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(増補版)188D2/3:気になった事柄を集めた年表(1787年~1789年)

題:(増補版)188D2/3:気になった事柄を集めた年表(1787年~1789年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1787年、アメリカ合衆国:『北西部領地条例』ができ、
  この法律で、アメリカ・インディアンの方々の立場は
 認められていた・・ようだが・・・???
  この年は、アメリカ合衆国憲法が出来たが、
  同じ年に、「北西部領地条例」という法律もできた。
  アメリカの地の本当の所有者である先住民のアメリカ・
 インディアンの方々は、この法律に期待した、希望を抱
 いた。
  より公正な土地問題について取り扱いがなされるのだ
 ろう・・と、思った。
  というのは、この法律には、明確に「アメリカ・イン
 ディアンの方々の領土に対する権利と、統治に関する権
 利」が認められていた。
  そして、更に、憲法には、
  アメリカ・インディアンの方々を条約を取り交わすこ
 とのできる『国家』として認めていた。
  しかし、抜け道も書かれていた。汚い話だ。
  「東部から移住してきた移住民が・・6万人を超えた場
 合、直ちに、その地を、合衆国の1州として認める」と
 ある。
  まったく、ペテン条項である。
  例えば、A国に、日本人が移住をして、日本人が6万人
 を越えた場合、直ちに、その地を日本州として認める・・
 としたら、日本州は、A国に、どんどん出来て行くだろう。
  実際、アメリカ西部は、植民者(占領者)たちが、勝
 手、気ままにどんどん開拓する結果になってしまった。
  ペテンによって、嘘行為によって、アン・フェアなや
 り方で、領土を奪って行ったアメリカだった。
  イギリスもそうだが、法律を作って行動すれば正義だ
 ・・というペテン行為を、歴史のあちこちでやっている、
 世界のあちこちでやっている。
  「法律に従ったまでだ」・・が、ペテン師たちの言い
 分だった。
  (自分たちだけに都合のよい法律を作っていて、そう
 言う)。
1788年、イギリス人のオーストラリア占有(入植)以来、
 先住民族のアボリジニーの方々に対してとられた100以上
 の政策は・・、
  まったく、非人道的な、怒りの湧く、卑劣な法律だっ
 た。
  あたかも、「やっかい者のアボリジニー」という政策
 だった。
  一番簡単な処理方法だと言って、採用された、取られ
 た処理方法は、「皆殺し」という政策だった。
  そして、アボリジニーの方々が、絶滅寸前まで殺され
 た。
  多く見積もっても、25パーセントの方々しか生き残る
 ことができなかった。
  (ほとんどの方々、75パーセントの方々が殺されてし
 まった)。
  (もし、あなたの家族が5人だとすると、あなた以外の
 家族の皆様がイギリス人に殺されてしまったという政策
 だった)。
  基本に、アボリジニーの方々を「異教徒だ」「有色人
 種だ」という見方があった。
  そして、「異教徒は殺せ」のキリスト教の考え方・教
 義に洗脳された頭があった。
  また、有色人種蔑視感があった。
1789年3月15日、2月に、奢移禁止令を出した幕府が、あら
 ためて奢移とみなす品目を定め、その製造・販売を禁止
 した。
1789年3月、三浦梅園が没した。
1789年9月16日、幕府が、旗本御家人借金帳消しなど命じた。
1789年、司馬江漢が、油絵及び銅版をはじめた。
1789年、教育:行政官僚養成:
  行政技術の練達者としての官僚は、近世中期以降たえ
 ず幕藩政治展開の中核にあった。
  そうして、その技術は、次第に高度なものとなって行
 った。
  享保改革の頃には、主として個人的才能や経験の活用
 が図られるという程度であったが、
  それが、やがて勉学による技術者の養成を必要とする
 段階に進んでいった。
  たとえば、寛政改革において、松平定信が、「異学の
 禁」を発した目的が、思想統制とか、風俗匡正(きょう
 せい、正しい状態にすること)など消極的体制維持策に
 止まらず、
  行政官僚養成のための「正学」学習にあったことに注
 目すべきと言われている。
  従来、私塾に比べて不振であった官学を振興し、
  後世、国家有為の人材養成の場として発展してゆく契
 機がここにあった。
  昌平学は、やがて、単に、幕吏養成機関の役割を果た
 すだけではなくなって行った。
1789年4月30日、アメリカの初代・大統領のワシントンが
 就任した。
  1788年12月15日~1789年1月10日にかけて行われた大統
 領選挙。
  1789年2月4日に選挙人団の投票がなされた。
  1789年4月30日に、大統領の就任宣誓式が開催された。
  アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に作成され、
 1788年に発効した。
