(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)

題:(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年1月29日、「旅客甲丙間ニ到ル途中切手紛失シ乙駅
 ニテ賃金徴収方」を通達(鉄二調甲第48号)
1891年2月3日、内村鑑三が、第1高等中学校を辞職した。
1891年2月4日、横川~軽井沢間の路線が、中尾線(アプト式)
 を採用することに決定された。
1891年2月5日、川上音二郎一座が、堺で旗揚げ興業をした。
  川上音二郎(かわかみおとじろう、1864年1月1日~
 1911年11月11日)は、俳優、興行師。
  1878年、14歳のとき故郷を出奔。
  自由党壮士となったが、講釈師、寄席芸人になったり、
 「書生にわか」を試みたりした。
   1891年(27歳)堺で、川上書生芝居を旗揚げし、地方
 巡演ののち、『板垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
1891年2月8日、大阪鉄道会社線が、稲葉山~王寺間を開業
 した。
1891年2月18日、三条実美が逝去した(55歳)
  三条 実美(さんじょう さねとみ、1837年3月13日~
 1891年2月18日)は、幕末・明治の日本の公卿、政治家。
  位階勲等爵位:正一位大勲位公爵。
  右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族
 院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。
 元勲。
  公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。
  家臣の尊攘志士・富田織部の訓育を受け、漢学者志士・
 池内大学に学んだ。
  1859年(22歳)大老・井伊直弼の弾圧を受けて、父・
 実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次
 第に尊攘思想を強めて行った。
  尊攘派公卿の中心人物となる。
  急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。
  1862年(25歳)14代将軍・徳川家茂に、攘夷督促(とく
 そく)の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)
 となり運動したが・・、
  1863年(26歳)八月十八日の政変:会津・薩摩を中心
 とする公武合体派のクーデターにより失脚し、七卿落ち
 の一人として長州へ逃れた・・そして、
  さらに、1865年(28歳)幕長間の紛争に巻き込まれる
 のを避けて、大宰府に移り、王政復古を機に上京した。
  維新後は、明治新政府に重用され、
  1868年1月9日(31歳)、岩倉とともに副総裁に就任し
 た。
  そして、太政大臣・内大臣等を歴任するなど国家建設
 に尽力した。
  1889年(明治22年、52歳)一時、首相を兼任した。
1891年2月20日、土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支
 持の動議可決(自由党が分裂)
  この日、予算削減をめぐって紛糾していた衆議院で、
 大成会の提出した「予算削減は政府同意を経て議会で決
 議する」という議案に、立憲自由党土佐派が、議会解散
 を避けるためと、予算削減を行うために妥協し、決議し
 た。
1891年2月21日、中江兆民が、議会の弱腰を批判し、衆議院
 議員の辞表を提出した。
1891年2月24日、立憲自由党が分裂した。
  土佐派など29議員が離党した。
1891年2月25日、三条実美の国葬が行われた。
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  (今日の言葉)
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  題:漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は・・、
    日本の経済援助なしではできなかった。
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紀元前6年頃、イエス・キリストが生まれる。
  イエスの生誕は、紀元前6年頃ともいわれている、また、
 紀元前4年頃ともいわれている。
  そして、その中間ともいわれている。
  西暦が決められた頃は、西暦0年がイエスの生誕とされ
 ていた。
  しかし、その後、生誕とさられる年数は変転した。
  生誕だけで、この様な状態で、つまり、その存在が不
 確かなのである。
  没したのは、紀元後30年頃とされている。
  「キリスト」という意味は、「膏(あぶら)を注がれ
 た(塗られた)者」「受膏者」という意味のヘブライ語
 で・・、
  故に、イエス・キリストが姓名ではない。
  当時、「イエス」という名を持つ人は何人も居て・・、
  だから、ナザレ生まれのイエス(ナザレのイエス)と
 言われて個人を特定した。
  しかし、このイエス・キリスト(ナザレのイエス)の
 実在は証明されていない。
  初期のキリスト教が、1世紀~2世紀のころ、都合の悪
 い書類を大量に焼却した。
  この事によって実在が証明できなくなった・・または、
 本当に実在していなかったのか?
  いずれにしても、実在証明の出来ない事となっている。
  イエスの活動は、その最晩年の1年か、2年の超短期だ
 った。
  それまでは、父と同じ職業の大工をしていた。
  もしかすると、父の没後、大工を止め、エルサレムで
 予言者を始めたのかとも言われている。
  この頃のエルサレムは、町の娘に売春をさせていたエ
 ルサレム神殿が存在したり、また、戦争も頻発するとい
 う世情の中にあった。。
  巡礼の参拝で来た地方の人たちを相手に、その不特定
 の男たちを相手に、街の娘たちは恥辱の行為を強いられ
 ていた。
  そして、その様なエルサレム神殿の前で、「金持ちの
 豪華な供物より、貧乏人の貧しい供物の方が価値がある
 のだ」などという程度の道徳論を披露するイエス・キリ
 ストだった。
  いつも、決まった少人数のグループと活動していた。
  いつ聖書を読んでも、その人間関係の狭さが気になる。
  イエスは、平均寿命が三十数年という時代の、最晩年
 の1年か、2年の超短期間、エルサレムの広場で、予言者
 稼業をしていた。
  聖書にも記されているが、イエスは、故郷の人たちか
 ら、「予言者とは、うまいことをやっているな」と言わ
 れていた。
  イエスは、故郷の人たちからは、普通の人に見られて
 いた。
  だから、イエス自身も故郷の人たちに対し、「話が、
 そして、暗示がかからない」と嘆いている。
  イエスの子供の頃から、イエスを見ている故郷の人た
 ちには、普通の人と変わらない状態だった・・その様に
 見られていた。
  「あのイエスが、予言者をやっているよ」という状態
 だった。
  だから、イエスに向かって、「予言者業とは、うまい
 事をやっているな」の言葉になった。
  当時、エルサレムには、この様な予言者を仕事とする
 者が大勢いて、その多くが刑場で殺された。
  麦の一粒が落ちたら、その一粒のままにあるという乾
 燥した砂漠地帯の環境の中で育ち・・だから・・、
  天の雨の恵みが豊かに降り注ぐ、その様な豊かな地の、
 価値ある言葉は、想像もできない、また、話すこともで
 きない。
  砂漠の恵みの少ない地、わずかな恵みに群がる人々が
 居るという地・・だから、飢餓と背中合わせの地で・・、
  聖書もある様に・・キリスト教の神が、隣国の民を、
 『奴隷にせよ、奴隷にせよ』と叫び、隣国の民さえ自民
 族の生きる糧とせよという神の叫ぶような地・・その様
 な教え・・、
  豊かな思想・思考は生まれない。
  だから、そこは、奪い取りと殺戮だけとなる。
  そして、無理やりの神殿娼婦にさせられた街の娘は、
 神殿にやってくるお参りの見ず知らずの男の相手をさせ
 られた。
  キリスト教は、この様な環境の世界の宗教。
  男尊女卑の世界であった、その教えであった。
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1600年、イギリス東インド会社ができた。
  インドの方々を殺戮し虐げた、酷いイギリスの会社が、
 この年に、出来た。
  世界遺産に登録すべき人類の歴史の大汚点だった。
  アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社
 である・・と、表面は美しく説明されている。
  アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行か
 ら貸付を受けながら、
  17世紀~19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経
 営や交易に従事した(国としての行動)
  アジア貿易と美しく言うが、実態は、植民地で、奴隷
 のようにインドの方々を働かせ・使役し、搾取した。
  イギリスの勅許会社と言う通り、国が勅命で行なう行
 動は、「イギリスという国」なのであって、「イギリス」
 そのものだった。
  会社なんだから、イギリスという国ではないというの
 は「虚言」で『逃げ』だった。
  (イギリスは、この様な言い逃れを言って、世界中で
 悪行為ばかりしていた)
  アジア貿易の独占と言ったって、武力で以って、力で
 従わせて行った。
  従わないインドの方々は殺戮し、また、木に吊るして
 殺した。
  木に吊るして死んでも、そのまま並木道は、その様な
 可哀想なインドの方々が、ずらりと吊るされ、見せしめ
 にされ、インドの方々を恐怖に陥(おとしい)れ、この
 様な力で従わせさせていた。
  こんな事を長い期間(17世紀~19世紀の300年近くも)
 し続けたイギリスだった。
  それだけ、様々な、考え付くすべての悪の酷いことを
 した。
  東インド会社が、酷いことをする故に、イギリスは、
 卑劣な逃げのかたちを作った、隠れ蓑とした。
  それは、東インド株式会社という名で誤魔化した。
  東インド株式会社だけで、あんな卑劣な、大々的な殺
 戮や、戦争が・・出来る訳が無い。
  すべて、イギリスという国家と同時進行・連動だった。
  陰に隠れるイギリス国家は卑劣であり、劣悪・卑劣な
 罪悪漢である。
  こんな卑劣な論理が成り立つならば、国家が、どんな
 悪いことをやっても、「○○という個人がやった」とい
 う言い訳が成立し、それで済まされてしまう。
  国の責任は回避される怖ろしい事である。
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1867年、旧根岸競馬場
  居留地の外国人の娯楽として競馬が始まった。
  関東大震災で大きな被害を受けた。
  現在でも残る一等馬見所は、7階建て、高さ28.77メー
 トル。
  客席を覆う大きな庇(ひさし)は、市柱が少なく、客
 席からコースを良く見渡せた。
  戦後、米軍に接収された。
  今は、市が管理している。
  しかし、廃墟(はいきょ)同然の様で、壁面は、蔦(
 つた)に覆われている。
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1869年10月、三菱の前身となる土佐開成商社が成立した。
  岩崎弥太郎は、土佐藩最下級士族の岩崎弥次郎の長男
 として1834年に出生した。
  1855年(21歳)に、江戸へのぼり、安積艮斎の塾に入
 門するも、父の奇禍(父親が酒席で庄屋と喧嘩して投獄
 された)で、帰国し、父に連座して入牢された。
  1859年(25歳)に、土佐藩参政・吉田東洋の門下生と
 なり、後に、藩の下横目の職を得て、長崎に出張するが、
 無断帰国し解職された。
  1866年(32歳)に、再び、土佐商会主任として長崎に
 行き、藩の貿易に従事し、同所閉鎖後は、大坂出張所で
 働く、
  1869年10月(35歳)土佐藩首脳の林有造が、海運業私
 商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立
 ち上げた。
  代表は、海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之
 助で、
  岩崎弥太郎は、事業監督を担当した。
  1870年(36歳)の維新後に、土佐開成商社が九十九商
 会と改称して、船2隻を土佐藩外債を肩代わりする条件で
 入手し、海運業に従事した。
  後に、三川商会と改名した。
  1873年(39歳)に、三菱商会となる。
  1874年(40歳)に、台湾出兵で政府輸入船を託され軍
 事輸送にあたり、
  1875年(41歳)政府の補助金を受けて国内海運を独占
 し、三菱財閥の基礎を築いた。
  1885年(明治18年)51歳で没した。
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1869年(明治2年)パン、ビスケットを専門に製造する木村
 屋が創業した。
  そして、1874年に、創業者の木村安兵衛とその次男で
 二代目の英三郎が、あんぱんを考案した。
  翌年・1875年に、明治天皇陛下に献上された。
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1895年、日清戦争によって、日本が、中国(清)に勝った
 ・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよう
 な出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、
  「貢を持って従属すれば良し」の思想である。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制をとり続けて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に従属させられて来
 た。
  朝鮮は、古代から中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティとして来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主である中華(清)を負かした事
 は、だから、驚天動地の事だった。
  朝鮮は、中華(清)から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で、独立した。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」との
 日本の毅然とした対等の独立した立場をとった日本だっ
 た。
  この時、冊封体制の下の体制に入ると思っていた中華
 の煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていたのだっ
 た。
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1945年8月28日、アメリカ軍の日本進駐。
  アメリカは、卑劣な事に、最初、戦後の日本に進駐す
 る兵士を、黒人兵だけとした。
  それは、日本が、まだ、徹底的に抵抗すると思ってい
 たからだった・・
  ・・レジスタンスを組織したりして・・、
  その為、人種差別的に、その様なことが起きるか否か
 の見定めもあり、白人兵を危険に曝(さら)さないとい
 う方針で、黒人兵だけを組織し、日本へ進駐した。
  因みに、終戦直後の、第二次世界大戦における日本の
 敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの間、
  連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領下に置
 かれた日本であった。
  故に、主権と行政権を留保した。
  日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言
 の文面では、ウィンストン・チャーチル英国首相の提案
 によって、「日本領土」ではなく、「日本領土内の諸地
 点」への「保障占領」となっていた。
  そして、降伏文書の調印まで、日本本土(北海道・本
 州・四国・九州)に先遣隊として到着したアメリカ主導
 で組織された連合国軍は、1945年8月28日から、日本への
 進駐を開始した。
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1950年6月25日、朝鮮戦争
  この日、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金
 日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、突然、韓国に侵
 攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
  その2日後の6月27日に、マッカーサーは、朝鮮半島に
 おけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与された。
  ただちに、軍需物資の緊急輸送と、アメリカの民間人
 救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
  そして、朝鮮戦争の司令官となったマッカーサーは、
 中国との国境に流れる鴨緑江(おうりょっこう)に架か
 る橋を爆破したいと、アメリカ本土・ワシントンに、そ
 の作戦の許可を求めた。
  その橋を渡って中国軍(中共義勇軍と称した)が、続々
 と渡って来ていた。
  マッカーサーの作戦は、至極、当然の、筋の通った作
 戦だった。
  すぐに行なうべき作戦だった。
  しかし、アメリカ本土・ワシントンからの許可は下り
 なかった、許可は得られなかった。
  武器弾薬と共に中共軍が、ぞくぞくと入って来ていた
 のにである・・、
  この時のアメリカの作戦は・・、
  「アメリカは、戦争に勝ってはならない」。
  「いつまでも戦うのが良いのだ」・・だった。
  マッカーサーは、回顧録で、この時の詳細を記した。
  マッカーサーの作戦のすべてが否定された・・と、
  すべてに「ノー」と言って来た・・と、
  また、おかしなことに、蒋介石の国民党軍が、国連軍
 に加わって参戦し、応援したいと、参戦の意思を強く示
 したが・・、アメリカ本土のワシントンは許可をしなか
 った。
  そして、マッカーサーは、優秀で、頑張りすぎると解
 任されてしまった。
  マッカーサーは、ここに至って初めて気づいた、
  「自分は、アメリカのエスタブリッシュメントのメン
 バーではない」・・と。
  (参考)エスタブリッシュメント:establishment、既
    存体制と訳されることもある。
     イギリスでいわれはじめたもので、社会改革を
    はかろうとする者から攻撃される既成の社会秩序
    の総体をいうが・・、
     通常は・・国家、政府機関、支配階級、特権階
    級などをさす。
  そして、総てを察したマッカーサーは、1951年5月3日、
 アメリカ議会の上院軍事委員会で、第二次世界大戦(大
 東亜戦争)について重要な証言をした・・、
  「日本が戦争に至ったのは、その大部分が安全保障の
 必要に迫られたからだった」・・と、
  日本の存立を否定したアメリカの行為に、やむを得ず
 の戦いを起こしたのだった・・と、
  「日本の大義」を認めた・・そして、そう認識した証
 言を行なった。
  大東亜戦争の真実を証言した。
  さらに、朝鮮戦争には、後日談がある・・、
  国連軍が組織される時、スターリンは、安全保障理事
 国として「拒否権を発動できた」・・しかし・・
  『そうはしなかった』・・、
  国連軍が創設されなければ、スターリンが応援する北
 朝鮮の勝利となる・・
  しかし、スターリンは、拒否権を発動しないで、「そ
 の会議に出席するな」と指令した。
  アメリカとグルになっていたことが事実となって、今、
 知る所となっている。
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1965年、漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は、日本の経済
 援助なしではできなかった。
  さらに、日本は、韓国を統治していた時代、日本は、
 アメリカやヨーロッパがやったような統治ではなかった。
  アメリカやヨーロッパは、ただただ、植民地から利益
 を奪取しただけだったが、日本は、韓国のインフラを整
 備した。
  また、日本の誠実な統治によって、韓国の民族資本が
 蓄積された。
  これもあったから、日本からの巨額の戦後賠償金も生
 き、見事な「漢江の奇跡」が出来た。
  この日本の性善説の韓国救済行為は、世界へも影響を
 与えた。
  ただ単に、韓国だけに留(とど)まらない行為だった。
  欧米の・・そして、イギリスが・・、インドや、オー
 ストラリアのアボリジニの方々などで行なった性悪説の
 殺戮や略奪行為、
  そして、アメリカの西部地域の殺戮と掠奪、および、
 太平洋地域の掠奪、および、フィリピンをはじめとする
 アジア地域での性悪説の略奪行為・・その様な行為とは、
 まったく違う。
  (参考)1965年、韓国は、日本と日韓基本条約を結ん
    だことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・
    民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在
    価格では合計4兆5千億円相当)。当時の韓国の国
    家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供
    与及び貸付けを得ることとなった。
     国際協力銀行によると、1960年半ばから1990年
    代までにトータル6000億円の円借款が行われ、韓
    国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴
    とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種イ
    ンフラの開発や、浦項総合製鉄をはじめとした企
    業の強化をおこなった。
     インフラ整備後は、日本の民間企業によって大
    規模な投資がおこなわれた。
     しかし、韓国では、日本による多額の経済・技
    術援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知
    らされていないため、多くの韓国人は、自国が独
    力で経済成長を達成したと考えていると指摘され
    ている。
     恩を売りたい訳ではないが、人として、助けて
    戴いた日本に対しての礼をしっかり尽くして戴き
    たい。
     決して、恩を仇(あだ)で返すようなことはし
    ないこと。
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1981年3月30日、レーガン大統領暗殺未遂事件
  アメリカのロナルド・レーガン大統領は、大統領選挙
 の期間中から「FRBに対する疑念」を口にしていた。
  大統領に当選した後、レーガンは、FRB議長に面会
 を申し込んだ。
  FRB議長は断った・・拒否した。
  FRB議長は、アメリカ大統領の面会要請を断われる
 ほど絶大な権力を持っていることを示した。
  レーガン大統領の再三の面会要請によって・・面会が
 行われるが・・その面会で、レーガン大統領は・・、
  「FRBは、何故、必要なのか?」
  「この質問を良く受けるのだが・・」と切り出した。
  その言葉を聞いて、FRB議長は慌てた様子を周囲に
 示した。
  FRBの存在に懐疑的だったレーガンは、大統領に就
 任してわずか2か月後の1981年3月30日に、ワシントンで
 銃撃された。
  緊急手術が行なわれて、幸い、危うい所を助かった。
  アメリカの大統領は、政府が独自に紙幣を発行しよう
 としたり、民間資本の中央銀行を廃止させたり、規制し
 たりすると、暗殺の危機にさらされる。
  これまでのアメリカが、そのことを示している。
.
1991年、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカで、
 1991年に、ソ連が崩壊しロシアとなり、エリツィンが大
 統領になると、アメリカは、ジェフリー・サックスとい
 う国際主義の経済学者をリーダーとするアメリカ人顧問
 団をロシアに送り込んだ。
  そして、価格統制を廃止し、市場経済を導入した。
  そして、さらに、「バウチャー方式」という手法で、
 ロシア国営企業の民営化を推し進めた。
  これは、政府が国民に対し、一定金額のバウチャー(
 民営化証券)を配布し、民営化された企業の株式と交換
 できるようにする方式で、
  表向きの導入理由は、「従業員は、自分が働いている
 会社の株式をバウチャーによって取得して、株主になる
 ので、働くモチベーションが上がる」というものだった。
  しかし、現実には、商才に長(た)けた連中が、この
 株式の意味が分からないロシアの方々から、バウチャー
 を安く買い漁(あさ)って行った。
  そして、買い集めたバウチャーで、国営企業を払い下
 げてもらい、オーナーとなり、新興財閥となった。
  銀行や、自動車販売会社や、石油会社などの・・この
 新興財閥のほとんどが・・ユダヤ系だった。
  エリツィンとアメリカによって、この様な新興財閥が
 次々と誕生した。
  そして、莫大な富を独占した。
  膨大な富を独占したこのグループは、さらに、政治に
 も・・、
  このグループは、エリツィン大統領を全面的に支援し、
 政治にも強い影響力を及ぼした。
  そして、また、1996年の大統領選挙においても、エリ
 ツィンを全面的に支援した・・そして、その功績で・・、
 このグループの一員が、第一副首相に就任した。
  また、さらに、このグループの要員が、ロシア安全保
 障会議副書記や、CIS(独立国家共同体)執行書記と
 なった。
  このグループの新興財閥は、「政商」として富を独占
 した。
  ロシアの方々は、この時点で、そのあまりの酷(ひど)
 さに、激しい批判の声を上げた。
.
2017年5月25日、イギリスのコンサート会場で、爆発テロが
 あり・・22人の方々が無くなった、尊い命が失われた。
  また、この後、死者数は増加した。
  イギリス中部のマンチェスターのコンサート会場で22
 日夜(日本時間23日の朝)に起きた自爆テロで、8歳の
 女児1人を含む22人が亡くなり、また、59人が負傷した。
  イスラム過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し
 た。
  (イスラムの方々は、このイスラム国はイスラム教で
 はないと言っている)
  イギリスでは、2005年7月に、52人もの人々が亡くなる
 「ロンドン同時テロ」がある。
  イギリス警察当局は、5月23日、実行犯の男をサルマン・
 アベディ容疑者(22歳)と特定したと発表した。
  アベディ容疑者は、リビア系イギリス人。
  イギリス警察当局は、5月24日、「我々の捜査対象は、
 ネットワークだ」と述べ、単独犯ではないとの見方を示
 した。
  ラッド英内相も、5月24日、イギリスBBC放送に対し
 て、アベディ容疑者が、「一人で行動していたのではな
 いかもしれない」と述べた。
  リビアから最近帰国したとの地元紙報道も事実だと認
 めた。
  イギリス紙ザ・タイムズは、容疑者が「3週間前にリビ
 アに行き、数日前に帰って来た」と友人が述べたと伝え
 た。
  コロン仏内相は、フランス・テレビで、5月24日、アベ
 ディ容疑者がシリアに渡航し、イスラム過激派組織「イ
 スラム国」と関係があったとの情報をイギリスとフラン
 スの情報機関が把握していると述べた。
  当然、上記のイスラム国やテロ犯を弁護する訳ではな
 いが、
  また、当然、この様な行為を、憎むが・・
  テロが悪いという事だけに集中するのは良くない。
  その奥にある巨悪が問題なのだ・・
  何故、テロをせざるを得ない状況になっているのか?
  その視点を持たなければ、「テロは無くならない」。
  テロを起こさせる原因の原点を辿(たど)って行くと・・
  自分だけが裕福になり、その様な世界システムを強い
 立場にあるから、金があるから、だから、自分に都合の
 良い社会システムを作ってよいのだ・・という所に居て、
  狡猾に作り出している輩たちが一番悪い輩なのだ。
  自分に都合よいシステム、結局、それは、「社会の歪
 (ひずみ)」を作り出している・・その様な輩たち・・、
  更にその輩たちへ、「これが正義である」と錯乱的に
 思考させるキリスト教の考え方・教義が悪いのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-29 04:59 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年1月1日、小岩井農場が開設された。
  井上勝らが岩手県に農場を建設され、設立者や支援者
 らの名前を取って小岩井農場と名付けられた。
  以下、小岩井農場のホームページを参考にして・・
  1888年(明治21年)6月12日、盛岡を訪れていた明治政
 府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広
 がる岩手山の南麓に広がる風景、木もまばらな不毛の原
 野に目を奪われた。
  奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなかに、ススキ
 や柴、ワラビなどが散在する火山灰地の原野・・、
  井上は、この荒れ果てた土地に、大農場を拓こうとい
 う、かつて、誰も抱いたことのない夢が、頭の中に広が
 って行った・・、。
  この井上勝という人は、「日本の鉄道の父」と言われ
 る人で、
  幕末の動乱期に、イギリスに渡航した伊藤博文、井上
 馨らの5人の長州藩士の一員で、近代土木技術、鉱山学な
 どを学んだ。
  そして、帰国し、1872年、新橋~横浜間の日本最初の
 鉄道敷設をした・・
  また、それだけでなく・・東海道本線、東北本線など、
 数々の鉄道工事の陣頭指揮をし、、日本の鉄道事業の基
 礎を築いた。
  この岩手県盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事を
 視察するためだった。
  井上は、この岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸
 に去来したのは、今まで・・長年、鉄道敷設事業に携わ
 る中で、数多くの日本の「美田良圃(びでんりょうほ:
 美しい田と良い畑)」を潰したことだった。
  やむなく、その様にならざるを得ない行為に対する悔
 恨の念だった。
  岩手の広大な荒野を前に、この様な荒野が、手付かず
 で放置されているのであれば、せめてそれを開墾し、大
 農場を拓きたいと思った。
  美しい田園風景を損なってきたことの、悔恨の情を埋
 め合わせをしたいという気持ちだった。
  そこに、国家公共に報いる・・国家公共のため・・自
 分がなすべき事業と確信した。
  井上は、この構想を、岩崎彌太郎のもとで、三菱を支
 えていた小野義眞に打ち明けた。
  そして、助力を依頼した。
  当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が
 第2代社長に就いていた。
  小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせた。
  井上の理念、「国家公共のため、荒地に農場を拓きた
 い」という井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、
 その場で出資を快諾した。
  こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主と
 なり小岩井農場が開設された。
  名前の由来は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字
 ずつ取って作られたのだった。
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  (今日の言葉)
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  題:今、グローバリズムは、その欠陥を露呈して反発を招いている。
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1910年、今の韓国(大韓民国)は、この当時、大韓帝国と
 言った。
  当時、この大韓帝国の李完用という政治家を中心にし
 て「一進会」という組織があった。
  この組織が、「韓日合邦建議書」を起草した。
  これは、「日本と大韓帝国が合邦することを要求する」
 という声明書だった。
  そして、100万人の署名活動を行なった。
  大韓帝国の人々は、合邦する事が大歓迎だった。
  そして、日本と大韓帝国は併合に至った。
  日本は、この大韓帝国の人々を「政治に参加させよう」
 と努力した。
  また、教育に努力し、生活を向上させようとした。
  そして、日本は、社会インフラを一生懸命に整備した。
  この豊かにするという考え方・概念は、アメリカやヨ
 ーロッパの植民地支配には、まったく無かった。
  アメリカやヨーロッパは、卑劣にも、ただただ「搾取
 と略奪をするだけ」という植民地経営だった。
  アメリカやヨーロッパは、政策を遂行するため、徹底
 的に自国の言葉を教育した。
  相手国の文化を否定するという「虐(しいた)げ行為」
 だった・・「いじめ行為」だった。
  自国の利益が得られれば良いという、自国の利益を優
 先した・・得るという目的から、観点から行動がなされ
 た。
  やっていることは、まったく人道的ではなかった。
  すべては搾取の為だった。
  植民地の方々は、可哀想な事に自国の言葉が奪われ、
 文化も奪われた。
  アメリカは、フィリピンの植民地を英語化した。
  今でも、フィリピンは英語が公用語になっている。
  また、ベトナムも、フランス語化され、フランス語が
 公用語になっている、
  また、インド(イギリスの植民地〉でも英語化され、
 英語が公用語になっている。
  自分の御都合主義だった。
  何しろ、アメリカのフィリピン、イギリスのインドな
 ど、アメリカやヨーロッパは、武力によって植民地とし
 た。
  台湾は、清(当時の中国)から、「化外(けがい)の
 地だ」と、日本は言われた。
  「化外の地」とは、『国家の統治が及ばない地』とい
 う意味である。
  開拓もされず、ほったらかしのこの台湾を、日本は、
 一生懸命に整備した。
  伝染病が多い地だったが、衛生面に於いても一生懸命
 に努力した。
  学校、ダムなどの社会資本の整備にも一生懸命に努力
 し、築いた・・
  (参考)化外の地(けがいのち、化外之地)とは、中
    華文明に於いて文明の外の地方を表す用語。
     中華思想では、中国の権力・法律が行き届いて
    いない地方のことをいい、また、その地方に住む
    民族を「蛮族」と呼んだ。
     中国の古代では、中原から遠く中華文化の影響
    が薄かった台湾・海南・新疆などのことを呼んだ。
     また、小中華思想のあった朝鮮やベトナムなど
    では、中国文明の行き届かない地域をもそう呼び、
    中原からはるか遠くの占城、真臘の外の地域や、
    北方遊牧民が立てた王朝を化外の地と見做し、朝
    鮮王朝は明の滅亡後に興隆した清を蛮夷とみなし
    ていた。
     宮古島島民遭難事件によると、日本政府は、日
    本人を殺害したこの事件に対し清朝に厳重に抗議
    したが、台湾の原住民は「化外の民」(国家統治
    の及ばない者)であるという清朝からの返事があ
    り、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、
    台湾出兵を行った。
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1913年、連邦準備銀行(FRB)が設置された。
  アメリカの国際金融資本が、なぜ、そんなに金を持っ
 ているのか?
