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(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)

題:(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1860年頃、この頃の李氏朝鮮
  いわゆる李朝は、経済的に破産し、軍事力もほとんど
 なく、この頃の政権は、分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸
 前だった。
1860年10月、中国の清が、イギリス・フランスと北京条約
 を結び、九龍などが奪われた。
  また、11月には、ロシアが南下して来て、アムール川
 左岸などがロシア領となり、またさらに、豆満江(とま
 んこう)やハンカ湖からウスリー川以東アムール川以南
 の地域が割譲させられ、ロシア領となった。
  ロシアの南下政策の結果である。
  そして、ロシアの勢いが朝鮮に至って来る。
1860年代、アボリジニーの方々を駆逐する:イギリス人・・、
  オーストラリアに上陸したイギリス人たちキリスト教
 徒は、1860年代になると、北はオーストラリアのクィン
 ズランド南部地域から、南は南オーストラリアまでを開
 発した。
  それは、それは、広い・・広い・・広大な地域を占領
 した。
  2000万頭のヒツジが、放牧された、アボリジニーの方
 々の地へ放たれた。
  当然、先住のアボリジニーの方々の生活圏は、奪われ
 た。
  コミュニティーも破壊した。
  その急速な開拓占領の拡大行動は・・、
  アボリジニーの方々へ、最大の悲劇的出来事を起こし
 たのだった。
  アボリジニーの方々の生活基盤は奪われ、
  経済的基盤は奪われ、
  宗教的基盤は奪われ、
  すべてが、土地も、・・『何もかも』が、奪われた。
  生活する場所が、生活する環境が・・すべて、破壊さ
 れた、、
  『何もかも』が・・変わった・・アボリジニーの方々
 へは、
  まず、食料の、深刻な・・不足の事態が・・襲った。
  キリスト教徒の白人が持ち込んだ膨大な数のヒツジは
 ・・、
  アボリジニーの方々が食料としていた草木を・・食べ
 た・・荒らした。
  アボリジニーの方々が、少ない飲料水を・・調達して
 いた手段も・・その『すべて』も・・奪った。
  水を多く含んだ草木も・・食べられ・・荒らされた。
  水源も・・消費されてしまった。
  そこに・・生存の危機が・・あった。
  アボリジニーの方々は・・やむなく奥地に逃げた、
  そして、その地のアボリジニーの方々から・・食料を
 分けてもらった・・、
  しかし・・、厳しい環境下で、入って来られたアボリ
 ジニーの方々も大変に困った・・、
  部族の対立も・・悲しいかな・・生まれた。
  最後の手段として・・、白人から食料を分けてもらう
 ことも行なった。
  その時は、その場合は、等価交換で・・行われた。
  アボリジニーの方たちからは、等価交換で与えるもの
 はなかった。
  この時、要求された・・女性が交換物として・・要求
 された、
  悲しいかな、これが、等価交換でよく見られる形とな
 った。
  既婚の女性が多かった。
  しかし、死が迫っていた中で・・しかたがなかった・・、
  白人が来る前は・・、
  男たちが捕獲してきた動物性タンパク質と・・、
  女性方が採集してきた・・食用植物を中心にした・・
 多彩で栄養価も豊富なバランスの良い食べ物の・・、
  その様な、かつての食糧は得られなくなった。
  しかも、白人からの手に入れることができたアボリジ
 ニーの方々の口にできる食べ物は・・、
  砂糖、小麦粉、茶、そして、くず肉の類いだった。
  栄養のバランスも・・極端に悪かった。
  アボリジニーの方々の生活も、
  文化も、
  伝統も、
  すべてが・・崩れた。
  健康も失い、
  労働のできる体が・・失われて行った。
  白人は、それを労働意欲のない、怠惰な種族と蔑(さ
 げす)んだ。
  1830年代には、シドニー周辺にも、白人に物乞いしな
