人気ブログランキング | 話題のタグを見る

(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)

題:(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1688年~1815年、イギリスは、この126年間のうち、実に64
 年間もの間、戦争をしている。
  50%以上が戦争をしている年(卑劣な好戦国家だ))
  この期間は、イギリスとフランスとの植民地の争奪戦
 だった。迷惑するのは戦場にされる植民地。
  イギリスはこんな事ばかりしている。
  そして、イギリスは、次に、ドイツをターゲットにし
 て、ドイツ叩きの戦争をして行く。
  そして、世界のあちこちで、
  武力で以って、
  先住の方々が、既に、居住して、生活しているのに関
 わらず、
  有色の人間は、人間と映らないキリスト教の教義・考
 え方に洗脳された見方で、
  まるで、その地が、無人島の如くの振舞いで、
  その先住の方々が生活する国々を奪い取って行った。
1689年、令:町屋建築禁止、
  江戸で、武家屋敷地内に町屋を建てることが禁止され
 た。
1689年、人事:北村季吟(きたむらきぎん、歌人)
  幕府が、北村季吟父子を招聘した(歌学方の初め)
  歌学方(かがくかた):歌書の研修・詠歌に関し、和
 歌に関する学問をつかさどった。
  北村家が世襲した。
1689年、文化:松尾芭蕉が、春に、「奥の細道」の旅に出
 た。
  「奥の細道」は俳諧紀行。
  門人の曽良を伴って、江戸深川から関東・奥羽・北陸
 の諸地を巡って、美濃の大垣まで至り、さらに伊勢神宮
 の参詣をしようと、9月6日に立つまでの紀行。
  著者の芭蕉の没後、だいぶ経って、1702年に刊行され
 た。
1689年、清とロシアとのネルチンスク条約(極東の露清の
 国境画定)
  16世紀末から、ロシアは、コサック兵によってシベリ
 ア征服をして行くが、
  17世紀中頃より、アムール川流域に進出し、その地を
 征服した。・・が、
  そこの先住民より貢租を徴収していた清国の勢力と衝
 突するようになった。
  1685年と1686年に、ロシアの前進基地のアルパジン城
 塞をめぐって、大規模な攻防戦が繰り返された。
  これをきっかけに、和平の気運が高まり、国境画定へ
 と向かった。
1689年12月、イギリスで権利章典が発布された(臣民の権
 利および自由を宣言し、王位継承を定める法律)
  これは、人間として、当然に有するべき『人権』を宣
 言するものではなかった。
  そして、これをもって議会の承認なく平時に常備軍を
 徴集するなと禁止された。
  また、軍の予算や軍の制度は、議会のチェックや承認
 を得ること・・とした。
  また、武器の携帯は合法だとした。
  そして、国教会を「体制の教会」だとした。
1689年~1697年、ウィリアム王戦争(卑劣な植民地戦争)
  英仏の植民地戦争が、アメリカ新大陸で起きた。
  まったく関係のない、他人の地で、英仏は戦った。
  カナダ東部のケベック州で戦われた。
  イギリスは、ケベック攻略に失敗した。
  フランスはインディアンの方々を利用する卑劣な戦い
 方をした。
  インディアンの方々は命は奪われたが、何ら、見返り
 は無かった。
1689年、モンテスキューが生まれた(1689年~1755年)
  フランスの哲学者(フランス絶対王政を批判した)。
  「法の精神」を著した(政治理論書)、
1689年~1697年、ファルツ継承戦争
  卑劣な戦争ばかりのヨーロッパ、
  フランスのルイ14世は、領土拡張の野心が一杯だった。
  イギリスの名誉革命で、フランスに亡命した元イギリ
 ス王のジェームス2世は、フランスのルイ14世の応援を受
 けて、アイルランドに上陸した(名誉革命の復讐的だっ
 た、こんな形でしか軍を動かせない王だった)。イギリ
 スの背後を突く作戦だった。
  フランス軍は、ネーデルランド・ドイツ・アルプス地
 方を、次々と攻撃して行った。
  スペインにも入った。
  フランスは手を広げすぎていた。
  アルプス地方のサヴォイを脱落させたところで、和平
 の機運が盛り上がった。
  1697年9月に、ライスワイク条約を締結して、戦争は終
 わった。
1689年、寛容法(イギリス)
  イギリス議会は、カトリック以外の宗教を認めた。
  イングランド国教で国家統制をしているのだが、
 このイングランド国教以外の非国教徒(しかし、プロテ
 スタントに限るとした・・)にも、当然の事なのだが、
 信教の自由を認めた(だから、寛容だと言った)。
  これを、議会は採択した。カトリックと、えげつなく
