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(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)

題:(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1600年、関ケ原の戦いの後について・・、
  石田三成・小西行長は刑死となった。
  関ケ原の戦いで敗れ、捕らえられた石田三成、小西行
 長は京都で刑死した。
1600年、そして、薩摩武士の勇猛な姿が関ケ原の戦いの場
 にあったが、
  関ケ原の戦いでの島津氏は、出陣した人数は1000人ほ
 どだった。
  しかし、生還したのは、その70人前後であった。
  この激烈な戦い、93%の兵士が戦死してしまうという
 その勇猛さ。
  この勇猛さで、島津藩士たちは、敵中を突破して行っ
 た。
  家康が、身の危険を感じ、立ち上がり、馬に跨(また
 が)り、刀を抜いたぐらいだった。
  この薩摩兵の勇猛さは、薩摩藩の「郷中教育」に起因
 しているという。
  その郷中教育は、年齢によって「小稚児(こちご)」、
 「長稚児(おせちご)」、「二才(にせ)」というグル
 ープに分け、それぞれを町内単位で組織を形成し、
  グループごとに「頭(かしら)」というリーダーを置
 いて、リーダーの統率のもと、一日の大半を一緒に過ご
 し、それが幼少の時から血肉に染み込む教育となってい
 るという。
  このため薩摩兵の結束力は極めて強く、リーダーの指
 示であれば、死をも厭(いと)わない、戦闘集団が形成
 されて行ったのだという。
  これは、日本人の気質の中に流れている血でもあるが、
  因みに、関ケ原の戦いをしたのは島津義弘で、兵はわ
 ずかだったという。
  薩摩の留守を守っている兄の島津義久は、この弟の義
 弘に援軍を出さなかったという。
  また、この弟の島津義弘は関ケ原で陣をかまえたが、
 積極的に戦わなかったというが・・、
  西軍の中心に居る石田三成が、関ケ原の前の小競り合
 いの時、島津兵を見殺しにしようとしたためだという。
1600年、家康の戦後処理は・・、
  外様大名の大規模な改易を行った。
  家康は、直ちに戦後処理を行い、外様大名の大規模な
 改易・減封・転封を始めた。
1600年、毛利氏へは、厳しい処置が行われた。
  毛利家は、過酷すぎる処置を受けた。
  毛利輝元は、一時は中国の11ヶ国の大領主だった。
  その毛利が改易された。
  毛利輝元の関ヶ原の合戦における形式上の存在を、徳
 川家康から追及され、10ヶ国の版図から防長(山口県)
 2ヶ国に縮小されてしまった。
  石田三成にかつがれ、西軍の形式上の旗頭として大阪
 城に在城したが、兵は動かしていなかった。
  ただ、分家の毛利秀元の隊のみが、関ケ原に出陣した
 が、戦闘には参加しなかった。
  だがしかし、この様な毛利氏でも、戦いの後、家康は、
 毛利家に対して、過酷すぎる処置をとった。
  それまでの毛利氏の版図は、今日の分県で言えば、広
 島県、山口県、島根県、それに岡山県と鳥取県の一部を
 含む、170万石と広大なものであったが・・、
  居城も、それまでの広島城から徹せしめて、日本海岸
 の山口県の一つの荻に押し込められた。
  しかし、この時、諸地方に散在していた主立つ家臣は、
 そのほとんどが輝元について来た。人望のある氏であっ
 たのだろう。
  そのため、藩初から、極端な財政困難に遭遇した。
  輝元にすれば、「自分は微禄になったから、以前の様
 な膨大な家臣団を養う事が出来ない。
  だから身を引いてほしい」・・と、自発的に主家と縁
 を切ることを切望したのだろうが、多くの家臣たちは、
 無禄でも・・と言ってついて来た。
  輝元は微禄に苦渋し、遂に幕府に対し、とてもこの少
 禄(36万9000石)ではやってゆけない、大名であること
 を返上すると、異例の上訴を考えたほどだったという。
  しかし、当初は倹約のみであったが、主従ともに貧に
 耐え、そして、1719年には人材養成制度を創り、改革を
 始め、産業を興し、干拓事業も進めた。
  この毛利家の主従の結束の固さは、この時の「泣きな
 がらでも、主について来た」という辺りから始まるのだ
 ろう。