  これは、まったく不公正な事が行われている。
  あまりにも・・堂々と行われているため、ほとんどそ
 の指摘がなされる事がない。
  まったく・・「打出の小槌(うちでのこづち)」状態
 なのである。
  (参考)打出の小槌:うちでのこづち、望む物の名を
     唱えながら打つと、それが出てくるという、小
     さい槌(つち)。
  アメリカ政府が、金が必要となった時、例えば、戦争
 の時など、莫大な金が必要となるが、その時・・、
  アメリカ政府は、国債を発行する。
  国債を印刷機で刷る。
  そして、その国債を、アメリカの中央銀行(FRB)に買
 ってもらう。
  世界の基軸通貨のアメリカ・ドルは、この中央銀行に
 発行権があるからである。
  中央銀行から得た金を使って、アメリカ政府は戦争が
 遂行できる。
  中央銀行は、アメリカ政府から買った国債を、市中銀
 行に買ってもらう。
  アメリカの中央銀行は、アメリカ政府に、アメリカ・
 ドルの金を渡したが、市中銀行から、また、金が入って
 来るので、結局、中央銀行が刷って発行した札(金)は、
 中央銀行のものになる。
  何の努力もしないで、中央銀行は金を手にすることが
 出来る。
  結局、中央銀行が、世界基軸通貨のアメリカ・ドル札
 を刷る行為は、自分の懐を肥やす「打出の小槌状態」と
 なる。
  この様な、アメリカ政府のアメリカ国債の借金は、べ
 らぼうに、莫大な額となっている。
  日本も、一生懸命、このアメリカ国債を買ってあげて
 いる。
  この様に「お得な立場の中央銀行」なのだが、公的機
 関ではない。
  ここが、また、不公正な所となっている。
  ある民間機関が、この様なお得な特別席に座っている
 アメリカなのだ。
  この100パーセント民間の銀行の大株主が、ロスチャイ
 ルド系の金融機関が握っている。
  何ら努力もしない「打出の小槌状態」を持つ金融機関
 なのだ。
  だから、18世紀に、ドイツのユダヤ系銀行マイアー・
 アムシェル・ロスチャイルドは・・、
  「自分に通貨の発行権を認めてもらえれば、法律は誰
 が作ってもいい」と、この濡れ手で粟状態の事を言って
 いる。
  通貨の発行権さえ握ればどうにでもなると言っている。
  因みに、日本の中央銀行は、日本政府が大株主となっ
 ている。
  アメリカ政府は、中央銀行から莫大な額の借金をして、
 その借金を返済させるために、中央銀行は、政策に口を
 出し、胃のままに政府をコントロールするという状態に
 なっている。
  通貨を支配するという事は、必然的に、国を、そして、
 世界を支配する事になって行く。
  現代の錬金術と言える通貨発行権は、巨大利権なのだ。
  まったく不公正なシステムが、実際、今、存在してい
 る。
  巨大な不労所得を享受する者ども。
  不公正この上ない。
  だから、世の中の動き、戦争なども、この輩たちの意
 思を推し量らなければならない。
  国際金融資本の意思を推し量らなければならない。
  アメリカが、民主主義国家と言うのは嘘。
  刷り込まれた幻想。
  実際は、アメリカの中央銀行(FRB)を取り巻くほ
 んの一握りの者たちが牛耳っている。
  そして、ここに絡んでいるのが「ネオコン」。
  (参考)この「打出の小槌」状態を、「信用創造」と
    いう。
     そして、その「信用創造」とは、銀行が預金と
    貸し出しを連鎖的に繰り返すことで、お金(預金
    通貨)が増えていくしくみを言う・・と、説明さ
    れている。
  (参考)FRBについては、一応、美しく、下記の様
    に説明されている。
  米国の連邦準備制度理事会。
  大統領が任命する7人の理事で構成され、うち一人が議
 長として統括する。
  中央銀行として公定歩合・FFレートの変更などを行う
 が、実際の中央銀行業務は下部組織である全米12の連邦
 準備銀行(FRB;Federal Reserve Bank)が担当する。
  [補説]連邦準備銀行と略称が同じだが、一般的に報道
 などで「FRB」とよばれるのは連邦準備制度理事会。
  (説明ー2)連邦準備銀行。
  米国の連邦準備制度において、全国12の連邦準備区に
 1行ずつ設けられており、連邦準備制度理事会(FRB;
 Federal Reserve Board)の統括のもと、紙幣の発行など
 を行う。
  各区の市中銀行に対して地区ごとの中央銀行としての
 役割を果たす。1913年設置。
.
1960年、慰安婦問題について、無実の日本に対して、韓国
 の作り話があまりに酷(ひど)いので、やむを得ず、以
 下の事を書く・・、
  在韓米軍慰安婦問題(ざいかんべいぐんいあんふもん
 だい)とは、在韓米軍と慰安婦(売春婦)に関する問題で、
  大韓民国の元慰安婦のグループが、1960年代から1980
 年代にわたり、韓国政府当局者によって組織的に米兵と
 の性的行為を強制されたとして、当時の政府指導者、韓
 国政府、米軍をアメリカの裁判所に告発、損害賠償を求
 める訴訟を起こしたことから知られるようになった。
  現在でも、在韓米軍基地周辺などで外国人売春婦の存
 在が指摘されており、2010年に、アメリカ国務省は、現
 在進行中の人身売買であるとする報告を行った。
  韓国では、在韓米軍慰安婦の他、基地村女性、特殊接
 待婦、洋公主などの呼び名があり、韓国においては、韓
 国人を相手にする売春婦とは明確に区別される。
  1962年6月には、米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)
 地域に指定し、この地域での売春取締りを免除した。
  2009年1月7日(現地時間)、『ニューヨーク・タイム
 ズ』(電子版)が報じた。
  ニューヨーク・タイムズとのインタビューに応じた元
 慰安婦の原告女性(Kim Ae-ran)は、韓国政府は、アメ
 リカ合衆国軍(国際連合軍でもあった)の一つの大きな
 ポン引き(one big pimp)だったと主張している。
  朴正煕大統領時代の韓国は貧しく、外貨が不足してい
 たため、韓国当局者は、売春禁止法があったにもかかわ
 らず慰安婦たちを称賛し、また、売春行為を奨励してい
 たとも主張している。
  原告女性は、韓国当局者から「もっと体を売りなさい。
 あなた方はドルを得る愛国者だ」と称賛されたとも、イ
 ンタビューで語っている。
.
1980年代、自虐経済(グローバリズムの名のもと、どんど
 んこの状況が加速されて行った)
  バブル崩壊後(1991年・平成3年・3月~1993年・平成
 5年・10月ころ)、20年間、デフレに陥(おちい)った日
 本経済は、思考をも、内向きに変えてしまった。
  デフレ精神が、しみついた経済は、なんの成長戦略も、
 イノベーション(経済発展の一因としての技術革新)も
 生み出せない。
  ただ、縮小するだけの自虐経済でしかなく、これが、
 1980年代の終わりから始まった日米構造協議と連動して、
 グローバリズムの名の下(もと)、どんどん歩みを加速
 させて行った。
  仕組まれていたのだろう、自虐経済は、時を前後して
 発生した「自虐史観の問題」と流れが一致している。
.
1990年代、この頃から始まったグローバリズム。
  「アメリカン・グローバリズム」。
  グローバリゼーションは、「世界のアメリカ化」であ
 る。
  グローバリズムは、アメリカのグローバリズムである。
  グローバリゼーションは、アメリカの市場原理で、そ
 の市場原理を、グローバル規模で拡大しようという原理
 だ。
  グローバル規模の自由化のアメリカのやり方でやりた
 いというのが、「アメリカン・グローバリズム」なのだ。
  それは、アメリカの経済・企業システムに適合するよ
 うに世界各国を変えようとするアメリカ政府の強力な政
 策やイデオロギーなしに進展するものでは無かった。
  グローバリズムという言葉に翻弄されているが、ある
 一国のアメリカが、グローバリズムと言って、「アメリ
 カの考え方に於けるグローバリズム」を、他国へ押し付
 けようという一国主義なのだ。
  民主主義を標榜するアメリカが、何ら、民主主義的で
 はないやり方で、グローバリズムを推し進めている。
  国によっては、アメリカ等の、国外からのグローバリ
 ゼーションの大波に翻弄され、呻吟(しんぎん)する国
 や途上国もある。
  アメリカのグローバリゼーションを使った政策であり、
 イデオロギーである。
  この政策で、アメリカは、「急速に格差が拡大してい
 る」。
  それは、弱者を無視するイデオロギーであるので当た
 り前である。
  また、それは、個人の単位だけでなく、国単位でも起
 き、弱小国の産業も潰される。
  企業単位でも起きるから、中小企業も潰される。
  大きい企業には都合が良いのである。
  アメリカの様な大きい国には都合が良いのである。
  アメリカに生まれた貧困層は哀れである、憐れである。
  アメリカの中間層は居なくなった。
  その下の層へと転落した。
  その代り「1割にも満たない超富裕層」がより富を貯め
 込んでいる。
  グローバリゼーションのもとで、一方的に増加する富
 と機会を手にした超富裕層が、様々な可能性の広がる社
 会のこの階層が、そのすべてを手にして行く、富を手に
 して行く。
  逆に、この他方では、可能性が閉ざされ、自己選択の
 自由がない境遇に陥(おちい)って、この層・貧困層が
 増え続けている。
  新たな貧困層が生まれたのである。
  アメリカで、1990年代に始まった。
  はじめは、良さそうに見えた。
  景気が拡大し、失業率も低下した。
  しかし、低い失業率で、持続的に景気が拡大したにも
 かかわらず、多数の中産階級の賃金は上昇せず、それば
 かりでなく、株式や不動産といった資産市場価格は上昇
 し、このキャピタルゲインを受けた、わずかな超最富裕
 層に、その恩恵は集中した。
  「アメリカン・ドリームのアメリカ」は消えた。
  働いても、働いても豊かになれない「ワーキング・プ
 ア」が誕生した。
  そして、増えて行った。
  上層階層が豊かになれば、下層階層へその「富のしず
 く」が、滴(したた)り落ちるという「トリクル・ダウ
 ン」の話は、空理空論だった。
  おとぎ話に終わった。
  (参考)トリクルダウン理論とは、「富める者が富め
    ば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリク
    ルダウンする)」とする経済理論または経済思想
    である。
     均霑理論(きんてんりろん)とも訳される。
      サプライサイド経済学における中心的な思想と
    なっている。
  アメリカン・グローバリゼーションは、「トリクル・
 ダウン」が起きないようにしていて、そのメカニズムの
 中で成立するようにしているので、当たり前である。
  このシステムが、2015年に、TPPとして日本に輸入
 された。
  何もないという強い者が、強いがゆえに正義だと言う、
 弱い者を顧みないシステムは、強いもの信奉のシステム
 は、強い者=選ばれし者のシステムは、その選ばれし者
 という選民が、グローバル競争をしてこそ正義というア
 メリカン・グローバリズムの考え方である。
  そこに、弱者は、当然のこととして排除されるのが正
 義なのだとしている。
  キリスト教の選民思想の教義である。
  社会層間の格差が拡大し、階層的・地域的な不均等を
 もたらす教義である。
  グローバリゼーションは、キリスト教と同じ様に負の
 面を隠して、美化され過ぎている。
  人々を惑わしている。
  「グローバリゼーションは、世界中の企業と人々に可
 能性が広がる」は、良く言い過ぎている。
  1例を言えば・・、「アメリカで、ジャンク・フードば
 かりを食べ、また、食べざるを得ない人々の声を聞いて
 差し上げて下さい」。
.
1992年、慰安婦問題が、ねつ造された。
  捏造(ねつぞう)に関与したのは、「朝日新聞」と、
 「中央大学」の吉見義明教授だった。
  「朝鮮人の女衒(ぜげん、若い女性を買って、連れて
 行き、買い求める所へ売る。そして、性風俗の仕事をさ
 せる人身売買の仲介業)が、人さらいをして慰安婦を集
 めているのは、皇軍(日本の軍)の名誉を汚す事になる。
  だから、是正せよ」と、日本軍は、はっきりと書いた。
  こんな、読み間違えるはずのない文が、日本を貶(お
 とし)める道具にされた・・文書にされた・・証拠だと
 された。
  こんな明白な文を、それにもかかわらず、偽りの捏造
 に仕立てた。
  そして、朝日新聞は、「軍関与の証拠が見つかる」と
 大々的に、大袈裟に報道した・・嘘の報道をした。
  中央大学の教授が見つけたのだとした。
  (この証拠と称する文書も、その様な証拠になるとい
 うような文書でないため、長い間、ほったらかしにされ
 ていた。
  この教授が証拠としたが?古くからすでにあった、だ
 から、誰からも省みられなかった。
  そのような記述の文書を、嘘証拠を仕立てたのだった)
  その様なことであるのを、しっかり裏付けも取らず、
 朝日新聞は記事にして、結局、嘘報道となった。
  そして、この嘘がばれて、朝日新聞は、一連の事につ
 いて謝罪に至る・・、
  日本の軍は・・、
  「皇軍としての名誉が傷つく」から、朝鮮人の業者が、
 慰安婦の酷(ひど)い人集めをしているから、やめる様
 に罰しろと「命令書」を出したのだ。
  「止めさせる命令書」が、逆に、証拠に仕立てられた。
  朝鮮人の業者が、同胞の朝鮮の若い女性を食い物にし
 ているから、やめさせる様にと言っている事が、「証拠
 だ」と言うのだから「開いた口もふさがらない状態」と
 なる。
  止めに入った日本軍が、罰してまでして止めるように
 と行動した日本軍を、逆に、犯人に仕立てた。
  こんな明白な事を、朝日新聞は、中央大学教授と一緒
 になって、日本を貶める記事で報道した。
  この様な、詳細の事情が分からない世界は、この朝日
 新聞の記事を正しい報道だとして、受け入れてしまった。
  今、世界に慰安婦像が60体以上ある。
  アメリカやヨーロッパなどに、そして、世界に、朝鮮
 の活動家が、世界中に建てている。
  また、お粗末な事に、1993年8月に、「河野談話」が発
 表され、「これは真実だ」と言った。
  これは、お粗末な行動だった。
  罪作りな発言だった。
  この言葉から、国連の報告書も作られるという話に広
 がった。
  この流れは、今でも続いて、止まっていない・・
  日本政府は、声を大きくして、正義の声を発せよ!
  変な妥協はするな! 誤解のもとになる。
  後の世代の方々へ負の遺産(嘘の遺産)を作るな、常
 に、正義の言葉を発せよ!
  韓国・朝鮮の方々との歴史には、この様なだましの歴
 史が連綿と続いて来ているいることを学べ!
  こんな事は、江戸時代にもあった。
.
2016年6月23日、イギリスで国民投票が行われ、イギリスの
 EU離脱が決まった。
  良く見えたグローバリズムは大きな落とし穴があった。
  グローバリズムが世界に広がり、拡大し続けるととも
 に、普通の人々が普通に生活できないという、経済が毀
 損(きそん)され酷(ひど)さが目立って来た。
  その一方で、富は一握りの層に集中して行った。
  ひどい経済格差が世界中に広がって行った。
  グローバリズムに対する民衆の怒りが沸点に達した。
  その端緒を切ったのが「イギリス」だった。
  2016年6月23日の国民投票で、イギリス国民は、EUか
 らの離脱を選択した。
  その要因の一つに、『イギリスへの移民問題』があっ
 た。
  また、財政の現状を粉飾してユーロ圏に潜り込んだギ
 リシャの問題があった。
  実際は、ギリシャの財政は酷い危機状態にあった。
  ギリシャ経済は、崩壊同然であった。
  こんな不誠実なギリシャを支えねばならなかった。
  移民が、シリアから150万人もの人々が、難民としてE
 U諸国に入って来ていた。
  ポリティカル・コレクトネスと言いながら、アメリカ
 には、依然として、黒人の方々への人種差別が存在し、
 そして、続いている、また、宗教的にも、キリスト教に
 偏している国家となっている。
  この様な、言っている事と、やっていることが矛盾す
 る国家の口車(くちぐるま、口車に乗る:言葉巧みに言
 われてだまされる。おだてに乗る)の中で、世界は流転
 (るてん)した。
  移民を受け入れて、イギリスの下層の労働者は、仕事
 を奪われた。
  難民流入で、犯罪やテロが頻発した。
  治安も悪化した。
  治安の良い日本からは、想像ができないような酷い状
 況となった。
  雲泥の差となった。
  (2017年5月23日、自爆テロがまた起き、23人の尊い命
 が亡くなった)
  フランスでも、EUを主導するこの国にも、移民に対
 する反発は高まっている。
  EU離脱を掲げる大統領候補の支持率が急激に高まっ
 た。
  イギリスの様に、EU離脱とは成らなかったが、
  また、イタリアでも、EU離脱の支持者が増加してい
 る。
  また、ドイツでも、移民問題への不満の声が高まって
 いる。
  因みに、フランスは、500万人もの移民を受け入れてい
 る欧州の最大規模の移民大国であるが・・、
  2015年1月の「シャルリー・エブド」襲撃事件、
  2015年11月のパリ同時多発テロ、
  2016年7月のニースでのトラックテロ・・と、テロの
 連鎖が続いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-26 03:31 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年1月1日、日本の総人口4025万人となり、4000万人を
 突破した。
  因みに、2015年の日本の総人口は1億2700万人、そして、
 ロシアは、1億4410万人で、韓国(大韓民国)5062万人。
1891年1月3日、博文館が、「少年文学叢書(そうしょ)」を
 刊行開始した。
  これは、世に好評を博し、日本の近代児童文学の先駆
 けとなった。
  1894年まで、ほぼ毎月刊行された。
1891年1月8日、衆議院予算委員会が、政府提出予算の大幅
 削減案を提出し、政府はこれに同意しなかった。
  政府の作成した予算案が、1890年12月3日、衆議院に
 提出された。
  衆議院は、63名の予算委員を選出し、審査方針の論義
 に入った。
  論義は、立憲自由党内の政府妥協派の抵抗によって難
 航した。
  しかし、結局、7項目からなる審査方針と、これに基づ
 く「官吏俸給表」や、「各局統廃合及人員配当表」「旅
 費定額表」を審査の基準として決定したのち、6科に分か
 れて予算の審議に入った。
  1891年1月8日、衆議院予算委員長の大江卓(立憲自由
 党)は、「民力休養(減税)」と「経費節減(予算削減)」
 を掲げる民党の多数意見を尊重し、軍艦建造費など800万
 円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを内
 閣へ報告した。
  1月9日、蔵相・松方正義は、衆議院本会議で「この査
 定案に不同意である」と明言した。
  2月5日、蔵相・松方正義は、「歳出の廃除・削減は、
 確定議前に1院(衆議院・貴族院)ごとに政府の同意を
 求めるべきである」と言明した。
  首相・山県有朋も、衆議院で同趣旨の演説をした。
  2月20日、与党の大成会は、「憲法67条にもとづく歳出
 に関し、確定議前に政府の同意を求めるべきだ」との動
 議を提出した。
  憲法67条には・・、
  「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ
 由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナ
 クシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス 」
 ・・という規定がある。
  自由党土佐派など旧愛国公党系の議員28人は、立憲自
 由党を裏切って動議案に賛同したため、わずか2票差で可
 決された。
  2月21日、中江兆民は、「衆議院は腰抜けだ」。「無血
 虫の陳列場だ」と叫んで、辞表を提出した。
  2月24日、林有造・植木枝盛ら土佐派29議員は、立憲自
 由党を脱党した。
  2月26日、板垣退助も脱党し、大成会など政府支持派と
 共に予算成立に協力した。
  3月2日、衆議院は、政府との妥協による予算案を修正
 (歳出削減幅を651万円に縮小)して、可決した。
  3月、脱党していた土佐派の片岡健吉ら25議員は、自由
 倶楽部を結成した。
  立憲自由党は打撃をうけた。
  3月19日、欧米から帰国した星亨は、立憲自由党大会を
 開催し、党名を自由党として再結成し、板垣退助を総理
 に迎えた。
  その後、自由倶楽部を結成していた片岡健吉ら25議員
 も、自由党に復帰した。
  4月、山県有朋は、第一議会終了を機に、勇退を決意し、
 辞表を提出した。
  5月6日、松方正義が、蔵相兼第四代総理大臣に就任し
 た。
1891年1月、インフルエンザが流行した。
  国立感染症研究所・感染症情報センターの記事に・・、
  1889年~1891年に、H3N8によるパンデミックが発生し
 ていたと記されている。
  (参考)パンデミック(英語: pandemic、世界流行)
     は、ある感染症(特に伝染病)が、顕著な感染
     や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感
     染の流行を表す用語。
1891年1月9日、内村鑑三不敬事件
  内村鑑三の教育勅語不敬事件起こる(礼拝拒否)
  東京・本郷の第一高等中学校の嘱託教員をしていた内
 村鑑三は、教育勅語奉読式での敬礼を誠実に行わないで、
 不敬の礼であると同僚や生徒からたしなめられ非難され
 た。
  また、その後、社会的な問題となった。
  内村は、学校を辞任した。
1891年1月12日、東京と大阪の商工会議所の設立が許可され
 た。
  この年、全国の経済の発展と、国際化の進展に伴い、会
 議所制度の強化が必要とされ、条例が施行された。
  また、1878年(明治11年)3月、日本初の「東京商法会
 議所」が設立された(初代会頭・渋沢栄一)
  商工業者の声を、国の政策に反映させるために発足し、
 以来、行政への意見具申は、今日に至るまで最も重要な
 活動となっている。
1891年1月12日、新橋~神戸間の直通旅客列車を2往復運転
 とした。
1891年1月12日、長浜~深谷間線路を貨物線として使用を開
 始した。
1891年1月12日、御殿場~沼津間の複線が完成した。
1891年1月13日、警視総監が、保安条例を発動し、壮士ら
 54名へ東京退去を命じた。
1891年1月14日、鉄道庁第二部長一等技師・松本荘一郎が、
 ボーナルおよび本間英一郎とともに、碓氷の現地を巡視
 したの結果、中尾線が適当である旨を、長官へ報告した。
1891年1月19日、板垣退助が、議員40名と共に立憲自由党を
 起こした。
1891年1月19日、明治火災保険会社(後の東京海上火災保険)
 が、設立された。
1891年1月20日、仮議事堂が全焼した。
  東京・内幸町の帝国議会仮議事堂が全焼した。
  失火原因は漏電だった。  
  1890年に竣工したばかりだった。
  直ちに、再建がはじまった。
1891年1月20日、「旅客切手ノ正当ナラザルトキ取扱」を
 通達した。
  (鉄二調甲第43号、廃札にする乗車券および無改鋏・無
 日付その他取扱上正当でない乗車券についての報告は、
 従来、浜松以東は新橋運輸課長、浜松以西は神戸運輸課
 長あてであったが、駅長から、直接、鉄道庁第二部調査
 係主任あて報告となった)
1891年1月20日、カラカウア、ハワイ王国の第7代国王が死
 亡した。
  この方が、史上初めて、日本を訪れた外国の国家元首
 であった。
  明治天皇陛下と会見し、アメリカによるハワイ王国が
 奪われる動きがあったため、日本からの移民の要請をし、
  また、ハワイ王国存続のために、日本と姻戚関係を結
 びたいとの要望から、カイウラニ王女と山階宮定磨王
 (のちの東伏見宮依仁親王)の結婚を希望した。
  しかし、日本のアメリカに対しての配慮から、実現に
 は至らなかった。
  アメリカは、メキシコからテキサスなどを奪った方法
 と同じ方法で、1887年にクーデターが起こし、
  また、1893年、サンフォード・ドールなどのアメリカ
 からの移民たちが、増加した移民たちの力によって革命
 と称する国の奪取が行われた。
  まったくテキサスなどを奪う方法と同じだった。
  その結果、アメリカ合衆国の名目的な国家となり、結
 局、1898年に、ハワイ準州としてアメリカに併合され、
 ハワイ王国は消えた。
  アメリカは、軍艦を派遣して、軍艦を持たないハワイ
 王国を武力で威嚇し、武力で奪った。
  (史実)1887年6月:「ハワイアン・リーグ」の呼びか
    けで「ホノルル・ライフルズ」(白人市民の義勇
    軍)が協力する集会が開かれ、ここでカラカウア
    王に対し、現首相の退陣と新憲法採択を要求する
    決議案が発表(強制)された。
    (民主的な行為に見せかけた王国の奪取)。
     カラカウア王は、なんら有効な対抗手段を取り
    得ず、上記白人集団を中心とする新内閣の組閣を
    認めざるを得なかった。
     サーストン率いる「13人委員会」は、新憲法を
    起草、7月6日に、24時間以内に承認するようカラ
    アウア王に突きつけた。
     それ故、「ホノルル・ライフルズ」という武力
    のもとに調印させられたこの「1887年憲法」は、
    「ベイオネット(銃剣)憲法」と呼ばれるように
    なった。
     内容は、決定権を持つ選挙権を持つ者は、欧米
    生まれの外国人居住者に限って認めるという「ハ
    ワイ国を奪うことがありありの憲法」だった。
     白人に土地所有者が多かったので、土地を持つ
    ものを条件にしたため、多くのハワイの方々やア
    ジア人には選挙権は得られなかった。
     この様な卑劣なやり方などでハワイは奪われた。
1891年1月25日、小笠原長行が没した(1822年6月29日~1891
 年1月25日、68歳)従四位、
  「夢を夢見た非凡な貴公子」と言われた人。
  肥前国唐津藩主の長男として生まれた。
  幼少から明敏で、江戸に出て、朝川善庵に師事、40歳
 の1862年に若年寄、そして老中格、そして、江戸幕府の
 幕末の老中になった。
  生麦事件の時、事態を早急に終結するのが良いと判断
 し、賠償金10万ポンドをイギリスにポンと支払った。
  しかし、欲が深いイギリスは、薩摩藩から、さらに金
 を得ようと、取ろうとして、薩英戦争に至る。
  武力にものを言わせて金を取るの相だった。
  当時、来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレ
 ット・バラは、アメリカの友人への手紙に、以下の様に
 記した。
  「その日は、江戸から南の領国へ帰るある主君の行列
 が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役
 人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、
  この人たちは、当然、守らなければならないことも、
 幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。
  そして、その大名行列に出会ったとき、端によって道
 をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったの
 です」・・と・・、
  また、日本人の林董(はやしただす、幕臣、明治時代
 の外交官、伯爵)の回顧録に・・
  (事件を起こしたイギリス人の)リチャードソンたち
 は、「今日は、島津三郎通行の通知ありたり。危険多け
 れば見合すべし」と友人から忠告されていたと記されて
 いて、完全に薩摩藩の島津公の行列があることを知って
 いた。
1891年1月29日、ハワイ王国でリリウオカラニ女王が即位。
  しかし、ハワイ王国は奪われる運命に・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争に引きずり込んだ 。
   アメリカ共和党元党首ハミルトン・フィッシュが暴く日米戦の真相」
   という本が、2017年2月13日に出版された。
.
紀元前2万7000年、沖縄県で、この頃の人骨が発見された。
  沖縄県石垣市の旧石器時代の遺跡から、人の全身の骨
 が見つかり、沖縄県立埋蔵文化財センターなどが分析し
 た結果、
  これまで国内最古とされていた骨よりさらに1000年古
 い、およそ2万7000年前の骨と見られることが分かった。
  遺跡からは複数の骨も見つかり、埋蔵文化財センター
 は、国内で初めての旧石器時代の墓だったと考えられる
 と指摘している。
  沖縄県立埋蔵文化財センターなどは、石垣市にある「
 白保竿根田原洞穴遺跡」で、去年7月までの5年間、発掘
 調査を行い、国内で最も古いおよそ2万6000年前の人の骨
 が見つかっていた。
  この調査では、人の全身の骨も見つかっていて、詳し
 く分析した結果、これまで国内最古とされていた骨より
 さらに1000年古い、およそ2万7000年前の骨と見られるこ
 とが分かった。
  また、遺跡からは、食べ物や道具など生活の痕跡が見
 つからなかった一方で、複数の骨が発掘され、
  このうち1体の骨は、体を折り曲げた状態だったこと
 などから、文化財センターは、国内で初めての旧石器時
 代の墓があったと考えられると指摘している。
  調査に参加した元琉球大学准教授の土肥直美氏は、「
 見つかった全身骨格は、動物にかまれた痕があることか
 ら、遺体を埋葬しない風葬で葬られたと見られ、沖縄で
 は、琉球王国時代には、風葬の風習があったことがわか
 っているのでつながりがあるのか分析したい」と話して
 いる。
  (2017年5月19日、NHKニュースを参考にした)
.
1916年、ウィルソン・アメリカ大統領によって、ルイス・
 ブランダイスが、ユダヤ教徒最初のアメリカ合衆国最高
 裁判所陪席判事に任命された。
  サミュエル・ウンターマイヤー(1858年~1940年)が
 ウィルソン・アメリカ大統領の弱みを握ったことから、
 この話が始まった。
  これは、もともとは、ウィルソンの方から依頼した話
 だった。
  ウィルソンアメリカ大統領は、卑劣な事に、自分の女
 性問題を握られ、それに対しての「ゆすりに負けた」、
 その様なアメリカ大統領だった。
  ウィルソン大統領は、その女性スキャンダルのもみ消
 しを、サミュエル・ウンターマイヤーという弁護士に依
 頼した。
  ウンターマイヤーは、その見返りを求める。
  最高裁判事を指名するときは、「自分が推薦する人間
 を選んでくれ」と・・、
  ウィルソンは、その要求を受け入れた。
  そして、ウンターマイヤーの指定したユダヤ人が、最
 高裁判事となった。
  これが、アメリカの最高裁判事となった最初のユダヤ
 人となった。
  ウィルソンは、この後、個人的弱みを握られて行き、
 意のままに繰られた。
  ウィルソンの側近には、左派のイデオロギーの人物た
 ちで満ちた。
  ウィルソン大統領の言葉に、ロシア革命でロシア共産
 政権が樹立された時、「素晴らしい民主主義国が出来た」
 と言った。
  ウィルソン主義を掲(かか)げたが・・、
  そして、「アメリカ型の自由と民主主義を世界に広げ
 るのだ」としたが、
  結局、したことと言えば、外国の政治に積極的に介入
 し、内政干渉のし放題で・・、
  自分の思うようにいかないとなれば、「戦争もいとわ
 ない」という低劣な行動・態度で、軍事介入を積極的に
 して行くという低劣な国際主義者だった。
  社会主義的で、グローバル主義者だった。
  この様なグローバリズムの国際主義者だった。
  ウィルソンは、国際連盟を創設したが、この様な輩だ
 った。
  そして、国際金融資本が、その持ち前の「金融パワー」
 にものを言わせて、アメリカ支配を強め、
  そして、アメリカ政権内に、「ネオコン」が入り込ん
 で行った。
.