  1787年12月7日に、デラウエア邦が憲法の批准をし、順
 次批准がなされて行った。
  13週のすべてがなされるのは、最後の1790年5月29日に
 ロードアイランド邦が批准をした時だった。
  この憲法にある「3/5条項」や奴隷貿易の存続などが書
 かれていて、それを承認したという事は、憲法が黒人奴
 隷制度を容認したという事だった。
  まったく非人道的憲法だった。
  そして、この様な卑劣な条項のある憲法を、アメリカ
 のすべての13の邦がその奴隷制度を容認したという事に
 なった。
  この初代大統領ワシントン(在任期間1789年~1797年)
 は、インディアンの方々を『猛獣』と言い、『狼と同じ
 だが、形が違う』と言った。
  この様な、インディアンの方々に対する「悪人間観」
 を持った大統領だった。
1789年、初代大統領に選出された:ワシントンの行動
 ワシントンは、就任すると、まず、先住民・インディ
 アンの方々との関係調整を行なわざるを得なかった。
 それは、ワシントンの就任の年の1年前に制定された
 「北西部条例」に関する事だった。
 この1787年の北西部条例の制定(ペテン的な条項)に
 よって、(アメリカ・インデアンの方々を恫喝と騙しと
 ペテンで)手に入れた新領土が、アメリカ人に開放され
 たからだ。
 そして、その事実を知った、領土を取られただけの先
 住民・インディアンの方々は反発した。
  紛争が多発した。
  そして、当然、この後、より進んだ兵器で、
  そして、より進んだ戦術を持った軍隊で、
  自分たちにだけ都合のよい様に、事を運んで行く展開
 をしようとしていた。
  ワシントンは、議会に軍事支出を承認させた。
  そして、『新民兵法』を制定させた。
  相手は弱者、力で抑え付けよう・・というやり方だけ
 が見え見えの政策展開だった。
  法律によって、民兵の兵力動員をした。
  そして、予想通り「武力だけの頭」で抑え込んで行っ
 た。
 そして、遠方の地にまで、遠征隊を結成して、インデ
 ィアンの方々の掃討を始めた。
  当然、白人だけにとって良く、拍手喝采だった。
  当然、殺戮術の卓越した進んだ兵器を装備した派遣軍
 は、先住民・インディアンの方々を破った。
  また、この軍は、人間的に卑劣な行為をした。
  何も、誇らしい、栄誉のある行為はしていない。
  非戦闘員の方々まで卑劣な殺し方をした。
  そして、先住民の方々の村落や田畑を徹底的に破壊し
 た。
  そこまでする必要性があるのかと憤りが湧く、この国
 のやり方は何時もそうだ。
 そしてまた、卑劣な有色人種蔑視の作戦である「焦土
 作戦」を強行した(ベトナム戦争でもやった)。
 完全な弱い者いじめだった。非戦闘員殺しだった。
 先住民・インディアンの方たちは降伏した。
  キリスト教の聖書には、「(キリスト教の)神の義が
 あれば、人を誅してもよい」という教義があるが、これ
 である。
  先に、アメリカ・インディアンの方々が手を出したか
 らが、こちらに正義があるの理由だった。
  ファイトバックせざるを得ない様な卑劣な事をした側
 に責任があるのに、先にやったのだからと、必要以上に、
 徹底的に、待ってましたと、卑劣な行為をこれでもかと
 する。
  相手が、やってはいけない弱者であろうと、こちらに
 神の義があると・・やる。
  そして、結局、アメリカ・インディアンの方々は、遠
 い狭い居住区域へ、オハイオ川流域より西の方に押し込
 められた。
  アメリカ・インディアンの方々が居ない地域が、入植
 の白人(占領者)のための広い土地がそこに現れた。
  インディアン居住区域だと称するが、自由に住む権利
 をはく奪された、不平等な状況の中に、ここに退去せざ
 るを得ない状況に置いた。
 この時の終戦処理に、またまた、条約締結という手法
 がとられた。
  条約という紙があるから正義だと言いたいのだろう。
  不正義な下で、何枚も、そんな紙を作っても本当の正
 義、真の正義はない。
 この様な、条約の締結は、対象となる先住民の方々を、
 形式的には「独立した国家」と認めたというものであっ
 た、だから正義だと言いたいのだろう。ごまかしだ。
 しかし、この様な不平等の下に作られ、一方的に白人
 のアメリカ人に有利なこの条約が、多くの場合、その条
 約は、何と、アメリカ人側によって無視されることが多
 かった。
  白人・アメリカ人の欲が深いからだ。
  その移住させたインディアンの方々の居留地の土地が
 欲しくなったからである。また、移動させるのである。
  さらに、遠くの居留地に行ってくれ・・である。
 悲しいことに、この事が、また、新たな紛争を生み出
 して行った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009
by suba28 | 2015-08-23 04:43 | 皆様とともに 幸せになりたい


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