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(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)

題:(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月30日、伊藤博文の免官が発令された。
  10月11日に、枢密院議長の伊藤博文が、大隈重信の条
 約改正案に反対して辞表を出した。
  そして、10月30日のこの日に、免官発令がなされた。
1889年10月、山形県鶴岡町で、困窮家庭の児童たちへ、給
 食が配られ始めた。
  和尚さんたちの慈しみの心から生まれた『日本初の給
 食』だった。
  明治22年のこの年、鶴岡市の家中新町の大督寺境内に
 ある私立忠愛小学校で、
  生活が苦しい家庭の子どもたちへ、昼食を与えたのが、
 日本の学校給食のはじまりとなった。
  小学校で、ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗
 まれる事件が発生した。
  悲しいかな犯人は子どもだった。
  しかも、その子は、昼はおろか、朝晩もまともな食事
 をとることの出来ない家庭の、可哀想な子どもであるこ
 とがわかった。
  そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」
 との思いで給食が始まった。
  和尚さんたちは、お経をとなえ、一軒一軒家を托鉢し
 てまわり、
  その時のお米や浄財を資金にして、お弁当を持って来
 ることの出きない子どもたちのために給食を作った。
  日本の学校給食の始まりは、この山形の私立忠愛小学
 校で、無料で食事を配ったのが始まりだった。
  初めは、おにぎりと漬物だけという簡素なものであっ
 た(これが、当時の日本では当たり前の昼食)。
  その後、各地で、一部の子供に対して、つまり欠食児
 童への、パンなどが、一部の学校で配られるようになっ
 て行った。
  1930年代に入ると、学校給食臨時施設法が制定され、
 一部ではあったが、学校給食が実施されるようになった。
  残念ながら、1940年代に入ると食糧事情悪化の為に中
 断され、・・また・・、
  戦後1945年以降は、外国からの食料援助によって、児
 童の欠食対策として、徐々に、給食が再開され、
  1952年あたりからは、食糧事情の改善により、全国的
 に完全給食を実施することが可能になった。
  同時に、給食の目的は「欠食児童対策」から「教育の
 一環」と位置づけられ、
  また、「学校給食法」が制定され、
  財政力の弱い地方自治体でも、交付税と補助金によっ
 て、全児童への完全給食が可能となった。
  因みに、この私立忠愛小学校の設立の主旨は・・、
 貧しい子どもたちへも教育を与えたいと、やさしい和尚
 さんたちが、鶴岡の寺院が宗派をこえて、 1889年(明治
 22年)に、大督寺の本堂の一部を利用し、「私立忠愛学校」
 を開設した。
  また、このお寺は、藤沢周平作品の「義民が駆ける」
 に登場する浄土宗のお寺である。
  境内には、学校給食発祥の地の記念碑がある。
1889年11月1日、史学会の第1回会合が行われた。
  公益財団法人 史学会、
  設立趣旨:
  この法人は、広く世界を対象とする史学研究の発展を
 めざし、最新の研究成果を公表することに努める。
  この活動を通して、過去と現在とを結ぶ歴史認識を社
 会に普及することにより、わが国の知的文化の向上に貢
 献することを目的とする。
  沿革:
  1889年、史学会 発足
  1929年、財団法人史学会 設立
  2012年、公益財団法人史学会 移行
  設立年月日:1889年11月1日
  会員数:個人会員:2280(人)
  性別:男性会員:1882(人)、女性会員:398(人)
  団体会員:120(団体)
  刊行物・誌名(和文):史学雑誌
  発行部数:4600(部/回)
  活動:国内及び国際の学術連合体への加入
  史学会の歩み:
  東京大学で生まれた史学会が歩んできた歴史は、日本
 におけるアカデミックな歴史学そのものの歩みである。
  御雇外国人のルートヴィヒ・リース(1861年~1928年)
 は、ベルリン大学で、ハンス・デルブリュックに師事し、
 ランケが確立した近代歴史学を学んだ。
  帝国大学の招聘を受けての来日は、1887年で、1902年
 まで世界史、史学研究法を講じた。
  明治維新後、欧米の先進文化を取り入れるため、政治、
 法律、軍事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外
 国人が日本に来たが、
  彼が、日本にもたらしたものは、レオポルト・フォン・
 ランケらによって樹立された近代歴史学・・、
  つまり、史料(歴史資料)を収集し、それを批判的に
 分析し、事実を再構成するという実証的な歴史研究の手
 法だった。
  東京大学大学院法学政治学研究科長の西川洋一教授は、
 当時のリースの授業について次のように説明する。
  「ドイツの大学では、歴史研究の方法を学生に学ばせ
 るため、
  演習(ユープンク)という授業形式を重視していたが、
 リースも日本でそれを採用した。
  1例として、1888年の演習で取り扱われた島原の乱の研
 究では、日本側の史料だけでなく、オランダ商館やキリ
 スト教会関係などヨーロッパ側の史料を集め、
  それらを比較検討しながら、蜂起の経過から鎮圧の過
 程に至るまでを再構成し、
  成果は、論文として発表された。
  学生たちは、単に、リースの講義を聴講するだけでな
 く、日本語の古文書を英訳するなどして、史料分析に積
 極的に関わった。
  リースが、島原の乱を扱った演習の成果は、当時、学
 生だった磯田良氏によって論文にまとめられ、『史学雑
 誌』第1編13号に掲載された。
  リース自身も、1890年に、『ドイツ東アジア協会紀要』
 に同テーマの論文を発表した。
  磯田氏は、帝国大学の講師になった後、ドイツ、オー
 ストリアに留学。
  帰国後、東京高師教授をつとめた。
  正岡子規は、随筆『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を
 落第したのは、リースの授業を落としたからで、その後
 もしばしば試験に苦しめられる悪夢を見ると告白してい
 るが、そのような学生は、子規だけに留まらなかった。
  「講義録を読むと、リースは、ドイツの大学で行われ
 ていたものと遜色のない、高いレベルの授業を行ってい
 たことがわかる。
  リースを知る在日ドイツ人の書簡には、彼が、学生に
 対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった記述
 を見つけることができる」。
  日本に早く根づいた近代歴史学。
  リースは、また、帝国大学に国史科が開設したことを
 機に、同僚の重野安繹教授らに、学会の設立と雑誌の刊
 行を勧め、
  その結果、1889年11月1日に、史学会発表会を兼ねた
 第1回学会が、文科大学第10番教室で行われた。
  また、同年・1889年12月15日には、『史学会雑誌』(
 後の『史学雑誌』)の第1号が発行された。
  研究者のネットワークとしての史学会、および、研究
 成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を設
 けることによって、東京大学に、日本の近代歴史学が誕
 生した。
  因みに、『史学雑誌』は、日本で最も古い歴史学の学
 術雑誌で、
  論文は、すべて厳しい査読を経て掲載されるため水準
 が高く、日本史、東洋史、西洋史に限らず、総合的に歴
 史を扱っている。
  そして、主要な歴史学雑誌として、最古のものである
 ドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、
  イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical
  Review』の創刊は1886年、
  アメリカ歴史学会の『American Historical Review』
 の創刊は1895年で、
  ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど
 早い時期に、日本に根づいたことがわかる。
  『史学雑誌』は、2014年現在で123編におよぶ。
  また、毎年1回開催されている史学会大会も、関東大震
 災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現
 在まで続けられている。
1889年11月1日、伊藤博文、および、黒田清隆に、元勲優遇
 の詔書(しょうちょく)が出された(11月21日説あり)
  天皇陛下より、「大臣の礼によって元勲優遇の意を表
 す」という詔勅が下された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:貶(おとし)められる日本・・事実から乖離して・・
.
1911年2月21日、日米通商航海条約を調印した(小村条約)
  種々の段階がある日米通商航海条約のうち、明治44年
 (1911年)調印の新条約(小村条約の通称がある)。
  これによって、関税自主権が完全に回復したが・・、
 昭和14年(1939年)に、日本の中国の行動を不満として、
 アメリカは、破棄を通告し、1940年1月26日に失効した。
  日米の開戦の原因の一つとなる強烈な『準宣戦布告的』
 なアメリカの行動だった。
  1894年、1899年(陸奥条約)と続く日米通商航海条約
 で・・1911年に締結された日米の条約だった。
  不平等条約であった江戸末期の日米修好通商条約を、
 陸奥宗光(むつむねみつ)外相の時、日英通商航海条約同
 様に、法権を回復させ、
  次いで、日露戦争勝利後、日本の国際的地位向上を背
 景にして関税自主権を完全に回復させた条約。
  ☆不平等条約であった江戸時代の日米修好通商条約(
 1858年)を改め、明治政府がアメリカとの間で法権を回
 復した条約。
  1894年11月22日、陸奥宗光外相のとき、栗野慎一郎駐
 米公使と国務長官グレシャムW.Q.Greshamが調印し、
  翌年・1895年3月24日、公布した。
  1899年7月17日から実施された。
  1894年7月16日に調印された日英通商航海条約と同じ内
 容のものであった。
  (1)安政(あんせい)五か国条約の一つとして結んだ日
 米修好通商条約にかわり、
  1894年(明治27年)11月22日調印、5年後の1899年7月
 17日効力を発生した条約。
  通商航海の自由と内国民待遇を原則とし、領事裁判権
 を撤廃し、多少の束縛を除き関税自主権も回復した。
  (2)1911年(明治44年)2月21日、調印の日米新通商
 航海条約。
  旧条約には、日本人移民をアメリカ政府が国内法で制
 約できる留保条項があった。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900年
 から著しく増加、日本政府は、差別的法律が制定される
 のを防ぐため、1907年、1908年に日米紳士協約を結び、
 自主的に移民を制限した。
  しかし、移民問題は解決されなかったので、旧条約の
 終了と同時に有効となる新条約を結び、留保条項を削除
 し関税自主権を完全に回復した。
  日本政府は、同時に、紳士協約の維持宣言をアメリカ
 政府に伝えたが、アメリカは、1924年(大正13年)排日
 移民法により紳士協約を『一方的に廃棄した』。
  1939年(昭和14年)7月26日、アメリカは、日本の中国
 での行動に抗議して条約の廃棄を通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みたが成功せず、1940年1月26日失効
 した。
  (3)サンフランシスコ講和条約の発効に伴って1953年
 (昭和28年)4月、調印された日米友好通商航海条約。
  日米間の通商、および、投資交流の促進のための最恵
 国、および、内国民待遇の原則を基礎としている。
  日本が、第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初
 の通商条約。
.
1937年7月29日、通州事件(中国共産党の扇動)
  日本人の多数が虐殺された事件。
  この事件は、中国共産党の扇動であったと判明したと
 (産経新聞、2017年1月4日)が報じた。
  蜂起した地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動
 工作を受けていたことが、研究の結果、明らかとなった。
  「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の中国共産党
 が、敵対する親日政権の軍や警察組織に離反する事を働
 きかけた。
  そして、日本人を襲うという惨劇につながる蜂起とな
 ったことが裏付けられた。
  (参考)通州事件は、北京の東にある通州(現:北京
     市通州区)で、親日地方政権(殷汝耕・いんじ
     ょうこう政務長官)の保安隊が蜂起した事件。
     自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居
     留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あ
     まりが死亡した。
      多くの女性や子供が、極めて残虐な方法で殺
     害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
  国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通牒が判明
 した。
  また、共産党の関与は、党史や地方史に関する報告と
 して、河北省唐山市の機構が運営する研究サイトや、歴
 史専門誌などで、近年、新事実が相次ぎ公表された。
  河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉
 少奇書記)の下で、工作員が、1935年の自治政府の成立
 直後から、保安隊や第一総隊長や第二総隊長と関係を持
 った。
  この関係で、共産党は、「抗日救国に一致団結する大
 義」を植え込んだりして、保安隊内への浸透をして行っ
 た。
  さらに、盧溝橋事件に始まる日中の戦い以前に、華北
 一帯で頻発した抗日活動も、「共産党が工作を行って」
 功を奏していた。
  1例として、1936年11月、河北省を列車で移動中の山海
 関守備隊長、吉田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安
 隊の兵士に拉致された事件について、共産党に洗脳され
 た張硯田の指示と判明した。
  1935年~1936年当時、毛沢東が率いる共産党は、陜西
 省(せんせいしょう)北部の根拠地で、国民党軍の包囲
 を受けつつ、党勢の立て直しを模索、国民党や親日勢力
 を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、
 国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。
  通州事件で、保安隊は、7月28日の深夜から行動に移り、
  第一総隊が、日本軍守備隊へ攻撃、
  第二総隊が、外部との連絡切断、
  教導総隊が、駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当
 した。
  蜂起を指揮した張慶余らは、通州事件の後、国民党軍
 の中将となり、戦後まで生存した。
  中国では「抗日将領」として評価されている。
.
1945年9月8日、アメリカが、南朝鮮を占領した(~1948年
 8月15日)
  そして、アメリカに直接統治された。
  近代産業の中心をなしていた重化学工業は、物的施設
 を残すのみで霧散し、
  日本経済との連関において編成されていたその他の鉱
 工業もマヒ状態に陥らざるをえなくなった。
  解放後の「南北への分断は、単なる地理的な分断では
 なく、韓国産業の構造的な切断とも言うべきもので、日
 本の支配下にあって築き上げた産業体系と、その基礎を
 解体する結果を招来した。
  この様な経済状況に於いて、北緯38度線以北から越南
 する者や、
  日本及び満州、その他各地から朝鮮人労務者などが一
 斉に帰還する事によって失業や食料、住宅問題が激化し
 た。
  しかし、この状況を、アメリカによる占領期の救護政
 策について何ら研究が見当たらない・・が・・
  アメリカが南朝鮮を統治する占領政策についての「民
 政に関する書記基本指令」がある。
  これは、1945年10月中旬、在朝鮮アメリカ司令官へ送
 付された。
  運営する人員についても、「軍事要員の節減を最大限
 に実施するため、朝鮮人をできるだけ行政上の地位に登
 用する」(第2節)ことを規定していたが、適当な者が
 見出せない場合、日本人、および、日本人に協力した朝
 鮮人を一時的に任用することを許可していた。
.
1946年1月9日、生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝
 鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、
 進駐軍の協力を得て鎮圧した。
.
1946年9月24日、南朝鮮でアメリカ占領政策反対ゼネラル・
 ストライキ
  アメリカが、南朝鮮における占領政策を進める上で、
 うまく出来たのか?
  そのアメリカの占領政策の腕前について記すと・・、
  結論を先に記すと・・日本人が優秀である事と、日本
 人が、朝鮮の方たちと仲良く・巧(うま)く行政を行な
 って来ていた・・その為、アメリカの占領政策に於いて、
 日本が敗戦となったからと言って、日本人を解任する事
 は出来なかった。
  日本人の優秀な能力と、朝鮮の方々との誠実な仕事ぶ
 りをそのまま使うしかなかった。
  その事を記す・・研究論文には・・、
  在朝鮮米軍司令官・ホッジ中将は、統治開始後まもな
 く、朝鮮総督府官僚を解任していく。
  1945年9月12日、総督室において安部総督に辞任を要求
 した。
  しかし、同席していた遠藤政務総監に対しては、政務
 総監としての官職を退いて、顧問として『残るように依
 頼した』のだった。
  そして、同日午後2時30分、政治・文化団体代表を参集
 した会合が、府民館で開催された。
  ホッジ中将は、その会合で、安部総督を解任し、アー
 ノルド少将を軍政長官に任命すると発表した。
  その3日後に、ホッジ中将は、新聞を通じて、12日に総
 督と警務局長を解任し、15日に、その他の各首脳部をす
 べて解任した、と発表した。
  そして、同月20日付をもって軍政庁の機構が決定し、
 朝鮮総督府の機構を、ほぼ踏襲した米軍政庁の各局長に
 米国人将校が任命されるのであった。
  しかし、1945年9月12日に、ホッジ中将が依頼したよう
 に、朝鮮総督府の日本人官僚であった遠藤政務総監以下
 各局長は、一旦は「解任されたが、そのまま行政顧問と
 して残ること」となったのである。
  このように、ホッジ中将が、日本人官僚を行政顧問と
 して残留させたことについて、ホッジ中将の政治顧問で
 ある国務省から派遣されたペニングホフは、同月15日付
 の報告書で次のように述べている。
  「日本人官僚の排除は、世間の見地から望ましいもの
 であるが、当分その実現はむずかしい。
  名目的には、彼らを職位から解除することができるが、
 実際には、仕事を続けさせなければならない」、
  その理由は・・、
  「政府機関、公共施設、報道機関を問わず、下級職員
 を除くと、資格をもつ朝鮮人職員が存在しないからであ
 る。
  終戦直後の南朝鮮における朝鮮総督府の日本人官吏の
 総数は、朝鮮関係残務整理事務所の調べによると、4万
 841人であり、嘱託以下の者も含めると5万4920 人であっ
 た。
  その内訳として、勅任官と奏任官は4,848 人であった。
  末期の朝鮮総督府で勤務していた日本人官吏の総数や、
 朝鮮人官吏の総数は、資料の関係上、明らかにすること
 は困難であるが、南朝鮮地域の「総督府高級官吏(勅任
 官と奏任官)のうち、末期の10年間、朝鮮人の占める割
 合は18~22パーセントを上下するレベルであった。
  絶対数で言えば、1942年の例であるが442人ほどであ
 った。
  仮に、20パーセントと設定した場合、終戦直後の南朝
 鮮地域における、日本人・朝鮮人の総督府高級官吏(勅
 任官と奏任官)の総数は、6,060人となり、その内、朝鮮
 人官吏は1,212人であったことになる。
  いずれにせよ、解放後の行政活動を実施しようにも、
 その経験が乏しい朝鮮人しか見出せないため、または、
 経験があったとしても日本に協力した朝鮮人であったが
 米軍政としては、一時的に、日本人を任用するほかなか
 ったのであった。
  ホッジ中将は、南朝鮮の民衆に対して、このような任
 用が一時的なものであると、1945年10月16日付の『毎日
 日報』で説明している。
  軍政庁では、「日本および親日官吏は、優秀な朝鮮人
 と可及的速やかに更迭となっている」ことや、
  「官吏地位、各階級に朝鮮人を配置するまで、その他
 朝鮮人官吏を養成中である」と述べていた。
  このように、統治開始直後の軍政庁にとって、行政を
 運営する人員の確保や、訓練が緊急の課題であった。
  朝鮮人職員の任命については、「日本の制度中、勅任・
 奏任の別は、現在は軍政庁に於いては其の区別の必要な
 きを以って一括高等官として統一す。
  又、勅任官は、日本天皇の任命なりしも、現在之等の
 官職は軍政長官の任命に属し、判任官は、中央及び地方
 の長官之を任命」して、軍政庁は、それらの朝鮮人職員
 を訓練していくのであった。
  (論文「米軍政期の南朝鮮救護政策に関する一考察」
 を参考にした)
.
1946年10月1日、大邱10月事件(テグじゅうがつじけん)で、
 南朝鮮人230万人が、アメリカ軍政に抗議して蜂起した。
  米価が、日本統治時代に比べて10倍以上に高騰してい
 た。
  そして、この年5月には、南朝鮮全土にコレラが流行し、
 慶尚北道だけで、4000人が死亡した。
  その後、水害による交通破綻や、『強制拠出』なども
 あった。
  この年、10月1日に、大邱府庁前で行なわれた抗議デモ
 に対して、警察が発砲したことから、不満が鬱積(うっ
 せき)していた人々の抗議活動が、収拾がつかない事態
 となった。
  10月2日に、アメリカ軍が戒厳令を布告した。
  これに触発されて、南朝鮮全土で、230万人が参加する
 『騒乱』となった。
  事態を収拾するために、アメリカ軍や、南朝鮮防衛隊
 や警察が投入され、強引な取り締まりの結果、136名の犠
 牲者(死者)が出た。
  事件後、南朝鮮のアメリカ軍への支持が失われた。
  共産主義団体への支持が強まった。
  「飢えた腹を握りしめた小市民たちの抵抗運動」と報
 道された。
.
1948年8月15日、大韓民国の独立・建国。
.
1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の独立・建国。
.
1980年代、アメリカでエイズが広がり始めた。
  感染者が解雇されたり、学校から登校を拒否されたり
 する事例が頻発(ひんぱつ)した。
  エイズにおいても差別社会が現出した(人種差別国の
 アメリカにおける新たな差別が発生)。
.
1997年、パラノイア・アメリカ
  パラノイアとは・・、
  ある妄想を始終持ち続ける精神病。
  妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさ
 まざまである。
  偏執(へんしゅう)病。妄想症。
  不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分
 を批判しているという妄想を抱くものを指す。
  自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受
 けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い
 妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面
 において常人と変わらない点が特徴。
  キリスト教の性悪説的な思考習慣からこの資質に取り
 込まれる。
  そして、パラノイア・アメリカについては・・、
  ドン・デリロとトーマス・ピンチョンは、1997年に、
 数ヶ月前後して長編小説を発表した。
  前者のUnderworld(地下社会)は、20世紀後半のアメ
 リカ史を背景とし、後者のMason&Dixon(メーソン&ディ
 クソン)は、18世紀半ばのアメリカ独立期の史実を描き、
 共に歴史を材料としている。
  しかも、両者は、産業資本主義社会の隠れた裏面に焦
 点をあて、その問題点を描いている。
  Underworldの場合、一見互いに無関係と思われる諸々
 の出来事が、パラノイア的に関連付けて描かれており、
 その関連性が特異な効果を作品に与えている。
  作品には、20世紀後半を特色付ける多くの要素・・冷
 戦、核実験、軍産複合体、人種差別とそれに起因する暴
 動、反体制運動、種々の凶悪犯罪、メディア、廃棄物と
 そのリサイクル、社会の底辺に生きる人々等・・が描か
 れているが、
  それらは、共通のイメージや場所、小道具、数字等に
 より相互が複雑に交錯し、関連付けられている。
  また、諸々の事柄を関連付けて解釈するパラノイア的
 人物さえ登場している。
  これらの関連項は、全てワールド・ワイド・ウェブ(
 インターネット上で提供される超越的なテキスト・シス
 テム)で最終的に収斂しており、ネット社会に突入した
 現在の状況を象徴している。
.
2015年12月13日、池上彰氏が、ひどいテレビの解説放送を
 していた。
  よく自虐的な、そして、日本を貶める放送をするNHK
 という放送局出身の池上彰氏であるが・・、
  池上氏も、NHKを退職したこの時も、民放で、NH
 Kと同様の日本を貶める放送をしていた。
  知人宅でのBSジャパンでは、午後15時53分、番組名:
 「池上彰の教科書に載ってない20世紀」
  池上氏は、終戦の3日後、日本政府が慰安所を作ったと
 言った。
  これは嘘である。
  アメリカが、東京都へ依頼した「慰安所設置の要望書」
 がある。
  そして、さらに池上氏は嘘を言った。
  その1年半後に、アメリカが「止めよ」と言ったという。
  これでは、『日本政府が作って、アメリカが止めよ』
 と言ったになってしまう。
  「アメリカが作ってくれ」と言って、後に、止めよと
 言ったが正解なのである。
  池上彰は、作れと言ったのは日本政府だと嘘を言った。
  これでは、まったく、アメリカが美しくなってしまう。
  日本政府の作った慰安所設置を、アメリカが止めよと
 言ったと、まったく、アメリカが美しいという話になっ
 てしまう。
  日本を完全に貶めている池上彰になったいる。
  テレビという強力な影響力を持つ放送媒体を使って、
 この様な卑劣な行為を、NHKと同様に行なっている。
  この番組の酷い所は、バックにキリスト教の讃美歌を
 流しているところだ。
  慰安所を止めよと、さも、キリスト教が言っている様
 に印象付ける様に放送している。
  関連している沢田美喜さんの話・・、
  沢田美喜さんは、1948年に、エリザベス・サンダース・
 ホームを設立された。
  これは、第二次世界大戦後に、日本占領のためにやっ
 て来たアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と、日
 本人女性の間に・・、
  強姦や慰安所などで生まれたものの、アメリカ兵や周
 囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、
 1948年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢
 田美喜さんが設立した。
  沢田美喜さんが設立したいきさつは・・、
  あまりに酷い性的に乱れた結果が残る状況を、沢田さ
 んは、アメリカGHQに、抗議した・・、
  「そんな子がいる訳ない」と、アメリカGHQは拒否
 した。
  そこで、沢田さんは、アメリカ兵と日本女性との間の
 混血の子を連れて行って、見せて、説明し、立証した。
  しかし、アメリカGHQは、それでも・・拒否した。
  沢田さんは、「よし、それなら」と・・、
  混血の子たちを連れて、アメリカ本土に行って訴えた。
  そして、寄付を募った。
  アメリカ本土の方々は、理解を示してくれた。
  寄付も戴くことが、やっとでき、三菱よりの資金と共
 に設立したのだった。
  この様な事も、本当に公正に説明しない池上氏だった。
  また、キリスト教は、この沢田さんの善行を、キリス
 ト教が良くやる嘘・「神の啓示だ」と作り上げている。
  神の声が聞こえた・・と・・
  また、GHQの上記の卑劣な対応などは一言も触れな
 い・・逆に・・美しく仕立てている・・そして、日本を
 貶める・・卑劣な『いつものパターン』となっている。
  設立時のアメリカGHQの対応も隠す行為をして・・、
  そして、最初の寄付者であるエリザベス・サンダース
 さんの話のみを大きく取り上げている。
  少額の寄付だが・・最初の寄付者ということで、その
 名がとどめられた。
  しかし、これを過大に美しくプロパガンダした・・
  また、当時の厚生省の調査結果によると、84%の子供
 が白人系で、11%が黒人系であった。
  これも、いやらしく説明した(ここに詳しく記すこと
 が出来ない)
  当時、アメリカGHQは、この問題から逃げていて、
 話題にされることさえ嫌い、当然、救済策も取ろうとし
 なかった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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# by suba28 | 2017-02-21 05:29 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月15日、条約改正に関する御前会議、賛否対立し
 て結論出ず。
1889年10月18日、外務大臣:大隈重信襲撃事件
  この日、大隈重信は、御前での閣議で条約改正の審議
 を受けるが、山縣有朋内務大臣が、条約改正案に反対し、
 閣議は散会した。
  大隈外相は、午後4時過ぎ、馬車で霞ケ関の官邸に戻
 ろうとしたところ・・、途中、馬車が、外務省の門前に
 さしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の
 男が近づく・・、
  玄洋社の来島恒喜が、爆弾を馬車へ投げつけた。
  大隈重信は、右脚に重傷を負いながらも・・、
  ・・憤然と、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。
 膝の上に燃える断片を払う。
  兇行におよんだ男は、爆弾の破裂を見届けると即座に
 短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる。
  来島は自殺。
  暗殺未遂となる・・条約改正は中止。
  その後、大隈は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・
 フォン・ベルツの手により右足切断手術を受けた。
  犯人は、日本の右翼活動家、テロリスト。
  筑前共愛公衆会で、国家主義組織・玄洋社の一員、来
 島恒喜(31歳)
  黒田内閣は総辞職し、三條実美暫定内閣へ・・、
  大隈は、その後、来島について・・
  「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思ってい
 ない。
  いやしくも、外務大臣である我が輩に、爆裂弾を食わ
 せて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であ
 ろうと感心する。
  若い者は、こせこせせず、天下を丸のみにするほどの
 元気がなければだめだ」と語っている。
  来島本人は、酒を受け付けず、大隈重信暗殺に出向く
 際、別れの盃は水であったという。
  来島が学んだ興志塾(通称:人参畑塾)の塾長・高場
 乱(たかばおさむ)は、来島自決の報を聞き・・、
  「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月
 を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。
  博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘
 となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。
  当初、大隈襲撃は、月成功太郎(首相・広田弘毅の岳
 父)と一緒の計画であったが、家族持ちの月成の事情を
 考え、欺いて単独襲撃となった。
1889年10月19日、首相・黒田清隆が、条約改正交渉の中止
 を決定した。
1889年10月21日、黒田首相が辞表を提出した。
  黒田の総理辞任後、2ヵ月間にわたって存在した内大臣
 の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざん
 ていないかく)となった。
  三條暫定内閣は、1889年10月25日~1889年12月24日。
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、
  欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等
 条約の改正を実現することにあった。
  大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日
 (1889年2月12日)、黒田は、鹿鳴館で開催された午餐会
 の席上において、「超然主義演説」を行って、政党との
 徹底対決の姿勢を示した。
  しかし、その一方で、立憲改進党前総裁(実質は党首)
 で外務大臣の大隈重信を留任させて、条約改正の任にあ
 たらせた。
  また、文部大臣の森有礼の暗殺後、
  榎本武揚が、文部大臣に移動し・・、
  空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者で
 あった後藤象二郎を充てた。
  そのことによって、大同団結運動を骨抜きとなった。
  自由民権諸派の団結は阻止された。
  また、条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条
 約である日墨修好通商条約を締結することに成功した。
  そして、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見え
 た。
  しかし、外務省が用意した改正草案に、妥協案として
 「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明
 らかになると、大騒動となった。
  一旦解体したはずの大同団結運動が、今度は、板垣退
 助を擁して再燃した。
  政府内からも、山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井
 上馨らが、妥協案に反対する意志を示した。
  黒田は、大隈を擁護したが、条約改正交渉は、中断に
 追い込まれた。
  その様な状況の中、10月18日に、大隈が重傷を負うと
 いう事態となった。
  進退窮まった黒田は、一週間後の25日、全閣僚の辞表
 を提出するに至った。
1889年10月23日、電信の架設
  この日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、
  東京~横浜間に電柱と電線を張る電信架設工事が着工
 された。  
  電話創業は1890年。
  因みに、日本で初めて電信の実験を試みられたのは、
 1854年(嘉永7年)2月24日だった。
  アメリカの提督ペリーが、二度目の来日の時、幕府へ
 贈った33種の土産物の内、蒸気機関車の模型と、電信機
 が、当時の人たちの興味をそそった。
  蒸気機関車の試運転は、同年1854年2月23日に行われ、
  引き続き、翌日の1854年2月24日に、横浜の弁天境内で、
 アメリカ人技師が、電信実験をやって見せた。
  約40メートルおきに、杉の柱を立て、その頭部にギヤ
 マンの壺を置き、これに針金を通し、一里離れた吉右衛
 門の屋敷まで電線を引いた。
  (別史料:この電信機のセットで、約1マイル(1.6km)
 の電線を用いて送信され、この時の電文は「YEDO、
 YOKOHAMA」(江戸、横浜)だったという)、
  そこで、双方から実験を行なった。
  前日の蒸気機関車の試運転で、驚きの状態だった幕府
 の役人達も、
  この日の電信の実験については、どうしても訳が分か
 らなかった。
  実験を行なう前に、一応の説明があったが、正しく伝
 えるべき通訳の役人が理解できなかった。
  電気について曖昧模糊たる中で実験は行われた。
  当時の機械は、エンボッシング・モールス電信機。
  1837年、サミュエル・モールスが電信機を発明してい
 て、それから、18年目だった。
  この時、発信・受信共に実験は成功した。
  そして、受信を、文字に書き代えて見せた。
  通訳が、「針金を引く距離は、もっと遠くても同様の
 実験ができるか?」と聞いた。
  答えは・・「十里が百里となっても完全に通信が出来
 る」・・だった。
  「ここでは、電線が引くのが大変だし、急場の間に合
 わぬので、こんなに近距離でやってみたが・・」・・と。
  当時の見聞記録にも、電信の事を「千里鏡」と呼び、
  或は・・「天連関理府」(テレガラフ)と漢字を当て、
 但書に、「電雷気にて事を告げる機械なり」・・と。
  実験後、この電信機械2台は、江戸城に収められた。
  当時、幕府は、風雲急を告げ、物情騒然たる折柄だっ
 たが、折角の文明の利器も殆んど顧みるものがなかった。
  それから15年目の1869年(明治2年)の夏、初めて横浜
 に電信線が架設された。
  そして、同年の1869年12月25日に、東京~横浜間に電
 信が開通した
  (別史料:1869年、イギリスの通信技師を招き、横浜
 燈台役所~横浜裁判所の間に、電信回線が敷設され、
  ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を
 指す方式)による通信が行われた。
  また、1869年には、東京~横浜間で電信による電報の
 取り扱いが始まった。
  明治政府は、電信網の整備に力を入れた。
  東京~横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で電信網は全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  1871年には、デンマークの大北電信会社によりロシア
 のウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、
  シベリア経由でヨーロッパ、
  さらには、大西洋横断電信ケーブルを経て、アメリカ
 とも通信が可能となった。
  1871年11月に、欧州へと出発した岩倉使節団は、不平
 等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回
 線を使い行った。
  1873年には、東京と長崎間に回線がひかれ、東京から
 海外との通信が可能になった。
  1872年~1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストー
 ンという勅任待遇のお雇い外国人が、対外通信に貢献し
 た。
  その後、電信網は全国に広がり、
  1880年頃には、大都市間に、
  1890年頃には、全国の県庁所在地が継った。
  因みに、1879年に、官報、事務報、私報を合わせ165万
 通の電報が打たれていて、日本の普及は早かった。
1889年10月24日、黒田清隆以下、大隈重信を除く各大臣が
 辞表を提出した。
1889年10月24日、防穀令事件
  朝鮮政府が、不作のため咸鏡道に大豆輸出を禁ずる防
 穀令を布いた。
  1889年、朝鮮咸鏡道で、凶作を理由に出された穀類輸
 出禁止令に対し、
  日本の貿易商が、大打撃を受けたとして、日本政府が
 賠償などを朝鮮に要求した。
  1880年の元山の開港以来、元山は、日本商人による大
 豆や米の輸出が盛んであった。
  しかし、咸鏡道観察使趙秉式(ちようへいしき)は、
 1889年10月、凶作による食糧難を理由に、穀物の道外へ
 の搬出を禁止した。
  防穀令は伝統的な救荒政策の一つで、条約上も認めら
 れていたが、日本側が強硬に抗議したため紛糾した。
  朝鮮政府は、同令を解除させたうえ趙を懲戒,更迭し
 て解決を図った。
  しかし、1891年12月になって、日本政府は、14万円の
 損害賠償を請求した。
  この事によって、両国間の外交問題に発展した。
  交渉は当初から難航した。
  日本は、1893年5月、国交断絶の圧力をかけた。
  朝鮮政府が、総額11万余円の支払いに応じることで決
 着をみたて、1893年、朝鮮政府は賠償金を支払った。
  朝鮮政府の主張は、1883年の日韓通商章程第37款に基
 づく輸出禁止令だった。
  輸出禁止令発布が正しいのか? 
  自由な交易の阻害行為が悪く、それによる損害賠償の
 請求が正しいのか? ・・の問題だった。
1889年10月24日、黒田清隆内閣が総辞職した。
1889年10月25日、黒田清隆の辞表を受理し、三条実美が首
 相を兼任した(内閣総理大臣を兼職)
  他の閣僚の辞表は却下して、三条暫定内閣が成立した。
  内大臣・三條實美 臨時内閣 発足・・、
1889年10月25日、宮武外骨の控訴を棄却し刑が確定、石川
 島監獄に収監された。
  宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日~1955
 年7月28日)ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作
 家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
  役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願い
 します」などとたびたび言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかっ
 たという。
  晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めた。
  大日本帝国憲法発布をパロディ化して、不敬罪に問わ
 れ、禁錮3年の実刑判決となった。
  モットーは・・、
  「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタ
 リもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たてい
 と)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あ
 り」・・と。
  外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』
 があった。
  現代の週刊誌に相当する内容で・・、最盛期の部数は
 8万部。
  この時代の雑誌としては、トップクラスの売れ行きだ
 った。
  類似誌も多数登場した。
  外骨は、「猿雑誌」と類似誌を評しつつ、『滑稽新聞』
 の影響力を自慢した。
  明治41年(1908年)10月、当局は、『滑稽新聞』に対
 して発行禁止命令を出した。
  外骨は、発行禁止に先んじて、173号を以て「自殺号」
 として廃刊した。
  しかし、翌月に、『大阪滑稽新聞』を創刊し、事実上
 の後継誌とした。
  この頃、安重根に伊藤博文が暗殺されるなどの事件が
 あり、安易な批評などが批判された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
   合理化や利便性を追及する風潮を嘆く。
.
1850年頃、ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、
 「浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
 合理化や利便性を追及する風潮」を嘆いた。
  2017年1月24日の日付の読売新聞で・・、
  立正大学の斉藤昇学長が深い話をされていた。
  今年は、「ソロー」生誕200年ということで・・、
  このソローと、今の世相の「利便性の向上と、効率を
 優先させる情報・技術改革」を対比され・・、
  本当の豊かさを考える記述だった。
  今、真に豊かなのか?
  少なからず、まず、大切な人の心が、どこかに置き去
 りにされている様な現代ではないか?・・と言われる。
  そして、不安感に苛(さいな)まれている現代ではな
 いか?・・と言われる。
  このソロー・・
  (アメリカ・ロマン派文壇の異才と言われ、ヘンリー・
 デビット・ソロー、1817年~1862年)は、
  「利便と効率の対極」を意識して、「質素の美徳」と
 「世の中の安寧」の重要性を説いた。
  当時、彼は、過度に物質至上主義に大きく傾斜してい
 くアメリカ先進資本主義の『行き先の不透明感』を危惧
 した。
  ソローは、それを危惧し、自身の魂の葛藤と悲痛の呻
 (うめ)きを発した。
  彼の作品の「ウォールデン、森の生活」や「市民的不
 服従」・・、
  前者は、森の中での自給自足の生活を綴る・・、
  後者は、非暴力主義を掲げた作品・・、
  ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、「浅薄な
 現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)合理化
 や利便性を追及する風潮」を嘆いている。
  そして、世界の隅々までが安寧であることを、凛(り
 ん)として望んだ。
  「華やかに物に溢れた物質文明」の陰から、忍び寄る
 地球環境と人類社会の広汎(こうはん)な危機。
  それを憂うがゆえに、ソローは、その卓越した眼力で、
 鋭く時代を穿(うが)った。
  彼の作品群には、透き通る『慈愛』がある・・、
  そして、至極(しごく)『人間的な眼差し』がある。
  (斉藤学長の記述を参考に、記述した)
.
1942年3月21日、アメリカ議会、日系人強制収容命令承認
  この時の大統領は、フランクリン・ルーズベルトだっ
 た。
.
1942年4月~1945年9月、アメリカのラッシュ・ジョセフは、
 アメリカ陸軍航空部隊所属となり、天気予測班として国
 内勤務の間に、ルーズベルト大統領の妻エレノアと、シ
 カゴのホテルで密会しているところを、アメリカ軍防諜
 部隊に盗聴された。
  そして、それがもとで、盗聴をした防諜部隊隊員らと
 共に太平洋の最前線配属となった。
  もともと、盗聴せよと指示をしていたのはルーズベル
 トだった。
.
1942年6月、アメリカ、戦時情報局(OWI)発足
  アメリカ戦時情報局(OWI)ができた。
  日本の戦後をどの様にするかのアメリカの方針に、大
 きな影響を与えたオーウェン・ラティモアは・・、
  1943年~1944年1月の間、ここに勤務した(サンフラン
 シスコにあるこの部局=極東部主任の要職にあった)。
  ここは、海外向け戦時宣伝を目的にしていた。
  ラティモアは、日本の天皇制を崩したいと考えていた。
  また、「我々にとって、日本人ほど憎むべき敵はいな
 い」というラティモアの言葉があるように、この様な考
 えを持った人物だった。
  日本の自動車、航空機のエンジン製造を禁じなければ
 ならないと考えていた。
  また、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきと考え、
 将来の日本は、第一級の工業国にしてはならないとした。
  そして、「日本を共和国に変える」と考え、天皇陛下
 とその後継者の皇族男子は、中国に監禁すべきだとして
 いた。
.
1943年12月1日以降、アメリカのルーズベルトが戦略の手の
 ひらを返した・・、アメリカは簡単に乗り換えた・・、
  この年のカイロ会談・テヘラン会談(1943年11月28日
 ~1943年12月1日)の後・・、
  ルーズベルト・アメリカ大統領が、中国・蒋介石を重
 要視しなくなった時は、それは、1943年のカイロ会談・
 テヘラン会談の後だった。
  テヘラン会談が、ルーズベルトが、チャーチルの練っ
 た通りに、あまりにも、その通りに行ったからだった。
  中国・蒋介石政府は、ある意味「用済み」となった。
  ここで、アメリカは、戦略の手のひらを返した。
  転換点だった。
  この時、マッカーサー(アメリカ南西太平洋方面司令
 官)は、海軍長官・フォレスタルへ言っている・・
  「中国軍を当てにした戦争は、もう意味がなくなった」、
  「我々は、満州に展開する日本軍をくぎ付けにするソ
 連軍の登場を待たなくてはならない」、
  「ソ連軍の侵攻後、ゆっくり日本本土に上陸すれは良
 い」・・と。
  アメリカは、完全に乗り換えた。
  日本参戦へのスターリンへの追加のエサ(大連と旅順
 の不凍港がソ連のものになる)で参戦が確実になった手
 ごたえを得たからだった。
  アメリカのルーズベルトは、あとは、中国が、日本に
 付くようにならないように注意するだけだと言った。
  「中国(蒋介石)は、日本との戦争を止める事がない
 ようにするのに必要なものだ」・・と、必要なら新たな
 戦争を作るというルーズベルトだった(ビルマ戦争)
.
1944年8月5日、オーストラリアのカウラ市内にあった捕虜
 収容所から、日本人が脱走を企てたとき、
  オーストラリア兵は、無差別に砲火を浴びせ、実に234
 人の日本兵捕虜を射殺した。
  そして、108人に重軽傷を負わせた。
  これに対し、この逆の話がある・・
  日本の長崎市に、戦時中、捕虜収容所があり、オース
 トラリア兵が収容されていた。
  アメリカが投下した原爆で、収容所が破壊されると、
 捕虜たちは脱出し、市民の中に交った。
  しかし、家族や友人を原爆で失い、連合国に原爆投下
 された極限状況下でさえも、日本人は、何ら彼らに危害
 を加えなかった。
  また、オーストラリアは、日本兵捕虜を飛行機から突
 き落として殺した。
  これも、リンドバーグが公表した。
  オーストラリアは、「日本軍は玉砕した」と嘘の報告
 をした。
  この行為は、1人、2人の行為ではなく、オーストラリ
 アは集団で行なった。
  リンドバーグは、この様な行為が、欧州戦線で行われ
 たであろうか?と、日本人が、「有色人種だから行われ
 ていた」との筆致で記述し、公表した。
  また、この頃のアメリカも、日本兵を「黄色い猿」と
 蔑視の表現して、キリスト教に洗脳された「人の肌の色
 で見分けし、有色人種を蔑(さげす)む」ことにマイン
 ドコントロールされた表現をした、そして、有色人種・
 日本兵の命を軽視した。
.
1945年3月9日、東京大空襲(~10日)無差別爆撃・・国際
 法違反・・一般市民の殺戮
.
1946年1月4日、GHQが、超国家主義団体の解体を指令し
 た。
.
1946年1月28日、GHQが、映画の検閲を指令した。
.
1946年2月3日、マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ民政
 局へ指示した。
.
1946年2月3日、通化事件が起き、中国在留日本人が多数殺
 害された。
.
1946年2月13日、GHQが、憲法改正松本試案を拒否し、G
 HQ案を日本側へ渡した(2月8日に正式に提出していた)
.
1946年2月23日、山下奉文元陸軍大将の絞首刑が執行された。
  違法なる執行。
.
1946年4月2日、マッカーサー元帥が、アメリカ将兵に、日
 本女性との醜行自粛を訓示した。
  あまりにもアメリカ兵の行動が乱れていた。
.
1946年5月、中華民国政府が南京に遷都した。
.
1950年、ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争で、アメリ
 カ軍主力の国連軍司令官となった(~1951年)。
  1951年にトルーマン大統領によって解任させられた。
.
1951年5月3日、マッカーサー元帥が、アメリカ上院軍事外
 交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛
 権』の行使」と証言した。
.
1995年9月、沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件が起
 きた。
.
2004年、中国の平和的台頭はあり得ない・・と、アメリカ
 のミアシャイマーは言った。
  「目の前にある問題は単純にして深い。
  中国の平和的台頭は可能だろうか。
  私の答えは『ノー』だ。・・ジョン・ミアシャイマー
 は言った。
  何故、中国の平和的台頭はあり得ないのか?
.
2017年2月12日、この日の読売新聞に、安倍首相とトランプ
 大統領の首脳会談で・・、
  アメリカの核による日本防衛や沖縄県の尖閣諸島がア
 メリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記とした。
  日米首脳会談と共同声明のポイント。
..
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(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月2日、第1回汎米会議
  アメリカの強引な外交(属国扱い)
  おとなしく言う事を聞く属国という前提の会議・・、
  この日、その第1回汎米会議がワシントンで開かれた。
  アメリカが提唱して開かれた。
  南北アメリカ大陸の諸国で構成する汎アメリカ主義の
 会議だった。
  兄貴分のイギリスの排除の第一歩が・・始まった。
  当然、アメリカの主導的立場が明確になって行った。
  アメリカにとっては、自国の工業化が進展したことに
 伴って、原料・食糧の供給地として、中南米地域を重視
 しなければならない状況となった(自分の都合から)。
  この南米大陸は、イギリスが、強い経済的関係を有し
 ていた。
  その為、アメリカは、残された地・カリブ海域の経済
 関係を強くする事から始めた・・
  カリブ海域との関係を持ちたいとした。
  アメリカは、「自国の裏庭的関係国」と位置づけるカ
 リブ海政策を展開した。
  セオドア=ローズヴェルト大統領(日本との第二次世
 界大戦を始めたフランクリン・ルーズベルトの叔父)に
 よって進められた(やることは一緒だった)。
  アメリカは暴力を用いた(この叔父にしても、この様
 な手段を用いた)。
  アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化、
  そして、テキサス・カリフォルニア・ニュージニアな
 どをメキシコから奪った方法と同じ方法で、パナマ運河
 獲得などを実現して行った。
  (パナマ国の分離・独立、そして、アメリカの利権獲
 得)
  みんな、自分・アメリカに都合の良い『奪い取り』だ
 った。
  アメリカは、棍棒外交の強引な手法を用いた。
  (参考)棍棒外交:(こんぼうがいこう、こん棒を持
    つごとく、強引な砲艦外交をちらつかせて行う)
  しかし、これも、当然、次第に通用しなくなった。
  アメリカは、よく民主主義を根付かせるためだという
 が・・、偽善の正義を掲げるが・・??
  『こん棒で殴りながら民主主義を説く』という自分勝
 手なやり方・論理で、嘘っぽい論理でやるアメリカだっ
 た。
  この逆を、もし、アメリカがやられるという事を、ア
 メリカは考えたことがあるのか?
  アメリカより強い相手国が、『自分勝手な擬似正義を
 を掲げて』、アメリカへ暴力を行使して来たら・・アメ
 リカは、それを、受け入れられるのか・・?
  一方的に・・正義なんだからと、言われる状態を・・
 受け入れられるのか?
  また、アメリカは、このやり方を『一種の侵略行為』
 であると自覚していないところに・・悲劇があった。
1889年10月4日、大阪天満紡績会社の職工が集合したが、警
 察の出動により説諭され、解散した。
1889年10月4日、日本法律学校が設立された。
  日本法律学校(にほんほうりつがっこう)は、日本の
 法律を研究し、国運の増進をはかる目的として設置され
 た私立法律学校。
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援して、日本法律学校(現:日本大学)は設立
 された。
  山田顕義(やまだあきよし)は、長門国出身。
  吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後
 の門下生となる。
  25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
  その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才で
 ごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との
 名言がある。
  岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポ
 レオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを
 確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。
  約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格とな
 る明治法典を編纂した。
1889年10月7日、海軍旗章条例(旭日旗が軍艦旗となる)
  海軍旗章条例により、それまで日章旗であったものが
 旭日旗に統一された。
  この時、この条例で、軍艦の標識として、艦艇の後部
 に掲げられる「軍艦旗」とされた『十六条旭日旗』は、
  「聯隊軍旗」と呼ばれ、
  1874年に、日比谷操練場で、日本陸軍近衛第一・第二
 各聯隊に、天皇陛下から授けられた旗だった。
1889年10月8日、逓信大臣・後藤象二郎が、条約改正問題を
 以て国家の不利とし、反対の旨を奏上した。
1889年10月11日、枢密院議長・伊藤博文が、大隈外相の条
 約改正案に反対して辞表を提出し、閣内では、後藤逓相
 (ていしょう)らが強く反対した。
  1889年10月15日の御前会議でも決着がつかず、
  1889年10月24日、黒田清隆首相は、大隈を除く閣僚と
   ともに辞表を提出するに至った。
  1889年10月25日の翌日、首相の辞表は受理されたが、
   他閣僚の辞表は却下された。
    そして、内大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)
   が、兼任首相となり、
    条約調印延期などの後始末にあたり、
  1889年12月24日、この日に成立した山県有朋(やまがた
   ありとも)内閣に引き継いだ。
1889年10月12日、第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階
 建のモダンな第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  沿革・・、
  1870年(明治3年)1月、協力社が設立された。
  1872年(明治5年)1月2日、合資会社「永見松田商社」
   を開業。
  1872年11月9日、「立誠会社」と改称。
  1875年(明治8年)9月15日、立誠会社を株式組織に。
  1877年(明治10年)5月16日、国立銀行願書を提出。
  1877年9月2日、国立銀行条例に基づき、「第十八国立
   銀行」として設立。
   資本金:16万円。初代頭取:永見伝三郎、支配人:
   松田源五郎、役職員:頭取以下21名。
  1877年12月20日、開業。
  1878年(明治11年)1月4日、開業式。
  1885年(明治18年)7月、政府紙幣5万円の下付を受け、
   洋銀買い付けを開始。
  1885年9月、洋銀鑑定人を採用。
  1886年(明治19年)3月1日、貯蓄預金業務の取り扱い
   を開始。
  1889年(明治22年)5月8日、東濱町(東浜町)の大火
   で本店が類焼。
  1889年10月12日、築町の俵物役所跡地に本店の新社屋
   が完成。
  1889年12月1日、本店を東浜町から移転。
  1897年(明治30年)7月1日、普通銀行に転換、「株式
   会社十八銀行」に改称し、営業を継続。(資本金100
   万円)
  1907年(明治40年)1月、株式の大暴落に端を発し、市
   場は混乱、金融界もその大打撃を受け、各所で取り
   付け騒ぎが起こる。
1889年10月13日、富山県魚津で米騒動が起きた。
  この年は、凶作で、
  1890年に入ると米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で貧民が救助を要求して騒動を
   起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、
   高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
   最大のものは、佐渡相川の暴動(6月28日~7月5日)
   で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動
   した。
   その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が
   起こった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの・・常套手段・・
.
1820年代、アメリカの『メキシコ領土の奪い取り』
  アメリカのメキシコ領の奪い取りは、1820年代に始ま
 った。
  この頃、アメリカの公使として赴任したジョエル・ポ
 インセットは、卑劣な事に・・盛んに任地で、メキシコ
 政府に反駁する『反政府勢力を育てた』。
  まったく卑劣である・・後に自分のものにするために
 『政府転覆勢力を育てるのである』。
  この様なやり方は・・アメリカの常套手段だった。
  そして、メキシコの領土の方針が2つになったら、アメ
 リカが出て来る。
  アメリカは、その国が割れた状態にして、介入する。
  そして、植民地にする。
  この様なやり方をする。
  この状況を知ったメキシコ政府は、当然、怒って彼を
 追放した。
  しかし、アメリカは、懲りずにメキシコ領である『テ
 キサスの独立を企んだ』。
  そして、「独立を叫ぶアメリカからの開拓民」が、メ
 キシコ政府軍と戦い始める。
  そして、テキサス共和国として独立させる。
  そして、その9年後の・1845年に、奴隷制度を認める南
 部の一州・テキサスとして「アメリカに併合してしまう」。
  テキサス独立戦争(1835年から1836年)・・これは美
 しい表現の仕方・・策士・アメリカが、メキシコの領土
 を自分のものにして行く過程の暴力行為(戦い)である・・、
  アラモの砦の戦いは、アメリカからの開拓民の部隊が、
 サンアントニオ(テキサス州南部の都市)のキリスト教
 会に立てこもり、約3000のメキシコ政府軍(サンガ・ア
 ナ軍)と戦って全滅した戦い。
  アメリカは、この戦いを、当然、賛美した・・隣国の
 領土を奪うという下心の戦いを・・アメリカ国民の方々
 へのごまかしに・・「この悲劇の戦い」を使って行く・・、
  1836年2月23日から、アラモの砦となった教会に立て籠
 もった。
  指揮官はウィリアム・トラビス。
  また、伝説的英雄のデビー・クロケットらの部隊は、
 この年・1836年3月6日までに、非戦闘員を除く187人全員
 が戦死し・・陥落した。
  『アラモを忘れるな』は、以後、合言葉となった。
  1848年、アメリカは「尊厳を傷つけられた」という
 『名目』でメキシコに攻め入った。
  そして、カリフォルニアやアリゾナなどのメキシコの
 領土を奪った。
  メキシコは、国土の半分以上を奪われた。
  国土の52パーセントもの地域を賠償金だと「賠償金代
 わり」に、アメリカに奪われた。
.
1944年12月、報告書「米コミンテルン概略」が作成された。
  アメリカ大統領ルーズベルトの闇の情報屋と成り下が
 っていたFBIのフーバー長官は・・、
  「ホワイトハウス高官にソ連のスパイがいる」という
 情報を掴(つか)み、合法、または、非合法を問わず捜
 査を続けた。
  そして、ソ連が、アメリカに大掛かりなスパイ網を構
 築している事実を掴んだ。
  そして、この日、報告書「米コミンテルン概略」を作
 成した。
  アメリカ政府内部にも『ソ連情報網』があった。
  戦争中なので同盟国(ソ連)との関係悪化を懸念し、
 その配慮から、大袈裟にされずに済まされた。
  そして、そのソ連情報網の行なっている事は、「単な
 る情報収集」だけでなく、「アメリカの政策に如何に影
 響を与える」かを重視していた。
.
1945年、マッカーサーは日本語を無くそうとした。
  占領政策で、何でもできるという増上慢の上の行動だ
 った。
  グローバル化で英語だと来た。
  すでに、フィリピンで『実験済み』だが?
  フィリピンでも、大分、苦労し、もめめたが?
  フィリピンの方々は・・母国語を「もぎ取られる苦痛」
 を味わった。
  思考そのものが、酷(ひど)い状況になった。
  不慣れな、不器用な言葉の使用を強いられ、がんじが
 らめに縛(しば)りつけられている感じとなった。
  言うことが、一度で伝わらない世界、それも、中々、
 十分に理解してもらえない「もどかしさの中」に住む・・
 という悲しさがあった。
  高度な意見交換なんてできない。
  毎日、毎日、お天気の話のレベル。
  日本人は、漢字文化を、中国から導入して・・、
 平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)も自ら発明し、
 2000年の歳月をかけて磨いて来た現在の日本という世界
 に例を見ない言語。
  語彙は豊富だし、表音文字・表意文字と、豊富な語彙
 の中で深化した思索が行われ・・出来た。
  英語で代替できる訳がない。
  今、持っている良品質な質を劣化できるわけはない。
  1例として、あまたある一字一字に意味のある漢字の
 代替英語が有るのならば、示して戴きたい。
  漢字なら一字で済むものを、どんだけ長い英語の言葉
 で説明しなければならないかを思い知るだろう。
  「5・7・5・7・7」の短歌が、日本には有るが、英語
 には、この31文字で「一つの意味の単語」があるという
 から劣悪さであるから驚く。
  31文字をアルファベット文字で順列組み合わせをしな
 ければ、意味が表現できないという単語の存在の悲しさ
 の中にある・・という・・劣悪さなのである・・
  表音文字(表意文字ではない悲しさ)の数列・順列の
 英語はここまで行かないと、一つの単語が出来ないとい
 う悲しい事例の話なのである。
  表音文字と表意文字がある優れた日本語、それも、表
 意文字も数種類あるという世界一の素晴らしさだ。
  日本語で言えば・・平仮名の羅列の表音文字だけの英
 語が優れている訳がない。
  厚い英語の本を読んでいるからっと言って・・すごい
 話ではない・・平仮名の厚い絵本を読んでいる様なもの・・、
  こんな優れた日本語を、占領政策をしたアメリカのマ
 ッカーサーは、日本語を無くして英語化しようとしたと
 いうから・・愚かしい事をしてばかりいる状況だった。
  愚民化政策だった。
.
1946年2月11日、秘密にされていた『ヤルタ協定』の全文が、
 やっと発表された。
  臆面もなくこの様な卑劣な事をする・・民を愚弄(ぐ
 ろう、人をばかにすること)している。
.
1946年4月9日、GHQは、日本の総選挙の投票・開票は、
 アメリカ軍が監視すると発表した。
.
1946年4月、日本の工業力を根こそぎ破壊する案、『敗戦国・
 日本への懲罰案』が提出された。
  ポーリーの「日本の懲罰事項などを記した報告書」が、
 正式に、トルーマン大統領に出された。
  敗戦国の経済問題を担当する『経済安全保障政策局』
 の局長だった経済学者のジョン・K・ガルブレイスは、
 エドウィン・ポーリーが懲罰的になっている状態・・、
  ある部下の言いなりに、懲罰的になっているのに我慢
 がならなかった。
  事前に見せられた草案は、日本の工業力を根こそぎに
 するものだった。
  ガルブレイスは、爆弾で破壊され、荒廃した日本の都
 市を見るにつけ、
  その上、そんな懲罰を加えることは耐えがたいと義憤
 に駆られていた。
  このポーリーという人物は、大手石油業者で、民主党
 への資金集めの功績と、トルーマンの個人的つながりを
 誇っていた男で、
  ルーズベルトの死の15日後、後継大統領となったトル
 ーマンが、連合軍委員会のアメリカ代表に、前任者のル
 ービンを排して、新たにポーリーをアメリカ代表に任命
 していた。
  ガルブレイスは、ポーリーを説得しようと思い、ある
 夜、ポーリを訪ね、説得した。
  「日本人だって何か着なければならないだろうから、
 繊維工業は除外しましょう」と言った。
  次に石油、そして、肥料工場というように進めた。
  「実に、骨の折れるものだった」と、ガルブレイスは
 言う。
  1946年4月、ポーリーの報告書は、正式にトルーマン大
 統領に提出された。
  ガルブレイスによって内容が弱められたが、まだまだ、
 厳しい内容であることに変わりはなかった。
  日本の占領政策を実質的に仕切るマッカーサーは、結
 局、その実施を渋った。
  時が移り、そのうち、その報告書は忘れ去られた。
  ポーリー報告書が実施されないまま、1948年3月、スト
 ライク使節団が新たな報告書を出した。
  そして、さらに、陸軍時間のウィリアム・ドレイバー
 が、別の報告書をまとめた。
  賠償額は、そのたびに減り、最終的にポーリー案の10
 分の1になった。
.
1946年5月、フ-バー元アメリカ大統領は、この時、来日し、
 日本の人々への食糧の配給が、ちゃんと行なわれている
 かどうかを検証した。
  そして、マッカーサーと、三日間にわたって断続的に
 会った。
  そして、「この戦争は誰がしたのだ」「あの狂気の男
 (ルーズベルト)だ」と二人は同じ見解だった。
.
1946年12月16日、GHQが、日本の国家予算の編成・実行・
 修正は許可が必要だと指令した。
.
1948年7月、アメリカ軍・GHQは、日本に圧力をかけて
 「紀元節」を廃止させた。
.
1950年代、アメリカで、『黒人差別立法』が改められるこ
 となく、黒人の方々を、相変わらず苦しめていた。
  南北戦争(北軍の代表のリンカーンだという、黒人の
 方々の解放者だとプロパガンダ(嘘宣伝)されている大
 統領と、アメリカ南部の南軍の戦い)が終わっても・・、
  なお、アメリカでは、北部でも南部でも、黒人の方々
 に対する蔑視は続いていた。
  19世紀末から20世紀初頭は、特に、卑劣なアメリカ社
 会で、人種分離政策が『合法的』に進められていた。
  この様な差別は、今・現代の21世紀社会でも、アメリ
 カで続いている。
  本当に、唾棄すべきアメリカ社会である。
  交通機関やレストラン、学校等の公共機関で、白人と
 黒人を分離するものや、
  (例えば1例、バスの前の席は白人専用の特等席で、
 黒人の方々は座ってはいけないとされた・・など)
  このほか、この様な差別行為が影響し、就学率が低く
 なってしまう黒人の方々が・・また、蔑視され、
  また、投票権を、事実上、制限されたり・・
  (卑劣な事に、アメリカ白人たちによる、黒人の方々
 の投票率が低くなるような法律が、色々と作られた)
  (黒人の方々への差別を「あらゆるいやらしい法律」
 を立法して行ない、次々と、悪法をつくったりした)
  何と、住宅を制限することも合法とされていた。
  全米黒人地位向上協会は、これらの差別に立ち向かっ
 た・・が・・、
  アメリカの北部を含む諸地域における黒人差別立法は、
 1950年代になっても改めることが出来なかった。
  その様な状況を変えようと、また、酷い状況に我慢で
 きなくなった黒人の方たちは・・、
  1950年代に入ると、差別を無くし、人間としての尊厳
 を取り戻すための闘いである『公民権運動』を展開して
 行った。
  しかし、キリスト教に洗脳された根強い人種差別の意
 識があるため、
  中々、黒人の方々をはじめ、有色人種に対する差別観
 を、アメリカ社会からぬぐう事は出来なかった。
.
1952年、移民国籍法が制定された。
  それでも、相変わらず、日本人は、自由にアメリカに
 移民は出来なかった。
  アメリカでの移民国籍法(すべての人種に帰化権を申
 請する資格を認めた法律)が制定されるまで、アメリカ
 は、日本人を含むアジア人や有色人種に対して冷たかっ
 た・・が・・、
  しかし、この法律が出来ても、移民数の割り当て規定
 が有り、移民と帰化は制限されたままであった。
  1965年の大改正(ハート=セラー法)は、出身国割り当
 て制限を撤廃し、西半球出身者と東半球出身者という大
 まかな枠で移民の数を決めることとし、
  特別な技能を持った人材を積極的に受け入れる姿勢に
 転じた。
  1986年の改正は、偽装結婚による永住権取得を困難に
 するもの。
  2001年9月11日の同時多発テロ以降は、移民を厳しく
 制限しようとする議論が巻き起こり、
  『テロリズムを摘発し阻止するため適切な手段を提供
 することによりアメリカを団結させ強化する法』(愛国
 者法)による修正が加えられた。
.
1955年12月、人種差別の国:アメリカ・アラバマ州モント
 ゴメリーで、仕事帰りに、バスの白人席に座っていた黒
 人女性のローザ・パークスさんが、混雑したバスで、白
 人に席を譲らなかったために・・『逮捕』された。
  バス運転手の命令により、しぶしぶ白人に席を譲った
 同乗の黒人の人達に対して、差別待遇に抗議心を持って
 いたパークスさんは動かなかった。
  アメリカでは、この様な些細なことで黒人の方々は逮
 捕されていた。
  この事件をきっかけに、黒人のマーティン・ルーサー・
 キング氏を中心に、黒人の方々の「バス・ボイコット運
 動」が起きた。
  初めは、パークスさんの裁判の日のみの予定だったが、
 ビラの配布や新聞記事によって、それが成功を収めると、
  キング氏は、運動の継続を決めた。
  黒人の方々は、徒歩や車に同乗して通勤した。
  町中のバスは空っぽになった。
  バス会社の収益はがた減りとなり、差別政策に反対す
 る世論も後押しして、
  ついに、1956年11月、「バスの人種差別は違憲」とす
 る最高裁判決が下された。
  遅れたアメリカ社会を象徴した判決だった。
  約1年に及ぶ運動は、黒人の方々へ、当然の勝利をもた
 らした。
  この運動から、キング氏による公民権運動が始まった。
  キング氏は、インドのガンジー師を尊敬していた。
.
1961年、この年のアメリカの風景、
  アメリカは、町に、サーカスがやって来て、仮設のテ
 ントを張って興行をする。
  そんなに、いつもあるという訳ではないので町中の人
 たちが見に行く。
  こういう時は、アメリカ人は家族中で行く。
  特に、子供連れで行く。
  こんな、サーカスの仮設テント、ここでも、黒人の方
 たちは、片隅の区切られた席に追い込まれていた。
.
1961年、アメリカは、この年になっても、黒人の方々に差
 別をしていた。
  アメリカは、黒人の方々を何百年もの昔に、奴隷とい
 う非人道的行為によって、アフリカから連れて来て以来、
 黒人の方々への差別を、人種差別を・・し続けている。
  この1961年のアメリカのテネシー州の町・ブラウンズ
 ヴィルの記録があるが、黒人の方々へ選挙権を与えてい
 ない。
  この町の人口は、5000人とも言われ、また、1万1700人
 とも言われている。
  その理由は、黒人の方々へ選挙権も与えず、人口把握
 もされてないから・・、卑劣な状態・・、
  セグリーゲショニスト(黒人差別派)の言葉・・
  「○○さんが、ニグロと一緒に、わざわざ、同じテー
 ブルで食事をさせるのは馬鹿げたことだ」、
  「二グロの方じゃ白人と一緒に、ご飯を食べたって、
 シャチこばって、目を白黒さえせるばかりで、おいしい
 とも何とも思いませんよ」・・と・・、
.
1961年、アメリカのテネシー州のブラウンズヴィルへ行く
 機会があり、バスで行くと、停留所の食堂の裏側に暗い
 穴倉の様な入り口があり、
  そこに「カラード」と黄色い殴り書きのペンキの文字
 が、
  そこは、黒人差別されたトイレだった。
  当然、白人用は食堂内にある。
  そして、テント・シティーの事を口に出したら、案内
 をしてくれている人が、「テント・シティーなんて、そ
 んなことを、君はいったい誰から聞いた」と息巻いて言
 った。
  「知り合いが・・」と答えると、
  「あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たち
 は知らんさ」と言った。
  テント・シティーは、選挙の時に、選挙人登録に行っ
 た黒人たちが、町から追放され、
  やむなく、自分たちでテントを張って暮らして居る村
 だった。
  そして、さらに、「彼等には、それだけの能力がない
 からさ」と、選挙権を渡せない理由を言った。
  そして、「我々は、できるだけ彼等に教育を与えて、
 他の都会へ行ってもらいたいだけさ」と、黒人の分散政
 策をとっている事を言った。
  そして、言った、「ところが、彼等は働かん、1日働く
 と2日休む。
  それじゃ、どこへ行っても駄目さ」・・と。
  そして、この案内人の知る黒人の家に行って驚いた。
  10畳ほどの板の間に椅子が二脚、それきり。
  日本の場合、貧乏な生活でも、わけの分からぬ「ぼろ
 ぼろのもの」が部屋中に満ちている。
  しかし、ここは、それを通り越して、一体どうやれば
 取り散らかすことが出来るかと考え込んでしまうほど、
 部屋の中には、物が、何一つないのだ。
  逆に、貧しい清潔さと言える・・と思った。
.
1972年6月17日、ウォーターゲート事件の発端が起きた。
  この事件で、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン
 が辞任するという事件だった。
  しかし、この話にルーズベルトが出て来た。
  ウォーターゲート事件とは、1972年6月にワシントンD.C.
 の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカ
 の政治スキャンダル。
  1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任するま
 での盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、
 事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察
 官解任、大統領弾劾、大統領辞任のすべての経過を総称
 して「ウォーターゲート事件」という。
  お粗末なアメリカというハレンチな事件だった。
  事件は、1972年の大統領選挙戦のさなかに、当時のニ
 クソン共和党政権の野党だった民主党本部があるウォー
 ターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、何者かが盗聴
 器を仕掛けようと侵入し警備員に発見されて警察に逮捕
 されたことから始まった。
  やがて、犯人グループが、ニクソン大統領再選委員会
 (CREEPまたはCRP)の関係者であることが分かり、当初、
 ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事
 件と政権とは無関係」との立場を取ったが、ワシントン・
 ポストなどの取材から次第に政権内部がこの盗聴に深く
 関与していることが露見した。
  さらに、事件発覚時に捜査妨害ともみ消しにホワイト
 ハウスが直接関わり、しかも、大統領執務室での会話を
 録音したテープが存在することが上院調査特別委員会で
 わかった。
  このテープ提出の拒絶や、事件を調査するために設け
 られた特別検察官を解任する(そのため司法長官と次官
 が抗議辞任)など、明らかな司法妨害が政権よりなされ
 た。
  こうした不正なニクソン政権の動きに世論が猛反発し、
 やがて、議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなって
 アメリカ合衆国史上初めて、大統領が任期中に、辞任に
 追い込まれ、2年2ヶ月に及んだ政治の混乱が終息した。
  ニクソン大統領から指示され、盗聴行為を行なってい
 たのがFBI(連邦捜査局)だった。
  しかし、FBIを調査したアメリカ上院情報特別委員
 会は、徹底的に、FBIを調査した。
  過去にさかのぼって調査すると、「ルーズベルトのボロ」
 が出て来た。
  ルーズベルトは、自分の部下が、信じられなくて、何
 と側近のホプキンズを盗聴するように命じていた。
  しかも、このルーズベルトの盗聴は、徹底的になされ
 ているという、完全に部下を信じてないという盗聴数だ
 った。
  「人間には原罪がある」とするキリスト教を深く信仰
 するキリスト教徒のルーズベルトが、
  「人が信じられないとするキリスト教の大統領」が、
 やりそうな、悪意ある盗聴行為だった。
  側近として、身近で一緒に仕事をする人を信じられず、
 疑(うたぐ)り深く接するルーズベルトだった。
  例えば、ルーズベルトの盗聴指示の徹底ぶりは、1941
 年1月、この側近のホプキンズが、イギリスへ行くという
 「海外の行為」にまで盗聴させた。
  この時は、ホプキンズが、ルーズベルトが、第二次世
 界大戦へ参戦する予定だと、イギリス首相のチャーチル
 へ、ルーズベルト大統領代理で、赴いたときにも行われ
 ていた。
  ロンドンのクラリッジホテルでの会議や夕食会、そし
 て、イギリス代表団のグループが、ホテル内のカフェで
 ルーズベルト大統領の事を話題にしていたことも、その
 様な何気ない会話の一部始終までもが、FBI捜査官に
 よって盗聴されていた。
  ルーズベルト大統領は、「FBIたちが十分監視して
 いることを知り、満足した」と言った、意思表示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-16 17:47 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)494E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年9月~1889年10月)

