(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)
題:(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1690年、イギリスは、ムガール帝国に17万ポンドの賠償を
した。
イギリス(東インド会社にしている)は、ムガール帝
国に17万ポンドの償金(損害の償い金)を支払い・・、
さらに、「将来この様な恥ずべき行為を繰り返しませ
ん」という約束をされられ、再び、通商が許された。
(イギリスは、1686年に、最初のインド遠征軍を派遣
し、ムガール帝国軍と衝突、1690年に敗退した。ムガー
ル帝国に賠償金17万ポンドを賠償した)(注:裏付けが
薄い項目です)
1691年9月、熊沢蕃山(くまざわばんざん、陽明学者)が
没した(1619年~1691年)
中江藤樹に学んだ人。
1691年9月、土佐光起(とさみつおき、画家)が没する。
(1617年~1691年)
1691年、教育:私塾・昌平坂学問所(しょうへいざかがく
もんじょ)が移された。
林羅山が設立した私塾に始まり、
幕府が、この年に、上野忍岡の林家の邸を湯島へ移し、
孔子廟を新築し、その地を昌平坂と名付けた。
寛政の改革(1787年~1793年)の時、幕府直轄の学問
所となった。
朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたった。
1691年、教育:大学頭(だいがくのかみ)
林鳳岡(はやしぼうこう、林鵞峰の次男)が、大学頭
に任じられた。
昌平坂学問所の長官、以後、林家が世襲した。
1691年、経済:為替
三井高利が、御為替御用達になった。
御用達(ごようたし、ごようたつ):幕府・大名・旗
本・公家などに立入あるいは出入りする特権的な御用商
人の格式。
1691年、交通:六郷
多摩川の六郷橋が、1688年の大洪水で流失し、後に、
渡船場となった、
六郷渡船場が、1691年に、有料化され、一人6文、軽
尻(からじり、旅人を載せるのに使われた馬)10文、
乗掛(のりかけ)15文だった、
乗掛とは、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(
つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ、
1691年、鉱山開発:別子銅山(べっしどうざん、愛媛県新
居浜市の山麓部にあった銅山、日本の貿易や近代化に寄
与した、住友家が巨大財閥になる礎となる)
住友友芳(すみともともよし、住友家4代)に伊予の
別子銅山の開発を許可した。
1691年9月、社会資本整備:干拓(日本の各地に、優秀な
人材が居た)
岡山藩の藩主・池田剛政が、この年に、藩士の津田永
忠へ、沖新田の干拓を命じた。
現在の岡山平野の耕地は、約25000ヘクタールだが、そ
の内の約20000ヘクタールの80%がは、干拓によって得ら
れていた。
津田永忠(1640年~1707年)は、優秀な藩士だった。
この沖新田の干拓のほか、倉田新田、幸島新田の干拓
を行ない、
また、百間川の開削をし、後楽園の造営をし、閑谷学
校の建築などをした。
土木・建築に才のある天才を発揮した。
また、その才能は、藩政の改革、財政の再建と、めざ
ましい業績を遺した。
1691年、駄賃増加の立札
箱根に駄賃増加の立札が立てられた。
1691年、生物保護:諸鳥殺の防止
幕府が、トビ・カラスが諸鳥を殺すことを防ぐため、
これを捕らえて新島に放った。
1691年、人物:新井白石
新井白石は、仕えていた堀田家が、大老の正俊の死後、
財政が緊迫し、その影響で彼の家も暮らしが成り立たな
くなったとて、1691年に、堀田家を辞任し、
隅田川のほとりに塾を開いた。
1691年、文学:芭蕉一門
芭蕉一門が「猿箕(さるみの、俳書)」を刊行した。
芭蕉の「俳諧七部集」の第5集で、蕉風俳諧の円熟期
の代表するもの。
1691年、オランダ東インド会社の医師のケンペルが、長崎
から江戸を往復し、「江戸参府旅行日記」を記した。
その記述の一部・・、
1691年2月15日
佐賀に着く。
運河や川が流れ、それを利用して人々は有馬湾まで行
くことができる。
民家は小さく粗末で、大通りには物を作る仕事場や小
売店が立ち並んでいる。
住民は、均整がとれていて小柄である。
この土地の女性は美しい。
ただ、こってりと白粉を塗っているので、楽しげで朗
らかな顔つきで、生気を示さないなら、操り人形だと思
っただろう。
1692年、大仏の修復が完了
東大寺の大仏修復が完了し、開眼供養が行われた。
公慶の勧進が、公慶の思いが、民の心をやがて動かし、
小さな寄進が積み重なって、この年に、大仏の修復は完
了したのだった。
そして、公慶は、次は大仏殿の再建だと、休む間もな
く、江戸へ向かった。
1692年、間数絵図
江戸町で間数絵図作成を命じた(元禄間数絵図)
1692年、工業:友禅染
京都で友禅染が始まった。
この頃、元禄模様が流行した。
1692年、文学:井原西鶴が「世間胸算用」を刊行した。
1693年9月、井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者、人
