(増補版)122D1/3:気になった事柄を集めた年表(1660年~1662年)
題:(増補版)122D1/3:気になった事柄を集めた年表(1660年~1662年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1660年、社会資本整備・葛西用水
幕府代官頭の伊奈忠次が、葛西用水を開削した。
この年の秋、諸国に風水害が起きた。
1660年、名誉革命が起きた(イギリス)。
あまりにも王の施政が悪い(悪政治の王様だったため)、
王に加勢する者少なく、また、寝返る者もいて、血があ
まり流れない政変となった。
この血があまり流れない無血を名誉だと言った。
1660年、フックがフックの法則を発見した。
1661年、経済政策:銀札(ぎんさつ)発行
越前藩が、銀札(藩札の始め)を発行した。
銀札とは、銀貨との引き換えが出来る紙幣(兌換性が
あると言える、今・現代の基軸通貨・米ドルは兌換性な
し)。
幕府の統制が緩やかなので、諸藩はじめ、旗本や組合、
私人までもが発行した。
主として西国に流通した。
この藩札に先立って、伊勢、大和、河内、和泉、摂津
などの地域で私札の発行があり、これが藩札を生む引き
金になった。
1661年、関所女手形制が出される。
この時代は、旅はそう簡単にできるという体制ではな
かったが、信仰と楽しみであった伊勢参り、相州大山参
り、四国八十八ヶ所遍路などは許され、庶民は出掛けた。
それでも女性の割合は4~5パーセントだった。
1661年頃、風俗:島田・丸髷(まるまげ)
島田まげや丸まげの起源は、元禄よりやや前の寛文ご
ろで、これが普及したのが元禄であった。
1661年頃、流通:寛文年間に大阪と江戸を結ぶ樽廻船が始
まった(大坂~江戸間の定期船)。
菱垣廻船にならって開業した大阪の富田屋や摂津の毛
馬屋などの船問屋は、大阪の船問屋たちに対抗できなく
なったため、この頃(1661年~1673年)から駿河の200~
400石積みの船を雇い入れて酒、醤油、酢、塗物、木綿、
紙などを江戸へ運んだのが樽廻船の始まり。
1661年頃、芸術:浮世絵版画の開祖
この頃、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵師)が
浮世絵版画を創始した。
「見返り美人図」、歌舞伎や吉原の風俗などを肉筆画
として制作した。
狩野派や土佐派を学び、これを基礎にした。
素朴な張りのある墨線の独特の画境を創った。
1661年頃、芸術:金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)
この頃、江戸で金平浄瑠璃が流行した。
怪力無双で多くの武功をたてた金平の武勇談が主題で、
荒々しい人形の演出が江戸で人気を得た。
江戸歌舞伎にも影響を与えた。
1661年、殉死の禁(追腹停止令)
佐賀藩主・鍋島光茂が、殉死を禁じた。
因みに、徳川型武士道は、「上方風の打ち上がりたる
武道」と、葉隠武士道は非難した。
この藩主・光茂の祖父の勝茂は、葉隠武士道の持ち主
だった。
家来の殉死に心を痛めていた光茂は、この年に、追腹
停止令を出したのだった。
光茂のこの令によって、殉死が出来なくなった光茂の
家来・山本常朝(光茂の幼いころから側に仕え、情とし
て殉死したくて仕方なかったのに、殉死できなくなって
しまった)は、僧になって佐賀市北郊に隠棲した。
そこを訪ねて来た若侍だった田代陣基に対し、常朝は
話をした。それを陣基が記したのが「葉隠」。
1661年、文学:浅井了意「東海道名所記(とうかいどうめ
いしょき)」刊行。
万治年間(1658年~1661年)の成立。
僧と青年が、狂歌や洒落を織り交ぜ、江戸から京都ま
での道中記。
駅間の里数、名所旧跡、産物などが詳細に記述されて
いる。
1661年、鄭成功(ていせいこう、父は中国人、母は日本人)
が、台湾を占拠していたオランダ人を駆逐し、追放した。
7歳の時、父に招かれて明に渡る、裕福な家庭の人、
父と共に明朝復興運動をし、大将軍(官軍の総指揮官)
となり、隆武帝(明の王)から朱姓を賜わり、国姓爺(
こくせんや)と呼ばれた。
