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(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)

題:(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1573年、小谷城の後日談。
  信長は、小谷城へ、何度も和睦の使者を出していた。
  そして、信長は、自身では小谷城を攻めることは出来
 なかったのか?小谷城攻めはいつも秀吉にさせていた。
  長政は、妻や子供のために和睦しても良いと考えてい
 たようだった。
  だが、父・久政は頑として聞き入れなかった。
  家の筋を通す父だった。
  義景の自刃を知った長政は、悟ったのか?「我らの3人
 の娘と共に生きてくれまいか。そして、我ら亡き後の浅
 井家の菩提を弔って欲しい」とお市を諭した。
  そして、長政自刃まであと1週間という8月25日に、長
 政は、お市の方へ「そなたは城を出て兄・信長の元に戻
 られよ」と妻の命の助かる道を思って言葉にした。
  和睦の勧めにも応じなかった小谷城、お市の方と子供
 たちが去った小谷城に、秀吉による熾烈な攻撃が始まっ
 た。
  秀吉軍は、険しい山を登り、あっという間に京極丸を
 占拠し、久政の居る小丸と、長政の居る本丸を分断した。
  お互いが連絡が取れず、孤立する中で、小谷城は落城
 した。
  また、秀吉の働きが目立った。
  この後、秀吉は城持ちの大名となる。
  秀吉は、山間地の城を嫌った。
  平地に城地を求め、琵琶湖畔の今浜に城を築いた。
  長浜城(別名:今浜城)、長浜と名付けたのは秀吉で
 あった。
  お市の方は、3人の娘と共に兄の信包(のぶかね)に預
 けられ。清州に住んだ。
1573年、秀吉が、信長から長浜をもらう。
  この地は、浅井氏の旧領である。
  お市の方は、秀吉を嫌ったという。仕方ない事である。
  当時、城下町は、敵の侵入を阻むため、カギの手や袋
 小路があったりして、道が入り組んで、分かりづらかっ
 たが、秀吉の長浜の城下町にはそんな複雑な道路はない。
  商業重視の街づくりをした。
  秀吉は、町の賑わいに主眼を置いていた。
  信長にとって、秀吉は良く働く武将であった。
  論功行賞として秀吉が貰った地は、すべて長政の旧領
 で、北近江の3郡を貰った。一国一城の主となった。
1573年、信長が、大船をつくる。(7月3日か?)
  信長が、鍛冶・大工・きこりを集め、長さ33間(約60
 メートル)、幅7間(約13メートル)、ろ100挺、ともに
 矢蔵を備えた大船を造り上げた。
  これは、湖上交通を確保するためのものだった。
1573年7月20日、羽柴藤吉郎と署名した文書の初見。
  この日の日付の、羽柴藤吉郎の初見文書のがある。
  柴田勝家の柴と、丹羽長秀の羽を貰った。
1573年7月23日、信長の望み通り「天正」と改元された。
  (20日説と28日説あり)
1573年9月、秀吉は、小谷城に一旦入ったが、今浜を長浜と
 改め、新しい城作りに着手した。
  その理由は、
  1、小谷城は、軍事的には良いが、領国経営の中心と
 しては好適ではない。
  2、長浜は、商品流通の面を重視していた土地だった。
  3、一向一揆対策のために良い地だった。
  4、国友の鉄砲鍛冶集団を直接傘下に治められた。
1573年9月、信長が、長島の一向一揆に破られた。
1573年12月、信長に、松永久秀が降りた。
1573年12月1日、沢庵が生まれた(1573年~1645年)
  吉田兼好ではないが、うたかたの様に江戸時代の初期
 に活躍する沢庵が生まれた。
1574年、書院造り:玄関・床の間・付け書院・違い棚・唐
 紙障子・欄間(らんま)・縁側などを備えた座敷などは、
 禅宗建築に伴って入ってきた書院造であるが、近世初頭、
 安土桃山時代に宮殿建築に取り入れられた。
1574年、秀吉が、近江長浜の大名になった。
1574年、豪姫が、生まれる。
  前田利家とまつ夫妻の3番目の子だが、子供の出来ない
 秀吉・おね夫妻は、生まれる前から性別を問わず、貰い
 受ける約束をしていた。
  産声を聞くと、秀吉はそのまま懐に抱きかかえて走り
 帰った。
  それだけに、豪姫に抱く秀吉の愛は、誠に真実の親の
 愛情であった。
  秀吉はこの豪姫を、あの岡山城の美しき人、おふくの
 子、宇喜多秀家の妻にした。
1574年1月、信長が、「洛中洛外図」を謙信に贈った。
  この時に、上杉謙信は、武田勢を討つため、上野に出
 陣したが、いくら催促しても信長・家康が、信濃・甲斐
 に進んで、武田を攻めるとの約束を守らないので、わざ
 わざ使いを出して、違約を責めた。
  信長は、それに答え、畿内・近江・越前の情勢が急で、
 約束を守れなかったが、来秋は必ず出兵しよう、本願寺
 には畿内の兵で当たり、東国へは近江・尾張・伊勢・三
 河・遠江の軍勢を差し向けようと言った。
  これは、弁解というようなものではない、謙信を馬鹿
 にしたというより言いようのないものであった。
  信長が、謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図」(上杉家
 に現存)と「源氏物語」の屏風を送ったのは、この間の
 折衝中の事だが、どういうつもりであったのだろうか?
