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(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)

題:*(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年8月25日(7月8日)西園寺公望(さいおんじきんも
 ち、公家、政治家、教育者)会津征討越後口総督府大参
 謀が、越後長岡城に入城した。(1849年~1940年)
  福沢諭吉の『西洋事情』を読み影響を受けた。
  そして、世界の情勢にも関心を持つようになる。
  明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任し
 た。
  1869年に、御所内・私邸に私塾立命館(現:立命館大
 学)を創設した(学校組織としての連続性はないが、学
 祖とし、この年を以って創始としている)。
  1870年~1880年、ソルボンヌ大学に留学。
  明治14年(1881年)に、明治法律学校(現:明治大学)
 を設立した。
1868年8月30日(7月13日)幕臣・天野八郎(あまのはち
 ろう、彰義隊指揮官)が、本所にて捕わる。
1868年8月31日(7月14日)出羽の庄内兵が、新庄城を陥
 す。
  新庄城は、政府軍側についたため、庄内勢に攻められ、
 焼き払われた。
1868年9月1日(7月15日)大阪が開港した。
  開港と同時に外国人居留地と定められ、諸外国への競
 売が行われた。
  競売は完売し、直ちに、街路樹や街灯、洋館が並ぶ西
 洋の街へと整備された。
  居留地に接する地域も外国人雑居地となった。
  文明開化の発信拠点となった。
  1899年(明治32年)に、居留地制度は廃止された。
1868年9月3日(7月17日)江戸を東京と改称した(7月18
 日説あり)。
  「江戸ヲ称シテ東京ト為ス」の詔書が発せられた。
  1868年5月22日(慶応4年閏4月1日)に、大木喬任(
 軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、
  佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出し
 ていた。
  1868年11月26日(10月13日)に至って、天皇陛下が、
 東京に入られ、
  明治2年(1869年)には、政府が、京都から東京に移
 された。
1868年9月5日(7月19日)徳川慶喜公が、水戸より駿府に
 退いた。
  徳川慶喜、駿府にて謹慎 (きんしん、言動をひかえめ
 にすること)(氷川清話)
  慶応4年7月19日、江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜
 公が、まず駿府藩へ船で移動した。
  9月9日(7月23日)の到着後は、宝台院で謹慎した。
  9月24日(8月9日)、家達ら旧幕臣達が、駿府藩へ移
 封し、9月30日(8月15日)に駿府に着いた。
  勝海舟は、この前後して、政府との交渉役を任され、
 11月24日(10月11日)に、船で江戸を去り、
 翌11月25日(10月12日)に、駿府へ着いてからは、幹事
 役として、大久保利通と駿府藩の折衝を努めた。
  また、勝海舟は、1869年8月25日(明治2年7月18日)
 に、政府から外務大丞に任じられたが、1869年9月18日
 (8月13日)に辞任し、
  また、1869年12月25日(11月23日)の兵部大丞任命
 もすぐに辞表を提出した。
1868年9月11日(7月25日)河井継之助(かわいつぎのす
 け、越後長岡藩牧野家の家臣)が、越後長岡城を奪回し
 た。
  1868年7月8日(5月19日)に、長岡城は、新政府軍に
 奪われていた。
  7月21日(6月2日)に、長岡城を、再度、奪還しよう
 と戦いを開始していた。
  この時の、河井の戦術は、軍事史に残る快挙で、後に、
 研究対象にされるほど優秀だった。
1868年9月15日(7月29日)会津戦争、二本松の戦い
  官軍が、岩代の二本松を攻めた。
  1868年8月12日(慶応4年6月24日)に、棚倉城が落城、
  そして、8月30日(7月13日)に、磐城の戦いで、磐城
 平城が落城した。
  9月2日(7月16日)に、三春藩が、奥羽越列藩同盟を
 脱退し、明治新政府軍は、じりじりと北上した。
  9月15日(7月29日)、藩兵の大半が、白河口の戦いに
 出向いている隙をつき、新政府軍は、二本松城を攻撃し
 た。
  城の落城が目前としても、二本松藩主・丹羽長国は、
 病を患いながらも城に留まろうとした。
  家臣は、無理に駕篭に乗せ、二本松の北15キロメート
 ルにある水原に退去し、後に米沢へ逃れた。
  新政府軍の板垣支隊は、激戦の末、二本松城に砲撃が
 届く大壇陣地へ進み、攻撃拠点を得た。これが落城につ