 がら生活するアボリジニーの方々が現れ出していた。
  豊富な白人の食糧に手を出したアボリジニーの方々は、
  白人のヒツジや牛を、忍び込んで盗んだアボリジニー
 の方々は・・
  ・・動物のように殺された。
  白人は、『財産権の侵害だ』として・・、
  その法律の、紙に書いた条文の「錦の御旗」を立てて、
 無慈悲にアボリジニーの方々の・・命を奪った。
  そしてまた、そこに徹底的な・・報復処置も取られた。
  財産権を侵害しただろうという『予測の中』で、その
 他のアボリジニーの方々も容赦なく殺された、『だろう
 と思って』殺された。
  有色人種の蔑視からくる命を軽く感じる白人・キリス
 ト教徒の行為だった。
  また、「予防的措置だ」というこじつけ論理も理由づ
 けにされた。
  犯罪的行為を完全にしていない無防備なアボリジニー
 の方々まで、大勢、キリスト教徒の白人たちに殺された。
1859年、アメリカ、奴隷にされた黒人の方々が蜂起する国
 だった。
  ジョン・ブラウン氏の武装蜂起が起きた。
  奴隷解放を唱える黒人の黒人奴隷解放運動家のジョン・
 ブラウン氏が、奴隷解放革命を起こそうと、アメリカ合
 衆国の兵器庫を襲った。
  ブラウン氏は、残念ながら、捕らえられ、絞首刑とな
 った。
  これは、南北戦争の遠因と言われているが、本当の、
 南北戦争の戦争原因は『経済問題であった』。
  国際的な関係が絡む経済の問題だった。
  奴隷の問題なんかは二の次だと言われていた・・のが、
 本当
1860年、400万もの方々が、奴隷にされていた国:アメリカ
  この年に、アメリカの奴隷にされた方々の総数が、400
 万人を越えた。
  奴隷の方々の大半が、綿花生産の労働者だった。
  無残に殺された奴隷の方々も、大勢、居た。
  1831年には、ナット・ターナーの反乱が起きた。
  1859年の、ジョン・ブラウンの武装蜂起などの事件は、
 氷山の一角だった。
  奴隷船から、さも荷物の様に、荷揚げされた奴隷の方々
 は、奴隷商人に売り渡され、
  奴隷市場に連れて行かれ、家畜の様に売りに出された。
  白人・奴隷商人たちは、奴隷にされた黒人の方々を、
 鎖で数珠つなぎにし、町の目抜き通りで競売した、商売
 を行なった。
  奴隷にされた黒人の方たちは、競売台に立たされ、品
 定めされた。
  そして、親子のつながり、兄弟のつながりなど、まっ
 たく関係なく、バラバラで売られて行った。
  白人だけが、上手く行く経済システムだった。
  巨利を稼いだ白人奴隷商人たちが、大勢いた。
  自分の懐が、『肥えればいい』・・だった。
  200年間も、アメリカは、この様な、非人道的行為を行
 った。
1860年、このアメリカで、リンカーンが大統領に当選した
 ・・しかし、
  リンカーンは、奴隷解放の大統領ではなかった。
  リンカーンは、奴隷解放には消極的だった。
  「治安回復に努めるなら奴隷解放をする必要はない」
 と予備宣言までしていた。
  奴隷解放をしたいという『政治信条』がある政治家で
 はなかった。
  軍の将軍の中に、奴隷解放をする事を意思表示した将
 軍がいたが・・、
  リンカーンは、その奴隷解放意見を『取り下げてしま
 った』。
  これが真実だった。
  リンカーンの話は、プロパガンダ(嘘宣伝)されてい
 る。
  黒人の方たちは、この様な、不本意な状況の中に、ア
 フリカからアメリカへ連れて来られた・・、
  人間的な接し方は、まったくなされず、何ら、『法律
 上の権利』も与えられなかった。
  本来、祝福されて、家族に迎えられて、生まれて来る
 子供たちも・・自由な身にされず、解放されず、またま
 た、白人・雇い主のものとされた、奴隷とされた。
  そしてまた、アメリカは、この頃、アメリカの先住民
 であるインディアンの方々も、卑劣にも、奴隷とした。
  リンカーンの政治が行われている時である。
  リンカーンは、おじいさんをインディアンに殺され、
 インディアンの方々に対して、良くない感情(うらみ)
 を持っていた。
  リンカーンは、長距離の「死の居留地移動(ロング・