題:(増補版)494E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年9月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年9月19日、屯田兵の士官教育のため、札幌農学校に兵
 学科が設置された。
  札幌農学校(後の北海道大学)は、1876年(明治9年)
 に、北海道開拓の人材育成のため開校された。
  屯田兵育成のため陸軍士官学校予科の機能があった。
1889年9月24日、第1回国際度量衡総会(CGPM)が開催され
 た(~9月28日)
  メートル原器とキログラム原器が制定された。
  国際度量衡総会(こくさいどりょうこうそうかい)は、
 メートル条約に基づき、世界で通用する単位系(国際単
 位系)を維持するために、加盟国参加によって開催され
 る総会議で・・、
  第1回の総会(1889年)で、キログラムを、白金とイリ
 ジウムの合金である国際キログラム原器の質量と定義し、
 国際キログラム原器を国際度量衡局(BIPM)が保管するこ
 とが決定された。
  また、国際メートル原器も承認された。
  因みに、第3回の総会(1901年)で、リットルが1キロ
 グラムの水の体積と再定義された。
  また、キログラムが質量の単位であることを明確にし、
 「標準重量」と標準重力加速度を定義し、重力の単位に
 はグラム重(重量グラム)を使用すべきとして、その定
 義を明確にした。
1889年9月27日、地租代の米納の廃止を公布した。
  日本における所得税の導入の検討は、明治時代に入る
 と間もなく始められた。
  1884年(明治17年)には、大蔵省によって所得税法の
 草案が作成された。
  そして、1887年(明治20年)に導入された。
  1887年の所得税創設時の対象は、所得金額300円以上あ
 る者だった。
  そして、所得税は創設されたが、法人に対する課税は
 見送られた。
  税の納付について、「米納」について、学者は、納税
 側と徴税側の双方にとって多大なる弊害が存在している
 と指摘した。
  山林田畑などからの収穫物に対して、米で租税を徴収
 しているため、田地の少ない地域では、農民は、収穫し
 た米をすべて「官」に租税として納め、山林などからの
 収穫物を売却し、購入した米を食用にしている。
  民の生活は、憐れむべきありさまで、このようなこと
 を「法」としてはならないと。
  また、年貢米が、民の手を離れてから官倉に収納され
 るまでのあいだに、「斗量」、「津出シ」、「廻送」な
 どがおこなわれるために、官民双方の労費は多大なもの
 となる。
  この途中では、「虫喰」や「鼠喰」や「難舩」などで
 減耗が生じ、また、これらに見せかけた禁止することが
 できない不正も起こる。
  つまり、民が納めた年貢米の量がそのまま「官」に収
 納されるわけではなく、途中でこれがどれだけ減少する
 かが予測できない。
  「官」は、年貢米を収納したのちに、これを売却、換
 金してからあらゆる費用にあてがうのだが、米価変動に
 よって歳出の多寡を決定することができない。
  翌年の「經濟」を今年のうちに「預算」することが不
 可能になり、財政政策は、俗にいう「成行次第」となっ
 てしまう。
  これらは、弊害がもっとも大きい。
  このほかにも、蔵の中でも耗損が発生し、売却の際に
 は米商人による不正もおきるために、その弊害は計り知
 れない・・と。
  また、明治の一時期には、インフレーション対策に米
 納が良いのだの意見もあった。
  明治10年代に、インフレーションの原因、および、そ
 の対策について、論議が盛んに行なわれた。
  明治政府は、財政困難がいよいよその深刻度を加えた
 ため、通貨政策以外の方法によって歳入増加をはかると
 ともに、物価騰貴をも抑制することのできる方策を探求
 していた。
  1880年(明治13年)8月16日、「大臣・参議を召して
 地租米納論の可否を論ぜしめたまぶ」と、「明治天皇紀」
 に記述されている。
  この地租米納論は、インフレ対策としてきわめて特異
 な着想だった。
  単に、通貨供給量の減縮によって、物価騰貴を抑制し
 ようとするものではなく、地租米納制を通じて政府の米
 価調整機能を拡充し、諸物価安定の基礎を確保しようと
 する構想だった。
  しかも、その主張の根拠は、かつて地租改正が論ぜら
 れた時と同じように、納税の公平性にあり、
  その公平性の観念が、情勢の推移によって、大きく変
 化するものであった。
 地租米納論を唱えたのは、参議大木喬任・黒田清隆であ
 った。
  また、右大臣・岩倉県視もまた、意見を同じくした。
  しかし、この意見は、採用されるに至らず、
  大隈重信・伊藤博文に命じて、新たに、財政政策を調
 査せしめることになった。
  その結果、財政緊縮政策として「財政更革ノ議」が提
 案された。
  租米納論を主張する筆頭に、まず、右大臣・岩倉具視
 が閣議に附した「財政二関スル要件」があるくらいだっ
 た。
1889年9月27日、立憲改進党が、条約改正断行全国同志大懇
 親会を、東京京橋区・新富座で開催した(9月28日説あり)
  立憲改進党には、大隈重信が所属していた。
  この大隈は、1889年10月18日に、国家主義組織玄洋社
 の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難
 事件)を受ける。
  そして、右脚を切断するとともに外務大臣を辞職する。
1889年9月30日、大阪天満紡績争議
  大阪天満紡績会社の女工300人が賃上げを要求して同盟
 罷業を行う。
  昼休みに賃金引き上げを求める相談を行って、昼休み
 終了後も作業に戻らなかった。
  様子を見に来た役員に対して、女工たちは賃金引き上
 げの要望を突き付け、役員は、社長との相談をして回答
 することを約束、
  女工たちは一旦は仕事に戻った。
  だが、会社側が回答を行わなかったため、10月2日に、
 女工たちは再度回答を迫った。
  これに対して、会社側が、首謀者とされた女工の解雇
 を通告したため、女工たちは憤慨して、更に、積立金の
 返還を求めるなどの要求を行った。
  これに男性工員も同調する動きを見せたために、10月
 6日に、会社側が女工たちの要求を受け入れることで解決
 した。
  この会社には、5年後の1894年にも争議があった。
  1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技師・工務係
 ら上司3名の解雇を求めて、午前6時ころより食堂を占拠
 し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業を呼びかけ、
 これに従わない一部の工員に対して、夜勤の工員が殴打
 した。
  そこへ会社側の要請を受けた曾根崎警察署の警察官が
 工場に入り、作業を再開させる一方、
  会社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工
 員たちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された。
1889年9月、府立大阪商業学校を大阪市へ移管(10月説あり)
  1885年(明治18年)3月に大阪商業講習所の設備・教員
 をそのまま継承して「府立大阪商業学校」が開設された。
  そして、府立大阪商業学校は、1889年(明治22年)、
 市制特例による大阪市制の発足にともない「市立大阪商
 業学校」へと改編された。
  現在の大阪市立大学の源流。
1889年9月、紀淡海峡の砲台が起工した。
  和歌山県と兵庫県淡路島の間の紀淡海峡に浮かぶ島々
(沖ノ島・地ノ島・神島・虎島)は、友ケ島と総称され、
  その中で一番大きく、海峡中央に近い沖ノ島は、フレ
 ンドリーアイランド友ケ島として、現在では、自然と史
 跡の観光地となっている。
  この沖ノ島に、陸軍が建設した友ケ島砲台群がある。
  沖ノ島までは、和歌山市加太から友ケ島汽船が運航さ
 れ、約20分で運んでくれる。
  加太の乗船場までは、和歌山で南海電鉄加太線に乗り、
 終点加太で降り、徒歩約15分である。
  明治初年から、陸軍は国土防衛のため、東京湾をはじ
 め全国主要な地に砲台を建設することを計画し、
  まず、1880年(明治13年)に、東京湾の観音崎砲台工
 事に着手した。
  つづいて1887年に、対馬・下関の砲台工事が開始され、
 1889年に、大阪湾入口の紀淡海峡地区に砲台建設が開始
 された。
  敵艦船が、紀淡海峡から大阪湾に侵入するのを阻止す
 るため、
  淡路島の由良地区に11か所、友ケ島地区に6か所、加太
 地区に8か所の砲台が建設され、これらを由良要塞と称し
 た。
  このように、日清戦争前に砲台が建設されたのは、東
 京湾・対馬・下関・由良の4要塞であり、それだけ当時に
 おいて紀淡海峡が重視されていたといえる。
  日清戦争後には、鳴門・芸予・広島湾・佐世保・長崎・
 舞鶴・函館要塞が建設され、日露戦争までに完成した。
  友ケ島には、6か所に砲台が築かれ、それぞれ備砲が据
 えられた。
  明治期に建造された砲台は、砲座(砲を据えた台座)
 が露天で、砲座の前方は石・煉瓦・コンクリートなどの
 胸墻(きょうしょう)を設け、砲座と砲座の間に同材料
 の横墻(おうしょう)を設けて、火砲、および、兵員を
 敵の砲火から掩護するように造られている。
  横墻の下には、通常砲側弾薬庫(砲側庫)を設ける。
  砲側庫の天井は半円形のアーチとし、煉瓦・コンクリ
 ートまれに切石を用い、脚壁は通常煉瓦を用いる。
  また、砲台には、観測所・弾薬庫・掩蔽部(地下兵舎)
 などが造られる。
  さらに、隣接諸砲台で共通利用する照明所(探照灯設
 置所)と発電所(超小型の火力発電)が造られる。
  砲座には、火砲1門を据えたものと、2門据えたものが
 ある。
  口径27糎加農(カノン)砲・24糎加農砲は1門砲座で、
 その他の28糎榴弾砲、15糎以下の加農砲、臼砲などは2門
 砲座とするのが基準であり、友ケ島砲台群の各砲台砲座
 はこの基準で建造され、第1・第2砲台は1門ごとの砲座
 で、その他の砲台は2門砲座である。
  友ケ島砲台群のうち、第2砲台は、終戦時米軍による爆
 破で砲台右翼の第1・第2砲座は完全に破壊され、左翼の
 第3・第4砲座も半壊状態である。
  その他の各砲台は、ほとんど破壊されずに昔の姿を残
 している。
  全国の各地の要塞砲台のなかでも、これほどまとまっ
 てよく原形を残しているところはない。
  特に第3砲台と第4砲台は、28糎榴弾砲砲台の摺り鉢状
 砲座や地下砲側庫および掩蔽部などの地下構造物がその
 特色ある原形を留めていて、砲台の構造・機能や当時の
 土木技術を理解するのに役立つものである。
  これら砲台の胸墻・横墻および地下構造物ならびに野
 奈浦に残る発電所・兵舎などのほとんどが煉瓦造りで、
 その積み方は,いわゆるイギリス積みである。
  陸軍は、明治20年代以降、砲台の煉瓦構造物をイギリ
 ス積みに統一していたからである。
  また、戦争遺跡として全国的にも珍しいものとして、
 第1砲台の左右両翼にある有蓋観測所および海軍の防備衛
 所(海底に聴音機を設置して潜水艦を探知する所)が残
 っている。
  これらの砲台群は,土木遺産としてまた戦争遺跡とし
 て、末永く保存されるべきであろう。
  諸元・形式:
 友ヶ島第1砲台:起工1889年(明治22年)9月/竣工1890年
  (明治23年)11月(平射砲:27糎加農砲×4)
 友ヶ島第2砲台:起工1894年(明治27年)8月/竣工1898年
  (明治31年)4月(平射砲:27糎加農砲×4)
 友ヶ島第3砲台:起工1890年(明治23年)10月/竣工1892年
  (明治25年)5月(曲射砲:28糎榴弾砲×8)
 友ヶ島第4砲台:起工1890年(明治23年)11月/竣工1892年
  (明治25年)5月(平射砲:12糎加農砲×2,曲射砲:
   28糎榴弾砲×6)
 友ヶ島第5砲台:起工1900年(明治33年)1月/竣工1905年
  (明治38年)3月(平射砲:12糎加農砲×6)
 虎島砲台:起工1895年(明治28年)10月/竣工1897年
  (明治30年)2月(平射砲:9糎加農砲×4)
  (土木学会のホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:いやーーおかしいーー??--??
.
1970年代、「グローバリゼーション」
  この年代に、国際決済が、急速にオンライン・グロー
 バル化し、「グローバリゼーション」という言葉が使わ
 れるようになった。
  グローバリゼーション:社会的、あるいは、経済的な
 関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、
  地球規模に拡大して・・、
  様々な変化を引き起こす現象。
  グローバリゼーションの時代は、何も、特別に変わる
 わけではない、
  グローバリゼーションという世界が広がったからこそ、
 ・・やがて・・その恩恵を奪い合う・・「アメリカやそ
 の他の国」が、
  広い土俵の上で・・軋轢(あつれき)を起こし、
  そして、その歴史を動かす。
  何らそこに、心の広い、今までと違った世界・人間や
 国が・・『あるわけではない』。
  NHKなど・・安易にグローバリゼーションを美化し
 ていうインテリもどきの輩たちは・・ここを理屈抜きの
 ・・理知的説明抜きで・・ある意味感情的に・・
  良いのだという印象を洗脳するから怖い・・、
  やはり・・やっぱり・・、そこには、グローバリゼー
 ションという広い範囲におよぶ覇権を握りたいとアメリ
 カなどが居る。
  TPPについて・・、今(2016年)、二人のアメリカ
 大統領候補者が居るが、この二人のアメリカ大統領候補
 者は、アメリカの国益に反すると、このTPPに反対し
 ている。
  (反対する理由は・・日本の交渉者が優秀だったから
 に他ならない・・美味しい果実が無い・・国益が無い・・
 ダダそれだけの理由・・)
  やはり、アメリカの国としての利益(国益)が、その
 判断を牛耳っている・・のだ・・、(美しい理念などな
 い・・)
  何ら美しいグローバリゼーションの姿はない。
  大人の奪い合いが、喧嘩が、集団になっただけの話。
  より厳しい国の競争になっただけ。
  グローバリゼーションという言葉が、最近、徘徊して
 いる・・が、何ら、今、始まった話ではない。
  歴史的には、この様な状況は・・何度も・・あった。
  しかし、人間の意識は、真の理想のグローバリゼーシ
 ョンには成り得なかった。
  その歴史が・・連綿と・・続いている。
  グローバリゼーションのブームは、ほぼ30年周期にあ
 る。
  今のグローバリゼーションのブームは、もうすぐ終わ
 るだろう。
  変な論理や、マインド・コントロールに引っかかり、
 長い年月をかけて培(つちか)って来た日本の良さを崩
 さない様にしたい。
  特に、従来は、内政干渉として口にされなかったよう
 なことを、最近、グローバリゼーションだからと、臆面
 もなくずけずけと安易に、アメリカから言われているが、
 これには、特に、毅然と事を処して行って戴きたい。
  アメリカは、遠慮なく言い過ぎる所がある。
  自分の足元を見ないで、すべてを相手が悪いという言
 い方となっている。
  注意したい。
  西欧の多くの識者・文明学者が言う・・、
  「日本は、世界のどの国や文明とも違い、一国で一つ
 の完結した文明系体系を持っている、
  世界に類例のない存在として現れている。
  かつて、「日本の精神」と呼ばれた日本的な価値観や
 人間観に基づく「日本文明」は、
  この日本列島にしか存在せず、
  これを守れるのは日本国家によってしかない」・・と。
  西欧の様な再生は、日本に関しては・・ない。
  一度、崩れたら終わりだ。
  西欧のキリスト教文明圏の何十とある国の一つの文明
 国という話とは別なのだ。
.
2001年1月20日、アメリカ合衆国の第43代大統領に、ジョー
 ジ・W・ブッシュが就任した。
  この共和党のジョージ・W・ブッシュ政権には、数多く
 の「ネオコン」が参入していた。
  ネオコン:=新保守主義、
  アメリカ合衆国における新保守主義(しんほしゅしゅ
 ぎ、ネオコンサバティズム、略称:ネオコン)は、保守
 派の政治イデオロギーの一つで、
  米国において、1970年代から独自の発展をし、
  主に、共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に、非常に
 大きな影響を与えていた。
  ネオコンを支えているのは、共和党の親イスラエル(
 シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ
 (イスラエル)・ロビーで・・、
  アメリカのユダヤ系市民は、アメリカの総人口3億人に
 対して600万人(2%)に満たないが、
  富裕層の割合が多く、アメリカの国防・安全保障政策
 に深く関わっている。
  歴史的に数多くの差別を受けてきた経緯から、かつて
 はリベラル派の民主党支持者が多かったが、
  民主党のビル・クリントン政権が進めた中東政策に対
 する不満から、共和党に鞍替えしている有権者・識者が
 多い。
  2001年に登場した共和党のジョージ・W・ブッシュ政権
 には数多くのネオコンが参入しており、
  同時多発テロ以降の強硬政策を推し進めた。
  因みに、ヒラリー・クリントン(1947年生まれ)の所
 属政党は・・、
  1968年以前は、共和党で、
  1968年~現在は、民主党である。
  また、ヒラリーの外交政策は、
 民主党内では最もタカ派とされ、実際に、ネオコンの論
 客であるロバート・ケーガンはその政策ゆえに、ヒラリ
 ー支持を表明している。
  その安全保障観への信頼から『軍需産業の献金を最も
 多く受けてる』のも共和党候補ではなく、ヒラリーであ
 る。
  このように、ヒラリーの外交政策は、民主党の中でも
 最も共和党に近い。
.
2008年~2009年、この頃、国際金融恐慌の後、ジョージ・
 W・ブッシュ(子)が大統領の時、
  アメリカは、2兆ドル以上の米ドル札を刷りまくって、
 世界の通貨市場に投入し・・、
  そして・・、『帳尻を合わせた』。
  ペーパー・マネーと化している米ドル札を、余計、ペ
 ーパー・マネー色を強めた。
  実は、アメリカは、今、1880年代のイギリスより財政
 状態が・・『ずっと悪い』・・、
  イギリスは、健全財政を実行してもいた。
  経常収支は、常に、黒字だった。
  イギリスは、毎年、貿易と海外投資で稼いだ大量の資
 本を、せっせと他国に貸し付けていた。
  しかし、アメリカは、最近40年間のアメリカは、ただ
 ただ・・、『赤字の垂れ流し』・・、
  イギリスの様に金本位制をしていない。
  止めてしまった。
  そんなアメリカが、ただのペーパー・マネーの米ドル
 札を、ただただ・・、『刷りまくっている』。
  いつまでも・・続く訳がない。
  19世紀のイギリスは、こんな無責任ではなかった。
  この・・ブッシュという大統領は、特に曲者だった!
.
2011年8月26日、QE3(キューイースリー)
  QE3は、"Quantitative Easing 3"の略で、日本語では
 「量的金融緩和第3弾」とも呼ばれ、アメリカ合衆国の
 連邦準備制度理事会(FRB)が、2012年9月12~13日に開
 催した連邦公開市場委員会(FOMC)の後に発表した量的
 緩和政策のことを言う。
  米ワイオミング州のジャクソンホールで開かれる経済
 シンポジウム(日本時間午後11時)で、FRB(The Federal
 Reserve Board、私企業、しかし、日本で言えば日本銀行
 のような位置づけ)のバーナンキ議長が講演する。
  (注)私企業が、日本銀行の様な位置づけ・・、
  そして、この講演で・・、
  バーナンキ議長が、QE3(量的金融緩和第3弾)の実施を
 明確に発言するかどうかに、市場の関心が集まった。
  一私企業の発言にである・・、
  結果的には、言及はなく、しかし、実施の可能性も排
 除しなかったことで、米国市場は1日で400ドル近くの幅
 で下降した(一私企業の発言が、この様な影響を与えた
 のである?)
  QE“3"と言うからには、QE2もQE1もあったということ!
  そして、なぜこんなに注目が集まるのか・・というと、
  2010年の8月27日にも、同じジャクソンホールで講演が
 あった。
  その講演で、バーナンキFRB議長は「経済見通しの著し
 い悪化などで必要になった場合には、追加の金融緩和を
 実施する用意がある」と、QE2の実施を示唆した。
  ではQE1は・・?
  事の始まりは、まだ記憶に新しいサブプライムローン
 問題。
  日本のバブルでも、土地や住宅を転売していた人が、
 最後に大損をしたが、
  アメリカでも、NYダウが14164ドルの最高記録を付けた
 2007年10月9日頃は、とってもバブリーな泡状態だった。
  所得の低い人向けの住宅ローンであるサブプライムロ
 ーンを使った金融商品の転売で、投資銀行などの金融機
 関は儲けていた。
  ・・が、返済が焦げ付いたり、住宅価格が安くなって
 しまって大損して、大手の投資銀行のリーマン・ブラザ
 ーズが倒産した。
  世界金融危機に発展した。
  そして、2008年9月30日のNYダウは、前日比マイナス
 777.68ドルの10365.45ドルとなった。
  景気が悪いときに、金利を下げる刺激策がとられるが、
 アメリカは、既に、実質ゼロ金利なので、市場にお金が
 出て来ない。
  そこで・・お金を外から注ぎ込むしかなかった。
  それも・・みんながびっくりするくらいに大量に。
  それで、2009年3月~2010年3月までに、住宅ローン担
 保証券や、米国債などを1.75兆ドル購入する量的金融緩
 和政策(Quantitative Easing)が行われた。
  これが、QE1に相当した、そして、以降、QE2、QE3と呼
 ばれた。
  (参考)証券用語集から・・QE3とは、米連邦準備理事
 会であるFRBにより行われることになっている量的緩和策
 (Quantitative Easing)の第3弾のこと。
  単に、政策金利を下げるのではなく、市場に資金量を
 増やすというところが異なっている。
  資金量を増やすことによって、景気を改善させること
 が狙い。
  金利を限りなく低くしても、景気改善が見込まれない
 時には、資金供給を増やすしか手段が無いため。
  また、過度の資金供給は、インフレを招くリスクがあ
 る。
  (参考)別史料のQE3の説明:10月末、量的緩和第3弾
 (QE3)に幕が下りた。
   今後、連邦準備制度理事会(FRB)は、金融政策の焦
 点を雇用から物価へとシフトさせ、コミュニケーション
 政策の改善を通じて、伝統的金利政策への回帰をうかが
 う。
  米連邦公開市場委員会(FOMC)は、10月28日~29日の
 会合でQE3を10月末で終了することを決定した。
  (参考)別史料の・・、米国の財政悪化:FRBは、QE1
 (1.7兆ドル)とQE2(0.6兆ドル)で合計2.3兆ドルの資金
 供給を行った。
  この一方、政府は、お金を発行するため、借金を増や
 している。
  アメリカの国債発行残高は、アメリカ自らが定めた債
 務上限枠14兆億ドルを超えそうになり、上限枠の引き上
 げを行った(危なくなったら引き上げるという行動)
  財政の悪化(歳出>歳入)は、相変わらず続いている。
  債務上限引き上げ:オバマ米大統領は、2011年7月31
 日の夜、米連邦政府の債務上限を2.1兆ドル引き上げ、
 10年間で2.4兆ドル(約185兆円)の財政赤字を削減する
 ことで与野党の幹部が合意に達したと発表した。
  QE3の導入:QE3(キューイースリー)は、労働市場(
 雇用)を刺激して景気を回復させるため、2012年9月に導
 入された量的緩和政策の第3弾だが・・、
  市場から住宅ローン担保証券(MBS)を追加的に買い取
 って、大量の資金を供給した。
  ☆買い取り規模は、月額400億ドル(約3兆円)
   2012 年末までは、オペレーションツイストと並行し
   て行った。
  ☆即日実施し、雇用市場が改善するまで継続する
   インフレ率が抑制されている限り、無期限
   さらなる追加緩和もありえるとした。
  ☆事実上のゼロ金利政策を、現在の2014年終盤から2015
   年半ばまで延長する
  オペレーションツイスト(月額450億ドル)終了後も、
 QE3(月額400億ドル)と合わせて、月額850億ドルの買い
 入れが継続されると見られていた。
  FRBは、「雇用の最大化」と「物価の安定」という目標
 を達成するために、積極的に政策を行う姿勢。
  FRBのバーナンキ議長は、量的緩和は万能薬ではないと
 強調しながらも、米国債・社債・住宅ローンなどの金利
 の引き下げ、株式相場・住宅価格の引き上げ、労働市場
 (雇用)の改善、消費の拡大などに効果があると言った。
  アメリカでは・・、「実質的な増税」(2012年末に大
 型減税策が失効する)と・・、「強制的な歳出削減」(
 2013年1月から大規模財政赤字削減が強制発動される)と
 いう『 財政の崖 』が予定されており・・、
  バーナンキ議長は、これらの財政引き締めに伴う景気
 後退に強い懸念を示した。
.
2012年10月、自民党は、「日本経済再生本部」を立ち上げ、
 政権奪取と同時に、官邸にこれを置いた。
  成長の鍵を「イノベーション」と位置づけ、ノーベル
 賞受賞の山中伸弥教授らの新技術のバックアップ体制の
 拡充を図った。
.
2013年、アメリカの『財政の崖』
  アメリカに存在する「財政の崖」・・??
  アメリカで、2013年初頭に起こる可能性がある、崖か
 ら落ちるような急速なペースで進む財政緊縮のこと・・
  第43代大統領ジョージ・ブッシュが、2001年より行っ
 た所得税・不動産減税や勤労者向けの社会保障税減税な
 どが、2012年末に、一斉に切れて失効するとともに、
  オバマ大統領が、2011年に決定し、2013年1月より施行
 した強制的な歳出削減策などが原因。
  この強制削減は、リーマン・ショック後の景気対策で
 膨らんだアメリカ政府の借金を減らすのが目的。
  これらの減税と歳出削減が同時に起これば、2013年度
 の財政赤字削減額は、約5600億ドル(GDP比3%~4%)の財
 政緊縮となり、
  世界経済の成長率も半減すると試算されている。
  アメリカだけでなく、世界も、崖から落ちるように急
 激に悪化する。
  予定通り実施されると世界経済にも深刻な悪影響が予
 想されるため、2012年11月に再選したオバマ大統領は、
 「歳入増と歳出削減を組み合わせた包括対策が必要」と
 し、「富裕層向け減税の打ち切り」などの方針を打ち出
 した。
  今、このアメリカの財政赤字が、予算管理法で定めら
 れた上限に近づき・・どの様に・・この問題が処理され
 て行くのか・・??
  あきらめて・・放置されているのか・・??
  オバマ・ケア(医療保険制度改革)は止めると言って
 いる2017年のトランプ大統領・・、
  本当は・・シッチャカメッチャカのアメリカ財政・・
  緊縮しなければ駄目・・なんてことは分かっているが・・
 ・・だからと言って・・美味しいものは食べたいし・・、
  『消費は美徳』は・・もう古い・・
  中国は、虚勢を張って・・強烈に軍事費に金をつぎ込
 んでいるし・・
  どこもかしこも『つけ(勘定書き)』の数字が大きく
 なるだけ・・
  そんなに心配しなくても平気だという論もある・・が、
.
2015年(平成27年)10月、マイナンバー制度
  この時、日本国民に対して、マイナンバーの通知が始
 まった。
  しかし、これは、両刃(もろは)の剣で、悪い面が語
 られていないという・・問題がある。
  これは、アメリカの「陰に」「陽に」の圧力で始めな
 ければならなかったという話がある。
  『日本を属国の様に思うアメリカ』の日本の個人レベ
 ルの情報を把握しておきたいのである・・個人レベルの
 情報が欲しいのである。
  日本国民の『個人的な情報・状況』が、完全に、アメ
 リカや、外国に・・完全に握られてしまう、把握されて
 しまう。
  貴方の行動状況や、考え方や、人脈や・・などなど・・
 が・・分かられてしまう。
  当然、それに対する対応も・・その対策も・・相手に
 先にとられる・・だから・・先手の後追い社会が日本に
 現出するだろう、その様な中に生きることが日本に起き
 る。
  この様なメリットがアメリカにあるからこそ・・この
 制度は、アメリカに、陰に、陽に、作れれと言われ・・
 作ったという。
  国の内閣官房のホームページには、「マイナンバー制
 度」について下記の様な「美しい説明」がある・・、
  「マイナンバーは、住民票を有する全ての方に1人1
 つの番号を付して、社会保障、税、災害対策の分野で効
 率的に情報を管理し、複数の機関に存在する個人の情報
 が同一人の情報であることを確認するために活用される
 ものです。
  マイナンバーは、行政を効率化し、国民の利便性を高め、
 公平かつ公正な社会を実現する社会基盤であり、期待さ
 れる効果としては、大きく3つあげられます。
  1つめは、所得や他の行政サービスの受給状況を把握し
 やすくなるため、負担を不当に免れることや給付を不正
 に受けることを防止するとともに、本当に困っている方
 にきめ細かな支援を行えるようになります。(公平・公
 正な社会の実現)
  2つめは、添付書類の削減など、行政手続が簡素化され、
 国民の負担が軽減されます。
  また、行政機関が持っている自分の情報を確認したり、
 行政機関から様々なサービスのお知らせを受け取ったり
 できるようになります。(国民の利便性の向上)
  3つめは、行政機関や地方公共団体などで、様々な情報
 の照合、転記、入力などに要している時間や労力が大幅
 に削減されます。
  複数の業務の間での連携が進み、作業の重複などの無
 駄が削減されるようになります。(行政の効率化)」・・
 とある・・と・・しかし・・
  しかし、この様な表向きの話では終わらないのが・・
 この話なのだ。
  その1例であるが・・、
  マイナンバーが、一斉提訴されたという新聞記事があ
 る。
  (読売新聞、2015・12・2)に、「マイナンバーが、一
 斉提訴された」・・と、題して・・、
  訴因は、「憲法で保障された個人のプライバシー権の
 違反」とある・・とした・・、
  ・・本当のことが分かっている日本の方が・・ここか
 ら攻めた・・
  ナンバーの利用差し止めを求め、慰謝料を求めている。
  コンピューターに詳しい人の見解によると、このマイ
 ナンバー制度は・・両刃(もろは)の剣だという。
  コンピュータシステムの秘密保持制が、完全に担保さ
 れるのか?・・との、裏腹の関係があるという。
  1年や、2年の期間を使うという話では、まったくない。
  一生の長期の長期において使われるマイナンバー制度。
  ナンバーの「再設定システムのない」その数字の秘密
 が保持しきれるか?である。
  銀行だって、どこだって、一定期間が経過した「パス
 ワード」は、再設定してくれと要求している。
  その漏洩(ろうえい)するなずのない「パスワード」
 に、一定期間の経過後には、「再設定をしなければなら
 ない」とし、
  また、その様なものだと認識しているから、「再設定
 を要求している」のだ。
  どこも、この様な現状で、どこもが、この様にしてい
 るのは、これが現状のコンピューター・システムにおい
 て「常識なのだ」。
  個人が秘匿している「マイナンバー」が、本人だけが
 一生秘匿されているだろうと考えるのは、それは、単な
 る「個人的な希望」であって、
  現状は、『 そうではないですよ 』との運用が行わ
 れている。
  この「マイナンバーの性質(たち)の悪い所は、ある
 1つの銀行や企業だけの問題だけではない。
  貴方のすべてにおいて、マイナンバーで『管理がなさ
 れる』。
  貴方の金の出し入れから、あなたの出費動向、買い物
 動向、行きつけのすべての店、
  そして、その店の所在地データと買い物をした日のデ
 ーターを組み合わせれば、あなたの行動が見えてくる。
  好きも分かり、家族も分かり、血縁以外の方々のデー
 ターと組み合わせれば、あなたの付き合い、行動内容な
 どが分かってくる。
  今、遠い遠い星の事が分かる様に、あなたのデーター
 を、組み合わせたり、分析したりで、すべてが分かられ
 てしまう。
  また、その目的で、実施しようとしているから、やむ
 を得ない。
  脱税を防ぐことにも使うだろうが、これは、早く言っ
 てしまえば、国の個人把握である。(・・いや・・国だ
 けではない・・)
  個人レベルで、国は、状況を知りたいとしている。
  そのすべてが、開けっ広げになるデーターの秘匿の問
 題である。
  個人の秘密保持が、完全になされるのか?否か?であ
 る。
  また、この美味しいものと洗脳されて集められた諸々
 のデーターを、欲しがるところはどこか?・・と、考え
 てみてほしい。
  テロリスクの減少のため、犯罪リスク低減のため、日
 本人の個人情報のすべてを、また、自国の利益のため、
 日本人の個人情報を、自国のスーパーコンピューターに
 ストックしたい国は、『一杯あるだろう』。
  アメリカなどは、欲しがる筆頭に居ると考えられる。
  逆に、アメリカから日本に、陰に、陽に、実施する様
 に、働きかけがあったのだと言われている。
  (アメリカに、日本人の個人データーは、完全に、把
 握されるだろう。
  そして、アメリカは、最終的に、全世界の個人データ
 ーを把握したいとしているのだろう。
  はっきり、それが見えている・・等の・・動きが見え
 る証拠がある)
  また、怖いのは・・いったん色が決まってしまうと・・
 その色が変わっても・・『ズーットその色だ』と記録さ
 れるところだ・・これは・・絶対におかしいのだ・・??
  また、本当にあったある事例だが・・
  電話で調査され・・答えた事柄を入力する調査技官が
 間違って・・勘違いして入力し・・
  被調査者は、入力した事柄が正確に入力されていると
 思っていたところ・・が・・しかし・・
  その後、最後だという、面談方式の別の調査技官が来
 て、電話調査時の入力事項を確認すると・・まったく違
 っていたという・・「間違いのカラーで色付けされ、そ
 のままになってしまっている」という・・恐ろしい事が
 ある。
.
2016年12月8日、金融政策は、本当は、正しくない・・のだ・・
  ごまかしの世界の中に・・生きているのだ・・??
  欧州の中央銀行が・・、
  金融政策がおかしいのを、やはり、正しい状態に戻さ
 ないと駄目だと表明した・・、
  「中央銀行が、印刷局で、大量に金を刷って・・、
  欧州の政治連合体へ、その金を渡すために・・、
  その政治連合体の国債を大量に買ってあげる・・
  この様なことを・・止めようと決めた」・・と・・、
  以上のことを、新聞記事ではどのように書いているか?
  以下に記す(読売新聞、2016・12・10):
  欧州中央銀行(ECB)が、金融政策の正常化に向け
 た一歩を踏み出した。
  8日の定例理事会で、国債などを大量に購入して市場に
 お金を流し込む(量的金融緩和)の規模を、来年4月から
 縮小することを決めた。
  量的金融緩和を縮小するのだという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-14 17:25 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)493E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年9月~1889年9月)