 ながった。
  二本松藩は、城に軍事総督の家老の富穀が残って、防
 戦に努めた。
  また、防戦に努めるため、老年の予備兵や、少年兵部
 隊も動員されていて、彼らは、後世、二本松少年隊と呼
 ばれた。
  しかし、可哀想な事に、彼らは火器をほとんど持たな
 かった。
  しかし、切り込みをしたり、よく防戦した。
  特に、木村銃太郎率いる20名は、攻城戦の最中にその
 ほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り
 継がれている。
  家老の富穀は、ここまでという時に、城に自ら火を放
 つと、家老以下7名は次々を自刃し、城と運命を共にした。
  しかし、まだ、城外には少年隊が居た。
  少年隊では、指揮する者が次々と相次いで戦死して行
 った。
  少年隊40名は、指揮をするものが居ない状態で、最前
 線に放置される事態に陥った。
  彼らは、戦場をさ迷った、その中で、一人一人と命を
 落して行った。
  その様な中、13歳の少年兵に遭遇した土佐藩兵が、そ
 の幼さに驚愕し、生け捕りにしようとした。
  しかし、この幼い兵は、戦う姿勢を崩さなかった。
  やむなく戦闘状態となり、この幼い兵も、命を落とす
 事となってしまった。
 (追伸:この少年兵を助けたいと思った優しい土佐藩兵
 が、この少年兵を討ったのでなく、この戦場に飛び交う
 弾にあたって少年兵は亡くなってしまった)
  後の貴族院議員で、第4司令官などを歴任した野津道
 貫(のずみちつら)は、「戊辰戦争中第一の激戦」と賞
 した。
1868年9月15日(7月29日)新政府軍が、越後を平定した。
1868年9月15日(7月29日)江戸を去る旗本家の家財処分
 が相つぎ・・云々。
  甲良家当主は、新政府裁判所に呼び出され「朝臣」で
 ある証書を提出した。
  氷川清話:徳川家臣10日限り東京を退かせる
1868年9月16日(8月1日)相馬藩家老・脇本喜兵衛の壮烈
 な最期。
1868年9月19日(8月4日)東京行幸(氷川清話)
  この日、東幸する旨が布告された。
  しかし、松平慶永、中山忠能(ただやす)、大原重徳
 らの保守派の慎重論者が、天皇陛下の健康が心配だなど
 と理由をつけて反対したために、なかなか東幸の期日が
 定まらなかった。
1868年9月26日(8月11日)大総督参謀・西郷隆盛が、官
 軍を率いて新潟に着す。
1868年9月26日(8月11日)秋田兵が、村上城を奪回した。
1868年9月、開成所学制を改定(氷川清話)
  明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元
 年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)まで
 の初期開成学校と、
  明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)
 4月までの後期開成学校に大別され、
  前者は、文久3年(1863年)に発足した旧幕府直轄の
 開成所が、
  慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖され
 ていたものを明治新政府が接収して、同年・1868年9月
 に「開成学校」として復興した。
  後者は、大学南校が、第一大学区第一番中学として改
 編されたものを、1873年(明治6年)4月に「(第一大学
 区)開成学校」と改称し、
  その後さらに、東京開成学校と改称した。
  また、開成学校・大学南校、および、東京開成学校の
 関係者の多くが、1873年発足の明六社に参加した。
  そして、1877年、東京医学校と統合されて(旧)東京
 大学が発足し、
  同大学の法文理三学部の母体となった。
  このため、現在の東京大学の直接の前身機関の一つと
 見なされている。
  氷川清話:国事多端につき開成所を閉校す。
1868年9月29日(8月14日)東京遷都について・・、
  遷都について、政府内では、大きな認識の変化が起き
 ていた。
  三条実美が、岩倉具視に送った、この日の日付の手紙
 で、「永世の基礎、神州の根拠は、必ずこの地理(東京)
 然るべきと存じ候間、政府は、当地に御移し、東西賓主
 の位を転ぜられ候方、御長策とじ候」とある。
  ここで三条は、政府を東京に移し、来春の再幸の節に
 は、東京を京都の上に置くべきと、東京遷都を主張した。
1868年9月29日(8月14日)終日雨。奥へ向ひし官軍の手
 負千住を通りし、云々(幕臣の日記)
1868年10月1日(8月16日)河井継之助が、戦死した。
1868年10月2日(8月17日)東京府庁が開設された(初代
 府知事に烏丸光徳任命)
1868年10月4日(8月19日)榎本武揚らの幕府の残党が、
 軍艦八隻を率いて、密かに品川湾を脱出し、函館へ向っ
 た。