形浄瑠璃作者、俳諧師)が没した(1642年~1693年)。
「長持ちに 春かくれゆく 衣がへ」
1693年、政策:人別(戸籍)
幕府が、流言者取締りのため、住民を人別に書上げさ
せた。
1693年、生物保護:鷹場制度の廃止
幕府が、鷹場制度を廃止し、鷹を野に放った。
1693年、新井白石が、徳川綱豊(後に家宣)の侍講となっ
た。
1694年、三井高利(みついたかとし、三井財閥の基礎を築い
た)が没した(1622年~1694年)
伊勢松坂で米の売買や大名貸、郷貸で財をなし、スタ
ートを切った。
1694年4月年、将軍が水戸光圀をして経書(けいしょ)を講
ぜしめる。
経書は、中国古代の聖賢の教えを述べた書物で、儒教
の経典。四書・五経・十三経の類いを言う。
1694年11月28日、松尾芭蕉(まつおばしょう)が没した(
1644年~1694年)
病没だった。世界的に知られる俳諧師。
51歳の秋、故郷の伊賀にしばし滞在したのち、9月に大
阪へ向かう、門人のトラブルの仲裁の為とされる。
その為か病を発し、弟子の家で療養。
9月10日の夜に発熱と頭痛を訴え、伏す。一時回復。
9月20日には俳席にも現れられるまで回復したが、29日
夜に再び伏す。
以後容態は悪化の一途をたどった。
「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つ
かまつらず候」の状態が続いた。
10月5日に、御堂筋の貸座敷に移り、門人たちの看病を
受けた。
しかし、10月8日に、最後を悟ったのか「病中吟」と称
し、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と
詠んだ。
10月12日(旧暦)、申の刻(午前4時頃)に没した。
1694年、教育:学問と武芸奨励
幕府が、旗本と御家人に学問と武芸を奨励した。
1694年、交通:助人馬提供
東海道と中仙道の各宿に助人馬提供の村を割り当てた
(助郷の始まり)
助郷(すけごう)とは、宿駅常備の人馬が不足した時、
その補充のために宿駅の近隣の村々に課された夫役(ぶ
やく)として馬を差し出す。
1694年、祭り:賀茂葵祭
京都の賀茂葵祭が再興され、内裏寝殿の御簾をはじめ、
牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるま
で、すべて葵の葉で飾るようになって、この名がある。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1690年、イギリスは、ムガール帝国に17万ポンドの賠償を
した。
イギリス(東インド会社にしている)は、ムガール帝
国に17万ポンドの償金(損害の償い金)を支払い・・、
さらに、「将来この様な恥ずべき行為を繰り返しませ
ん」という約束をされられ、再び、通商が許された。
(イギリスは、1686年に、最初のインド遠征軍を派遣
し、ムガール帝国軍と衝突、1690年に敗退した。ムガー
ル帝国に賠償金17万ポンドを賠償した)(注:裏付けが
薄い項目です)
1691年9月、熊沢蕃山(くまざわばんざん、陽明学者)が
没した(1619年~1691年)
中江藤樹に学んだ人。
1691年9月、土佐光起(とさみつおき、画家)が没する。
(1617年~1691年)
1691年、教育:私塾・昌平坂学問所(しょうへいざかがく
もんじょ)が移された。
林羅山が設立した私塾に始まり、
幕府が、この年に、上野忍岡の林家の邸を湯島へ移し、
孔子廟を新築し、その地を昌平坂と名付けた。
寛政の改革(1787年~1793年)の時、幕府直轄の学問
所となった。
朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたった。
1691年、教育:大学頭(だいがくのかみ)
林鳳岡(はやしぼうこう、林鵞峰の次男)が、大学頭
に任じられた。
昌平坂学問所の長官、以後、林家が世襲した。
1691年、経済:為替
三井高利が、御為替御用達になった。
御用達(ごようたし、ごようたつ):幕府・大名・旗
本・公家などに立入あるいは出入りする特権的な御用商
人の格式。
1691年、交通:六郷
多摩川の六郷橋が、1688年の大洪水で流失し、後に、
渡船場となった、
六郷渡船場が、1691年に、有料化され、一人6文、軽
尻(からじり、旅人を載せるのに使われた馬)10文、
乗掛(のりかけ)15文だった、
乗掛とは、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(
つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ、
1691年、鉱山開発:別子銅山(べっしどうざん、愛媛県新
居浜市の山麓部にあった銅山、日本の貿易や近代化に寄
与した、住友家が巨大財閥になる礎となる)
住友友芳(すみともともよし、住友家4代)に伊予の
別子銅山の開発を許可した。
1691年9月、社会資本整備:干拓(日本の各地に、優秀な
人材が居た)
岡山藩の藩主・池田剛政が、この年に、藩士の津田永
忠へ、沖新田の干拓を命じた。
現在の岡山平野の耕地は、約25000ヘクタールだが、そ