1662年、松平信綱(まつだいらのぶつな、老中)が没する
(1596年~1662年)、
松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
また、「知恵伊豆」という俗称がある。
家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた人。
藩政では、川越城下の整備や野火止(のびどめ)用水
の開削などを行った。
また、明暦の大火後の江戸の都市開発や玉川上水の開
削なども行い、幕閣の中心に居て優れた手腕を発揮した。
茶人の小堀遠州と親交を持った。
1662年、酒井忠勝(さかいただかつ、大老)が没する(
1587年~1662年)
1662年11月、金銀相場令を下した。
1662年、私塾:伊藤仁斎(いとうじんさい、京都の商家の
生まれ)が、京都堀川に古義堂を開塾した。
朱子学を学ぶも、批判的となり、本来の孔子の教えに
戻る。
自宅に古義堂を開き、公家・武家・町人など出自(で
じ、人の生まれ)に関係なく広い人々が学びに集う。
隆盛し、代表的私塾となる。明治まで続く。
1662年、若年寄を再置
若年寄が再び置かれ、老中と若年寄の支配分掌を定め
た。
久世広之・土屋数直を任命する。
1662年、令:飯盛り女を禁じた。
幕府が、宿駅に飯盛女のほか娼婦を置くことを禁じた。
日本は本当に昔から女性を優しく扱った。その様な精
神は昔からあった。女性の神が隠れて暗くなった世を嘆
いた。遠い昔からその様な国だった。
それに引き換え、キリスト教の生れた地は女性がまっ
たく虐げられていた。
また、ローマカトリック教会のバチカンは、身を売る
女性が、大勢、廊下を歩いていた。大勢の私生児が生ま
れる場所だった。また、その私生児の子供たちの争いも
頻発した。その様な場所で、誰でもを平等に尊重する宗
教が、教えが出来るはずが無い。1例が、インディオの方
々の悲劇、この様な事例は、世界に満ち満ちている。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1660年、社会資本整備・葛西用水
幕府代官頭の伊奈忠次が、葛西用水を開削した。
この年の秋、諸国に風水害が起きた。
1660年、名誉革命が起きた(イギリス)。
あまりにも王の施政が悪い(悪政治の王様だったため)、
王に加勢する者少なく、また、寝返る者もいて、血があ
まり流れない政変となった。
この血があまり流れない無血を名誉だと言った。
1660年、フックがフックの法則を発見した。
1661年、経済政策:銀札(ぎんさつ)発行
越前藩が、銀札(藩札の始め)を発行した。
銀札とは、銀貨との引き換えが出来る紙幣(兌換性が
あると言える、今・現代の基軸通貨・米ドルは兌換性な
し)。
幕府の統制が緩やかなので、諸藩はじめ、旗本や組合、
私人までもが発行した。
主として西国に流通した。
この藩札に先立って、伊勢、大和、河内、和泉、摂津
などの地域で私札の発行があり、これが藩札を生む引き
金になった。
1661年、関所女手形制が出される。
この時代は、旅はそう簡単にできるという体制ではな
かったが、信仰と楽しみであった伊勢参り、相州大山参
り、四国八十八ヶ所遍路などは許され、庶民は出掛けた。
それでも女性の割合は4~5パーセントだった。
1661年頃、風俗:島田・丸髷(まるまげ)
島田まげや丸まげの起源は、元禄よりやや前の寛文ご
ろで、これが普及したのが元禄であった。
1661年頃、流通:寛文年間に大阪と江戸を結ぶ樽廻船が始
まった(大坂~江戸間の定期船)。
菱垣廻船にならって開業した大阪の富田屋や摂津の毛
馬屋などの船問屋は、大阪の船問屋たちに対抗できなく
なったため、この頃(1661年~1673年)から駿河の200~
400石積みの船を雇い入れて酒、醤油、酢、塗物、木綿、
紙などを江戸へ運んだのが樽廻船の始まり。
1661年頃、芸術:浮世絵版画の開祖
この頃、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵師)が
浮世絵版画を創始した。