 ウォーク・オブ・ナバホ)」など色々と苦しい行為をイ
 ンディアンの方々へ強いた。
  ロング・ウォーク・オブ・ナバホは、500キロもの距離
 を歩かせ、移動させた。
  それも厳寒期の1月に行なわせた。
  500キロメートルの距離は、遠すぎた。
  それにまた、厳寒期に、1月に行わせ、幼児もいれば、
 病人も居れば、弱者の方々が居れば、おじいさんやおば
 あさん方も居た。
  多くのインディアンの方々は・・亡くなった。
  第二次世界大戦時に、日本が捕虜を60キロメートル歩
 かせた、そると、捕虜虐待だされ、刑に服させられた日
 本の兵が居たが・・、
  60キロが捕虜虐待だった・・それも、
  兵という体がしっかりした兵士には、「60キロ行軍」
 はなされていた事だった・・しかし、捕虜虐待だとして、
 日本は責任を取らされた。
  また、悲しいことに、サウスカロライナでは、インデ
 ィアンの方々の15パーセントが奴隷状態にされていた。
  そして、この頃、「黒人の方が維持費が安い」という
 言葉が、白人アメリカ人たちの間でささやかれるという
 非人道的状況にあった。
  また、黒人の方々を、「本来的に奴隷に適する」と、
 人権無視の言葉を言っていた。
  すでに、1619年に、アメリカは、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカに連れて来ていて、すでに、卑劣な奴隷に
 する行為を行なっていた。
1860年、リンカーンは、国会対策から・・、
  リンカーンは仕方なく、国会の動きもあって、奴隷解
 放予備宣言を公布する事に踏み切った。
  しかし、1860年に出された予備宣言では、南部諸州が
 治安回復に努めるならば、『奴隷解放をする必要はない』
 とリンカーンは決め、発言していた。
  この宣言には、『奴隷解放の不必要』という事が明記
 されていた。
  リンカーンは、奴隷の即時、無条件、全面解放を行な
 わなかった。
  宣言をしても、布告に縛られない例外地域を作ったり、
 反乱してない地域は含まれない・・などと、例外規定を
 作ったりして、奴隷解放をしない未開放の地域を作った。
  この間も、黒人の方たちは、奴隷解放されたいと、血
 みどろの戦いをしていた。
  1865年の憲法修正第13条が制定されるまで、リンカー
 ンの不決断のままであった・・この影響は大きく続いた。
  また、リンカーンは、黒人の方たちを、軍隊に入れよ
 うとはしなかった。
  白人の軍隊が、リンカーンの軍隊だった。
  黒人の方たちは、解放してもらいためにも訴えた。
  黒人の方々は、集会で宣言した・・、
  「私たちは、すでに用意が出来ています。
   私たちは、私たちの生命と、財産と、名誉をかけて、
   自由のために、良き市民として、私たちの政府を守
 る覚悟が出来ています(一人の人間として認めて下さい)。
   私たちは、みなさんに、このことを訴えたいのです」。
  それでも、リンカーンは、黒人の方たちの軍隊編入を
 拒否し続けた。
  リンカーンは、何ら積極的行動をせずにいた。
  この後、業を煮やした黒人の方々は、どんどん自主的
 に、勝手に、戦いに加わった、軍列に加わった。
  戦いに加わることによって、奴隷の立場から解放され
 る運動をして行った。
  可哀想な立場からの、必死な主張だった。
  「リンカーンが奴隷解放の大統領だ」というのは間違
 い。
1860年、そして、某作家氏の言葉から言える・・ことは、
  アメリカの北部人は、よく南部の黒人問題、黒人偏見・
 蔑視と言うが・・、
  他人事の様に、また、門外漢の様に言うが・・しかし、
  この黒人の問題は、白人の問題でもある・・と、
  つまり、アメリカ南部の黒人対白人の問題・対立は、
 つまり、南部人対北部人の対立でもある・・と、
  南北戦争の事を、北部では、(civil war)「内戦」と
 言うが、
  南部では、(war between the states)「州対州の戦
 い」と言う・・と、
  つまり、南北戦争は、プロパガンダ(嘘宣伝)された
 奴隷解放のための戦争では、当然、なく、