の内の約20000ヘクタールの80%がは、干拓によって得ら
れていた。
津田永忠(1640年~1707年)は、優秀な藩士だった。
この沖新田の干拓のほか、倉田新田、幸島新田の干拓
を行ない、
また、百間川の開削をし、後楽園の造営をし、閑谷学
校の建築などをした。
土木・建築に才のある天才を発揮した。
また、その才能は、藩政の改革、財政の再建と、めざ
ましい業績を遺した。
1691年、駄賃増加の立札
箱根に駄賃増加の立札が立てられた。
1691年、生物保護:諸鳥殺の防止
幕府が、トビ・カラスが諸鳥を殺すことを防ぐため、
これを捕らえて新島に放った。
1691年、人物:新井白石
新井白石は、仕えていた堀田家が、大老の正俊の死後、
財政が緊迫し、その影響で彼の家も暮らしが成り立たな
くなったとて、1691年に、堀田家を辞任し、
隅田川のほとりに塾を開いた。
1691年、文学:芭蕉一門
芭蕉一門が「猿箕(さるみの、俳書)」を刊行した。
芭蕉の「俳諧七部集」の第5集で、蕉風俳諧の円熟期
の代表するもの。
1691年、オランダ東インド会社の医師のケンペルが、長崎
から江戸を往復し、「江戸参府旅行日記」を記した。
その記述の一部・・、
1691年2月15日
佐賀に着く。
運河や川が流れ、それを利用して人々は有馬湾まで行
くことができる。
民家は小さく粗末で、大通りには物を作る仕事場や小
売店が立ち並んでいる。
住民は、均整がとれていて小柄である。
この土地の女性は美しい。
ただ、こってりと白粉を塗っているので、楽しげで朗
らかな顔つきで、生気を示さないなら、操り人形だと思
っただろう。
1692年、大仏の修復が完了
東大寺の大仏修復が完了し、開眼供養が行われた。
公慶の勧進が、公慶の思いが、民の心をやがて動かし、
小さな寄進が積み重なって、この年に、大仏の修復は完
了したのだった。
そして、公慶は、次は大仏殿の再建だと、休む間もな
く、江戸へ向かった。
1692年、間数絵図
江戸町で間数絵図作成を命じた(元禄間数絵図)
1692年、工業:友禅染
京都で友禅染が始まった。
この頃、元禄模様が流行した。
1692年、文学:井原西鶴が「世間胸算用」を刊行した。
1693年9月、井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者、人
形浄瑠璃作者、俳諧師)が没した(1642年~1693年)。
「長持ちに 春かくれゆく 衣がへ」
1693年、政策:人別(戸籍)
幕府が、流言者取締りのため、住民を人別に書上げさ
せた。
1693年、生物保護:鷹場制度の廃止
幕府が、鷹場制度を廃止し、鷹を野に放った。
1693年、新井白石が、徳川綱豊(後に家宣)の侍講となっ
た。
1694年、三井高利(みついたかとし、三井財閥の基礎を築い
た)が没した(1622年~1694年)
伊勢松坂で米の売買や大名貸、郷貸で財をなし、スタ
ートを切った。
1694年4月年、将軍が水戸光圀をして経書(けいしょ)を講
ぜしめる。
経書は、中国古代の聖賢の教えを述べた書物で、儒教
の経典。四書・五経・十三経の類いを言う。
1694年11月28日、松尾芭蕉(まつおばしょう)が没した(
1644年~1694年)
病没だった。世界的に知られる俳諧師。
51歳の秋、故郷の伊賀にしばし滞在したのち、9月に大
阪へ向かう、門人のトラブルの仲裁の為とされる。
その為か病を発し、弟子の家で療養。
9月10日の夜に発熱と頭痛を訴え、伏す。一時回復。
9月20日には俳席にも現れられるまで回復したが、29日
夜に再び伏す。
以後容態は悪化の一途をたどった。
「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つ
かまつらず候」の状態が続いた。
10月5日に、御堂筋の貸座敷に移り、門人たちの看病を
受けた。
しかし、10月8日に、最後を悟ったのか「病中吟」と称
し、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と
詠んだ。
10月12日(旧暦)、申の刻(午前4時頃)に没した。
1694年、教育:学問と武芸奨励
幕府が、旗本と御家人に学問と武芸を奨励した。
1694年、交通:助人馬提供
東海道と中仙道の各宿に助人馬提供の村を割り当てた
(助郷の始まり)
助郷(すけごう)とは、宿駅常備の人馬が不足した時、
その補充のために宿駅の近隣の村々に課された夫役(ぶ
やく)として馬を差し出す。
1694年、祭り:賀茂葵祭
京都の賀茂葵祭が再興され、内裏寝殿の御簾をはじめ、
牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるま
で、すべて葵の葉で飾るようになって、この名がある。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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by suba28
| 2015-06-20 02:54
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