人技師ホーゲル、
  工事は、長崎製鉄所頭取の本木昌造が指揮を採り、
  総工費は、1万6千両をかけて建設されたという。
  橋は、全長27メートル、全幅6メートルで、
  橋面は、板張りとされ、通行人の下駄の音がよく響い
 たという。
1869年、牛鍋屋の流行
  安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の日本国外
 の人々から食肉文化が伝わってきた。
  日本に肉牛畜産の産業がなかったため、当初は、中国
 大陸や朝鮮半島、あるいは、アメリカから食用牛を仕入
 れていた。
  しかし、居留地人口の増加に伴い、牛肉の需要が増加
 し、
  のちに、神戸の家畜商が、横浜へ食用牛を搬送するよ
 うになった。
  この様な背景の元、幕府は、元治元年(1864年)居留
 地に指定されていた横浜市の海岸通に、屠牛場の開設を
 認めた。
  屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に、横浜入
 船町で、居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が、
 1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したの
 が最初の事例とされる。
  幕末期、開港場の横浜では、牛肉の煮売り屋台があっ
 た。
  1867年、江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた「中川」
 も牛鍋屋を開業した。
  明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」
 を創業し、
  当時主流の味噌煮込み風牛鍋を提供した。
  同年、横浜につづき、東京の芝にも、外国人向け屠牛
 場ができると、牛鍋屋の流行は飛び火し、
  それ以降の牛食は、文明開化の象徴となった。
1869年9月12日(8月7日)対馬藩の改称
  対馬の府中藩(対馬藩)が、厳原藩(いづはらはん)
 と改称した。
  宗義達は、版籍を奉還し、新藩制により厳原藩と改称
 されて、厳原藩知事となった。
  これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改めら
 れた。
1869年9月12日(8月7日)、静岡藩の成立
  明治のこの時に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)
 と呼ぶ。
  かつての藩は、駿府藩(すんぷはん)で、駿河府中藩、
 もしくは、府中藩とも呼ばれた。
  以下、勝海舟の話・・
  維新の際、旧旗本の人々を、静岡に移したのは、およ
 そ8万人もあったが、
  政府では、10日の間に移してしまえと注文したけれど
 も、それは到底できないから、
  20日の猶予を願って、汽船二そうでもって運搬した。
  しかし、その困難は非常なもので、1万2000戸より他に
 ない静岡へ、一時に、8万人も入り込むのだから、
  俺は、自分で農家の間を奔走して、とにかく、ひとま
 ず皆のものに尻を据えさせた(氷川清話)
  また、以下、海舟の後日談・・
  将軍に政権の返上を進言・・、将軍が、政権を返上し
 て、徳川家がもとの駿・遠・参の一大名に戻るべき事を、
 公式に進言した最初の人は、大久保忠寛である。
  その直言のために、度々、上役に嫌忌されて、左遷さ
 れたり、屏居させられたりした。
  忠寛は、講武所奉行、外国奉行を歴任し、慶応4年の江
 戸無血開城の前後には、会計総裁として、陸軍総裁・勝
 安房の女房役であった。
  海舟は、この大久保越中によってどんなに助けられた
 か分からない。
  明治になってから、大久保は「一翁」と称したが、明
 治5年から8年まで、東京府知事を務め、また、元老院議
 官となった(氷川清話)
  また、勝海舟の回顧談・・
  幕府に軍艦製造を進言の件・・、長崎のオランダ商館
 長ドンケル・グルヂウスは、幕府に勧告して、日本も海
 軍を建設し、軍艦製造に着手し、そのための要員・人材
 を教育すべきことを進言し、
  幕府も、その勧告に従う事になった(氷川清話)
  長崎には、かねて、幕府の注文していた新造艦が、オ
 ランダから回航されてきた。
  このヤッパン号は、咸臨丸と名付けられた(氷川清話)
  また、長崎の飽の裏には、長崎製鉄所が設けられた。
  内容は、製鉄ではなく、造船所であり船の修理工場で
 ある(氷川清話)
  オランダへ発注した第二号艦エド号も到着して、これ
 は朝陽丸と名付けられた(氷川清話)
  家光と沢庵について・・、三代将軍・家光は、沢庵和
 尚を座右に置いて、重く用い、いつも民間の事情などを
 聞いた。
  家康公が、天海におけるのと同じ(氷川清話)
  島原の乱の事・・、注進が、幕府に来ると、将軍は、
 すぐに板倉内膳正(ないぜんのしょう)に命じて征討に
 向かわした。
  それを聞いた柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)は、
 将軍をひどく換言して、将軍が、すでに厳命を下して江
 戸をたたせたものを、わずか剣道指南ぐらいの身分であ
 りながら、独断をもって、それを引き止めようとした(
 氷川清話)
  (注)キリスト教は、幕府が、日本が、キリスト教を
 弾圧したとかと言うが、この事の様に、キリスト教には
 非常に寛大であった。
  捕らえても、本人ではなくても「キリスト教を止めま
 した」と言えば、すぐ許した。
  また、余り刑には処さなかったが、処す場合でも、そ
 の刑場の囲いの一部を開けておいて、逃げられるように
 していた。
  ヨーロッパのキリスト教会の様に、魔女を広場に連れ
 出し、なかなか燃えない生木でじわじわ焼くような、卑
 劣なやり方など、温厚な日本は、しなかった。
  そして、勝海舟の想い出のはなし・・、
  静岡に隠居の家康公について・・、静岡近辺の旧家に
 は、東照宮(家康公)が来て、碁を打たれた。
  これは、民と親しむことによって、民間の実状を知る
 ためであった(氷川清話)
  そして、勝海舟の財政手腕について・・、勝海舟が、
 明治20年にまとめた書物に「吹塵録(すいじんろく)」
  という大部の経済書があるが、
  これは、海舟が、当時の松方蔵相の依頼を受けて、旧
 幕時代の財政を担当した勘定奉行、組頭・目付など16名
 を動員して、資料をそろえて編纂した幕末財政史である。
  今日、幕末財政史を調べるためには、ほとんど唯一の
 基礎資料であると言われる。
  大蔵大臣が、ゆうに勤まるだけの手腕があった。
  幕府が倒れて、徳川家が駿・遠・参の70万石の一大名
 に格下げされて、静岡に移転するとき、
  徳川家臣団が飢え死にもせず、大きな混乱もなく、な
 んとか収拾できたのも、勝海舟や大久保一翁らの指揮宜
 しきによるものである(氷川清話)
  そして、勝海舟、海軍伝習所で近代国家観念を得るに
 ついて・・、勝海舟が、長崎の5ヵ年間に身に付けたもの
 は、海軍技術だけでなく、「近代国家観念」とも呼ぶべ
 きものを、外国人との接触の中で学び取った。
  カッテンディーケ中尉の書いた「長崎海軍伝習所の日
 々」という日本滞在記の中に、しばしば勝の名前も出て
 来るし、勝が、常に、教師団と緊密な接触を保っていた
 ことが分かる・・、
  勝海舟の明敏な頭脳には、西欧先進国の近代国家の観
 念が、かなり鮮明に浮かび上がってきたに違いない。
  その国家観念に照らしてみて、幕末の我が国の分裂状
 態、無防備状態、無統制状態というものは、お話の外だ
 という事になる。
  攘夷だ、開国だと言って、騒いでいるけれど、てんで
 んばらばらで、先ず、国論を統一し、国家意思を表現す
 るという事の大切さに、気付いているものがいない(氷
 川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-02-07 02:13 | 皆様とともに 幸せになりたい


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