  1869年1月27日(12月15日)榎本武揚らが、蝦夷地を
 平定。五稜郭を本営とする
  1869年5月18日、五稜郭が開城、榎本武揚らが降伏。
 戊辰戦争が終わる。
  氷川清話:東京旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻
 を率い、品川より奥州へ向けて脱走出帆する。
1868年10月5日(8月20日)諸道の官軍が、会津進撃を開
 始する。
1868年10月6日(8月21日)南部兵の進撃に、秋田兵が大
 館に退いた。
1868年10月6日(8月21日)新政府軍が、会津領内に侵攻
 した。
1868年10月8日(8月23日)会津戦争、若松城下への侵攻
  白虎隊が全滅した。
  二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関
 して意見が分かれた。
  大村益次郎は、仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助
 と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。
  板垣・伊地知の意見が通り、会津藩を攻撃することと
 なった。
  二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられた
 が、
  新政府軍は、脇街道で手薄な母成峠を衝いた。
  慶応4年8月21日(1868年10月6日)に、新政府軍は、
 母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して
 同年8月23日(1868年10月8日)朝に、若松城下に突入
 した。
  新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送
 っていた会津藩は、虚を衝かれ、予備兵力であった白虎
 隊までも投入するが、あえなく敗れた。
  この時、西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなる
 のを苦にした母や妻子、そして、一族21人が自刃した。
  また、城下町で発生した火災を、若松城の落城と誤認
 した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が、飯盛山で自刃す
 るなどの悲話が伝えられている。
  そして・・、
  鳥羽・伏見の戦いにより勃発した戊辰戦争で、会津藩
 等の奥羽越列藩同盟が、官軍と戦闘、白虎隊が実戦に参
 加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
  飯盛山にいた白虎隊の2番士中隊員が、城下の町に火
 の手が上がったのを会津落が落城したものと思いこむ。
  20人の隊員のうち19人が自刃。
  会津藩は、軍を年齢により白虎、朱雀、青龍、玄武の
 4班に分け、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年
 で編成されて、白虎隊が実戦に参加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
1868年10月10日(8月25日)会津攻城戦
  会津若松城攻防の激戦が、官軍と会津勢との間で行わ
 れた時、白河口の戦闘で、土佐藩士・板垣退助指揮の官
 軍が、会津の一帯のこもる雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思った時、全軍
 の切込みが命じられた。
  真っ先に山を駆け下った老将と美少年。
  後年の森要蔵と14歳の少年であった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 のように美しい剣技を見せたという。
  父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が危うくな
 ると、父が救った。
  その姿に官軍の指揮官・板垣退助は、しばらく射撃を
 止めさせたぐらいだったという。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた
 時、戦鼓が鳴りり、官軍が怒涛の様に屍(かばね)を越
 え、雷神山を占領した。
  この話は、この様子を遠望していた白虎隊生き残りの
 山川健次郎男爵が、明治後に語り伝え、語るたびに涙で
 声が詰まり、時には号泣したという(竜馬がゆく・1)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2016-01-28 04:30 | 皆様とともに 幸せになりたい


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