2007年、「グローバリズム」と言って、一見、良い様に聞
 こえるが、
  また、そして、「国際主義なんだ」とも言って、良い
 様に思わせるが、
  その言葉を掲(かか)げて、事を起こしている連中は、
 国際金融資本家たちで、巨大な金融資本を牛耳っている。
  このウォールストリートを拠点にする「超金持ち連中」
 は、
  国際金融資本のメインプレーヤーたちは、世界最大の
 金融財閥を形成している。
  ロスチャイルドを筆頭とするユダヤ系の金融資本家た
 ちで・・、
  グローバリズムとか、国際主義という言葉を冠して、
 事をしているが・・、
  つまるところは、自分の財閥に金が転がり込む仕組み
 を作って、やっている。
  それは、さも正しそうに、そして、美しそうに見せて
 いる。
  その金で・・企業に介入する。
  特に、重点を入れている一つが・・『メディア』、
  メディアは、その国の世論に多大な影響力を持ってい
 る・・そこで、ここに目を付け・・金の力によって、経
 営に大きな発言力を増して行く、
  そして、その報道姿勢について、自分たちの姿勢に則
 (のっと)ったものにして行く。
  日本の世論も、この手で、コントロールされて行って
 いる。
  国民の世論形成に影響力の強い所を押さえて行く。
  そして、国さえが・・コントロールされていく。
  この様な立場にいるロックフェラー(ロックフェラー
 第3代当主デービット・ロックフェラー)は言う、
  「一族と私は国際主義者であり、世界中の仲間たちと
 ともに、より統合的でグローバルな政治経済構造を、い
 うなれば、一つの世界を、構築しようと企んでいる。
  もし、それが罪であるならば、私は有罪であり、それ
 を誇りに思う」(ロックフェラー回顧録、2007年)。
  自分たちに都合の良い社会経済体制を作りたいのイデ
 オロギーで、国家体制さえ解体し、ワン・ワールドを作
 りたいとしている。
.
2016年、ヒラリー・クリントンが・・、
  アメリカの次期大統領になる有力候補と言われていた
 時、
  ヒラリーの気になる弱点として指摘されたのが「メー
 ル問題」だった。
  このヒラリーの「メール問題」というのは、
  2012年9月11日に、リビア東部のベンガジにあるアメリ
 カ領事館と、中央情報局(CIA)の活動拠点が、テロ
 リストに襲撃され、
  クリストファー・スティーブンス大使と、アメリカ人
 職員3人が、殺害される事件が起きた(ベンガジ事件)。
  このスティーブンス大使は、リビア政権転覆計画の責
 任者で、武器と金塊をシリアへ送る任務にあった。
  この武器と金塊は、リビアから引き上げる予定だった。
  このリビアの過激派に襲撃され、殺されたのだった。
  ヒラリーの「メール問題」は・・これに絡んでいた。
  ヒラリーのメールのあて先はこの大使らであり、
  このアメリカの謀略を指示していたのが、当時、国務
 長官だったヒラリーである可能性が極めて高かった。
  当然、この様な非合法な行動は、公(おおやけ)に出
 来ないので、国務長官だったヒラリーは、記録が残る国
 務省のメールではなく、私用のメールを使って指示した、
 指令を出していた。
  しかし、このメール事件を、ジェイムズ・コーミー米
 連邦捜査局(FBI)長官は、2016年7月2日に、「ヒラ
 リーを告訴しない」とした。
  アメリカ・メディアは、一斉に、激しい非難をした。
  まったく臭い話に、蓋されたというアメリカだった。
  ヒラリーの背後に、「ネオコン」が居るとささやかれ
 た。
.
2016年12月2日、アメリカのトランプ大統領は、就任前であ
 ったが、
  この日、台湾総統に、直接、電話をした。
  このアメリカ大統領の公式の電話は、1979年に、米中
 国交正常化に伴う、アメリカの台湾との国交断絶以来、
 初めての事だった。
  中国の主張する「一つの中国」を肯定しない、認めな
 い行為だった、行動だった。
  トランプ大統領は、この中国の主張する原則を破棄し
 たばかりか、台湾の蔡英文氏を「ザ・プレジデント・オ
 ブ・タイワン(台湾大統領)」と呼んだ。
  台湾という国の最高地位の人=台湾大統領と呼んだ。
  そして、電話の中で、「経済、政治、安全保障での緊
 密な関係が、台湾とアメリカの間にある」と、確認し合
 った。
  台湾が、完全な一つの立派な国としての立場にあると
 認めた。
  民主党のヒラリーなら、中国寄りの行動をとるので、
 こうはならなかっただろう。
  民主党のオバマもしかり。
  この同じ日・2016年12月2日に、アメリカの共和党系の
 重鎮であるヘンリー・キッシンジャーが訪中していた。
  中国の習近平国家主席と会っていた。
  1979年の米中間の国交正常化の時も、日本の頭越しに
 動いた人物だった。
  今回の・・この習近平とキッシンジャーとの会談で、
 米中関係の強化が確認されたと大々的に中国のマスコミ
 は報じていた。
  この様に報じられる様に・・習近平は、アメリカとの
 関係が、我が意を得たりと思っていた・・その様な所に、
 トランプ大統領と台湾の蔡英文総統の電話会談があった
 ことを知ると、習近平は激怒したという。
  キッシンジャーは、国際金融資本家のロックフェラー
 の意向を受けて動く人物で、親中の国際主義者。
  国交が開かれた時に動いた彼・キッシンジャーが、こ
 の時、同様に、これからの大きな展開が起きるこの時も、
 動いたのだった。
  しかも、今度は、台湾の立場が、浮上する行為があっ
 たこの時だった。
  今、時代は変わる節目にある。
  反トランプにある日本のマス・メディア(NHKなど)
 を含めた世界のマス・メディアは、この様な事はあまり
 触れない・・報道しない。
  キリスト教に偏するNHKは、特に、親中国で、反ト
 ランプの立場にある・・なんだかんだとトランプ大統領
 の足を引っ張ってばかりいる。
  まゆつばの放送局となっている・・公正でないから注
 意を要する。
.
2017年、アメリカ国民の方々が、一般大衆の方々が、アメ
 リカを支配するエスタブリッシュメントに対して、明ら
 かになったグローバリズムの不都合に、不満や怒りが爆
 発して来ている。
  かつてのアメリカで、アメリカ国民の方々を繰ったル
 ーズベルト大統領は、
  日本に真珠湾攻撃をせざるを得ない状況を作り出し、
 また、事前に、日本の攻撃を十分知っているのに、突然
 の攻撃のようなふりをして、
  「奇襲だ」と言い、アメリカ国民の方々に嘘の印象を
 持たせ、アメリカを戦争に向かわせた。
  この話は、アメリカ国民の方々も知って来ていて、今
 は、確実に、ルーズベルトのアメリカ国民の方々への裏
 切り行為だった事は事実とされている・・が、
  アメリカは、何も、このルーズベルトの破廉恥行為だ
 けでなく、この様な行為は、常になされて来た。
  例えば、ウッドロウ・ウィルソン大統領の時も、そう
 だった。
  ウィルソン大統領の側近で、大統領直属の広報委員会
 を統率していたウォルター・リップマンは・・、
  「アメリカの民主主義は・・幻想である」と言ってい
 る。
  リップマンの下で、対ドイツ戦争推進宣伝工作に従事
 したエドワード・バーネイズは、
  「プロパガンダ」という本(著書)の中で・・、
  「大衆は、あたかも自分の意見を持っているかのよう
 に信じた。
  ・・が、実際は、見えない勢力によってコントロール
 されているだけだった」・・と、言っている。
  「自分たちが、メディアを使って大衆をコントロール
 している」・・と、言った。
  選挙にしたって、金を使って、巨額な金で、候補者の
 言葉を切り貼りして、作られた情報で解説するメディア。
  それに洗脳され・・、
  「自分は、この人物のここが素晴らしいと思って選ん
 だ」となる、
  「信じて投票した」となる。
  メディアによる刷り込みを、自分の意見と勘違いする。
  危険に近づいている事に気付かず、あたかも自分の意
 見のように勘違いする。
  フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、
 すでに、1830年代に、アメリカを見て・・、
  「アメリカの民主政治」という本を書いているが、そ
 の中で・・、
  「アメリカ人は、アメリカの多数の意見を、あたかも
 自分の意見であるように信じて主張する」・・と言って
 いる。
  完全に、アメリカ人は、マインド・コントロールされ
 ている。
  メディアによる「刷り込み社会」。
  アメリカを支配するエスタブリッシュメント層に都合
 の良い『グローバリズム』が・・この様に作られて来た。
  それが、今、崩れて来ている。
  一般大衆が、その様なエスタブリッシュメントに対し
 て、明らかになったグローバリズムの不都合に、不満や
 怒りが爆発して来ている。
  因みに、「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争
 に引きずり込んだ 。アメリカ共和党元党首ハミルトン・
 フィッシュが暴く日米戦の真相」という本が、2017年2月
 13日に出版された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-23 02:11 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年、その他:
・度量衡法が公布された。
  日本は、1875年の度量衡取締条例による近代国家とし
 ての度量衡統一の後、1891年に、度量衡法が制定された。
  制定当時、原則としては尺貫法であったが、既に、日
 本は、1886年(明治19年)に、メートル条約に加盟して
 いたため、尺と貫はメートル原器・キログラム原器から
 換算する方法を採り、メートル法も公認されるという二
 元的な単位体系を取っていた。
  また、この1891年の度量衡法の公布、
  および、1893年の施行、
  1903年の中央度量衡器検定所設立の勅令公布、
  1907年~1931年の田中館愛橘の国際度量衡委員会委員
 就任、
  1909年、および、1921年の度量衡法改正・・などが重
 要。
  因みに、1921年の法改正は、メートル法への統一の方
 向を示すものであって、この公布の日である4月11日は、
 後に、「度量衡記念日」または「メートル記念日」と呼
 ばれるようになった。
・雇人口入営業取締規則が警察令として公布された。
  口入屋(くちいれや、人材斡旋屋、人材派遣屋)など
 の営利を目的とした職業紹介に対する規制は、福井県で
 は、1895年(明治28年)の県令28号「雇人口入営業取締
 規則」で、県内の営業者は営業許可が必要とされた。
  また、営利業者や募集人が、県外から職工を集団的に
 募集する事態に対応して、県外の営業者に対しても、1897
 年(明治30年)の県令72号で、県の営業許可が必要とな
 った。
  この様に、各府県ごとに行われていた規制は、第一次
 世界大戦がもたらした労働力需要のなかで、法的な整備
 をともなって全国的に行われるようになる。
  1919年(大正8年)3月には、救済事業調査会が「失業
 保護ニ関スル施設要綱」を答申し、おりしも、同年・1919
 年に、ワシントンで開かれた第一回「国際労働機関(I
 LO)」総会で、公益職業紹介所施設の増設と営利紹介
 所の全廃を内容とする失業に関する条約・勧告が決定さ
 れたことによって、国際的な労働基準にあわせた政策の
 調整が必要となっていた。
  こうして1921年(大正10年)7月、「職業紹介法」が施
 行された。
  同法では、事業は国の事務であるが、経費は市町村負
 担とされ、職業紹介の無料主義の原則が明らかにされた。
  一方、営利職業紹介は全面的には禁止されず、その営
 業と新規開業を規制した「営利職業紹介事業取締規則」
 が、1927年(昭和2年)から施行された。
  また、各府県の労働者募集取締規則を統一する内務省
 令「労働者募集取締令」が、1925年(大正14年)に施行
 された。
・井上円了が、妖怪研究会を結成した。
  井上 円了(いのうえ えんりょう、1858年3月18日~
 1919年6月6日)は、仏教哲学者、教育者。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学
 講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」
 などと呼ばれた。
・(氷川清話)保安条例による壮士54名の東京退去。
  1891年1月13日に、保安条例を再び執行し、壮士など
 54名に東京退去をさせた。
  2月11日には、さらに8人が退去をさせられた。
  大同団結運動(1887年10月)で高揚した自由民権運動
 対策のための法律で、秘密の集会・結社を禁じた。
  また、内乱の陰謀・教唆(きょうさ、犯罪を行なおう
 と思う様に他人に仕向けること)、治安の妨害をする恐
 れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規
 定に従って、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させら
 れ、3年以内の間、その範囲への出入りや居住を禁止され
 た。
・(氷川清話)勝海舟、孫女千代子誕生(のち、近藤勉武
 を養子に迎う)
・(氷川清話)酒井雄三郎の第二インター(ブリュッセル)
 出席。
  酒井雄三郎(さかいゆうざぶろう)は、1860年、熊本
 県に生まれ、1900年12月9日、パリに没した。
  明治の社会思想家。
  1879年、上京して中江兆民の仏学塾に入り、後に、そ
 の講師、塾長代理などをつとめた。
  1890年、万国博覧会がパリで開催された際、農商務省
 嘱託の事務官としてパリに渡り、万国博覧会の仕事にた
 ずさわる一方、社会問題を研究、ヨーロッパの社会事情、
 社会運動に関する報告を雑誌『国民之友』に寄稿した。
  また、1891年に、ブリュッセルで行われた第2インター
 ナショナル (→社会主義インターナショナル ) 第2回大
 会に日本人として初めて出席した。
  その報告を『国民新聞』に寄稿した。
  1892年、帰国して上野岩太郎、小島龍太郎、佐藤勇作
 らと「社会問題研究会」を創設した。
・(氷川清話)三条内大臣逝去。
・(氷川清話)松平慶永逝去。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1891年11月27日、福沢諭吉が勝海舟を批判する。
  福沢諭吉は、1891年(明治24年)に、「痩我慢の説」
 を書き、その中で、辛辣に勝海舟の批判をした。
  「痩我慢の説」は、1891年11月27日に脱稿され、1901
 年1月1日の「時事新報」紙上に掲載された。
  「勝海舟は、幕臣でありながら一度も戦うことなく、
 江戸城を明け渡し、しかも、敵であった新政府に入って、
 伯爵になるなど、立身出世までしている」・・と・・、
  武士の精神に反し、その進退は、「極めて不透明で不
 愉快だ」というのである。
  同様に、榎本武揚も批判し、福沢は、この両者に原稿
 を送って、公表しても良いかを質した。
  それに対し、榎本は、批判されたのが辛かったのか、
 無言のまま過ごした。
  しかし、勝は、一度は黙殺しようとしたが、返書を送
 った。
  そこには、簡潔に・・、
  「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、
   我に与(あず)からず我に関せずと存候」・・と言
 った。
  訳:自分の出処進退をどうするかは自分が決める。
    その結果について人は批評したりするだろうが、
    それは他人がやること。
    私のあずかり知るところではない。
  これは、自力で歴史を動かした大実行家の胸のすくよ
 うなタンカ(啖呵)である。
  勝の凄さがある。
  福沢の言い分を一言の下に退けた。
  この違いは、勝は、政治的人間であるのに対し、福沢
 は思想家であったから・・、
  福沢は、日本の生んだ最大の啓蒙思想家ではあるが、
 しょせん、口舌の徒。
  福沢には、政治的人間・勝海舟の悲しみと孤独の深さ
 は分らない。
  この二人の関わりは、咸臨丸で米国へ赴いている(300
 トンで40日かかった、1860年)。
  勝は艦長、福沢は、総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌で、癇癪を起こし
 てばかりだった。
  体調も悪かったが、実力に比して不当に低い身分に対
 する不満もあった。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗的な態度をと
 ることが多かった。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあると言える。
  この不仲は、年月が経つほど悪化した。
  米国から帰国後、福沢は、世襲でないデモクラシーを
 感じ、この世襲が政治のバイタリティーを失っていると
 見抜き、「封建制度は親の仇(かたき)でござる」と言
 って、近代国家をしっかり把握している。
  これに対し、勝は、老中から、「その方は、眼光を具
 えているから何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変ったところはありません」と答えた。
  老中がなおも、「さようではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう少し眼につきまし
 たのは、アメリカでは、政府も民間も人の上に立つ人は
 みなその地位相応に怜悧(れいり、頭がよく、りこうな
 こと)です。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして「この無礼者、控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが勝の特徴である。
  福沢は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪城を
 抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒ぎに
 なった時に、それを見て冷笑し、江戸で戦火が開かれれ
 ば、自分は真っ先に逃げ出すと公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けている時に、平然と塾生に
 経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者で無いか
 ら出来たことと言える。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうはい
 かない。
  勝は、大実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した
 事でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは、近代国家を目指しながらも、徳川家の
 名誉だけは守るという事である。
  結果として、勝は、江戸城無血開城(1868年4月)を
 やり遂げた。
  勝は、本来、慶喜が浴びるべき旧幕臣の恨みを、一身
 で受けるつもりで、たった一人で、徳川幕府の幕引きを
 引き受けた。
  組織のたたみ方は・・非の打ちどころない。
  勝は、幕府に、取り立てて、恩義を感じていない。
  忠誠心も無かったであろう。
  忠誠心は新しい日本、近代国家に対してであった。
  勝は確信犯だ。
  勝は、晩年、巌本善治に「忠義という士というものが
 あって、国を潰すのだ」・・と・・、
  「己のような、大不忠、大不義の者が無ければならぬ」
 と言っている。
  無能者や既得権の保持者は、とかく隠れ蓑として、忠
 義の士を気取りたがるもの。
  自分はそうでないから大不忠者と言っている。
  勝が、幕府を見限ったのは、桜田門外の変(1860年3月)。
  この白昼の出来事は、幕府の骨まで腐っているという
 証拠に他ならない。
  勝は、当時、アメリカ滞在中であったが、幕府の寿命
 を実感した。
  ・・そして・・また・・
  勝が、幕府の死に体を、一層、痛感し、見限るように
 なったのは、それから4年後の第一次長州征伐(1864年8
 月)の時、
  幕府は、「井伊の赤備(あかぞなえ)」に代表される
 ような関ヶ原の戦いの当時の武器を持って参戦し、近代
 軍とは、かけ離れた状態だった。
  そんな幕府は、倒すしかないと感じていた。
  だから、神戸の海軍操練兵所で、坂本龍馬に・・、
  「攘夷などは不可能」。
  「国防こそが大事」。
  「その為には、国を統一しなければならない」・・と
 教え諭した。
  また、西郷が、「どうして幕府は本気で長州を滅ぼさ
 ないのか」と迫った時も、
  「もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を
 うんぬんするのでなく、諸藩連合で新しい日本を考えて
 行かねばならない」・・と、説いている。
  まさに、倒幕の勧めで・・、
  その結果、薩長同盟(1866年1月)も成立している。
  現在に例えると、一官僚が、官僚全部を解体したに等
 しい。
  勝の凄さであり、実行における孤独さもあった。
  「俺の孤独は、人にはわからん」・・と、勝は言って
 いる。
  福沢とは、実行家である勝とここが違った。
  勝は、また言う・・、
  「維新の頃には、妻子までもが、俺に不平だった」
  「広い天下、俺に賛成する者は一人も居なかった」
  「けれども、山岡鉄舟や大久保には、後から少し分か
 ったようだ」・・と・・
  「俺は、常に、世の中には、道というものがあると思
 って、楽しんで居た」
  また、
  「一事を断行している中途で、俺が死んだら、誰が俺
 に代わる者があるかという事も、随分心配ではあったけ
 れど、
  それに構わず、俺は、ただ行うべきことは行おうと大
 決心して、自分で自分を殺すような事さえ無ければ、そ
 れでよいと確信した」・・と・・、
  実際、勝は、生命を狙われる事が、何回もあった。
  倒幕のリーダーが西郷であったことも大きい。
  西郷は、勝から、「尊王攘夷という考えを捨てなさい」
 という教えを受けてから、勝には頭が上がらなくなって
 いた。
  元治1年、1864年9月11日に、西郷は、勝と初めて対面
 している。
  この会見の後、西郷は、大久保一蔵(利通)に宛てた
 手紙に・・、
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人
 物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候ところ、と
 んと頭を下げ申し候。
  どれだけ知恵のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。
  まづ英雄肌の人にて、佐久間より事の出来候儀は、一
 層も越し候らはん。
  学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候
 へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ
 候」・・と・・、
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に、俸禄を保証してやる」、
  「江戸は徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  そして、慶応4年の1868年3月13日に、西郷との会見に
 臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く・・、
  「当日、俺は、羽織袴で馬に乗って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩屋敷へ出かけた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待っていると、
 西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をは
 ひて、例の熊次郎という忠僕を従へ、平気な顔で出て来
 て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷
 に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えた者とは思われ
 なかった。
  さて、いよいよ談判になると、西郷は、俺にいふ事を
 一々信用してくれ、その間、一点の疑問も挟まなかった。
  「色々むつかしい議論もありませうが、私が一身にか
 けて御引受けします」・・西郷のこの一言で、江戸百万
 の生霊も、その生命と財産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏もその滅亡を免れた。
  この会議は、極めてスムーズに進行した印象を受ける
 が、真実、そうでない。
  勝は、破談になった時のことを考えて、策略を巡らせ
 ていた。
  それは、第一に、西郷に対しナポレオンの教訓を教え
 ている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシアは自
 らモスクワに火を放ち、それによってナポレオンも敗退
 させたという事で、
  いざとなれば、江戸でもそれと同じ焦土作戦をやると
 言って・・西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウを通
 じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしている。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日(1868
 年3月13日)に、パークスは、東海道先鋒総督府参謀の長
 周藩士・木梨誠一郎と会議をしているが、
  パークスは、この時、「横浜が混乱して、貿易に支障
 をきたすと、日本の為にも不利益を生ずることになる」
 と言っている。
  (参考:長周は、長門国および周防国をまとめて呼ぶ
 場合の総称)。
  また、パークスは・・、
  「したがって、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備に
 当っているから、さよう御承知おき戴きたい」・・と、
 発言している。
  これは、官軍が江戸に攻め入るようなら、『英仏両軍
 を敵に回す事になる』という脅しに他ならない。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷にこの情
 報はもたらされていた。
  鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~1868年1月30日)
 では、官軍の近代兵器や、また、整然とした軍律から見
 ても、幕府軍に到底勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上で踊らせ、できる事なら慶喜を水
 戸から江戸に呼び戻したいと考えていた。
  しかし、勝の思惑は外れてしまう。
  倒幕側に世代交代が起こった。
  西郷が退いて、大久保と大村益次郎、江藤新平が登場
 して来た。
  彼らは、西郷と違って、勝から教わった事もなければ、
 啓蒙されたこともない。
  彰義隊討伐は、わずか10時間で鎮圧されてしまった。
  勝は、2・3日は持つと思っていた。
  勝は、海軍の事は強かったが、陸軍の事は疎かった。
  陸軍の近代化をやってのけた大村益次郎の実力を知ら
 なかった。
  そして、実際には、江藤新平の率いる佐賀藩所有のア
 ームストロング砲が威力を発揮した。
  もし、彰義隊が2・3日持ち、耐えていれば、関東一円
 の譜代諸藩も挙兵し、東北列藩もこれに呼応しただろう。
  こうなったら形勢は、どうなっていたか分からない。
  勝も大久保も、共に、政治的人間で短気であったが、
 大事な時に頭に血の上らない人間であった、
  西郷は政治的人間であったが、西南の役(1877年)で
 部下のために情死したようなもので、滅びの美学に酔っ
 た。
  故に、冷静に日本を作ったのは、勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身の力を
 込めて作ったと言っていい。
  勝の人脈はすごい。
  子分という縦の関係は無いが、横のネットワークは広
 い。
  これが、幕末から維新にかけて武力以上にものを言っ
 た。
  アメリカの国務次官補を務めたジョセフ・ナイは、「
 アメリカが強いのは、単なる軍事力、経済力だけじゃな
 い。ソフトパワーによるものだ」と言っているが、
  彼が言うソフトパワーとは、言葉と知恵の事で・・、
  勝は、このソフトパワーを持っていた。
  これからの時代、ますます、このソフトパワーが大切。
.
  (今日の言葉)
.
  題:過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
.
紀元前6万5500年、メキシコのユカタン半島へ小惑星が衝突
 した。
  これによって恐竜が絶滅した。
  また、2013年2月、ロシア中部に、直径20メートル(推
 定)の小惑星が落下し、1000人を越えるけが人が出た。
  宇宙航空研究開発機構(JAXA)の吉川真准教授による
 と地球に接近する可能性がある小惑星は、これまで約1万
 6000個が確認されている。
  直径数百メートル以上の小惑星が、地球に達する恐れ
 はないと見られている。
  地球に接近する小惑星や彗星(すいせい)を国際協力
 で早めに観測し、衝突を回避しようとする動きが盛んに
 なってきた。
    (読売新聞、2017年5月4日を参考にした)
.