題:(増補版)493E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年9月~1889年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年9月11日、商業会議所条例が公布された(9月12日説
 あり)
  この条例により、従来の商法会議所・商工会に法人格
 を持たせるとともに、これまでの任意団体の性格を改め
 てフランス・ドイツのような公法人としての色彩を強め
 た。
  翌年の1890年3月までに、多くの地域で商業会議所への
 移行が完了した。
  活動については、商工業に関する調査・統計などの情
 報収集、商工業に関する制度や法令などについて資本家
 の立場から意見や建議を提言し、商工業の紛議の調停・
 仲裁など商工業の発展を目的として活動した。
  特に、工業や貿易の振興、交通や運輸の改善、営業税
 廃止運動において積極的な発言がなされた。
1889年9月11日、暴風雨が、本州中部を縦断し大災害が・・、
  愛知県は、大暴風に見舞われ、川の氾濫により890人が
 死ぬという大惨事となった。
  この水害により、米価が暴騰した。
  そのため、人々は、生活防衛に走るようになり、名古
 屋は10月以降、不況に陥った。
1889年9月14日、日本演芸協会が発足した。
  1889年7月、日本演芸協会設立(土方久元、坪内逍遥、
 岡倉天心など)
1889年9月20日、日本生命保険会社が開業した。
  1889年7月4日、前身である有限責任日本生命保険会社
 が設立された。
  創業から10年後の1899年に、業界首位の保有契約高と
 なり、その状態で現在まで至っている。
  60兆円の資産規模を持つ機関投資家として、「民間最
 大の機関投資家」と言われている。
  2003年時点では、国内で発行されている株式総数の2.3
 %、3,000銘柄(うち上場銘柄2,150)を保有している。
1889年9月23日、任天堂骨牌(後の任天堂)創立した。
  山内房治郎が、京都市下京区にて花札の製造を開始し
 た。
  因みに、1902年に、日本初のトランプ製造に着手した。
  そして、1970年代に至って、この会社の華々しい歴史
 が始まる・・、
  1978年、業務用ビデオゲーム機の販売を開始。
  1980年4月、アメリカに現地法人Nintendo of America
   Inc.を設立。
  1980年4月28日、携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」
   を発売。その後、8年間で約70機種を展開して4800万
   台以上を販売する。
  1981年7月9日、アーケードゲーム版『ドンキーコング』
   の稼動を開始。
    この中で、後に任天堂を代表するキャラクターと
   なる「マリオ」が初めて登場する。
  1982年、業績が前年の約3倍に拡大し、8月連結決算の
   売上高は661億4100万円、営業利益は227億200万円の
   黒字になる。
  1983年7月、東京証券取引所市場第一部に株式上場。
  1983年7月15日、ゲームカートリッジ交換式の家庭用ゲ
   ーム機「ファミリーコンピュータ」を発売。
  1985年 9月13日、ファミリーコンピュータ用ソフト『
   スーパーマリオブラザーズ』を発売。
    後に世界で最も売り上げたゲームソフトとしてギ
   ネス世界記録に認定される。
    ファミリーコンピュータの日本国外仕様の筐体「
   Nintendo Entertainment System」をアメリカで発売。
  1986年、欧州で「Nintendo Entertainment System」を
   発売。
  1989年4月21日、携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を
   発売。
  1990年2月、ドイツに現地法人Nintendo of Europe GmbH
   を設立。
  1990年11月21日、据置型ゲーム機「スーパーファミコ
   ン」を発売。
  1993年2月、フランスに現地法人Nintendo France S.A.
   R.L.を設立。
  1996年6月23日、据置型ゲーム機「NINTENDO64」を発売。
  2000年11月、京都府京都市南区に本社を移転。
  2001年3月21日、携帯型ゲーム機「ゲームボーイアドバ
   ンス」を発売。
  2001年9月14日、据置型ゲーム機「ニンテンドーゲーム
   キューブ」を発売。
  2002年6月、代表取締役社長に岩田聡が就任。
  2004年11月21日、タッチパネルを搭載した2画面の携帯
   ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。
    世界で1億5千万台余りを売り上げ、歴代で最も普
   及したゲーム機となった。
  2006年7月、大韓民国に現地法人韓国任天堂株式会社を
   設立。
  2006年11月19日、北米で、リモコン型コントローラー
   を採用した据置型ゲーム機「Wii」を発売(日本では
   12月2日に発売)。
  2009年3月期決算で売上高1兆8386億2200万円、営業利
   益5552億6300万円の過去最高益を記録。
  2011年2月26日、裸眼3D液晶ディスプレイを搭載した携
   帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」を発売。
  2012年2月、「ニンテンドー3DS」が、日本における販
   売台数が500万台を突破。
    ゲームプラットフォームとしては、史上最速の記
   録となった。
  2012年11月18日、米国で家庭用ゲーム機「Wii U」を発
   売(日本では12月8日に発売)。
  2014年1月、QOL事業への参入を発表。
  2014年7月~12月までの半年間で「ニンテンドー3DS」
   用ソフトのダブルミリオン達成ソフトが5本生まれる。
    これは、日本のゲーム市場において初めての記録
   となる。
  2015年3月17日、株式会社ディー・エヌ・エーと業務・
   資本提携してスマートデバイス向けのゲームソフト
   を開発することを発表。
    同時に新型ゲーム機「NX」(コードネーム、後の
   Nintendo Switch)を開発中であることも発表。
  2015年9月15日、代表取締役社長に君島達己が就任。
    組織再編により、統合開発本部とシステム開発本
   部を統合して技術開発本部を、情報開発本部と企画
   開発本部を統合して企画制作本部を設立し、ビジネ
   ス開発本部を新設。
  2016年6月29日、組織再編により監査等委員会設置会社
   に移行し、執行役員制度を導入。
    外国人役員としてレジナルド・フィサメィが執行
   役員に就任。
  2016年7月6日、海外で株式会社ポケモン(開発・配信・
   運営は米Niantic)から『Pokémon GO』をリリース。
    その爆発的な人気により、以降約半月にわたり任
   天堂の株価が高騰する。
  2016年7月22日、株式会社ポケモンが、任天堂の持分法
   適用関連会社であることを発表して以降は株価が落
   ち着く。
  2016年8月22日、Nintendo of America Inc.が保有する
   シアトルマリナーズ運営会社の持分の一部を売却。
  2016年10月20日、新型家庭用ゲーム機「Nintendo
   Switch」の情報を公開。
  2016年11月29日、ユニバーサル・パークス&リゾーツが
   運営する「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」、
   「ユニバーサル・オーランド・リゾート」、「ユニ
   バーサル・スタジオ・ハリウッド」の3箇所で任天堂
   のテーマパークを展開することを正式発表。
  2016年12月15日、iOS向けゲームアプリ『SUPER MARIO RUN』
   を150の国と地域のApp Storeで配信開始。
    開始4日間のダウンロード数が4,000万を超え、
   App Storeにおける最速記録となる。
.
  (今日の言葉)
.
 題:卑劣にも・・今でもある・・国連憲章の『敵国条項』・・、
.
1945年6月26日、国際連合(国連)が成立した。
  国際連合憲章が、この日に、署名された。
  活動開始は、1945年10月24日より・・、
  この時、ドイツが、1ヶ月半前の1945年5月7日に降伏し
 ているが、日本はまだ戦っていた。
  この国連憲章には・・「敵国条項」がある(卑劣にも
 今だに・・削除されないで今でもある)
  そして、その今でもある卑劣な「敵国条項」は・・、
  国際連合憲章の条文のうちの・・、
  「第二次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢
 軸国)に対する措置を規定した『第53条』および『第107
 条』と、敵国について言及している『第77条の一部文言』
 である。
  日本は、この敵国条項を削除する『説得』と『活動』
 をして来ているが・・、
  今・・この時点・・第二次世界大戦が遠い過去となっ
 ていて、現状とまったくそぐわない2017年の今となって
 も削除されていない。
  削除の動きについては・・、
  1991年、イタリアは国連総会において、敵国条項の削
 除を含む国連制度の改革を・・求めた。
  1995年、第二次世界大戦の終結50周年にあたるこの年、
 日本国やドイツ連邦共和国などが、国連総会において、
 第53・77・107条を憲章から削除する決議案を提出した。
  1995年12月11日の総会において賛成多数によって採択
 された(賛成155、棄権3(北朝鮮(朝鮮民主主義人民共
 和国)、キューバ、リビア)
  この事によって条項が時代遅れであることが確認され、
 削除に向けて作業を開始することが決議された。
  2005年、戦争終結60周年にあたるこの年の国連首脳会
 合においても削除を決意することが確認された。
  だが・・しかし、削除話されないまま放置されている。
  これらの敵国条項の条文の問題点は・・、
  敵国が敵国でなくなる状態について言及しておらず、
 その措置についてもなんら制限を定義していない。
  このため、「旧敵国を永久に無法者と宣言する効果」
 があり・・、
  また、旧敵国との紛争については「平和的に解決する
 義務すら負わされていない」。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  略称:国連(こくれん)、UN、ONU)は、国際連合憲章
 の下に設立された国際機関で、
  主たる活動目的は、国際平和の維持(安全保障)、そ
 して、経済や社会などに関する国際協力の実現。
  なお、英語表記の「United Nations」は、第二次世界
 大戦中の枢軸国に対していた連合国が、自陣営を指す言
 葉として使用していたものが、継続して使用されたもの
 であるが、
  日本語においては戦時中の連合国と区別して「国際連
 合」と呼ばれる。
  中国語では「聯合國」と訳されるが、「第二次世界大
 戦の連合国」については「同盟國」と訳されている。
  組織としては、第二次世界大戦中の組織と同じである
 が、第二次世界大戦後に敗戦国やその他の国々の参加に
 より、『一般的な組織へと変容している』。
  (何ら・・敵国と差別する必要のない時代となってい
 る)
  しかし、日本を含む第二次世界大戦の敗戦国に対する
 敵国条項が存在するなどで、第二次世界大戦の戦勝国の
 色が強く残り、国家の枠組みを超えた『公平・公正・平
 等な組織にはなりきれていない』。
  2011年7月現在の加盟国は、193か国であり、現在、国
 際社会に存在する国際組織の中では『最も広範な・一般
 的な権限と、普遍性を有する組織となっている』のにで
 ある。
.
1946年5月1日、広島・長崎に白血病患者が出始める。
.
1946年5月3日、「東京裁判は嘘だらけだ」と、東京裁判の
 嘘も暴(あば)いた本「マオ」。
  本「マオ」は、2005年に出版されたが、豊富な史料や
 証拠で、戦前・戦中の日中関係や、日ソ関係、特に、戦
 争責任問題にかかわってくる歴史的出来事について、
  「東京裁判」の史観的な理解を『翻(ひるがえ)すよ
 うな叙述がいくつも出て来る』。
  東京裁判の『事実認定が、完全に覆(くつがえ)され
 る』。
  『東京裁判が誤っている、間違っていると証明してい
 る』。
  裁判結果が、『判決が覆(くつがえ)る』ことになる。
  今・現在だったら「再審」ものだ。
  よく新聞をにぎわす「再審無罪」と同じだ。
  逆に言えば、法律まで後から作って・・日本人(併合
 していた朝鮮の方々も)を罪を作って貶(おとし)めた
 悪行為の裁判が明らかになっている。
  法律を後から作ったのも悪だが、『事実認定まで誤魔
 化していた』という体たらく裁判だった。
  秘密文書が公開されて、真実が明らかになると、アメ
 リカの『連合国側の嘘』が明らかになる状況となった。
  日本の嘘はない。
  また、中国共産政権の悪行為の実像が明らかになって
 いる。
  これまで歴史を動かしてきたのは「政治情勢」や「経
 済力」、「軍事力」、「科学技術」を言われて来た、
  しかし、それに勝(まさ)るとも劣らないものに「イ
 ンテリジェンス」「諜報活動」が、つくづく大きいと感
 じさせる。
  日本は、この点が弱いと言われているが、気になるこ
 とだ。
  何しろ過去の日本も、アメリカや中国共産政権、そし
 て、ソ連共産政権・コミンテルン組織に『牛耳られ、繰
 られていた』。
  特に、アメリカ・ルーズベルトは『策士』だった。
  (この策士を策する組織があった)
  20世紀の国際関係史は、「今までのものの信用度」は
 大きく低下している。
  20世紀の国際関係史は、根本的に再検討されなければ
 ならない。
.
1946年5月31日、天皇陛下が、マッカーサー元帥を訪問され
 た。
.
1946年6月29日、アメリカ軍人婚約者法(G.I. Fiancees Act)、
 通称:GI婚約者法が施行された。
  しかし、『喜んだのもつかの間』、結婚しても日本人
 妻は、アメリカ法によって入国できなかった。
.
1946年7月31日、米軍渉外局が連合軍専用海水浴場への『日
 本人立入禁止』を発表した。
  日本の地に、日本人を差別するエリアが、アメリカに
 よって作られた。
.
1946年、RAA(特殊慰安施設協会、アメリカの要請で作られ
 た慰安所)がある時の強姦・婦女暴行が、1日平均40件で
 あったのが、
  RAAが無くなった1946年前半の強姦・婦女暴行数は、
 1日平均330件と『8倍以上に急増した』。
  あまりに多い事件に、占領軍は、『新聞報道をするな』
 と口封じ命令を出した。
  例えば、病院が、アメリカ兵の集団で襲われ、看護婦
 の方々や妊婦の方々が強姦された等々、多数、このよう
 な事例が続いた。
  これは、韓国の作り話とは違う・・本当にあった事。
.
1947年2月1日、アメリカなどの連合国軍総司令部(GHQ)
 は、この日のゼネスト計画に、中止命令を出し、方針転
 換した。
  はじめは、労働活動を奨励していた。
.
1950年2月、「中ソ友好同盟相互援助条約」が締結された。
  中華人民共和国とソ連邦の間で締結された軍事同盟で、
 建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権が、
 アメリカの支援を受けて、「大陸反攻」をうかがうとい
 う情勢下でソ連との提携を強めた。
  1949年12月、毛沢東が、モスクワを訪問してスターリ
 ンと会談ていた。
  中ソ同盟は「日本軍国主義とその同盟者」を仮想敵国
 とし、アメリカが日本の軍事基地から中国を攻撃するこ
 とを想定して共同防衛にあたること、
  3億ドルの借款協定などが内容であった。
  (卑劣にも、国連憲章の『敵国条項』が影響している)
  これによって、ソ連が蔣介石の国民政府と締結(1945
 年8月15日)していた中ソ友好同盟条約は破棄された。
  東西冷戦が深刻化するなかで、社会主義国である二国
 の軍事同盟として機能した。
  この条約の下で、中国は、1950年6月に勃発した朝鮮戦
 争に参戦し、アメリカ軍と対決することになった。
  しかし、1950年代後半から、中ソ対立が始まったため
 に次第に関係が悪化し、
  1959年には、ソ連が、中ソ技術協定破棄を中国に通告
 し、同盟関係は事実上なくなった。
  さらに、1979年の中越戦争で、ソ連がベトナムを支援
 したことから、定められた30年間の期間が終了した1980
 年には、延長されず、破棄された。
.
1950年、国連憲章の『敵国条項』撤廃が、日本での議論が
 活発になされた。
  日本で、この年に締結された中ソ友好同盟相互援助条
 約(1980年に失効)において、日本を名指しで仮想敵国
 とされたことから批判がおき、
  国連憲章における敵国条項の撤廃が議論されるように
 なった。
  中ソ友好同盟相互援助条約は、国連憲章の敵国条項を
 法的根拠としていて、
  一方で、冷戦期のこの時期に、国連における中華人民
 共和国(中国共産党)の議席が存在していなかったこと
 もあり、
  ソビエトが、中華人民共和国に中国代表権が認められ
 ないことには(敵国条項撤廃に)絶対反対の立場を堅持
 したため受け入れられる素地がなかった。
  1965年頃から、日本の見解は、敵国条項については、
 不平等なものであり改正が望ましいが、「平和愛好国と
 して国連に加盟した国としては、この条項は適用されな
 いものと解釈」したとした(まったく言い訳的な日本で、
 変えようという『熱意はまったく無かった』)。
  1970年には、日本が、国連の出資金が第三位になるに
 あたって「国連自身も新しい時代に入って25年たった今
 日でございますから、さきの戦争云云、そのときの敵国
 条項、これなどはもう消えてしかるべき」の認識にあっ
 た。
  1970年の参議院予算委員会で、愛知揆一外務大臣(自
 由党→自由民主党)は、「敵国条項は、常識的に日本の
 立場において、現在実害がある規定とはおもわないが、
 こういう条項はもう排除されてしかるべき」と言った。
  これに対し、木村禧八郎(日本社会党参議院議員)は、
 「敵国条項がなくならなければ日本の戦後は終わったと
 はいえない」と対論している。
  愛知外相は、9月に行われた第25回国連総会において、
 「旧敵国条項は、今日、全くその存続の意味を失なつた」
 と敵国条項の削除を訴えている。
  以降も、国連改革において、日本政府、および、外務
 省は、敵国条項の削除を優先事項として求めているとし
 ている・・が・・、腰砕け・・、相変わらずである・・
.
1950年代末まで、日本に残された戦争花嫁
  戦後すぐから1950年代末までに4万人を越し、5万人と
 もと言われている。
  (何しろ、日本女性が一番多かった)
  アメリカ兵と日本人女性との婚姻は、アメリカの移民
 法によって『認められていなかった』。
  1946年6月29日、アメリカ軍人婚約者法(G.I. Fiancees
  Act)、通称:GI婚約者法が施行された。
  しかし、喜んだのもつかの間、結婚しても日本人妻は
 アメリカ法によって『入国できなかった』。
  1947年7月に、日本人戦争花嫁法が制定され、日本人妻、
 子供の入国が出来るようになったというが・・まだまだ、
 壁があった。
  1952年に、移民国籍法(すべての人種に帰化権を申請
 する資格を認めた法律)が制定されるまでアメリカは、
 日本人を含むアジア人や有色人種に対して冷たかった。
  (参考)1882年、アメリカで、中国人排斥法が制定さ
    れた。
     強制収容や国外追放の処罰を課すことで、中国
    人労働者の移民を一時的に停止させた。
     この後、日本人がターゲットにされた。
     1915年、連邦最高裁判所が、日系移民の市民権
    資格がないとした。
     また、帰化申請も認めないとした。
     1917年、アジア地域の移民禁止地域を設けて、
    アジアからの移民を制限した。
     (全てのアジア系移民はアメリカ入国を禁止)
     1922年、ケーブル法で、日本を含むアジア系移
    民と結婚したアメリカ女性は、市民権剥奪とした。
     1923年、インド人もターゲットにされた。
  日本の戦争花嫁となった女性:その方々は、進駐して
 来たアメリカ兵の妻となった・・が・・、
  そして、家庭が築かれ、子供が生まれる方々もいるが・・、
  しかし、その多くが・・アメリカ兵として、アメリカ
 へ帰国していく時に、日本に置き去りにされた。
  軍の命令によるアメリカへの帰国・・、
  家庭が破綻(はたん)しての帰国ではない。
  家庭は、それなりの愛のある家庭だった・・が・・、
  そして、やむなく・・残された日本人女性の方々は、
 アメリカへ手紙を書き、連絡を取る努力をした。
  その時、アメリカへの・・その手紙の書けない、その
 ほとんどのその女性の方々の味方になったのが、渋谷の
 『恋文横丁』の英語文の書ける人々だった。
  可哀想な置いてきぼりの彼女の方たちの味方になって、
 アメリカ兵士へ連絡文・恋文を代理で書いていた。
.
1958年~1961年、中国、大躍進政策、
.
1992年4月、ソ連のスパイのミトローヒンがソ連の極秘文書
 と共にイギリスへ亡命した。
  ワシリー・ミトロヒン(1922年3月3日~2004年1月23日)
 は、元ソビエト連邦のソ連国家保安委員会(KGB)の元幹
 部要員で、
  ソ連崩壊後の1992年4月に大量の旧KGBの極秘文書とと
 もにイギリスに亡命した。
  これらの極秘文書は後にケンブリッジ大学の教授クリ
 ストファー・アンドリューと共に分析し、「ミトロヒン
 文書」として発表された。
  この文書には、旧KGBが西側諸国で行っていたスパイ行
 為が赤裸々に綴られており、西側諸国に衝撃を与えた。
.
2004年1月23日、ソ連のスパイのミトローヒンが死んだ
  これらの極秘文書は後に・・、
  2005年9月、イギリスで「ミトローヒン文書第二巻」と
 いう本が出版された。
  ミトローヒンは、旧ソ連のKGB対外情報局文書課長
 をしていた若い頃から、ソ連の抑圧体制に怒りを持ち、
  また、共産主義の根源的な不道徳さに怒りを持ってい
 た。
  KGB本部の機密文書を少しづつ持ち出して、自宅で
 複写して蓄積して行った。
  そして、冷戦末期に、イギリス情報部の手引きで、そ
 の文書と共に、イギリスに亡命する事に成功した。
  トラック1台分以上の量だったという。
.
2004年11月、中国原潜による日本領海侵犯。
.
2015年11月24日、「石垣配備、陸自500人規模」「南西諸島
 防衛、全容固まる」(読売新聞、2015・11・24)、
  政府が、南西諸島防衛の強化のため石垣島(沖縄県)
 に配備を計画している陸上自衛隊が、500人規模となる事
 が分かった。
  次期中期防衛力整備計画(中期防、2019~23年度)中
 の整備を目指す方針で、週内にも副大臣が石垣市を訪れ、
 市長に理解を求める。
  配備を計画しているのは、大規模災害や離島攻撃の最
 初動対応を担う警備部隊や、ミサイル部隊など。
  政府は、当初、現中期防(14~18年度)中の配備を検
 討し、14年中に部隊規模などを決める方針だったが、11
 月に見送った。
  政府が、南西諸島防衛を強化するのは、中国が東シナ
 海でも海洋進出を活発化させているためだ。
  今月11~12日には、中国海軍の情報収集艦が沖縄県・
 尖閣諸島の接続水域(領海の外側22キロ)に近づいた。
  政府は、今年度中に、日本最南端の与邦国島(沖縄県)
 に150人の沿岸監視部隊を配備するほか、
  18年度までに、宮古島(同)に700~800人、奄美大島
 (鹿児島県)に550人の、警備部隊やミサイル部隊を配備
 する。
  石垣島、宮古島、奄美大島には、射程の長い地対空、
 地対艦ミサイルを配備する方向で、接近を計る他国軍機
 や艦船への抑止力は格段に高まる。
  南西諸島は、全長1200キロの及ぶなど、安全保障上の
 要衝だが、陸上自衛隊は、現在、沖縄本島にしか駐留し
 ていない。
  石垣島の配備内容の決定により、政府の南西諸島防衛
 の全体像が固まったことになる。
.
2017年2月12日、安倍首相とトランプ・アメリカ大統領との
 首脳会談で合意・・、
  アメリカの核による日本防衛や、沖縄県の尖閣諸島の
 アメリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記することで一
 致した。
  日米首脳会談と、共同声明のポイント
  (1)アメリカは、核と通常戦力の双方で日本の防衛
    に関与。
  (2)沖縄県・尖閣諸島は、対日防衛義務を定めた日
    米安全保障条約5条の適用対象と確認。
  (3)東・南シナ海での力の行使や威嚇による現状変
    更に反対。
  (4)アメリカ軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の
    名護市辺野古への移設を推進。
  (5)麻生副総理とペンス副大統領らによる分野横断
    的な経済対話創設。
  (6)アジア・太平洋地域の貿易ルール作りを日米が
    主導。
  (7)安倍首相の招待により、トランプ大統領の年内
    来日を調整。
  安倍首相、トランプ大統領の『偉大な一歩』がここに
 築かれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-13 06:40 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月~1889年9月)

題:(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月~1889年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年8月15日、大同倶楽部、大同協和会、保守中正派、紫
 溟会、玄洋社、および「日本」「日本人」の関係者が、
 非条約改正委員会を開いた。
  1888年(明治21年)2月、大隈重信は外務大臣に就任し、
 各国との条約改正交渉を進めるにあたり、国際会議方式
 ではなく、国別交渉方式で臨む方針を固めた。
  まず、1888年11月、メキシコと修好通商条約を締結し、
  1889年、アメリカやドイツなどと交渉を進めた。
  当初、大隈の条約改正案の内容は秘密にされていた。
  しかし、その要旨が『ロンドン・タイムズ』に報道さ
 れ、国内各紙に訳載されるや、
  国民の間に激しい反対論が沸き起こった。
  特に、問題視したのが、外国人被告事件で大審院に外
 国人裁判官を任用することを定めた点だった。
  大隈の条約改正に最も強硬に反対したのが、新聞『日
 本』だった。
  1889年4月5日から、「日本外交論」を掲載、対等主義
 による条約改正でなければならないと主張した。
  さらに、5月末に、『ロンドン・タイムズ』の論説を記
 載、
  6月5日には、混合裁判の構成と泰西主義の法典とをも
 って、治外法権の撤廃を買うものだと批判した。
  『東京新報』も反対の立場を鮮明にしたが、6月28日に
 発行停止にされた。
  これら反対論に対し、大隈派の矢野文雄を主筆とする
 『郵便報知』は改正案擁護の論陣を張った。
  『東京毎日新聞』『朝野新聞』『読売新聞』なども擁
 護論を展開した。
  玄洋社は、直接、黒田清隆内閣に訴える策を練った。
  頭山満は、谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太らと謀り、
 頭山が大蔵大臣松方正義に、谷が逓信大臣後藤象二郎に、
 鳥尾が外務大臣大隈に、それぞれ説得に当ることにした。
  頭山は、松方に対し、「条約案は、金甌無欠(きんお
 うむけつ、傷のない黄金のけめのように、完全で欠点の
 ないこと)の国体を毀損するものなり。
  今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。
 ……余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲す
 るものなり」(『来島恒喜』153)と詰め寄った。
  松方は、襟を正して「余は誓(うけい、神に誓うこと
 によって)て足下の言に負かざらんことを期す」と言っ
 た。
  玄洋社は、頭山が中央で反対運動を展開するとともに、
 福岡において筑前協会を組織し、香月恕経、平岡浩太郎、
 進藤喜平太らが中心となって、反対運動を展開した。
  また、大井憲太郎ら大同協和会は、7月に入ると反対運
 動開始を決めた。
1889年8月25日、条約改正反対派は、東京で全国連合大演説
 会を開催した。
  (東京日日、明治22.10.2)の記事には・・、
  新演説号外第二政談大演説会筆記、十月八日臨時発行
  定価八銭、郵税一銭(郵券代用は必ず一銭切手の事)
  九月二十七、八、九の三日間新富座に開かれたる政談
 大演説会は実に国家重大の一問題たる条約改正に賛成な
 る愛国忠君の傑士九十名が満腔の熱血を濺ぎ吐露せられ
 たる一大演説なれば(已に本月八日臨時発行せし号外第
 一の条約改正に正反対なる全国同志聯合政談大演説の筆
 記と同じく)再び十月八日に於て特に号外第二を発行し
 以て憂世愛国の諸君をして曩(さき、以前)の号外第一
 (反対論)と比の号外第二(賛成論)とを比較対照する
 の便に供すべし是れ新演説発行の趣旨に所謂双竜玉を争
 ふの状況を明かにするの本意なり
  新演説
  第十一号十月一日発行、第十一号目次
  ・条約改正の断行を望むは日本国民の輿論なり…大江
   卓演説
  ・国体論…高橋安爾演説
  ・国民の主操…諸岡正順演説
  ・対等論…林林次郎演説
  ・外交意見一班…曽田愛三郎演説
  ・主務大臣と政治問題…林包明演説
  ・独立国の大権を論ず…前田下学演説
  ・国民の元気…山田寅次郎演説
  ・深思せよ熟考せよ…植木枝盛演説
  ・条約改正論…田口卯吉演説
  雑録数件
  ・雄弁法講義…福陵生
  定価一部八銭、六部前金四十五銭、十二部前金八十五
 銭外ニ郵税一部一銭宛(郵券代用ハ一銭切手之事)
  発行所 東京市日本橋区大伝馬町二丁目 大成館
  ・大売捌 全国諸新聞雑誌売捌店
1889年8月26日、江戸開府三百年祭
  江戸開府から300年は、1603年に幕府が開かれているか
 ら、1903年ということになる。
  しかし、祝賀の催しが行われたのは、徳川家康が江戸
 に入った年(1590年)から数えて300年を迎える年の前年、
 1889年(明治22年)だった。
  この年・2月に、大日本帝国憲法が発布された年で、
  また、この年8月26日には、上野公園で盛大な催しが開
 かれた。
  イベントの企画者・賛同者は、前島密ら旧幕臣を中心
 に、実業界、芸能界、政治家など各界の有力者の面々だ
 った。
  委員長は、榎本武揚・・、委員には政治家をはじめ渋
 沢栄一、岩崎弥之助、大倉喜八郎らの実業家も顔を揃え
 た。
  入場券は1枚1円。
  芝生の広場に各国の旗章が飾られ、来賓席は江戸城の
 宮殿を模した装飾がなされた。
  江戸町火消しの名残をとどめたはしご乗り、猿若狂言、
 競馬、獅子手古舞、近衛軍楽隊の奏楽、鍵屋の花火など、
 にぎやかな催しが続いた。
  また、このイベントと別に、都内各所でも様々なお祝
 い行事が行われた。
  この祝典の背景には、消えていく江戸、失われつつあ
 る江戸への回顧があった。
  また、旧幕臣たちの鬱積した感情もあった。
  因みに・・、
  女性の方々が少ない江戸の町のはなし・・、
  江戸の町には、江戸初期の頃はもちろん・・中頃にな
 っても、極端に女性方がすくない・・男ばかりが多い町
 だった。
  1733年(享保18年)の人口調査では・・、
  江戸の町民53万6000人のうち・・男性は34万人で、
 女性は19万6000人(36.5%)。
  町民3人のうち、男性が2人で女性1人となり・・男の
 半分には女性方が居ないという状態だった。
  江戸の町の形成は・・労働者や露店の主人などはもと
 より、大きな商家も奉公人のほとんどすべてが単身の男
 子で、いわゆる男所帯だった。
  しかも、この数字は町民だけの人数で、約50万人とい
 われた武家の人口は入っていない。
  その武家は、参勤交代の武士の大多数が単身赴任の男
 性。
  この時期・・江戸には・・男性が84万人、女性が19万
 6000人(18.9%、江戸総人口103.6万人)となる。
  男4.3人に、女性方が1人という状態。
  江戸の町は・・男だけが道を歩いていた(女性方は、
 家に居られる状況でもあっただろうから・・)
  だから・・時代劇は・・大間違い・・です。
  圧倒的な「男の町」だった。
  女性方が増えて来てくれる時代は・・?
  江戸後期の天保年間(1830年~1844年)頃から・・、
  男はストレスを抱えて道をあるっていた・・その様な
 町だった。
  喜多川歌麿の美しい女性方の浮世絵が売れる下地は、
 この様な所にもありました。
  (地方は女性天国でした、地方活性化策・・?)
  (今、地方の若い女性の方々が東京を目指すから・・)
  (地方の女性の方々へ、特別優遇策を・・)
1889年8月、十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害が
 発生した。
  十津川大水害(とつかわだいすいがい)は、熊野川(
 十津川)流域で起きた大規模水害で、
  奈良県吉野郡十津川郷(現:十津川村)に壊滅的な被
 害をもたらした。
  奈良県吉野郡十津川郷では、大規模な山腹崩壊が1080
 ヶ所で発生した。
  秋雨前線が日本付近に停滞しているところへ、台風が
 南海上から接近し、8月18日~8月19日にかけて、和歌山
 県から奈良県南部の範囲に大雨をもたらした。
  台風は、19日午前6時過ぎに高知県東部に上陸し、まっ
 すぐ北上して四国地方及び中国地方を縦断、
  8月20日に、日本海に抜けた。
   和歌山県の記録では、20日午前3時頃から西南風が強
 く吹き、711mbの低気圧に風速40mをともなって県下に襲
 来した。
  雨は9月7日まで降り続いた。
  記録に残る和歌山県での最大雨量は20日に現:田辺市
 元町で観測した日雨量901.7mm、時間最大雨量は169.6mm。
  奈良県吉野地方では、19日の雨量は1,000mmを越え時間
 雨量は130mmと推定された。
  記録的な大雨で崩れた土砂は、谷を埋め、37か所で天
 然のダムを造り、多くの堰止湖が出現した・・が、
  その天然ダムが欠壊し・・それにともなう洪水により
 甚大な被害となった・・一気に大量の水が押し寄せるダム
 決壊は怖い・・
1889年8月、大磯で水着を着た婦人が話題になった。
  この月の朝野新聞に、「女性が水着で泳ぎ始める」と
 題した記事が載り、大磯海水浴場で泳ぐ婦人の水着姿が
 話題となった・・今では・・
1889年9月1日、山陽鉄道兵庫駅~神戸駅間が開通し、官有
 鉄道と接続した。
1889年9月9日、和仏法律学校
  東京仏学校と東京法学校が合併して、和仏法律学校と
 改称した(現=法政大学)
  東京法学校と明治法律学校との争い
  明治法律学校は、政府公認の準官学的な法律学校とし
 て出発したはずであったが、
  当時、高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け
 て、急速に、野党色を強めて行った。
  特に、自由党を支える人材を生むことになった。
  明治法律学校の校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎で
 は、フランス革命の影響を受け自由と権利の拡張を主張
 する学生たちにより演説会が盛んに行われ、
  政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。
  明治法律学校に対抗して設立された同じ仏法系の東京
 法学校が、司法省の強い影響下にあったのと対照的状況
 となった。
  両校は、学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競
 争・対立がなされた。
  そして、共倒れ寸前に至った。
  明治10年代末にようやく和解が成立した。
  その後、帝国大学(現:東京大学)を中心としたドイ
 ツ流法学の台頭を背景に、
  1888年末に、東京法学校・東京仏学校との間で、これ
 に対抗し・・同じ仏法系学校として合併しようとする構
 想が起こった。
  そして、東京法学校・仏学校は合同し、和仏法律学校
 となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、中国が好きなのか?・・または、繰られているのか?
.
1928年12月7日、アメリカ上院議会において、パリ不戦条約
 の『批准の是非』が討議された。
  この中で、アメリカが、第二次世界大戦で「日本を経
 済封鎖」したが、
  『経済封鎖は、戦争行為そのものだ』という見解が、
 断言されていた。
  ケロッグ国務長官は、アメリカ議会上院の不戦条約批
 准の是非をめぐる討議において、「経済封鎖は戦争行為
 そのものだ」と断言した。
  アメリカが、第二次世界大戦がはじまる原因となった
 日本を経済封鎖する1941年を遡(さかのぼ)ること13年
 前のことである。
  日米戦争について、日本ではなく・・アメリカこそが
『侵略戦争の罪で裁かれるべき』とされる由縁である。
  パリ不戦条約は・・、
  1928年8月、フランスの外相ブリアンが、アメリカに対
 し、戦争放棄を目的としたフランスとアメリカ間の仏米
 協定締結を提案した。
  それを受けたアメリカ国務大臣ケロッグが、多角的な
 国際条約にする必要があると各国に働きかけ・・、
  ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加して、パリで調印し、
 成立した。
  後に、63ヶ国が参加し、全世界的な国際条約となった、
 「経済封鎖行為が戦争行為とされた」記念すべき会議だ
 った(これを、アメリカは侵すのである)
.
1930年6月17日、スムート・ホーリー法が、アメリカで成立
 した(極端な保護貿易策)
  これは、関税に関する法律で・・、
  1000品目以上の輸入品に最高800パーセントという記録
 的な高さの関税をかけた。
  昨日の値段の『8倍以上の値段となる』という馬鹿げた
 状況だった。
  また、20000品目に、40パーセントの関税をかけた。
  世界中の国が、当然、『報復措置をとった』。
  アメリカ商品に高い関税率をかけた。
  その結果、アメリカの輸出入は『半分以下』に落ち込
 んだ。
  (トランプさんも、自分に都合よさそうな事、アメリ
 カ国民の方々に心地よく聞こえる事を言っているが? 
 落ち着いて・・よく考えて下さい)。
  この時も・・『愚かなる・・世界恐慌』の原因の一つ
 となった。
  恐ろしい世界恐慌がやって来るのである。
  そして、ここからどうしても抜け出せなくて、ルーズ
 ベルトという大統領は「戦争需要の麻薬に手を出すので
 ある」。
  そして、日本を相手にした戦争が始まるのである。
  冷静に、事を処せないアメリカが・・最初に起こした
 原因アクションで、世界中がシッチャカメッチャカとな
 った。
  『愚かな歴史の教訓』となった。
  アメリカという国は、感情的に、この様な愚かなこと
 をする国なのだ。
  日本の安倍首相は、2017年2月、トランプ・アメリカ大
 統領の頭を冷やそうと、フロリダでのゴルフを誘った・・
 応じたトランプ氏も一息入れて・・自分の足元を見るだ
 ろう・・素晴らしい日本の政治家の行為が歴史に刻まれ
 ただろう。
  この時、アメリカは、第一次世界大戦中に、債務国か
 ら債権国なったにもかかわらず、ほぼ1920年代にわたっ
 て自分にだけ都合の良い『保護貿易政策』がとられた。
  これは、大戦によってアメリカに債務を負ったヨーロ
 ッパ諸国の負担を『より深刻なものにさせた』。
  第二次世界大戦の予兆を作ったアメリカだった。
  (参考)予兆:よちょう、きざし、前触れ、前兆、
.
1938年以降、イサク・アフメーロフ(ソ連諜報員)が、ア
 メリカや日本の諜報にかかわる。
  モスクワ大学を卒業と同時にNKVD(人民委員部=
 KGBの前身)に入り、1932年から対外情報部員、1934
 年中国駐在の非公然工作員、
  1935年、偽パスポートでアメリカに潜入。
  1938年、ソ連スパイのチェンバースがFBIに駆け込
 んだ頃はモスクワに一時待避。
  1942年~1945年、アメリカ内非公然組織のトップで、
 アメリカのスパイ組織立て直しに成功する。
  対日諜報作戦にも関わった(スノー作戦)
.
1939年7月26日、アメリカが、突如、日本へ、「日米通商条
 約」を廃棄すると通告した。
  この時の、アメリカの大統領は、フランクリン・ルー
 ズベルトだった。
  日本とアメリカは、まだ戦争もしていないというこの
 時に、アメリカは、『準宣戦布告』というべきこの様な
 過激な行為を日本に対して行った。
  当時の日本は、全輸出額の『半分近く』がアメリカ向
 けであったので、大きな打撃だった。
  『日本を追い詰めて行く』ルーズベルトの方針もあっ
 たが、中国ロビーのアメリカでの活動の結果でもあった。
  また、この中国ロビーの下で支えたのがキリスト教の
 YMCA組織があった。
  このキリスト教組織が、大々的に中国を支援していた。
  この頃、中国に派遣されていたキリスト教宣教師たち
 は、本部に対して宣教活動が上手くいっていると偽レポ
 ートを出していた。
  また、ルーズベルト・アメリカ大統領のサイドにも、
 中国支援の理由があった。
  ルーズベルトの母方の祖父は、中国とアヘンを含む貿
 易を手広く行っていて財を成した。
  その関係から、ルーズベルトは、中国に対して愛着を
 持ち、友好的に思い、「悪く思う訳はないだろう」と発
 言する始末だった。
.
1941年7月23日、アメリカのルーズベルト大統領は、日本
 本土を爆撃せよと命令し、命令書にサインした。
  これは、『宣戦布告』であった。
  秘密にされた・・、
  この決定は、アメリカ国民の方々へも、卑劣にも秘密
 にされた。
  ここに、ルーズベルトの頭の中に、「先に日本に手を
 出させる」があった。
  アメリカに定着している卑劣な考え方「ファイトバッ
 ク」「銃の早撃ちの殺し屋が、農夫を正当に殺す方法」
 が、このルーズベルトの頭の中にあった。
  牧場経営に邪魔な農夫は、この様な「金で雇った者」
 によって、卑劣なこの方法・考え方で処理された、排除
 された。
  日本も排除された。
  アメリカは、この自分勝手な考え方で、屁理屈で、世
 界のあちこちで、歴史の上で常に行って来ている。
.
1948年、国務長官になるアチソンは、この年に、ソ連スパ
 イで告発された高官のヒスを強く擁護した。
  ディーン・アチソンは、ルーズベルト大統領の財務次
 官や国務次官補を経て、1945年~1947年に国務次官を務
 め、
  そして、1949年から1953年には国務長官を務めたとい
 う政権中枢の人だったが・・、
  1948年に、アチソンは、国務省の元高官のヒスがソ連
 スパイとして告発された時に援護した。
  アメリカ国民の方々は、これが、アメリカ政権、国務
 省への共産主義の浸透を許したとして強く非難した。
.
1977年1月20日、ジミー・カーターが、アメリカ第39代大統
 領になった。
  この大統領選にカーターの外交政策のアドバイザーを
 務め、カーター政権発足後に、国家安全保障問題担当大
 統領補佐官に就任したブレジンスキーは、
  2006年秋に、ワシントンでの公開の外交シンポジウム
 で・・、
  「米中間には、日本人にだけは核を持たせないという
 密約がある、存在する」と発言した。
  米中政府間に、「日本から自主防衛力を剥奪しておく
 ため、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  たとえ、日本の周辺国がすべて核武装しても、日本人
 にだけは核を持たせない」という合意がある・・と。
  しかし、これは、ワシントンでは、すでに『公然の秘
 密』となっている・・という。
.
1992年2月、日本は、「米中両国の潜在的な敵性国家」・・
 故に、自主防衛能力は与えない・・このアメリカ政府の
 本音が暴露された。
  そして、アメリカは、史実を捻じ曲げた。
  1991年12月、ソ連が崩壊し、ソビエト連邦が解体され
 て・・、
  そして、ロシアが生まれ、資本主義が急速に進行して
 行った。
  そして・・その頃・・、一極となったアメリカは・・、
  1992年2月、アメリカが、冷戦後の方針(戦略プラン)
 を策定した。
  それは以下だった・・、
  (1)アメリカが世界を一極支配する。アメリカだけが
    世界覇権を握る。
  (2)ロシアを速やかに武装解除する。
  (3)今後、アメリカのライバルとなるような能力を持
    つ国が出現することを許さない。
  (4)第二次世界大戦の敗者である日本とドイツには、
    自主防衛能力を与えない。
     日本が、アジアにおいて地域的なリーダーシッ
    プをとることを阻止する。
  ・・以上は、機密とされた。
  ・・が、しかし、この機密は漏れた。
  3週間後に、『ニューヨーク・ダイムズ」と「ワシント
 ン・ポスト」が掲載した・・暴露された。
  大騒ぎとなった。
  日本とドイツは、共同歩調をとって、約半世紀・・50
 年を経て・・この時になっても、「仮想敵国扱い」をさ
 れていた・・という事実が・・「ばれた」のだった。
  アメリカ政府は・・、
  「それは、試案の試案、そのまた試案のようなもの」
 と慌てた・・変な言い方で弁解に必死だった。
  しかし、これは本音である・・事実である。
  新聞が、秘密をばらしたと言っても、このアメリカの
 基本的な考え方が変わるということにはならない。
  また、今・現在もこの記事は読むことが出来るが、し
 かし、アメリカ政府に都合の悪い所は書き換えられてい
 る。
  1992年3月8日から3月13日の原本は書き換えが行われて
 いる。
  例えば、日本を露骨に仮想敵国とした文は、かなり削
 られた。
  そして、削除・訂正がかなりある。
  しかし、アメリカの本音は、「米中両国の潜在的な敵
 性国家」。
.
2003年秋後半、アメリカが、韓国防衛に、核使用も辞さな
 いと言明した。
  アメリカと韓国の間には、1953年に、相互防衛条約が
 締結されていて、アメリカは韓国防衛の究極の保証人と
 なっている・・そして・・、
  2003年秋の後半、ドナルド・ラムズフェルドアメリカ
 国防長官は・・、
  「必要であれば、アメリカは、韓国防衛に核使用も辞
 さない」と明らかにした。
.
2011年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
出版された。
  この本が出版されると、世界中で大きな話題となった。
  因みに、この本は・・
  1949年、ダグラス・マッカーサーGHQ司令官が、日
 本での翻訳と、出版は禁じたという本だった(卑劣な口
 封じ)
  フーバーは、ルーズベルトの前任のアメリカ大統領だ
 が、
  この書の中では、多くのルーズベルトが犯した間違い
 や、犯罪的事実が記していた。
  第二次世界大戦に至る事実が記され・・、
  その戦争が、本当に愚かなことから発生した悲劇だっ
 たことが分かる。
  また、人類史における未曾有の惨劇だった。
  日本とアメリカの戦争は、明らかに、アメリカが仕掛
 けた戦争で、まったく不必要な戦争だった。
  その責任は、アメリカに存在した。
  この書の説明文を以下に記すと・・
  1941年12月8日、日本は遂に対米開戦に追い込まれる――。
  アメリカ大統領ルーズベルトが、日本が非戦を唱えな
 がら、日本を対米開戦に追い込む過程を膨大な資料を元
 に容赦なく暴き・・、
  1948年に発刊されるも、直ちに「禁書」同前に扱われ、
 占領下の日本でも翻訳されることのなかった政治・外交
 史の大家の『幻の遺著』が、遂に全訳刊行!
  著者は、米政治学会会長や歴史協会会長などを務めた
 第一人者、チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教
 授(1874年~1948年)
  順次解禁された米側の外交公文書や連邦議会議事録な
 ど膨大な資料を詳細に調査・分析し、
  1948年4月に、米国内で発刊されたものの、政府側の圧
 力などによって激しい不買運動が起き、事実上の禁書扱
 いとなってしまった「幻の名著」だ。
  いわゆる「ルーズベルト陰謀説」が終戦直後に、米側
 公文書などによって裏づけられていた意味は大きい。
  因みに、1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会
 において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛権』の行
 使」とマッカーサー元帥は証言している。
.
2017年1月26日、韓国の「帝国の慰安婦」の著者が無罪とな
 った。
  この日の読売新聞によると・・、
  著者である朴裕河(パクユハ)教授に無罪判決が言い
 渡された。
  事実認定には踏み込まなかった。
  ソウル東部地検が虚偽とした記述に・・、
  「少なくとも『強制連行』という国家暴力が朝鮮人慰
 安婦に関して行われたことはない」・・とある。
  判決は、無罪。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-11 04:20 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)