 宗教対立をしているのに「寛容法」と名付けた。
  この後、ピューリタン(清教徒)の方々が迫害される
 (アメリカへ逃げる、非寛容なイギリスだった)。
  宗教的に寛容でも何でもないイギリスだった、名前だ
 けの「寛容法」だった。
  国王を統括者としていて、自由なんてない状態だった(
 国教支配体制下に置かれていた)。
  キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」「魔女は生かし
 ておいてはならない」などの卑劣な教義は、依然として
 残っている。
1690年、米の取れ高
  この頃の日本の米の取れ高は、2577万石。
1690年、教育:寺子屋の隆盛
  私塾・寺子屋の隆盛した。
  17世紀の末ごろ、いわゆる元禄時代がその高揚の発端
 となっていて、上からの庶民教化重視の時期とほぼ一致
 した。
1690年、教育:湯島の聖堂
  上野忍岡の聖堂を湯島に移した、これが、昌平坂学問
 所のおこりとなった。
1690年、建築:この頃、寺社の造営・修復が盛ん。
1690年、工業:高級織物・友禅染
  錦・絹織物の国内生産の発達は、17世紀末以降の経済
 的発展の中で進み、加速された。
  その質も、だんだん高級化し、幕府の倹約令にもかか
 わらず、羽二重・紗綾(さや、卍模様などの光沢ある絹
 織物)・繻子織(しゅす)などの高級織物の生産技術が
 発達した。
  それと並行して、友禅染などの染色技術も進歩した。
  また、歌舞伎の影響もあって、大都市の風俗を形成し
 て行った。
1690年、人物:新井白石・貿易無用論
  白石の著書の「折りたく柴の記(おりたくしばのき)」
 は、白石の自叙伝であるが、これは、1716年に、幕政中
 枢から失脚した白石が、家宣の厚い恩恵に浴しつつ、幕
 政に尽力した自分の立場を、子孫に語り残すことを目的
 に綴った。
  この中で、新井白石は、貿易無用論を説いた。
  この影響から、識者の間で貿易無用が唱えられるよう
 になった。
  新井白石は、6代将軍・家宣と個人的に結びついていた
 存在で、幕府で役職は無かったから行政官僚とは言えな
 い。
  しかし、白石は、門閥格式を破って、一介の浪人から
 旗本に登用された一人だった。
  白石と親交を持ちつつ、正徳期の政局に重きをなした
 間部詮房(まなべあきふさ)は、猿楽師の弟子から、将
 軍・家宣の引き立てを得て、幕臣に登用され、側用人に
 まで上った人だった。
  ただ、家宣が死去して、幼少の7代将軍を擁した頃は、
 詮房・白石らの抜擢者に対する譜代門閥の風当たりは強
 まった。
1690年、税:川船から運上銀を徴収した(大阪)
1690年、文化:浮世絵
  17世紀の後半、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵
 師、1618年~1694年)が、浮世絵を民衆芸術として大成
 し、これを木版の絵本、あるいは一枚刷りとして大量に
 印刷し、廉価に販売して、民衆に大いに普及させた。
  その後、印刷技術の進歩に伴い、錦絵の出現を見て、
 また、優れた作者を生んだ。
  この年に、「東海道分間絵図(とうかいどうぶんげん
 えず、東海道の状況を把握するための絵地図)」が刊行
 した(遠近道印と共著、おちこどういん)。
1690年、康熙帝(こうきてい、清の第4代皇帝、中国歴代最
 高の名君と言われる)が、ガルダン汗征討(1696年や、
 1697年にも)、
  ガルダン・ハーン(モンゴルの部族長)が2万の兵を率
 いて清の軍と戦った。激しい射撃戦だった。
 「康熙会典(こうきかいてん、基本法の総合的法典)」
 が、この年に、成った。
1690年5月、ドイツ人のケンペル(博物学者)が来日した。
 (~1692年まで)。
  ケンペルは、日本記事を書いた。
  エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ東インド会社
 の医師として来日していた。
  日本の歴史・政治・社会・宗教・地理・動植物などを
 「日本誌」「江戸参府紀行」などを記した。
1690年、ジョン・ロック(イギリス)が、「市民政府二論
 (政治哲学の書、抵抗権など)」「人間悟性論(近世認
 識論の発端となった書)」を刊行した。
1690年、イギリスが、インドのカルカッタに商館を置いた。
  ここを基点にして貿易を本格化させて行く。
  イギリスは、この時、軍事基地も造っており、インド
 支配を強めていく。
  フランスと抗争が起こして行く(人の家に入って来て、
 戦争するなの感じ)
1690年代、この頃、ブラジル北東部に金が発見された。