2017年、アメリカを支配するエスタブリッシュメント層が、
 グローバリズムの果実を独占し・・、
  一方、一般のアメリカ国民は、どんどん貧しくなり、
 戦地に駆り出された若者が命を落して来た。
  日本のメディアも、アメリカ・メディアに同調して、
 トランプ大統領を茶化すばかり。
  これまで、メディアは、グローバリズムは正義であり、
 理性であると報道して来た・・そして、一方・・、
  ナショナリズムは、感情であり、愚かであり、排除す
 べきものという主張を・・、延々と、繰り返して来た。
  一般的なアメリカ国民の生活は・・貧しくなるばかり、
 アメリカは、アメリカとは関係のない国の紛争に、アメ
 リカ軍と投入し、介入し・・、
  若者の命と、税金が・・浪費されて来た。
  これから、旧来のエスタブリッシュメント層からの反
 抗が、想像を絶するものとなるだろう。
  トランプ大統領は、就任演説で、すべての国に対し、
 精神面、安全面、経済面で、「自立せよ」と訴えた。
  「中国の冒険主義を挫(くじ)くため、アメリカ海軍
 の軍艦を350隻(現在は276隻)に増強する」。
  「中国の人民元安を止めさせる」。
  「中国からの輸入品には、関税を最大45パーセントま
 で引き上げる」。
  極限まで広がった経済格差を縮小し、アメリカ人の雇
 用と所得を回復させる。
  『反グローバリズム』を公然と掲げた。
  アメリカを陰から支配してきたエスタブリッシュメン
 ト(支配階級)層に、反旗を翻(ひるがえ)す。
  エスタブリッシュメント層とは、具体的に言えば、ウ
 ォールストリート(世界金融の中心の一つ)に巣食う「
 国際金融資本」や、外交・軍事に隠然(いんぜん)たる
 影響力を持つネオコン(ネオコンサバティズム、新保守
 主義)と呼ばれる勢力。
  軍産複合体とも呼ばれる。
  ネオコンが、アメリカ国防総省を握っていた。
  彼らが、アフガニスタン、イラクと、次々に戦争を起
 こし、世界の紛争に介入し、アメリカ軍の若い兵士たち
 を、多数、犠牲にして来た。
  グローバリズムの果実を得たのは・・ほんの一握りの
 富裕層だけ。
  グローバリズムの名の下に、工場は海外移転し、雇用
 は捨て去られ・・、
  わずかに残った工場には、またまた、グローバリズム
 の名の下に「流入した移民」によって、雇用は奪われ、
  労働賃金は・・安く押え込まれる。
  グローバリズムを利用できる「アメリカを支配するエ
 スタブリッシュメント層・経営層」は、どんどん豊かに
 なり、濡れ手で粟の状態で・・、
  一般庶民は、この逆で、どんどん貧しくなり、貧富の
 格差は、またまた一層、拡大するばかり。
  この国際金融投機は公正でもなく、また、健全である
 訳でもなく、ギャンブルに依存する経済のこの様相が、
 豊かな未来を築こうとする社会の姿ではない・・目指す
 べき姿ではない。
  実直に、「ものづくり」をする経済への転換をしなけ
 ればならない。
  かつて、豊かにものづくりに励(はげ)んだ地帯が、
 今、「ラストベルト」と呼ばれている。
  ラスト(rust)は金属の錆〈さび)のこと、「錆び
 付いた工業地帯」を、グローバリズムの名の下の行動で、
 作ってしまった地帯が、化石の様に、苦悩を現わし、残
 っている。
  キリスト教に偏するNHKの元職員・宮崎緑は、NH
 Kの番組で、グローバリズムを連呼していた。
  世界中に、アメリカのほんの一部のエスタブリッシュ
 メント層が、自分たちに都合よく作ったシステム・・、
  何ら、グローバルでも何でもなく・・ただただ・・エ
 スタブリッシュメント層に都合の良いだけのシステム・・、
  グローバリズム、世界をアメリカ企業に、有利で、都
 合のいいグローバル市場にして行く。
  アメリカの1%の、ほんとの一握りの超富裕層、これに
 ゴマをするキリスト教に偏するNHK。
  一部の大金持ちが、超大金持ちになっただけ。
  アメリカのプア・ホワイトの賃金は、拡大どころか、
 低落してきた。
  1973年から1998年にかけて、26%も減少した。
  25年間で、何と! 4分の3に減ってしまった。
  これが・・グローバリズムなのだ。
  一部の金持ちが、より金持ちになっただけ・・
  かつて、アメリカを支えた中流層・中間層は居なくな
 り、貧しくなり、教育に金をかけられなくなり、国は荒
 れた。
  今、若者は、アメリカの若者は、軍に志願して入隊し、
 奨学金を貰って、退役後に大学に入るという道を選んで
 いる。
  アメリカでは、1973年に、徴兵制が廃止され、志願兵
 を採用する制度になっている。
  毎年、15万人の若者を集めるために、大学の奨学金を
 「エサ」に使って、貧困層や、移民の子弟をかき集めて
 いる。
  そして、国際金融資本の意を受けたネオコンによって
 作られたイラク戦争などの無意味な戦争に駆り出される。
  また、アメリカの政治を繰るウォール・ストリートが
 ある。
  ここの金が、アメリカの政治を繰る、そして、それが、
 世界へ波及する。
  また、ここの金に群(むら)がるメディアが居る。
  このアメリカ・メディアに、頭の上がらない日本のメ
 ディアが、アメリカメディアに靡(なび)く、ゴマヲス
 ル。
  ウォールストリートは、軍産複合体とも連なっている。
  今、この陰謀の大山脈に挑む者が表れた。
  古いしがらみ、金、癒着などのカサブタが・・、
  ガサガサのかさぶたが、何層にもこびりついた「旨い
 汁を吸うかさぶた連中」が、一層一層、剥がされていく。
  若者の血を吸って来た者どもが、剥がされていく。
  過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
  また、その無意味な戦争で亡くなられたイラクなどの
 方々、戦争と何ら関係のない亡くなられた方々へも懺悔
 し、悔い改めよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-19 04:13 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年(明治24年)、出来事:
・第3代内閣総理大臣:山県有朋・1889年(明治22年)12月
 24日~1891年(明治24年)5月6日
・第4代内閣総理大臣:松方正義(第1次松方正義内閣)1891
 年(明治24年)5月6日~1892年(明治25年)8月8日
・(氷川清話)松方内閣。
・(氷川清話)第二議会解散。
・予算案を巡って政府と民党との対立は激化し、政府は窮
 地に立った。
・釧路港が、特別輸出港に指定された(1890年説あり)
  港湾に出入りする貨物の量と質は、後背地域の生産と
 消費によって規定される。
  そのため、港湾は後背地との関係で論ぜられることが
 多い。
  釧路は、石炭、水産、製紙を三大基幹産業として成長
 してきた都市。
  釧路港で水揚げされた魚は、飼肥料や食用として国内
 外へ移輸出された。
  製紙工場は、アメリカやカナダからチップや木材を輸
 入し、新聞紙や段ボールとして東京や大阪方面に移出し
 た。
  しかし、貨物取扱量の内、輸出量が極端に低かった。
  1886年(明治19年)、安田善次郎は、硫黄山の硫黄採掘
 権を獲得した。
  そして、その硫黄輸送のために、1892年(明治25年)に、
 硫黄山と標茶を結ぶ鉄道(釧路鉄道)を開通させた。
  それまで、硫黄は、標茶から釧路川河口(現在の港町付
 近)まで釧路川を汽船によって運ばれ、一旦、倉庫に保管
 されていた。
  当時の釧路は、港湾荷役設備がまったくないため、硫
 黄は沖合いに停泊している汽船(日本郵船)へ艀(はしけ)
 によって運ばれ、函館へ、さらに、アメリカやオースト
 ラリアへと運ばれた。
  そして、この年・1890年(明治23年)、釧路港が特別輸
 出港に指定された。
.
1891年、データ:
・1891年1月1日の日本の総人口が4025万人となり、4000万
 人を突破した。
・1891年9月の東京の電話加入者数500。
.
1891年、国際関係:
・露仏同盟が結ばれた(1891年1月4日)
  軍事同盟で、ドイツ・オーストリア・イタリアによっ
 て構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた
 場合、他方の国が軍事的支援を行う。
  1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にとも
 ない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。
  これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視す
 る観点から、対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体
 制)、
  この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世は、この
 ことに固執しなかった。
  そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更
 新されないことになった。
.
1891年、交通:
・日本鉄道の上野~青森間が全線開通した(東北本線鉄道
 全通)
 毎日、1往復の旅客列車。
 下り:26時間25分、上り:26時間40分。
・日本鉄道、甲乙二種の定期乗合割引切符の発売を始めた。
 甲は、1ヶ月2割(通学は4割)、乙は、2ヶ月2割5分(同
 じく5割)の割引。
・ロシアがシベリア鉄道の工事を始めた。
  世界一長い鉄道で、モスクワ(正確にはチェリャビン
 スク)から日本海岸のウラジオストクまでの7416キロメ
 ートル。
  ロシア号は、約7日間をかけて走破する。
  建設計画は、1850年から始まっていた。
  そして、1891年から建設開始し、露仏同盟を結んでい
 たフランス資本からの資金援助を受けながら工事を進め
 た。
  1524mmの広軌を採用したが、これは、欧州と同じの
 1435mmの標準機を採用すると、ナポレオンの様な侵略
 者に使われると脅威になると考えた。
  全線開通は、日露戦争の最中の1904年9月だった。
.
1891年、衣:
・東京大森の川田父子が、経木真田(きょうぎさなだ)を
 発明した。
  経木真田は、経木を細く切って真田ひものように編ん
 だもの。
  夏帽子などの材料に用いる。
・信玄袋(しんげんぶくろ)が現れた。
  信玄袋は、布製の平底の手提げ袋で、口をひもで締め
 るようにしたもの。
・女持手さげ鞄が現れた。
.
1891年、住:
・長崎市水道が竣工した(給水開始:1891年5月16日)
 日本で3番目の近代水道として始まった。
・熊本電燈会社(火力・直流)、北海道電燈、それぞれが
 開業した。
  1888年8月31日に、長崎電灯会社が設立免許を受け、競
 争する様に熊本電灯会社が、1889年12月17日に設立許可
 を受けた。
  1890年が恐慌で、この影響を受けた。
  また、1891年1月20日の漏電による帝国議事堂焼失事件
 により「電灯危険説」が出た。
  これにより、電灯会社は危機に陥った。
  「電灯危険説」は波及し、宮中の電灯は御休止となっ
 た。
  京都電灯会社についても、新聞が、「開業以来の努力
 も大方水泡に帰し、休灯、廃灯するもの続出し」と報じ
 ている。
  そして、次のようにも報じた・・、
  「国会議事堂焼失の原因、横浜共同電灯会社二号活字
 を以て左の通り広告せり、
  電灯より出火せしに非す、電灯は火事の為めに焼かれ
 たり」。
  九州でも、「一旦申込をなした人々の間に於いても電
 灯の危険なるを疑ひ、事業の前途に不安を抱いて約定金
 を棒に振って脱退する者が出来・・此の為に会社の設立
 も一時危まれ」・・云々。
・ガスの白熱マントルが使用されはじめた。
  ガス灯の火口は、「マントル」という丸い発光材で包
 まれ、この発明によって、青白く進化した炎の色が好ま
 れた。
  これによって、室内のあかりとしても、より一層、使
 われるようになった。
.
1891年、報道・事件:
・イランで、反イギリス運動であるタバコ=ボイコット運
 動が起きた。
  1891年、カージャール朝のイランで起こった民衆の反
 イギリス運動で、
  イランは、19世紀以降、北方からのロシア、そして、
 インド方面からのイギリスの侵出にさらされていた。
  トルコ系征服王朝であるカージャール朝は、外債に依
 存して民衆生活を抑圧する政策を続けていた。
  1890年、カージャール朝の国王ナーセロッディーン=
 シャーは、イギリス人投機家タルボットに、期限50年の
 イランのタバコに関するすべての権利を与えた。
  その独占供与の見返りで、純益の4分の1をシャーが
 受け取ることになっていた。
  このことが、イスタンブルで発効されていたペルシア
 語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こ
 った。
  当時、イスタンブルにいたアフガーニーが指導し、
  国内のシーア派の法学者であるウラマー、タバコ商人
 が、先頭に立って、タバコをボイコットする運動に発展
 した。
  この運動は、カージャール朝に大きな打撃を与えた。
  1892年、国王は、事態を沈静化するためイギリスへの
 利権供与を取り消したが、
  多額の違約金を払ったため、その負担は、財政を強く
 圧迫した。
  因みに、イラン人は、イスラーム教徒であるので、酒
 を飲むことはできなかった。
  しかし、タバコは許されていたので、大衆の最も好む
 嗜好品として普及していた。
  それだけにタバコ=ボイコットは、民衆にとっても厳
 しい戦いだった。  
  イランでは、「トゥートゥーン」という紙巻きや、キ
 セル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル
 用の刻みタバコの二種類があったが、
  イラン人は、特に「タンバークー」の方を好んだ。
・(氷川清話)巡査・津田三蔵のロシア皇太子傷害事件。
  1891年5月11日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレ
 クサンドロビッチへ、巡査が、突然、抜刀し、皇太子は
 斬られ、負傷した(大津事件)。
  来日が、「日本侵略の準備」という噂を信じたためで
 あった。
・(氷川清話)児島大審院長の司法権の独立問題。
  この大津事件の際、児島氏は大審院長として、司法権
 の政治部門からの独立を守り抜いた。
  被告人である津田は、大逆罪により大津地方裁判所に
 起訴された。
  そして、総理大臣・松方正義ら政府首脳が、大逆罪の
 適用を強く主張していたこともあり、
  大審院は事件を自ら処理することとした。
  これに対し、児島は、津田の行為は、大逆罪の構成要
 件に該当しない(罪刑法定主義)との信念のもと、審理
 を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得
 した。
  結局、大審院は、津田の行為に謀殺未遂罪を適用し、
 無期徒刑を宣告した。
  司法権の独立の維持に貢献した児島は、「護法の神様」
 と日本の世論から高く評価され、
  また、当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶ
 りを示すものという好評価を受けた。
・内村鑑三不敬事件
  第一高等中学校で、内村鑑三の不敬事件が起きた。
  内村は、1890年から、嘱託教員となっていた。
  そして、1890年10月30日に、教育勅語が発布された。
  1891年1月9日に、講堂で挙行された教育勅語奉読式に
 おいて、内村の行動は、軽くおじぎをして降壇する状態
 だった。
  このおじぎの程度が問題となった。
  この「おじぎ」のことが、同僚や生徒などによって非
 難された。
  そして、やがて社会問題化した。
  日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝
 は『許される』と主張した。
  しかし、日本基督教会の指導者・植村正久は、これを
 『認めなかった』。
.
1891年、論・文学・本:
・幸田露伴『五重塔』
  腕は抜群だが、愚鈍なため「のっそり」とあだ名され、
 そして、世渡りの才覚のつたない大工・十兵衛が、
  江戸・谷中の感応寺の五重塔建立の仕事を請ける。
  そして、恩義ある親方の川越の源太と争い、辛苦の末、
 また、さまざまな妨害にも屈せず、ついに、みごとに完
 成するまでの屈曲を描いた。
  主人公の十兵衛は、妥協を知らない偏屈な名人気質で、
 義理人情の世界をこえる非情な主我を、独特の名文で描
 き、明治文学の新生面を開拓した。
・大槻文彦編『言海』完成(6月)
  言海(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が、明治期
 に編纂した国語辞典。
  日本初の近代的な普通語の辞典だった。
  第4冊(4月22日)
  6月23日、出版祝賀会を東京・芝紅葉館で開催し、総理
 大臣・伊藤博文、勝海舟らが出席した。
  1875年(明治8年)、当時、文部省報告課に勤務してい
 た大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編纂
 を命ぜられ、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、
  当時のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどで
 は、国語辞典作りが盛んに行われていた。
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があるから、我
 が国にも国語辞典が必要だ」とした。
・『早稲田文学』創刊(10月)
  前年、新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文
 学科の機関誌として創刊された文芸雑誌。
  第一次早稲田文学は、坪内逍遥が主宰し、創刊した。
  日本初の文芸誌だった。
  第一次早稲田文学は、全156冊、1891年10月~1898年
 10月。
  最初は、講義録風なものであった、そして、逍遥と森
 鴎外との間に没理想論争が展開されたりした。
  そして、次第に、逍遙、島村抱月、綱島梁川らの論文
 がふえ行く。
  文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)
 (1858年~1943年)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ち
 ゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが、誌面で活躍しはじめ、
 文芸誌としての色彩を強めた。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆した。
  明治文学の嚮導者(きょうどう、先に立って導くこと)
 として果たした役割は大きい。
.
1891年、流行・世相・歌:
・木挽町郵便局が、郵便配達に自転車を使用した。
・川上音二郎の「オッペケぺ-節」が大流行する。
  川上音二郎は、民権思想の新聞記者として「自由童子」
 と名乗った、入獄10数回を数える。
  政治的意見が表明しにくく、言いたいことをオッペケ
 ペーの歌詞の中でズバズバ言った。
  そのため、不満を感じていた民衆に受け、爆発的な人
 気となった。
  権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。
  自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケ
 ペツポー。ペツポーポー。
  堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅ
 ボン」に人力車、意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。
  貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部
 (うはべ)の飾(かざり)はよいけれど、政治の思想(
 しそう)が欠乏だ。
  天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由
 の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツ
 ポペッポーポー
  米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さい
 みん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす、目深(まぶ
 か)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(
 ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に
 膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(
 ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(ど
 うほう)兄弟見殺(みごろし)か。
  幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。
  餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な、但し冥
 土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面
 會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オ
 ツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
  亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。
 ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。
 不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。む
 やみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビ
 ールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食
 を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかで
 へどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。
 ヱラペケペツポ。ペツポーポー。・・(後略)・・
・明治美術会で「裸体画と風紀問題」について議論に。
  その二枚の絵は、いずれも幼い男の子の草刈りと、牛
 にまたがった姿(東京日日新聞)
  黒田清隆の生涯は、裸体画問題と格闘し続けたと言え
 る。
  裸体画を盛んに制作した黒田清輝や、彼が属していた
 白馬会が、論争において裸体画を強く支持した。
  日本における裸体画の嚆矢(かぶらや)は、黒田清輝
 による『朝妝(ちょうしょう)』(明治26年・焼失のた
 め現存せず)だった。
  この作品は、黒田が、ヨーロッパから帰国した後の明
 治27年(1894年)、明治美術会第六回展に出品された。
  この時は、何も問題にはならなかったが・・、
  翌・明治28年(1895年)、京都の岡崎公園で開催され
 た第四回内国勧業博覧会に出品された際、その出展可否
 をめぐって論争が巻き起こった。
  黒田にとって裸体画は、自らが滞欧中に学んだ西洋美
 術の普遍的な美を体現したものだった。
  実際、紀元前5世紀頃、ギリシア人によって描かれて以
 来、裸体画は、肉体と精神を統一した人間の全体性を表
 したものとして、西洋美術の規範に組み込まれて来た。
  (イギリスの美術史家、ケネス・クラークは、その美
 の理想像としての裸体を「nude(ヌード)」として、裸
 の肉体そのものを指す「naked(ネーキッド)」と概念的
 に区別した)。
  それゆえ、「美術」を日本社会に輸入し、定着させる
 ことを目指した黒田にとって、裸体画は、「美術」を社
 会に公認させるための重要な手段だった。
  ところが、近代日本において、裸体画は、風俗を紊乱
 (ぶんらん、乱すこと)する春画の一種とみなされがち
 だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は、先進国にふさわしからぬ野蛮な習
 俗であり、
  事実、明治4年(1871年)、東京府知事により「裸体禁
 止令」が発令されると、公の場で裸体になることが処罰
 の対象となった。
  これを徹底させるためにも、裸体画を公共空間で堂々
 と展示されては都合が悪かった。
  結局、同博覧会審査総長の九鬼隆一の判断により『朝
 妝』の展示は継続された。
  続く1897年(明治30年)、黒田は、日本人をモデルに
 した初の裸体画とされる『智・感・情』を、白馬会第二
 回展に出品するが、新聞紙上で論争が起こったものの、
 官憲による取り締まりは、とくに見られなかった。
  だが、明治34年の白馬会第六回展において、警察は本
 格的な取り締まりを実行した。
  黒田が、フランス滞在中、フランス人のモデルを使っ
 て描いた黒田による『裸体婦人像』をはじめ、
  黒田が、フランスから持ち帰ったラファエル・コラン
 の『オデオン座天井画下絵』、湯浅一郎の『画室』など
 が、著しく風紀を紊乱するとして、警察は特別室での鑑
 賞という制限を求めた。
  これに対し、黒田と白馬会は、あくまでも一般観衆へ
 の公開にこだわった。
  その妥協案が、当該作品を額縁ごと布で覆って展示す
 る方法だった。
  これが後に「腰巻き事件」と言われた事件で、
  この作品は、膝を横に折り曲げ、床に腰を下ろした白
 人女性が描かれているが、警察によって「わいせつ」と
 され、女性の胸から下半身までを、額縁ごと布で覆い隠
 された。
  裸体画は、エロティシズムが含まれている点は否めな
 いが、美術作品を鑑賞するという視線を『自立的に確立
 することができる』のではないか・・という・・
  近代日本における裸体画論争の根底には、そのような
 美術の専門的な鑑賞者を育成する意図もあった。
.
1891年、科学:
・ベルンの国際地理会議で、「統一された国際図」の作成
 が提案された。
  今まで、各国政府が独自のルールを設けて、ばらばら
 に地図作りを行なっていたために、いくつもの国にまた
 がる問題を検討しようとするとき、ひどく不便な状態に
 あった。
  1891年、ベルンで開催された第5回国際地理学会議に
 おいて、ドイツの地理学者、アルブレヒト・ペンク(1858
 年~1945年)は、統一された国際図の作成を提案した。
  1913年のパリ国際地理学会議で決められた規格は、『
 国際100万分の1世界図』とよばれ、
  縮尺は1/100万、図法は変更多円錐図法、図幅は経度
 が6度で、緯度が4度として国境線で図葉を区切らない、
 長さの単位はメートル法、地形は等高線による段彩など
 の内容だった。
・三重県の真珠を、広島に移植試験を行なう。
  1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養
 殖に成功したが・・、
  1891年10月、三重県英虞湾(あごわん)の阿古屋貝(
 アコヤがい)を、広島県厳島の海岸に移植した。
・インドネシアのジャワ島のトリニール付近で、ジャワ原
 人(化石人類)の頭蓋骨と大腿骨が発見された。
  オーストラリア先住民などに進化したとする研究者も
 いるが、
  現生人類の直接の祖先は、アフリカのホモ・エレクト
 ス(ホモ・エルガステル)であって、アジアにいた北京
 原人やジャワ原人は、直接の祖先ではないとする意見が
 支配的。
  脳頭骨は小さく、脳容量も900cc程度と推定され、対照
 的に眼窩上隆起は大きく、額は現代人のように丸く膨ら
 まないで低く倒れたように傾斜するなど、原始的な特徴
 が多い。
.
1891年、災害・防災・公害:
・濃尾地方に大地震がおこり、7273人が亡くなった(1891
 年10月28日6時38分50秒)
  マグニチュードは M = 8.4、
  家屋全壊:142,177、半壊:80,324
  震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、は
 げ山になったなどと伝えられる。
  また、岐阜市と周辺では、火災が発生し、被害を大き
 くした。
  名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被
 害は言うまでもなく、
  長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなか
 った橋梁や煉瓦の建築物などが破壊された。
  この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が
 進展する契機となった。
・足尾銅山鉱毒事件
 (氷川清話)田中正造の足尾公害問題
  足尾銅山の廃液が原因となって起きた公害問題で、
  田中正造が、議会で鉱毒問題を取り上げ、追及した。
  栃木県足尾銅山は、1877年、古河市兵衛(ふるかわいち
 べえ)の経営に移ってから、急速に近代化された。
  1884年に、住友の愛媛県別子(べっし)銅山を抜いて全
 国一の銅山となった。
  反面、古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用
 薪炭材の乱伐による足尾山林の荒廃を招いた。
  また、その山が荒れたことによる大洪水を頻発させた。
  大量の廃石や鉱滓(こうさい)、有毒重金属を含む酸性
 廃水を垂れ流した。
  そのため、1885年ごろから、鮎(あゆ)の大量死や鮭(さ
 け)の漁獲量の激減など、
  渡良瀬(わたらせ)川の漁業被害が顕在化するとともに、
 流域の広大な農地と、農作物に鉱毒被害が発生した。
  特に、1890年の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を
 鉱毒反対運動へと駆り立てた。
  1891年、第2議会において、田中正造(しょうぞう)は、
 政府の鉱山監督行政の怠慢を批判した。
  汚染された渡良瀬川流域の被害農民らの、再三の請願
 や、田中正造の天皇陛下への直訴で、政治・社会問題と
 なったが、政府は弾圧した。
・帝国議事堂火災
  開期中の1891年1月20日未明、衆議院政府委員室から
 出火。
  貴族院にも延焼し、議事堂が全焼した。
  出火原因について、衆議院書記官長が、「衆議院政府
 委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に
 移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨
 を議会に報告し、また、官報号外をもって公示した。
  この頃は、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデ
 ビューした時期だった。
  直流方式の東京電燈会社と、交流方式の大阪電燈会社
 が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になってい
 た矢先でもあった。
 電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じ
 こめた程度のものだった。
  そのため、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たち
 まち点灯休止の申し入れが殺到した。
 この機に、灯油の販売量減少を恐れていた石油販売会社
 は、電灯の罪業を宣伝した。
  当時の新聞に・・、
  「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識
 らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にて
 は、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし、遂には、今回
 は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、
 緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」
 と痛烈な広告を出した。
 せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った
 東京電燈会社は、漏電にあらずと主張し、公示の訂正方
 を求めて、衆議院書記官長を告訴した。
  が・・しかし、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の
 全役員が引責辞職する結果となった。
  窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防
 衛体制を整えねばならず、日本電燈協会(現:日本電気
 協会の前身)を明治25年(1892年)5月に設立させた。
 ところが、この協会設立準備中に、再び、帝国議事堂衆
 議院談話室から出火する事件が起こった。
  電灯会社は、大変びっくりしたが、電灯会社には幸い
 な「だんろの火の不始末」が出火原因と分かり、胸をな
 でおろした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-17 02:52 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年12月、博文館が「当用日記」を刊行した(1895年説
 あり)
  博文館は、1887年(明治20年)に、東京・本郷で創業
 した。
  そして、会社沿革には、1895年(明治28年)に、「日
 本で、初めて、広く一般大衆向けに日記を刊行」と記さ
 れている。
1890年12月、帝国大学文科大学に、仏蘭西文学科が設置さ
 れた。
  東京大学の文学部の歴史は・・、
  1856年2月(安政3年)幕府が、洋学所を蕃書調所とし
   て、九段坂下竹本図書頭屋敷に設立した事から始ま
   った。
  1862年5月(文久2年)蕃書調所を、神田一ツ橋門外護
   持院原(一橋通町一番地)へ新築移転し、
   (これ以前、九段坂上表六番地和学講談所、安政6年
   7月には、小川町に移転)、
   洋書調所と改称した。
  1863年(文久3年)洋書調所を、開成所と改称した。
  1868年6月(明治元年)新政府が、旧幕府時代の医学校
   を復興し、昌平坂学問所を復興して、医学校、昌平
   学校設置した。
  1868年9月、新政府が、開成所を復興して開成学校(
   その後、大学南校、第一大学区第一番中学、開成学
   校、東京開成学校と改称)を設置。
  1869年6月、昌平学校を大学校(本校)とし、開成、医
   学両校を大学分局(分校)とした。
  1870年2月、大学規則の制定した。
  1870年7月、大学内部における国漢学派と洋学派の対立
   によって大学本校が閉鎖された。
  1873年6月、開成学校が、神田錦町に新校舎落成。
  1874年4月、東京大学が創設され、文学部に2学科が置
   かれた。
  1878年12月、文部省が、東京大学に学位授与の権限を
   付与する旨を達す。
  1879年4月、東京大学の授与する学士称号を法学士・理
   学士・文学士・医学士・製薬士とした。
  1879年7月、法理文の三学部、初めての学位授与式を
   挙行した。
  1879年9月、文学部2学科のうち「第一史学、哲学及政
   治学科」のうち史学を削り「第一哲学、政治学、理
   財学科(経済学)」とする。
    漢文の作文を重視し、また、卒業論文を課するよ
   うになった。
  1881年9月、文学部に、以下の3学科が置かれた
   第一哲学科、第二政治学及理財学科、第三和漢文学
   科。
    新設課目として、印度及支那哲学、世態学(社会学)、
   審美学(美学)、生理学、日本財政論、行政学、日本
   古今法制等の講義がなされる
  1884年9月、法文校舎が竣工した。
  1885年12月、法学部を法政学部と改称
   (文学部の政治学及理財学科を法政学部に移す)
    それとともに、文学部は以下の3学科となった。
   第一哲学科、第二和文学科、第三漢文学科
  1887年3月、最初の入学宣誓式が行われる(1919年に廃
   止)
  1887年9月、文科大学に、史学科、英文学科、独逸文学
   科を増設し、以下の7学科を置いた
   第一哲学、第二和文学科、第三漢文学科、第四史学
   科、第五博言学科、第六英文学科、第七独逸文学科
  1897年10月、内閣修史局で行われていた修史事業が文
   科大学に移管された。
  1889年6月、文科大学に国史科を増設し、8学科とする
   とともに、和文学科を国文学科とし、漢文学科を漢
   学科とする。
  1890年10月、帝国大学に、地誌編纂掛設置
   (この年9月、内務省地理局の地誌編纂事業を帝国大
   学に移管。史料編纂所の一源流)
  1890年12月、文科大学に、仏蘭西文学科を増設し9学科
   とする。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
.
紀元前20万年~10万年前、人類がアフリカに誕生した。
.
紀元前4万9000年、人類がアフリカから出て移動していく。
.
紀元前4万7000年~紀元前4万2000年、人類が、ヨーロッパ
 に到達した。
.
紀元前4万7000年、人類が、オーストラリアに到達した。
.
紀元前3万8000年、人類が、日本列島に到達した。
.
紀元前3万3000年、人類が、ベーリング海峡のアメリカ大陸
 を望むところへ到達した。
.
紀元前1万5000年、人類が、ベーリング海峡を渡り、アメリ
 カ大陸へ至る。
  白人たちより、大分、早い到達者たちだった・・が・・
 南アメリカ大陸などは、スペインやポルトガルのキリス
 ト教徒とキリスト教聖職者たちによって虐殺され、
  そして、北アメリカ大陸では、イギリスからのピルグ
 リム・ファーザーズなどのキリスト教徒たちによって、
 可哀想な事に虐殺行為を受ける・・先住民たちの権利は、
 キリスト教の有色人種蔑視の洗脳によってまったく顧(
 かえり)みられなかった。
.