題:*(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年7月30日、第一回条約改正内閣会議
  この年・1889年1月の大隈重信の条約改正案が、外国人
 判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするとい
 う点では、井上案を基本的に踏襲したものであった。
  1889年4月19日に、『ロンドン・タイムズ』が、この条
 約改正案を公表し、論評を掲載した。
  1889年5月31日、日本の新聞各紙が、この「ロンドン・
 タイムズ」の記事を翻訳して、掲載した。
  その結果、反対運動が、ニュースが日本国内に伝わる
 や、世論から、激しい批判が湧き上がった。
  反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判
 があった。
  また、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝
 国憲法に違反するとの指摘もあった(外人法官任用問題)。
  これは、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同
 第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあた
 るというものだった。
  これについては、すでに、この年・1889年3月末に、陸
 奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに
 気づいていなかった。
  国内では、民権派・国権派の大半が結集し、非条約改
 正委員会が組織された。
  そして、条約改正反対運動(非条約運動)が展開され
 た。
  憲法制定と条約改正は、同時並行で進められていたも
 のの・・相互に没交渉であったことに原因があった。
  大隈は、外国人法官任用問題に対して、法制局長官の
 井上毅に帝国憲法との整合性を検討させた。
  井上毅は、公権力の行使に関わるところで外国人任用
 した場合、
  当該外国人は、自動的に日本に帰化して日本国臣民と
 なる旨の法案(帰化法)を起こした。
  しかし、これは、逆に、イギリスとの交渉の進展をこ
 じらせた。
  井上毅は、郷里・熊本の先輩であり、明治天皇陛下の
 侍講でもある元田永孚に相談した。
  このことから、政府部内で、黒田首相・大隈外相らの
 条約改正断行派と・・、
  後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海
 軍大臣・大山巌陸軍大臣らの・・大隈案に批判的な閣僚、
 元田ら条約改正反対の宮中グループ、
  また、黒田の手法に反発しながらも、大隈の外相就任
 に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密
 院議長など、各論議が展開することとなった。
  これまで、伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導され
 てきた「内閣・枢密院包摂体制」は、機能不全に陥った。
  内閣の首班たる黒田は、大隈に条約改正をあたらせ、
 その条約改正推進の立場は揺るがなかったが・・、
  大隈もまた、現実的に、すでに、居留地や治外法権と
 いう、本来は、憲法に規定されていない事態が継続して
 いる以上、外交事情が憲法に優先するものと判断して、
  黒田からの強い支持がある以上、条約改正は、憲法が
 どのようなものであろうとも、最優先すべき課題であっ
 た。
  こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣
 の権限をもって、急ピッチで進められて行った。
  ところが、内閣と枢密院は、相互依存関係にあって、
 枢密院の会議は、専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構
 成員としていた。
  そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は、枢密院会
 議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求め
 た。
  枢密院会議が開催されれば、条約改正反対論が多数意
 見となることが確実と考えられていた。
  改正交渉の阻止の可能性があった。
  枢密院議長である伊藤の立場としては、召集の要求に
 応じることはできなかった。
  ここには、大隈の条約改正を承認し続けて、憲法違反
 の行為を認めてしまったという状況があった。
  枢密院で弾劾される恐れもあった。
  条約改正交渉が進められている段階での枢密院の介入
 は、憲法規定に抵触もした。
  伊藤の意図を離れた所で、話が行き詰っていた。
  条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほ
 ぐそうとして調停にのりだされた明治天皇陛下、
  在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや
 天皇親政派の人びとが、条約改正反対を唱えた。
  その様な状況のなか、1889年8月2日、黒田首相は、閣
 議を開いて、帰化法制定を条件として、条約改正路線を
 採ることで内閣の意見をまとめた。
1889年7月31日、土地収用法が公布された。
  (1889年7月31日法律第19号)
  事業認定:
  1、起業者:工事計画書・図面を地方長官に提出し事
   業認定申請。
  2、地方長官:提出書類を審査、内務大臣に具申。
  3、内務大臣:閣議に提出。
  4、内閣:事業認定。認定後、官報で起業者・起業地・
   工事種類を公告。
   一、国防其他兵事ニ要スル土地
   二、政府、府県郡市町村及公共組合ノ直接ノ公用ニ
    供スル土地
   三、官立公立ノ学校病院其他学芸及慈善ノ用ニ供ス
    ル土地
   四、鉄道電信航路標識及測候所ノ建設用地
   五、河川溝渠ノ掘鑿道路橋梁埠頭水道及下水ノ築造
    用地
   六、防火及水害予防竝検疫所火葬場其他公衆ノ衛生
    ニ要スル土地 (後略)
1889年7月、我国初の有料道路日見峠一等県道の道銭徴収を
 終了した。
  長崎街道の日見峠は、「西の箱根」と呼ばれた街道き
 っての難所だった。
  長崎河川国道事務所のホームページには・・、
  江戸時代、長崎から小倉間を結んだ長崎街道。
  その中で街道一急峻な坂道として知られた峠。
  江戸参府に赴くオランダ使節、幕末の志士たち‥往く
 も還るも、旅人の心に「長崎」を焼きつける道でした。
  現在も往時の姿をとどめており、平成8年に建設省の歴
 史国道として選定されています・・と説明されている。
1889年7月、特別輸出港規則が制定された。
  門司港などの特別輸出港は、輸出振興の見地から、開
 港の不足を補うため設けられた。
  当時、輸出無税品であった、米、麦、麦粉、石炭、硫
 黄などは、日本屈指の物産で、海外への輸出は年々増加
 していた。
  輸出を増進するため、その運搬に特別の便宜を図る必
 要があった。
  1889年(明治22年)7月、法律第20号「特別輸出港規
 則」が制定され、
  不開港のうち、これらの物品の産出地に近い適当な港
 を選んで、これを特別輸出港とし、
  この5品目に限って、
  日本船、又は、日本人雇入れの外国船によって、直接、
 海外に輸出できるようにした。
  1888年(明治21年)に、九州鉄道会社が発足した。
  路線は、門司~遠賀川、遠賀川~博多、博多~久留米、
 高瀬~熊本の4区間と決まった。
  筑豊の石炭産業は、幕末期頃から発展して来た。
  乱掘、乱売を防ぐために、石炭同業者間で、1885年(
 明治18年)11月、「筑豊五郡坑業組合取締所」を組織し
 た。
  政府も、海軍予備炭田の封鎖と、経営拡大のため、選
 定鉱区を設定した。
  そのため、小規模の炭坑が整理されることとなった。
  中央の財閥の進出が進んでいった。
  地場では、安川敬一郎が、筑豊等にあった炭坑を合わ
 せて炭坑会社「明治鉱業」を設立した。
  門司港の貿易品目は、特別貿易港指定からしばらくは
 石炭輸出のみであった
  門司港は、1889年(明治22年)特別輸出港に指定後、
 急速に、石炭輸出シェアを拡大し、
  1896年(明治29年)には、石炭輸出日本一となった。
  (門司税関のホームページを参考にした)
1889年8月3日、大隈重信が、イギリスの最恵国条項による
 内地居住権要求を拒否した。
1889年8月8日、ロシアとの新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
1889年8月11日、甲武鉄道の、立川駅~八王子駅間が開通
 した。
1889年8月12日、藤岡市助が、白熱舎で白熱電灯を製作した。
  この日、後に、東芝へと発展する電灯会社「白熱舎」
 で、日本初の白熱電球が完成した。
  当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の国産
 化は、一国の産業発展の根幹をなす自給自足の精神を具
 現化して、
  独立した近代国家への道へと通じる大きな一歩となっ
 た。
  因みに、日本で初めて電灯が輝いたのは、1878年(明治
 11年)3月25日(電気記念日)で、
  東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催
 された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。
  藤岡市助、中野初子らが、グローブ電池で、フランス
 製デュボスク式アーク灯を点灯して人々を驚かせた。
  一方、白熱電球の日本初点灯は、1884年(明治17年)の
 上野~高崎間鉄道開通式で、
  この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・
 事業性の認識が高まっていった。
  1887年(明治20年)、東京電燈(現:東京電力)が設立され、
 産業に使用できる電力体系が整備されるが、
  白熱電球は、アメリカ・ドイツ製などの高価な外国製
 品に依存するしかなかった。
  藤岡市助は、1884年(明治17年)、アメリカ・フィラデ
 ルフィア万国電気博覧会に、国の使節として派遣された
 際、エジソンと面会した。
  電気器具の国産化を指導され、白熱電球の国産化を決
 心したものの、いくつかの技術的な課題があった。
  それは、ガラス管球を作ること、管球の中から空気を
 排出すること、フィラメントを作ることなど・・さまざ
 まで、
  1889年(明治22年)、京橋の東京電燈の社宅で、試作・
 研究を開始した。
  翌年・1890年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同
 郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍
 屋町に設立した。
  最初は、木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソン
 が日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電
 球12個を日本で初めて製造した
  (東芝未来科学館ホームページより)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカには・・この様なスパイ話が・・嫌になるほどある・・
   そして・・今・現代も・・中国やソ連に繰られている・・
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印された。
  そして・・その1週間後・・
.
1939年9月1日、ドイツが、ポーランドへ侵攻した。
  第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月2日、アメリカに、スパイ網があると暴露された。
  ヨーロッパに大戦がはじまった翌日だった・・、
  ウィタカー・チェンバースという男は・・、
  アメリカのジャーナリストであるが、コロンビア大学
 を卒業し、1925年に、アメリカ共産党に入党した。
  アメリカ共産党機関誌の編集長を歴任し、
  1934年に、党指導部より『地下活動を命じられた』。
  そして、種々の活動を経て・・その後に・・、
  1939年9月2日、国務次官エイドルフ・バーリーに、
  『アメリカに存在するスパイ網』について告白した。
  このチェンバースの離反で、『ソ連スパイ網』は、一
 時、活動を停止した・・が・・しかし・・、
  その告発に・・FBIは動かなかった。
  1944年、アメリカに亡命したロシア人スパイが変死し
 た。
  このことに脅威を抱いたチェンバースは、再び、FB
 Iにスパイ網を告発した。
  チェンバースの告発は、具体的だった。
  しかも、「パンプキン・ペーパー(カボチャ資料)と
 呼ばれる証拠物件を隠し持っていた。
  このことから、政府の大物が隠れおおせなくなった。
  疑惑を否定していた国務省高官アルジャー・ヒスは、
 偽証罪で有罪となった。
.
1941年7月、アメリカが、日本へ経済制裁をした。
  これは・・、
  ルーズベルトに、「日本との戦争に入りたいという欲
 望があったからだ」・・と・・フーバー元大統領は言っ
 た。
  また、この見方に、マッカーサーも同意した。
  そして、さらに・・、
  「この時、1941年7月のアメリカによる、日本への経済
 制裁は、単に、挑発で行なっただけではなく、
  日本に、戦争をやらざるを得ないというレベルの最悪
 のものだった」・・とフーバーは言った・・そして、な
 お、さらに・・、
  「日本は、例え、自殺行為であると分かっていても、
 日本に戦争を余儀なくさせるものだった。
  何故なら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あら
 ゆる戦争の悲惨さを日本に強制するものであり、
  誇りのある国ならとても忍耐できるものではないから
 だ」・・と、フーバーは言った。
  この発言にも、マッカーサーは同意した。
  これは、戦後、1946年5月、フーバーが来日し、GHQ
 の連合国軍最高司令官だったマッカーサーに会った時に
 交わされた言葉だった。
.
1941年半ばのこの頃、日本が進めて来ていた調査報告が
 なされた・・、その経緯(いきさつ)・・、
  ☆《戦争開戦前に・・現状を詳細に分析した報告書が
 日本に存在した・・しかし、その現状認識を封印し・・
 戦争は・・始められた・・》
.
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  1939年9月、関東軍参謀部で、満州国の建設主任から急
 きょ帰国した陸軍中佐の秋丸次朗は、
  「戦争経済研究班」を取り仕切って、その報告書を作
 成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され知られた。
  秋丸は、英米との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に一橋大学学長にな
 る中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖されている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  英米との力の差は・・、
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の『1941年半ば』・・、
  12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸軍首脳
 らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を「1」とすると、英米は合わせて「20」。
  日本は、2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降
 は・・経済力は下降線をたどり・・、
  逆に、英米は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが、秋丸機関の・・結論だった。
  列席したのは、杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し・・そして続けた・・
  「その結論は国策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関は、ほどなく解散し、現状認識を封印した戦
 争が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が秋丸の死後、遺品の中から発見された。
  詳細を極めた報告書であった。
(参考:日本経済新聞、2011・1・3)
.
1941年10月18日、東条内閣が成立した。
  東郷茂徳(とうごうしげのり)が、東条内閣の外相に
 なり、日米交渉において、第二次世界大戦の開戦の回避
 に死力を尽くした・・が・・、結局、開戦の責任者とな
 った。
  1945年に、再び、鈴木内閣の外相となり、終戦工作に
 挺身した。
  東京裁判に於いて、A級戦犯に問われたが、信念をも
 って戦争前後の行動の『正当性を主張した』。
  禁錮20年の判決を受け、服役した・・その服役中に・・
 逝去した。
  開戦時と終戦時に外相となった運命の方だった。
.
1941年11月26日、ハル・ノートの手交
  この日、「ハル・ノート」が手交された。
  この「ハル・ノート」は・・、
  ハリー・デクスター・ホワイトというアメリカの経済
 学者が・・、
  日本に対する最後通牒の役割を果たした「ハル・ノー
 ト」の原案となった対日交渉案を作成した。
  この男は・・この「ハル・ノート」など・・、
 アメリカの政策に大きな影響を及ぼした・・しかし・・?
  戦後になって・・1948年8月16日、アメリカ下院非米活
 動委員会公聴会で・・追及された「ソ連スパイ疑惑」を
 否定した直後・・急死した。
.
1941年12月8日(現地時間7日)ハワイ・真珠湾攻撃
.
1941年12月8日、アメリカ・イギリスが、対日宣戦布告
.
  この日、日米の戦端が開かれたが・・
  フーバー・第31代アメリカ大統領は、次のことを言っ
 ている・・、
  「日米戦争は、ルーズベルト・アメリカ大統領が仕掛
 けたもので、日本が原因ではない」・・と・・、
  また・・、
  日本への強い経済制裁を唱えた対日強硬論者のスタン
 レー・ホーンベックは・・、
  この日本の真珠湾攻撃直前にあっても・・、
  「日本には、アメリカを攻撃する能力はない」・・と
 いう主張を繰り返した。
  また、彼は、極東問題の専門家として・・、
  ルーズベルト大統領に助言したほか、
  コーデル・ハル国務長官に対しても、大きな影響力を
 与えた。・・そして・・悲惨な戦争が続き・・
.
1945年4月1日、アメリカが、沖縄に上陸した・・そして・・
 その約10日後に・・
.
1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領が死ん
 だ。
  この死と共に、アール・ブラウダー(アメリカ共産党
 書記長)は、アメリカ共産党指導部から外された。
  そして、翌年・1946年、党を追放された。
  この男は、ソ連コミンテルンやKGBに情報を流す『
 アメリカ政府内のスパイ網の充実』に強い指導力を発揮
 していた。
.
1945年11月7日、エリザベス・ベントレーが、FBIに出頭
 した。
  そして、アメリカのスパイ網について白状する。
  彼は、1930年に、コロンビア大学を卒業すると、
  1935年に、アメリカ共産党に入党した。
  そして、1938年に、ソ連スパイ網の非公然のワシント
 ン駐在員のヤコブ・ゴロスに紹介された・・そして、
  特殊な関係となった。
  1943年、FBIの捜査が迫っているとの強迫観念に襲
 われ、FBIに出頭した。
  スパイ網での具体的な活動歴と、リストを提出した。
  1948年に、下院非米活動委員会公聴会でハリー・デク
 スター・ホワイトや、ソロモン・アドラーらをスパイだ
 ったと証言した。
.
1945年12月、アメリカのFBI(連邦捜査局)が、大統領
 (ハリー・S・トルーマン)へ「政府内に二つのスパイ
 網がある」と警告した。
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれた
 (~1948年11月12日)
  しかし、日本の敗戦が確定的になった頃、すでに連合
 国は、卑劣にも、すでに、『日本の誰を死刑にするか』
 を打ち合わせていた・・決めていた。
  各国が、好き勝手なことを言っていた。
  そして、裁判をする前から「死刑が確定している」被
 告たちを、
  2年半以上も、
  死を恐れさせる立場に曝(さら)すという非人道的
 状況に置き・・そして、その中で裁判が行われた。
  しかし、この肝心な東京裁判では・・、
  日本を罪に落とす事に苦労した・・
  後追いで・・無い法律を・・わざわざ作った・・、
  日本は「侵略戦争をした」と追及された・・が・・、
  アメリカなどの連合国は、『侵略戦争と立証する事は
 出来なかった』。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から侵略の意図を持
 って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者による明確な『共同謀議の記録』もあった。
  そして、そこには、最初にチェコスロバキアを侵略し、
 次がポーランド、そして、フランス、最後にソ連を植民
 地にするという『侵略計画があった』。
  しかし、日本には、勿論、その様なものもなく・・、
  また、共同謀議もなく・・同然、その記録もなかった。
  アメリカなどの連合国側は・・、
  ドイツの様な「一貫した侵略の意図」があり、また、
 「侵略の計画がある」と、無理にしたが、それらを・・
 『立証する事は出来なかった』。
  そんなもの・・侵略の意図は無いのであるから・・当
 然であった。
  しかし・・卑劣にも・・アメリカは・・プロパガンダ
 (嘘宣伝)した。
  日本は、させられた戦争に、事前の計画があるわけは
 なかった。
  連合国側は、初めから、罪に落としたかった・・、
  裁くべき法が無ければ、作るという卑劣な事までして、
 日本を罪に落としたかった・・
  そして、戦後・・、
  マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必死に日本
 人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」というこ
 とを洗脳した・・、
  日本人に対してマインド・コントロール(嘘宣伝)し
 て、洗脳した。
  東京裁判において、「侵略戦争だ」と追及された日本
 の被告たちも・・、
  「そのような上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定をしていた。
  また、日本の凄い所・偉い所は、日本には、法律を犯
 した殺戮は一つもなかった。
  アメリカには、国際法違反の「一般市民殺戮」を、あ
 ちこちでやっているが・・、
  開戦についても、日本は、アメリカのルーズベルトの
 策にはまって行った。
  侵略の意図はなく、そして、「戦争は、常に、収めた
 い」という中に日本はあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことは出
 来ないという分析結果を持っていた。
  故に、だから・・、
  日本から好き好んで戦争を仕掛けることがある訳はな
 かった。
  その様にぜざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのル
 ーズベルトは、日本を追い込んで行った。
  日本は、「させられた戦争」をせざるを得なかった。
  そこに計画性があるわけはなかった・・、
  アメリカのルーズベルトには、あまり知られていない
 が・・、
  1941年(昭和16年)夏に、日本に戦争を起こさせよう
 と、徴発(ちょうはつ)した事件があった。
  未遂事件があった。
  逆に、アメリカのこの様な「戦争したい」が、東京裁
 判で、裁かれるべきだった。
  アメリカ巡洋艦を・・日本の領海内に侵入させた。
  (これだけで、アメリカの戦争を起こさせようとする
 戦争挑発行為だった)、
  そして・・さらに・・、
  日本の軍艦とわざと衝突させようとしていた。
  その様なことまでする「戦争したいのルーズベルト」
 だった。
  そして、インドのパール判事が、「こんな最後通牒の
 様な文書を出されたら、モナコでさえ武器を持って立つ」
 という糾弾を・・アメリカに対して発言した。
  そして、パール判事が、「日本政府が戦争したのは当
 然」と言うほどの「強圧的なアメリカだった」。
  事態は、ルーズベルトの思惑通りに運ばされていた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いということはないのである。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回った。
  アメリカは、完全に日本に一方的に責任をとらせ、自
 分は、卑劣にも・・責任から逃げた。
.
1949年、ロークリン・カリーが、ソ連スパイと確認された。
  カリーは、アメリカの経済学者で官僚だが、
  1925年、経済学研究を通じてハリー・デクスター・ホ
 ワイトと知り合う・・そして、親しい関係を保った。
  1934年にモーゲンソー財務長官に招かれて、財務省の
 高級官僚となった・・内心・・ほくそ笑んでいただろう。
  1941年、ルーズベルト政権の中枢に入り、中国支援の
 責任者となった(援蒋ルート)
  1941年~1943年、大統領特使として2回、中国訪問し、
 中国国民政府の蒋介石主席らと懇談した。
  戦後、KGB電文解読資料で、『ソ連スパイの一人』
 として確認された。
  1949年、アメリカ議会下院非米活動委員会の公聴会証
 人席に立ち、疑惑を否定したが、逆に、疑惑が深まった。
  その様な状況の中、南米・コロンビアへ向かい、
  1954年、アメリカ市民権を失った。
  ルーズベルト政権は、共産圏のソ連や中国に繰られて
 いた・・(今・現代でも)・・、
  また、ルーズベルトは、ソ連・スターリンへ甘い話を
 提供した。
  その中で、日本の固有の領土・北方四島、千島列島を
 奪われた。
.
1950年2月、アメリカのジョセフ・マッカーシーが、「国務
 省に205人の共産主義スパイがいる」と告発した・・
  当然、アメリカ国内のみならず・・世界中から注目を
 浴びた。
  朝鮮戦争直後のアメリカでは、共産主義勢力の横暴に
 怒る声が満ち満ちた。
.
1950年、アルジャー・ヒスという、ルーズベルト政権にも
 加わっていた男が、偽証罪で有罪とされた。
  この男は、ハーバード大学法律大学院を出た優秀な政
 治家で、
  ルーズベルト政権では、農業問題専門家としていた。
  ヤルタ会談に出るなど重責を担っていた。
  しかし、1948年、元ソ連スパイのウィタカー・チェン
 バーズの告発で・・スパイ疑惑が深まった(スパイだと
 暴露された)。
  アメリカ下院非米活動委員会の公聴会などで証言を求
 められた。
  しかし、1950年、立証され、偽証罪で有罪となった。
 4年間、服役した。
  後に、無罪を主張したが・・、KGB電文解読資料に
 よると、ヒスは、明らかにソ連赤軍第四部(情報部のス
 パイ網に属し・・、
  ヤルタ会議出席後、モスクワで、ソ連外交官・ビシン
 スキーからソ連への貢献を理由に勲章を授与されていた。
.
1952年、フランク・コーというアメリカの高級官僚もソ連
 のスパイだった。
  フランク・コーは、シカゴ大学を卒業して財務省に入
 省した。
  そして、1946年、国際通貨基金(IMF)の事務局長
 となった。
  そして、上司で財務次官だったハリー・デクスター・
 ホワイトとともにスパイ疑惑で追及された。
  1952年、財務省を辞職し、スパイ疑惑を否定した後に、
  1958年に、中国へ移住し、社会科学院の客員研究員と
 なった。
  1995年に、ソ連KGB電文を解読した史料が公開され、
 第二次大戦中に、ソ連側へ情報を流していたことが確認
 された。
  アメリカには・・こんな話が・・嫌になるほど・・う
 じゃうじゃある・・今・現代も・・中国やソ連に繰られ
 ている・・
  (トランプ大統領は、中国ロビイストなどを排除する
 としている)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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# by suba28 | 2017-02-08 17:39 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)

題:*(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月、新聞に講談の連載が流行した。
  口演速記が新聞に連載され、また、単行本にもなった。
  また、名人上手と言われる講釈師も登場した。
  そして、速記の口演をした講釈師の実演を聞いてみよ
 うと、この頃から、釈場(講釈場)もにぎわった。
1889年7月1日、呉・佐世保の南鎮守府が開庁した。
  同時に海兵団・呉海軍病院なども業務開始した。
1889年7月1日、東海道本線全通(新橋~神戸間鉄道全通)
  大津駅~長浜駅間が開通し、東海道線が全通した。
  新橋~神戸間に、直通長距離列車が(毎日1往復)登場
 した。
  現在の東海道本線にあたる新橋駅~神戸駅間の記念す
 べき全通だった。
  東海鉄道全通(氷川清話)
1889年7月1日、山梨県甲府に市制が実施された。
  この日、甲府総町(こうふそうまち)、上府中総町(
 かみふちゅうそうまち)、増山町(ますやまちょう)、
 飯沼村(いいぬまむら)、稲門村(いなかどむら)があ
 つまり、甲府市に市制が施行された。
  全国では34番目、関東では4番目の市の誕生だった。
  人口は31,128人、
  戸数は6,855戸だった。
1889年7月19日、第三高等学校に法学部を設置した。
  旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっ
 こう)は、京都市、および、岡山市に所在した旧制高等
 学校で、略称は「三高」。
  現在の京都大学総合人間学部、および、岡山大学医学
 部の前身。
  そして、この年・1889年、第三高等中学校を京都市(
 現:京都大学本部構内)に移転し、法学部の設置した。
  因みに、1894年(明治27年)に、第三高等中学校は、
 第三高等学校に改組された。
1889年7月24日、艦隊条例を公布した。
  艦隊条令公布により、常備艦隊を編成した。
  この艦隊条例によって、本格的な機構を持った艦隊と
 して「常備艦隊」が設置された(第1艦隊の前身)
  そして、1894年に、「常備艦隊(決戦用主力)」と、
 西海艦隊(沿岸警備用:清との戦争に備え新設)の2つの
 艦隊を統合指揮するため、「連合艦隊」が編成された。
  (日清戦争後は、解散して元の常備艦隊に戻った)
  常備艦隊司令長官が、連合艦隊司令長官を兼ねた。
1889年7月28日、入谷の朝顔市
  東京都台東区下谷の入谷鬼子母神(真源寺)と、その
 界隈で開催される「入谷朝顔まつり(朝顔市)」は、
  毎年7月の6・7・8日の3日間、開催される。
  入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政
 の頃、
  最初は、御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽
 培されていた。
  御徒町の発展とともに、また、江戸幕府の崩壊で、
  入谷に居た十数軒の植木屋が造るようになった。
  その出来が素晴らしいので評判となり、木戸銭を取っ
 て見せるほどになった。
  「変わり咲き」の朝顔がとても珍しかった。
  変化咲きの朝顔の不思議な美しさが、江戸から続く伝
 統の中で、人々へ魅力を伝え、そして、引き付けた。
  下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)には・・、
  「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五
 年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数軒を数え、
 入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。
  殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼し
 き朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり
 敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり」・・と。
  そして、一旦、廃れるが・・
  戦後のすさんだ世を明るくしようと、昭和23年に、地
 元の有志の方々が復活させた。
  そして、江戸情緒豊かな夏の風物詩として、人々の心
 を、今も温かくしている。
1889年7月29日、英国公使が、日本・メキシコ間の条約締結
 による内地居住権に関して、最恵国条項により同等の権
 利を要求した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのルーズベルト大統領が作った『ヤルタ体制』は・・、
    ソ連・スターリンの「欲望に火をつけた」だけだった・・
    ブッシュ大統領は・・批判した・・、
    その後のアメリカは・・、これの対処に・・何年も苦労した・・
    何年も・・そして、それは、今も続いている・・その後遺症が・・
    日本も・・領土を奪われたままとなっている・・
.
1900年、北清事変が起きた。
  アメリカ大統領・フーバー・・、
  親中反日が多いアメリカ大統領に於いて、このフーバ
 ー大統領は公正だった。
  その理由の一端は・・、
  若い頃、フーバーは、この北清事変が起きた頃、鉱山
 開発で中国に居た。
  そして、その時、この北清事変を見ていた。
  フーバーが大変ショックを受けたという・・中国の義
 和団と、清国政府の双方の残虐さを、直に見ていた。
  中国人の殺し合いは、身の毛のよだつ残虐非道だった
 ・・と・・
  フーバーは、それを実際に見て、大変なショックを受
 けたと言う。
  義和団事件の時も、日本人と中国人には、天地雲泥の
 差があった。
  フーバーは、それを見たのだった。
  義和団事件の時、各国の外交官たちは、中国の義和団
 に包囲され、籠城(ろうじょう)を余儀なくされた。
  これを取材していたイギリス人ジャーナリストは、日
 本を絶賛している。
  本「守城の人」にも描かれているが、
  北京に出兵していたロシア軍やフランス軍、そして、
 イギリス軍も、
  この時、皆、略奪を繰り返すという卑劣な軍の状況だ
 った。
  しかし、柴五郎大将の日本軍だけは、規律正しく、事
 変を収束し、
  そして、制圧した後の、引き揚げ方も極めて整然と
 潔(いさぎよ)かった。
  そして、この話には後日談があった。
  この時の義和団制圧の「連合国軍総司令官」ともいう
 べき人は、駐支イギリス公使のクロード・マクドナルド
 だった。
  彼は軍人だった。
  それであるから、特に、日本軍、及び、日本人の素晴
 らしさがよく分かった。
  北清事変直後、彼は、駐日公使に転じると、この時の
 ソールズベリー首相に、日英同盟の締結を勧めた。
  マクドナルド公使は、「将兵が、あれだけ規律正しい
 国であれば、同盟を結んでも、何の心配もいらない」と
 説明した。
  そして、1902年、日英同盟は締結された。
.
.
1906年、アメリカの日本人差別の歴史
  この年、サンフランシスコ市の教育委員会が、日本人
 の学童の『隔離教育』を決定した。
.
  1907年、サンフランシスコで反日暴動が起きた。
.
  1908年、日米紳士条約が締結された。
   (日本が、移民を自粛する代わりに、アメリカも排
   日的な移民法を作らないことを約束する)
.
  1913年、カリフォルニア州で、排日土地法が成立した。
.
  1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成
   立した。
   (1913年の土地法は、。「日本人移民」の土地所有
   を禁止するものだったが、この1920年の法律では、
   「日本人移民の子供=いわゆる二世」までもの土地
   所有が禁じられた)
.
  1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)は、
   帰化不能外国人であり、帰化権はない」とする判決
   を出した。
.
  1924年、『絶対的排日移民法』が成立した(約束違反)
   これは連邦法で・・、
    アメリカという国家全体として、日本からの移民
   を排斥するという破廉恥な約束違反の法律だった。
   アメリカは・・国家全体で日本を排斥した。
.
1941年7月18日、第二次近衛内閣総辞職・・と同時に、第三
 次内閣が成立した。
  第3次近衛内閣が誕生して、和平の道へ努力が行われた。
 しかし・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・マッカーサー
 と会見した時に、マッカーサーから言われた・・
  「1941年の日本の(近衛内閣の)誠実な和平への努力
 を、アメリカは受け入れるべきだった」・・と・・、
  「しかし、ルーズベルトには、受け入れる意図は、初
 めから全くなかった」・・と、この時、フーバーは言っ
 ている。

1941年8月1日、アメリカ、対日石油輸出の禁止
  フーバー(アメリカ元大統領)の言葉:
  『これは、宣戦布告なきアメリカの宣戦布告だ』と・・
  「(1941年7月~8月のアメリカの日本に対して行った
 経済制裁は)・・
  『明らかに、日本に対する宣戦布告なき、戦争の仕掛
 けだった』・・と・・フーバー元アメリカ大統領は言っ
 た。
.
1954年、ダライ・ラマ法王(チベット仏教の最高指導者)
 と、パンチェン・ラマ(ダライ・ラマ法王に次ぐ存在)
 が、お互いに相手を承認するという関係になった。
  本「新・戦争論」で、池上彰氏は言う。
  そして、中国共産党が、チベットを占領した後の1954
 年に、
  ダライ・ラマも、パンチェン・ラマも、毛沢東に呼ば
 れ、チベット代表として、全国人民代表大会のメンバー
 になった。
  ダライ・ラマは、常務委員会副委員長・・、
  この時、実は、ダライ・ラマは、一時だが共産主義に
 憧れた。
  ところが、1955年春、チベットへ帰る前日、毛沢東が、
 自分の執務室に彼を呼び出し、
  「最後に、ぐっと体を近づけ、『あなたの態度はとて
 もいい。
  だが、宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。
  何故なら、僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、
 第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ」と言った。
  これを聞いて、私は激しい嵐のような感情が顔に出る
 のを感じ、突然、非常なおそれを抱いた。
  『そうなのですか。あなたは、結局、ダルマ(法)の
 破壊者なのですね』、私は心の中で、怒りを込めて呟(
 つぶや)いた」(『ダライ・ラマ自伝』)。
  そして、チベットに戻ってみると、自分の留守の間に、
 チベット仏教がすっかり弾圧されていた。
  それで反発し、インドに亡命する事になりました。
  しかし、パンチェン・ラマは、北京に残って、中国共
 産党の方針に従い、出世していく。
  しかし、そのパンチェン・ラマも、年を取ってからチ
 ベットに戻って布教活動を始める。
  そして、チベットの状況を見て、共産党に対する批判
 的な事をわずかに口にする。
  その途端、変死するのです。(後略)
.
1966年~1976年、中国・文化大革命。
.
1979年1月1日、台湾関係法
  台湾関係法は、アメリカ合衆国の法律である。
  中華民国(台湾)に関するアメリカ合衆国としての政
 策の基本が定められていて、
  事実上のアメリカ合衆国と中華民国(台湾)との間の
 軍事同盟。
  1979年1月1日に、民主党のジミー・カーター大統領は、
 中国との国交を樹立し、中華民国(台湾)との国交は断
 絶した。
  ホワイトハウスのこの方針は、ソビエト連邦と中華人
 民共和国の離間を決定的なものとし、
  また、アメリカ企業が、中国大陸の『巨大な市場を獲
 得』するための重要な布石となった。
  しかし、同時に、米華相互防衛条約の無効化に伴うア
 メリカ合衆国台湾防衛司令部の廃止と、
  在台米軍の撤退によって、東アジアに急激な軍事バラ
 ンスの変化が起きることが懸念され、
  自由主義陣営の一員である中華民国(台湾)が、中華
 人民共和国に占領される事態を避けるため、
  また、中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであ
 った許国雄僑務委員会顧問)や、在米国台湾人(台湾独
 立派を含む)からの活発な働きかけもあって、
  台湾関係法が、1979年4月に制定され、
  1月1日にさかのぼって・・施行された。
  アメリカは、国内法規である台湾関係法に基づき、通
 常の軍事同盟のように中華民国(台湾)に駐留こそして
 ないものの、武器売却や日本の沖縄県の在日米軍基地な
 どにより、中華人民共和国を牽制している。
  そして、もともと、中国は、台湾を「化外の地」だと
 日本へ言った地で、
  中国とは何ら関係ありませんよ・・と・・日本に説明
 した地である。
  (参考)化外:けがい、国家の統治のおよばない地。
.
2003年11月27日、台湾の独立を問う公民投票法
  台湾の陳水扁総統によって、「台湾の独立」を、台湾
 の方たちに問う住民投票を「実施するか?否か?」の発
 議をし、
  その「公民投票法」が、2003年11月27日に、成立しそ
 うになった。
  「中国は青くなった」「反対した」・・と言うより、
 どんなことがあっても阻止したいとした。
  これが、このまま進んでいくと、住民投票の結果に関
 わらず、少なくとも「台湾民主主義の完成」の証になっ
 てしまうからだった。
  また、仮に、住民投票の結果が「独立すべき」となっ
 たら、中国は全く対応できず、台湾は名実ともに完全な
 独立国になる。
  この様な方向へ進む法案だった。
  2003年12月初旬、アメリカのブッシュ大統領(第43代)
 は、「台湾の住民投票に我々は反対する」と言った。
  中国の北京政府の「住民投票など絶対に容認しない」
 という声明も出ていた。
  また、「我々の忍耐もすり減ってきた」の強硬姿勢も
 あった。
  そして、この言葉が、台湾というより、むしろ、アメ
 リカ向けだったことも影響した。
  そして、また、その時、中国の温家宝首相が、アメリ
 カ訪問し、ホワイトハウスで行なわれた首脳会談の後の
 発言でもあった。
  また、アメリカの希望した「北朝鮮の核保有問題を協
 議する六か国協議の開催を中国が受け入れたから」と
 みられた(実際、この後、開催された)。
  日本の外務省は、公式ルートで、台湾の住民投票に反
 対を声明した。
  台湾は、見捨てられたのか?
  台湾が、中国に落ちれば、次は、沖縄県である。
  今、中国は、この次の次の手を打っている。
  最後は、アメリカと近接するところまでを中国は目標
 としている。
  中国は、「太平洋を、アメリカと半分づつ」と言明し
 ている。
.
2005年、アメリカ大統領のブッシュ大統領(子)が、『ヤ
 ルタ体制は間違いだった』と演説した。
  ブッシュ大統領は、バルト三国のラトビアの首都リガ
 へ行って、ヤルタ体制の批判をした。
  フランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大
 戦の時にした失敗を批判した。
  ルーズベルトが、焚き付けたから・・東ヨーロッパが、
 ソ連に奪われ、日本の領土を奪われた。
  その様に事を運んだソ連のスターリンだった。
  ルーズべルトが「取ったら」と言った領土は・・
  「それ以上に、ソ連は取り」
  そして、手のつけられないスターリンに、面食らった
 ルーズベルトだった。
  そして、ブッシュは、「東ヨーロッパを解放できなか
 った」と批判した。
  そして、また、バルト三国も解放できなかったと言っ
 た。
  「それから、50年、経ってしまったではないか」と批
 判した。
  アメリカは、冷戦という形で東欧解放のために、ソ連
 と戦わなければならなかったではないか・・と批判した。
  「ソ連を大きくした」ルーズベルトを、批判した。
  日本の固有の領土の北方領土は取られ、千島列島は取
 られ、ルーズベルトが言った満州や旅順だけでは済まな
 かった。
..
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# by suba28 | 2017-02-06 17:26 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)

題:(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月8日、市制実施後、最初の東京市会を開いた。
  市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制
 限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によっ
 て市会議員を選出した。
  市は、条例制定などの権限を持つ。
  市長は、市会が候補者3名を推薦し、内務大臣が天皇陛
 下に上奏裁可を求めて決めた。
  市会は、別に助役と名誉職参事会員を選出した。
  市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が
 市の行政を統括した。
  東京市会は、1889年(明治22年)5月1日に、市制・町
 村制の施行に基づいて東京15区を市域とする東京市が設
 置された。
  東京市は、市制特例によって京都市・大阪市と共にい
 わゆる「三都」として一般の市よりも上位に位置付けら
 れ、
  東京府知事が、東京市長を兼務すると共に、従来の区
 も東京市長の指揮下でそれぞれ単独の区長(官選制)・
 区会を持つ変則的な自治体制が敷かれた。・・が、
  東京・大阪両市有志同盟が、特例撤廃を働き掛けた結
 果、1898年(明治31年)10月1日に、東京市は、一般市と
 なり、東京市長(官選制)と府知事の役職分離・東京市
 役所(庁舎は麹町区有楽町の東京府庁と共用)の設置が
 実現した。
1889年6月10日、第1回貴族院多額納税議員選挙
  議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令
 (明治22年勅令第11号)、その他の法令に定められた。
  議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員の
 うち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員につい
 ては終身議員とされた。
  華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ
 同爵の者による互選により選出された。
  (参考)勅任議員:ちょくにんぎいん、勅任されて議
    員となった者、すなわち勅選議員・帝国学士院会
    員議員・多額納税者議員の総称。
1889年6月11日、ドイツと新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
  グートシュミット独公使は、この条約が失敗した理由
 について・・、
  関税問題を除いて、ドイツとしては段階的に日本を解
 放する事を意図していたと後になって発言した。
1889年6月16日、横須賀線鉄道が開通した。
  横須賀線の大船駅~横須賀駅間が開通した。
  横須賀は、海軍の軍港を抱える軍港都市で、
  横須賀線は、軍事上、重要な路線だった。
  また、横須賀は、歴史のあるところで、幕府の俊英・
 小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)とフランス人技師
 ウェルニーの胸像が立っているが、江戸幕府の造船所が
 あった。
  そして、横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の首都防衛
 拠点)と海軍工廠(こうしょう:軍用艦船の造船・修理
 所)・・、
  それまでの人員や物資の輸送は、横浜からの船便だっ
 た。
  軍は、鉄道が結ばれる事を要求し、1886年(明治19年)
 軍は請議書を提出した。
  そこで、1887年、測量が開始され、
  1888年初頭に起工し、そして、
  1889年6月、大船から鎌倉、逗子を経て、横須賀へ開通
 させた。
  横須賀線という名が決定したのは、1909年(明治42年)
  軍は、観音崎までを計画していたが、費用と用地確保
 で実現しなかった。
  一時は、貨物取扱量も増え、また、造船所もあり、ド
 ックもあり・・で、広大な操車場もあったが、今は、公
 共施設や高層住宅となっている。
  また、米軍と自衛隊の基地で、原子力潜水艦などの基
 地にもなっている。
  (因みに、アメリカ軍は、終戦後、この地を基地とす
 るため、ほとんど空襲を行なわずに温存した・・その様
 な軍港としての最適地)
1889年6月20日、富山県伏木に米騒動が起きる。
  1889年は凶作で、
  1890年に入ると、米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で、貧民が救助を要求して騒動
 を起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県下、下関市、
 高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
  また、この1889年の日本国内の凶作のため、翌年の1890
 年に、米の輸出量が激減した。
  そして、米騒動の最終目的は、小売米価の値下げの他
 に、救助基金の支出獲得にあった。
  そもそも、町当局があずかる救助基金(そのものの創
 設は1889年の米騒動(翌・1890年の全国的米騒動の引金
 となった)に由来し、
  ふたたび、2000人余もの大集団が参加するような大騒
 動をなからしめんがために、
  あるいは、また、騒動が起きたときの備えのために、
 町の有志たちが仲仕の労銀の中から輸出米一石につき、
 2銭~3銭の金を取り立て、
  それを積み、救助基金として管理したことからはじま
 り、それが後に町に移管された。
1889年6月、陸海軍造兵廠や石川島造船所の機関部職工ら、
 同盟進工組を結成した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領になった・・ルーズベルトという男は・・??
.
  第二次世界大戦の日本との戦いが開始されると・・
  『戦争を作った』・・と、この男(フラクリン・ルー
 ズベルト)は言った。
  この男・ルーズベルトの思惑通りに事が進んだ・・
  そこで・・この様な言葉が飛び出したのだろう。
  (読売新聞、2017・1・30)に・・、
  本:『アメリカが隠しておきたい日本の歴史』の広告
 があった。
  その広告には・・以下の記述があった。
  著者は、マックス・フォン・シュラー氏で・・
 アメリカの精鋭部隊である海兵隊に所属した人だった。
  著者は言った、「本当のことを知らせることは・・、
  これから生きていく方々の為にもなる」・・と、
  また、広告の文には・・、
  「アメリカ人は、プロパガンダ(嘘宣伝)が巧みだ」
 ・・と、
  「アメリカ人は、大東亜戦争(第二次世界大戦)につ
 いて・・『日本人は腐敗した指導者たちに騙されていた』
 と言うが・・、
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだという『事実』
 については絶対に認めません」・・と、
  (アイデンティティーが一気に崩れ去るので依怙地
 を張っている)
.
.
  この様な状況の中の要(かなめ)に居た・・戦争を始
 めたアメリカ大統領のルーズベルト・・は・・??
.
.
1905年3月17日、フランクリン・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、そして、第二次世界大戦を作った男)は結
 婚した。
  セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)の
 姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚し
 た。
  フランクリン・ルーズベルト23歳、エレノア19歳だっ
 た。
  しかし、悲しいかな・・この夫婦はうまく行かなかっ
 た。
  ルーズベルトに責任があった。
  ルーズベルトが裏切ったのだった・・不誠実な男・夫
 ・・だった。
  「私はジャグラー(曲芸師、ペテン師)だ」と自ら言
 っていたルーズベルト。
  また、嘘をついても良いという自分勝手なルールを持
 っていたルーズベルトは、妻・エレノアまでも裏切った。
  夫・ルーズベルトに、愛人のルーシーが居るという事
 を知った妻・エレノアは、「世界が崩れ去ったようだっ
 た」と語った。
  「誠実」とか「信頼」とかの言葉から「遠かった男」
 だった。
.
.
1913年、フランクリン・ルーズベルトは、海軍省海軍次官
 補の要職に就いた。
  この時、アメリカ海軍内に伝統的に強かった太平洋で
 の日本脅威論を身をもって体験した。
.
.
1913年、ラザフォード・ルーシーが、この年、フランクリ
 ン・ルーズベルトの妻・エレノアの秘書となった。
  そして、フランクリン・ルーズベルトとも知り合いと
 なり、
  そして、愛人関係と・・なった・・
  その事を、1918年に、妻エレノアは、ルーシーの恋文
 を発見して知った・・、
  エレノアは、ルーズベルトに「愛人と別れるか、離婚
 するか」を・・ルーズベルトへ迫った。
  ルーズベルトは、「二度とルーシーには会わない」と
 誓った。
  そして、ルーシーも、かなり年の差があるラザフォー
 ドという人と結婚した・・、が・・1941年に死別。
  そして、よりが戻る・・ルーズベルトとの間が元に戻
 った。
  1944年以降は、堂々とホワイトハウスでも密会する様
 になった。
  密会も多くなった・・、
  ルーズベルトが死ぬとき、傍にいたのは・・ルーシー
 だった。
.
.
1915年、アメリカの連邦最高裁判所が、日系移民には市民
 権の資格がない・・とした。
  また、帰化申請も認めない・・とした。
.
.
1917年、アメリカは、アジア地域の移民禁止地域を設けて、
 アジアからの移民を制限した・・さらに、有色人種蔑視
 へと向かった。
 (全てのアジア系移民は・・アメリカ入国禁止となった)
.
.
1918年、アメリカの大統領となるフランクリン・ルーズベ
 ルトの妻・エレノアは、この年に、夫ルーズベルトの不
 倫を知った。
  そして、家庭の妻という立場を棄てる決意をした。
  社会奉仕や公民権運動に貢献するが・・、
  その間、元アメリカ共産党員だったジョセフ・ラッシ
 ュとの深い関係が暴露された。
  FBIの卑劣な監視を受けるなどのスキャンダルに見
 舞われた。
  エレノアは、裕福な家庭に生まれたが・・、
  父(セオドア・ルーズベルト大統領の実弟)は、勝手
 気ままな性格で、また、アルコール依存症であり、
  エレノアは祖母に預けられ、ここで育った。
.
.
1922年、アメリカは、ケーブル法で・・、
  日本を含むアジア系移民と結婚したアメリカ女性の市
 民権を剥奪した。
  (因みに、キリスト教聖書には、「異教徒に嫁に行か
 せるな」の遅れた教義がある・・隠されて、知らされて
 いないが・・)
.
.
1923年、アメリカは、インド人もターゲットにして、排斥
 した。
  キリスト教の有色人種蔑視教義による『虐げ社会が吹
 き荒れた』。
  (今・現代でも、黒人の方々やマイノリティーの方々
 は虐げられている)
.
.
1925年10月、「主権国家」・・ロカルノ条約
  この時、スイスのロカルノで協議が行われ、
  1925年12月1日に、ロンドンで正式に調印され・・、
  この条約締結によって、ドイツは、ベルサイユ講和会
 議で制限された国防に関する条項が再確認された。
  ドイツは・・、
  「一人前の安全保障能力を持つ主権国家とされない」
 という地位に置かれた。
  自らが、主権国家として、自らを守ることが出来ない、
  『そうすることをを・・阻止される国家』だと・・、
  ドイツは、1919年のベルサイユ講和会議で、
  ドイツは、徴兵制や飛行機・戦車の保有を禁じられ、
 軍人の数も十万人以下と制限された。
  このベルサイユ条約の159条から213条は、軍備条項と
 されていて、ドイツの軍備に対し厳しい制限が加えられ
 た。
  さらに、武装解除についても規定された。
  その条項の1例は・・、
  ☆ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵・騎
   兵・将校を含めて10万人以下とする。
  ☆ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1
   万5000人に縮小する。
  ☆参謀本部は持ってはならない。
  ・・等が決められ、
  ドイツ国民の方々は、大砲などを破壊した。
  また・・、
  「兵器などについても色々と制限された」
  「兵器、航空機を含む製造は連合国の許可を受けるこ
 と」
  「潜水艦・戦車・装甲車などの輸入・製造禁止」
  「海軍は、戦艦6隻、軽巡洋艦6隻・・で、潜水艦はだ
 め」
  「今、ドイツの港湾にある艦艇の所有権を放棄せよ」
  「航空機とその部品の製造・輸入禁止」・・など、
  日本も、日本の国防に関して『自由度を失っている』。
  自分の国を自由に守ることについて考えることが出来
 なくされている。
  『憲法があるからではない』。
  「主権国家」として、自国を守る自由が拘束されてい
 る。
  特に、キッシンジャーは、親中(反日)派で、
  中国寄りの考え方から、日本の国防についての軍備に
 ついて、厳しい考え方を持っていた。
  日本は、『国際的不正義のもとに置かれている』。
  国家の防衛主権というものがあるのだ。
  長期的観点で、アメリカの退潮を考えるとき、
  中国が、今度、内政干渉して来るだろう。
  1922年に、ワシントン会議で、日英同盟が廃棄された
 が、
  これは、今まで言われていた「アメリカの策略」では
 なく、中国の孫文などが先頭に立って計画し仕掛けた工
 作によっての結果だった。
  中国の歴史が、総べて、この「同盟関係を潰す戦略」
 の中で展開したが・・その姿であった。
.
.
1926年、イタリアのムッソリーニが、独裁的な権力を握る。
  以後、ドゥーチェ(指導者)の地位を維持した。
  イタリアは、このムッソリーニの、国家の主動の下に、
 産業を再編し、
  公共事業や軍需生産の拡大で「景気の浮揚」を図った。
  このイタリアの国家管理経済に、アメリカのルーズベ
 ルトも『理解を示した』。
.
.
1927年、リンドバーグが、「スピリッド・オブ・セントル
 イス号」で世界初の単独大西洋横断に成功し、アメリカ
 国民の英雄となった。
  因みに、リンドバーグは、1932年3月、長男が誘拐され、
 殺害されたのを機に・・欧州在住となった。
  『ルーズベルトの好戦的な所』を批判した。
  ルーズベルトからは、「親ドイツ派」と誤解を招く、
 プロパガンダの非難がされた。
.
.
1928年、この頃から深刻になりつつあった大恐慌で・・
  アメリカは、さらに、社会不安が社会に深まって行っ
 た。
  ルーズベルトは、この様な状況の中、大統領選に出馬
 した。
  そして、結果的に、ルーズベルトは、アメリカ史上最
 長の在任期間を誇る大統領となった。
  在任中に、戦争に突入する事により、アメリカは大恐
 慌の危機から脱した。
  ニューディール政策だからではない・・、
.
.
1929年、アメリカの ホワイトハウスが火災となった。
.
.
1929年10月24日、ウォール街の株価が大暴落に至った(世
 界大恐慌勃発)
.
.
1930年代初頭、粛正(しゅくせい)のソ連
  この頃、独裁権を確立し、独裁者となったスターリン
 (レーニンの後継者)は・・、
  数百万人におよぶ人々を殺戮(数千万人の説もある)
 するという徹底した粛正を行なった。
  この様な暴力によって、独裁国家を確立し、権力を掌
 握して確立し、5ヵ年計画によって、「一国社会主義建設
 路線」を進めた。
  1930年代後半に、国際情勢が緊迫の度を加えると・・、
  スターリンは、ドイツの攻撃を恐れて、また、同時に
 第一次世界大戦で失った「旧ロシア帝国領土」を回復し
 たいという目的で、
  1939年8月に、「独ソ不可侵条約」を締結した。
  条約の秘密議定書には、ポーランドの分割、東ヨーロ
 ッパにおける独ソ両国の勢力範囲が記されていた。
.
.
1931年9月24日、上海の英語誌が「田中メモリアル」を掲載
 した。
  これが、陰謀の日本を貶(おとし)める策略だった・・、
  これが、日本にとって痛かった。
  日本にとって・・「根も葉もないこと」を言われた。
  日本が、「侵略国家体質だ」と言われた。
  世界を手中に収めたいという『大それた陰謀を持った
 国だ』と言われた・・、
  その流言飛語が・・世界中に・・根も葉もない印象を
 付けられてしまう日本だった・・、
  今・現代においても、節操なく・・「慰安婦とか」「
 南京事件とか」・・作り話が、日本をターゲットにして
 行われているが・・放っておいてはいけないのである。
  この様な行為を・・『軽く見ないこと』。
  この様な根拠のない流言を放っておかないで、「しっ
 かりした根拠を持って反論を行なえ」
  必ず・・反論をせよ・・、
.
.
1932年1月7日、スティムソン・ドクトリン
  アメリカの国務長官のスティムソンが、日本を『九カ国
 条約違反』というドクトリン(原則)を発表した。
  この男が・・曲者(くせもの)だった。
  この時点から、日本に対するアメリカの態度が、さら
 に、硬化して行った。
  また、世界の態度も・・アメリカに引きずられて行っ
 た。
  スティムソンは、何故か? 日本に対して批判的に見
 る、また、日本を貶める政治家だった。
  日本は、日露戦争までは、アメリカと良い関係にあっ
 た・・うまく言っていた。
  しかし、日露戦争の日本の勝利によって、ロシアから
 満州を移譲され、
  そして、日本は、満州へ、日本から資本を持って行っ
 て、また、人材を投入して「満州づくり」を始めた。
  「満蒙開拓団」という言葉もあり、自らも汗を流した。
  日本人が、額に汗して、誠実に満州を豊かな地にしよ
 うと立ち上がっていた。
  満州鉄道の敷設も始めた。
  この時点が、そして、この満州鉄道が、アメリカと火
 花を散らす一点でもあった。
  アメリカも、満州での利権が欲しかった。
  アメリカは、すでに、植民地としているフィリピンを
 拠点として、盛んに中国大陸へ進出していた。
  そして、満州においても、日本の満州鉄道敷設と同じ
 行為をし始めた。
  日本の鉄道敷設と並行して鉄道敷設を始めるという、
 日本の行動を邪魔する行為を始めた。
  日本は、中国政府との交渉の上で、満州鉄道敷設をし
 ており、
  また、この話し合いにおいて、並行する路線は敷設し
 ないと決めていた。
  これによって、当然に、アメリカの満州鉄道敷設は、
 実施できないことになった。
  この様にして、アメリカと日本は、満州で火花を散ら
 した。
  この様な経過の中で、日本は、南満州鉄道を敷設して
 行った。
  しかし、アメリカは、世界のどの国も理解していた日
 本の満州鉄道沿線の開拓行動を、「侵略だ」と、言い掛
 かりをつけた。
  この論理のポイントになったのが、このスティムソン
 の「九ヵ国条約の違反のドクトリン」だった。
  言い掛かりのドクトリン発表だった。
  この接点から「日本は、侵略国のレッテル」が張られ
 た。
  日本は、日露戦争の戦勝によってロシアから満州を移
 譲され、中国政府も認めていた。
  侵略行為ではない。
  中国政府との話し合いの上での行動という筋が通った
 行動だった。
  逆に、アメリカなどが、筋の通った話ではなかった。
  また、アメリカは、自分の都合の悪い本は、『焚書』
 として日本国民が読めなくした。
  卑劣な事である。
  (参考)九ヵ国条約(きゅうかこくじょうやく)は、
 1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、
 すなわち、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタ
 リア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民
 国間で締結された条約。
  中国の関税自主権を拡大した。
  しかし、中国の領土や主権の尊重は、アメリカをはじ
 め、イギリスなど尊重する気配などはまったく無かった。
  大混乱の中国のおいしい権益を得ようと、うまく、立
 ちまわっているだけだった。
  (参考)焚書:(ふんしょ)学問・思想を権力によっ
 て弾圧するための手段として、書物を焼き捨てる事。
  第二次世界大戦後においても、GHQ(連合国軍総司
 令部)によって、7000冊以上の書物が焚書とされ、世の
 中から消された。
  正しい言論の道が閉ざされ、日本は自虐史観にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)されて行く。
  この焚書のすべてではないが、戦後70年を経て、少し
 ずつ世に出て来ている。
  真実の歴史に書き改められて来ている。
.
.
1934年3月、「日本、陰謀論」、日本の黒い噂を世界に流す、
 日本追い落としの論。
  この月の「アジア」というアメリカの雑誌に、この論
 が掲載された。
  この論文は、10年前に掲載されていて、今回は再掲載
 だった。
  その再掲載の狙いは、ルーズベルト政権の10年前の状
 況と大きく違って、
  ルーズベルト政権の厳しい対日姿勢を伝える狙いがあ
 った。
  10年前は、日本が、ワシントン会議で、日本は不利な
 状況を課せられたが受け入れて、
  海軍軍縮を誠実に実施していると、
  また、中国市場は、日本にとって重要であることに理
 解を示さなければならないという・・日本を少し思いや
 る様な記述もあった。
  そして、「旧思考を捨て去るべきだ」という事まで書
 かれていた。
  そして、編集長のコメントとして、「(ルーズベルト)
 海軍次官補として日本との戦争を常に念頭に置いてきた
 ルーズベルト氏の見解を今、紹介するのは非常に有益」
 と書いていた。
  「日米共存だ」という記述であった。
  この様なアメリカの状況から、何が変えさせたのか?
  また、何が変わったのか?
  ルーズベルトは、1913年から1920年まで、海軍次官補
 として勤めていた時は、この様な考え方だった。
  しかし、この時・1934年、日本についての黒い噂が世
 界に流された。
.
.
1934年6月、アメリカ、この頃から、ニューディールの批判
 が高まって行く。
  アメリカ国民の方々の不満の中で、ニューディール政
 策は行われた。
.
.
1937年8月13日、第二次上海事変が起きた。
  この事変も、新史料が公開されて、史実が明らかにな
 る・・曲者(くせもの)が横行する事変だった。
  この事変の新事実が明らかになった。
  この日、中国国民党軍が、上海の日本海軍陸戦隊に
 大攻撃をした。
  和平への可能性が、最終的に・・「完全に吹き飛んだ」。
  そして、中国国民党軍との全面戦争へと突入した。
  新たに明らかになった事は、中国国民党のトップの蒋
 介石は、『日本と和平をしようとの方針』だった。
  日本と合った和平への方向性だった。
  これが、ルーズベルトには都合が悪かった・・、
  また、この蒋介石の命令を無視して、当時、国民党の
 上海方面の総司令官の張治中(将軍)は・・、
  実は、中国共産党の秘密党員で、スパイ工作員であっ
 た。
  蒋介石の和平方針命令を無視して、日本軍に対しての
 攻撃を指揮し、戦いが起こした。
  中国共産党とコミンテルンの指令を受けて始まった攻
 撃だった。
  ソ連コミンテルンも大きく関(かか)わっていた。
  中国共産党とソ連のスターリンは、中国国民党軍と日
 本の戦いによって、その両者の消耗を尽くさせようと仕
 組んでいた。
  そして、自国軍の温存を計っていた。
  スパイの根は深かった。
  かつて、孫文の妻・宋慶齢は、中国共産党のスパイだ
 った、それで、ソ連のスターリンの命令を忠実に果たし
 ていた。
  背後には、「国際共産主義としての結束と目標」があ
 った。
.
.
1937年、盧溝橋事件、(スターリンの工作だと分かった)
  日本は、事件を収めたい、収束したいと努力していた。
  この事件の後、不拡大方針をとって、現地解決を進め
 る日本を・・その様にさせまいと・・、
  何としても日本を引きずり込んで・・日中全面戦争へ
 引きずり込みたいと・・、スターリンと中国共産党によ
 る工作が行われていた・・
  そして、上海で・・日本軍に対しての総攻撃が行われ
 た。
  これが・・全面戦争の始まるきっかけだった。
  この様なことが、戦後60年を経て、明らかになり・・
 証明されるようになった。
  (ユン・チアン他著「マオ≪上≫」第19章、2005年刊)
  また、アメリカも・・酷いことをしていた・・
  中華民国の蒋介石政権に対して行われていたアメリカ
 や、イギリスなどによる軍事援助は・・、
  いわゆる『援蒋ルート』を通じて行われていた。
  アメリカは、火に油を注ぐように・・武器を供給した。
  戦いが収まるわけはなかった。
  特に、フランス領インドシナを経由するルート(仏印
 ルート)は4つの『援蒋ルート』の中で最大のものであっ
 た。
  このアメリカの『援蒋ルート』が・・問題の根本原因
 だった。
  そして、この中国への武器・弾薬の支援が、第二次世
 界大戦が開始される・・『根本的な原因』だった。
.
.
1940年12月29日、ルーズベルトが、兵器庫になると発言。
  アメリカは、世界に武器をばらまくと宣言した。
.
.
1940年、アメリカに『正論』が現れた・・アメリカのリチ
 ャードソン海軍大将が、
  「日本との戦争なんか利益が無い」と、ルーズベルト
 大統領へ言った。
  ルーズベルト大統領は、リチャードソン海軍大将を、
 即解任し、そして、降格した。
.
.
1940年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、断固とし
 て日本と戦争をしたかった。
  この年に、リチャードソン海軍大将は、日本との戦争
 はするべきではないという考えから・・、
  『日本との戦争の検討計画は止めるべきだ』との意見
 を、さらに、主張した。
  ルーズヘルトは、直ちに、アメリカ海軍艦隊司令長官
 で、且つ、太平洋艦隊司令長官であったこのリチャード
 ソン海軍大将を解任した。
  また、卑劣にも、少将に降格した。
  この様な人事は、異例中の異例だった。
  しかも、リチャードソン海軍大将は、超エリートだっ
 た。
.
.
1940年~1942年、ルーズベルト大統領は、CIAの前身の
 OSSに、「対日占領プランを作るように」にと命令し
 た。
  また、ルーズベルトは、「人種差別主義者」だった。
  さらに、ルーズベルトは、スミソニアン研究所の文化
 人類学者アールス・ヒルデリカを、ホワイトハウスに招
 き・・、
  「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に
 交配させて、やる気がない、無害な民族につくり替える
 計画をたてたい」と・・研究する事を命令した。
.
.
1945年8月6日、この日に、広島に原爆が投下されたが・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・、
  「原爆を投下する理由はなかった」と言った。
  また・・、
  「原爆を投下しないでも、日本は降伏させることは
   出来た」・・と言った。
  さらに・・また・・、
  「原爆投下の罪は、アメリカ国民の上に重くのしかか
 っている」
   ・・と言った。
.
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際再軍事裁判)が始まった。
  しかし、フーバー・第31代アメリカ大統領は、
  「東京裁判史観は、全面的に否定する」・・と、言っ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-04 18:20 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)