  国権を主張する北部と、州の独立を主張する南部との
 戦いだった・・と、
  北部軍にケンタッキー州や、ミズーリ州や、メリーラ
 ンド州などの奴隷州が入っているし、
  これらの州が、自分の州の方針(奴隷州の方針)に反
 する北部軍に入るわけがない・・
  南北戦争は、「奴隷解放」という「高邁な(こうまい、
 志などがたかく、衆にぬきんでていること)目標」で戦
 われた戦いではない。
  また、逆の(南部軍にも、奴隷州ではない州が、いく
 つもの州が参加している)・・この事からも・・
  奴隷解放とはまったく違う次元で戦われた戦いだった。
  そして、リンカーン大統領は、戦争の末期になって、
 『やっと』、「奴隷解放宣言」をした。
  しかし、これが、あまりにもプロパガンダ(嘘宣伝)
 されて焦点があてられているため、世界中がその様に思
 っている・・のだろうが・・、
  これは、戦略上の必要から出したもので・・、
  リンカーンは、明確に、『黒人差別論者 」だ。
  あまりにも、これを、美しく言う北部(北部がいい子
 になっている)。
  だから、現在なお、アメリカの北部と南部には、なお、
 この『しこり』が存在している。
  その様なアメリカとなっている・・
  その原因の一つが、このあまりにも美しく言う、自分
 だけが良い子になっている『北部に問題』がある。
  こんな事は、多くの人が指摘しているが・・直らない、
 そして、現在もなお、対立したままにいる。
  そして、滑稽なことに、キリスト教会までが、この俗
 世界の感情で、南部独特の別の教派を作り、別派閥に収
 まっている。
  祝日までが違っている・・リンカーンは敵で、南部の
 リー将軍の誕生日などの祝日まである。
  法律だって、考え方だって、まったく違う。
  そして、北部人は、南北戦争後に、まったく屈辱的な
 事を南部人に対してやった。
  南部人を、その市長の席から、町長・村長の席から、
 郵便局長の席から、あらゆる要職の席から、北部人によ
 って追放され、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  自分たちは、しなかったこと、できなかった事を、南
 部人にはやった。
  1865年の事である(~1872年まで続いた)。
1860年~1870年、そして、無差別掃討をされた「アメリカ
 のインディアンの方々」
  この頃、また、アメリカ合衆国は、アメリカ・インデ
 ィアンの方々に対して無差別の掃討作戦を行なった。
  弁解のできない、卑劣で野蛮な作戦で・・、
  インディアンの方々は、アメリカのあちこちで虐殺さ
 れた。
  この頃の、アメリカ・インディアンの方々の気持ちは・・、
  アパッチ族は、隣のナバホ族と同じく、居留地(収容
 所)に入ることを拒否した。
  居留地(収容所)に入った仲間たちが、死んだ如くに
 生きている姿を見ていたからだった。
  結局は死の姿だった。
  都合よく、アメリカ合衆国が都合の良い状態で生かさ
 れていた。
  居留地(収容所)の人々は、処理されている姿だった。
  土地だけ奪えばよいのアメリカ合衆国だった。
  白人・アメリカ人に、土地が与えられれば良いのアメ
 リカ合衆国だった。
  アメリカ合衆国は、軍の暴力によって従わせようとし
 ていた。
  インディアンの方々は、攻めて来たクルック将軍のア
 メリカ軍に対して厳しい態度で立ち向かった。
  対立と敵意の10年間が過ぎた。
  そして、インディアンの方々は「栄光の敗北」をした。
  アパッチ族の誉れ高い族長のコーチーズは言った、
  「かつて、アパッチ族は偉大な国家だった。
   今はもうわずかな人数を残すばかりとなってしまっ
 た。
   しかし、誇りを失ったまま生きのびるくらいなら、
 アパッチ族は死を選ぶだろう」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
by suba28 | 2015-11-29 02:05 | 皆様とともに 幸せになりたい


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