1878年12月18日に、ソ連のスターリンが生まれた。
  スターリンの父は、靴職人で評判だったが、アルコー
 ル依存症で、妻や子に、しばしば暴力を振るった。
  家計は次第に傾いて行き、幼少期だけでも9回の転居を
 繰り返す状況だった。
  スターリンは、1888年の10歳の感受性の強い幼少期に、
 キリスト教神学校に通った。
  父は、スターリンを靴職人にしたかったので学業に反
 対した・・そして、父は、スターリンが靴職人になるこ
 とをしきりに口にした。
  このキリスト教で、「異教徒は殺せ」の様な、「考え
 を異とする異教徒たちを、簡単に殺しても良い」という、
 キリスト教の考え方・精神に感化された。
  この幼少期の感化は、人知れず大きな悪行へとつなが
 って行った。
  この毎日のキリスト教聖書による「異教徒の人間の命、
 考えを異にする人間の命を軽く見る・・軽んずる見方に・・
 洗脳されて行った」、
  そして、このソ連のスターリンという男は、自国民を
 2000万人も殺した。
  ロシア革命と共産主義体制下で、スターリンに殺され
 た国民・虐殺者は、あまりにも多かった・・多過ぎた。
  途方もない多数の自国民を、スターリンは虐殺した。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、この様なスター
 リンを自粛させるどころか、応援した。
  卑劣な事だった・・卑劣な行為だった。
  やはり、キリスト教に染まったルーズベルトの間違っ
 た歴史感から、この間違いは生まれた。
  (ルーズベルトの広島・長崎の原爆投下は、キリスト
 教のシャロームの完全抹殺の後の平和の達成の教義の洗
 脳から実行された)
  このルーズベルトに、日本と戦争をする大義名分なん
 て、まったく無かった。
  ルーズベルトが、掲(かか)げた日本と戦争をする大
 義名分としたのが、『自由と民主主義を守る』だった。
  やっと、この名目を掲げたルーズベルトの大義名分だ
 が、これだって、まったく的外れだった。
  日本より、スターリンこそが、非民主主義的に、殺戮
 ばかりしている輩だったのにである・・、
  まったく的外れのルーズベルトの大義名分だった。
  アメリカ国民の方々自身も、まったく日本と戦争しな
 ければならないなんて微塵も思っていなかった。
  アメリカ国民の方々は、「戦争をしない」「戦争をし
 たくない」「戦争に介入しない」だった。
  だから、イギリスのチャーチル首相が、すでに戦われ
 ていたヨーロッパ戦線に、アメリカが参戦してくれるこ
 とを要望して来た時に、
  アメリカ大統領のルーズベルトが言ったことは・・、
  「アメリカ国民世論が、まったく、戦争を回避したい
 としている」という事が説明された。
  この世論のままでは、無理に戦争を開始する事は出来
 ない・・だった。
  だから、ルーズベルトの娘婿カーチス・ドールは、本
 「繰られたルーズベルト」で言う・・、
  「彼(ルーズベルト)は、チャーチル首相に、何とか
 して我々の国(アメリカ)を戦争に持ち込もうと約束し
 た」・・と・・、
  つまり、アメリカ国民世論が、戦争回避にあるから、
 何とかして戦争に持ち込もうと約束した・・という(ア
 メリカ国民の方々への裏切り行為)
  そして、さらに・・、
  「彼(ルーズベルト)は、首相〈チャーチル)に『私
 (ルーズベルト)は戦争を作るのだ』と語っている・・、
  ルーズベルトは、戦争をする正当な理由が何もないの
 で、日本に先制攻撃をさせるように誘導した・・、
  そして、「自由と民主主義を守る戦いだ」という漠然
 とした理念を掲げざるを得なかった。
  厭戦(えんせん)気分のアメリカ国民を不意打ちに対
 する怒りで喚起(かんき、呼び起こすこと)させた。
  そして、参戦へ持ち込んだ。
  日本にも、アメリカと戦わなければならない理由なん
 て何も無かった。
  アメリカの強烈な・・強行の・・そして、一方的な石
 油禁輸などの痛烈な経済制裁に・・、
  立ち行かなくなる方策を取ったルーズベルト・・、
  日本に押し付けた強力な圧迫・・日本の生存を脅かす
 制裁に、やむなく、自衛の為に、戦争をせざるを得ない
 窮地に追い込まれた。
  また、アメリカは、率先して、ABCD包囲網を構築
 し、日本を窮地に追い込んで行った。
  「明日、日本が攻めて来る」と、つい、口を滑らせて
 言ったルーズベルトの様に・・、
  アメリカは、日本の暗号を完全に解読していて、日本
 の行動のすべてを、一部始終を、知っていた。
  日本のハワイの真珠湾攻撃は、この様な中で行われた。
  ルーズベルトの間違った歴史認識から、この悲惨な、
 卑劣な戦争は始まった。
.
1930年代末、ユダヤ人の追放、処刑、殺害といったニュー
 スがナチス占領下のポーランドから伝わってきた時・・、
  アメリカは、それでも難民受け入れの意志を見せなか
 った。
  アメリカへ、逃れて来たユダヤ人の方々を、追い返す
 というアメリカだった。
  また、スペインは、40万人のユダヤ人に対して、行先
 国のビザを所有する者に限って通過を許可したが、
  その様なこともせず、アメリカは知らぬ顔をし続けた。
  日本は、ユダヤ人の方々を、最初から、『完全に受け
 入れていた』。
  卑劣な事に、アメリカは、ユダヤ人の入国を拒(こば)
 むことを目的に、1939年6月の「スミス法」で、外国人受
 け入れの取締り強化した・・そして、さらに・・、
  さらに続いて、1941年11月には、「ラッセル法」を制
 定してビザ発行を制限した。
  そして、アメリカは、スイスのアメリカ大使館から、
 ナチスがユダヤ人の方々を大量殺戮していると報告を受
 けても・・
  その残虐行為を知っても・・
  「ユダヤ人の被害妄想的プロパガンダだ」と言って、
 受け入れなかった。
  何しろ、ルーズベルト大統領に、ユダヤ人の方々を受
 け入れる気は、まったく、無かった・・卑劣な大統領で
 ある。
  ランドール女史が、ユダヤ人を救うべきであると訴え
 ても・・『完全無視のアメリカ』=ルーズベルトだった。
  だから、卑劣にも、アメリカへ逃れて来たユダヤ人の
 方々を、アメリカは、ヨーロッパへ追い返した。
  ニューヨークへ入港したユダヤ人の方々を乗せた船を
 追い返したりした。
  そのユダヤ人の大半がナチスに捕まり、その半数が殺
 され・・死んだ。
  日本は、ユダヤ人の方々を、はじめから受け入れる方
 針で、神戸に来たユダヤ人の方々の乗った船を歓迎して
 いる。
  「日本政府の船」が出迎えに出ているくらいだった。
  恩を忘れない日本は、日露戦争で助けて戴いたユダヤ
 人の方々に、恩義も感じていた。
  それを、キリスト教は、杉原千畝をデッチ上げ・・、
  日本が、ユダヤ人の方々の入国を拒否していたと嘘を
 言い、
  また、ビザ発給の「資格のない杉原千畝」が、ビザ発
 給をするという違法行為をする杉原千畝を、キリスト教
 は、美談に仕立てた・・、
  そして、杉原千畝が、キリスト教徒だったからだと嘘
 話で美談に仕立て、プロパガンダ(嘘宣伝)し続ける。
  このキリスト教の嘘話に乗っかって池上彰は、「外務
 省が、君(杉原千畝)の立場ではビザの発給は出来ない」
 と言ったと、誤解するような言い方で、誤認するような
 言い方で、日本を貶(おとし)めた。
  日本が、さも、ユダヤの方々へビザ発給してはいけな
 いと言っているように池上彰は言った。
  杉原へ、『ビザ発給の資格がないから出来ない』と言
 っただけで、日本のどこの大使館でも、ユダヤ人の方々
 へはビザを発給していた。
  杉原千畝だけが、ユダヤ人の方々へビザを発給してい
 たのではない。
  大使資格でない杉原千畝のことを・・まったく、池上
 彰は、キリスト教に偏するNHKの元職員は、嘘つきな
 言い方をする。
  解説をすると言いながら、NHKと同じように、キリ
 スト教に偏する行動をする・・『信用ならない男』。
  この様な事は、当時、大使をされていた馬淵睦夫氏も、
 はっきりと言われている。
.
2014年、隠されている真実:アメリカが、秘かに行なって
 いるiSに対する資金や武器援助。
  アメリカが、これを止めれば、直ちにiSは崩壊する。
  (参考)iS:アイエス、ISIL(アイシル、英:
    Islamic State in Iraq and the Levant:イラク・
    レバントのイスラム国)、ISアイエス、イスラム
    国 、ISISアイシス、ダーイシュはイスラーム過激
    派組織で、イラクとシリアにまたがる地域で活動
    する。
  一般的な解説では・・以下の記述がある・・が・・、
  2014年8月8日、アメリカ軍が、ISILの武装勢力に対し
 て、限定的な空爆、及び、ヤズィーディーなどに対して
 支援物資の供給を開始。
  初日は、クルディスタン地域のアルビル近郊に展開し
 ていた野砲や車列が攻撃対象となった。
  アメリカは、空爆の期限を設けず、今後も空爆を実施
 することを示唆している。
  同年・2014年10月に入って、空爆の作戦名は「生来の
 決意」(Operation Inherent Resolve) と名付けられてい
 ることが明らかになっている。
  ただし、アメリカ軍の空爆は、ISILのイラク支配地域
 に限定されており、ISILの本拠地であるシリアでは実施
 されていないため、空爆の効果を疑問視する人もいた。
  シリア国内のISIL拠点を攻撃しないのは、ISILと対立
 するアサド政権を支援する形になるためと指摘されてい
 る。
  8月22日、アメリカはシリア国内の拠点に対する空爆の
 検討を開始したと発表した。
  この時点で、ISILの支配領域の合計面積は、イギリス
 より広くなっている。
  2014年11月24日、アメリカ政府は、チャック・ヘーゲ
 ル国防長官の辞任を発表した。
  辞任発表の場には、ヘーゲル国防長官も立ち会い、円
 満な辞任であるという形での発表であったが・・、
  ヘーゲルは、オバマ大統領と対ISIL政策が対立したた
 め、辞任に追い込まれた面が強く、事実上の更迭と見ら
 れている。
  ヘーゲル国防長官は、泥沼の中東から、アメリカが足
 抜けするための出口戦略を後押しすることが期待されて
 国防長官に就任した人物であり、
  ISILとの戦争には、消極的で、そのために、再び中東
 への介入を強めるように転換しつつあるオバマ政権と対
 立していたとウォールストリートジャーナルは推測して
 いる。
  一方で、国防総省は、ISILの危険性を早期に認識し地
 上部隊の派遣を具申したものの、あくまで、軍事予算の
 削減により、財政再建を目指し、軍事介入は限定的な空
 爆に留めたいホワイトハウスと対立していたとの見方も
 ある。
  しかし・・上記は、綺麗に繕った言い方で、事実は、
 まったく違うと・・、インターネット上で言われている
 ・・以下のその記述の一例・・、
  (国際金融資本を牛耳る者たち・・ウォールストリー
 トの者たち・・グローバリズムが都合の良い者たち・・
 それとつながりが強い民主党・・ヒラリーやオバマ・・
 ネオコン・・このラインの者たち・・)
  ISISは、アメリカが作り、イスラエルが支援している。
  みんなバレバレで、アメリカは、戦争でドル防衛って
 ことですか?
  プーチン側近が、「ISISはアメリカが作り、イスラエ
 ルが支援している」・・と・・、
  プーチンの側近が、「イスラエルがISISの訓練を行っ
 ている」・・と・・、
  モサドが、ISISのリーダーに「諜報員の経験」を伝授
 し、イスラエル軍部顧問がテロリスト集団を支援してい
 ると、プーチンの側近が話している。
  イスラエルの諜報機関のモサドが、イラクやシリアで
 活動を行っているイスラム国(ISIS)のテロリストの訓
 練を行っている、とロシア大統領ウラジミール・プーチ
 ンの上級側近が非難していることを、プレスTVが伝えて
 いる。
  Alexander Prokhanov氏が、イラン国営放送局に対し、
 モサドは、ISISのリーダーに「スパイ活動」に関する情
 報を伝授し、さらに、イスラエル軍の顧問は、同テロリ
 スト集団を他の方法で支援していると話している。
  プーチンの側近であるProkhanov氏は、ISISは、中東
 における米国の政策による副産物であるとし、「ISISは、
 アメリカ合衆国が作り上げたツール。
  彼らは、ヨーロッパに対し、もしアメリカが介入しな
 ければ、ISISがヨーロッパに被害を出すぞと伝えようと
 しているのです」と話し、
  しかし、本当のところは、イランとロシアこそがISIS
 テロの主なターゲットであると付け加えている。
  「ISISは、ほんの数日前、チェチェンで、ロシアに対
 する最初のテロ攻撃を開始しています」と話し、
  ISISのイデオロジーは、中東のイランや、他の一部の
 イスラム系国家のイスラム教とはまったくの無関係であ
 ることを強調した。
  Prokhanov氏は、また、アメリカおよびイスラエルは、
 ISISのようなテロリスト組織の支援に関しては、一つで
 あり、同類であるとも述べている。
  9月、シリア北部にあるシリアの最後の軍事基地を征服
 したばかりのISISテロリスト集団は、シリアの独裁者バ
 シャール・アサド氏、および、彼と主要同盟関係にある
 プーチン氏に対し、「特別なメッセージ」を送りつけた。
  ・・その他・・多数あるが省略・・
.
2017年4月30日、北朝鮮のミサイル発射(実験)が失敗した
 と(読売新聞、2017年4月30日)が報じた。
  北朝鮮は、今年に入り6回のミサイル発射を行なってい
 るが、その4回が失敗となっている。
  67%の失敗率と・・非常に高い失敗率となっている。
  巷の噂では『サイバー攻撃』によるこの失敗の事態と
 いう話がある。
  同じく読売新聞の翌日・2017年5月1日の記事に、アメ
 リカの国防次官補、ハーバード大ケネディスクールの学
 長を歴任された有名な国際政治学者ジョセフ・ナイ氏の
 記事がある。
  この記事で、サイバー攻撃によって『イラン核施設の
 ウラン濃縮用遠心分離器を稼働不能に陥れた』とある。
  また、2015年には、「ウクライナの電力システムを錯
 乱された」とある。
  サイバー攻撃は、この他にもいろいろなされている。
  北朝鮮のミサイル発射失敗のサイバー攻撃によって飛
 翔せずに、北朝鮮領内に落下したという事もありうる。
  この様な状況にあるミサイルを、実戦時に多数発射し
 たとしても、その多くが、今年の確率は67%であるが、
 失敗する。
  今回の様に、自国の北朝鮮領内にその多くが落下する。
  そのいくつかが、北朝鮮領内で爆発する。
  攻撃用兵器が制御不能となり、逆に、自国・北朝鮮へ
 の攻撃兵器となる(中国へ向かうかもしれない)
  自国兵器が、近距離で、自国への攻撃兵器となるので、
 その防御は不能となる。
  結果は、悲惨な事となる。
  この様な事が、起き得るのである。
  北朝鮮の方々が、この様な結果になることを喜ぶわけ
 では、勿論ないが、
  他国を攻撃しようとした北朝鮮の核兵器が、自国領土
 内の人々へ悲惨な結果を起こす。
  その様なことが、起き得る技術の時代なのだ。
  これと関連したことが、「LoT機器」へのサイバー
 攻撃である。
  同じく(読売新聞、2017年5月1日)に、サイバー攻撃
 が盛んに行われる時代になったことに関連して、消費者
 が被害を受けないかが問題とされている。
  これが、家電レベルでなく、核攻撃兵器となると、事
 態は深刻だ。
  国の頂点に居る者が『ボタンを押したら、自分の頭の
 上に降って来る確率が零〈0パーセント)では無いのであ
 る』。
  攻撃する意志が100%であるからと、安心して『核攻撃
 命令のボタンを押しても』、確実にそのことが、なされ
 得ない時代になったのである。
  つまり、北朝鮮の必死の核開発とミサイル開発は、そ
 の威力が増せば増すほど、戦争抑止へ働く。
  核戦争の出来ない時代になったのである。
.
2017年、しかし、核兵器は、近代的な政治体制を持って判
 断がなされる国家において、到底、使うに至る決断を出
 来かねる兵器となっている・・そのあまりにも絶大なる
 破壊力は、かつての核爆弾とは違うレベルのもの、強大
 なものとなっている・・
  だから故に、正常な政治体制のある下での使用の判断
 は下せないという・・使えない兵器となった・・が・・
  しかし・・ここに・・テロ集団や・・この類の国らし
 き集団や・・独裁的な個人の権力が絶大なる集団におい
 ては・・前記の考え方は出来ないのである・・逆に、イ
 チかバチかで使ってしまえという判断が、ちらっとひら
 めくような独裁者には持たせてはならない兵器となって
 いる・・
  そして・・今・現在・・
  北朝鮮は、アメリカが攻めて来たら、日本を攻撃する、
 日本を沈没させると言った・・が・・
  以前は、ソウルが火の海になると言った・・が・・
  今、韓国で、新たに大統領となった人物は、北朝鮮の
 息のかかった、繋がりの強い関係にある人と、情報は伝
 えているが・・
  そして、先の北朝鮮の発言の「日本を攻撃する」が、
 アメリカの攻撃の抑止力になると考えたのだろう北朝鮮
 は・・、また、それが、違う情報も示唆した事にもなっ
 ている・・、
  つまり、「今の段階では、アメリカを攻撃する手段は、
 北朝鮮は、持っていません」という情報となっている。
  だから、「届く日本を攻撃する事にした」という情報
 となっている。
  つまり、アメリカは、アメリカへ届く前の『今が』攻
 撃するチャンスとなっている・・という情報を与えたこ
 とになっている。
  アメリカに届く前に、攻撃しておかなくてはならない
 という・・決断を促した情報となっている。
  中国が技術支援し、そして、資金提供して、ここまで
 来たと言われる北朝鮮の核攻撃力・・それが・・両刃の
 剣とならないか・・??
  だから、今は、「中国さん、ありがとう」と言ってい
 るだろうが・・後々、永久に・・破壊力のある攻撃兵器
 を持った暁の北朝鮮は、どこまでも射程の届く兵器を持
 った北朝鮮は、中国と北朝鮮の関係が、今までの様な関
 係のままで・・永続するとは限らない・・
  その様にある・・永続にあると・・完全に言えないこ
 とは・・完全に予想ができる・・、
  中国が・・読みが・・甘かったと、その時に分かると
 いう事になるとも限らない・・
  また、今は、ヨーロッパには届きませんが・・
  ただただ日本だけの問題なのではない・・そのレベル
 の集団なのだ・・
  国家と言えない極小の集団が、この様な兵器を持つと
 いう事は・・テロの一部集団が、核兵器という絶大な兵
 器を持つのと同じ状態で・・何らそこには、集団コント
 ロールの効かない組織に、大量殺戮システムを、核を持
 たせる状況となる・・これは、あってはならない状況・・
  ある30代の一人の人間が・・独裁の一人の人間が、世
 界の人々へ、世界の方々の命を云々する手段を持つ・・
 左右するシステムを持つ・・
  この様な状況に至ることは・・止めねばならない・・
  遅ければ遅くなるほど、その兵器の殺傷力は増すばか
 りとなる・・
  今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-13 05:19 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年11月1日、東京盲唖学校の石川倉次らが50音点字表を
 完成し、採用された。
  フランス人のルイ・ブライユが考案した6点点字を基礎
 にして、研究と工夫を重ねて完成した。
  そして、これが、正式に採用されたのが、1890年11月
 1日で、以来、この日が「点字の日」と定められた。
  また、石川は「懐中点字器」、「点字タイプライター」
 も開発し、「日本点字の父」と言われている。
1890年12月29日、ウンデット・ニーの虐殺(アメリカ)
  アメリカは、完全に卑劣な行為を『正義の行動だ』と
 している・・『民族の浄化だ(ethnic cleansing)』と
 言っている。
  酷い民族差別の言い方である。
  民族浄化とは・・その意味は・・、
  複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集
 団を、強制的にその地域から排除しようとする行為・政
 策で・・、
  直接的な大量虐殺(ジェノサイド)や、強制移住のほ
 か、
  各種の嫌がらせや、見せしめ的な暴力、殺人、組織的
 強姦、強制妊娠などによって・・地域内からの自発的な
 退去を促す行為も含まれている。
  そして、このウンデッド・二ーの虐殺は、アメリカ軍
 の第7騎兵隊が行った民族浄化だと言い・・
  (これは、まったくの嘘で・・アメリカの多数の部隊
 が『集団で虐殺した』行為である)・・、、
  また、卑劣にも、虐殺を隠して、ただ、「ウーンデッ
 ド・ニーの戦い」と呼んでいる・・、
  そして、この戦い(実際は、虐殺)を実行したとする
 第7騎兵隊には、名誉勲章まで授与している。
  インディアンの方々は、この戦いを「ビッグ・フット
 一行に対する虐殺」と呼んでいる。
  19世紀末、アメリカ・インディアンの方たちは、全住
 民の権利を蹂躙(じゅうりん、暴力的に侵すこと)され、
 白人によって、生活環境を破壊され、絶望のどん底にあ
 った。
  食料であるバッファローは、インディアンの方々への
 餓死目的で、白人たちによって、無用に殺戮され、バッ
 ハローは絶滅寸前の状況となっていた。
  これだけでも、インディアンの方々が、生き延びられ
 るわけがない訳で・・
  インディアンの方たちは、この頃、このバッファロー
 が、再び、草原に戻って来ることを願って、ゴースト・
 ダンス(幽霊踊り)が流行った。
  また、その踊りで、再びのインディアンの方々へ自由
 な世界が戻ることも祈った・・これは、可哀想なことに、
 民族の終末的な状況における踊りだった。
  また、さらに可哀想な事に・・白人の虐殺の銃弾が突
 き抜けないという「ゴースト・シャツ」も流行った。
  逆に、アメリカは、この様な状況が「反抗的である」
 とした・・卑劣である・・また、反乱の予兆であると勝
 手に解釈した・・弾圧の口実にした・・そして、アメリ
 カは弾圧を徹底的に行った。
  1890年11月中旬、アメリカ政府に、「インディアンが、
 雪の中で踊り狂い、狂暴になっている。今すぐ我々を保
 護してくれ」・・との連絡が入った。
  アメリカ政府は、軍の出動を命じた。
  数千人のアメリカ軍が、スー族保留地に、次々とやっ
 て来た。
  その白人のアメリカ軍の行動は、すでに虐殺の行為を
 しようとしていた、また、する様に見えたため、多くの
 スー族の民が虐殺を恐れ、西方の岩山地帯・マコシカ(
 バッドランズ)へ逃れた・・逃げた。
  さらに、白人の保留地監督官は、スー族の統率者であ
 るシッティング・ブルが、「ゴーストダンスを踊ること
 を煽っている」と濡れ衣を着せた。
  そして、1890年12月14日、民族の精神的支柱であった
 シッティング・ブルを暗殺した。
  シッティング・ブルは大酋長ともいうべき統率者で、
 尊敬も集めていたので、アメリカ西部は騒然となった。
  食料の少ない中、また、極寒の時期、飢えと寒さであ
 ったが、シッティング・ブルを慕うスー族の方々は、別
 のスー族の元へ、極寒の川をさかのぼり、160キロも、や
 むなく逃げた。
  そして、その別の酋長のビッグ・フット・人望厚い老
 酋長のもとへと逃れた。
  ほとんどが年寄りや女性だった、そして、子供たちだ
 った。
  頼りになる男の若者は、ほんのわずかだった。
  この時、ビッグフット酋長は肺炎を患っており、「そ
 り」で移動をしてもらうという余命いくばくもない状況
 だった。
  しかし、この地の白人・保留地監督官は、このビッグ・
 フット一行の動きも警戒し、ビッグ・フットを逮捕すべ
 く、第8奇兵隊を出動させた。
  そして、ポーキュパイン崖の近くで、アメリカ軍は、
 インディアンの方々の集団へ襲いかかった。
  インディアンの方々は、戦闘をするという状況ではな
 かったのにかかわらず、攻撃を受けた・・当然、直ちに
 降伏を示した。
  後に、ビッグ・フットは、「交戦の意思は、初めから
 なかった」とはっきりと言っている。
  夜に、東方から更なる騎兵隊が来ると聞いたインディ
 アンの方々はおびえて、浮き足たった。
  マコ・シカ(バッドランズ)へ逃げる者も出た。
  案の定、12月28日、アメリカは、このインディアンの
 方々にまで追跡し、逮捕せよとの命令を出した。
  戦いができるような状況にないインディアンの方々へ、
 執拗に仕掛けられる無慈悲な戦いだった。
  インディアンの方々は、すぐに白旗をあげ、降伏を告
 げた。
  この様な繰り返しの中で、あらゆるアメリカ軍によっ
 て、インディアンの方々は、なぶり殺される様に死者が
 増えて行った。
  因みに、この時のアメリカ大統領は、第23代アメリカ
 大統領で、ベンジャミン・ハリソンだった・・不名誉な
 アメリカ大統領である。
  そして、インディアンの方々は、ウーンデッド・ニー
 河畔まで連行された。
  『野営を張れ』とアメリカ軍から命令された。
  この命令には「悪計が、すでに、仕組まれていた」。
  肺炎のビッグ・フットのために、インディアンの方々
 は、ストーブを準備した。
  この様な状況にある、インディアンの方々を、アメリ
 カの騎兵隊は取り囲んだ。
  そして、何と、この様な弱体のインディアンの方々を
 取り囲むアメリカ軍は、その数を、どんどん増して行っ
 た。
  復讐をするのである・・キリスト教の『目には目を』
 である。
  第7騎兵隊の「汚名を晴らす意味」もあるのである。
  ほかの軍も、町から進軍して来た。
  過去に、インディアンに全滅させられ・・汚名を来た
 第7騎兵隊の残党も、当然、居た。
  この様な・・不必要なほどの超大軍にインディアンの
 方々は不安をつのらせた。
  1890年12月29日、無残な虐殺が行なわれる日が来た。
  必要もないのに、速射砲の大砲4門が、インデアンの
 方々のキャンプが見下ろせる丘に据えられた。
  この時点で、当然、インディアンの方々は武装解除さ
 れ、銃のない状態だった。
  しかし、言い掛かりを付けるアメリカの行動が開始さ
 れた。
  自らを正当としたい言い掛かりをつける行動が起こさ
 れた。
  アメリカは、何時も、この様な行動をする卑怯な国な
 のだ。
  やはり、当然、起きるべきトラブルが発生した。
  アメリカ軍が、この様な完全制圧しているインディア
 ンの方々が、まだ、武器を持っている、銃を持っている
 として、捜索を始めたからだった・・、
  それに・・まったく乱暴な捜索だった。
  寝ているインディアンの女性の毛布を剥がすという様
 な行為まで行われた。
  大勢のインディアンの人の中にはあるだろう銃が見つ
 かった・・揉み合いになった・・これが悲しい行為の引
 き金となった。
  銃の1丁や2丁、こんな状態で、見つかったと言ったっ
 て、どうなるわけでもなく、何のトラブルになる訳はな
 いのだが・・
  言い掛かりを付けたいアメリカは、事を穏便に済ます
 訳はなかった・・最初からの予定の行動だった・・、
  これをきっかけに、アメリカ軍は、無差別攻撃を開始
 した・・その必要がないのにである・・二人がもみ合っ
 たからって・・しかし、無差別虐殺を開始した。
  怯(おび)えて、すぐに降伏する人々を、揉み合いを
 合図にアメリカの全軍が、殺戮目的の攻撃を始めた・・、
  攻撃する必要のない女性たちや子供たちに対しても、
 攻撃を始めた・・殺戮・虐殺目的の攻撃を始めた・・卑
 劣なアメリカだった・・
  しかし、冷静に状況を判断しても、どうしても、この
 行為は、虐殺行為であって、
  アメリカは、最初から「ある」とした・・その様なア
 メリカ軍が「そこに集まって来て居た」。
  無抵抗の病人のビッグ・フットも、銃で頭を撃ち抜か
 れ・・そして・・死んだ。
  何故か、前もって据えられた丘の大砲も、無差別虐殺
 の轟音を打ち鳴らした・・卑劣である・・
  これが・・予定の行動だったのだった・・、
  速射砲の大砲の威力は、卑劣の言葉を通り越す・・無
 残で・・絶大だった・・、
  子供も馬も犬も関係なく、無差別に飛び散らかされて、
 殺され、狙い撃ちされた。
  戦えるインディアン戦士たちは、やむなく素手で戦っ
 た・・武器はないので・・この様な・・丸腰の人々を、
 アメリカは、まさしく・・殺人行為としか言えない行為
 をした・・
  また、銃を取ろうと戦ったが・・銃のない状態にされ
 て殺された・・悲惨な虐殺をアメリカはした・・
  銃弾と砲弾が降り注ぐ中を、それでも逃げたインディ
 アンの方々は居た・・
  しかし、負傷のために、3キロばかり逃げたが、力尽
 き、倒れて行った。
  武器のないインディアンは、四方から完全に囲まれた
 中で、狙い撃ちされ、銃弾と砲弾で殺戮された。
  味方の銃弾で死んだアメリカ兵も居るぐらい凄まじい
 無抵抗のインディアンの方々への殺戮行為だった。
  速射砲の大砲は1分間で50発の弾丸を、雨の様に降らせ
 た。
  過剰な、卑劣な攻撃の殺戮だった。
  無抵抗の者を、殺し続けるという状況の言い訳は、ま
 ったく存在する訳はない。
  アメリカ軍の卑劣な戦いの汚名が、また、一つ付け加
 わった。
  多くの乳飲み子まで、アメリカ軍は無慈悲に殺した・・
 その記録が、後世に、長く記録として残る事となった。
  「幼い子供たちが、身体中に弾を受けてばらならにな
 って、穴の中に裸で投げ込まれている」という記録もあ
 る。
  子供を、その様に撃つ必要があったのだろうか?
  死体は、そのまま放置し、アメリカ軍は引き上げた。
  この報は、インディアンのシャイアン族の方々へも、
 もたらされた。
  インディアンの方々が駆け付けると、その方々へも、
 アメリカ軍は発砲した・・が・・すぐ退却した。
  駆け付けたインディアンの方々は、こと切れた母親の
 ショールに包まって生きていた赤ん坊を発見した・・3
 人みつけ・・連れ帰った。
  白人に連れ去られた赤ん坊も居た(ロスト・バード)
  峡谷で、アメリカ兵と戦ったインディアンの二人の男
 児がいた・・勇敢なこの二人の少年はアメリカ兵を射殺
 していた・・少年は、まったく傷を負っていなかった。
  インディアンの方々の尊敬を集めている精神的支柱の
 ブラック・エルクは、「自分も死ねばよかった」と思った
 と言った。
  そして、「いっそ、白人の支配するつらいこの世に別
 れを告げて、あの世で幸せに暮らすほうがいいかもしれ
 ない」と思ったと言った。
  アメリカは、この後も、執拗に、追跡した・・スー族
 の方々は、物を置いて逃げた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:従軍慰安婦問題は、完全なデッチアゲ・・
.