題:(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月31日、華族女学校が完成した。
  沿革・・、
  1885年(明治18年)四谷区尾張町に華族女学校を創設
   した。
    この年、皇族・華族子女のための官立の教育機関
   として華族女学校の名で四谷に創立された。
  1889年(明治22年)麹町区永田町に移転。
    永田町に移転し、平民子女の入学も許可された。
  1906年(明治39年)華族女学校と学習院を併合し、華
   族女学校を学習院女学部と改称した。
  1918年(大正7年)女学部は青山に移転し、女子学習院
   となった。
  アリス・ベーコンは、日本の家族の令嬢たちがおとな
 しくて、アメリカとは全然違うことに驚いている。
  確かに、彼女たちは、まだ小さいころから、歩き方や
 座り方、襖の開け方や箸の使い方まで、細かく注意され
 て育っていた。
  とくに、かつて大名だった華族の令嬢たちは、姫君に
 ふさわしい気品を身につけるために、「小笠原流」の礼
 式を厳しく教えこまれていた。
  たとえば、食事の時に箸の先が「一寸や一寸五分」も
 汚れる食べ方は行儀が悪いとされ、
  ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。
  一寸は、約3.03センチメートルで、
  一分は、その十分の一である。
  つまり、六分は約1.8センチにすぎないわけで、箸
 をそれしか汚さずに食事するのは至難の業だ。
  さらに、華族の令嬢たちは、歩き方から寝ているとき
 の姿まで、すべて品良く、美しく見えなければならない、
 とうるさく教えこまれた。
  そうしたしつけの成果が見事に発揮されて、アメリカ
 人のアリスには、十代の彼女たちが「完璧な淑女」に見
 えたのだろう。
  因みに:アリス・ベーコンは、アメリカの女性教育者
 で、
  育った家庭は貧しかったようだ。
  大学進学は、経済的理由であきらめた。
  しかし、1881年、ハーバード大学の学士検定試験に合
 格し、学士号を取得した。
  1883年、ハンプトン師範学校正教師となる。
  1884年、大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校
 (後の学習院女学校)英語教師として来日した。
  来日中の1年間の手紙をまとめたものを、1894年『日本
 の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本
 の内側』)として出版し反響を呼んだ。
  帰国後は、ハンプトン師範学校校長となっていたが、
  1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により、
 東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)と、津田梅
 子が建てた女子英学塾(現:津田塾大学)の英語教師と
 して赴任して来た。
  1902年4月に、任期満了で帰国するまで貢献した。
  特に、女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅
 子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大で
 あった。
1889年5月、北海道で鶴猟が禁止された。
  明治維新をきっかけとして、江戸時代の禁鳥制度が廃
 止され、野生鳥獣の乱獲が進んだ。
  1872年、そこで、明治政府は、この年に『鉄砲取締規
 則』を、
  1873年、『鳥獣猟規則』を、
  1892年、『狩猟規則』を公布し、
  捕獲を禁止する鳥類として12種を保護鳥として指定し
 た。
  また、保護鳥は、別に捕獲禁止期間指定種を設け、
 保護鳥、および、期間指定鳥に対しての売買も禁じた。
  1895年、『狩猟規則』が『狩猟法』へ改正され、
  小雀(こがら、シジュウカラ科の鳥)や郭公(かっこ
 う、カッコウ目カッコウ科の鳥)など4種が保護鳥に追加
 された。
  1910年、再び改正が行われ、60種を超える鳥類が保護
 対象となった。
  1918年、本法律に関する抜本的な見直しが図られた。
1889年5月、法学士会が、法典編纂に関する意見書を提出し、
 民法施行延期を主張し、民法典論争が起こった。
  民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、民法典を、
 「このまま施行して良いのか」の是非をめぐって行われ
 た論争で、
  条約改正促進のために、近代的法典の整備を迫られて
 いた明治政府は、
  1890年、フランス人 のG.ボアソナードを中心に完成し
 た民法典 (旧民法 ) を、1890年に公布して、そして・・、
  1893年から施行することを定めていた、しかし・・、
  この年・1889年、東京大学法学士会の、「民法は天賦
 人権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意
 見発表から実施延期・断行の論争が起こった。
  国論は、「延期派と断行派に二分され」、はげしい論
 争が起こった。
  この法典論争は、「商法典論争」、あるいは、「民法
 典論争」とも呼ばれた。
  この基本には、「日本の民俗慣習に合わない」、それ
 故、施行を延期すべきだ・・という議論が出て来たのだ
 った。
  明治政府は「施行を断行しようとした」、
  これに対し、穂積八束などが「国情にそぐわない」な
 どとして、施行の延期を主張した。
  1892年になって、旧民法の施行延期を求める法案が議
 会で可決された。
  旧民法は流産し、結局、施行はされなかった。
1889年6月1日、青年絵画共進会が、上野公園で展覧会を開
 催した。
  小堀鞆音は、この時・1889年、東京美術協会・青年絵
 画共進会に出品し、一等褒状を受け、この頃から雅号を
 「鞆音」と改めた。
  因みに、日本絵画協会は・・日本の美術家の団体でま
 ぎらわしいが・・、、
  1891年(明治24年)9月に、画塾間の交流を図り、日本
 画家の川端玉章が川辺御楯らに働きかけて、後進の育成
 を目的として日本青年絵画協会を設立した。
  そして、1891年10月に、岡倉覚三(天心)が会頭に就
 任した。
  また、岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立
 により、同協会共進会の委員、審査員として活動し自ら
 も幾多の力作を発表した。
  1892年(明治25年)、第1回日本青年絵画協会主催、青
 年絵画共進会展開催。
  1893年(明治26年)第2回展、
  1894年(明治27年)第3回展、
  1895年(明治28年)第4回展と回数を重ねるに従って、
 岡倉秋水、本多天城、高屋肖哲、岡不崩といった狩野芳
 崖の門下生が影をひそめ、川端玉章による東京美術学校
 の自然主義的、写生派的な傾向が台頭してきた。
  1896年(明治29年)に、日本青年絵画協会は、日本絵
 画協会と改称した。
1889年6月1日、伊藤博文が著した「憲法義解(けんぽうぎげ)」
 が刊行した(明治憲法・皇室典範の逐条解説書)
  この年に発布された大日本帝国憲法、および、皇室典
 範の逐条解説書で、
  「大日本帝国憲法義解」と「皇室典範義解」の2部から
 成っている。
  両者を合わせたものが公刊以来「憲法義解」と呼ばれ
 ている。
  両法案が、枢密院に諮詢(しじゅん、参考として他の
 機関などに意見を問い求めること)された際、
  各条項ごとに、説明を付した原案理由書ともいうべき
 文書が配布された。
  井上毅が執筆し、伊藤が加除修正してできたものであ
 った。
  両法が制定されるや、この文書に対し伊藤が中心とな
 って、井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審
 査委員会がつくられ、綿密な共同審査を行って完成した
 のが本書だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国・・そして、中国・・は・・
.
1603年、江戸時代(徳川幕府)、朝鮮とは濃密に付き合っ
 ていた。
  朝鮮通信使は、徳川幕府のもとにやって来ていた。
  この時、必ず、この朝鮮通信使が持ち出す話が、「豊
 臣秀吉の朝鮮出兵」の話だった。
  そして、「謝罪せよ」と繰り返し幕府へせまった。
  いつの時代も・・そして、今・現在の韓国・朝鮮と同
 じである。
  その時、幕府の取った対応が・・「完全なる無視」だ
 った。
  とっくの昔に講和は終わっているのに、この様に話を
 持ち出すのが、この国の昔からのやり方だった。
  友好を結びたいから朝鮮通信使は送って来る、しかし、
 過去のことを蒸し返して・・『言ってみたい』だった。
  そして、なお、朝鮮通信使が謝罪を求めた場合は・・、
  徳川幕府は、朝鮮使節を、京都の東山の高台寺へ案内
 した。
  高台寺は、秀吉ゆかりの寺で、ここに秀吉の朝鮮出兵
 の時に戦いで、倒した朝鮮の兵士たちの耳を埋めた「耳
 塚」があった。
  これは日本だけの事ではなく、当時の世界的な慣行で
 あった。
  自分たちの戦いの戦果を示す方法だった。
  そのため、討ち取った兵士の耳をそいで持ち帰り、戦
 いの働きの証明にして(御褒美を戴き)、そして、塚に
 して・・供養していた。
  その耳塚を、朝鮮使節に見せて・・、
  「これ以上、問題を持ち出すな、また、新しい耳塚が
 出来る事になりますよ」・・
 ・・と・・暗に示して・・脅した。
  しかし、その後、延々と170年余りに渡って『謝罪』を
 求め続けたのだった・・。
  徳川幕府は、無視し続けた。
  しかし、だからと言って日朝間に戦争は一度も起こら
 なかった。
  今・現在、『最終決着ですよ』・・と、
  『無い事まで有ったようにして』・・一筆書かされ、
  10億円出した・・日本。
  金額の問題ではない。
  また、一筆という形、完全に前と同じパターンである。
  前も・・これで終りにしますからと言って・・やられ
 ていた。
  終りにするという朝鮮側の一筆は取りそこなった。
  そして、蒸し返された。
  こんなパターンを、繰り返す国なのだ。
  子供に、これで終わり、これで終わりと、ねだられて、
 与え続けるようなものなのだ。
  また、のど元過ぎた頃、話は蒸し返されるだろう。
  優しい国・・日本だから。
  いつも、なんだかんだと助けてきた・・日本だった。
  しかし、最近は、いやらしい手を使う。
  日朝問題に第三国へ言いふらす手を使う。
  あたかも・・「○○ちゃんが、△△したよ」と、クラ
 ス中に言いふらす様にだ。
  これは、逆に・・日本は、それを知ったら、一つ一つ
 丁寧に、話して・・事実を伝えに行くにかぎる。
  黙っていてはいけない、どこまでも、どこまでも、手
 抜きをせずに、事実を伝えて行かねばならない。
  黙っていては・・終りは来ない。
  逆に、日本への・・信頼は増すのだ。
  これが・・大事な仕事なのだ。
  これしかない。
  これをきっかけに、その第三国と、より緊密な関係が
 結ばれるのだ。
  もう謝罪して治まる国ではないという事は、歴史の上
 で、何度も何度も・・何度も何度も繰り返して来た、
  もうこの具の骨頂は繰り返さないにしよう・・、
  仮の謝罪だ何て絶対に思わないこと。
  日本が失うもの、日本国民が失うものが、絶大に大き
 すぎるのだ。
  「たかが10億円」などと思うな。
  毅然と自国の主張すべき所は主張し続けよ!
  このような基本は、絶対に崩さないこと!
  極端に言えば、この国の立場を崩せば国が無くなるく
 らいに思うこと!
  この事は、特に、特に・・安きに流れないこと!
.
.
1905年、竹島は、この年以降、日本領となっている。
  1951年8月10日の「ラスク書簡」には以下の様に記され
 ている。
  アメリカ政府より、「竹島は韓国の領土として扱われ
 たことは無く、1905年以降、日本領である」とし拒絶さ
 れる(ラスク書簡)。
  以上の様に、「ラスク書簡」には、「竹島は韓国の領
 土として扱われたことはない」と明記されている。
  そして、「1905年以降、日本領である」と拒絶された。
.
1906年6月、日本の領土である竹島で、日本の漁民が、漁協
 組合の設置申請をした。
  今・現在、竹島は、不本意ながら韓国に不法占拠され
 ている。
  この事を示す新資料が、また出て、裏付けられた。
  (産経新聞、2017年1月21日、08:48)が伝えている。
  「竹島」領有権に新資料 明治時代に隠岐の住民が漁
 業組合設置を計画 島根
  これを受け、県は、漁業組合設置に関する文書の存在
 を調査した。
  県公文書センターに「竹島貸下(かしさげ)海驢(あ
 しか)漁業」と題した竹島関連文書のつづりがあり、そ
 の中に、中井らが明治39年6月、県に提出した「竹島
 漁業組合設置認可申請」などの書類を確認した。
  当時、県は、この申請について国と協議し、国は、不
 許可とする意見を伝達した。
  県は、これを基に「住所を有しない竹島への出稼ぎ目
 的の出漁であり、漁業組合を設置すべきものではない」
 と漁業法に基づいて判断、不許可とした・・などの経緯
 が、残された文書で判明した。
  隠岐の島町は、町内の「久見竹島歴史館」で、これら
 の資料の展示を検討している。
  県竹島資料室は、「漁業組合設置の動きは、これまで
 ほとんど知られておらず、貴重な資料といえる。
  結果的に申請は却下されたとはいえ、県が竹島をめぐ
 って行政権を行使した証拠となっている。
  こうした事実を積み上げていきたい」としている。
  資料:中井養三郎氏らが島根県に提出した「竹島漁業
 組合設置認可申請」の書類。
  「竹島貸下海驢漁業」の綴りの中にあった(島根県提
 供)
.
.
1919年、毛沢東が、この年の五・四運動前後にマルクス主
 義に触れた。
.
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1920年~1930年、この頃、金日成は、毛沢東の中国側に居
 たが、毛沢東の物質的な支援が、たいしてできないとい
 う理由で、
  1930年代の末ごろ、金日成は、ソ連が極東に設立した
 朝鮮人部隊に、ソ連軍の軍人として所属し、くら替えし
 た。
  ソ連は、1945年に、朝鮮半島における38度線の北側を
 占領した際、金日成を連れて行き、
  その後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となる政
 権の指導者として擁立した。
  金日成とスターリンのソ連は、直ちに、ソ連を模範と
 して北朝鮮社会を軍国化し始めた。
  この抑圧に、朝鮮戦争の始まるまでに、すでに100万人
 近い北朝鮮国民が、背負えるものだけ持って、やっとの
 思いで南へ逃げた。
  金日成は、最初は、分捕った日本軍の残していった武
 器で北朝鮮人民軍を武装した。
  そして、入手できる限りのソ連の武器で補強した。
  1950年の春には、ソ連が、北朝鮮に大量の武器を配給
 した。
  また、1949年末に、朝鮮半島から引き上げたソ連軍(
 12万人のイワン・チスチャコフ大将の軍)の武器のすべ
 てが、機材とともに、北朝鮮人民軍に引き渡された。
  そして、金日成は、南へ奇襲攻撃を始める。
  1950年6月25日までに、ソ連のスターリンは、T34戦車
 を150台~200台、長距離砲、戦闘機を北朝鮮人民軍へ与
 え、武装し終えていた。
.
.
  題:中国の・・『 国際世論操作 』・・、
    本当に、深いところまで、中国の要員が存在している
.
1930年代、中国は、巧妙だった。
  中国は、アメリカの国民の方々を味方に付けなければ
 駄目だと、アメリカの国民の方々の世論を、中国の味方
 になる様な作戦をとった。
  それも、アメリカの文化人や、芸術家や、知識人を味
 方にするのが合理的だという作戦をとった。
  金を使った。
  そして、その作戦は、自国内でも行われた。
  味方に引き込む作戦が行われた。
  この理解者を獲得して行く作戦を「統一人民戦線」と
 言った。
  中国は、柔軟路線をとり、中国は柔軟だと印象付けた。
  中国も民主主義国家だと印象付けた。
  実態はどうであろうと・・。
  アメリカ世論を中国に引き入れ、中国・蒋介石政権と
 の戦いに勝利をおさめたいとして、結果、勝利をおさめ
 た。
  この様な中国の歴史は、連綿と今・現在も続いている。
  また、中国には「モグラ」という作戦がある(中国名
 は、「沈底魚」と呼ばれている)。
  それは、日本の頭の良いエリートを、日本の大切な部
 署・権力の中枢に送り込み、
  一定の期間、何の活動もさせず、工作もさせずに出世
 させる。
  やがて時が来ると、重大な秘密を流させる。
  日本の例ではないが、蒋介石の部下の胡宗南将軍は、
 22年間、「中国共産党特務」で、毛沢東へ情報を流し続
 けた。
  また、しばしば、中国・国民党軍が不利になる作戦の
 指揮をとり、中国・国民党軍を敗北へと導いた。
  1972年の田中首相の訪中以降、日本と中国共産政権と
 の「人材交流」という名目で、中国との人的交流が、大
 々的に行なわれているが、大いに危険という日本の知識
 人は指摘している。
  NHKが、ロシアの冬季オリンピック(2014年、ソチ
 オリンピック)の時、安倍首相が参列しているのに、ま
 ったく放映しなかった。
  (ちらっと、物の陰の首相が写ったという話はあるが、
 それにしても異常だった・・?)、
  その時のNHKの放送では、中国の首脳は、長時間、
 それも、あらゆる角度から写し、放映し、また、中国選
 手団が、その中国首脳へ手を振り、そして騒ぐ姿まで、
 丁寧に、長い時間、放映した。
  まったく、どこの国の放送局かと思えるほどだった。
  日本を蔑視するNHK、日本を蔑(さげす)むNHK
 だった。
.
.
1934年10月15日、中国共産党、長征開始
.
.
1935年1月13日、毛沢東の指導権確立
  延安への長征途上、指導権を確立した
.
.
1937年7月29日、通州事件(つうしゅうじけん)が起きた。
  通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に、中国陥
 落区の通州(現:北京市通州区)において、
  冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の
 通州守備隊・通州特務機関、及び、日本人居留民を襲撃
 した事件で・・、
  通州守備隊は、包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅
 した、そして、
  猟奇的な殺害、処刑が行われた。
  通州虐殺事件とも言われている。
  通州は、北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県
 (現:北京市通州区北部)の中心都市で、
  殷汝耕が、南京政府から離脱して設立した冀東防共自
 治政府が置かれていた。
  (別史料)
  1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において、
 冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍部隊・
 特務機関、及び、日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した
 事件。
  日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が
 虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方
 法も猟奇的なものがおおかった。また、朝鮮人慰安婦も
 殺害されている(日本人が連れて来たのではない。この頃、
 朝鮮人が自国の娘を連れて来て、商売をするという行為が
 あちこちで行なわれていた)。
 韓国! 銅像を建ててあげなさい。
.
.
1949年10月1日、中国・共産党政権樹立。
  中国大陸において国民党軍を破った中国共産党軍によ
 り、北京市にて中華人民共和国が建国された。
  人口は13億5千万人。
  台湾の領有も主張している。
.
.
1949年~1950年初め、国際共産主義の頂点
  この頃に、国際共産主義の一枚岩体制が頂点に達した。
  主要な、共産主義指導者たちは、共産主義による世界
 制覇という野望に、唯一の目標を見い出していた。
  そして、サミットが開催され、
  今ある東アジアの枠組みが作り出された。
  そして、一連の決定がなされた。それは・・、
  1、金日成に、韓国侵略のゴーサインが出た。
  2、毛沢東に、チベット制服のゴーサインが出た。
  3、毛沢東に、台湾侵略のゴーサインが出た。
  4、ホー・チ・ミン体制の承認と、彼へのインドシナ征
   服のゴーサインが出た。
  5、駐留米軍に武力抵抗しない日本共産党への非難がな
   された。
.
.
1950年1月、アメリカの国務長官のアチソンは、この日、声
 明した、「我々・アメリカは、朝鮮半島や台湾問題には
 干渉しない」・・と・・この言葉が、朝鮮戦争を起こさ
 せた・・この5ヶ月後に・・、
  朝鮮戦争が始まる1950年6月25日の約5ヶ月前だった。
  1972年に、アメリカのニクソン大統領が、中国訪問を
 した。
  ニクソンは、毛沢東と周恩来と話し合った時に、ニク
 ソンは質問をした、
  「朝鮮半島で我々がぶつかった理由は何だと思います
 か?」・・と。
  周恩来が答えた、「それは台湾です」・・と。
  そして、その理由を、周恩来は、「あの時、アメリカ
 は第七艦隊を派遣して、台湾を我々から切り離した」
  「我々は、それへの対抗策をとらなければならなかっ
 た」・・と。
  1950年6月25日、北朝鮮の金日成は、この日、38度線の
 休戦ラインを越えて韓国に侵攻したが、
  毛沢東の中国共産党政権は、この時、台湾へ武力侵攻
 する機会をうかがっていた。
  侵攻しようと思っていた時、アメリカが、突然、台湾
 海峡へ第七艦隊を送り込んだ。
  中国が、朝鮮での動乱を利用して渡ろうとしていたこ
 とが挫折した。
  そこで、中国共産党政権は、朝鮮半島へ介入した。
  戦争なんて、この様に・・簡単に、トップの思惑で始
 められてしまうもの。
.
.
1950年6月25日、日本との平和条約に、韓国は参加できない
 と、再度、決定された。
  この日に、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ・イギリスも、
 この戦争に参戦する中・・、
  1951年(昭和26年)5月のアメリカ・イギリスの協議等
 において・・、
  第二次世界大戦において、韓国が日本側で、戦争をし
 ていなかったことを理由に、
  イギリスが、韓国の条約署名に反対した。
  イギリスの方針表明を受けて、アメリカも、大戦中に
 韓国臨時政府を承認したことがない(その様な政府が存
 在したのか?の状態)ことから・・方針はイギリスと同
 一とした。
  (これは、1949年(昭和24年)12月29日の条約草案で
 は、韓国が締結国のリストに一旦加えられたが、その締
 結国リストに入れないとされた)。
  この様なしつこい韓国の「嫌になるくらいの粘り強さ」
 は、学ばなければならない。
.
.
  題:中国の諜報
.
1970年代、フランスのパリの中華レストランの5分の1は、
 中国大使館の情報ネットワークになっていた。
  イギリスの治安機関の見方も、中国系レストランの15
 %~20%は、中国政府とかかわりがあるとみている。
  早く言えば、中国政府のスパイの出先機関の役目を負
 っていた。
.
.
1970年、この年代初頭の話・・、
  中国共産党軍が、朝鮮戦争に参戦して、朝鮮戦争は、
 悲惨な戦争になった。
  数百万人が死んだ。
  しかし、この責任を、中国共産党に問うこと無く、国
 連(国際連合)は、中国共産党の北京政権に、常任理事
 国の座を与えた。
  この様な不合理が、何故、起きたのか?
  これもまた、アメリカの都合であった。
  1970年代初め、アメリカは、ソ連との冷戦を戦うにあ
 たって・・
  何としても、共産中国を、対ソ冷戦の同盟国として引
 き入れたいとしていた。
  そこで、共産中国の戦争責任を問わなかった。
  だから、この理屈の様に、この理屈通りの逆の場合の
 第二次世界大戦の場合は、日本の戦争責任を取らす事が、
 アメリカに都合がよかったのである。
  そうしたのは、過去のその時の場合に都合が良いだけ
 で・・
  だから、今・現在、その都合はなくなっているので、
 日本は、昔のその都合の論理を言われる「いわれ」はな
 いのである。
  だから、当然に、日本は、過去のアメリカの御都合の
 歴史観に捉(とら)われている必要はない。
  西洋の国際秩序観に付き合う必要はない。
  日本は、立派に戦争責任を果たした。
  そこで、今、何ら、戦争責任を追及されてないアメリ
 カがいて、アメリカは戦争責任を果たしてない逆の面が
 ある。
.
.
1970年代、この時になって中国は、急に、尖閣諸島に関す
 る領有権を主張し始めた。
  国連が、この地域に石油が埋蔵されていると発表した
 からだった。
.
.
1971年、中国・北京政権が、国連の常任理事国になった。
  中国・国民党(蒋介石)政権は、常任理事国の席から
 降ろされた。
  中国・北京政権は、朝鮮戦争で、国連軍と戦い、この
 国連軍と韓国人を数百万人も殺戮した。
  アメリカは、この様な中国・北京政権を、ソ連との冷
 戦を戦うにあたって、自分側に引き入れたいと、朝鮮戦
 争の戦争責任を、何ら問う事もしないで、最良のポスト
 (地位)を与えた。
  何でもアメリカの『さじ加減』で進んで行く世界だっ
 た。
.
.
1974年、韓国と北朝鮮との間にある非武装地帯。
  ここで、韓国軍が、4本のトンネルを発見した。
  地下を通って韓国へ侵入するためのトンネルである。
  最初の発見が1974年。
  最後が1989年。
  少なくとも北朝鮮軍は、20本のトンネルを掘っている
 と推測されている。
.
.
1983年6月6日、中国の鄧小平が、初代国家中央軍事委員会
 主席になった(この時、国家主席は李先念)(~1990年
 3月19日)
  鄧小平が残した16文字というのがある。
  それは、「冷静観察、沈着対応、韜光養晦、決不当頭」
 である。
  以下の解説が見られる。
  「頭を低くし、こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は極力避け、経済発展がある段階を越え
 るまでは隠忍自重せよ。
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付けることに、何よりの関心を集中せよ」。
  この意味するのは「中国は表と裏、二つの顔を持て」
 ということ。
  これは、中国の伝統論理で、最も優れた指導者の資質
 とされてきた。
  「中国は、いずれ、がらりと態度を変える」・・とあ
 る。それが・・今。
.
.
1998年、金大中・韓国大統領が訪日した。
  金大中氏は、「もう歴史問題は持ち出しません」と約
 束した。
  しかし、いつもの韓国の道徳レベルの低さを露呈した。
  その後、韓国の国のトップが、この様に約束したって、
 どこ吹く風として、言いたい放題だった。
  国家の成熟度が問われる大切なポイントなのに、その
 様なものは必要ありません、いりませんの態度だった。
  約束なんてどうでもいいの国家だった。
  繰り返すのである。
.
.
  題:中国の岐路であって、中国方針決定となった事件・・
   そして、時を得て・・今、中国へなびく国が連なる・・
   中国と北朝鮮は蜜月だ・・、
.
2001年4月、中国の海南島付近で、アメリカの偵察機が、中
 国の戦闘機と衝突した。
  今日(こんにち)、分かっている事であるが、この時、
 アメリカと中国は、「一触即発の状態」にあった。
  そして、その後、中国は、アメリカと対抗できる力を
 付けるまで、少しでも時間を稼ぐ戦略となった。
  中国と北朝鮮、この二つの共産主義国同士の繋(つな)
 がりは強い。
  ロシアの北朝鮮の影響力は・・ない。
  1990年に、ソ連が、韓国と国交正常化をして以来、こ
 の時の北朝鮮の金日成は、ソ連との関係を「切断」する
 ほどの強い否定的態度をとった。
  その態度は、変わらず続いて、北朝鮮は、完全に中国
 に取り込まれてしまった。
  今、2016年10月にも、フィリピンが、中国の投資・
 金を呼び込むために、中国に取り入れられてしまった。
  しかし、『人民元下落』が長期的視野の中にある現在、
 この問題と共に・・中国は、経済から破綻して行くと言
 われている。
  ここの革命がなければ、『救われない社会』と言われ
 てる。
  そこが、できるか? 否か? が・・大きな岐路とな
 っている。
  プーチン時代になって、改善を図ろうとの動きの中で、
 北朝鮮の金正日が、モスクワへ行く・・その時・・、
  必ず、金正日は列車を使った。
  金日成には、父親譲りの「暗殺への恐怖」があるから
 で、表面的には「飛行機嫌い」とされている。
  金正日が、延々と、シベリア横断鉄道に乗って、そし
 て、列車を乗り継いで、モスクワ参りをした。
  これは、中国に対し、「中国べったりではないよ」と、
 中国をけん制したい気持ちからの行動だった。
  また一方、これは、「列車にする」という不信感が、
 ロシアに対してあることを示している、暗殺されたくな
 いという。
  また、この様な行動で、中国を引き付けるという『中
 国への重要度の高さ』を示している。
  しかし、今・2016年、北朝鮮からの高級幹部のエリー
 ト層の脱北が続いている。
  (読売新聞、2016・10・13)には、「北朝鮮・秘密警
 察幹部が、韓国亡命」とある。
  北朝鮮の秘密警察・国家安全保衛部の局長級幹部が、
 韓国に亡命していたことが分かったと報じている。
  脱北や反体制的活動を監視し、強い権力を持つ国家安
 全保衛部の幹部の亡命は、「異例中の異例」と報じてい
 る。
  今、恐怖政治を進める金正恩(きんじょんうん)・・、
  ロシアの建設現場で働いていた北朝鮮労働者10人が逃
 げ出し、サンクトペテルブルク(ロシア西部のレニング
 ラード州の州都)の韓国総領事館に逃げ込んだ。
  中国レストランの従業員が集団脱北した話もある。
  在イギリス大使館のナンバー2が亡命もあった(8月)。
  中国・北京の北朝鮮代表部の保険省幹部の亡命(10月)。
  今、北朝鮮は、恐怖と粛正で荒れている。
.
.
2002年5月、中国にある日本の瀋陽(しんよう)領事館事件。
  日本の領事館の中は、日本の国内と同じで、中国は、
 侵す事が出来ない、侵犯できない、尊重しなければなら
 ない。
  しかし、しかし、まったく恥ずかしい事件が起きた。
  まったく、日本が馬鹿にされた事件が起きた。
  中国の国家権力の侵犯があった。
  日本の領土侵犯と同じ行為が起きたのだった。
  しかも、この対応が最悪だった。
  当然、この時点で、日本政府は、中国政府へ『厳重抗
 議をするべき』だった。
  しかし、この領事館の敷地内に無断で侵入してきた武
 装警察官に対して、日本の外交官は、何ら抗議も何もし
 なかった。
  逆に、この武装警察官が落した帽子を拾い、「ご苦労
 様でした」と言わんばかりにして、渡してやったのだっ
 た。
  お粗末な外交官である。
  この日本の外交官は、恥ずかしい事に、この領事館の
 副領事だったという・・トップだったからさらに情けな
 い。
  筋を通すことのできない、また、日本を貶(おとし)
 める外交官だった。
  これは、日本の外交姿勢を表わす典型的事例であり、
 これは例外ではない。
  日本の外交は、こんな形で行われている。
  こんな姿勢で行なわれている。
  中国から完全に馬鹿にされている。
  結局、この時、この日本の総領事館に助けを求め、駆
 け込んだ北朝鮮からのこの家族(脱北家族)は、中国政
 府に捕らわれ、連れ去られてしまった。
  安全地帯の日本の総領事館内に逃げ込むことに成功し
 ていたのにである。
  何が原因で、この様な哀れな日本の状態になっている
 のか?
  とことん国と国の状態を突き詰めて行ったとき、中国
 は、何ら、日本を恐れるに足る国ではないと見ているか
 らである。
  「仁」や「徳」を説いた国ではないのである。
  それは、すでに消え去っている国なのである。
  「パワー・オブ・バランス」である。
  これが崩れているのである。
  明確な国際条約(領事関係に関するウィーン条約)違
 反であるが、中国は謝罪しようともしない。
  こんな日中関係なのである。
  互いに尊重するなどという状態にない。
  こんな様な状態なので、可哀想に・・、日本の外交官
 の自殺事件(上海)が起きるのである。
  国際法に則(のっと)り謝罪を求めなくてはならない
 時は、毅然と謝罪を求めなくてはならない。
  謝罪を求めたのか、求めもしなかったのか?・・とい
 うみじめな判然としない、判別できないような『謝罪の
 求め方』では、馬鹿にされはすれ、何の益も無い、
  惨(みじ)めになるだけである。
  この様な日本の姿を「他の国も見ている」のである。
  この様な時に毅然とした日本の態度がなされることに、
 「日本外交の基底」があり、醸成されるのだ。
  大切な所なのだ・・おろそかにできないのだ。
  ここが「貧ずれば、鈍し」、豊かな日本外交が築ける
 はずがない。
  最重要なポイントなのだ。
  この最重要ポイントが、日本は『ないがしろにされて
 いる』。
.
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
.
  題:丸腰で・・一人立つ・・、
.
2005年5月11日、北朝鮮が、寧辺(ニョンビョン)の実験用
 黒鉛減速炉から、『使用済み核燃料棒8000本を取り出し
 た』と宣言し、
  この事によって、東アジア情勢が一気に緊迫の度を増
 した。
  そして、不安視していた道へ進んで行く、
  これが始まりだった。
  六か国協議(2003年8月が第1回~、だが、2007年3月の
 第6回以降開かれず)をやったが、何ら事は解決しなかっ
 た。
  この「北朝鮮の核保持への道」は、北朝鮮を代理とし
 て、中国が進めて来た事だった。
  これは、時を経て、最終的に核を手に入れ・・、
  ロケット技術も手に入れて・・行く。
  その向かう先は「アメリカと日本」だった。
  この技術は、北朝鮮だけでは出来なかった。
  寧辺の原子炉は旧ソ連が造った。
  そして、中国が引き継いだ。
  1970年代末の中国の鄧小平時代以降、旧ソ連に変わっ
 て北朝鮮の核開発を積極的に支援した。
  1990年代以降も、中国は核開発を促してきた。
  アメリカのペンタゴン(米国国防省)の情報部門出身
 で連邦議会上院外交委員会の首席顧問も務め、中国の軍
 事・情報問題分析に定評のあるウィリアム・トリプレッ
 ト氏の本「悪の連鎖、北朝鮮と中国の無法」に示されて
 いる。
  中国は、北朝鮮の動きを完全に掌握している。
  それを、水面下のものとして・・隠した。
  中国は、北朝鮮に大きな影響力を保持している。
  そして、ミサイル開発にも多かれ少なかれ関与して来
 た。
  中国は、秘かに、北朝鮮に手を貸してきた。
  「北は、中国が、アメリカと日本に突き付けた刃(や
 いば)」だと・・トリプレット氏は言った。
  そして、やはり一番は、核のない北朝鮮の国としての
 存続に対する懸念があった。
  核のない北朝鮮に、非常な危うさを感じたのである。
  そこから、国の興廃(こうはい、盛んになるか、衰え
 るか)に大きく関係する核の保持を求め、持たざるを得
 ないという考え・意識に至ったのだった。
  日本も立場は同じ・・、
  丸腰で、周りが銃を持っている者ばかりの中に立って
 いる様なもの・・。
.
.
2014年2月7日、ソチ・オリンピック
  ロシアのソチで、第22回冬季オリンピックが開幕した
 (~2014年2月23日)
  日本のマスコミは、何故か?中国の諜報活動や情報活
 動に触れる事に遠慮している。
  NHKなどは、NHKの局内に、中国のための部屋を
 与えていると言う、特別待遇をしている。
  ソチオリンピックでは、安倍首相が出席されて居るの
 に、「放送したのか?」と疑われるくらいの軽い軽い扱
 いなのに、
  中国首脳の場合は、超アップで、大変な長時間、また、
 中国選手が『エールを送る姿』まで、しっかり日本の放
 送局NHKは放送した。
  まったく逆転している放送局=NHKである。
  まだまだおかしいNHKである??
  そして、何と、この様な事をしろと、日本の外務省の
 動きがあるという?
  日本の官僚からして腐っている。
  自分の仕事を楽にするため「日本を売っている」。
  日本の外務省は、この他でも日本を売っている、曲者
 (くせもの)である。
  是非、日本のために働く、苦労する、安易な日本を売
 る様な事をしない外務省になってもらいたい。
  競う、そして戦う、外務省になってもらいたい。
.
.
2015年4月2日、日本のマスコミが、この頃に、「日本は孤
 立している」というプロパガンダを執拗にした。
  日本のマスコミは、非常に中国寄りになっている。
  特に、朝日新聞が、この頃に、中国のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB)に日本を参加させようと、この論
 調のプロパガンダを盛んにした。
  そして、特に、朝日新聞は、「日本はアジアで孤立し
 てはいけない」と歴史問題などで中国や韓国への迎合や
 譲歩を説いた。
  この様な論理展開する朝日新聞の思考レベルの低さを
 感じる。
  例えば、「日本はアジアで孤立してはいけない、だか
 ら、朝日新聞の論調は、日本のアジアでの孤立を助長す
 るから、今後、朝日新聞の論調のすべてを、今までの論
 調の反対を主張すべきだ」・・という言い方も、成立す
 るのだ。
  朝日新聞というのは、その朝日の言い方は、前段の論
 理を、誰でも分かる、正しい事を言う、しかし、その後
 の後段で、自分の言いたい論調を無理にくっつけるとい
 う言い方なのである。
  うっかりしていると朝日新聞の言い方に引っ掛かって
 しまう。
  極端な言い方にすれば、「砂糖は甘い、だから、塩も
 甘いのである」的な言い方なのである。
  こんな言い方は何でも、いくらでもできる。
  「自動車事故は怖い、だから、安倍政権は怖いのであ
 る」など。
  この様にはっきりしていれば、「おかしい」と、すぐ
 に分かるが、微妙な事項と組み合わせて、この様な言い
 方の記事を書かれると引っ掛かるのである。
  この様な記事を書く朝日新聞なのである。
  「アジアで孤立する」ような状況は、誰もが良くない
 と容易に判断できる。
  しかし、日本の立場を説明もしないで、迎合や譲歩を
 良しとする、その様な論理を説く朝日新聞は間違いであ
 る。
  「正しい意見を、考え方を、丁寧に分かりやすく説き
 なさい」というべきなのだ。
  朝日新聞こそ、いつも、偏頗(へんぱ、かたよってい
 て不公平なこと)なものの言い方・論調は止めて、他の
 正論に耳を傾け、迎合・譲歩をしなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-02-02 07:11 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月15日、大槻文彦著の「言海 (第一冊)」が発刊さ
 れた。
  最初の近代的国語辞書で、後に、大言海となる。
  1875年(明治8年)2月に起草(きそう、草稿を書くこと)
 し、
  1884年、脱稿して、これを4分冊にして
  1889年5月、この時に、第1版を刊行した。
1889年5月16日、宮内省図書寮付属博物館を廃止し、帝国博
 物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置した。
  官制が成って、初代の博物館総長に九鬼隆一を任命し
 た。
1889年5月21日、最初の市会議員選挙、
  東京において本日より3日間行われた。
1889年5月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が開通した。
  この時の開通式で香川県議の大久保諶之丞が祝辞で瀬
 戸大橋の架橋を提唱した。
1889年5月28日、地久節(ちきゅうせつ)の御儀が初めて行
 われた。
  地久節は、皇后陛下の誕生日の旧称。
  老子の「天長地久」による語で、天皇陛下の誕生日の
 旧称である天長節(てんちょうせつ)に対する名称。
  地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では、
 学業を休んで奉祝式を催すようになった。
  以来、昭和に至るまで続いた。
1889年5月31日、6月2日にかけて、雑誌「日本」にロンドン
 =タイムスに掲載された大隈条約改正案が翻訳されて、
 掲載され、波紋を引き起こした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:愚かなる・・第二次世界大戦への道程・・そして、今のアメリカは・・??
.
1899年、アメリカが、「中国の門戸解放を宣言した」。
  これは、遅れて来たアメリカが、中国に参入したいと
 いう宣言だった。
  この様な「言い方」や「書き方」からは、事実が見え
 にくいが、これは「アメリカが中国に参入し、中国の旨
 (うま)い汁を吸いたいという宣言」だった。
  中国を「アメリカの利益を生み出す地にしたい」だっ
 た。
  中国市場参入を狙ったアメリカなのだった。
  それは、日露戦争前の極東では、清国の義和団の乱が
 収まると同時に、『 ロシアの満州支配 』が強まって
 いた。
  アメリカは、この動きに対抗した1899年の「門戸開放
 宣言」だった。
  ロシアに強く反発した。
  1904年に日露戦争が開戦すると、
  強まるロシアの力を抑止するため、『日本を応援』し
 た。
.
1906年、日露戦争に勝利した日本に、満州がロシアから移
 譲(いじょう、権限や権利、財産などを他に譲り移すこ
 と)された。
  この時のアメリカ大統領は、第26代大統領のセオドア・
 ルーズベルトだった。。
  アメリカは、中国を美味(おい)しい市場としたかっ
 た・・しかし・・、
  1899年に、アメリカは、中国市場の門戸開放をしろと
 宣言していた。
  出遅れていたアメリカのアピールだった。
  ヨーロッパ列強諸国、および、ロシアは、すでに、中
 国を美味しい市場としていた。
  イギリスは、あくどい麻薬のアヘンを使ってまでして、
 吸い取る限りの利益を中国から得ていた。
  満州は、ロシアの市場となっていた。
  そして、日露戦争が始まると、アメリカは、日本を支
 援した。
  しかし、日露戦争に日本が勝利すると、満州が、ロシ
 アから日本へ『移譲』された。
  「アメリカさん・・どうぞ・・」とは、ならなかった。
  日本は、中国政府とも条約を結び、満州に日本から資
 本を持って行って・・投じ、満州経営を始めた。
  アメリカの思惑と違った。
  ここが、アメリカには面白くなかった。
  白人植民地に入って来た新参の有色人種の日本となっ
 た。
  新興国の日本だった。
  ここのポイントからが、最終的に第二次世界大戦へ通
 じて行くことになる。
  日本がドアボーイの如く・・満州へ招き入れる日本の
 振る舞う事を、セオドア・ルーズベルトは期待していた。
  「満州のドアから入って来なさい」にはならなかった。
  満州から美味しい汁が来るとはならなかった。
  逆に、今、美味しい汁を吸っているアメリカの植民地
 のフィリピンが、日本にとられるという、脅威と感じる
 る『日本の見事な日露戦争の勝ち方』だった。
.
20世紀初頭、アメリカの西海岸地域に『黄禍論』という日
 本人差別が吹き荒れた。
  そのたびに、日米両国は、鋭い緊張関係に陥(おちい)
 った。
.
1906年、セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)
 が、日本との将来対決を意識した。
  そして、『対日戦争の準備』を始めさせた。
  この年に、対日戦争計画である『オレンジ計画』の準
 備を指令した。
  日露戦争の翌年のこの年、その指令を出した。
  このセオドア・ルーズベルトは、フランクリン・ルー
 ズベルト(第32代アメリカ大統領)と従兄弟関係にある。
  また、アメリカの大学生の歴史教科書に使われている
 「アメリカ外交史」(ロバート・ファレル著)には、
 「日露戦争こそが日米対立の序曲」と論じられている。
.
1933年3月14日、第32代アメリカ大統領に就任したてのフラ
 ンクリン・ルーズベルトが、閣僚会議で日本との戦争に
 ついて論じた(就任して10日目)。
  アメリカの日本の見方の転換は、「日露戦争後」にあ
 った。
  日露戦争後は、アメリカは、常に、日本を軍事的、経
 済的ライバルと意識してきた。
  それまでは、東洋の小国、近代化を一生懸命にやって
 いる発展途上国と見て来た。
  だから、日露戦争の時は、アメリカは、日本にとって
 良いタイミングで戦争の仲介をしてくれた。
  しかし、日露戦争後にその見方が変わった。
  それまでと変わって・・「ライバル国・日本」となっ
 た。
  1933年3月14日、ルーズベルトは、大統領就任後二回目
 の閣僚会議を開いた。
  この時、早くも、ルーズベルトは、日本との戦争につ
 いて論じた。
  前置きは・・「日本人が(マレー半島の)ジョホール
 から、中国の万里の長城まであふれるだろう」という言
 葉から始まった。
  そして、「できれば戦争を避け『兵糧攻め(経済制裁)』
 によって屈服させる方針をとりたい」と、
  しかし、戦争になった場合は、「陸軍は役に立たない。
  太平洋を挟んだ戦争は、海軍が主力になるためハワイ
 を基地とし、
  さらに、アリューシャン列島から日本本土を空爆すべ
 きだ」・・と、熱心に論じた。
.
1938年、日本は、中国のすべての港の封鎖に成功し、海上
 からの補給が出来なくすることに成功した、1838年の後
 半の事だった。
  この頃、あまりにも、アメリカなどの一方的な戦争介
 入が酷かった。
  ルーズベルトの頭にあったことは・・先に銃を抜く「
 農夫」だった。
  その農夫の「肩を持つ(かたをもつ)」わけではない
 が・・、
  その農夫の人格をも口汚く、品なく、あらん限りの悪
 口を言う「金持ち牧場種に雇われた銃の早撃ちの殺し屋」。
  とうとう、その農夫は耐えきれなくなり銃に手を掛け
 る。
  それを「待ってました」と早撃ちの殺し屋は、銃など
 持ったことのない農夫が銃を半分抜いたところで、農夫
 の心臓を撃ち抜いた。
  正当防衛だという。
  法律違反ではない人の殺し方で、金で雇われた殺し屋
 は依頼主の要望に応えた。
  アメリカは、この様な卑劣なファイトバックを歴史の
 あちこちでやっている。
  メキシコもやられた。
  領土を取られた。
  散々メキシコを虐めて・・メキシコが立ち上がったら・・
 これでもかというほどに・・「やっつける」。
  また、ドイツの・・、ナチスのヒトラーの肩を持つ訳
 ではないが・・、
  返済しても、返済しても、まだまだあるという膨大な
 借金を戦争に打ちひしがれて、「言い訳や反論もできな
 いドイツ」に、一方的に戦争に勝った者として押し付け
 た戦勝国。
  返済しきれない借金を、重い重い借金を敗戦国に背負
 わせた戦勝国。
  ここに・・正義は・・あるのか?
  正当性は・・あるのか?
  出来ないことを背負わせた方が、当然、悪いのである。
  出来ないことは、当然、言ってはいけないのである。
  暴力的に押し付けたあなたが悪い。
  そこには・・キリスト教の教義の復讐(ふくしゅう)
 の悪意しかない。
  そこからは、ヒトラーという人間も出て来るだろう。
  その様に仕向けた・・君たちに責任があるのだ。
  その責任の重さを分からないか?
  自分たちの責任に口をつぐんで、吐露しないで、謝罪
 しないで、懺悔しないで・・、
  次の世代の子供たちへ問題を先送りした・・
  この卑怯な自分たちの態度・行動を反省しないか?
  卑怯だと思わないのか?
  その自責の念は生まれないか?
  真の責任者は、君たちではないのか・・?
  日本も、長い期間、仕組まれていたのだった・・卑劣
 なアメリカ大統領のルーズベルトが仕組んでいた。
  知らないうちに、中国で、秘密裏に、アメリカは宣戦
 布告していた。
  ルーズベルトは「義勇軍だと、嘘のレッテルを貼って、
 『日本と戦え』と命じていた」(何だって・・レッテル
 は貼れる)。
  この時に、第二次世界大戦の開戦がなされた。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦だった。
  これは、アメリカの日本に対するれっきとした『奇襲』
 だった。
  世界遺産に登録せよ!!
  1938年、日本は、中国沿岸の港のすべてを閉鎖するの
 に成功した。
  アメリカは、海洋からの中国への補給が出来なくなっ
 た。
  アメリカは、中国の蒋介石を援助しようと「援蒋ルー
 ト」を仏印(ベトナム、ラオス、カンボジア)に、無断
 で作った。
  国家の主権の侵害である。
  侵略行為である。
  侵略行為をしてまでして、アメリカは戦争に介入して
 来た。
  そして、アメリカは、秘密裏に、アメリカ正規軍まで
 この地点に上陸させて、派遣した。
  日本は、当然、このアメリカの仏印の武器弾薬の供給
 ルートを遮断したいとなる。
  日本は、真珠湾で、あたかも先に銃を抜いたように見
 せかけられた。
  卑劣なアメリカのルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣
 伝)であった。
  真珠湾攻撃を知り・・ルーズベルトは「戦争を作った」
 と言った。
  そして、「シャローム」のキリスト教教義の様に、「
 完全破壊の原爆投下と、
  やはり、「シャローム」のキリスト教教義の「無条件
 降伏」を日本に突き付けた。
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトのやりたい
 ことだった。
.
1943年8月11日、第一次ケベック会談(~1943年8月24日)
  実質、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチ
 ャーチル首相の会談(秘密会談)。
  カナダのウイリアム首相も加わった(カナダは、正式
 な参加国ではない)。
  イタリアの枢軸国からの脱落も話し合われた。
  日本は、ドイツ降伏後に、12か月以内に降伏させると
 した。
  中国の「援蒋ルート(中国の蒋介石に武器と金を援助
 するルート)」を強化する事についても話し合われた。
  ソ連と蒋介石の中国へも連絡された。
  また、反英運動が激化しているパレスチナについても
 話し合われた。
  核兵器の開発についても話し合われ、核兵器技術の共
 有に合意し、合意書が作成された。
.
1945年4月12日、ルーズベルト、脳出血で死去する。
  この日に、第32代アメリカ大統領フランクリン・ルー
 ズベルトは死んだが・・、
  ルーズベルトの妻エレノアによると、ルーズベルトは、
 「戦後は、社会主義的な世界になる」と予測していた。
  そして、スターリンが「アメリカとソ連が、いずれ立
 場を同じにする」と話したことに希望が湧いたという。
.
1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要(かな
 め)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、ホ
 ワイトら政府内の情報員の活動実態について証言した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それだからか、何故か? ルーズベルトの政策がおか
 しかった。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
.
1947年、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリ
 スの哲学者、バーバード大学教授、また、ケンブリッジ
 大学教授などを歴任、1861年~1947年)氏は言う・・、
  「私は、アメリカ人を3つに分けて考える。
  最初の3分の1は、まともで正直で優秀な人たち。
  次の3分の1は、善良であるけれど、それほど優秀でな
 い人たち。
  残りの3分の1のアメリカ人は、クリミナル(犯罪者〉
 だ」・・と。
  実際、アメリカ人の3人に1人は、「ケロッと嘘を付く」、
 その様な人が多い。
  この様な国民性だから「訴訟社会」となっている。
  ワシントンが、「桜の枝を折った」と正直に言ったぐ
 らいで大騒ぎに褒めちぎる・・その様な国。
  アメリカは、知的真剣さを持つ優秀な人もいるが、犯
 罪者タイプの狡猾で冷酷で偽善者的な人が多い。
  日本人は「誠実」「誠意を示す」を大切にしているが、
 その様な「日本人の誠意」は通じない。
  シニカル(冷笑的、嘲笑的、あざ笑う)に利用される
 だけ・・。
.
1953年11月に、アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官
 が・・、
  アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
.
1953年(昭和28年)11月16日、ハリー・トルーマンは、ア
 メリカ大統領職を退(しりぞ)いた後も、全米に向けて、
 ラジオで言い訳し、説明しなければならない事があった。
  それは、ルーズベルト時代に蓄積された負の遺産の清
 算を迫られたからだった。
  急に、ルーズベルトから引き継いだ大統領職に就いた
 トルーマンは、ルーズベルトの悪が清算されないまま、
 引き続いて政治をやってしまっていた。
  ルーズベルト政権内には、ソ連の息のかかった人間が、
 うようよと居た。
  ソ連の巧妙なスパイ網となっていた。
  それが白日の下になると、アメリカ国民の方々は厳し
 く批判した。
  日本やドイツに厳しい制裁案を書いたり、そして、当
 時の財務長官のモーゲンソーの右腕で、そして、トルー
 マンも重く用いられて来ていた、そして、出世までさせ
 ていた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトも『
 ソ連のスパイ』だった。
  ホワイトは、消されたのか?・・米下院非米活動委員
 会の喚問を受けた直後に、心臓麻痺で死去した。
  国際通貨基金(IMF)の初代・米国理事をしたり・・
 「ブレトンウッズ体制」を作ったりした功績のあった人
 物だった・・が・・、
  そして、その他にも・・ルーズベルトが、推し進めた
 ニューディール政策の推進者の中にも、特に、多くのソ
 連スパイがいた。
.
2010年、そして・・今のアメリカ・・、
  グローバル化の制度の下で、貧富の格差は広がってい
 る。
  アメリカは、富める者を、「より富ませる政治」をや
 っている国。
  アメリカで、1980年から2010年までの30年間で、所得
 の低い下層(40%)の人々の所得は『減少』した。
  また、40%~60%の中間層の人々は『停滞、動かず』
 だった。
  豊かになった人々は、上層20%の人々だけだった。
  アメリカの株式の半分以上は、「最上層の1%」の人が
 所有している。
  この層が豊かになることに、アメリカの政治は集中し
 た。
  アメリカ政府が、「労働者の利益を上げる」と言った
 が・・??・・まったくの空論で、嘘だった。
  事態は・・空転していた。
  政府は、多額の『政治資金』を豊かな層から受け取っ
 て来ていた。
  そして、その層が豊かになる・・、その層に応える政
 策を行なった。
  貧富の差は・・拡大した。
  MITの経済学者のフランク・レビイらは、「これは、
 アメリカ経済の制度(グローバル制度)から来るものだ
 と説明した。
  それで・・、
  勤労者の経済的貢献が、反映していない仕組みとなっ
 ている・・と、
  (勤労者は、しっかり働いているが、制度が悪いから、
 この勤労の結果が反映しないで、この実態となっている)」
 ・・と・・、
  つまり、勤労者が、一生懸命に働いても、制度的なこ
 とから、上層に吸い取られてしまう・・と・・、
  また、1950年代~1970年代初期の約20年間で、アメリ
 カの大企業500社の会長の年収は、平均的労働者の20倍~
 30倍だった。
  しかし、1980年代からこの格差は、拡大し始め・・、
  アメリカ政府は・・貧富の格差が拡大する政策を露骨
 にやっていた。
  2000年には、何と! この格差は、525倍となった。
.
2016年、アメリカの上院議員のジェームス・ウェブ氏(ア
 メリカ上院外交委員会・東アジア・太平洋小委員会委員
 長など歴任)は言う、
  「アメリカに、貧富の差がこんなに拡がると、大変な
 ことになる。
  そのうち、アメリカ政治は、『動乱期』に入るのでは
 ないか」・・と・・、
  このウェッブ氏は、海軍士官学校卒の職業軍人で、正
 直な人だという。
  そして、彼は、アメリカの民主党が、陰で、金融業者
 (ゴールドマン・サックスなどという)に繰られている
 事に、非常に怒り、そして、嫌っていると表明した。
.
2016年以降、アメリカ連邦議会の予算局は、「2016年以降、
 アメリカの財政は、どんどん悪化していく」と見ていて、
 『国防予算を削るしかない』・・と、している。
  アメリカの政治家たちも、同じ見方で・・、
  アメリカの安全保障の最大の敵は、『財政難だ』と言
 っている。
  「予算を削減するところは、ここしかない」・・と・・、
  日本は、アメリカの日本での軍事費の75%を負担して
 いて、ドイツや韓国の負担割合の2倍から4倍と、超高率
 な負担を要求されている状況にある。
  アメリカの軍事費が縮減すれば、アメリカの軍事的な
 勢力圏は縮小せざるを得なくなる。
  その隙間に、中国の拡大となる・・その様な時代とな
 っている・・、
  アメリカの縮小の時代において・・日本の安全は、放
 っておけない『大問題』と・・なっている。
  手遅れにならないうちに、対応は・・急(いそ)がれ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-31 02:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月10日、会計検査院法が公布された。
  歴史・・、
  1969年(明治2年)太政官(内閣の前身)のうちの会計
   官(財務省の前身)の一部局として設けられた監督
   司を前身とした。
    その後、検査寮、検査局と名称を変えた。
  1880年(明治13年)太政官に直属する財政監督機関と
   して誕生。
  1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布され、憲法
   に定められた機関となった。
    以後、約60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁
   として財政監督を行って来た。
  1947年(昭和22年)日本国憲法が制定され、憲法第90
   条の規定を受けて、現行の会計検査院法が公布され、
   施行された。
    会計検査院は、同法によって内閣に対し独立の地
   位を有するものとされた。
    改正点は、国会との緊密性、検査対象の拡充、検
   査結果の行政への、即、反映。
    (会計検査院ホームページを参考にした)
1889年5月11日、東京乗合馬車会社が創立された(1888年5月
 説あり)
  東京馬車鉄道株式会社の資料は多いが、この東京乗合
 馬車会社の資料は、下記の1点が発見された。
  菊川町(現:墨田区菊川のあたり)にこの乗合馬車の会
 社はあった。
  墨田区で著名な小島惟孝氏の「墨田の町々」によると、
  1889年(明治22年)5月の中外商業新聞(現在の日本経
 済新聞)に、
  「本所区菊川町二丁目の東京乗合馬車会社は、昨年(
 1888年)五月十一日其筋より設立の許可を得・・馬車も
 江木社長が英国にて購入し来りたる分三十両丈到着した
 るを以て、
  既に此の程より仮営業を始めしが・・」とみえ、
  菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋にで
 て、九段まで通じていた。
  市電が開通する三十五・六年まで繁盛した。
  今でも二之橋から北へ二本目の通りを「馬車通り」と
 いう愛称で呼んでいる・・とある。
  因みに、「東京馬車鉄道株式会社」の記述は・・、
  欧米視察の後、鉄道馬車の必要性を痛感して帰国する
 人は多く、第三十三国立銀行の種田誠一氏も、その一人
 だった。
  視察後に、他3名の発起人を含めて1880年(明治13年)
 「東京馬車鉄道株式会社」を設立した。
  馬180頭と馬車30両を収納する車庫兼厩舎が必要なこと
 から本社地の選定に苦心した。
  当時も、過密都市「東京」で、容易なことではなかっ
 た。
  民有地は無理と判断し、秋葉原の火除地や、上野駅周
 辺(駅がまだ作られていなかった頃)の借用を願い出た。
  しかし、これは許可されず、結局、汐留の鉄道局構内
 を借用することで許可が下りた。
  当時の鉄道局だった。
  出願したルートは下記の3路線。
  1、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(御成り通り)
   ~上野公園~浅草広小路
  2、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(大伝馬町通
   り)~浅草橋~浅草広小路
  3、新橋停車場~新橋~京橋~(日本橋東仲通り)~
   江戸橋~(馬喰町通り)~浅草広小路
  1882年(明治15年)6月25日、新橋~日本橋間で、最初
 の営業が開始された。
  停留所は、基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、
 途中の停留所は存在せず、利用者が降りたいところを車
 掌に告げれば下車できた。
  乗車の際も手を上げれば乗れた。
  そして、1882年の同年10月に、新橋~日本橋~上野~
 浅草~日本橋~新橋というP字形の環状線も竣工し、
  1882年12月3日に、盛大な開業式が行われた。
  1899年、品川馬車鉄道会社を吸収合併し、路線を品川
   まで延長した。
  1900年(明治33年)電車への動力変更の特許を得て、
   社名を東京電車鉄道株式会社に改称した。
  1903年(明治36年)電車に転換するまで、約20年間、
 営業された。
  ある下町っ子の東京馬車鉄道の回想・・、
  「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴
 を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、
 汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りまし
 たが、
  今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡(ちょっ
 と)言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手
 気侭に停めてくれました。
  馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈
 に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、
 はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘ、
 をさめるのでありましたが、
  狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。
  思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主
 府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関で
 あったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします」
 (喜多川浅次著『下町物語』)
  この馬車鉄道が、最盛期には、300輌の車両と2000頭の
 馬を擁し、毎日、東京の中心地を馬糞まじりの砂ぼこり
 を蹴立てて往復しつつ、
  巨大な利潤をあげ、株主には、毎季3割5分の配当を行
 う我が国でも数少ない超優良企業であった。
  (東京都公文書館を、一部、参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が第二次世界大戦を開戦するまで、いったい、何があったのか?
    開戦前の状況を見る(1940年~1941年)・・、
.
1940年1月12日、ソビエト連邦がフィンランドの各都市を空
 襲した。
1940年1月21日、浅間丸事件
  千葉・房総沖で、イギリス軍艦が浅間丸を臨検し、ド
 イツ人船客21人を拉致した。
  このため反英気分が再び強化した。
1940年2月16日、ノルウェー領海で、イギリスとドイツが軍
 事衝突(アルトマルク号事件)
1940年3月12日、ソビエト連邦・フィンランド講和条約が
 モスクワで調印された(冬戦争終結)
1940年3月20日、フランス・ダラディエ内閣辞職。レノー
 内閣が成立した。
1940年3月30日、汪兆銘(おうちょうめい)が、南京で親日
 政府樹立(南京政府)
  政府発足後、イタリア、タイ、フランス、満州国、バ
 チカンなどが国家承認した。
1940年4月9日、ドイツ軍が、デンマーク王国・ノルウェー
 王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏。
1940年5月10日、ドイツ軍が、オランダ王国・ベルギー王国・
 ルクセンブルク大公国・フランスに侵攻開始(ナチス・
 ドイツのフランス侵攻、オランダの戦い)
1940年5月10日、イギリスが、アイスランドに侵攻した。
1940年5月15日、オランダがドイツに降伏した。
1940年5月18日、日本が、重慶を空襲した。
1940年5月28日、ベルギーがドイツに降伏した。
1940年6月3日、ドイツ軍がパリを空襲した。
1940年6月4日、ドイツ軍がダンケルクを占領した。
  抱囲されていた英仏軍の大半が脱出に成功した(ダン
 ケルクの戦い、ダイナモ作戦)
1940年6月5日、ドイツ軍がフランス総攻撃を開始した。
1940年6月7日、ノルウェー国王のホーコン7世が、イギリス
 に亡命した。
1940年6月9日、ノルウェー国王が、イギリスより対独抗戦
 中止を命令した。
1940年6月10日、イタリアが、イギリス・フランスへ宣戦
 布告した。
1940年6月10日、アメリカのルーズベルト大統領が、イタリ
 アの対応について「背中から刺すようだ (Stab in the
 Back)」と非難した。
1940年6月10日、ノルウェーがドイツに降伏した。
1940年6月11日、フランス政府がトゥールに移転した。
1940年6月13日、フランス軍がパリから撤退した。
1940年6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城した。
  フランス政府はボルドーに移転した。
1940年6月15日、イタリア軍が、フランス領に侵攻した。
1940年6月15日、ソ連軍がリトアニアに進駐を開始した。
1940年6月16日、フランスのレノー内閣が辞任し、ペタン元
 帥が首相に就任した。
1940年6月17日、フランスが、ドイツに敗北した。
  フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議した(正
 式調印6月22日)
1940年6月17日、ソ連軍が、ラトビア・エストニアに進駐を
 開始した。
1940年6月18日、フランスのド・ゴール将軍が、自由フラン
 スとして、ロンドン放送で、対独抗戦継続を呼びかけた。
1940年6月19日、日本が、中国への武器供給を中止するよ
 う求めた。
  『援蒋ルート』の閉鎖を要求した。
  日本は、フランス領インドシナ政府(フランス)に対
 し、アメリカが中国・蒋介石を援助して大量に無制限な
 武器と金を供給していた行為のルートとなっていた「援
 蒋ルート」を閉鎖するように要求した。
  しかし、このルートからの中国への供給が止まらない
 ため、日本は、このルートによる供給を止めるために、
 この地域に、1940年7月28日に進駐した(フランス政府は、
 1940年7月19日に、日本の要求を受け入れるとした。
  フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍
 は、シャルル・アルセーヌ=アンリー駐日フランス大使
 の助言を受け、仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問
 団(西原機関)の受け入れを了承した。
  また、アルセーヌ・アンリー大使との協議においても
 8月末に交渉を妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。
  日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フラン
 ス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらに、これ
 にフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏
 印との経済関係強化が合意された。
  しかし、アメリカは、仏印に上陸している自分の行為
 を棚に上げて、日本の上陸を侵略だとした。
  そして、これを、第二次世界大戦の開戦理由の一つに
 した。
  アメリカこそ、アメリカ正規軍や武器をこのルートに
 先に上陸させている。これこそ侵略行為だ。
  因みに、この2日前の6月17日に、フランスは、枢軸国・
 ドイツに敗北し、独仏休戦協定が締結されている。
  当然、休戦協定を受入れたフランスは、援蒋ルートを
 使う連合国・アメリカの行為を是認しない方針となって、
 日本の方針を了承した。
1940年6月19日、日本がフランスに対漢援助禁止を要求した。
1940年6月22日、独仏休戦協定が調印された。
1940年6月25日、アメリカの援蒋ルートの中国への武器援助
 ルートを閉鎖するため、南部仏印への進駐が決定された。
1940年6月27日、伊仏休戦協定が締結された。
1940年6月28日、ソ連がルーマニア領に進駐した。
1940年7月、アメリカが、「両洋艦隊法」を成立させた。
  この法律によって、予算措置がなされ、大西洋、太平
 洋の両洋で、ドイツや日本に対抗する海軍建設が決定さ
 れた。
  もう、この頃から、アメリカ大統領のルーズベルトは、
 日本を完全に仮想敵国として、戦う準備を始めていた。
  この計画は、モンタナ級戦艦5隻 (航空母艦建造に集
 中するため、のち建造中止)、アイオワ級戦艦2隻(航空
 母艦建造に集中するため、のち建造中止)、航空母艦18
 隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻,、巡洋艦 27隻,、駆逐艦
 115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇建
 造、15,000機の航空機製造などが決定された。
1940年7月2日、フランス政府がヴィシーに移動した。
1940年7月3日、イギリス艦隊が、アルジェリアのオラン港
 のフランス艦隊を撃滅した。
1940年7月5日、フランス政府(ヴィシー)がイギリスとの
 国交を断絶をした。
1940年7月10日、ドイツ軍によるイギリス本土空襲が開始さ
 れた(バトル・オブ・ブリテン)
1940年7月11日、 フランスのルブラン大統領が辞職した。
  ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出された(
 第三共和政終了)
1940年7月19日、ドイツ・ヒトラーがイギリスに和平を求め
 る国会演説を行った。
1940年7月21日、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立
 した。「社会主義共和国」であると宣言した。
1940年7月23日、 サムナー・ウェルズ(アメリカ国務次官)
 がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言した
 (ウェルズ宣言)
1940年7月27日、南進政策を決定した。
  大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処
 理要綱」を決定した。
  日本は、世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善
 し、速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機
 を捕捉し対南方問題を解決す。
  支那事変の処理いまだ終わらざる場合において、対南
 方施策を重点とする態勢轉換に関しては、内外諸般の情
 勢を考慮しこれを定む。
  右二項に對処する各般の準備は極力これを促進す」
「仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の
 徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、
 軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必
 要なる資源の獲得に勉む。情況により武力を行使するこ
 とあり」
1940年8月20日、八路軍(中国・華北のすべての共産党系の
 軍)が、日本を大々的に攻めて来た。
  大攻勢の状態(百団大戦、~ 12月5日)。
1940年8月末、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アン
 リー大使との間で日本とフランスの協力について協議が
 開始された。
  8月末に、交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結さ
 れた。
  ・フランス領インドシナへの日本軍の進駐の承認。
  ・極東における日本とフランスの利益を相互に尊重。
  ・仏印においてフランス側が可能な限りの援助を行う。
  ・日本と仏印との経済関係強化。
  以上がが合意された。
1940年9月7日、クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロ
 ジャをブルガリアに割譲した。
1940年9月22日、日・仏印軍事協定成立(9月23日説あり)。
  この日、現地の両軍司令部間(西原一策・アンリ・マ
 ルタン)での軍事協定(西原・マルタン協定)が締結さ
 れた。
  翌日の9月23日より正式進駐が開始された。
1940年9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐を開始した。
  日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印
 進駐)
  一部で交戦となったが、ドクー総督の指令で、9月25日
 に停戦した。
1940年9月23日、イギリス軍が、西アフリカのフランス領へ
 侵攻した。
  フランス軍に撃退された。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結された。
  アメリカは第二次世界大戦に参戦していなかったが、
 この三国同盟はアメリカを硬化させた。
1940年10月3日、フランス政権(ヴィシー)が、ユダヤ人並
 びに外来者に対する法を可決した。
1940年10月12日、三国同盟に対する対抗措置を取るとアメ
 リカが表明した。
1940年10月12日、ドイツ軍が、ルーマニアに進軍を開始し
 た。
1940年10月16日、アメリカが、くず鉄の対日禁輸を決定し
 た。
  また、援蒋ルートとしては、イギリス領ビルマのビル
 マ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。
1940年10月27日、メキシコが、対日禁輸を解除した。
1940年10月28日、イタリア軍が、ギリシアに進軍を開始し
 た(ギリシャ・イタリア戦争)
1940年10月28日、ドイツのヒトラーと、イタリアのムッソ
 リーニが会見した。
1940年11月5日、アメリカ大統領選挙で、フランクリン・ル
 ーズベルトが3選された。
1940年11月11日、イギリス海軍が、空母艦載機によりイタ
 リアのターラント軍港を攻撃した(タラント空襲)
1940年11月13日、御前会議で日華基本条約および支那事変
 処理要項を決定した。
1940年11月14日、ドイツ軍が、イギリス中部の都市コヴェ
 ントリーを空襲した。
1940年11月20日、ハンガリーが、枢軸国に加入した。
1940年11月22日、トルコ全土で戒厳令が敷かれた。
1940年11月23日、ルーマニアが、枢軸国に加入した。
1940年11月23日、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発
 した。日本が仲介役となる。(11月5日説あり)
  11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の
 国境紛争が勃発した(タイ・フランス領インドシナ紛争)
  陸上での戦いでは、タイが優勢だったものの、海上で
 の戦いでフランス側が勝利した。
  タイとフランスは、第三国に仲介を求めていたが、ア
 メリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として、
 日本が仲介役を行うことになった(1941年5月9日、東京
 条約締結、タイ王国とフランス領インドシナ間の合意)。
1940年11月24日、スロバキアが、日独伊三国条約に加入し
 た。
1940年11月27日、ルーマニアで、イオン・アントネスクに
 よるクーデターが起きた。
  ニコラエ・ヨルグを含む、亡命中の旧国王カロル2世の
 支持者60人以上が逮捕・処刑された。
1940年11月30日、日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日
 清通商航海条約破棄)
1940年12月18日、ドイツのヒトラーが独ソ戦(バルバロッ
 サ作戦)の準備を命令した。
1940年12月28日、アメリカは、この時すでに、武器貸与を
 考えていたが、この日、アメリカ大統領のルーズベルト
 は、炉辺談話(ルーズベルトが行ったアメリカ国民向け
 のラジオ演説)で、「民主主義の兵器廠」発言を行い、
 連合国への支援意図を強調した(12月29日説あり)。
1941年1月2日、日本海軍航空部隊が昆明を爆撃した(〜3日)
1941年1月6日 - アメリカ海軍が 戦艦ミズーリを起工した。
1941年1月7日、皖南事変(かんなんじへん)。
  中国・国民党軍が、移動中の新四軍(国民革命軍新編
 第四軍)を包囲し攻撃した(第二次反共攻勢)
1941年1月10日、独ソ不可侵条約更新
1941年1月17日、国民政府が新四軍に解散命令
1941年1月18日、欧州航路最終の貨物船「だあばん丸」が横
 浜に帰港した。
1941年1月20日、中国共産党が新四軍を再編
1941年1月21日、松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を
 申入れ、両国受諾
1941年1月22日、中国共産党が皖南事変に抗議し、国民政府
 に国共調整臨時弁法12条を要求した。
1941年1月31日、日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し、
 停戦協定を妥結した。
1941年2月1日、第1回東亜児童大会を開催した。
  「大東亜共栄圏諸国」の児童約2,800人を招待され、東
 亜共栄圏の児童による合唱、芝居などが催され、楽しん
 だ。
1941年2月3日、対独伊ソ交渉要領が決定した(日ソ国交調整)
1941年2月7日、タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催され
 た。
1941年2月14日、野村駐米大使がルーズベルト大統領と会談
 した。
1941年2月15日、堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と会談し
 た。
1941年2月28日、タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引
 揚げが準備された。
1941年3月8日、野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉を
 開始した。
1941年4月3日、ロンメル将軍のドイツ軍が、北アフリカ戦
 線でイギリス軍を撃破した。
1941年4月6日、ユーゴスラビアが、ソビエト連邦と不可侵
 条約に調印した。
  ドイツが、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻した(ユ
 ーゴスラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
1941年4月13日、日ソ中立条約が成立した。
1941年4月17日、ユーゴスラビアがドイツに降伏した。
1941年4月23日、ギリシャがドイツに降伏した。
1941年5月8日 - 東京条約が締結され、タイ・フランス領イ
 ンドシナ紛争が終結した。
  1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領
 インドシナからカンボジアとラオスの一部地域を、タイ
 に割譲するという合意が成された。
  これは、領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アン
 リー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受
 け入れた。
1941年5月19日、越南独立同盟(ベトミン)が成立した。
1941年5月27日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没した。
  エルンスト・リンデマン艦長は、甲板に残りビスマル
 クと運命を共にした。
1941年5月27日、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトが、国
 家非常事態宣言を発令した。
1941年6月、オランダ領東インド政府との交渉が決裂した。
  主要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規
 制により、日本は資源の供給先を求めることになった。
  対象としてあげられたのはオランダ領東インドであっ
 たが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に
 参加する可能性も懸念されていた。
  日本は、オランダ領東インド政府に、資源の提供を求
 めたが叶わなかった。
  軍首脳から資源獲得のために南部仏印への進駐が主張
 されるようになった。
  また、援蒋ルート遮断も行なわざるを得ない事項だっ
 た。
1941年6月14日、16,246名のリトアニア人がソビエト当局に
 よってシベリアへ強制追放された(~6月18日)
1941年6月22日、ナチス・ドイツが、ソビエト連邦に対して
 攻撃開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦が始まった。
1941年6月25日、南部仏印への進駐が決定された(南方政策
 促進ニ関スル件)
  6月30日、原案通り南部仏印進駐を行うことが決定。
1941年6月26日、フィンランドがソビエト連邦に対して宣戦
 布告した(継続戦争)
1941年6月27日、ハンガリーが、ソビエト連邦に対して宣戦
 布告した。
  ユーゴスラビアのチトーがパルチザンを組織し、ドイ
 ツ軍に対するゲリラ戦を開始した。
1940年6月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領が国防
 力強化のため、科学者動員令を発令し、科学研究開発局
 を設置した。
1941年6月30日、対ソ戦を拒否。
  ドイツが、日本に対して対ソ参戦を申入れた。
  日本は拒否した。
1941年7月5日、駐日イギリス大使のロバート・クレイギー
 が、日本の南進について外務省に懸念を申し入れた。
  日本側は情報漏洩に驚いた。(アメリカによる諜報)
1941年7月7日、アイスランドにアメリカ軍が駐留した。
1941年7月12日、英ソ相互援助協定締結
1941年7月14日、加藤外松駐仏大使が、フランス政府の副首
 相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐
 の許可を求めた。
  この日、加藤外松駐仏大使が、ヴィシー政府副首相の
 フランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可
 を求めた。
  フランス政府は、7月19日の閣議で、日本側の要求を受
 け入れることを決定した。
1941年7月18日、第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎)
  戦後になって、マッカーサーが、フーバー前大統領と
 会談した時、マッカーサーは言った・・、
  「ルーズベルトは、1941年夏に、日本側が模索してい
 た近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努
 力をすべきだった」・・と、批判した。
  また、この様な事実を明かした米歴史家のジョージ・
 ナッシュ氏は・・、
  「この事実を記したこの著書が、今でも米国の英雄と
 されているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すき
 っかけになってほしい」・・と、話した。
1941年7月19日、フランス政府が、日本の要求(フランス領
 インドシナ・南部仏印への日本の進駐)を受け入れると
 閣議で決定した。
1941年7月23日、ルーズベルト米大統領、シェンノート指揮
 下のアメリカ正規軍の中国配置を認可し、軍事援助を明
 らかにする。
  (アメリカは義勇空軍だと言い訳を言った。しかし、
 義勇だ何だと言おうと、アメリカの正規の軍隊なのだ。
  例えば、真珠湾へ向かう日本の軍隊を、アジアの植民
 地解放の義勇軍だと言ったって、アメリカ・イギリスは
 認めたくないだろう)
1941年7月23日、日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い
 成立。
  そして、日本は、アメリカに「平和進駐である」こと
 を説明すると決めている。
1941年7月24日、日本が、フランス領インドシナに進駐する
 事をアメリカに説明した。
  野村大使とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行わ
 れた。
  野村大使は、南部仏印進駐がやむを得ない措置である
 とした。
  日本は、アメリカに25日も、また、27日にも、軍事占
 領ではないと説明した。
  また、豊田外相も、駐日アメリカ大使と会談し説明し
  そして、28日の進駐となった。
  結果、さらに日米間の関係は悪化する。
  アメリカは、問題をすべて、日本側に転嫁した。
1941年7月25日、アメリカが、在米対日資産を凍結(アメリ
 カは日本の進駐を、ドイツの作戦と呼応して行っている
 と誤認し、誤解した。
  元はと言えば、アメリカが戦争に介入して、中国へこ
 の地域を使って武器・弾薬を上陸させ、送っておいて・・、
 アメリカが先にこの地域を軍事的に占領し、利用してい
 ることを棚に置いている。
1941年7月26日、イギリスが在英日本資産を凍結した。
  極東アメリカ軍をフィリピンに創設した(司令官:ダ
 グラス・マッカーサー中将)
1941年7月27日、蘭印が在蘭印日本資産を凍結
1941年7月28日、日本軍が、フランス領インドシナ南部進駐
 した(南部仏印進駐)
  アメリカの援蒋ルートによる中国への武器供給が止ま
 らないため、日本は、そのルートからの供給を止めよう
 と仏印進駐をした。
1941年8月1日、アメリカが、石油の対日輸出全面禁止を発
 表(日本の息の根が止められた。すべてが破綻するのは
 火を見るより明らかだった)。
  日本に、やむをえずの早期開戦論が生まれる。
  当然、アメリカもその様になることは分かっていた。
  おおもとの石油が無くなれば破綻しかないので、どこ
 の国でもそうなるだろうという評論が多いアメリカの行
 為だった。
1941年8月18日、豊田外相が、日米首脳会談を要請した。
1941年8月25日、イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開
 始した。
1941年9月3日、日米首脳会談の要請をアメリカが拒否した。
1941年9月28日、日本軍が、西貢(サイクン、香港特別行政
 区)に派遣された。
1941年10月16日、近衛首相、内閣を総辞職。
1941年10月18日、東條内閣を組閣。
1941年11月23日、南雲機動艦隊が単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した。
1941年11月26日、ハル国務長官が、日本案を拒否し、中国
 撤兵要求を提議(ハル・ノート:最後通牒)
  南雲機動艦隊が単冠湾を出港。
1941年11月27日、大本営政府連絡会議が、「ハル・ノート
 は日本に対する最後通牒である」とした。
1941年12月6日、イギリスが、フィンランド・ハンガリー王
 国・ルーマニア王国に対して宣戦布告した。
1941年12月8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦(大東亜戦争)
 となる。
  日本、対米英宣戦布告。
  但し、真珠湾攻撃の現地ハワイの日付は12月7日。
..
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# by suba28 | 2017-01-27 05:24 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)