  幕府の考えは、便利の良い所に府城を置くと、また、
 瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手を伸ばすかもし
 れないという事を恐れ、遠い日本海の漁村へやってしま
 ったと考えられる。以後、山口はすたれた(参考:街道
 は行く1)
1600年、小早川秀秋は・・、
  小早川秀秋は狂死したという、関ケ原の合戦で西軍を
 裏切った小早川秀秋は、
  良心の呵責からか乱心し、26歳の生涯を閉じたという。
  秀吉の子・秀勝が死んだ後、秀吉の正室・おねが、実
 兄の木下家定から辰之助、すなわち後の小早川秀秋を貰
 い受けた。
  おねは、秀秋を溺愛したという。
  15歳で、丹波亀山城の城主にもなった。
1600年(慶長5年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置して、
 佐渡金山や石見(いわみ)銀山と並んで、直轄地(天領)
 とした。
  これらの鉱山は、徳川幕府の財政を支えた。
1600年、関ケ原の戦いの直後のこの時、倉敷が天領になっ
 た。
  これは西国大名への監視が目的だった。
  例えば、前年の1599年に宇喜多家の騒動があった。
  これを、当時、筆頭大老だった徳川家康が裁断し、宇
 喜多家に恩を売った。
  これが、関ケ原の戦いで宇喜多家が東軍に味方した因
 がある。東軍勝因の一つがここにもあった。
  倉敷のある備中国(岡山県)の大部分を天領化して、
 備中国総奉行の下に置いた(1617年まで続く)。
  倉敷は、主要港湾を持つので天領として残った。
1600年、社会資本整備、領芳溜池(現在の大和高田市)が
 造られた。
1600年(17世紀初頭)、板倉勝重が「板倉氏新式目」を制
 定し、親の仇討を認めた。
16世紀後半、日本人が合戦に用いていた鉄砲数が、この当
 時、ヨーロッパのどの国が持っていた鉄砲の数よりも多
 かった。
1600年代(17世紀)、日本の技術水準は、この時の当時で
 も、世界が注目していた。
  今・現代でも、日本は、iPS細胞や青色発光ダイオード
 など、世界の人々を救う基本的で、重要な技術を発明す
 る日本人であるが、
  当時も、その様な技術が抜きん出ていた日本だった。
  基幹の資源である銅において・・、
  日本の銅は、優れていた。
  ヨーロッパの銅よりも・・良質であった。
  また、価格も、その技術的に優れていることから安価
 であった。
  遠いヨーロッパに運んでも、また、非効率な帆船によ
 る運搬の時代であっても、
  その運送コストが吸収できるほど安価な基幹の資源で
 あった。
  しかし、その使われ方は、戦争ばかりしているヨーロ
 ッパにおいて、日本の銅は武器に使われた(日本は装飾
 品など)。
  そのためにもまた、武器であるため、良品質が求めら
 れた。
  日本の銅は、銅製の鋳造大砲に使われた。
  また、日本の鉄も、同様に、良質で安価だった。
  当時、大砲の性能が、国の行く末を決定したと言って
 よい時代だった。
  腕力が支配するヨーロッパの野蛮性が求めたのだった。
  国の運命である制海権を制したのは、大砲の性能だっ
 た。その性能向上に求められた。
  スペインの無敵艦隊は、イギリス艦隊の大砲の性能に
 敗けたのだった。
  南米で卑劣な事を仕切った非人間的スペインの終末だ
 った。
  当然、イギリスは、優秀な大砲の輸出禁止をしていた。
  それでも、スペインは、卑劣な方法でイギリスの大砲
 を求めた。
  スペインは必死に購入しようとし、闇取引(やみとり
 ひき)でも何でもしでかした(そこには、自分では作れ
 ないスペインがいた)。
  しかし、時代の流れは、イギリスとなり(スペイン無
 敵艦隊の駆逐、1588年)、これからイギリスの時代とな
 る。
  そして、可哀想な事に、イギリスによるインドの方々
 や、中国の方々が殺され、搾取される時代へと移って行
 く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
by suba28 | 2015-05-14 03:52 | 皆様とともに 幸せになりたい


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