17世紀、ロシアにおけるユヤダ人の方々への迫害が、最大
 となった。
  『ポグロム』は、ロシア語で「破滅・破壊」を意味す
 る言葉である・・、
  加害者の如何を問わず、ユダヤ人の方々に対し行なわ
 れる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を意味
 した。
  キリスト教が、ユヤダ人の方々を「主(イエス)殺し」
 として迫害したことにいきさつを持ち、また、発端を持
 つ・・、
  この迫害の歴史の中には、キリスト教プロテスタント
 運動の創始者であるマルティン・ルターが、著書『ユダ
 ヤ人と彼らの嘘について』において、ユダヤ人への激し
 い迫害、及び、暴力を、理論化して、1543年に、熱心に
 提唱したことにも影響された。
  ユダヤ人迫害を、長く、酷(ひど)くして来たのは、
 キリスト教カトリックであって・・この迫害には、ひど
 い限りを尽くした長い歴史がある。
  まず、その第一は、「異端審問所」の悪行で、筆舌に
 尽くせぬ最悪行為をし続けた。
  キリスト教カトリックの異端審問としての歴史は・・、
 1022年のオルレアンで起きた異端者の処刑事件に遡(さ
 かのぼ)る・・
  これ以来、人類史上、何百年に渡って、虐殺をし続け
 たキリスト教(人類史上、最悪の悪行為)
  そして、17世紀、ウクライナ・コサックのフメリニツ
 キーの乱で起こったポグロムは、その犠牲者の数で最悪
 のものとなった。
.
1905年9月5日、この日に、日露戦争が、日本の勝利で終わ
 ったが・・、
  この勝利の最大の要因が「日本海海戦において、日本
 が目覚ましい快勝をした」ことを第一の要因とする人は
 多いが・・、
  その他において、日本への勝利を導いた大きな要因が
 あった。
  日本への資金的支援・応援が、ユダヤ人の方々からあ
 ったことも、その勝利の大きな要因である。
  帝政ロシアは、ユダヤ人の排斥主義を取っていて、「
 ポグロム」と呼ばれる卑劣なユダヤ人の方々への迫害の
 嵐が吹き荒れていた。
  ヤコブ・シフらのユダヤ人の金融資本家の方たちは、
 ロシア皇帝ニコライ2世を打倒しようと対抗し・・敵対し
 ていた。
  ロシアから資本を引き上げ、内外のユダヤ人から資金
 を集めて、日本の戦時国債を買い、日本の日露戦争の戦
 費への支援をした。
  日露戦争は、ユダヤの方々の「民族としての生き残る」
 ための重大な戦いでもあった。
.
1917年2月23日、ロシア革命(二月革命)が起きた。
  ユヤダ人の方々の「民族の生き残りの戦い」・・帝政
 ロシアは、ユダヤ人排斥主義をとり、ユダヤ人の方々へ
 の迫害は酷かった。
  第一次世界大戦中(1914年7月28日~1918年11月11日)
 に、「ロシア革命」が起きるが、この革命は、ユダヤ人
 の方々が仕掛けたものだった、ユダヤ人により起こされ
 たものだった。
  ウラジミール・レーニンも、レフ・トロツキーもユダ
 ヤ人で・・、
  ユダヤ人の金融資本家は、このレーニンやトロツキー
 らを支援した。
  トロツキーは、赤軍の創設者で、革命の内戦において、
 大きな功績を上げた。
  そして、ソビエト連邦政権が樹立された後は、共産党
 政治局員として重要な地位に就いた。
  また、第4インターナショナルの活動組織を結成して、
 世界に社会主義革命を行ない、国際運動を展開した。
  そして、今・現在、世界で活動している「ネオコン」
 は、この考え方を引き継いでいる。
  因みに、ロシア革命は、1917年に、ロシア帝国で起き
 た2度の革命のことを指す名称で・・、
  特に、史上初の社会主義国家樹立につながったことに
 重点を置く場合には、「十月革命」のことを意味する。
  また、逆に、広義には、1905年の「ロシア第一革命」
 も含めた長期の諸革命運動を意味している。
  そして、この「二月革命」「十月革命」は、当時、ロ
 シアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を
 基にしていて、現在、用いられるグレゴリオ暦では、そ
 れぞれ「三月革命」「十一月革命」となる。
  (参考)ネオコン:アメリカ合衆国における新保守主
    義(ネオコンサバティズム、 略称:ネオコン)は、
    保守派の政治イデオロギーの1つで、米国において
    1970年代から独自の発展をして、主に、
     共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に非常に大
    きな影響を与えている。
.
1991年12月、慰安婦問題のデッチアゲが起きた。
  結論を先に言うと・・これは、「完全な作り話」で、
 日本が貶(おとし)められる事になった。
  (読売新聞、2017年4月24日)と(4月25日)の連載の
 記事に、歴史学者・秦郁彦氏の記述があるが・・はっき
 りと、日本がでっち上げられて、『無実の罪を着せられ
 ている』と記載している・・それを以下に記す・・、
  1991年12月から1992年1月にかけて、私(秦郁彦氏)が
 「ビックバン(大爆発)」と呼ぶ、慰安婦問題の騒動が
 発生します。
  12月、旧日本軍に徴用された韓国人と遺族が、日本に
 謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。
  この中に元慰安婦3人も加わりました。
  1月11日には朝日新聞が、朝刊1面トップで、慰安婦の
 募集に日本軍が関与していたと報じます。
  (記事は、旧日本軍が慰安所の設置や従軍慰安婦の募
 集に関与していたことを示す文書が明らかになったとい
 う内容だった。
  従軍慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身(て
 いしん)隊の名で強制連行した。
  その人数は8万とも20万とも言われる」との記述もあ
 った)
  記事の根拠となった文書は、吉見義明中央大教授が防
 衛庁の防衛研究所図書館で発見した、とのこと。
  私(秦氏)は12月下旬、吉見氏と防衛研究所で偶然会
 い、近く朝日新聞に出ると聞き、なぜニュースになるの
 か疑問に思いました。
  1938年に陸軍省が流したこの通達文書は、すでに20年
 前から公開されていたもので、慰安婦を募集する際、誘
 拐まがいのことをやっている悪質な業者がいるから、取
 り締まれという内容です。
  日本軍の関与には違いないが、良い関与だったから。
  それを、宮沢首相の訪韓(1月16日)という絶妙のタ
 イミングに合わせて掲載したのでしょう。
  ほかのマスコミも追随し、強制連行の証拠が見つかっ
 たかのような大騒ぎになりました。
  宮沢首相はソウルでデモ隊に迎えられ、何度も陳謝し
 ます。
  強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦
 争犯罪』(1983年)です。
  戦時中、労務報告会(労報)下関支部の動員部長だっ
 たと称する吉田氏は、済州島で慰安婦を調達せよとの西
 部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。
  私(秦氏)は、一読して怪しいと感じました。
  済州島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄。
  本に載っている命令書も、正規の体裁から外れている。
  私(秦氏)は吉田氏に電話しましたが、話に矛盾が多
 く、作り話と確信しました。
  出版社にも電話すると、担当者は「あれは小説ですよ」
 と言うのです。
  私(秦氏)は彼を典型的な詐話師(さわし)だと直感
 し、1992年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れまし
 た。
  最初に城山浦の貝ボタン工場を訪ねました。
  本には女子工員を木剣で打ちすえ、かり集めたと書か
 れています。
  近くの老人たちに話を聞くと、「そんな話はない。小
 さな村落だから、何十人も連れて行かれたら大事件だよ」
 と一様に否定しました。
  さらに公立図書館で、地元の済州新聞が吉田本の韓国
 語版の紹介記事(1989年8月14日)を掲載していたこと
 を知りました。
  慰安婦狩りを裏付ける証言はなく、島民は「デタラメ
 だ」と否定しているとの内容です。
  書いた女性記者を訪ねると、「日本人はなぜこんな作
 り話を書くのでしょうか」と責められました。
  帰国後、私(秦氏)の済州島での調査を取材した4月30
 日の産経新聞は、吉田証言を虚偽と断定しました。
  ・・以下、4月25日の記事・・
  図らずも慰安婦問題に私(秦氏)が巻き込まれてから、
 二十数年の歳月が流れました。
  (1993年8月4日、政府は、慰安婦問題についての河野
 洋平官房長官談話を発表した(宮澤喜一内閣総理大臣の
 とき)
  この中で、朝鮮人の慰安婦の「募集、移送、管理等も、
 甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行
 われた」と認定した)
  河野談話は、韓国と事前調整で譲歩した産物なんです
 ね。
  日本軍が強制連行したとは書いてないが、そう読めな
 くもない玉虫色の表現です。
  実際に河野氏は記者会見で、強制連行を認めるのかと
 聞かれ、そうですと答えている。
  談話発表の前夜、慰安婦問題を担当していた内閣外政
 審議室の谷野作太郎室長から、私(秦氏)の自宅にファ
 ックスが届きました。
  談話の文案について感想を、との事でした。
  一読した後、実害が少しでも減るように、「総じて」
 を「時として」などに修正されたい、と要望しましたが、
 採用されませんでした。
  1995年7月、元慰安婦たちに「償い金」を給付する半官
 半民の「アジア女性基金」が設立され、私(秦氏)は事
 実の究明に当たる資料委員会の委員を引き受けます。
  ところが、慰安婦の総数は約2万人、最多は日本人で、
 朝鮮人は2割という私(秦氏)の結論は、和田春樹委員
 (東大教授)ら左派のお気きに召さず、「東大には研究
 の自由はあるが、基金にはない」と宣告され、私(秦氏)
 の論文はボツにされてしまいます。
  その頃、国連人権委員会の委託を受けたクマラスワミ
 女子が来日します。
  私(秦氏)は彼女に会い、戦時中にソウル(京城)の
 新聞に載った慰安婦募集の広告と、北ビルマで捕らえら
 れた20人の朝鮮人慰安婦に対する米軍の尋問調書を渡し
 ました。
  前者は強制連行を必要としない証拠で、後者は、慰安
 婦に外出、廃業、社交の自由があり、軍司令官級の高収
 入を故郷に送金するなど「性奴隷」とはほど遠い境遇だ
 った事を示しています。
  しかし、人権委員会へのクマラスワミ報告(1996年2
 月)には反映されませんでした。
  吉田清治氏の強制連行体験、「慰安婦をセックス・ス
 レイブ(性奴隷)と呼びかえよう」と説いていた戸塚悦
 郎弁護士の言い分の方が採用されたからです。
  日本政府の事なかれ主義もあって、強制連行と性奴隷
 のイメージは、国際社会に広く定着した感があります。
  韓国ばかりか、世界各地に乱立した慰安婦像は60体を
 超えるありさまです。
  無力感を味わっていた私(秦氏)は、せめて慰安婦と
 周辺事情の史的経過を実証的にまとめておきたいと考え、
 1999年に『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を刊行します。
  2013年には、内閣官房で対外発信を強化する一環とし
 て、拙著の英訳プロジェクトが内定しました。
  ところが、新任の内閣広報官から、もし、日本政府の
 後押しが露見したらまずいとの理由で、ドイツ、英連邦、
 米国、韓国など諸外国の例を記述した第5章などを訳出の
 対象から外したいと言われます。
  私(秦氏)は削除を拒否し、英訳プロジェクトは流れ
 ました。
  何度目かの筆禍体験でした。・・以上・・
  (参考事項)
 (1)吉田清治氏の本は虚偽と判明して決定し、朝日新
   聞は謝罪している。
 (2)戸塚悦郎弁護士は、中国のロビイストと判明した。
    国連に日本の性奴隷を定着させた人である。
    国連のNGOに所属する立場を利用して、慰安婦
   問題について人権委員会が勧告を出すよう執拗に働
   きかけ、20回近い会合に出席して吉田清治の話を英
   訳して配布し、慰安婦をセックス・スレイブと英訳
   して世界に公言した。
    公正性はなく、日本を有罪にしたいという姿勢だ
   った。
 (3)前事務総長が韓国人であり、国連要職に韓国人を
   多数任用して、その様な環境の中で日本を貶める行
   為がなされて行った。
 (4)韓国人の業者が、卑劣な事に、自国の韓国の女性
   を中国などに連れて来て、中国の町で商売をしてい
   た。
    日本軍に付いて来て、商売をしていた者も居た。
    この頃は、中国の街中には、女性を商売にする悪
   い奴が大勢いた。
    その中で、朝鮮の人が多かったという。
    次が中国人が多くその商売をしていた。
    それが、日本軍が指示したという話に作り上げら
   れて行った。
    日本軍は、何もその様な指示などはしていない。
    吉田清治の言うところの小さな村から、8万人とも
   20万人とも言われる女性が、従軍慰安婦にされるこ
   とが出来るのか?
    出来る訳はない。
 (5)1993年8月4日、河野洋平官房長官が、従軍慰安婦
   強制連行を認め、謝罪の意を表明したが、どんな資
   料を見てその様に断定したのか?
    その事は、まったく説明せず、ただただ、日本を
   貶める発言となっている。
    証人喚問するべきである。
    何をどう判断してその様な行為をしたかを説明せ
   よ!
 (7)日本の「アジア解放の理念」のアジア諸国へ、ま
   た、世界へ与えるイメージを破壊しようと、この嘘
   の慰安婦問題を、アメリカの一部組織が、韓国・中
   国へ働き掛けて、嘘の行動を、南京虐殺問題と共に
   起こさせている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-07 04:16 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)523E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年11月~1890年12月)

題:(増補版)523E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年11月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年11月11日、東京で、最初の書籍大糶市(せりいち)
 が開かれた。
1890年11月13日、我国最初のエレベータが運転開始した。
そして、浅草に、凌雲閣が開業する。
  1890年11月10日、東京・浅草の凌雲閣に、藤岡市助が
 設計した日本初の直流電動機式のエレベーターが設置さ
 れた。
  エレベーターは、地階に据え付けた7.5馬力のモーター
 1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運
 転し、1階か8階だけに止る独自の構造をしていた。
  故障が多く、のちに撤去された。
1890年11月20日、帝国ホテルが開業した(11月7日説あり)
  東京・丸の内内山下町に、帝国ホテルが落成し、開業
 した。
  ルネッサンス式木骨煉瓦造3階建、70室(約60説あり)
1890年11月22日、國學院が開院した。
  1882年(明治15年)11月に創設された皇典講究所、お
 よび、皇典講究所内に設置された神職養成教学機関であ
 る國學院を起源とする。
1890年11月24日、帝国議会議事堂が竣工した。
  1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が設立され、
 ドイツ帝国から建築家を招聘し、官庁集中計画と議事堂
 の設計が成された。
  建設場所は、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が
 関一丁目、現在の経済産業省敷地)に、この仮議事堂は
 建設された。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂。
  竣工は11月24日で、11月29日に貴族院議場で開院式が
 行われた。
  翌年・1891年1月20日、漏電から出火し、全焼した。
1890年11月25日、第1回帝国議会が召集された。
  議長に中島信行、副議長に津田真道を選出した。
1890年11月29日、第一回帝国議会の開院式
  山形有朋内閣の時、大日本帝国憲法の下で、第1回帝国
 議会の開院式が、天皇陛下の親臨のもと行われた。
  1891年3月9日に、この第1回帝国議会は閉幕した。
  ここに、日本は、立憲政治の第一歩を踏みだした。
  帝国議会は、貴族院と衆議院の二院で構成され、
  貴族院は、皇族方、華族、国に功績のあった人、その
 他の中から、天皇陛下が御任命された議員で構成された。
  定員は251人だった。
  内訳:皇族10人、5等爵のうち公爵10人、侯爵21人、伯
 爵14人、子爵70人、男爵20人、天皇陛下みずから選定さ
 れた勅選61人、多額納税者が45人。
  衆議院の議員には、植木枝盛など自由民権運動で活躍
 した人たちもいた。
  立憲自由党130名、立憲改進党40名、大成会79名、国民
 自由党5名、無所属42名、欠員4名。
1890年11月、少年の間に喫煙の風が起きた。
  1890年代から、小中学校の喫煙が問題視され始めた。
  1894年に至り、文部省が、小学生の喫煙を禁じる訓令
 を出している。
  根本正衆院議員(ねもとしょう、1851年~1933年)が、
 議員立法で禁煙に取り組み、法制化を実現した。
  また、根本氏は、未成年者飲酒禁止法の法制化にも取
 り組んでいて、「禁煙・禁酒運動の祖」として知られて
 いる。
  根本氏の主張・・
  (1)小学生の喫煙が増えている。このまま放置すれば
    帝国人民の元気を消滅させ、中国のような国にし
    てしまう。子どもの禁煙は国是である。
  (2)喫煙禁止は、多くの文明国で実施済みである。
  (3)国庫の補助を受けている生徒がタバコを嗜むこと
    は望ましくなく、公的な干渉は当然である。
1890年11月、英国でスコットランドヤード(ロンドン警視庁)
 が新庁舎(ヴィクトリア・エンバンクメント)に移転した。
  ロンドン警視庁は、イギリスの警察組織の一つで、
  首都ロンドン一円を管轄する首都警察であると同時に、
 国家全体の警備公安警察や王族・政府要人警護といった
 特別な任務も担っている。
1890年12月4日、北里柴三郎が、ジフテリア、破傷風の血清
 療法を発見した。
  北里 柴三郎(1853年1月29日~1931年6月13日)は、日
 本の医学者・細菌学者(従二位・勲一等旭日大綬章・男
 爵・医学博士)
  「日本の細菌学の父」と言われている。
  1853年、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇
 郡小国町)に生まれた。
  同郷で、東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生
 局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいによって、
  1885年(明治18年)(32歳)より、ドイツベルリン大
 学へ留学した。
  コッホに師事し業績をあげた。
  日本の優秀な医学生に、コッホの期待は大きかった。
  1889年(明治22年)(36歳)に、世界で初めて破傷風
 菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功した。
  1890年(明治23年)(37歳)に、破傷風菌抗毒素を発
 見し世界の医学界を驚嘆させた。
  さらに、血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射
 しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発し
 た(ノーベル賞的大発見)。
  1890年(明治23年)(37歳)血清療法をジフテリアに
 応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけ
 るジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という
 論文を発表した。
  第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が
 挙がったが、
  結果は、抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎
 でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した(有色
 人種蔑視)。
  柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名
 でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、
  ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ
 研究所が、柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清
 療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なし
 たこと(作為)、賞創設直後の選考でのちのような共同
 授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげ
 られてはいる・・が・・、また・・、
  柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみ
 つかっていないが、白人優位・白人優遇(有色人種への
 差別)は明確に存在している。
  論文がきっかけで、欧米各国の研究所、大学から多く
 の招きを受けるが、国費留学の目的は、日本の脆弱な医
 療体制の改善と伝染病の脅威から『国家国民を救うこと』
 であると、柴三郎は、これらを固辞(こじ、かたく辞退
 しつづけること)して、
  1892年(明治25年)(39歳)に帰国した。
  1931年6月13日、脳溢血のため東京・麻布の自宅で、偉
 大な日本の医学者・細菌学者は逝去された。
  78歳だった。
  その大きな、そして、偉大な功績によって、救われた
 人々はあまりにも多く、偉大な業績だった。
1890年12月16日、電話の創業(電話交換業務を開始)
  日本で初めて東京・横浜の両市で、市内及び市間の電
 話交換業務が開始された。
  加入者は、東京179、横浜45(東京155名、横浜42名の
 説もある)
  東京千代田区内に、電話交換局が設置されて、業務は
 開始された。
  (東京滝ノ口と横浜居留地に電話局が設置された)
  (参考)龍ノ口:たつのくち、東京都千代田区丸の内
    1-4、日本工業倶楽部ビルが建つ地の旧名で、江戸
    城大手門外に位置し、伝奏屋敷があった。
    →伝奏屋敷は、江戸時代に、武家伝奏、または、
    勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅のこと。
  使われた電話機は、ベルギー製の単線式単式交換機で、
 加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャッ
 クにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジャ
 ックにもう一方のプラグを差し込んで接続するという方
 法だった。
  因みに、日本初の電話は、1877年(明治10年)に、政
 府内で試験通話が行われている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:社会は疲弊し、分断されている・・、
    歴史的に繰り返すグローバリズムの流行は・・、今、
   その終焉に差し掛かっている。
.
1945年8月14日、終戦となった。
  軍部の戦争継続の主張を、昭和天皇陛下が、『二度に
 わたっての御聖断』で抑え込まれた末のことだった。
.
1945年8月27日、アメリカの指示・依頼により、占領軍
 向けの慰安施設の第1号が開業した(小町園、東京大森)
.
1945年9月5日、マレー・シンガポールにイギリス軍上陸し、
 再占領して、再度の植民地化を行なう。
.
1945年10月8日、インドネシア共和国軍とイギリス・オラン
 ダ軍が戦闘状態へ突入、独立を目指した内戦状態へ。
  この戦線に、アジア解放を目指していた日本兵が、イ
 ンドネシア独立派と共に、解放・独立を目指して戦った。
.
1945年11月10日、インドネシア独立戦争: スラバヤで激し
 い戦闘となる(Hari Pahlawan)
  日本兵が、戦後となっていたが、日本に帰国しないで、
 このインドネシアの独立派の方々と一緒になって戦い、
 助け、独立を勝ち取った。
  このインドネシア以外でも、ベトナムなどでも、この
 様な行為は起きた。
  日本は、「アジア解放」を、我が事の様に、達成すべ
 き理念としていた。
.
1945年11月20日、ドイツで戦犯を裁くニュルンベルク裁判
 が開廷した。
.
1945年12月7日、マニラの連合国軍軍事裁判で山下奉文陸軍
 大将に死刑宣告。
.
1945年12月7日、ソ連は、完全に戦争が終わっているのに
 日本人を捕まえて、シベリアへ連れて行って、重労働を
 させた。
  抑留と言うが、この行為は、『拉致』である。
  ロシアの謝罪がない、また、補償もない。
  (読売新聞、2017年4月23日)に以下の記述がある・・、
  第二次世界大戦後、ソ連が占領した南樺太(からふと、
 現ロシア・サハリン州)で逮捕、シベリアに抑留された
 大津敏男・樺太庁長官の取り調べ記録を、同州で入手し
 ていた全国樺太連盟が本紙に明らかにした。
  日本政府の記録から数千人に上ると推計されるソ連占
 領下での、日本人逮捕者の捜査記録は、治安機関のロシ
 ア連邦保安局が機密扱いを続けている。
  住民を日本本土に逃すなどした行政措置をソ連刑法の
 『反革命罪』とした捜査過程が分かる。
  取り調べ記録のうち、ソ連内務人民委員部の1945年12
 月7日の逮捕・拘禁決定書によると、スターリン政権で国
 内の粛正に用いた刑法58条の反革命罪を大津長官に適用。
  地下蜂起部隊の本部を組織、ソ連軍の行動を本土に連
 絡する情報員を任命したとして2項(武装蜂起)、6項(
 スパイ行為)を主な容疑とした。
  だが、1946年1月12日の起訴決定書の罪状は、
  (1)降伏後も本土へ6万3000人を避難させた。
  (2)役所の文書を焼却させた。
  (3)樺太の情報を日本政府に電報で伝えた・・など。
  敗戦国の行政官としての行為を『反革命罪』とし、日
 本の官僚に罪を問いやすい4項(ブルジョア活動ほう助)
 に切り替えた。
  部下ら8人も共謀で逮捕、起訴後、シベリアに抑留。
  1人が抑留先で死亡した。
  樺太庁は、日本領有下の南樺太を管轄した政府直轄の
 地方行政官庁。
  南樺太出身者らでつくる樺太連盟やサハリン州の公文
 書担当者らによると、記録は1998年、連盟役員(故人)
 の要請で当時の州公文書管理局長(同)が連邦保安局州
 支部から仮借り、役員が尋問調書など約300ページの写し
 を持ち帰った。
  連盟はこれまで写しを公表しておらず、入手当時に日
 本語訳を外務省や旧厚生省など関係先に配布したと連盟
 の記録にあるが、外務、厚生労働省とも「該当資料は見
 当たらない」としている。
  ソ連は終戦後、樺太や満州(現中国東北部〉などで日
 本軍幹部のほか、官僚や経済人らを反革命罪などで逮捕
 してシベリアに抑留。
  厚労省が、1997年から連邦保安局に記録の提供を求め
 てきたが、届いたのは、約400人の判決内容などの抜粋資
 料にとどまっている。
  大津長官の取り調べ記録を見た孫の大津岩夫さん(73
 歳)(東京都大田区)は、
  「祖父は生涯、抑留の経緯を口にしなかった。
  行政のトップとして自国民を逃した事がなぜ罪になる
 のか。理不尽だ」と語った。
  (参考〉大津敏男・樺太庁長官(1893年~1958年)
    内務官僚で戦時中の1943年7月、埼玉県知事から就
    任。
    抑留後、1950年4月帰国した。
  日本人抑留に詳しい加藤聖文(きよふみ)・国文学研
 究資料館準教授の話、「ソ連崩壊後の一時期、情報統制
 が緩み、入手できたのでは。
  罪を仕立てた捜査が見える」。
.
1960年(昭和35年)2月1日、コーヒー・パーティ事件
  キリスト教に悪い所を指摘すると、「それは、旧約聖
 書だ」と逃げる。
  因みに、キリスト教は、「新約聖書」と「旧約聖書」
 を拠り所としている聖典としている。
  しかし、前記した様な言葉で逃げる・・、
  「どちらも、君たちの聖典ではないか」と言いたい。
  ユダヤ教と同じ聖典の「旧約聖書」ではなく、最後の
 逃げ場を、イエスのことを記した「新約聖書」へ逃げて
 いるのである。
  アメリカも、同様な論法で、「それは南部だ」と、「
 南部が悪いのだという論法で逃げる」。
  北部アメリカは、黒人の方々を、南部と一緒になって
 黒人の方々を虐げているが、何も知らない人たちを言い
 くるめ、そして、誤魔化している。
  アメリカは、「キリスト教の有色人種の蔑視教義」に
 洗脳され、また、キリスト教の神が、聖書で叫ぶがごと
 く「黒人の方々を奴隷として虐げてきている」が、
  この様なアメリカに、反旗を翻した黒人の方々の行動
 の最初が、1960年1月31日に起きた。
  4人の黒人の若者たちが行動を起こした。
  アメリカのノースカロライナ農工大学の学生たちだっ
 た。
  昼間、町のバス・ターミナルの軽食堂で、例によって
 「黒人の注文お断り」の扱いを受けて、可哀想なことに
 とうとう堪忍袋の緒を切らしたのだった。
  卑劣なアメリカだった。
  この日の夜、学生寮で、日頃の人種差別・蔑視行為に
 ついて真剣に話し合った。
  深夜に及ぶ長時間の討議だった。
  そして、ある行動を起こす事となった。
  この翌日の1960年2月1日に、その行動が起こされた。
  この日の午後4時半頃、4人の黒人学生たちは、歯磨き
 その他の日用品を買うと、すぐに、「黒人禁制のカウン
 ター」で、コーヒーとドーナッツを注文した。
  長年にわたって行なわれて来た人種差別行為に挑戦し
 たのだった。
  これは、白人優越=黒人蔑視のアメリカで行われてい
 る軽蔑すべき行為への挑戦だった。
  案の定、予期していた通りの反応が、たちまちに起き
 た。
  白人・店長が駆けつけて来た。
  店長と学生とのやり取りが、そして、まわりは黒山の
 様な人だかりに囲まれた。
  そして、ありとあらゆる罵詈雑言が飛び交った。
  唾(つば)が吐きかけられた。
  暴行も加えられた。
  しかし、暴行などに、彼等は、じっと、それらに耐え
 た。
  閉店まで、そこに座り込んだ。
  終止、非暴力の抵抗がなされた。
  翌日の2月2日には、彼らの他に、農工大学の学生たち
 23人と、ベネット大学の女子学生4人が加わった。
  同じ抗議行動を続けた。
  その翌日も・・、
  さらにその翌日もした・・、他大学からの学生も加わ
 り、この抗議行動の輪は拡大した。
  座り込みの場所も、同様行為をする蔑(さげす)むべ
 き他の店のランチ・カウンターなどでも行われた。
  この間、だれ一人、1杯のコーヒーのサービズを受ける
 ことはなかったが、彼らは、ただひたすら座り続けた。
  そして、2月7日の夜に開かれた抗議集会には、1600人
 もの大勢の学生が参集した。
  この行動は、1960年代の「黒人革命」の前哨戦として
 歴史に残る『人権を回復の戦い』として輝いている。
  グリーンズボロの「コーヒー・パーティ事件」として、
 アメリカ白人社会の低劣な人種差別事件として歴史に刻
 まれ、後世の歴史的役割を果たして行くことになった。
  低劣な、そして、遅れたアメリカは、この様な事件が、
 嫌というほど一杯ある。
.
1963年8月28日、自由への行進(ワシントン大行進)
  ワシントンで、公民権法案を望む約25万人の大行進が
 行われた。
  マーティン・ルーサー・キング氏の言葉:「私には夢
 がある。
  何時の日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かっての
 奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブ
 ルに着くという夢である」・・と・・、
  1950年代に入って発生した「モンゴメリー・バス・ボ
 イコット事件」や、「リトルロック高校事件」以降、キ
 ング氏などの活動家の指導の下に、黒人の方々の公民権
 (参政権など)獲得を求める運動が盛り上がりを見せた。
  この黒人の方々の努力が実って、少しづつ、アメリカ
 連邦政府も、公民権法の制定に大きく動き始めて行く。
  黒人の方々が行けないキリスト教会・・そして、黒人
 の方々が作ったキリスト教会・・その黒人の方々のキリ
 スト教会が火を付けられ、黒人の子供たちが焼け死ぬと
 いう悲惨な事件・・
  リチャード・ドーキンス(イギリス人、カルフォルニ
 ア大学、オックスフォード大学)は、本で、
  「アメリカ社会は、キリスト教徒でないと『うさん臭
 い目で見られる』・・、
  アメリカのほとんどのエリートは、そのため、義理で
 キリスト教会へ行く」・・と記している。
.