「見返り美人図」、歌舞伎や吉原の風俗などを肉筆画
として制作した。
狩野派や土佐派を学び、これを基礎にした。
素朴な張りのある墨線の独特の画境を創った。
1661年頃、芸術:金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)
この頃、江戸で金平浄瑠璃が流行した。
怪力無双で多くの武功をたてた金平の武勇談が主題で、
荒々しい人形の演出が江戸で人気を得た。
江戸歌舞伎にも影響を与えた。
1661年、殉死の禁(追腹停止令)
佐賀藩主・鍋島光茂が、殉死を禁じた。
因みに、徳川型武士道は、「上方風の打ち上がりたる
武道」と、葉隠武士道は非難した。
この藩主・光茂の祖父の勝茂は、葉隠武士道の持ち主
だった。
家来の殉死に心を痛めていた光茂は、この年に、追腹
停止令を出したのだった。
光茂のこの令によって、殉死が出来なくなった光茂の
家来・山本常朝(光茂の幼いころから側に仕え、情とし
て殉死したくて仕方なかったのに、殉死できなくなって
しまった)は、僧になって佐賀市北郊に隠棲した。
そこを訪ねて来た若侍だった田代陣基に対し、常朝は
話をした。それを陣基が記したのが「葉隠」。
1661年、文学:浅井了意「東海道名所記(とうかいどうめ
いしょき)」刊行。
万治年間(1658年~1661年)の成立。
僧と青年が、狂歌や洒落を織り交ぜ、江戸から京都ま
での道中記。
駅間の里数、名所旧跡、産物などが詳細に記述されて
いる。
1661年、鄭成功(ていせいこう、父は中国人、母は日本人)
が、台湾を占拠していたオランダ人を駆逐し、追放した。
7歳の時、父に招かれて明に渡る、裕福な家庭の人、
父と共に明朝復興運動をし、大将軍(官軍の総指揮官)
となり、隆武帝(明の王)から朱姓を賜わり、国姓爺(
こくせんや)と呼ばれた。
1662年、松平信綱(まつだいらのぶつな、老中)が没する
(1596年~1662年)、
松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
また、「知恵伊豆」という俗称がある。
家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた人。
藩政では、川越城下の整備や野火止(のびどめ)用水
の開削などを行った。
また、明暦の大火後の江戸の都市開発や玉川上水の開
削なども行い、幕閣の中心に居て優れた手腕を発揮した。
茶人の小堀遠州と親交を持った。
1662年、酒井忠勝(さかいただかつ、大老)が没する(
1587年~1662年)
1662年11月、金銀相場令を下した。
1662年、私塾:伊藤仁斎(いとうじんさい、京都の商家の
生まれ)が、京都堀川に古義堂を開塾した。
朱子学を学ぶも、批判的となり、本来の孔子の教えに
戻る。
自宅に古義堂を開き、公家・武家・町人など出自(で
じ、人の生まれ)に関係なく広い人々が学びに集う。
隆盛し、代表的私塾となる。明治まで続く。
1662年、若年寄を再置
若年寄が再び置かれ、老中と若年寄の支配分掌を定め
た。
久世広之・土屋数直を任命する。
1662年、令:飯盛り女を禁じた。
幕府が、宿駅に飯盛女のほか娼婦を置くことを禁じた。
日本は本当に昔から女性を優しく扱った。その様な精
神は昔からあった。女性の神が隠れて暗くなった世を嘆
いた。遠い昔からその様な国だった。
それに引き換え、キリスト教の生れた地は女性がまっ
たく虐げられていた。
また、ローマカトリック教会のバチカンは、身を売る
女性が、大勢、廊下を歩いていた。大勢の私生児が生ま
れる場所だった。また、その私生児の子供たちの争いも
頻発した。その様な場所で、誰でもを平等に尊重する宗
教が、教えが出来るはずが無い。1例が、インディオの方
々の悲劇、この様な事例は、世界に満ち満ちている。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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by suba28
| 2015-06-04 15:51
| 皆様とともに 幸せになりたい