題:(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月30日、大同団結運動の河野広中ら政社組織化を唱
 え、大井憲太郎らのゆるい連合組織形成派と対立した。
1889年5月1日、東京府で、市制・町村制が施行された。
  東京15区で市制を施行し、東京市が誕生。
1889年5月3日、幸田延(こうだのぶ)が、米国留学のため
 横浜港を出発した。
  日本初の音楽留学としてアメリカ、ドイツ、オースト
 リアに留学した。
  1870年、東京の幸田家に、幸田露伴の妹として生まれ
 る。
  ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。
  1895年(25歳)帰国し、東京音楽学校教授として瀧廉
 太郎、山田耕筰、久野久らを育てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と、1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章の
 み)は、日本人による初のクラシック音楽作品(現在、
 全音楽譜出版社から2曲とも出版されている)。
  1915年(45歳)大正天皇御即位を祝した混声4部合唱付
 交響曲「大礼奉祝曲」を作曲した。
  1937年(67歳)帝国芸術院を設立し、会員にもなる。
1889年5月9日、正岡子規(22歳)が、常盤会寄宿舎で血を
 吐く。
  因みに、子規は、この年の4月3日から、常磐会の友人
 と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を
 行っている。
  1902年(明治35年)9月、死去。享年34。
  東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
       「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
       「をとゝひのへちまの水も取らざりき」よ
 り、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、
  雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
  因みに、獺は、「うそ」または「おそ」と読み、カワ
 ウゾの別名。
1889年5月10日、大同団結運動は、政社派が大同倶楽部を、
 連合派が大同協和会を興し、事実上分裂した。
  この日、河野広中派が大同倶楽部を結成し、大井憲太
 郎派が大同協和会を結成した。
1889年5月10日、東海道線の下等列車に洋式トイレを設置
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ合衆国の独立宣言について・・、
.
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立
  大陸会議はアメリカ独立宣言を採択(7月2日に決議)
 し、この日に、公布された。
  以下に、アメリカ独立宣言の全訳を記すが・・、
  その前に、今・現代、アメリカのどこに、その理念が
 あるのだ?・・と言いたい、
  「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創
 造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、その中
 には生命、自由、および、幸福の追求が含まれているこ
 とを、我々は自明の真理であると信じる」とあるが?
  これは嘘だ!!
  アメリカの人種差別は、その『極に達している』。
  人種差別国に成り下がっているではないか?
  アフリカの方々を、一番多く奴隷にして、虐げた国で
 はないか?
  創造主なんて「奪いがたい権利など与えてなんかいな
 いではないか?」。
  嘘つき創造主となっている。
  侵しがたい生命なんて嘘八百ではないか?
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々を、動物の如くに「殺戮の限りをした」ではない
 か?
  自由だって、自分たちの都合よく考えて「暴力によっ
 て、蔑(さげす)むべき方法によって、奪いに、奪った」
 ではないか?
  生まれて来た子を奪い取って、自分のものとし、奴隷
 の身分に落とし、生母と別々に売ったではないか?
  「自由を奪う卑下されるべきアメリカ」となったでは
 ないか?
  幸福の追及なんて「自分たちだけの幸福」で、狭い、
 そして、狡(こす)い理念ではないか?
  今・現代だって、黒人の方々を虐げているではないか?
  奪い取りと殺戮の歴史しか、アメリカにはないではな
 いか?
  以下に、そのアメリカ独立宣言の全訳を記す・・、
  『人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と
 結びつけてきた政治的な絆を解消し、自然の法や自然の
 神の法によってその資格を与えられている独立した、対
 等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となると
 き、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民
 をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要と
 されるだろう。
  我らは、以下の諸事実を自明なものと見なす。
  すべての人間は、平等につくられている。
  創造主によって、生存、自由、そして、幸福の追求を
 含むある侵すべからざる権利を与えられている。
  これらの権利を確実なものとするために、人は政府と
 いう機関をもつ。
  その正当な権力は、被統治者の同意に基づいている。
  いかなる形態であれ、政府が、これらの目的にとって
 破壊的となるときには、それを改め、または、廃止し、
 新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をも
 たらすのに最もふさわしいと思える仕方で、その政府の
 基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利で
 ある。
  確かに、分別に従えば、長く根を下ろしてきた政府を
 一時の原因によって、軽々に変えるべきでないというこ
 とになるだろう。
  事実、あらゆる経験の示すところによれば、人類は、
 害悪が忍びうるものである限り、慣れ親しんだ形を廃す
 ることによって非を正そうとするよりは、堪え忍ぼうと
 する傾向がある。
  しかし、常に変わらず同じ目標を追及しての権力乱用
 と権利侵害が度重なり、人民を絶対専制のもとに帰せし
 めようとする企図が明らかとなるとき、そのような政府
 をなげうち、自らの将来の安全を守る新たな備えをする
 ことは、人民にとっての権利であり、義務である。
  これら植民地が堪え忍んできた苦難は、そうした域に
 達しており、植民地をしてこれまでの統治形態の変更を
 目指すことを余儀なくさせる必要性もまたしかりである。
  今日のグレートブリテン国王の歴史は、繰り返された
 侮辱と権利侵害の歴史であり、その事例は、すべてこれ
 らの諸邦に絶対君主制を樹立することを直接の目的とし
 ている。
  それを証明すべく、偏見のない世界に向かって一連の
 事実を提示しよう。
  公共の利益のために、最も穏当かつ必要な法律に裁可
 を与えることを拒否した。
  緊急かつ切迫した要のある法律を通過させることを総
 督に禁じ、総督をして国王の裁可が得られるまでその権
 能において保留させることを課し、そのようにして保留
 させた上で(裁可すべき)法を全く閑却した。
  広範な地域の人民のための他の法を通過させることを
 拒み、その人民に、本国の立法府において代表される権
 利を放棄することを求めた。
  そのような権利は、人民にとってかけがえのないもの
 であり、これを恐れるは専制君主のみである。
  立法府を普通でない、公文書の保管所からも離れた不
 便な地に召集した。
  疲弊させることにより本国の施策に従わせんとするた
 めである。
  人民の権利の侵害に対し、断固とした雄々しい決意を
 もって反対した代議院をたびたび解散した。
  そのような解散ののち、長きにわたって新たな代議員
 が選出されるようにはからうことを拒否した。
  これにより、消滅することのない立法権限は、人民全
 体にその行使が返還されたのである。
  その間も、その邦は外からの侵略、内なる騒乱のあら
 ゆる危険にさらされていたのである。
  これら諸邦の人口を抑制せんと努めた。
  その目的のために、外国人帰化諸法を妨害し、この地
 への移民を促進する他の諸法の通過を拒み、新たな土地
 の割り当ての条件をつり上げた。
  司法権を確立させる諸法への裁可を拒否することによ
 り、司法の執行を妨害した。
  判事を、その地位、俸給額、俸給の支払いについて、
 己の意志にのみ依存せしめた。
  おびただしい数の新たな官職を創設し、この地へ官吏
 の大群を送って、我らが人民を悩ませ、我らが物資を蚕
 食した。
  平時において、我らのうちに、我らの立法府の同意な
 く常備軍を駐留させた。
  軍部を文民権力から独立させ、それに優越させようと
 努めた。
  我らを、我らが国制にとって異質で我らが法によって
 認められていない権限のもとにおくべく(本国議会と)
 共謀し、
  本来の権能を逸脱した立法府の下記の目的の諸法に裁
 可を与えた。
  我らのうちに大規模な軍を宿営させるその兵が、これ
 ら諸邦の住民に対して殺人を犯しても、みせかけばかり
 の裁判をすることによって処罰を免れさせる。
  世界各地と我らの通商を遮断する。
  我らの同意なく我らに税を課する。
  多くの場合において、陪審に基づく裁判の恩恵を奪う。
  でっちあげの罪状によって、我らを海の向こうへ移送
 して裁く。
  隣接する植民地(カナダ)において、英国法の自由な
 体制を廃し、そこに専横的な政府を設立し、その境界を
 広げることによって、その地を我らが植民地にも同様の
 専制支配を導入するための先例とし、格好の道具とする。
  我らの特許状を取り上げ、我らの貴重この上ない法を
 廃し、我らの政府の形態を根本的に変更する。
  我ら自身の立法権限を停止し、いかなる場合において
 も我らに代わって立法する権限が自分たち(本国議会)
 にあると宣言した。
  我らを国王の保護の外にあると宣言し、我らに戦争を
 しかけることによって我らの統治を放棄した。
  我らの領海を収奪し、沿岸を荒らし、町を焼き、人民
 の命を奪った。
  現在も外国人傭兵の大軍を送ってくるところで、それ
 により、最も野蛮な時代にさえその比をみない、およそ
 文明国の元首の名に値しない残虐と不実の状況を伴って
 始められた死と荒廃と専制を完成させようとしている。
  公海において捕らえられた我らが同胞たる市民に祖国
 に対して武器を取らせ、その友人兄弟を処刑するか、さ
 もなくばその手にかかって自らが命を落とすようにして
 いる。
  我らのうちに内乱をひき起こし、我らが辺境の住人に
 対し情け知らずのインディアンをけしかけようと努めた。
  インディアンの戦い方が、年齢、性別、社会的地位に
 関わりなく無差別に殺害するものであることはよく知ら
 れている。
  これらの抑圧のあらゆる段階において、我らは最も謙
 虚な言葉をもって改善を請願してきた。
  我らの度重なる請願は、度重なる侮辱によって応えら
 れたのみだった。
  このように専制君主の定義となりうるあらゆる行動に
 よって特徴づけられる資質をもった君主は、自由な人民
 の統治者たるに不適当である。
  我らは、英国の同胞に対しても注意を怠ってきたわけ
 ではない。
  折に触れては、英国の立法府が、不当な権限を我らに
 対して及ぼそうとしていることを警告してきた。
  我らが祖国を出、この地に落ち着いた事情を想起させ
 てきた。
  同胞たちの生来の正義心と度量に訴え、共通の血が流
 れる絆により、彼らがこれら、我らのつながりと交渉を
 必ずや絶ち切ることになる権利侵害を非とすることを懇
 請してきた。
  同胞らもまた、正義と血縁の声に耳を傾けなかった。
  したがって、我らは、我らの分離を宣言する必要性を
 認めざるをえず、祖国の同胞は他の人類と同様、戦時に
 あっては敵、平時にあっては友とみなさざるをえない。
  ゆえに、我らアメリカの連合諸邦(the united States
 of America)の代表は、連合会議に集い、世界の至上な
 る審判者に対し、我らが意図の正当性を訴えて、これら
 植民地のよき人民の名と権威において、厳粛に公に宣言
 する。
  これら連合植民地(United Colonies)は、自由にして
 独立な国家であり、また、そうであるべきものである。
  英国王に対する忠誠はいっさいこれなく、グレートブ
 リテンとの間の政治的なつながりは、完全に解消されて
 おり、また、そうあるべきものである。
  諸邦は、自由にして独立な国家として、戦争を行ない、
 講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他、独
 立国家が、当然の権利として行ないうるあらゆる行為を
 なす完全な権限をもつものである。
  この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼ととも
 に、我らは、相互にその生命、財産、そして、神聖なる
 名誉を捧げあうことを約するものである』
..
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# by suba28 | 2017-01-25 05:00 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-21 05:28 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)