2017年4月25日、読売新聞に「フランス大統領選」は、社会
 の疲弊と分断を露呈した・・とある。
  (この根底には、グローバリズム的発想で出来たEU
 の問題点が露呈している)。
  全世界の富の約半分が、1%程の富裕層(スーパーリッ
 チ)に独占されている。
  超富裕層の1%が、どんどん金持ちになって行き、中流
 層がどんどん減っていく現状にある。
  スーパーリッチ80人の内・・35人はアメリカ人だとい
 う。
  この偏(かたよ)りを反対から見ると・・、
  貧困層側に居る方々を・・世界の80パーセントの方々
 に集まってもらって、そして、その方々の資産を寄せ集
 めても・・世界の富の5.5パーセントにしかならないと
 いう。
  今、世界は・・まったく不公平な中にある(これを、
 アメリカが作った)。
  この超富裕層が、グローバリズムで、世界を相手にし
 て、大儲けしている・・、
  このグローバリズムだと言ったって、何もグローバ
 ルではなく、「アメリカン・システム」で、金が集まる
 システムで儲けまくっているから、この様な偏りが生じ
 る。
  グローバリズムという『音頭取り』は、「だから、止
 められない」のである。
  そのグローバリズムは、アメリカのやり方と同義であ
 るから、アメリカの金持ちが多いのであり・・そして、
 アメリカは、「それが正義なのだ」と言うから・・その
 独りよがりを「押し付けるから始末が悪い」。
  そして、それに、ゴマする輩も多いから・・おこぼれ
 頂戴で・・。
  こんな世の中・・で・・一方、ギリシャの様に、ギリ
 シャ正教のキリスト教の国で、他人の金を当てにする国・
 頼りにする国が、EUというしがらみから・・この様な
 国に金を渡さなければならない羽目にある現状。
  際限なくぶら下がり国家へ、際限なく金が流出する姿
 は・・公正ではない・・どこが、公正なのだ。
  その渡す金と言ったって民の税金。
  そんな美味い打ち出の小槌(こづち)なんてない、血
 のにじむ中流層の方々の金。
  その税金と言ったって超金持ち層の金よりも、中流層
 の金が・・どんどん自国以外の、こんなぶら下がりの国
 に渡さなければならない羽目に陥っている・・
  貢(みつ)ぐ奴隷のように稼がなければならない中流
 層の金が流れる。
  過去には・・あんなに豊かに居た、そして、多く居た
 中流層の方々が、変なグローバリズムの旗振りと、そし
 て、鐘の鳴る下で支払わされて、中流層は激減し、消滅
 した・・記念碑的な存在の人々となっている。
  「受益者負担ではないが・・自助努力し、自己努力が、
 自己の生活水準に、公正に反映する社会であるべきだ」。
  (読売新聞、2017年4月25日)の社説「フランス大統領
 選」で、「社会は疲弊している・・社会は分断されてい
 る」と指摘している・・
  以下は、その記述(抜粋)・・、
  長引く経済低迷に疲弊し、繰り返されるテロの傷痕は
 深刻だ。
  そんな厳しいフランス社会の状況が浮き彫りになった。
  フランス大統領選の第1回投票が行われ、中道で無所属
 のマクロン前経済相が首位に立った。
  極右・国民戦線のルペン党首は僅差で2位につけた・・
 (中略)・・今回の選挙は、フランス政治の重要な転換
 点と言えよう。
  ・・欧州連合(EU)の要であるフランスで、「反E
 U」対「EU」が争点となった。
  EU統合推進の是非を巡って国民の分断が進行してい
 ることの表れだろう。
  ルペン氏と、急進左派のメランション氏は、EUが、
 低所得層を中心に国民生活を圧迫しているという主張で
 は軌を一にし、離脱の是非を問う国民投票を提唱した。
  半世紀以上、EUの屋台骨を支えてきた既成政党の凋
 落(ちょうらく)の背景には、近年、フランスが直面す
 る険しい現実がある。
  ギリシャに端を発した欧州財政・金融危機で、EU主
 導の緊縮財政を強いられ、失業率は10パーセント前後で
 高止まりしている。
  2015年のパリでの大規模テロ以来、非常事態宣言が出
 されたままだ。
  イスラム過激派の暴力は根絶できていない。
  (本当のイスラムの方々は、この組織は、イスラムで
 はないと言っている)。
  投票日直前には、首都のシャンゼリゼ通りで警察官射
 殺事件が発生した。
  テロ犯は、フランスなどで育った移民系の若者が多い。
  2015年には、中東から欧州へ大量の難民が流入した。
  移民や難民が治安を悪化させたという国民の不満が、
 排外主義の台頭を招いたのは明白だ。
  (排外主義と決めつけて、悪いと決め付けるのは論理
 の短絡言説だ)。・・後略・・
  (歴史的に繰り返すグローバリズムの流行は、今、そ
 の終焉に差し掛かっている。
  そして、その甘い汁を吸っている者たちが、それを、
 また、以前の様に、どうにかしたいと活動し、暗躍して
 いる。
  しかし、この時代の流れを押しとどめる事は出来ない)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-05-01 04:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)

題:(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月、長瀬商店が花王石鹸を発売した。
  花王(株)創業者の長瀬富郎は、舶来のブランド石鹸
 に負けない国産ブランド石鹸の創製を決意し、て、石鹸
 職人の村田亀太郎や、薬剤師の瀬戸末吉らの協力を得て、
 この時、桐箱入3個で35銭の花王石鹸を発売した。
  この名前は、顔も洗える高品質を訴求して「顔」に通
 じる「花王」とした。
  また、発売当初から、中国大陸等への輸出も考慮に入
 れて、東洋第一の石鹸にしようと、桜ではなく牡丹をあ
 しらった包装紙とした。
  また、花王石鹸発売当時の原料調合ノートには、石鹸
 だけではなく、
  その後に発売された歯磨・香水・クリームなどの原料
 調合も記載されているて・・、
  長瀬富郎は、花王石鹸製造にあたって、自身で、薬剤
 師・瀬戸末吉から必要な化学知識を習得し、香料・色素
 など薬剤の調合技術を吸収していた。
  また、翌年の1891年に発売された粉歯磨「寿考散」は、
 長瀬商店の第2弾の発売商品だった。
  袋入り3銭で、外袋は、赤で輪郭をとった落ち着いた
 デザインとなっていて、背景には「まがたま」が二つ、
 組み合わせてある。
  寿は長寿を祝い、考は老でもあり古来歯の保全が人間
 の寿命に重大な関係があるものとして名づけられた。
  因みに、散は粉のこと・・、
  (産業技術史史料情報センターのホームページを参考
 にした)
1890年11月1日、日本鉄道の秋葉原~上野間が開通した。
  旅客や貨物が増加していて、貨物線を延長し、秋葉原
 貨物取扱所として、上野駅のひっ迫解消のため、開業に
 至った。
  また、上野駅周辺道路が狭隘で、同駅へ向かう旅客や
 貨物を乗せた馬車が、渋滞を起こす状態になっていた。
  このため、旅客と貨物の分離が計画された。
  当初は、上野駅からのこの貨物線を「秋葉原線」と呼
 び、秋葉原は「秋葉原貨物取扱所」と呼ばれていた。
1890年11月1日、盛岡まで延長した。
  この日、一の関~盛岡間が完成して、仙台~盛岡間が
 全通した。
  そしてまた、この日、盛岡駅が開業した。
  また、この盛岡駅前と盛岡の中心部を結ぶ開運橋が、
 この盛岡駅の開業に伴い完成した。
  この橋が尊いところは、当時の岩手県知事の石井省一
 が私費で完成させたところだった。
  温かい心の盛岡の方たちの人柄・土地柄と共に、誇れ
 る歴史的事項となっている。
  この橋は、翌年、市が買収し、その後、県に編入され
 た。
1890年11月1日、盲人教育に点字が採用された。
  点字について、日本での最初の記述は、1865年(慶応
 1年)幕府の外国奉行・柴田日向守剛中に随行した岡田摂
 倉が、パリの訓盲院を尋ねた時の日記にある。
  そして、1879年(明治12年)2月、文部省発行の教育雑
 誌第89号に掲載された在アメリカ留学生監督の目賀田種
 太郎の「パーキンス盲学校視察報告書」にある。
  現:筑波大学付属盲学校の前進である「楽善会訓盲院」
 の教師であった小西信八と石川倉次は、共に仮名文字論
 者だった。
  小西は、仮名文字、及び、漢字を凸書した教科書での
 教育の困難を見るにつけ、読むにも書くにも自由になる
 文字を工夫しなければならないと感じた。
  そして、教育博物館にあった、イギリス制点字板と、
 盲人教育に関する資料を借りて研究した。
  1887年(明治20年)に、生徒の小林新吉に教えた。
  小林は、2週間で、自由に読み書きができるようにな
 った。
  他の生徒に及ぼす影響も大きかった。
  しかし、これが、ローマ字形式での表記であったので
 小西は、同年・1887年の末、わが国の仮名に合うような
 点字の改良を、教員や生徒に依頼した。
  石川倉次は、初め6点では全文字を表すのは不可能だ
 と考え、8点点字を考えた。
  これは1・4の点の間と、3・6の点の間に1点ずつ
 加えたもので、3点四方の8点点字で濁音も含まれてい
 る。
  この8点用の点字板を製造し、生徒に使わせてみたと
 ころ「ローマ字よりも使いやすい」ということで、大変、
 喜ばれた。
  石川は、この8点に満足せずブライユの6点でよい工
 夫ができないものかと考えた。
  小西もまた、ブライユの6点で仮名を表出したいとい
 う意見であった。
  そして、再び、教員や生徒全員あげての点字翻案の業
 に努力した。
  7点・8点・9点など、多くの案が出たが、やがて、
 その中から三つに絞られ・・なおかつ・・
  1890年(明治23年)9月27日から、点字制定会が開かれ、
 この3案について、種々の角度から審議した。
  また、実験を重ねた。
  1890年の同年11月1日、の第4回制定委員会において、
 石川案の採用が決議された。
1890年11月3日、帝国ホテルが落成し、7日に開業(創業)
 した。
  東京の鹿鳴館のとなりに、帝国ホテルが、総建坪1300
 余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層、
  設計:渡辺譲、総工費:26万円、客室数:約60。
  ビリヤード台、ダンスホールを備え・・、
  室料:最下等50銭、2食付き2円50銭・・、
  1912年(明治45年)に、総支配人の林愛作が、旧知の
 アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の
 設計を依頼した。
  フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築家で、
 20世紀建築界の大巨匠。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  新館の早期完成は経営上の急務になった。
  この後、設計変更を繰り返すライトと、経営陣との衝
 突は避けられなくはなった。
  そして、当初の建設予算の150万円が・・6倍の900万円
 に膨れ上がった。
  林は、総支配人を引責辞任した。
  ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日し
 た。
  1923年(大正12年)8月末、ホテルの隣接地に新館(
 ライト館)が全館落成した。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート構造、
 地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
  皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは、総面積3万
 4千平方米余の大建築となった。
  中心軸上に、玄関、大食堂、劇場などの公共部分が
 列ねられ、左右に客室棟が配された。
  全体計画から個々の客室に到るまで、ライトのセンス
 で、最高傑作のきわめて多様な秀れた空間で構成された。
  鷲が翼を広げたような、巨大なホテルは、小部分がい
 くつも繋ぎ合わされた連結構造で・・、
  建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊が
 あっても全体には累を及ぼさない仕組みも設計された。
  また、大規模ホテルとしては、世界で初めて、全館に
 スチーム暖房が採用され、
  耐震防火に配慮した画期的な設計となっている。
  1923年9月1日、新館落成記念披露宴の準備中に、何と、
 関東大震災発生した。
  しかし、ホテルは、小規模な損傷はあったものの、ほ
 とんど無傷であった。
  変わらぬ勇姿を見せた。
  しかし、残念なことに・・その後、この名建築は取り
 壊され、
  その一部が、明治村に保存され、名建築を偲ばせてい
 る・・人類の偉大な資産で、惜しい状況となっている。
1890年11月4日、アレクサンドル・ボロディンの歌劇「イー
 ゴリ公」が初演された(マリインスキー劇場)
  アレクサンドル・ボロディンは、帝政ロシアの作曲家、
 化学者、医師。
  マリインスキー劇場 は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。
  歌劇「イーゴリ公」は、オペラで、中世ロシアの叙事
 詩『イーゴリ軍記』を題材に、1185年、キエフ大公国の
 公、イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポ
 ロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描いた。
  序幕付き4幕からなる。
  あらすじは・・序幕:プチーヴリ市内。
  イーゴリ公は、自分の土地であるルーシの町へのポロ
 ヴェツ人のコンチャークからの侵攻を防ぐため、妻ヤロ
 スラーヴナの懇願と日食という悪い前兆を心配する人々
 の反対を押し切って遠征を始める。
  第1幕・第1場:プチーヴリ市内のガーリチ公の館の中
 庭。
  イーゴリのいなくなったプチーヴリでは、ガーリチ公
 の思うがままになっていた。
  ある時、若い女性の集団が公がさらった娘を返すよう
 に請願してきたのに対し、彼と彼の取り巻きは請願にき
 た彼女たちを怯えさせ、追い返す。・・以下略・・
1890年11月7日、帝国ホテルが開業した。
1890年•11月10日、浅草十二階が竣工した。
  東京・千束町(現=台東区浅草2丁目14)に遊覧所「凌
 雲閣(りょううんかく)」が竣工し、落成式が行われた。
  八角形レンガ造りの10階の上に木造建築の2階があり、
 「浅草十二階」と呼ばれた。
  最高高さ65mで、関東大震災で消滅した(1923年)
1890年11月11日、凌雲閣(浅草十二階)が開業した。
  東京・浅草に、12階建ての塔「凌雲閣」が開業した。
  名称は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味し、浅草十
 二階、浅草凌雲閣とも・・
  発案は、写真家で東京市議会議員の江崎礼二、設計者:
 ウィリアム・K・バルトン
  東京の高層建築物の先駆けとして建築された。
  展望室からは、東京界隈はもとより、関八州の山々ま
 で見渡せた。
  高さ173尺(約52米) 、建坪37坪(122.31平方米)。
  構造10階まで煉瓦造り、11、12階は木造。
  入場料:大人8銭、子供4銭
  1階は入口階、2~7階は、諸外国の物品販売店(計
 46店舗)、8階は休憩室、10~12階は展望室。
  1階~8階にかけて、日本初のエレベータが設置され
 た。
  12階の展望室には、望遠鏡が設置され、見料は1銭。
  1891年(明治24年)5月、開業当日よりエレベータの故
 障が頻発し、使用中止になった。
  1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  地震発生時、頂上展望台付近に、12~3人の見物者が居
 た。
  福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き、全員
 が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1923年9月23日、経営難から復旧が困難であったため陸
 軍赤羽工兵隊の手で爆破解体された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズム推進派は、一部の私腹を肥やす勢力に加担している・・
    その「おこぼれ」にあずかりたいと・・
.
1872年、海洋生物学が起きた。
  1872年~1876年の『チャレンジャー (6世) 号』の世界
 周航により・・、
  海岸から外洋、そして、表層から深層にわたって、
  動物の水平的分布と垂直的分布の調査が行われ、
  これが、海洋生物学の基礎となった。
  最古の海洋生物研究機関であるイタリア・ナポリ海洋
 生物学研究所は、1872年に設立され、そして、1874年に
 オープンした。
  1888年には、イギリス海洋生物学会が創立され、そし
 て、プリマス海洋研究所もできた。
  1888年には、アメリカでも、ウッズホール海洋生物研
 究所が創立された・・など・・、
  これ等の研究所は、今でも、世界で活躍している海洋
 生物研究センターで・・、
  特に、ウッズホール海洋生物学研究所の研究は、海洋
 生物学の発展に、重要な役割を果たした。
.
1906年4月18日、アメリカのサンフランシスコで、地震と火
 災が同時に発生するという、アメリカ史上、最悪の大参
 事が起きた。
  この参事がきっかけに、日本人やアジア人系移民の多
 くが、略奪にあい、また、暴力を受けた。
  日本人移民は、明治以来、移民が行われていて、カリ
 フォルニアに集中していた。
  また、この時、アメリカ白人に、人種差別の「黄禍論」
 が始まっていた。
  暴力事件は、この様な人種差別から生まれていた。
  1906年、サンフランシスコ市(学務局)は、日本人の
 児童の「隔離教育」を決めた。
  この様な「酷(ひど)い人種偏見」に対し、当然、日
 本政府は、強い抗議をした。
  これは、深刻な外交問題へと発展して行った。
  この2年後の1908年、この問題に、アメリカ連邦政府
 も介入して来て、日本は、移民が出来ない状態にされた。
  そして、この日本の当然の人種上の抗議を・・、
  アメリカは、日本が圧力をかけて来たとして・・、
  そして、『日本を脅威する』というセンセーショナル
 な「異常な反応」をした。
  そこには、すでに、日本に、「悪意を持って対応する
 というアメリカ」があった。
.
1941年、ランドフル・フィリップ(アメリカの黒人運動家)
 が、この年、黒人の公正雇用を要求するワシントン大行
 進を組織し、成果を収めた。
  因みに、ランドルフは、1963年の戦後でも、アメリカ
 史上最大規模のワシントン大行進を指揮するなど公民権
 運動の重要な人だった。
.
1944年、アメリカのヘンリー・モーゲンソーが、ドイツの
 非軍事化、非工業化を図り、原始的な牧畜農業国家にす
 るという戦後処理計画「モーゲンソー案」を立案した。
.
1947年3月31日、GHQの戦後の占領政策に於いて、憲法の
 施行に先駆けて、教育の基本であり、且つ、「教育の憲
 法」と呼ばれた「教育基本法」と、「学校教育法」が、
 同時に成立した。
  形式的には日本の国会で可決されたが、中身は、憲法
 と同じくGHQの指導によって作られたものだった。
  この教育基本法のなかで、戦後、常に問題となり続け
 たのが「教育権」とは、一体、誰のものなのかという点
 だった。
  旧文部省(現文科省)など国や政治家は、「教育権は
 国」が持つと主張した。
  一方、日教組は、「教育権は教育現場(日教組)が持
 っている」とした。
  民法820条で、両親が「子の監護および教育をする権利
 を有し、義務を負う」と書かれている。
  「教師」と「国」と「地方公共団体」、そして、「親」
 が、「教育権とは一体誰のものか」という論点で、対立
 さざるを得ない構図が作られていた。
  このことで、「国(文部省)」と日教組は、戦後、こ
 とごとく対立した。
  この決着は、昭和50年代に至って、文部省と日教組と
 で「歴史的和解」がなされた。
  何も生み出さない、日本人同士の不毛の戦いだった。
  その最大の原因は、GHQが、「教育権」という権利
 について「誰が持っているのか」という内容を明示せず、
 あいまいにした点にあった。
.
1969年、日米繊維交渉(~1971年)
  日米繊維交渉で、日本の繊維産業が潰された。
  この様に、潰された日本の産業は多いが、この逆はな
 い。
  日本の産業のために、アメリカの業界を潰したことは
 ない。
  そして、この日米繊維交渉は、日本の毛・化合繊製品
 の対米輸出規制をめぐる交渉で、1969年~1971年に渡る
 交渉だった。
  この毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し、
 紛糾した。
  第2次世界大戦以後の日米関係において「最悪の危機的
 状態をもたらした」と言われている。
  この問題は、1968年のアメリカ共和党大統領候補ニク
 ソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
.
2003年11月、中国の胡錦濤国家主席が、「特定の大国が、
 中国に不利益をもたらそうとして、海峡をコントロール
 しようとしている」と・・暗にアメリカを非難した。
  「中国を、外国の支配から守るための新戦略を策定す
 るように」・・と、人民解放軍に要請した。
  中国は、『マラッカ海峡を封鎖されること』を恐れて
 いる。
  石油を初め、中国の死命を制する物品が、この海峡を
 通過しなければならないからで・・、
  また、中国には、過去、アメリカが、日本に対して行
 った石油禁輸措置のトラウマがある。
  (シーレーンの大切さ、重要さは、日本も十分認識し
 ているが・・)
  第二次世界大戦の開戦の重大原因となった当時、アメ
 リカは、日本を悪者に仕立てて・・、
  日本と戦争に至ること必然だという事を承知して・・
  (戦争をしたいとしたルーズベルト・アメリカ大統領
 が)石油、ガソリン、および、その他の重要な資源の対
 日禁輸措置を・・、
  それも・・石油需要の80パーセントを、アメリカに依
 存していた日本に対して実施し・・大打撃を与えた。
  その上、まだ、これでもかという悪意で、日本の船舶
 に対する『パナマ運河の通過の禁止』(パナマ運河閉鎖)、
  及び、アメリカにおける日本資産の凍結など行なった。
  世界史上、最悪の「悪名高い先制攻撃」を日本にした。
  世界は、「アメリカの先制攻撃と認識している」と言
 われている。
  中国は、これを、「歴史的教訓」として、恐れている。
.
2017年3月2日、アメリカのトランプ大統領が言った・・、
  「移民が、安全に家に帰れるよう努力したい」・・と、
  グローバル競争とは、コスト競争であり・・、
  労働力コストをどれだけ下げるかが『基本』で、
  国内から海外の発展途上国へ工場を移せば、『非常に
 安い賃金で労働力が得られる』・・、
  これがしたいと考えた『グローバリスト』たち・・、
  また、アメリカ国内であっても、メキシコなどから流
 入する不法移民を雇えば、低賃金な労働力が得られ・・、
 また、劣悪な環境下でも、好きなだけ働かせる事ができ
 る。
  不法移民を使えば、国内で超安価な生産が実現できる。
  不法な流入は・・だから、ある面・・意図的に・・こ
 の様な理由から・・意図的に行われる面もあった・・不
 法なのだが・・不正なのだが・・。
  超富裕層の利益享受の実現の為の・・やり方だった。
  しかし、この様な点には・・まったく触れずに、グロ
 ーバリズムが美しく謳(うた)われ、讃美されている。
  このグローバリズムを讃美するグループに入っている
 NHKは・・、
  グローバリズム推進派のNHKイデオロギーは、
  また、キリスト教に偏するNHKは・・巧妙に・・こ
 の点を放送した・・そして、言った・・
  「(不法移民だって)税金を払って、アメリカを支え
 ている」・・と・・、
  「その(不法)移民のどこが悪い」・・と・・、
  よくも・・国民を感情的な、センセーショナルな、薄
 っぺらい論理で、言葉だけで・・騙(だま)すものだ。
  この様な国民の洗脳を目論(もくろ)んだNHKは、
 「トランプおろしのグループに入っている」・・、
  「トランプ政治の批判をした」・・、
  NHKの巧妙なる言い方・・錯覚を起こさせる言い方
 で・・また、ごまかしの放送だった。
  アメリカで・・労働コストが破壊され、低所得者層が
 さらに拡大しているアメリカ。
  儲かるのは1%の・・ほんのわずかな超富裕層。
  その格差は拡大する一方の・・アメリカ。
  この様な事にはまったく触れないNHK。
  1%の超富裕層にゴマをすり・・1%のお金持ちが喜ぶ
 グローバリズムを讃美しているNHK。
  NHKは、「グローバリズム讃美の放送ばかりをやっ
 ている」・・、
  NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑氏を出演させ
 て、何度も何度も発言させている・・「グローバリズム
 は素晴らしい」と・・何ら『脈絡なく』発言している。
  ただただ意味ないグローバリズム讃美のオンパレード
 の話だった。
  マス・メディアと一緒になって、情報を、正しく伝え
 ないで・・ただただ、トランプおろしに躍起になってや
 っている。
  トランプ大統領だって、正規な移民の就労を否定して
 いる訳ではない。
  正規の移民が、正規にアメリカで就労し、税金を払っ
 て「アメリカを支えていること」は、当然、勿論、否定
 なんかしていない。
  ここの錯覚を訂正しないで、わざと「誇大に」「悪印
 象だけを持たせている」・・印象放送で、国民を繰って
 いるNHK。
  不法に・・大量に・・アメリカへ流入し、アメリカの
 労働市場を破壊し・・混乱させている・・不法移民が問
 題なのだ・・
  そして、その利益は・・わずか1%の超富裕層のふとこ
 ろへ流入し、格差がどんどん拡大する事に対して・・ト
 ランプ大統領は、何とかしたいと言っているのだ・・
  こんなことは・・ちょっぴりとも放送しない。
  トランプ大統領は、「正論なのである」。
  移民の方々、正規の方々を・・虐げている訳ではない。
  ここを、NHKは誤魔化すから、はっきり説明しない
 で逃げているから「不公正なNHK」なのだ。
  キリスト教が、教義を誤魔化す言い方とまったく同じ
 で、ごまかし、誤認混同させるNHKとなっている。
  しかも、それを、センセーショナルな言い方で放送す
 るから始末が悪い・・まったく公正でない、公共放送と
 して失格のNHKである。
  NHKはこんな事ばかりしている。
  アメリカを本当に支えた中流層は・・1%の超富裕者層
 に食われて・・居なくなった。
  日本も・・中流層が崩れている。
  他山の石ではない。
  高い給料を貰って居るNHK職員は安泰(あんたい)
 なのだろうが・・?
  アメリカは、この様なことを、南北戦争の後でもやっ
 た。
  悪いのは「アメリカ南部だ」と言いながら・・アメリ
 カ北部の工場経営者たちは、南部のプランテーションの
 経営者と一緒になって・・組んで・・奴隷解放前の状態
 に戻したいと・・戻そうと、黒人の方々を虐げた。
  安い労働力をアメリカ北部の工場で使いたいというハ
 レンチな行動をした。
  何が、北部だけが、奴隷解放したと言うのか?
  南部の方々だけを悪者にして・・?
  トランプ大統領は、メキシコからの不法移民が麻薬を
 持って来ることにも苦慮している・・このことに、NH
 Kは触れない・・。
  トランプ大統領が言った、「アメリカが法を維持し、
 国境を守らなかったために、雇用や収入(を失った)、
 そして、愛する人を失ったアメリカの家族に対して、
  あなたはどう言うのですか?」・・と・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-04-29 04:02 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月24日、貴族院初代議長に伊藤博文が就任した。
  貴族院の議長は、内閣の輔弼(ほひつ、天皇陛下への
 御進言をすること)により天皇陛下から勅任されること
 となっていた。
  任期は7年。
  1947年(昭和22年)5月2日まで続いた。
  因みに、
  2代:蜂須賀茂韶  (1891年 7月~1896年10月)
  3代:近衛篤麿   (1896年10月~1903年12月)
  4代~8代:徳川家達(1903年12月~1933年 6月)
  9代:近衛文麿   (1933年 6月~1937年 6月)
  10代~11代:松平頼寿(1937年6月~1944年9月)
  12代:徳川圀順  (1944年10月~1946年 6月)
  13代:徳川家正  (1946年 6月~1947年 5月)
1890年10月27日、日本初のエレベータが、浅草に登場した。
  幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文
 亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフ
 トのようなエレベーターがあったという・・、
  日本初の電動式エレベーターは、写真家で、また、東
 京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、
  文明開化で、外国に追いつき追い越せと努力する日本
 の東京での高層建築物(浅草の凌雲閣・りょううんかく)
 12階建ての建物に設置された。
1890年10月30日、教育勅語を発布
  『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)が発布された。
  (氷川清話)教育勅語が出来る。
  「忠」と「孝」が基本思想。
  この日、議会の招集に先立ち、「教育に関する勅語(
 教育勅語)」が発布された。
  抜粋・・、
  「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、
  夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
  つつしみ深く、高ぶらず、
  民衆に広く愛をおよぼし、
  学問を修(おさ)め、技術を学び、
  かくして知能を向上させ、人格を完成し、
  進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)
  国家や社会に危急のことが起こった時は、進んで公共
 のために尽(つく)くさなければならない」。
  教育ニ関スル勅語は、明治天皇陛下が、山縣有朋内閣
 総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与え
 た勅語。
  この教育勅語は、アジアの国で取り入れられている。
  この教育勅語は、戦後のGHQの思想の変革方針によ
 って廃止された。
  (1948年・昭和23年6月19日、国会決議により廃止、
  形は民主的な形で、そして、日本が自主的な判断をし
 た形にしている)
  メディア・ネット情報などは、当然、アメリカを美し
 くたてている。
  そして、戦前のものはすべて悪いという言い方になっ
 ている。
  アメリカは良くて、日本については悪い事しか言わな
 いメディアの状況となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:シベリア抑留は不適切である・・拉致である・・
.