 「洛中洛外」を掌握しているのを誇示したのであろうか?
1574年2月、越前が、一向一揆の領国となった。
1574年3月18日、信長が、公家に列した。
  この日に、信長が、従三位参議に叙任されて公卿に列
 した。
  この後、廷臣との往来がしきりとなる。
1574年4月、本願寺が挙兵した。
1574年7月12日、信長は、慎重に準備を整え、この日、長男・
 信忠、弟・信包以下諸将を率いて岐阜をたち、尾張津島
 に入った。
1574年9月29日、信長が、長島一向一揆を平定。
  追い詰められた門徒は、長島・屋長島・中江の3か所に
 立てこもったが、厳しい包囲と兵糧攻めに餓死する者も
 多く出て、この日、ついに長島の門徒は降伏した。
1574年12月、信長が、領国内の道路修築を始めた。
  信長が、分国中に道普請を指令した。
  川には舟橋をかけ、悪い道は平かに、石を取り除き、
 道幅3間(約6メートル)、両側に松・柳を植え、沿道の
 村民に水撒き掃除をさせた。
1575年、信長が、4人の奉行を使い、諸国の道路を改善した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備とされている。
1575年、信長が、堤防の毎年修理を指示した。
  信長は、かねて築造を命じていた中島郡「道根・横野
 堤」の完成を厳命し、各所の堤防を毎年修理する様に指
 示した。
  農業の進歩は、平野のような地形では、特に、治水の
 技術に関わっていた。
1575年、信長と毛利との対立が次第に目立つようになる。
  謙信は、本願寺に接近した。
1575年3月、信長が、今川氏真に会う。
  信長が、上洛して相国寺に泊まった。
  すると、今川氏真が訪ねて来て、信長に香炉などを送
 り、公卿たちと蹴鞠(けまり)をして見せた。
  かつて、信長は、尾張桶狭間で塗り輿(ぬりごし、表
 面を漆塗りにした輿、公方・長老などの乗り物)で逃げ
 る今川義元を討ち果たしたが、その子・氏真が、京都に
 流れ着き、父の敵(かたき)の自分にこんな風にするの
 を、信長はどんな気持ちで眺めたのであろうか?(馬に
 乗り換えて逃げたという話もある)
1575年5月21日、長篠の戦い。
  信長包囲網を打ち破った後、信長や家康は、甲斐の武
 田氏に対しても反抗を強めており、また、武田方からも
 織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
  4月に、勝頼より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞
 昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠
 城に攻め寄せた。
  しかし、奥平勢の善戦により、武田軍は長篠城の攻略
 に手間取った。
  5月12日に至って、信長は、3万の大軍を率いて岐阜か
 ら出陣した。
  そして、5月17日に、徳川軍8000と三河国の野田で合流
 した。
  3万8000に増大した織田・徳川連合軍は、5月18日に、
 設楽原に陣を敷いた。
  そして5月21日に、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが
 始まった(長篠の戦い)
  信長は、5人の奉行に1000挺余りの鉄砲隊による射撃を
 行わせた。武田軍に圧勝した。
1575年8月12日、信長が、越前の一向一揆を平定した。
  信長は、越前を目指して岐阜を発った。
  若狭・丹後の水軍までも加えた大軍は、越前に入って
 敦賀に陣した。
  一揆平定後、越前八郡を柴田勝家に与えた。
1575年10月、信長に、本願寺が降りた。
1575年11月4日、信長が、権大納言兼右近衛大将(征夷大将
 軍に匹敵する官職)となり、その拝賀式で天皇から盃を
 与えられ、信長からも献上物が出され、廷臣にも分けら
 れた。
  これで、朝廷より「天下人」であることを、事実上、
 公認された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
by suba28 | 2015-04-22 01:54 | 皆様とともに 幸せになりたい


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