  これは、良い話ではなかった。
  先住民の方たちは、インディオの方たちは、この鉱山
 で奴隷として働かされた。
  奴隷狩りが行われ、被害者となった。
  この残虐な行為者は、キリスト教徒のスペイン人とポ
 ルトガル人だった。
  何と、キリスト教聖職者も、奴隷狩りをするという破
 廉恥な状況をした。
  それまでは、平穏な、平和な土地だった。
  平和な時を過ごす先住民のインディオの方たちの生活
 があった。
  ブラジルのサンパウロ州などの海岸部の土地には、ポ
 ルトガル人がやってくる前には、数十万人のインディオ
 の方たちが幸せに暮らして居た。
  16世紀半ばの時点で、9000人程度にまで激減してしま
 った(50万人居たとしたって98%の方々が殺戮された)。
  インディオの方たちは殺戮から逃れ、内陸へ逃げた。
  ポルトガルは、その奪い取った地域を植民地とし、植
 民地政府を作った。
  一部のインディオの方たちは反抗した。
  反抗したトゥピ族の戦いは、反乱と報告された。
  これが、ポルトガルの植民地政府に絶好の口実を与え
 た。
  ポルトガル人たちは、進んだ兵器を使ってインディオ
 の方たちを殲滅した。
  そしてまた、インディオの方たちを捕虜にした。
  このキリスト教徒とキリスト教宣教師たちに、何の権
 利があるというのか?
  このポルトガル人たちは、インディオの方たちを奴隷
 とし、キリスト教の聖書が教えている教義と同じ行為を
 した。
  本国のポルトガルは、これは出先の組織がやったこと
 と、何ら責任をとる行為を行っていない。
  1558年に、3代目の総督メン・デ・サーは、インディオ
 に戦争を仕掛けた。
  そして、多くのインディオの方たちを捕虜にして獲得
 した。
  進んだ兵器を持っているポルトガルが、奴隷が欲しく
 なったので、戦争を仕掛けたのだった。「奴隷狩り」を
 したい、奴隷が欲しいという図だった。
  歴史には、『戦争』と書かれるだろうが?
  優れた兵器のマスケット銃と、剣で武装したポルトガ
 ル軍を前に、インディオの方たちは抵抗する術(すべ)
 は無かった。武器が違い過ぎた。
  また、ポルトガルは卑怯な事をした。
  捕らえたインディオの方たちに、武器を与え、別な種
 族を襲わせた。
  捕らえ捕虜を自分の兵にして、同じ民族のインディオ
 の方たちを襲わせて捕虜にし、捕虜を増やして行った。
  奴隷狩りで得た奴隷にした人たちに戦わせて、同じイ
 ンディオの方たちを奴隷にした。
  優れた武器を与えてやらせた。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方・教義に洗脳され
 たポルトガル人やスペイン人は、インディオの方たちを、
 家畜の様に好きなだけ酷使してかまわない、動物のよう
 な存在だと錯覚し、マインド・コントロールされていた。
  ポルトガル人やスペイン人は、自分では働こうとはぜ
 ず、家畜のようにインディオの方たちを働かせた。
  このポルトガル人の書いた記録が残っている、
  「ポルトガル人の入植者は、まず、農場を運営するた
 めの奴隷を確保しようとした。
  5人前後の奴隷を手に入れれば、無一物でも(裕福に悠
 々とやれたと記す)。
  奴隷の一人に魚を取らせ、一人に狩りをさせ、残りに
 開墾と畑仕事をさせる事で、家族が悠々と生活する事が
 出来た」と書いた。
  17世紀に入ると、ブラジルの東海岸は、ほとんどポル
 トガルの支配下に入った。
  ここのインディオの方たちが、奴隷として作った砂糖
 が、全ヨーロッパの砂糖の大部分を占めた。
  旨い汁を吸って、味を覚えたポルトガルは、この卑劣
 な方式の奴隷農園を拡大した。
  そして、止まることを知らないポルトガルの欲は、「
 鉱山」へ手を出して行った。
  奴隷の需要は、ますます増大した。
  このブラジルの、海岸地域での、奴隷供給は出来ない
 状態になっていた(取り尽くしたのだ)。
  ポルトガルは、サンパウロなどの町の「食い詰めた者
 たち」を雇って、より奥地でインディオ狩りをやらせた。
  食い詰め者たちは、インディオ狩りのため、奥地に入
 って行った。
  食い詰め者たちに、武器を持たせた。
  名目上は傭兵だった。
  続々と、インディオを求めて奥地へ入って行った。
  そして、村という村を襲って行った。
  そして、村人そっくりを奴隷とした。
  この奴隷狩りの舞台には、キリスト教宣教師も共に行
 動した。
  抵抗する男は容赦なく殺された(抵抗する者は無慈悲
 に殺すだった)。
  てんでんばらばらの家族が続出した。
  奴隷にされたインディオの方たちは、鎖につながれ、
 舟に乗せられ川を下って行った。