題:(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月22日、横浜相生町が大火となり、1600戸が焼失し
 た(1890年3月説あり)
  1889年4月、横浜は、市制を施行した(戸数:26000戸、
 人口:11万6000人)。
  そして、従来の消防を廃止し、新たに横浜警察署に移
 管した。
  そして、ホース絡車の消防隊を編成し、各派出所ごと
 に絡車1台に消防夫3人をもって1分隊とし、取締役1
 人を配置した。
1889年3月23日、北海道で麋鹿(となかい)保護のために、
 鹿猟が禁止となる。
1889年3月23日、土地台帳規則が制定された。
  地券と地券台帳を廃止し、地租は、土地台帳に記載さ
 れた地価を基準として徴収する旨が公布された。
  地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示す
 ために明治政府が発行した証券のこと。
1889年3月31日、佐渡と生野の両鉱山が、帝室(皇室)財産
 に編入されて、宮内庁御料局の所管となり生野支庁と改
 称された。
  フランス人技師フランソア・コワニェ(薩摩藩当時に、
 領内の鉱業振興のために雇用されていた)と共に、生野
 銀山の近代化に取り組んできた朝倉盛明は、
  御料局移管と同時に、御料局理事生野支庁長に昇進し
 た。
1889年3月、由良要塞が起工された。
  由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞
 の一つ。
  大阪湾防衛の目的で、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海
 峡周辺に作られた。
  歴史・・、
  1889年(明治22年)3月、生石山第三砲台を起工、由良
   要塞の建設開始。
  1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部開設
  1898年(明治31年)10月8日、司令部は兵庫県津名郡由
   良町に移転[2]。
  1903年(明治36年)5月、鳴門要塞を吸収合併
  1904年(明治37年)2月、動員下令(日露戦争)
  1913年(大正2年)4月、佐瀬川保塁、深山第一砲台、
   深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一
   砲台、成山第二砲台廃止の方針が出た。
1889年4月1日、2府32県で市制・町村制が施行された。
  弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
  横浜に市制が施行された(2万5000戸、人口:11万6000
 人)。
  1888年(明治21年)4月25日に市制と町村制が公布され
 この日に、施行された。、
1889年4月7日、大阪北野茶屋に9階建ての凌雲閣が落成した。
  同名の建物が東京の浅草にもあるが、これは、「浅草
 十二階」とも呼ばれた建物で1890年11月11日に開館した。
  そして、この大坂の凌雲閣は、大阪・北野茶屋町の遊
 園地「有楽園」内にたてられていて、9階建て、高さ39メ
 ートルだった。
  この9楼凌雲閣に先立つ1888年には、浪速区日本橋の遊
 園地「有宝地」内に、5階建て、高さ31メートルの眺望閣
 が造られていた。
  「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ、
  眺望閣は、六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の
 西洋式高層建築といわれ、周囲には露天街もでき、1904
 年に解体されたが、通称としての地名が現在でも残って
 いる。
1889年4月8日、帝国大学文科大学に、中学校教員養成のた
 め、特約生教育学科を開設した。
  東京大学の教育学の教育は、1887年(明治20年)に始
 まった。
  その講義を担当したドイツ人教師が、エミール・ハウ
 スクネヒトだった。
  これが、東京帝国大学文学部教育学科の発祥点である。
  そして、彼の講じた教授理論(ヘルバルト派教授理論)
 が、その後、明治中期から後期にかけての、日本の教育
 学界、及び、教育現場の動向を強く規定していく。
  彼の携えて来た教授理論の影響力の大きさの故に、日
 本の近代教育学史・教育史のうえで、極めて重要な位置
 を、これが占めている。
  彼が、帝国大学に着任したのは1887年(明治20年)1月
 で、その翌々年の1889年(明治22年)2月から、帝国大学
 文科大学に「特約生教育学科」という特別の仮定が置か
 れた。
  そして、1890年(明治23年)には、12名の「特約生」
 が、その課程を卒業して行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:高度な文明国なのか?
.
1933年9月、初秋のニューヨークの大通りが、25万人のデモ
 行進の群衆で埋まった。
  記録的な群衆だった。
  茶色の制服を着て、胸に青鷲(あおわし)の記章を付
 けた人々も居た。
  沿道は150万人の人々が居た。
  「私たちは国(アメリカ)のための役割を果(は)た
 している」と訴えていた。
  フランクリン・ルーズベルト政権へのアッピールと不
 満があった。
  ルーズベルトは、法改正などで強大な権力を得て、ま
 た、次なる権力も得ようとしていた。
  ルーズベルトは、「アメリカ企業をコントロールしよ
 うとしていた」。
  1933年4月12日の記者会見では、「アメリカ企業は、馬
 鹿げた過剰生産をしている」と、ルーズベルトは、不満
 を口にしていた。
  そして、「何とか規制したい」と言っていた。
  ルーズベルトの考え方は、「市場を放任しているから
 シッチャカメッチャカになるんだ」という考え方だった。
  「そんな、市場の放任の考え方は、今や破綻(はたん)
 している」と言った。
  「私は、自分のやり方(市場を放任状態にしない)が
 正しいと確信している」と言った。
  資本主義を救うには、ある程度の規制が必要だという
 考え方だった。
  ルーズベルト批判派は、「ニューディールは、ファシ
 スト運動だ」と批判した。
  しかし、ルーズベルトが、不況の克服の特効薬として
 推進した一連の構想は、1年も経(た)たない内に、次々
 と行き詰って行った。
  ルーズベルトの「ニューディール政策は、うまく行っ
 た」という話は、真っ赤なウソである。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  ルーズベルトが、不況克服のために、戦争需要を得て、
 景気刺激をしたがるのは、この点から発していた。
  その相手をさせられた日本が可哀想だった。
  可哀想を通り越し、それでは済まされない怒りが湧く・・、
  ルーズベルトが進めた「アーサーデール入植」も失敗
 する。
  金をいくら注ぎ込んでも駄目だった。
  内務長官(ハロルド・イッキーズ)は・・、
  「どんどん予算は膨張するし、まるで酒飲みの水兵が
 (酒代に給料のすべてを)注ぎ込むようなものだ」と、
 非難していた。
  こんな具合のものばかりのニューディール政策を・・、
 「成功した」と言いたかったアメリカは、
  経済復興のために戦争をしたと、本当のことを指摘さ
 れたくなかったからだった。
.
  そして・・、
.
1934年9月20日、アメリカにあった革命未遂。
  革命未遂の事は、アメリカのそのクーデター計画が、
 事前に暴露された事から判明された。
  1934年9月20日、計画が暴露された「アメリカ下院の非
 アメリカ特別委員会」は、アメリカ海兵隊の退役軍人ス
 メドレー・バトラー少将を証人として尋問した。
  少将は、明確に証言した、「ファシストによるクーデ
 ター計画が存在する」・・と。
  このバトラーに、ウォール街の債権ブローカーのジェ
 ラルド・マクガイアが接触して来たのは、1933年初秋の
 頃で、この約1年前のことだった。
  マクガイアは説明した、「ルーズベルトのニューディ
 ール政策は、アメリカの企業家精神を蝕(むしば)んで
 いる」・・と。
  そして、アメリカを救うには貴方(バトラーのことを
 将軍と言った)が・・「退役軍人を組織して立ち上がら
 ねばなりません」
  「ルーズベルトを軟禁するのです」
  「新政府を樹立すべきです」・・と。
  特別委員会の委員は、最初は、信じられないという表
 情をした。
  ジョン・マコーマック委員長も信じられないという様
 子だった。
  しかし、話を聞いて行くと・・、
  「バトラーが資金を300万ドル提示された」という話や、
  「有名企業のシンガーミシンの会長ロバート・クラー
 クが、5000万ドルもの軍資金を、すでに用意していた」
 という話や、
  「生活に困っていた退役軍人の兵士が、50万人、動員
 されることになっている」という話や、
  「銃は、レミントン社」が、
  「火薬は、デュポン社がまかなう」など・・、
  具体的な話が続くと委員たちは唖然(あぜん)とした。
  説明は、具体的で詳細だった。
  その基底に、ニューディールの批判を続けていて、強
 めていた「アメリカ自由同盟」の面々が連なっていた。
  マコーマック委員長は、その事実性を強め、心証を強
 めた。
  実際、フランクリン・ルーズベルトは、深刻な不況と
 はいえ、自由の国・アメリカで、「経済の国家統制」と
 いう、当時のファシズムや共産主義のような政策を行な
 っていた。
  この流れの先に・・、この国で初めての「政府転覆」
 という大掛かりな政治暴力がなされようとしていた。
  マコーマック委員長は、記者会見で、「バトラーは、
 証拠を持っている」と言った。
  そして、事件追求に自信を見せた。
  しかし、12月に入ると、不思議な事に、何故か? 公
 聴会は開かれなくなり、
  アメリカ国民の方々をつんぼ桟敷に置き、秘密のベー
 ルが降ろされた。
  そして、不明のうちに、その翌年の1935年2月に・・、
  証拠不十分として、追及は取り止めにするとされた。
  そして、委員会が、追及を中止した直後の1935年3月、
 マクガイアは、急に病死した。
  『反ニューディール勢力』は、以後、強い監視下に置
 かれた。
  「ルーズベルト潰(つぶ)し集団」のレッテルが貼ら
 れた。
.
  そして・・、
.
1936年頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を・・、
  何か?おかしい大統領だと・・アメリカ国内でも、多
 くの方々が、その様に見ていた。
  国益をアメリカにもたらそうとするアメリカ大統領な
 のだが・・、
  共産主義のソ連と、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリ
 ア、オーストリー)を共通の敵として戦っている間は、
  こだわりなく・・同じテーブルに座っていた。
  しかし、愚かにも、そのドイツや日本の枢軸国側の敗
 退が見えて来た頃より、
  まだまだ、戦いが続いているというその戦争中に・・、
  次なる敵が・・また、新たに見えてきたという輩たち
 だった。
  昨日まで、同じテーブルに座っていた者たちが、敵に
 見えてきた輩たち。
  連合国側のアメリカ・イギリスに対抗する共産国=ソ
 連が・・その敵対相手だと・・。
  愚かさの極みだった。
  キリスト教の「異端の排除教義」に洗脳され、毒され
 た者たちだった。
  ルーズベルト政権に居たホワイトは、「根っからの共
 産主義ではなく・・むしろ共産主義という理念が・・理
 想に見えた輩だった。
  そして、ソ連へ情報提供するというスパイ活動をした
 輩となった。
  ベンレートが言うように・・ルーズベルト政権には、
 ソ連のスパイたちが「うようよ」と居た。
  アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官が・・、
  1953年11月に、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった
 様に・・。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
  1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要
 (かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  『1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 ホワイトらの政府内の情報員の活動実態について』証言
 した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それで、何故か? ルーズベルトの政策がおかしかっ
 た。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
  1936年1月24日、モーゲンソー財務長官は、この日の午
 後3時、いつものようにニュースを聞くと、
  「GM(ゼネラル・モーターズ社)が、突然、大量の
 米ドル売りを開始した」。
  米ドルは、英ポンドに対して急落した。
  これは、ルーズベルトへも伝えられた。
  ルーズベルトは怒った・・、
  「祖国の貨幣を貶(おとし)めるとは、これほど非愛
 国的行為を知らない」・・と、鋭い口調で言った。
  ルーズベルトが、これほど怒ったのは、翌日、民主党
 の大物が、反ルーズベルト演説をやる予定だったからだ
 った。
  これに呼応して、ドル売りをしたと・・。
  この演説会は、「アメリカ自由同盟」の主催で・・、
  GMや、デュポン社グループだったからだった。
  また、この頃、ルーズベルトは、大統領選の再選を意
 識していた。
  また、ニューディールを誇らしげに語っていたが・・、
  実際は、経済が好転したわけでもなく、また、失業者
 が減った訳でもなく、
  さらに悪い事に、国家復興庁(NRA)の価格統制が、
 違憲という判断が出て、
  その違憲判断などを受けて、『アメリカの自由を損ね
 ているルーズベルト』という見方や意見が、アメリカ国
 内で広まり、強まっていた。
  民主党のスミスは、米ドル売りの翌日、演説で言った、
  「ニューディールは、マルクスとレーニンの事なので
 す」・・と、
  そして、また、「問題は、ワシントンか?モスクワか
 ?」と、
  また、「星条旗か? それとも、赤旗か? の選択な
 のです」・・と。
.
  そして・・、
.
  題:遅れた国=アメリカの「人種差別から戒厳令まで」・・
.
1943年6月20日~22日、アメリカ合衆国で・・、
  白人の人種差別意識が原因とする『戒厳令も出るとい
 う騒ぎ』が起きた。
  銃撃戦がアメリカ国内で行われた内戦状態だった。
  アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ど
 うしても黒人の方々を、同じ人間と見れない、同じ人た
 ちと認めたくないという大統領だった。
  奴隷解放したという「リンカーンだって」同じだった。
  リンカーンが奴隷解放したからと言って、黒人の方々
 に対して、差別観のない・・、人間として平等な感情を
 持っているのかと言えば、それは違うと言えた。
  それは、間違いだった。
  そうではなかった。
  このルーズベルトにしたって、黒人の方々に対して、
 人間として平等という『当たり前の感情』を持っていな
 かった。
  ルーズベルトのこの様な人種偏見を持った、差別感を
 持った大統領は、日本人に対しても、その様な感情(有
 色人種蔑視感情)を持った。
  故に、第二次世界大戦が、より悲惨な戦争となった。
  このルーズベルトの「人種差別観」は、キリスト教に
 よって生まれ、醸成された。
  ルーズベルトが、日本へ「無条件降伏」の要求をした
 のも、チャーチル英国首相でさえ、その異常さにびっく
 りしたのだった・・が、
  その「無条件降伏の日本への要求」は、キリスト教の
 「シャローム」の教義から来ていた。
  この卑劣なキリスト教教義は、「すべての殺戮と破壊
 から平和が来る」という教義で・・、
  キリスト教の有色人種蔑視の教義とともに、すべての
 殺戮・破壊が伴った。
  原子爆弾の投下とともに、完全破壊活動の末の「無条
 件降伏の要求」という「卑劣さを極めた」。
  この様なキリスト教のマインド・コントロールされた
 ルーズベルトは・・、
  同じアメリカ国民である黒人の方々へも「差別観をむ
 き出し」にし、差別観を持って対した。
  ルーズベルトの政策の中に「黒人の方々は無かった」。
  ルーズベルトは、民主主義を解きながらも、その民主
 の民には、「黒人の方々は含まれていなかった」。
  この差別観は、あらゆる面で生じていた。
  その差別に耐えて来た黒人の方々は・・、
  1943年6月20日から22日にかけて、やむなく行動を起こ
 した・・爆発した。
  黒人の方々は立ち上がった。
  白人たちは、黒人暴動だと表現した。
  フランス革命に市民の方々が立ち上がったのと同様に
 気高い行動だった。
  黒人の方々の行動は、当然の結果だった。
  立場を守る行動は美しかった。
  その行動は、デトロイトで起きた。
  切っ掛けは、公園で、黒人の方と、人種に対して蔑視
 観を持つ白人と・・その個人的口論から始まった。
  これが、公園にいた周りの人々を巻き込んだ。
  騒ぎは大きくなった。
  それだけ、ルーズベルトの政策をはじめ、白人たちの
 虐(しいた)げが「極限に達していた」。
  そして、双方が入り乱れての騒ぎとなり・・、
  止まることなく広がって行った。
  それだけ、黒人の方々が、ルーズベルトに始まる虐げ
 の中にいた。
  白人の・・黒人の方々への蔑視感があった。
  同じだという平等観から、尊重するという態度や姿勢
 はまったく無かった・・それが原因だった。
  それまでには、例えば・・、白人地区をただ歩いてい
 たというだけで、黒人の方が殴打された、
  そして、死ぬまでの殴打をされた・・この様な事が頻
 発していた。
  この様な差別観から来る差別行為が、この様な騒ぎと
 なった。
  差別観を植え付けたキリスト教の罪だった。
  ルーズベルトは、21日に戒厳令を発令した。
  この様な段階まで問題化した。
  名誉な事ではなかった。
  文明国ではなかった。
  ここまで騒ぎは大きくなった。
  『正規の黒人部隊』が武器庫を襲うという事態も起き
 た。
  革命である。
  アメリカ軍が出動した。
  戦争である。
  銃撃戦が行われた。
  死者35人、重軽傷者700人が出た。
  不名誉な人種差別の末の戦いだった。
  まったく遅れた人種差別の国=アメリカだった。
  この後にも、この様な騒ぎが、度々、起き、
  そして、戒厳令が出されたりするという「アメリカと
 いう遅れた国」だった。
.
  そして・・、
.
2016年、大富豪だが、質素な生活を送っているので尊敬さ
 れている投資家のウォレン・バフェット氏が・・、
  数年前に、2016年の事を予測して言った・・、
  「2016年以降のある時点で、アメリカは、対外債務の
 負担に耐え切れなくなり、深刻な財政危機と、通貨危機
 を引き起こすだろう。
  アメリカの国内政治は、動乱状態になるかもしれない」
 ・・と。
  奇しくも、トランプという大統領が登場した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-18 03:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)

題:(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月14日、電信電話線私設条規(明治22年逓信省令
 第004号)が公布された。
  信書の秘密保護を訓諭(逓信省)
1889年3月14日、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう、
 法律第 9 号国税徴収法)が公布された。
  旧国税徴収法(1897公布)は、1889年に制定された国税
 徴収法と国税滞納処分法とを統合したもの。
  この1889年(明治22年)の新たな国税徴収法・国税滞
 納処分法が制定されたが、
  これは、この年の明治憲法成立、同じく、この年の市
 制・町村制成立とも関連する。
  明治22税徴は、国税徴収に関する市町村の役割を明ら
 かにして、また、国税と一般債権との関係について、納
 税人が一般債権の負債により身代限りの処分を受けた時
 は、徴税令書を発している場合には納期に至らなくとも
 「他の債主に先立ち』税金を徴収すること(第14条)
  及び、その場合に、税金の納期限よりも1箇年前に「質
 入書入」をなしたものがあるときは、物件の売却代金を
 質入書入付き債権に充当してから税金を徴収すること(
 第15条)を既定した。
  さらに、租税の時効についても定めた。
  (獨協大学、小柳春一郎教授の論文などを参考にした)
1889年3月15日、大日本紡績同業連合会が、対罷工規約を制
 定した。
  大阪紡績を始めとする紡績会社の創業が進められるな
 かで、旧来の紡績聯合会も、1888年6月に改組されて、
 「大日本紡績同業聯合会」と改称した。
  その新しい規約第7条には・・、
  「罷工ヲナス等ノ場合」は、「速ニ其職工ノ姓名ヲ同
 盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとした。
  大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヵ月であるが、
 この規約は、当時、大阪紡績のストライキ対策に効果が
 あったという。
  (参考)ストライキとは、労働者による争議行為の一
 種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の
 行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組
 合)が労働を行わないで抗議することで、
  日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)、ある
 いは、「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略さ
 れる。
1889年3月16日、薬品営業・薬品取扱規則が公布された。
  薬品営業並薬品取扱規則(やくひんえいぎょうならび
 やくひんとりあつかいきそく、明治22年3月16日法律第10
 号)は、薬品の取り締まりや医薬品販売業に関する日本
 最初の法律で、
  1889年(明治22年)3月16日に公布、1890年3月1日から
 施行された。
  一般には「薬律」と呼ばれていた。
  人間の生活と医薬品は、極めて密接な関係があるので、
 医薬に関する法制(普通これを薬制と言う)も、相当、
 昔からあった。
  現在の薬事法の淵源は、この薬律、更に、それ以前の
 1874年(明治7年)の「医制」にまでさかのぼることが
 できる。
1889年3月22日、後藤象二郎が、逓信大臣に就任し、大同団
 結運動に亀裂が生じる。
  板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立
 建白書の提出に参画し、のち、1887年(明治20年)反政
 府の大同団結運動を提唱し、巻き起こしていた。
  そして、機関誌「政論」を刊行するなどしたが
  1889年(明治22年)のこの年、黒田清隆首相に誘われ、
 政府に協力して、逓信相、農商務相などに就任して行く。
  若い時は、土佐藩士で馬廻(うままわり)格。
  義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが、東洋暗殺後
 は逆境にあり、
  藩論一変後の1864年(元治1年)に大監察となり、
  藩主・山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて、土
 佐勤王党を断罪、
  1866年(慶応2年)には、参政として開成館事業を運営し、
 長崎、上海に赴くなどして藩の「富国強兵」につとめた。
  坂本竜馬と相知り、幕府の第2次征長失敗後、
  竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化する
 ことにつとめた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:引っ掛け話・・日本が引っ掛かってしまう話・・
.
1915年1月18日、二十一カ条の要求
  日本は、第一次世界大戦に連合国側として参戦し、
  そして、ドイツと戦い、
  日本は、この戦争の勃発の翌年の1915年1月18日に、
  第一次世界大戦で戦う相手国・ドイツの「中国におけ
 るドイツの権益」を中国へ還付(かんぷ、返すこと)し、
  そして、日本への継承を中国(中華民国)に要求した。
  また、これは、満蒙の権益問題や、そこにいる日本人
 の保護についても話し合われ、決着した。
  日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に二十一カ
 条の要求を示した(五項と二十一条からなる)
  なお、この要求は、第一次世界大戦の終結後の1919年
 6月28日に開かれたベルサイユ条約において、連合国(ア
 メリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー・・
 など)に認められた(ここが大事)。
  第一項:「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継
 承を認めることと、
  芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島~済南)をつなぐ新鉄
 道の敷設権を要求。(全4条)
  第二項:「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に
 関するする件」(全七ヵ条)
  その主なものは・・、
  (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
  (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
  (3)日本人の居住と営業の自由
  (4)鉱山採掘権の承認
  (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は
 まず日本政府と協議すること
  (参考)この頃の状況を伝える史料・・、
  1)孫文は、「二十一カ条の要求は、袁世凱(えんせい
 がい)自身によって起草され、要求された策略であり、
 皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払
 った代償である」と述べている。
  因みに、孫文は、辛亥革命のとき、日本に資金援助と
 武器の援助を要求しており、
  そのかわり「満州をやる」と提案している。
  2)この頃、支那は、辛亥革命(1911年)によって、
 共和国が誕生していたが、非常に不安定な政権で、混乱
 が続いていて、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたかっ
 た。
  3)アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告
 書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求が
 はるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
 とある。
  4)中国は、策謀が錯綜(さくそう)する国で、
  また、権謀術数(けんぼうじゅっすう、人を欺くため
 のはかりごと。種々の計略)の国で、
  日本が、要求をのませたと言われているが・・、
  実際は、この逆であることが明らかになっている。
  日本が要求したとなっているが・・、
  当時の袁世凱・中華民国大総統が、「国民に理解させ
 るために、この様な形で出してもらいたい」と言ってい
 た。
  日本側が、積極的に出したものではなかった。
  袁世凱から、日本側へ頼んでいるのだった。
  しかし、策謀の国・中国の裏の目的は、「中国の引っ
 掛け外交」だった。
  これは、当時の外務大臣の加藤高明の自伝に記述され
 ている。
  また、東郷茂徳外相が、巣鴨プリズンで書いた回顧録
 にも記されている。
  そこには、「日本の武力行使だと見せかけたい」とい
 う中国があった。
  また、日本が、不当な要求を、武力で脅して押して来
 たと、世界に見せたかった、公表したかった。
  事実、国際社会での日本の立場は、中国の思惑通りに、
 急に悪くなった。
  日本は悪者にされた。
  そして、このことから、中国は、次に、成立した条約
 も無効だと言い掛かりを付けた。
  正当に話し合って、国と国が結んだ条約であっても、
 簡単に反故(ほご、無駄に捨てる)にできるの戦略だっ
 た。
.
  そして・・、
.
  (関連)「田中上奏文」:
  日本が、引っ掛かった事件。
  2005年、日本が引っ掛けられていたという事件の無実
 が明らかになった。
  2005年の春、モスクワのロシアのテレビやラジオ放送
 が、「田中上奏文は、ソ連KGBの前身のОGPUが偽
 造したものだ」と放送した。
  80年ぶりに日本の「濡れ衣」が、剥がされた。
  卑怯な事に、東京裁判のアメリカなどは、その事を知
 っていた。
  それで、「田中上奏文は、証拠にも取り上げなかった」。
  日本への有利な「この偽造証拠」は隠された。
  この当時の日本の痛手は甚大だった。
  この事も世界へプロパガンダ(嘘宣伝)されて、世界
 が日本への敵意を強くした。
  ルーズベルトも「日本への敵意を強くした」と言って
 いる。
  日本は、今・現代でも、この様な卑劣なプロパガンダ
 (嘘宣伝)する中国や韓国に対し、必要な資金をしっか
 り使って反駁すべきだ。
  正しい事を、正義を、しっかり世界へ伝え、主張して
 行かねばならない。
  また、今でも、このはっきりした捏造された嘘話を、
 中国は、教科書や辞典などに「事実だ」と記載している。
  嘘教育をしている。
  盧溝橋事件も、中国共産党軍が起こした謀略だったこ
 とが明らかになっている。
  こんな事ばかりだ。
.
  そして・・、
.
1929年~1930年、中国と満州で、日本人叩(たた)きが、
 最高潮に達した。
  中国をアメリカは支援し、「金と武器を、無尽蔵に流
 入させていた」。
  だから、中国は強気だった。
  そして、何故か?この頃、アメリカでも、日本を排除
 する風潮が盛んだった。
  ここに共通するアメリカは、世界も繰っていた。
  中国の日本人たちのそれまでの努力は、無に帰されて
 いた。
  露骨な「日本の追い落とし行為」が行われていた。
  長く続く、アメリカと同じ様な「排日行為」だった。
  日本人たちは、日本総領事館へ訴えるが、まったく無
 駄だった。
  アメリカに繰られた中国は、その様な行動を変えるつ
 もりは無かった。
  満州には、20万人の日本人と、80万人の朝鮮の方々が
 居た。
  この時は、朝鮮は、日本との併合関係にあって、一体
 で満州を開拓しようと努力していた。
  その朝鮮の方々へも危害を加えて来た。
  1931年6月~7月には、中国を正式なピザを持って旅行
 中の日本軍人が、中国軍に捕まり、秘密裏に殺害された。
  これを知って、日本国内で世論は沸き立った。
  アメリカの仕掛けに、中国も、日本も、はまって行っ
 た。
  中国は、日本からの調査依頼を無視した。
  逆に、「日本のデッチアゲだ」と反駁した。
  何か?この後の時代にも、この様な中国の対応があっ
 た。
  中国は、いつもこんな風だ。
  1931年7月には、朝鮮の農民の方々(200名)が、中国
 人に虐殺され、迫害された(万宝山事件)。
  日本の本国政府は、それなりに努力しているが、中国
 の誠意は見られなかった。
  また、日本政府も国際協調・日中(支那)友好を大切
 として、実行の上がらない、空転が続いていた。
  現地の満州は、切羽詰まっていた。
  実効ある対応が、切実に必要な状態にあった。
  陰にアメリカが居る中国は、強気で、止(とど)まる
 ことを知らなかった。
  事が大きくなることを狙った行動が続いていた。
.
  そして・・、
.
1930年代、アメリカは、ソ連のスパイ網が、アメリカの政
 府中枢に張り巡らされて居るという情報を掴んだ。
  それで、アメリカは、アメリカ国内のソ連高官とモス
 クワとの秘密電信を解読する作戦を始めた。
  第二次世界大戦前の日本も、アメリカに傍受されてい
 て、完全に暗号は解読されていて、
  日本が困っていることなど・・すべての状況を手の内
 にして、日本の戦争へ至る道を繰っていた。
  また、ハワイへ向かう日本の連合艦隊の通信なども完
 全に傍受し、
  ハワイへ迫る艦隊の位置情報も知っていた。
  『奇襲攻撃』なんて、アメリカ・ルーズベルトの作り
 ごと。
  アメリカは、国内のソ連高官とモスクワとの秘密電信
 を解読する作戦を始めたが、
  この作戦は、アメリカ陸海軍情報部の通信傍受部隊に
 よってひそかに進められた。
  1943年、また、この年の後半は、特に、盛んとなって
 行った。
  この長い期間に、アメリカ政府内に、何と200人近いソ
 連側への情報提供者が居た。
  そして、政府中枢部のスパイが浮かび上がった。
  (今・現在も、アメリカは、盛んに日本を含む世界中
 に、傍受作業を行なっている、当然に・・、)
  ソ連は、信じられない様なスパイ網をアメリカに作り
 上げていた。
  第二次世界大戦の終了間際は、その頂点に達していた。
  (今・現在も、中国は行なっていて、アメリカの次期
 大統領のトランプは、中国を含むロビーイスト達などを
 含む情報員を、排除する考えを明らかにしている。
  また、日本にも、中国の組織員が多く潜入している事
 が知られている)。
  アメリカは、ソ連のスパイであったアメリカ政府高官
 の名前もつかんだ。
  (日本の今・現在の官僚にも、多く中国と連絡をとり、
 情報提供する官僚が多くいる)。
  大統領補佐官の「ロークリン・カリー」、財務省次官
 の「ホワイト」までがスパイだった。
  (日本も、今・現在、『国防の話』が安心して開けな
 い状態となっている)。
  この組織は、戦後、5年を経て崩壊した・・と言われて
 いる?
  スパイ網の解明に重要な役割を果たしたのが『KGB
 電信』だった。
  (参考)KGB:ソ連国家保安委員会(それんこっか
     ほあんいいんかい、略称:КГБ(カーゲーベ
    ー)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在
    したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘
    密警察。
     軍の監視や国境警備も担当していた。
     東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)
    と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊
    と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行し
    た。
     日本での略称は КГБ を翻字した KGBが使わ
    れる。
  このホワイトからの政府高官のスパイへ、アメリカ政
 府内の200人近い者たちが、アメリカの情報を提供する
 『情報提供者』となっていた。
  アメリカの情報が、秘密情報が、大量に流れ出ていた。
  しかし、これでも、アメリカが、秘密流出のスパイ行
 為の裏付けとして解読に成功したのは2900通で、交信全
 体の数パーセントに過ぎず、
  判明した部分は、ほんの僅かとなっている。
  ソ連スパイだったアメリカ政府内にいた不明な高官
 「X」は、1943年5月、ワシントンでの、ルーズベルトと
 チャーチルの米英首脳会議にも加わっていて、
  この両首脳と意見を交換するほどの高官だった。
  アメリカ政府高官のハリー・ホワイトのスパイ発覚が
 明らかになって、急速に、すべての状況が明らかになっ
 て行った。
  アメリカでは、この衝撃が、アメリカを1850年代、極
 端な反共運動(マッカーシズム)へと突き動かした。
  そして、ルーズベルトの半世紀の後までも、まだ、ソ
 連スパイ網が出来ていた。
  (今・現在も、日本において、中国工作員が多くいる
 と判断されるリトマス試験紙が、
  今・現在、こんなに、中国経済がシッチャカメッチャ
 カで、中国崩壊の可能性が大きい時に、同じ言葉で、口
 裏を合わせて、同じ様な論理で、「平気だ、平気だ」と
 同じ様に言う者たち・・)
.
  そして・・、
.
1930年、アメリカ合衆国に「黒シャツ隊」が結成された。
  世界大恐慌の真っ最中のアメリカ社会で、仕事のない
 社会だった。
  この「黒シャツ隊」は、「白人が仕事を得るまでは、
 すべての黒人の職を奪うのだ」という行動目標が掲げら
 れていた。
  また、この頃、黒人の方々は、白人たちから「リンチ」
 を受けていた。
  死者が出るという激しいものだった。
  ルーズベルトは、この様な時、1933年に、アメリカ大
 統領に就任した。
  黒人の方々は、黒人の方々の人権を守るために、「全
 米黒人地位向上協会(NAABC)」を結成した。
  そして、1938年、リンチを取り締まる「連邦法」の成
 立を求めて行動した。
  しかし、ルーズベルトは無視した。
  ルーズベルト政権の支援も得られず、廃案とされた。
  リンカーンが「奴隷解放した」と言うが、リンカーン
 には奴隷解放の意思はなく、
  社会の流れが、長い黒人の方々の虐げの終わりを、さ
 すが、続けていられないという反省・反動の中で、終わ
 る流れの中にあっただけで・・、
  その自由になった黒人の方々を、アメリカは、どうし
 ようと・・そして・・、
  そして、「リベリア」というアフリカの土地を取得し、
  そのアフリカの地を独立させ、自由黒人の方々を棄民
 しようとした。
  そして実行した。
  リンカーンも賛成していた、この政策を推し進めた。
  この様な社会のアメリカのその後も、この1863年のリ
 ンカーンの奴隷解放宣言の後も、黒人の方々は虐げ続け
 ていた。
  何ら立場は改善されずに居た。
  最下層の仕事にしかつけず、与えられずにいた。
  ルーズベルト大統領の世界不況の時は、さらに、黒人
 の方々は虐げられた。
  この頃の黒人の方々の失業率は、5割以上、5割を超え
 た。
  白人優先だった。
  黒人の方々への差別は激化していた。
  そして、アメリカ社会は、黒人の方々の「職を奪う」
 風潮が荒れ狂った。
.
  そして・・、
.
  題:グローバル・スタンダードに合わせるという事で
   戦争への坂を下りて行った・・、
    国際協調一点張りでは無理・・、
.
1931年9月18日、満鉄線爆破事件が起きた。
  この事件が・・満州事変の引き金を引いたとされるが・・、
  国際法で、国家間の懸案を解決をするため「保障占領」
 が認められていて合法だった。
  この事件が起きる直前に、「中国側が、今後も、日本
 側の抗議に応じないなら、奉天の町を軍事占領(保障占
 領)する」と検討されていた。
  それが、日本の総領事館で検討されるほど、中国の行
 動は過激だった。
  また、この事件に至る悲劇だったのは、また、この事
 件の遠因となったのは、日本の経済的不安定を生み出し
 たウォール街を発信源とする世界恐慌だった。
  そして、日本の経済的不安定を生みだした「このウォ
 ール街を原因とする恐慌」に対する索=「金解禁」の政
 策だった。
  浜口雄幸を首相とする浜口内閣の大蔵大臣の井上準之
 助は、「グローバル・スタンダード」に合わせるという
 考え方だった。
  (今・現在も「グローバリズムが良いのだ」というア
 メリカを発信源とする花が咲いているが?)、
  そこで、この井上準之助・大蔵大臣は、前記の様に、
 世界がウォール街を震源とする「株の大暴落の大嵐の中」、
  また、金本位制が、世界で崩れつつあるという中、
  井上大蔵大臣は、グローバルだと、それが良いのだと
 の理想を掲げて、その理想のなせる罪=金解禁を行なっ
 た。
  その結果、日本経済は「めちゃめちゃ」になった。
  奈落のどん底へ突き落とされた。
  やってはいけない、下劣なるグローバル協調路線を突
 き進んでしまっていた。
  日本は、必死に国際協調しよう、しなければとしてい
 たが、日本を潰(つぶ)したいというアメリカの思惑は
 変わらなかった。
  そして、この後、悲劇の「リットン報告書」が出て来
 る。
  グローバル主義には、「日本の伝統の否定」があり、
  また、「日本の文化の否定」があり、
  「日本の天皇制の否定」があった。
  また、この事について、コミンテルンも同調していた。
  そして、国内に同調する大学の教授陣が居り、
  また、取り込まれた官僚と、その上の高級官僚、
  そして、外務省官僚が居て(今・現在と非常に似てい
 た)、
  戦争への坂を、アメリカの頑(かたく)なな方針と共
 に降りて行った。
  「抵抗するものは排除」としながら戦争への坂を降り
 て行った。
  さも、「異教徒は殺せの排除思想」の行動だった。
  (参考)保障占領:ほしょうせんりょう、条約上の一
    定条件の履行を、相手国に間接に強制するために、
    相手国領域の一部 (ときには全部) を占領するこ
    と。
     講和条約が発効し、交戦国間に平時関係が成立
    したのちも、条約上の義務、たとえば、賠償支払
    義務、その他の条約実施を確保するために行われ
    る。
.
  そして・・、
.
1931年9月、フーバー大統領の政権に居た国務長官のスティ
 ムソンは、フーバー大統領へ二つの案を提示した。
  「経済制裁を行なって、日本を圧迫する」という案と、
 「国際世論を喚起して、警告する案」・・だった。
  スティムソンは、フーバー大統領へ、前者の「強行策
 の経済制裁」を勧めるのだった。
  しかし、フーバー大統領は、冷静に、次のように言っ
 た。
  「いかなる国も経済を破壊され、国が飢える様な制裁
 に、素直に応じるとは思えない」、
  「制裁は、銃撃を伴わない戦争行為である」・・と、
  また、フーバー大統領は言った・・、
  「イギリスやフランスも中国に利権を持っていて、日
 本と同じことをしている」、
  「日本に仲間意識も持っている」・・と。
  日本だけを経済制裁をするという『論理の公正さが無
 い』と指摘した。
  フーバー大統領の偉い所は、『自分たちも同じことを
 やっている』と考えた所だった。
  アメリカは、「フィリピンで、甘い汁を吸っていた」。
  そして、フーバー大統領は確かめた。
  「経済制裁の延長線上にある戦争の可能性について、
 真剣に考慮した。
  そして、実際、極秘で、対日参戦の意志を確認した。
  アメリカは、ルーズベルトの前の「フーバー大統領の
 時」でさえ、「日本との一戦の考え方が存在して居た」、
 「日本と戦う」の考えが存在していた。
  このフーバー大統領の後のルーズベルト大統領が、「
 日本に、真珠湾攻撃の奇襲攻撃をされたから、第二次世
 界大戦が起きた」と、急に、戦争に至った様に言うのは、
 『下手な茶番劇』だ。
  下手な演技はするな・・と言いたい。
  フーバー大統領は、この時、「イギリスに、戦争開始
 の意志を確かめた」、そして、否定されている。
  また、フーバー大統領は、「陸海軍長官に、日本に勝
 利することが出来るか?」と、その可能性を確認してい
 た。
  そして、フーバー大統領は、「日本と開戦すれば、ア
 メリカの植民地のフィリピンが占領されるだろう」と予
 測していた。
  また、「イギリスの参戦が望めないと・・参戦否定さ
 れているので、イギリスの参戦が望めないなら、戦争は
 長引き、5年間が戦争期間になるだろう」と予測し、
  「その為の戦争準備が必要である」としている。
  そして、急な開戦は無理として・・、
  「戦争をするのは、問題外」としている。
  スティムソンは、フーバー大統領の考え方に「完全に
 一致した訳ではなかった」・・が、「戦争は、回避しよ
 う」という考えに至った。
  スティムソンの考えは、「経済制裁で戦争に至ること
 はない」「経済制裁で日本の行動を止められる(自分た
 ちだけは、甘い汁は、吸い続ける・・だった)」。
  日本は、「日本から自分たちの資本を持って行って」、
 その資本を投下して、そして、共に豊かになろうという
 方針だった。
.
  そして・・、
.
  題:実質、戦争だという策を、アメリカは採用した。
.
1931年10月、アメリカの国務長官が、二つの提案をした。
  そして、これに始まって・・、
  1941年7月25日、フーバー大統領が、「戦争になるよ」
 と言った経済制裁の、最も強い制裁である制裁が、ルー
 ズベルト大統領によって、日本に加えられた。
  それは、アメリカにある「日本の資産が凍結された」
 のだった。
   第37代大統領であるフランクリン・ルーズベルト大
 統領の前の大統領であるハーバート・フーバー大統領は、
 回顧録に書く・・、
  フーバー大統領の時の国務長官であるスティムソンは、
 1931年10月の段階で、日本の行動を止めるための提案を
 二つした。
  一つが、国際社会による経済制裁であり、
  もう一つが、外交と国際世論による説得だった。
  そして、フーバーは言う・・「私は、もちろん後者を
 望んだ。
  だが、国務長官(スティムソン)は、外交官と言うよ
 りも戦士の様であり、
  『制裁で解決できると信じていた』。
  国務長官(スティムソン)は、制裁が、戦争につなが
 ると考えなかったようだが・・、第一次大戦の経験に照
 らせば・・大国に対する経済制裁は、「実質的な戦争を
 意味していた」。
  スティムソンは、強硬策を主張した。
  そして、このスティムソンの考え方は、ルーズベルト
 に継承された。そして、
  1940年6月、ルーズベルト政権の陸軍長官に、このステ
 ィムソンが迎えられた。
  ルーズベルト大統領の政策が、より一層、日本への強
 い経済制裁へとエスカレートして行った・・そして・・、
  1941年7月25日、アメリカ国内の「日本の資産が凍結さ
 れる」という最強の制裁をアメリカは日本へした。
  アメリカは、常に、強硬策を日本へ加えるという『強
 者の立場』と『強者の論理』の中に居た。
  フーバー大統領ではないが、ルーズベルト大統領は、
 戦争を仕掛け行為をするのに夢中な中にいた。
.
  そして・・、
.
1932年7月2日、ルーズベルトは、民主党の大統領候補の指
 名を受け、シカゴで『ニューディール』の呼びかけを行
 っていた頃、アメリカの首都ワシントンのアメリカ議会
 周辺では、2万人以上の退役軍人らが、居座りテントで埋
 まっていた。
  この人たちは、第一次世界大戦後、帰還しても仕事が
 無く、極貧の生活を送らざるを得ない方々だった。
  不況の最大の犠牲者の方々だった。
  政府が約束した「退役年金のボーナス」を即座に支払
 うようにと求めていた。
  通りや空き地、そして、道路に面したビルなどを占拠
 していた。
  1932年7月28日、朝、群衆の投石で始まった小競り合い
 は、警察側の発砲で退役軍人の2人が即死した。
  これがきっかけで、群衆の5000人以上が、レンガやこ
 ん棒を手に暴れ回って、手が付けられない状態になった。
  午後になって、警察は、フーバー大統領に、軍の出動
 を要請した。
  アメリカ陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサー(後
 のGHQ最高司令官)は、直ちに、軍を出動させ、鎮圧
 を命じた。
  6両の戦車も出動して、銃剣を付けた歩兵大隊、そして、
 サーベルを抜刀した6縦列の騎兵隊が出動するという物々
 しい市街戦もどきとなった。
  テントなども焼き払われた。
  内乱の様相だった。
  アメリカ国民の方々は、一層、不安と恐怖に陥(おち
 い)った。
  群衆には革命を起こしたいという意図があったと言わ
 れた。
  作戦に参加したアイゼンハワーやパットンは、英雄と
 祭り上げられて行く。
.
  そして・・、
.
1933年、アメリカの失業者数が、最悪の1400万人に膨れ上
 がった。
  因みに、1929年の4年前は155万人・・で、
  1930年は、434万人だった。
.
  そして・・、
.
1933年2月15日、ルーズベルトが狙撃された。
  アメリカ大統領に就任する約2週間前、ルーズベルトは
 狙撃された。
  アメリカは、この様な社会不安の中にあった。
  破壊的な不況が社会をむしばんでいて、アメリカ国民
 の方々は、恐怖に捉(とら)われていた。
  「社会改革。さもなくば革命を」という事を、初期の
 ルーズベルト政権を支えたアドルフ・バーレは警告した。
  この狙撃された日、ルーズベルトは、友人のヨットで
 カリブ海を周遊していた。
  そして、国民や支持者に顔を見せ、挨拶したいと、マ
 イアミ公園に立ち寄ることになった。
  会場は、新大統領を、一目、見たいと群衆が溢(あふ)
 れた。
  そこに警護官に警護されたルーズベルトのオープンカ
 ーが現れた。
  後部座席のルーズベルトは、群衆の歓声に手を挙げ応
 えた。
  ルーズベルトは、簡単な挨拶ぐらいで立ち去ろうと思
 っていた。
  近くには知人のシカゴ市長のアントン・サーマック氏
 が居た。
  サーマック氏が、ちょうど、ルーズベルトへ話し掛け
 た時、鋭い銃声がした。
  銃弾は、サーマック氏の胸を貫いた。
  ルーズベルトからわずか10数センチの所だった。
  サーマック氏は、これで死亡した。
  群衆の数人も、流れ弾で重傷を負った。
  青年の単独犯行ということで、大きな政治事件になら
 なかった。
  この様な血なまぐさい事件が、この頃、アメリカでは
 頻発していた。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第37代ア
 メリカ大統領就任式に臨んだ。
  ルーズベルト大統領は、大統領就任の時点で、すでに、
 不埒(ふらち、道理が外れていて、けしからぬこと)に
 も、戦争を利用した景気浮揚策が、彼の頭の中にあった。
  アメリカ国民の方々の8割以上が「戦争はしない」とし
 ていて、また、ルーズベルト本人も、大統領選挙期間中
 に、何度も何度も「戦争はしない」と宣言していた。
  しかし、その様に宣言していたのに、ルーズベルトの
 頭の中には、世界恐慌から脱却するためには戦争需要を
 利用しようという考えがあった。
  ルーズベルトの前任の大統領のフーバーは、ルーズベ
 ルトへ、「国際経済を重視すべき」と訴え続けた。
  しかし、ルーズベルトは、フーバーを避け続けた。
  世界経済とともにアメリカ経済も転落の一途をたどり
 続けていた。
  取付け騒ぎが連鎖的に起きていて、銀行は、次々と閉
 鎖状態に追い込まれていた。
  アメリカ経済は、急速な悪化の中にいた。
  フーバーは、1933年2月、退任まであと10日しかない時
 点で、ルーズベルトへ手紙を書いた・・、
  「不況の問題は、人々の心の中に潜んでいる。
  将来への不安な増大し、今や危険点に達している。
  新大統領である貴方(ルーズベルト)の確約こそ人々
 に自信をよみがえらせ、購買欲を引き起こし、景気を回
 復させることが出来るのです」・・と。
  ニューヨークで、風刺劇を観劇中に、この親展の手紙
 を手渡されたルーズベルトは、それを無視しただけでな
 く、2週間も返事さえ書かなかった。
  1933年3月4日、ルーズベルトは、大統領就任式に臨ん
 だ。
  ルーズベルトは演説で言った・・、
  「偉大な国は必ずや復活し、栄える。
  恐るべきは恐慌です。
  必要なのは行動であり、重視すべきなのは失業者を仕
 事に就かせることなのです。
  この危機に直面し、私は、戦争をも想定したような幅
 広い権限を議会に求めるでしょう。
  実際、外国の侵略を受けた時に与えられるであろうほ
 どの強大な権限をです」。
  民衆へ言った。
  当時、急速に普及したラジオで、多くのアメリカ国民
 の方々がこれを聞いた。
  これを聞いたルーズベルトの妻のエレノアは、ルーズ
 ベルトが演説で『戦争を想定した』と言ったとたん、聴
 衆が思わず歓声を上げ、拍手喝采(かっさい)した事に
 「恐ろしい印象を受けました」と語っている。
  まったく、ドイツのヒトラーの民衆を煽(あお)る『
 アジ演説』と同じ、ルーズベルトの演説だった。
  取付け騒ぎ(とりつけさわぎ)とは、特定の金融機関
 や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・
 貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急
 激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと。
  アジ演説は、民衆を扇動する演説。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-15 05:23 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)