  まるで、ベルトコンベアに乗った如くに、農場や鉱山
 に売られ、供給された。
  もう、物と同然の扱いだった。
  人道的な面は、どこにも無かった。
  この様な行為を、今・現在、スペインやポルトガルで
 は、正当な行為として、お祭りをしている。
  この卑劣な、反省のない行為を糾弾する。
  また、恥の上塗りのお祭り行為は止めよ。
  また、この様な卑劣な行為を、止めるのではなく、一
 緒にやったキリスト教聖職者は書く、
  「乾いたヤシの葉で出来ていた(インディオの)村全
 体を完全に破壊し、放火して・・、奴隷になる事を拒ん
 だ者を、生きたまま、その中で、焼き殺した。
  武力を使わなくとも、圧倒され服従するインディオも
 あったが、
  それは、言語道断の欺瞞手段によってなされた。
  ポルトガル人は、まず、国王の名と誠意において、同
 盟と友好をインディオに約束するのだが、
  インディオが、警戒心を解いて、武器を捨てるや否や、
 インディオを取り押さえ、縛り上げて、ポルトガル人の
 間で奴隷として分配するか、この上ない残酷さで奴隷と
 して売りとばした」。
  白人入植者は、内陸の乾燥地へと侵入を繰り返し、次
 々と大きな牧場を作って行った。
  もとはインディオの方々の土地を、そこに住んでいた
 インディオの方たちを捕らえ、奴隷にするか殺して、そ
 の地を勝手に自分たちの土地とした。
  金が発見されると、奴隷狩りは、さらに悲惨さを増し
 た。
  1690年代に、ブラジル北東部に金が発見された。
  キリスト教宣教師も、奴隷獲得に狂奔した。
  キリスト教の宣教師の実態は、大農園主や牧場主と同
 じだった。
  キリスト教は、インディオの方たちの支配権を主張し
 た。
  キリスト教聖職者も、欲の塊の農園主などと何ら変わ
 りは無かった。
  キリスト教聖職者と入植者の争いがよく起こり、キリ
 スト教聖職者たちも奴隷狩りの遠征をした。
  キリスト教聖職者たちは、捕らえたインディオの方た
 ちに、自分の奴隷だと焼き印を押した。
  そして、自分たちの村で働かせた。
  こんな事をして、天のキリスト教の神も喜んだのか?
  16世紀に描かれた絵に、スペインが、インディオの方
 々を襲撃し、虐殺している絵が記録に残っている。
  ブラジルのサンターナ大聖堂は、奴隷狩りの収益で再
 建された。
  可哀想な事に、奴隷にされたインディオの方たちは、
 その生活の変わり方が酷(ひど)かったため、死亡率が
 高かった、自殺も多かった(悲観して)。
  スペイン・ポルトガル人は、インディオの方々を消耗
 品の如くに使った。
  そして、非人道的なスペイン・ポルトガル人は、イン
 ディオの方たちを消耗し尽くすと、
  今度は、アフリカから、アフリカの方々を奴隷として
 連れて来た。
  16世紀半ばから、またまた、非人道的な事を始めた。
  この悪行為は、1850年に、奴隷売買禁止までの300年
 もの長い期間、この悪行を続けた。
  この為に、数百万人ものアフリカの方々が犠牲になっ
 た。
  日本にも来たザビエル達のキリスト教宣教師たちは、
 曲者だった(特に、イエズス会がくせ者)。
  世界のあちこちで悪い事ばかりしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
by suba28 | 2015-06-18 00:37 | 皆様とともに 幸せになりたい


はじめまして、ブログを始めさせていただきました


by suba28

カテゴリ

全体
悲惨な戦争を無くしたい
悲惨な戦争を無くせないのでしょうか
皆様とともに 幸せになりたい
未分類

以前の記事

2023年 10月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月

フォロー中のブログ

最新のコメント

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

脳の萎縮を遅くし、脳の活性化..
at 2023-10-30 02:46
水俣病・・まだ、続く、本日・..
at 2023-10-13 02:41
水俣病・・当時、有機水銀の様..
at 2023-10-09 05:42
水俣病・・石牟礼道子さんは、..
at 2023-10-08 04:51
水俣病・・まったく悲惨な、そ..
at 2023-10-06 05:27

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

日々の出来事
20代

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31