題:(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月、全国で憲法発布の祝賀会が行われる。
  理解していない人も多かった。
  1889年2月9日:東京では、11日日の憲法発布をひかえ
 てその準備のため、言語に絶する騒ぎを演じていた。
  至るところで奉祝門(ほうしゅくもん)、イルミネー
 ション(照明)や行列等の祝賀行事が行われた。
  だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を存じな
 いのだ。
  1889年2月11日(東京)本日、憲法発布。
  天皇陛下の前には、やや左に向かって諸大臣、高官が
 整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなけ
 れば立場をかえて将軍であったはずの徳川(田安)亀之
 助氏(徳川家達氏)や、
  ただ一人(洋服姿でいながら)なお、正真正銘の旧い
 日本のまげをつけているサツマの島津侯(忠義=島津久
 光の長男で、開成所を創設、藩の近代化を進め、また、
 1867年、密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力した)を
 認めた。
  珍妙な光景だ!‥‥残念ながらこの祝日は,忌(い)
 まわしい出来事で気分がそがれてしまった――森文相の
 暗殺である。
  1889年2月16日(東京)日本憲法が発布された。
  新聞が、すべて満足の意を表している。
  東京帝国大学で26年間医学を講義したドイツ人医学者
 ベルツの日記より抜粋した)
1889年2月12日、黒田清隆首相が、地方長官に超然主義の
 方針を訓示した。
  超然主義は、他の動きには関知せず、自分の独自の立
 場から事を行うという主義で・・、
  大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が、政党の影響を
 受けずに政治を運用しようとした政治姿勢を言った。
  この時の黒田清隆首相が、地方長官を鹿鳴館に集めて
 演説した。
  その中で、「政府は、常に一定の方向を取り、超然と
 して政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」
 とのべたことから『超然主義』が一つの政治姿勢をあら
 わす言葉として使われるようになった。
  大日本帝国憲法は、政党内閣を制度として認めていな
 い。
  藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党政治
 から距離を置く傾向があった。
  (薩長閥の均衡と交代を基調に、組閣や内閣運営を行
 なう体制としたいという意向だった)。
  しかし、政党の政治的力はしだいに強まって行った。
  その後、超然主義を持続することは困難となった。
1889年2月13日、海軍治罪法が公布された(2月15日説あり)
  海軍治罪法は、大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施
 行された軍法で、
  1884年(明治17年)に、海軍治罪法(明治17年3月21日
 太政官布告第8号)として制定され、
  1889年(明治22年2月15日法律第5号)に全部改正され
 た。
  1922年(大正11年)に「海軍軍法会議法」(大正10年
 4月26日法律第91号)が制定され、それにより廃止された。
  構成は・・、
  第一章:総則、第二章、軍法会議ノ構成、第三章:軍
 法会議ノ権限、第四章:海軍検察、第五章:審問、第六
 章:判決、第七章:再審、第八章:復権、第九章:特赦
1889年2月15日、秋田新報(秋田日報)をあらためて、秋田
 魁新報(あきたさきがけしんぽう)が創刊された。
  東北地方で最も長い歴史を持つ新聞で、首相になる犬
 養毅が主筆を務めていた時もあった。
1889年2月23日、『女学雑誌』が、皇室典範を批判した。
  女学雑誌は、1885年7月に、「女学新誌(1884年)」の
 後身として創刊された女性向け婦人雑誌で、
  (婦人論が活発になった風潮をみて「女学新誌」を、
 1年で廃刊して「女学雑誌」を創刊した)
  編集のほとんどを明治女学校の校長・巌本善治が担当
 し、
  男女同権論や自由恋愛論など、婦人解放の立場に立っ
 た啓蒙的な活動をしていたが、
  その後は、北村透谷、石橋忍月、山路愛山、内田魯庵
 らを登場させ、明治浪漫主義文芸運動の母体となった 。
  明治20年代(1887年代)のオピニオン・ジャーナリズム
 の一翼を担った。
  1904年(明治37年)2月、526号で廃刊となった。
  (1903年には『文学界』が分離独立していった)
1889年2月、『頓智協会雑誌』が、憲法発布に合わせ、宮武
 骸骨が程度の悪い絵などを使い、
  寓意画入りの「頓智研法発布」論説を掲げ、 不敬罪で
 発禁処分を受けた。
  (同誌創刊者で編集発行人の宮武外骨(みやたけがい
 こつ、20歳)は、3月4日に、収監された)
1889年2月、全国で、憲法発布に関する錦絵出版が盛んにな
 る。
1889年3月2日、東京図書館官制を公布し、東京図書館を文
 部省直轄機関として独立させた。
  東京図書館官制公布によって東京教育博物館から分離
 し、独立の図書館となるが、
  財政や施設が、ともに貧弱であり、国立図書館という
 にはまだまだ不十分でだった。
1889年3月9日、参謀本部条例、海軍参謀本部条例が公布さ
 れた。
  参謀本部は、創設以来、日清戦争に至るまで、制度は
 しばしば改正された。
  外征ができるための機構の改編だった。
  1886年(明治19年)、参謀本部は、陸海軍を統一管掌
 する機関となった。
  そして、参謀本部に陸軍部と海軍部が置かれた。
  1888年(明治21年)に、陸海軍を統一管掌する参謀本
 部を参軍と改めた。
  そして、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く
 制度となった。
  機構の充実のための措置だった。
  翌年の1889年に、参軍制は廃止され、参謀本部条例が
 制定されて、陸軍の軍令機関として参謀本部は残り、
  海軍の軍令機関は、海軍大臣に属する海軍参謀本部に
 機構を縮小された。
  1889年5月、陸地測量部条例が公布された。
  参謀本部の一局であった測量局は分離され、本部長直
 属の独立官庁として、陸地測量部となった。
  その主務は、「陸地測量を施行して兵要地図、及び、
 一般の国用に使うべき内国図を製造し、修正して正す業
 務、そして、その他の量地に関する事を行なった」。
  そして、下部組織に三角・地形・製図の三科、および、
 修技所を置いて、測量局の業務を引き継いだ。
  この時の組織改正によって、全国規模で行われる測量
 については、行政上・国防上の見地から、陸地は陸軍に、
 水路は海軍で、それぞれ統括するという方針が組織面か
 ら確立された。
  これは、1945年の終戦まで継続された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのこと・・、
.
1924年7月1日、アメリカは、卑劣にも「排日移民法」を施
 行(しこう、実際に行うこと。政策などを実行すること)
 した。
  アメリカは、日本を、国家として貶(おとし)めた。
  また、アメリカは、日本人を人種として貶めた。
  また、アメリカは、日本の文明を貶めた。
  アメリカは、その様な、あらゆる点で、日本を貶める
 法規を作った。
  日本へ、そして、日本人へ、強い劣等意識を突き付け
 た。
  何ら、その法の根拠はなく、ただ、感情的に差別した。
  根には、キリスト教の有色人種蔑視の教義・考え方が
 あった。
.
  そして・・、
.
1927年(昭和2年)3月、昭和金融恐慌(経済恐慌)が発生
 した(日本経済)。
  因みに、世界大恐慌は1929年に始まった。
.
  そして・・、
.
1928年、アメリカ大統領のフーバーが、「貧困という言葉
 が無くなるだろう」と豪語するくらい、アメリカは好景
 気だった。
  しかし、この時、アメリカ景気は、曲がり角に来てい
 た。
  第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは、大戦への
 輸出によって発展した重工業の投資、
  帰還兵による消費の拡張、
  モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍
 進、
  ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、
  同地域への輸出の増加などによって・・「永遠の繁栄」
 と呼ばれる経済的好況を手に入れた(この後の時代のル
 ーズベルト大統領も第二次世界大戦を引き起こして利用
 した戦争景気)。
  1920年代前半に、既に、農作物を中心に余剰が生まれ
 ていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題
 は発生しなかった。
  しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの
 復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。
  また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国
 の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市
 場からの離脱などにより、アメリカ国内の他の生産も過
 剰になって行った。
  また、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業部門も不振
 になっていた。
  1927年に、ジュネーブで行われた世界経済会議では、
 恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審
 議・採択された。
  商業では、関税引き下げ、
  工業では、コストダウン目的の産業国有化、独占禁止
 と生産調整の国際協定、
  農業では、方法の改良と資金の貸付について議論され
 た。
  しかし、決議そのものは、各国議会から無視されてし
 まっていた。
  3月には昭和金融恐慌が起きた。
  そして、1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが
 信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年7月30日、世界恐慌のきっかけとなるニューヨーク・
 タイムズ紙が信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年10月25日、この日のニューヨーク・タイムズ紙が、
 「株式市場は、史上最大の破壊的な落ち込みに襲われた」
 と、大見出しで歴史的大暴落を報じた。
  この約2か月後、アメリカのホワイトハウスが火事に
 なり西棟が焼け落ちた。
  アメリカ国民へ、一層、暗いイメージを与えた。
.
  そして・・、
.
1929年12月24日、クリスマスイブのこの日の夕刻、ホワイ
 トハウスが火事になり、5時間後には瓦礫(がれき)の山
 になり、分厚いコート姿のフーバー大統領は、ただ呆然
 (ぼうぜん)と立ち尽くしていたと記録されている。
  ホワイトハウス西棟が焼け落ちた。
.
  そして・・、
.
1932年11月、ルーズベルトは、前任の大統領のフーバーと
 の大統領選挙に勝った後、11月に、ホワイトハウスに、
 わざわざ、立ち寄った。
  フーバーとルーズベルト、二人が、直接、顔を合わせ
 たのは、この時が初めてだった。
  ルーズベルトは、上機嫌だった。
  フーバーは、足元を見つめ、苦虫を噛み潰したような
 顔をしていた。
  重苦しい雰囲気を破ったのはフーバーだった。
  フーバーは、アメリカの現状や課題などを語りだした。
  約1時間にわたって語り続けた。
  「第一次世界大戦で最大の債権国となったアメリカ」
  「世界が大不況にある今、その債権の借金を取り立て
 ては駄目で、一時的にもあきらめなければならない」
  「不況の悪循環は、避けねばならない」などと。
  同行していたルーズベルトの政策顧問のレイモンド・
 モーレイは、「フーバーが、具体的な数字を含め、完全
 に問題点を理解しており、その緻密(ちみつ)さに圧倒
 された」と証言している。
  その間、ルーズベルトは、まるで素人のような質問を
 繰り返すばかりで、問題点や、論点を理解していなかっ
 たという。
  アメリカは、間違った選択をしたと言える。
  今、2017年、オバマ大統領から、トランプ大統領へと
 バトンが渡されて行くが、この様な間違いのバトンタッ
 チではないことを・・祈る。
  ルーズベルトの様な、「問題点や論点を本当の意味で
 理解していないで、トンチンカンな素人に毛が生えたく
 らいで大統領になった」という・・過去の悪い事例の様
 にならない様にと・・祈る。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代の
 アメリカ大統領に就任した。
  ルーズベルトは就任した際、ヘンリー・モーゲンソウ
 を連邦農業審議会の議長に指名した。
  そして、翌年の1934年に、財務長官のウィリアム・ウ
 ッディンが病気で辞任すると、このモーゲンソウを、後
 任の財務長官に指名した。
  そして、ルーズベルトが、この財務長官のモーゲンソ
 ウに言った言葉が記録されている。
  それは・・、「私〈ルーズベルト)はジャグラー(曲
 芸師)なのだ。
  右手と左手がまったく別々の動きをする。
  例えば、欧州向けに特定の政策があっても、北米や南
 米では、まったく正反対の政策を、平気で実施すること
 が出来る。
  私は、矛盾だらけで、ミスリード(失敗の間違った政
 策〉だってする。
  戦争に勝つためなら・・嘘だってつく」。
  この言葉は、本当に、アメリカの政治を現わしている。
  アメリカの利益になれば、嘘だってつき、弱い者でも
 誰でも暴力をふるう。
  領土や、金を、利益を奪う・・である。
  歴史学者のウォーレン・キンポールが、ルーズベルト
 を軽蔑して「曲芸師(ジャグラー)」と呼ぶ。
.
  そして・・、
.
1945年2月4日少し前、ヤルタ会談が開かれる前の事である。
  アメリカが、地中海方面での会談を望んだ。
  しかし、スターリンは、「長旅が禁じられている」「
 気候の変化がよくない」などと、のらりくらりと会談の
 出席を断り続けた。
  ドイツが敗退し始めると、ソ連の東欧占領が確実にな
 って行った。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、そうした状況に焦
 っていた。
  早急に戦後を協議する必要性に迫られていた。
  スターリンは、ソ連軍の進撃があればあるほど、占領
 地域が拡大して行った。
  協議の開催が、遅ければ遅いほどソ連に有利に働いた。
  スターリンも、その様に判断していた。
  ルーズベルトは、この頃、体が、体調が、最悪な状態
 にあった。
  焦るルーズベルトに、イギリスのチャーチルが「最悪
 の場所」と呼んだヤルタに向かうしか選択の道は残され
 ていなかった。
  ヤルタはクリミアの都市で、クリミア半島南端に位置
 し、黒海を臨んでいる地。
  スターリンには近いが、体が弱っているルーズベルト
 には遠かった。
.
  そして・・、
.
1945年2月8日~2月11日、ヤルタ会談が行われた。
  ヤルタは、ソ連領のクリミア半島南端に位置し、黒海
 を臨む地だった。  
  このヤルタ会談は失敗だった。
  ドイツがソ連領から退却し始めて、それで、ソ連は、
 自信を付けたのか? ヤルタ会談以降のソ連は、特に、
 横暴となった。
  ヤルタという遠隔地に赴(おもむ)いたアメリカ大統
 領のルーズベルトには、その出張は重荷だった。
  その様なルーズベルトの印象が、スターリンにその様
 な横暴な態度をとることをさせたのか?
  何しろ、チャーチルが言うように、ヤルタは「最悪の
 場所」だった。
  この事からも、この地が会談場所として選ばれた事は、
 ソ連の勝利の一端が伺(うかが)える。
  ヤルタ会談から2か月後、駐ソ連大使のハリマンは、是
 非、帰国したいと、アメリカ国務省に願い出た。
  すると、国務長官のステティニアスは、「持ち場を離
 れることは許されない」と拒否した。
  サンフランシスコの国連憲章会議に出席するソ連外相
 のモロトフに同行するという名目で、ハリマンは、4月19
 日に、ワシントンに来ることが出来た。
  早速、翌日・1945年4月20日、ハリマンは、ホワイトハ
 ウスを訪れ、新大統領のトルーマンに会った。
  ルーズベルトの葬儀から5日後だった。
  国務長官のステティニアスと国務長官代理のグルーが
 同席した。
  ハリマンは言った、「大統領、今、ヨーロッパでは新
 たな野蛮による侵略が起こりつつあります」・・と。
  「ソ連に対する幻想を捨てなくてはなりません」と。
  ハリマンは、ヤルタ会談以降、ソ連が横暴となり、欧
 州解放宣言にもかかわらずソ連占領地では、傀儡(かい
 らい)政権が樹立され、どんどん共産化が進んでいる・・
 と報告した。
  ハリマンは、1945年5月にも、再度、帰国し政府首脳に
 訴えた。
  「日本をどうするか?」の話を乗り越えた、大きな懸
 念が生まれていた。
  そして、日本を、この様な状態にした行為が正しかっ
 たのか?
  また、良かったのか?
  また、日本を、完全破壊するのか?
  ・・の疑問が・・、
  アメリカ政府首脳の頭に去来していた。
  国務長官代行のグルーは、眠れぬ夜を過ごした。
  この様な時の流れの中で、ルーズベルトが進めてきた、
 20億ドルもの巨費を投じて開発した原子爆弾が完成しよ
 うとしていた。
  新大統領トルーマンと、陸軍長官スティムソンと、ト
 ルーマンに大きな影響力を持つ新国務長官のバーンズら
 3人は、それを、原爆を日本に投下すべきかの国際法違反
 行為の原爆投下の選択をどうするかが迫られていた。
  グルー等は、「日本の国体維持・天皇制維持の承認を
 する」・・それで、「原子爆弾投下は、一種の脅し」で、
 戦争の早期終結を計る・・という考え方にあった。
  そして、その提案をした。
  だが、トルーマンの決断に影響を与えたのは・・バー
 ンズだった。
  トルーマン大統領をはじめ、アメリカの政府首脳たち
 は、このバーンズの強力な原子爆弾投下論に対する意見
 を持っていなかった。
  結局、このバーンズの投下論が、アメリカ政府意見・
 判断となった。
  バーンズは、1945年5月28日に、核融合の研究者で、原
 爆製造計画に携わってきたシカゴ大学のレオ・ジラード
 と会った。
  手にはアルバート・アインシュタインの推薦状を持っ
 ていた。
  サウスカロライナのバーンズの自宅を訪ねていた。
  ジラードは、最初、トルーマン大統領に面談を求めた
 が、トルーマンからは、バーンズに会ってくれと言われ
 ていた。
  ジラードは、15ページもの書類をバーンズへ渡し、原
 爆開発に携わった科学者の総意を記した内容を説明した。
  それは、『ナチズムの終焉のために開発してくれ』と
 言われ、ユダヤの方々の研究者が多く参加し、組織され
 た開発組織によって開発されたのだった。
  日本へ投下すべきとして開発されたのではない。
  「(ドイツが降伏して)戦争終結が間近な今、原爆投
 下の意味はない」。
  「原爆投下は単なる破壊でしかない」。
  「原爆の使用によって、戦後、ソ連などと一層の開発
 競争を強める可能性もあり、使用は、まだ、控えるべき」。
  バーンズは、その話を聞き、信じられないという顔を
 した。
  そして、言った・・、
  「あなた方は何もわかっていない。巨額の開発費に見
 合う結果を出さずに、次の研究への予算が議会を通ると
 でも思うのですか?」・・と反論した。
  バーンズは、結果を、成果を出さないと政治問題化す
 ると言った。
  スティムソンやグルーの脅しに使うという意見に対し
 ても、
  バーンズは、「そんな警告を与えたら、目標地点に捕
 虜の米兵を送り込むだろう」
  「原爆が不発(使わない)で終わったら、原爆が不発
 だったと逆宣伝されるに違いない」・・と。
  そして、ポツダムでの会談へ向かうトルーマンらのア
 メリカ政府首脳たちは、この時には、「京都、広島、新
 潟」の三地点のどこに投下するか?・・の話になってい
 た。
.
  そして・・、
.
  アメリカのやった事。
  アメリカは、国際法で「してはならない」とされた『
 非戦闘員(民間人)の殺戮』をした。
  民間人殺戮を目的とした「原爆投下」や「じゅうたん
 爆撃」など・・、
  そして、負けた国のプライドや、文化や価値観を、土
 足で踏みにじった。
  そして、敗戦国を二度と立ち上がれないようにした。
  明らかに、その様にしようという意思でもって行った。
  未発達の昔でも、非武装の婦女子を大量に、無差別に
 殺戮はしなかった・・という、人類の『最低の掟」を踏
 みにじった。。
  このやってはならない卑怯・卑劣な事を、アメリカは
 行なった。
  アメリカとは、その様な国である。
  アメリカは、自分が正しいのだと、そして、自分こそ
 正義だと、「独善的な考え方」で、事を処理し、そして、
 外交をした。
  自分たちだけに都合の良いイデオロギーや、歴史解釈
 をやった。
  これが正しいのだと、他国に一方的に押し付けた・・
 また、押し付け続けた。
  納得しない者・・国は・・異教徒とされ・・
  「異教徒は殺せ」とキリスト教の考え方となった。
  また、今も・・多分に・・その中にいるアメリカとな
 っている。
  納得できない・・お前が・・悪いのだ・・と・・、
  また、戦争に勝つためなら何をやってもいいのだとい
 う考え方で・・、
  「戦争に勝つためには手段を選ばず」・・と、
  非武装の子供や女性を含む一般人を・・大量に無差別
 に虐殺した。
  そのアメリカの歴史が、累々と積み重なって来ている。
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々は何千万人と・・殺された。
  ベトナムの方々も、卑劣な武器によって殺され・・新
 しい武器を試す・・などという・・卑劣な行為もなされ
 た。
  フィリピンの方々も、ドゥテルテ大統領が怒ったよう
 に・・多くの方々が、フィリピンの方々も殺された。
  ハワイの方々も・・メキシコの方々も・・
  日本も・・日本人は、卑劣な武器である原爆を落とさ
 れ、また、都市という都市を、市民をターゲットにして、
 非戦闘員に対して、無差別に大量の爆弾が落とされた。
  この他、まだまだ数多くの行為がある・・
  また、アメリカは、戦争に勝つと、負けた国を徹底的
 に叩き潰した。
  二度と自主防衛すら出来ないようにしておこうとした。
  こんな事は・・どこの国もやらなかった。
  傲慢でエゴイスティックな鉄血宰相のビスマルクでさ
 え、やらなかった事を・・アメリカはした。
  ビスマルクは、「相手の国に恨みを残すようなことを、
 してはならない」・・と、口癖のように言っていた。
  しかし、野蛮性を持ったアメリカは、戦争に勝つと、
 相手の国に土足で上がり込んで来て・・、
  相手国の人々(国民)へ、「戦争に敗けた国は邪悪な
 国である」というプロパガンダ(嘘宣伝)を吹き込んだ。
  さらに・・敗戦となった国が、二度と独立した外交政
 策や国防政策を実行できないようにするため、
  敗戦国を「不能国家」「去勢国家」に作り替えを行な
 った。
  キリスト教の神が居るから「勝ったのだし」・・その
 様な行為が「許されるという迷信」の下に行われた。
  卑怯・卑劣な独善的な外交アジェンダ(政治・政策的
 な分野で、検討課題、行動計画)を押し付けてくる。
  ケナンや、ウォルツなどが言っている・・、
  「第一次世界大戦の後、アメリカが、あんな無責任外
 交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなかっ
 た」・・と、
  アメリカ外交の二大目標は、「日本とドイツを二度と
 自主防衛できない状態にしておく」とした。
  アメリカは、日本人の歴史解釈まで強制的に変更させ
 た。
  そして、アメリカは、戦争に勝ったのだからと、さも
 権利の如くに、敗戦国をディモナイズ(悪魔化)した。
  また、ディヒューマナイズ(非人間化)した。
  アメリカは、敗戦国の子供や女性を含む一般市民を『
 何百万人も虐殺していること』に対しての「罪悪感」さ
 え感じていない。
  今でも、現代でも、アメリカは、中東で、アフガンで、
 世界中で、ディモナイズし、ディヒューマナイズしてい
 る。
  ディビット・ハルバーズタムは言う・・、
  「アメリカ外交を見ると、本当に『アメリカ人は田舎
 者だ』と思う。
  アメリカ人は、いつまで経っても、国際政治が理解で
 きない田舎者の集団だ。
  だから、ベトナム戦争の様な愚劣な戦争をやって、と
 んでもない破壊行為を実行するのだ」・・と、
  アメリカは、自分たちだけが、世界を支配するんだと
 いう意識しかなかった。
  自分たちがすべての国を押さえつけていないと駄目だ
 ・・と、傲慢に考える。
  ウォルツも言う・・、
  「アメリカ外交というのは、自分たちのやり方を、全
 部、他の国に押し付けようとする。
  過剰な介入主義を実行する。
  それが出来ない場合は、腹を立てる。
  そして、そっぽを向き、引きこもって、孤立主義をや
 る」・・と。
  トランプも・・これなのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-13 15:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)

題:(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月6日、横浜正金銀行条例改正。
  横浜正金銀行条例が改正され、6月1日に施行される。
  取締役の就任に、大蔵大臣の許可が必要となる。
  また、大蔵省による、特別監督制度が始まった。
  正金銀行の政府所有株が、家族世襲財産法に該当とな
 る。
  横浜正金銀行の対外金融機関化が進んだ。
  正金銀行の業務は、創設後から海外関係が多く、特に、
 欧米銀行との為替取引がその大半を占めており、国立銀
 行と異なっていた。
  こうした状況下で、1987年(明治20年)7月、政府は、
 「横浜正金銀行条例」(勅令第29号)を制定した。
  この条例は、正金銀行が、創設時の準拠法規である国
 立銀行条例に比べ、外国貿易・為替関係業務を担当する
 特殊銀行の条例として、
  さらに、正金銀行は、政府の保護監督のもと特殊金融
 機関(外為・貿易金融機関、政府在外資金取扱銀行)で
 あることを法的に明確にするものであった。
  この条例によって、正金銀行に対する大蔵省の監督規
 定が明らかとなり、その後の正金銀行の営業活動の規制
 も強化されることになった。
  そして、1888年(明治21年)9月、正金銀行と日本銀行
 は協約を締結し、両行ともに政府の機関であり、
  外国に関する業務(国際金融)は正金銀行が取扱い、
  日本銀行は、その後見役として必要な円資金(年間300
 万円、年3部)を供給し、その返済は正貨で行うことにし
 た。
  しかし、1889年(明治22年)3月、正金銀行は、この間
 の政府資金による御用外国荷為替制度が廃止されて、経
 営の転換を余儀なくされた。
  この制度の廃止により、正金銀行は、外国為替相場の
 変動、為替資金の調達・貸出金利など、外国為替業務に
 おける損益は自行に帰着する事になった。
  正金銀行は、営利採算を考慮した経営を行なうことが
 不可欠となり、こうした条件のもとに外国貿易・為替を
 専門担当して行くことになったが、
  その後においても、正金銀行の経営は依然として政府
 の強い規制(政府出資や大蔵省の管理機構)のもとに置
 かれた。
  また、その間、富田鉄之助日本銀行総裁が、日本銀行
 による外国為替の取り扱いを要求し、大蔵省や正金銀行
 と激しく対立した。
  しかし、1889年6月、松方大蔵大臣は、日本銀行が正金
 銀行に資金を供給して、
  正金銀行に、外国為替の取り扱い、及び、正貨吸収に
 当らせることにした。
  富田は、これを拒否して、日本銀行総裁を辞任したた
 め、松方大蔵大臣は、この後任として、川田小一郎を登
 用する事とした。
  こうして、1889年10月、「準備金」が、紙幣交換基金
 特別会計に移されたが、
  政府は、正金銀行を、国際金融の直接の担当者とする
 方針を堅持し、
  正金銀行は、日本銀行との間に外国為替手形再割引契
 約を締結した(年額1000万円を限度、2分)、
  日本銀行の信用供与、そして、さらに、政府の保護政
 策を背景に、対外進出をすすめ、外国貿易・為替を取扱
 い、日本の対外貿易における商権の回復に努めた。
  しかし、1890年(明治23年)、正金銀行は、凶作に伴
 う金融のひっ迫や、
  同行内部の紛争に加え、
  アメリカのシャーマン銀買上法に伴う銀価の暴騰、
  さらに、ベアリング恐慌の影響のもと、
  再び、経営の危機に直面した。
  (菊池道男氏の論文・その他を参考にした)
1889年2月9日、東京府の指示で、東京在住の俳優・鑑札・
 納税事務の合理化ための東京俳優組合を結成した。
  日本俳優協会の前身、頭取に市川団十郎
  鑑札:かんさつ、ある種の営業や行為に対して役所が
 与える許可証。
1889年2月10日、『風俗画報』が創刊された。
  風俗雑誌で、東陽堂発行。1916年3月に廃刊となった。
  通巻478号。号数外の増刊を含む総冊数は517冊。
  西欧のグラフ雑誌の影響を受け、はじめは主として石
 版画で、後に、写真版が挿入された。
  日本で初めて誌名に「画報」の文字が使われた。
  創刊号は28ページ、定価10銭。
  「画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル」ことを目
 的に、江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗の紹
 介、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、
 創刊当初は、復古調の時流を反映して、江戸研究に重点
 が置かれた。
  絵にふりがな付の文章が載った。
1889年2月11日、大日本帝国憲法(欽定憲法・明治憲法)が
 発布した。
  翌年・1890年11月29日に施行された。
  また、同日、皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、
 議員法、大赦令、会計法を公布した。
  アジア初の近代的な憲法(立憲君主制) で、国号が大日
 本帝国となった。
  ドイツ・プロシアの立憲君主制を範としたもので、そ
 の制定は、1881年の政変に際して決定されていた。
  天皇主権を原理とする成文憲法で、7章76か条からなる。
  天皇陛下の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、
 輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定される。
  伊藤博文を中心に井上毅(いのうえこわし)らが起草し
 た。
  明治維新にあたり、政府は、五ヵ条の誓文、政体書を
 出し政府組織を整えるとともに、版籍奉還、廃藩置県、
 身分制の廃止、徴兵令、地租改正等によって近代国家と
 しての体裁を形成していった。
  しかし、西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるた
 めには、富国強兵政策を推進する一方で、文明国にふさ
 わしい近代法典を整備する必要があった。
  勝海舟、憲法発布記念章授与(氷川清話)
  勝海舟、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う(氷川清話)
  憲法、皇室典範発布(氷川清話)
    内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
    枢密院議長  伯爵 伊藤博文
    外務大臣   伯爵 大隈重信
    海軍大臣   伯爵 西郷従道
    農商務大臣  伯爵 井上馨
    司法大臣   伯爵 山田顕義
    大蔵大臣
    兼内務大臣  伯爵 松方正義
    陸軍大臣   伯爵 大山巌
    文部大臣   子爵 森有礼
    逓信大臣   子爵 榎本武揚
 大日本帝国憲法
  第一章 天皇
  第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  第二条:皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之
   ヲ継承ス
  第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲
   法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  第五条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  第六条:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  第七条:天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及
   衆議院ノ解散ヲ命ス
  (以下、略)
1889年2月11日、 「皇室典範(こうしつてんぱん)」が公布し
 た。
1889年2月11日、 「議院法」が公布した。
1889年2月11日、 「衆議院議員選挙法」が公布した。
「貴族院令」公布、
「大赦令」公布
1889年2月11日、万歳三唱が始まる。
  天皇陛下が、青山観兵場へ臨幸し、その時、帝大・外
 山正一教授の音頭によって、万歳三唱が始めて行われた。
1889年2月11日、大阪朝日新聞が、憲法全文を東京より電報
 を使って入手し、号外を発表した。
1889年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  社長:陸羯南
1889年2月11日、西郷隆盛へ、正三位が追贈された。
1889年2月11日、文部大臣森有礼、暴漢に襲われ重傷。
  森有礼(もりありのり)、日本の武士(薩摩藩士)、
 外交官、政治家。
  初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社
 会長、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を
 務め、明治六大教育家に数えられた。
  正二位子爵。
  2月11日の大日本帝国憲法発布式典のこの日、
  式典に参加するため、官邸を出た所で国粋主義者・西
 野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
  応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去した。
 43歳だった。
  当時の新聞の誤報が原因という話がある(伊勢神宮不
 敬事件)
  文部大臣・森有礼が兇徒に倒れる(氷川清話)
  明治22年には文相・森有礼の暗殺(氷川清話)
1889年2月12日、森有礼が死去した。
  享年:42歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:やむなく、日本は、対米戦争を決意した・・、
.
1941年9月6日、種々いろいろと、戦争を避けようと努力し
 て来た日本だったが・・、やむなく、日本は、対米戦争
 を決意した・・、
  ・・が、このことを、
  アメリカは、暗号解読をして、すでに知っていた。
  アメリカ上下院合同真珠湾調査委員会の報告書によれ
 ば・・、
  アメリカは、1941年(昭和16年)9月6日の日本の御前
 会議の内容を暗号解読機「マジック」によって解読し、
 把握していた。
  日本が対米戦争を決意したことや、12月1日を、対米交
 渉の最終期限などのことまでも・・、
  アメリカは、11月25日までに、既に把握していた。
  ドール米陸軍大佐(元ルーズベルトの娘婿)の証言と
 も符合する。
  ドール大佐は、朝食の場で、ルーズベルトが、「明日
 (12月7日(日本時間:8日))戦争が起きる」と発言し
 てたということを暴露している。
.
  そして・・、
.
1941年、アメリカが、どう言い繕(つくろ)おうが・・、
  何と! アメリカは、第二次世界大戦が、はじまる前
 から日本の交信を傍受し、かつ、その解読に成功してい
 た。
  日本の手の内は、アメリカに、大戦の開始前から筒抜
 けだった。
  しかも、日本は、そのことを知ってか? 知らずか?
  その状態で、戦争末期まで至って行った。
  当然、真珠湾攻撃に至る前の、アメリカの日本大使館
 と日本(本国)の交信内容を、アメリカは把握しており、
  真珠湾攻撃が『奇襲』だと、降って湧いたように「戦
 争が起きた様に言うアメリカの言い方」は・・、
  「ちゃんチャラおかしい『真っ赤なウソ』なのだ」、
  故に、1945年7月頃も・・、
  アメリカ・イギリス・ソ連のポツダム会談が開かれる
 前の頃も・・、、
  日本が、必死に戦争を終結しようと行動している事も、
 すべて筒抜けであった・・、
  日本外務省とモスクワ大使館の秘密交信も筒抜けだっ
 た。
  日ソ中立条約を頼りに、日本は、中立国・ソ連に・・
 「戦争終結の仲立ちをしてもらおうと、必死に行動して
 いた」。
  日に日に増して行く日本のその絶望的な交信量の多い、
 そのすべての交信内容が・・、
  連合国の知るところにあった。
  そして、アメリカの駐ソ連大使のハリマンが、就任直
 後、すぐに感じていたソ連の対応の仕方・・、
  「友好という関係を築くより、現実的な利益を優先す
 る態度」、
  そして、「目的のためには手段を選ばないという態度」、
  この様な、ソ連外交の凄(すさ)まじさは、日本の駐
 ソ連の佐藤大使も、「その凄まじさ」を思い知らされた。
  これは、2016年の安倍首相も、プーチンに感じられた
 ことでしょう・・、
  そして、戦争終結をソ連へ依頼して、交渉を続けてい
 た日本の駐ソ連の大使へ、突如、マ反対のこと、「ソ連
 の対日の宣戦布告」がなされた・・、
  仲立ちの話をしに行ったら、宣戦布告をなされた・・、
 日本の大使も、さぞ、びっくりされたことであろう。
  ソ連は、この様な国なのだ。
  アメリカのルーズベルトがエサを撒(ま)いたとはい
 え・・。
  ソ連とは、今後とも、この様な「スタンス」で対して
 行かなければならない国なのだ。
  アメリカのルーズベルトが、他人(ひと)のもの、中
 国や日本の領土をソ連にやっているときは、
  エサを貰っている時は、「蜜月」だったが・・、
  そのルーズベルトも死に、おいしい土産が途絶えると、
 そのアメリカとソ連の関係はおかしくなり、
  アメリカでは、ソ連に対する強い疑惑が湧き、蜜月も
 終わり、その次にやって来たのは共産主義への激しい怒
 りだった。
  ソ連への反撥があった1950年代前半のアメリカの「マ
 ッカーシズム」という激烈な反共産運動だった。
.
  そして・・、
.
1941年10月頃、昭和天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、ア
 メリカ・イギリスへの攻撃を禁じられていた。
  戦後になって・・、
  アメリカのヘラルド・トリビューン誌が・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない・・連合軍は、彼を皇
 位にとどめるか」・・という論説記事を掲載した。
  アメリカ国務省の公開文書の中に、日本の真珠湾攻撃
 のほぼ2ヶ月前に、天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、
 アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じていた・・という、
 文書が含まれていた。
.
  そして・・、
.
1941年11月26日、日本の連合艦隊が真珠湾へ出撃した。
  1941年11月23日、大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動
 部隊)が、日本の領土・択捉島(えとろふとう)単冠(
 ひとかっぷ)湾に集結し、
  1941年11月26日に、真珠湾攻撃のため、連合艦隊は、
 ハワイへ向けて出港した。
  アメリカは、通信を傍受するなど、この情報を完全に
 掴んでいた。
.
  そして・・、
.
1941年12月1日頃、ハワイの新聞が、「1週間後に、日本が
 攻めて来る」と報道した。
  日本の秘密情報は、アメリカに筒抜けだった。
  アメリカは、そこまで、日本の情報を掴(つか)んで
 いた。
  アメリカ軍内で、「アメリカ艦隊を、ハワイに置いて
 おいてよいのか?」・・ということが、問題となったく
 らいだった。
  航空母艦は隠した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-12 05:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)

題:(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月20日、大日本水産会の水産伝習所が開所した。
 後の東京水産大学。
  歴史・・、
  1888年(明治21年)11月29日、東京府認可
  1889年(明治22年)1月20日、開所式:仮校舎
   京橋区木挽町(大日本水産会)
   大みくに とまさん道をわたつみの
      波の底まで ひらきつくせよ(小松宮親王)
  1889年(明治22年)7月31日、日本橋区箱崎町3丁目1番
   地
   北海道庁建物へ移転
  1890年(明治23年)5月31日、芝区三田四国町に移転
   教場2棟、現業教場1棟、事務所1棟
  1893年(明治26年)11月3日、新築校舎落成式(52,140
   m2)教室2階建、食堂、寄宿舎(2階建)、事務所等
  1894年(明治27年)8月31日、火災により教室、寄宿舎
   各一棟焼失
  1895年(明治28年)5月15日、教室・現業場竣工
  1897年(明治30年)3月、水産講習所開設に伴い廃校?
  (港区立、港郷土資料館ホームページを参考にした)
1889年1月22日、徴兵令が大改正され、公布された。
  徴兵令の抜本的改正(1月23日説あり)
  徴兵猶予の制度廃止、戸主の徴兵猶予を廃止
  官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役
 を免除する広範な免役条項が存在していたが、
  再三の改正によってしだいに制限されて行き、この年
 に、徴兵令の抜本的改正が行われ、
  従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則が図ら
 れた。
  この後の徴兵制の基本的骨格が確定された。
1889年1月23日、三池鉱山が、三井組に払い下げられた。
1889年1月24日、官吏の政事上・学術上の演説、叙述を解禁
 する。
1889年1月25日、石川島造船所が、会社組織に改組して発足
 した。
  沿革・・、
  1853年(嘉永6年)石川島造船所が創設された。
  1876年(明治9年)石川島平野造船所が設立された。
  1889年(明治22年)有限責任・石川島造船所が設立さ
   れた。
  1907年(明治40年)播磨船渠(株)設立(後に合併)
  1924年(大正13年)(株)石川島飛行機製作所が設立
   された(後の立飛企業(株)、新立川航空機(株))
  1929年(昭和4年) 自動車部門分離、(株)石川島自
   動車製作所設立(後にいくつかの合併を経て、いす
   ゞ自動車(株)に
   播磨船渠(株)が(株)播磨造船所に改称した。
1889年1月27日、中外物価新報が、中外商業新報と改題した。
  『日本経済新聞』の前身。
  1876年12月2日、三井物産の益田孝(たかし)らが週刊
   で創刊したタブロイド4ページの『中外物価新報』が
   起源。
  1882年7月、三井物産の手を離れた(週3回刊。
  1885年7月、日刊となり、
  1889年1月27日、『中外商業新報』と改題した。
    経済、財政を中心に、政治その他内外の情勢の報道
   にあたったが、日清(にっしん)戦争後の企業勃興(
   ぼっこう)期ごろから紙面も充実、
   わが国財界の発展とともに社業も発展した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株式
   会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1942年(昭和17年)11月1日、政府の新聞統合令により
   「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。
   「日本産業経済」と改題、後の「日本経済新聞」
1889年1月31日、憲法修正案の再審会議が終了した。
1889年1月、『国民之友』掲載の裸体が、話題を呼ぶ(発禁、
 裸美人を口絵にした最初)
  民友社発行の雑誌。
  1887年2月、創刊、
  『新日本之青年』 (1887年) で一躍評論家の雄となっ
 た徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌で、初め月刊であった
 が月2回、3回、週刊となり、時の藩閥政府の干渉政策に
 対抗、自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場
 をとった。
  後に、国家主義に転じ、
  1898年(明治31年)『国民新聞』に併合されて廃刊し
   た(別説:1899年8月、第 372号で廃刊)
1889年2月1日、みやこ新聞を都新聞と改めた。
  演劇・文芸記事に特色があって下町好みの新聞であっ
 たが、
  1942年、新聞事業令 (1941.12.公布) により『国民新
   聞』と合併、
   夕刊地方紙の『東京新聞』となった。
1889年2月1日、国府津~静岡間の鉄道が開通した。
  東海道線の開通で(国府津~沼津間は後の御殿場線)
  開通に伴い、新橋~静岡間に直通列車上下2本が設定
 されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。
1889年2月1日、静岡一番町で大火。1200戸焼失。
  東海道線の開通日たるこの日、1889年2月1日、静岡県
 庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通
 披露式には、駅前に移転新設された西洋式旅館・大東館
 に於いて盛大に開催する為に、
  前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機して
 いた。
  開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が
 原因で同家から出火し、
  折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火
 は次々と燃拡がり、
  静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大
 火が発生した。
  この大火の影響で、中心部から離れた静岡停車場や大
 東館は被災焼失外地で無事だったが、
  時の初代静岡縣知事・関口隆吉(せきぐち たかよし)
 は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内
 ホーム上に変更し、且つ、会場たるホームを幕で囲み簡
 素厳に執行させ、披露式典に於いて出席者に配布する為
 に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、
 全部被災民への見舞供与に活用された。
  また、当日は、該県内御殿場に於いても大火が発生し、
  県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、幸先良
 い日ではなかった。
1889年2月1日、東京美術學校が開校した。
  東京・上野公園に移転した東京美術学校(現=東京芸
 術大学美術部)が開校し、
  絵画科、彫刻科、美術工芸科、漆工科の4科で、74人の
 生徒が入学した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本・・かく戦えり・・、
.
1943年5月12日~5月29日、アッツ島の戦い(アッツとうの
 たたかい)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍
 のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍
 との戦闘。
  山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊
 は、上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉
 砕した。
  太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北
 (玉砕)が発表された戦いであり、
  また、第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた
 地上戦であった。
  1943年7月29日~、キスカ島撤退作戦、
  1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部
 太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊
 撤収作戦。
  キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず、日
 本軍は無傷で守備隊全員の撤収に成功した。
  このことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。
  1944年6月15日~7月9日、サイパンの戦い(サイパンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月
 15日~7月9日に行われ、
  アメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島におけ
 る戦闘。
  斎藤義次中将が指揮する第43師団を、主力とした日本
 軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮
 のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団
 が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。
  このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖
 海戦(6月19日〜20日)が戦われた。
  1944年7月24日~8月2日、テニアンの戦い(テニアンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年7月
 24日~8月2日に、マリアナ諸島テニアン島において行わ
 れた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
  テニアン島では、日本軍守備隊側が、民間人の安全に
 配慮した(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はない
 のですよ」と説明を行った)
  戦闘開始前に、住民の方々は安全な地へ退避してもら
 い、当然、日本軍人が戦った。
  日本軍:戦死者 約8100名、生存者 313名
  アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名
  1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への
 原爆投下作戦の B-29 は、ここから発進した。
  1944年9月15日~11月25日、ペリリューの戦い(ペリリ
 ューのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15
 日~11月25日にかけ、ペリリュー島(現在のパラオ共和
 国)で戦われた。
  日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)と、ア
 メリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海
 兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)
 の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名は、ステールメイトII作戦(「膠
 着」の意味)。
  要塞化した洞窟陣地などを利用し、ゲリラ戦法を用い
 るという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 カ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれた。
  1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い(いお
 うとうのたたかい、いおうじまのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に、東京
 都小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍と
 の間で行われた戦い。
  アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦。
  1945年3月26日~6月23日、沖縄戦(おきなわせん)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年
 (昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリ
 ス軍を主体とする連合国軍と、日本軍との間で行われた
 戦い。
  連合軍側の作戦名は、アイスバーグ作戦(氷山作戦)。
  アメリカの太平洋の島伝いに北上する飛び石作戦は、
 順調に進んで行ったが、
  アメリカ軍の死傷者の数は、欧州戦線に比べてかなり
 多くなっていた。
  欧州方面での戦死者が13万5000人だったのに対し、太
 平洋方面は17万人を越えていた。
.
  そして、・・
.
1945年(昭和20年)4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦
 艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦
 三隻が、敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没した。
  「現場の海面で、浮遊物につかまり、漂流中の無抵抗
 な乗組員に対して、
  空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が、執拗に来
 襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
  (矢矧の原艦長の証言)
  「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍
 機は、何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に、執拗な
 機銃掃射を加え続けた」(著書「伊藤整一」、大和と運
 命を共にした第二艦隊司令長官)
  同様な残虐行為は、ニューギニア近海でもおこなわれ
 た。
  1943年(昭和18年)3月3日、この日に起きたビスマル
 ク海戦(空襲)の結果、
 陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が、敵機の
 攻撃により沈められたが、
  沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に
 つかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
  アメリカとオーストラリア軍の飛行機が、低空から機
 銃掃射をおこない、
  機関銃の弾を撃ち尽くすと、基地に戻り弾を補給し、
 映画撮影のカメラマンまで乗せて、何度も、弾の補給に
 往復しては攻撃を続けた。
  「決して男らしいやり方ではなかった」と、第五爆撃
 隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していた。
  「隊員の中には、気分が悪くなる者もいた」。
  救命ボートや、その周辺を、文字どおり血の海に変え
 たその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが、
 十年ほど前に、オーストラリアのテレビ局から放映され
 て、
  国民に大きなショックを与えた。
  「我々は、フェアーな戦をしたと思っていたのに..
 と」。
  (容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
  ちなみに、ハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨て
 た自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止してい
 る。
  アメリカ海兵隊兵士による蛮行  ルーズベルト大統領
 の息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加
 わっていたカールソン襲撃隊は、
  戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日
 本兵の口中に詰め込んだ。
  太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、また、
 テレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサ
 ーであるシャーマン・グリンバーグが、
  20年後に、カールソン隊員の一人にその時の模様を(
 テレビで)詳細に語っている。
  その隊員は、戦友たちのやった蛮行を写真に撮ってい
 た。
  (ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」
 から)
  「その二」:マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)
 は、戦場で妙なことに気が付いた。
  どういうものか仰向けになった屍体が15~16あり、し
 かもすべて下腹部を露出している。
  死後一週間経っていたため、原形は完全に崩れていて、
 顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
  どうしてこんな格好をしているのだろう。
  被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたの
 か?。
  アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上
 に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種
 の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった
 誰一人として思いつく者はいなかった。
  戦後50年経って、意外な事実を知り、愕然とした。
  それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物
 語る、翻訳された出版物を読んだからである。
  (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英
 夫著)
  「その三」:作家・上坂冬子氏の著書によれば、硫黄
 島の洞窟内から、戦後、米兵により持ち去られた日本兵
 の頭蓋骨は1000個にもなる。
  彼等は、それでロウソク立て、灰皿やペン皿を作った
 といわれ、
  また、硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するもの
 が、ロサンゼルスの骨董店で一個25ドルで売られていた。
  (硫黄島いまだ玉砕せず)
  「その四」:リンドバーグが見たもの、1927年(昭和
 2年)に、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークか
 らパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功
 したが、
  この偉業は、後に、「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」
 の題名で映画化された。
  彼は、1944年昭和19年)に、ニューギニアの米軍基地
 で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
  その体験を、日記に記して、後に、「第二次大戦日記
 上巻、下巻」として出版した。
  (この本は、私が読んだ後に、どういう理由からか絶版
 になった)
  それによると、彼は、戦場で見たものにショックをう
 けた。
  それは、兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、
 米兵が、日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、そ
 れに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
  たとえ、敵味方に別れて戦い、軍服に違いがあるとし
 ても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命
 は使命として、認めなければならないにもかかわらず、
 太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラも
 ないことを発見した。
  そこでは、士官も、兵士も、日本人に対する人種差別、
 蔑視から、自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単
 なる動物としか見ていなかった。
  1944年(昭和19年)6月21日、この日の日記には、
  日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後
 ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」という
 のを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将
 軍との会話を要約している。
  残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あ
 われみ」をもって軽くあしらわれた。
  6月26日の彼の日記には・・、
  日本兵捕虜の虐殺、および、パラシュート降下中の日
 本航空兵の射殺について述べている。
  降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のう
 ち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人
 に過ぎなかった。
  残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告さ
 れた。
  「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたと
 いう話が、日本兵に広がれば、投降しようという者など
 まずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。
  つまり、黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な
 手間や面倒がはぶけるという理由からであった。
  7月13日の日記では、
  「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようと
 する兵士を射殺することをなんとも思わない。
  彼等は、ジャップに対して、動物以下の関心しか示さ
 ない。
  こうした行為が大目にみられているのだ」と記されて
 いた。
  8月30日に、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸
 島にあるタラワ環礁を訪ねた。
  そこでは、日米の激戦が行われ、米軍も甚大な死傷者
 が出たのだが、
  日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
 尋問に英語で答えられる者だけを残し、
  あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
  ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後
 ろ手に縛られた日本人捕虜達を、輸送機に乗せて収容施
 設のある地域に輸送する際に、彼等を、飛行中に突き落
 とす行為がおこなわれた。
  そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りた
 と記録された。
  (以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ
 著)
  ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や、マッカサ
 ー指揮下の第四十一師団は、
  「捕虜を取らない」、つまり、武器を捨て両手を上に
 挙げて降伏しようとする日本兵や、
  既に、降伏した日本兵を殺するので有名だった。
  軍事歴史家デニス・ウォーナーは、1982年年に出版し
 た日本の特攻隊に関する本の中で、
  ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
  そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オー
 ストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃
 する。
 「しかし、彼等は、傷つき、おまけに降伏を望んでいま
 す」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦
 場で、部下の大佐が司令官に反論した。
  「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた
 日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)
 は答えた。
  「捕虜はいらない。
  全員射殺してしまえ」。
  そして、彼等は撃たれた。
  日本軍も、負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関
 する情報をつかんでいて、
  戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、
 第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んで
 いた。
  終戦直後、ある米陸軍大尉が、公表した記事には、第
 四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付け
 られていた。
  この師団が、例外的に、日本兵を捕虜にしたのは、軍
 事情報の収集のために、捕虜が必要な場合だけであった。
  (容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)
  アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃  昭和十九年
 (1944年)五月二十四日に、
  ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
 米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百
 名が死傷した。
  病院の屋根には、国際法の定めに従い、上空からよく
 見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもか
 かわらず、それを無視して、病院の建物に対して爆撃や
 銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこな
 った。
  日本兵の遺体を損壊する行為  日本兵を自分達と同じ
 人間とは見なさない連合国兵士による、死体や、死にか
 けた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集
 し、
  戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたこと
 も、
  米国民の間で戦時中からよく知られていた。
  日本軍との戦いを前にして、武勇自慢をし合う若い兵
 士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキ
 スが記録している。
  「ジャップは、金歯をたくさん入れているそうだが、
 それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。
  「おれは、奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣
 言する。
  「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
  戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)
 七月の記述に、すでに、十七個の金歯を集めた海兵隊員
 がいて、
  その最後の金歯は、サイパンで負傷してまだ手を動か
 している日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出し
 て取ったものだ、と事もなげに述べられている。
  (容赦なき戦争、ジョン・ダワー著)
  太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の
 死体から 手を切り取って、戦果のトロフィーとする、
 金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、
 恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活か
 ら、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員
 の様子を目撃した。
 (E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録)
  「その五」:フィリピンのラグナラ州カランバには、
 日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
  ここは、フィヒリピンにおける最大規模の収容所であ
 った。
  米軍の発表によれば、収容された捕虜のうち、戦争が
 既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養
 失調で死亡した日本兵捕虜は、一万二千人にものぼった。
  もし、日本側の捕虜収容所が、このような米兵の大量
 死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級
 戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑にな
 ったことは間違いない。
  しかし、ここの米軍責任者は、誰も罪を問われなかっ
 た。
  そこには、「バターンの死の行進」に対する復讐の意
 図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対
 して必要な食糧補給をしなかったからである。
  (孤島の土となるとも、B C 級裁判)
  「その六」:ベトナム戦争においても、かなりの数の
 アメリカ軍兵士が、ベトナム人の頭蓋骨を収集していた
 が、
  アジア人が、アメリカ人兵士の死体に対して、このよ
 うなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるか
 は、考えてみる価値があるだろう。
  (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
  太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
 人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッ
 セル・スーパーは述べています。
  「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮する
 ことに、気がとがめなかった。
  彼らは、太平洋において人種戦争を常に派手に戦って
 きた。
  新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官
 連中は、公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより
 も悪いことではないと言明した。
  この残虐性は、四ヶ月後に、広島、長崎でその頂点に
 達することになる」
.
  参照:http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_4.html
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-10 05:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-01-09 05:41 | 皆様とともに 幸せになりたい


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