紀元前8000年頃、縄文早期
紀元前3500年頃、縄文後期
  日本の縄文時代が見直されている。
  日本の縄文時代は、思ったよりも進んだ社会だった。
  思った以上に凄かった。
  縄文時代は、農耕以前の時代で・・、
  「貧しいながらも、平等な社会だ」という以前のイメ
 ージが、変わって来ている。
  1996年~2003年に、東京都東村山市の下宅部(しもや
 けべ)遺跡を発掘・調査すると・・、
  大量の漆製品や木製品、そして、未完成の丸木舟など
 工業的に進んだ製品が出土した。
  この良質な保存状態は・・この地の豊かな地下水のた
 めに・・良好な保存状態が保たれていた。
  また、この遺跡では、縄文後期(紀元前3500年頃)の
 「編みかご」が50点以上も出土した。
  この「かご」は、カシ類などの木の実を水につけるた
 めに使ったと見られている。
  ここ数年で、縄文のかご類の研究は、飛躍的に進んで
 来ていて、かごの素材の特定や、編み方の解明が進んだ。
  そして、潰れたかごの状態から、元の形状が復元でき
 る様にまでなった。
  この遺跡のかごの素材は、「アズマネザサ」と推定さ
 れ、上部がくびれ、土器に似た姿と解明された。
  また、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文
 早期(紀元前8000年)のかごが、700点以上も出土した。
  編み方に、様々な装飾技法が用いられていて・・、
  縄文人が、早い段階から知的な完成度の高いかごを作
 っていたことが分かった。
  また、縄文中期は、華やかな装飾の土器が作られ、三
 内丸山遺跡(青森市)のような大集落が営まれて、縄文
 文化は、高度に華やかに繁栄していた。
  縄文時代の後期や晩期は、遺跡が小規模化した。
  数も減り、土偶や祭祀具(さいしぐ)が発達した。
  そして、動植物や古人骨の研究も相まって研究された。
  その結果・・、
  集落は、小規模化しながら、食料や土器、貝製装飾品
 などの生産が集落ごとに分業化され、『集落間でのやり
 とりが活発に行われていた』。
  土器や石器などの生活道具、食料の『生産』や『流通』
 が活発に行われていた。
  この事を見ても、後期や晩期に、文化が衰退した根拠
 はない。
  寒冷化にはあったが、危機を分散することで、資源が
 絶えないようにして、『高い回復力を持つ社会を築いて
 いた』と考えられる。
  日本の縄文時代は、地域で文化の違いのある各々が特
 徴を持った時代だった。
  (読売新聞、2017年4月5日を参考にした)
.
1552年1月29日、キリスト教宣教師のザビエルは、日本人の
 優秀さにびっくりし、
  また、その日本人の優秀さの故に、キリスト教の宣教
 に、大分、苦労した。
  日本の各地を、ザビエルが布教するとき、日本人の多
 くが、ザビエルに質問したことは・・、
  「そんなにありがたい教えが、なぜ、今まで、日本に
 来なかったのか?」だった・・そして・・
  「そのありがたい教えを聞かなかった私たちの祖先が、
 今、どこで、どうしているのか?」・・だった。
  つまり、「自分たちは救われると言うが・・そして、
 救われたとしても、ご先祖様の方たちはどうなるのか?」
 ・・と・・、
  この思いやりのある優しい日本人の質問、そして、疑問・・、
  それは、キリスト教への最大の「理屈に合わない弱点」
 への疑問だった。
  キリスト教は、キリスト教徒になれば天国へ行けると
 説いているので、ザビエルは、その様に答えた。
  つまり・・結局、ザビエルの答えは、ご先祖の方たち
 は救われない・・故に、天国で会えない・・となった。
  そして、また、キリスト教の説く・・ご先祖の方たち
 は地獄となる・・と知った日本人は、さらに・・
  「すると、あなたの信じている(キリスト教の)神様
 というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないか」・・
 と、
  「全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救
 ってくれてもいいではないか」・・と、
  ザビエルは・・答えに窮した・・
  ザビエルは困り、そして、本国への手紙で・・
  「日本人は、文化水準が高く、よほど、立派な宣教師
 でないと、日本の布教は苦労します」・・と・・、
  この当時、ザビエルは、中国でも、韓国でも、インド
 シナでも、こうしたキリスト教の急所を突く質問を受け
 たことはなかった。
  1552年1月29日のザビエルの手紙(インドのコーチンか
 らローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父へ宛てた手紙)
  「(日本人の)質問に答えるために、学識のある宣教
 師が必要です。
  特に、哲学がよくでき、弁証法に優れた人で・・、
  (僧侶との討論で)明らかになる矛盾をすぐにとらえ
 ることができる人が必要です。
  ボンズ(宣教師)は、矛盾を指摘され、答えに窮する
 ので、いたく恥じ入ります。
  (日本では)さまざまな苦労に(耐えてゆかねばなら
 ない)ので、年老いた人に適した土地ではありません。
  また、(実社会で)大いに経験を積んだ者でない限り、
 若い人にも不向きです。
  なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに、
 自分自身が滅びてしまうからです。
  日本の地には、さまざまな乗り越えるべき事柄があり、
 それに陥る危険があります。
  (日本人の行為を)とがめる(宣教師を)日本人は、
 よく観察しています。
  それ故、(宣教師の)ごくわずかな(欠点)がつまず
 きとなります。
  私は、これらのことについてシモン神父、もしも彼が
 不在の時には、コインブラの院長にあてて詳しく書きま
 す・・中略・・
  日本の地は、(宣教のために)どんなに苦労をしても
 報いられます。
  それで、あなたが聖なる徳を備えた人物を、日本へ派
 遣してくださるよう、心から望んでおります。
 ・・(後略)・・
  因みに、ザビエルは、日本語が話せなくて、インドに
 来ていた日本人を、日本へ連れ戻して行って、日本での
 話の時は、その日本人に話させていた。
  その時、ザビエルはは、脇に、ただ立っているだけで、
 無言だったという(ぼーっと立っていただけだという)。
.
1863年11月19日、リンカーンが演説で、「government of
 the people, by the people, for the people 」・・
 「人民が、人民のために、人民を統治すること」と演説
 した。
  リンカーン・アメリカ大統領が、「人民による、人民
 への政治」と言った。
  しかし、この・・「リンカーンの『人民』の中」には、
 黒人の方々は、入って無かった。
  黒人の方々を、まったく入れる気の無いリンカーンだ
 った。
  『人種差別主義者のリンカーン』は、卑劣にも、黒人
 の方々をアフリカへ棄てたいとしていた・・そして、ア
 フリカのリベリアへ棄てた・・棄民した。
  また、リンカーンは、幼い時に、目の前でお爺さんが
 インディアンに殺されたことから、インディアンの方々
 に対して「非常に強い復讐心を持っていた」。
  大きくなって・・その行為が現れる・・
  リンカーンは、青年期に、弁護士になって、この復讐
 を果たそうと、インディアンの方々の土地を取り上げる
 事に奔走した。
  今、その書類の多くが残っている。
  法律に疎遠なインディアンの方々に対し、赤子の手を
 ねじるが如くに、インディアンの方々のものである土地
 を取り上げて行った。
  また、大統領になってからも、インディアンの方々の
 掃討を命じ、虐殺行為がなされている。
  また、厳寒期の厳しい寒さの時期に、わざわざ、イン
 ディアンの方々の「居留地を移動をする」ことを命じた。
  「遠くの道のりを歩かせる移動を命じた」。
  体の弱い方々、インディアンの御老人や赤ん坊の多く
 が亡くなった。
  こんな人物を、北部アメリカは、記念堂を造って、奉
 っている。
  北部アメリカ政治が・・プロパガンダしている。
.
1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結された。
  特許などの工業所有権に関する国際的な基本原則が定
 められた。
  (参考)工業所有権は、特許権、実用新案権、意匠権、
     商標権・・などをいう・・
  人間の富の形態の一つである知的行動の産物・・
  この人間の富、ここにも・・他人の富を奪ってまでし
 もて、自分さえよければ良いと説くキリスト教の影響が
 働いた・・、
  キリスト教国・アメリカが、日本の「光ファイバーの
 大発明」などを奪った。
  世界のどこの国もが、おかしいと言っているのにもか
 かわらず・・
  『先発明主義』という珍奇な考え方を持ち出して奪っ
 た。
.
1944年9月20日、アメリカで、戦後のドイツの取り扱いを決
 める会議が開かれた。
  アメリカの・・卑劣な「国レベル」での復讐案だった。
  懲罰的色彩の強い「眼には目を」の復讐案がアメリカ
 で練られた。
  ドイツの国は、「北ドイツ」と、「南ドイツ」と、「
 国際監視域」の三分割とされた。
  「ドイツは、二度と工業力を与えてはならない」だっ
 た。
  ドイツには、牧草だけが生える「原始的な牧畜・農業
 国家」だけが許される・・という案だった。
  アメリでも、その過激さに、言葉を失う者も居たとい
 う・・その様な案の異常さだった。
  アメリカの・・戦後のドイツの扱いを検討する特別閣
 僚委員会だった。
  アメリカの国務長官・ハルは、怒りで顔を真っ赤にし
 ていた。
  1944年9月20日の事だった。
  案の提案者・主導者は、ルーズベルトの親しい友人だ
 という財務長官のヘンリー・モーゲンソーだった。
  内容は、あまりにも過激だった。
  しかし、モーゲンソー案は、ルーズベルトとチャーチ
 ルが承認を与えていた。
  カナダ・ケベックの米英首脳会談で、承認されていた。
  モーゲンソーは、「OK、ルーズベルト、チャーチル」
 の承認サインを見せた。
  誰も、反論は・・出来なかった。
  「二度とドイツに工業力を与えない」という嫌悪感を
 感じさせる強い懲罰案だった。
  ドイツの工業地帯を徹底的に破壊するというキリスト
 教の『完全破壊のシャローム』の案だった。
  「すべてを破壊して、そして、平和に至らす」という
 全アメリカ大陸のインディオ絶滅の前例の如くの迷信教
 義に影響されていた。
  ドイツ人のすべてが、農業・牧畜に従事するという案。
  またこれで、第三次世界大戦が起きるという案だった。
  国務長官・ハルは、ずばり・・
  「復讐と言うほかない」・・と言った。
  復讐の鬼と化したアメリカの意識が反映した『モーゲ
 ンソー案』だった。
  モーゲンソーは書いた・・、
  「ドイツ人は、総べて敗者であると認識するべきだ。
  餓死させないぐらいの軍のキャンプのスープを、日に
 三度、与えるだけで十分」・・とまで表現した。
  アメリカ国民の方々は、びっくりした・・この過激な
 案を知って・・そして、承認したルーズベルトに、非難
 を集中させた。
  当時、ルーズベルトは、4期目を目指す大統領選挙キャ
 ンペーン中だった。
  ルーズベルトは、モーゲンソー案を承認してから2週間
 後に、記者会見をして・・『申し開き』をした。
  そして、正式に、「ドイツの戦後案を白紙に戻す」と
 言明した。
  ルーズベルトは、撤回後、卑劣な言い訳をした・・
  「モーゲンソー案の内容を知らないまま承認してしま
 った」。
  モーゲンソーの『へま』にやられた・・と言い訳を
 言った。
  卑劣な嘘で・・モーゲンソーに失敗を擦(なす)り付
 ける言い訳だった。
  また、アメリカ国民の方々を『誤魔化す言い訳』だっ
 た。
  日本の真珠湾攻撃という偽りの「卑劣な汚名」を作り
 出した嘘つきのルーズベルトの人間性を表わす、これも
 その一例となった。
  実際、モーゲンソー案は、ルーズベルトの強い支持を
 受けていたのは「動かしがたい事実」だった。
.
1945年7月14日、釜石の艦砲射撃で773人が死亡した。
  アメリカなど連合国軍が、3隻の戦艦を主力とした9隻
 の艦隊が、日本製鉄釜石製鉄所を主目標として、艦砲射
 撃を行った。
  一般市民の423人の方々が死亡した。
  日本側は、釜石湾で、第221号海防艦と第48号駆潜艇が
 応戦した。
  第48号駆潜艇は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、湾内
 の千鳥島付近で沈没した。
  また、1945年8月9日に、二度目の攻撃があった。
  攻撃したのは1回目と同じ艦隊で、一般市民の271人の
 方々が亡くなった。
  この時は、最初、山側に射撃し、平地へ逃げて来た一
 般市民の人たちが、今度は、艦載機の機銃掃射で殺され
 た。
  これは、完全に、一般市民を目標とした攻撃だった。
  翌日の8月10日も、また、艦載機の攻撃を受けた。
  一般市民の犠牲:694人、軍人軍属:30人、捕虜:32人、
 合計756人の記録がある。
  攻撃艦隊は、アメリカ14隻、イギリス5隻、合計19隻の
 記録がある。
.
1945年8月2日、戦後ベルリンの学校改革(~1948年)
  連合国によるドイツ占領軍政は、軍事的保障占領を基
 礎としつつも、一定の政治目的を実現するための軍政と
 して行なわれた。
  その逮合国の占領ドイツにおいて達成しようとする政
 治目的は、1945年8月2日に、連合国間で合意に達したポ
 ツダム協定に明らかである。
  アメリカは、ドイツが、二度と復讐を思いつかない様
 にという名目で、教育改革をした。
  「ドイツの復讐を思いつかないようにする新教育制度
 をつくる」などと傲慢なことをするアメリカだった。
  これこそアメリカの復讐だった。
  ドイツの一部の組織(軍など)の責任を、ドイツの人々
 の全員に転嫁したアメリカの「間違った受け取り方」だ
 った。
  その様な解釈をするのなら、その様なドイツにしたヨ
 ーロッパ、そして、アメリカにも責任がある。
  1946年8月下旬~9月上旬にかけて、ドイツの「アメリ
 カ占領地区」の教育事情を視察した対独アメリカ教育使
 節団の報告書には、次のような報告がみられる・・、
  「すべての教員の半数以上が非ナチ化によって解雇さ
 れた。
  解雇される状態が、現在より軽減されたとしても、教
 員の補充は準備がととのっていない。(中略)
  初等教育機関の教員の補充の必要性が非常に大きい。
  従って、現在、緊急の養成計画が最も重要である。
  占領地区各州は、それぞれこれらの緊急の養成計画を
 立案している。
  1年次は大学、2年次は教育実習、3年次は再び大学での
 学習を要求している。
  一つの計画は、緊急の必要に充分まにあうように思わ
 れる」。
  これらは、問題点をすべて相手(ドイツ側)へ転嫁し、
 ナチスというレッテルを貼って、だからすべて悪いとし、
 自分のお好みに作り代えるという「立ち入った強行策」
 が行われた。
  強いアメリカは、腕力で相手をやっつけ、腕力で従わ
 せたら、戦争原因でないことまで、なんだかんだと言っ
 て、相手を自分のお好みに変えた。
  国レベルの『ガキ大将』行為という状況だった。
.
1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が、シベリア抑留
 について、謝罪の意を表明した。
  この不法行為が、シベリア抑留と記され、そして、言
 われているが『適切な言葉ではない』。
  抑留とは、「強制的にその場所に抑え留める事」とあ
 るが・・、
  しかし、この日本人を連れて行ったソ連の行為は、『
 日本人の拉致行為』である。
  拉致:らち、無理に引き連れてゆくこと・・とあるが、
 これである。
  犯罪行為である。
  ソ連の正当性は、まったくない。
  「日本軍捕虜だ」とソ連は言ったって、戦争が終わっ
 た後、戦後になって、攻めて来たのだから・・、
  戦争は終わっている状況の中で、攻めて来た・・故に、
 ソ連の言い訳は『成立しない』。
  捕虜ではない。
  また、戦闘行為をしていない民間人も連れて行ってい
 るのだから『拉致』であり、犯罪行為である。
  『隷属的な強制労働の目的』のために連れて行った犯
 罪である。
  ソ連は、日本へ『戦後補償する必要がある』。
  この問題が未解決である。
  この件についての・・話を付けよ!
  シベリア開発をさせようという魂胆で、日本人を強制
 的に拘禁して、
  (拘禁、こうきん:捕らえて、その者の身体を継続的
 に拘束すること)・・この拘禁なのである。
  57万5000人もの方々を、シベリアへ連れて行った。
  この非人道的な行為を、筋の通らない行為をソ連は行
 なった。
  劣悪な環境下で、5万5000人もの日本人の方々が亡くな
 った。
  この様な悪行為を、アメリカも、イギリスも、正そう
 とはしなかった。
  見過ごして・・見て見ぬふりをした。
  逆に、アメリカは、ソ連へ武器を渡した・・供給した。
  中立状態のソ連へ、武器を渡して『そそのかした』。
  そのアメリカの卑劣な行為によって、日本人は攻めら
 れ・・日本人たちは拘束されて行った。
  杉原千畝の嘘話どころではない、55万人以上の話なの
 である。
  卑劣な、そしてまた、攻める武器を渡す行為などをす
 る同罪のアメリカ・イギリスなどだった。
  卑劣な連合国の諸国だった。
  この悪行為で5万5000人もの日本人が殺され、また、亡
 くなった・・
  この行為に対して、はっきりしたソ連の謝罪はない。
  ソ連の手を逃れた日本人は、無事に、日本へ帰って来
 れているのだ。
  ソ連は、戦争が終わったので、逆に、『保護をすべき
 立場だった』のだ・・ソ連の保護行為はまったく無い。
  また、ソ連は、連れて行った、拉致して行った日本の
 方々を、中々、解放しなかった・・
  長期に使役した。
  釈放せず、捕まえたままで、連れて行ったシベリアで、
 長々、不法に捕まえた日本人を、劣悪な環境下で、重労
 働をさせた
  鉄道建設などの重労働で死んで行った日本人たちは、
 どれほど痛ましかったか・・、
  この不法な拉致期間は、最長で11年にも及んだ・・11
 年間も重労働をさせた。
  日本人の一般人に対して、ソ連の犯罪性は、はっきり
 している。
  また、この行為は・・武装解除した日本兵について、
 ソ連がしたこの様な行為は、「ポツダム宣言に反してい
 る」。
  ポツダム宣言は、「復帰を保証している」ではないか・・、
  1993年10月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は、
 「非人間的な行為」と謝罪の意を表明したが、
  『はっきりとした謝罪と、その補償を要求する』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-04-25 03:25 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月9日、フランスのクレマン・アデールが、20馬力
 の蒸気機関を装備した単葉機「エオル号」を製作した。
  アデールは、フランスの軍人であり、電気技術者でも
 あった。
  アデールのこの飛行機は、地面から浮き上がり、飛行
 距離は50メートル・・と・・主張した。
  しかし、実際は50メートル走っただけのようで、「初
 飛行」とは認められなかった。
  また、アデールは、1892年に2号機、1897年に3号機を
 作って、飛行に挑戦したが、うまくいかなかったようだ。
  有人飛行機の初飛行は、13年後の1903年12月17日のラ
 イト兄弟まで待たなければならない。
1890年10月12日、イギリス人のスペンサーが、横浜で落下
 傘を実演した。
  これは、軽気球実演で、横浜公園で、イギリス人のパ
 ーシバル・スペンサーが、風船(軽気球)に乗り、落下
 傘で降下する実演を行った。
  飛行は、午後2時と予告されていて・・、
  観覧場は、有料席が設けら、料金は、一人50銭〜2円。
  少し高額の入場料のため、売上は芳しくなかった。
  それでも・・800円の売上があった。
  音楽隊の演奏がされて、その音楽が流れる中、直径28
 尺(約9m)あまりの気球にガスが入れられた。
  ガスの充填の間、獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれ
 た紙製のミニ気球が打ち上げられ、客を飽きさせない様
 になされた。
  ガス充填が完了して、4時48分、気球は一気に上昇し、
  あっという間に上空(約1,000メートル)に到達した。
  そして、気球で上昇したスペンサーは、パラシュート
 で飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立った。
  そして、すぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に
 現れ大喝采を受けた。
  この男は、ロンドンに生まれ、祖父から軽気球の製造
 を引き継いだ。
  そして、シンガポール、バタビヤ、香港など、当時の
 イギリス植民地を中心に、軽気球ショー巡業をしていて、
  そのショーの途中、来日し、横浜を手始めに8回実施し
 た。
  日本政府に対して、飛行計画をちゃんと申請して行っ
 た。
  巡業日程は、1890年10月12日(日)横浜公園
  10月19日(日)横浜公園(第二回)
  11月 1日(土)神戸居留地
  11月12日(水)天覧(二重橋外)
  11月24日(月)上野公園
  11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
  12月14日(日)京都御所博物会場前
  日時不明・・・長崎
1890年10月20日、元老院が廃止された。
  1875年(明治8年)4月14日のいわゆる「立憲政体を立
 つるの詔(漸次立憲政体を立てるとの詔勅)」に基づい
 て、、
  それまでの太政官左院に代って立法機関として設立さ
 れた。
  (1875年1月の大阪会議で、立憲政体への移行の合意が
 成立していた)
  同時に、地方官会議や、
  右院に代って司法機関として大審院(だいしんいん)
 がおかれ、残置された正院とともに三権分立の形式がと
 られた。
  立法機関としては、法典編纂を主とした左院があった
 が、これが廃止されるとともに、欧米諸国の議会の上院
 になぞらえて元老院が設けられていた。
  元老院は、議長、副議長および議官からなり、書記官、
 書記生が事務を分掌し・・、
  新法の制定と、旧法の改正を議定することを基本的権
 能としたが、
  議案は、内閣から下付され、急を要する場合は、便宜
 布告後、検視に付する(事後承認を求める)など、立法
 権はきわめて弱かった。
  1890年10月20日、帝国議会が開設されるため廃止され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実なれ!!・・あまりにも、不誠実ではないか 💢(`(エ)´)💢 💢
.
1597年2月5日、キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を
 仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。
  この間違い教義によって、多くの方々が、多くのキリ
 スト教信徒が自死した・・自殺した。
  まったく可哀想なことである。
  キリスト教は、死ぬことを美化した。
  まったく卑劣である。
  このキリスト教の間違った「思い込ませ」で、何人の
 若者たちが、信徒の方がたが、自ら命を絶ったことか?
  キリスト教は、死後を美化する、そこで若者が死を選
 ぶ。
  これからの人生を絶つ。
  厳しく糾弾されるべき「キリスト教の悪行為の一つと
 なっている」。
  キリスト教は、幼少期の子供たちの童話として「フラ
 ンダースの犬」を推奨しているが、読むことを説いてい
 るが、
  この様な子供たちへも「死を美化した話で洗脳してい
 る」。
  この話は、キリスト教のイエス像の絵の前で死ぬ主人
 公と犬が、ともに天国へ行くと美化して終わる話となっ
 ている。
  いたいけな子供たちが・・幼児の時から死ぬ行為を美
 化された話で洗脳され、聞かされて来る・・洗脳された
 長い期間・・それを繰り返し・・死を美化されて・・死
 に憧れるマインド・コンロロールをキリスト教は行なう。
  この死への憧れは、キリスト教は、昔からやって来た。
  日本では、キリスト教の渡来から・・そして、豊臣秀
 吉のころから・・、
  日本を植民地化しようというキリスト教の影の企みを
 知った秀吉は、キリスト教を禁教にする。
  秀吉の指示の通り「国外退去に応じれば」、何も起こ
 らない優しい日本であったが、
  その指示に背(そむ)いて、違反し・・日本に潜伏し・・
 指示に従わないで日本に潜伏した宣教師たちは、日本の
 法を犯して、法違反者となって宣教する。
  弾圧なのではない・・法に違反する者たちを「取り締
 まった」のである。
  キリスト教は弾圧だというが、法に従わなかったキリ
 スト教が悪いのである。
  長崎の二十六聖人(1597年2月5日)なんて「法違反者
 なのである」。
  その取締りの中で・・卑劣にも・・キリスト教は、殉
 教をマインド・コントロールする。
  キリスト教宣教師たちは、卑劣にも、日本の信徒へ殉
 教する事を勧める。
  だから、故に、何と! 子供を連れて出頭して来る日本
 人のキリスト教徒まで現れるという始末だった。
  キリスト教は、この様に、死後に憧れさせて、自死す
 ること・自殺することを美化した。
  殉教だという美辞麗句を刷り込んだ。
  そのようなキリスト教の悪行が、今・現代も行なわれ
 ていて、天国への道に美があると洗脳し、信仰する目的
 があると洗脳し、マインド・コントロールする。
  この事によって、自死するキリスト教徒の若者の多い
 ことを憂える。
  自死する宗教となっているキリスト教。
  自死させる宗教となっているキリスト教。
.
1809年2月12日、リンカーンが生まれた。
  リンカーンは、大きくなって、弁護士になり、白人だ
 けに都合の良い法律を盾(たて)にとって・・
  白人の法律なんて何も知らない先住民のインディアン
 の方々へ・・、
  また、白人の法律なんて何も関係のない先住民のイン
 ディアンの方々へ・・その方たちの土地を取り上げて行
 った。
  『これが正義なのだ』・・と・・キリスト教とまった
 く同じ考え方で・・キリスト教の神の正義なのだと・・
 キリスト教徒が、隣国の富を奪うがごとくに・・この様
 なやり方で・・、
  弁護士となったリンカーンは・・あたかも、自分だけ
 が銃を持ったものの様に・・法律を振りかざして・・イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げて行った・・
  リンカーンの子供の頃に・・目の前で殺されたお爺じ
 いさんの仇(かたき)を取って行った。
  この様な事を・・アメリカ資本に乗っ取られた日本の
 テレビは・・そして、メディアは・・まったく触れない・・
 隠す・・
  卑劣な事である・・日本の方々を・・それで洗脳する・・
  キリスト教徒の芸人が・・面白、おかしく話をする。
  経営者がキリスト教だということで・・この芸人集団
 は・・キリスト教に偏する行為を、テレビを利用してよ
 く行う・・
  そして、キリスト教に偏するNHKに・・かわいがら
 れる・・良く出演させてもらえる・・
  この行為は・・アメリカでは「巧妙なるキリスト教の
 伝道行為」と言われ・・裁判となっている事例が多いと
 いう行為で・・温厚な日本を馬鹿にしている・・、
  このリンカーンという男が・・何人の黒人の方々を、
 アフリカに送って・・棄民をしたかも・・まったく触れ
 ない・・
  そして、インディアンの掃討を命じたり・・
  厳寒期に、死者が多数出ると分かっている命令・・イ
 ンディアンの方々へ、居留地の移動を命じたり・・こん
 な事には・・まったく触れない・・
  そして、南北戦争は、奴隷を解放しようとする北部と、
 奴隷を解放しないとする南部との戦いだという嘘で美化
 する。
  これは、アメリカの政治を牛耳る北部を「美しく仕立
 てすぎているアメリカ北部美化路線」・・これに、まっ
 たく乗っかっている。
  これは、何故、リンカーンが暗殺されたかを見ればわ
 かる。
  まだまだ、アメリカは、イギリスの従属国的であった。
  リンカーンは、金を自国で発行しようとした。
  つまり、イギリス金融資本家が、もうからない様な政
 策を取ろうとした。
  暗殺の理由だった。
  南北戦争の時も・・アメリカへ・・戦費が、イギリス
 金融資本から流入した。
  このところが・・南北戦争が起きた原因だった。
  まだまだ、可哀想に・・黒人の方々は、奴隷という地
 位に虐(しいた)げられていた。
  この時、奴隷解放という政治的宣言をする段階にあっ
 た。
  黒人の方々の「活動や努力」でその様な段階にあった
 のだ・・
  そこに、リンカーンが居ただけで・・リンカーンの政
 治的な理念からではなかった。
  だからと言って・・その宣言がなされたからっと言っ
 て、その路線にすんなり行ったわけではなかった。
  北部の工業資本家も・・安い労働力が欲しく・・そし
 て、安い労働力の黒人の方々を欲していた・・
  何も、南部のプランターの経営者だけが、悪者ではな
 かった。
  アメリカ北部も南部も、黒人の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  だから・・南北戦争後になっても、北部の工業資本家
 と、南部のプランターの経営者たちが・・手を握って・・
 奴隷解放路線の揺り戻し・寄り戻しの行動を・・共同し
 て取った・・このことが何よりの証拠である。
  こんなことを、今・現在、アメリカ資本に牛耳られて
 いる者ども・メディアは、少しも触れない。
  従来の嘘つき路線、プロパガンダ路線で、日本の方々
 を洗脳しようとしている日本のマス・メディアである。
.
1842年11月4日、リンカーンの結婚式の日(リンカーン33歳)
  リンカーンは、「結婚をしようとも思っても居ない相
 手」に、その相手の女性に、積極的に結婚を求められて、
 結婚する事にした。
  しかし、結婚式の直前、逃げ出す、姿をくらます。
  数年間という長い期間、逃げ回っていた。
  しかし、ある日、偶然にその女性に出会わす。
  そして、その数日の後に結婚する。
  ここには、まったく、リンカーンにはイニシアティブ
 が無い、リンカーンの意志はない。
  リンカーンの奴隷解放宣言も、まったく、「これと同
 じ」。
  しかし、今、リンカーンは、美しく祭り上げられてい
 る。
  最後の階段を登らねばならない状況において、その階
 段を昇ったら、「奴隷解放宣言だった」という状況だっ
 た。
  そのような事実は、すべて、まったく、隠されている。
  アメリカ北部の政治主導のシンボルとして祭り上げら
 れ、プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
  リンカーンの配偶者の名前は、メアリー・トッド・リ
 ンカーン。
  1842年、メアリ・トッドは、自分の家族・親戚にも、
 11月4日の結婚式の当日の朝まで、リンカーンとの結婚の
 ことは口にしなかった。
  ウイッグ党の機関紙「サンガモ・ジャーナル」の編集
 長の妻サイメオン・フランシスの勧めで、秘密裏に交際
 を再開した二人だったが・・、
  11月4日の朝に、結婚の話を聞かされたメアリの妹エリ
 ザベスとその夫、ニニアン・エドワードは・・
  「もうこうなったらしょうがない。
  式をあげるのなら、やっぱりこの家しかないでしょう」
 と言い、自分たちの家で、式をあげさせた。
  その夜、二人は、週4ドルのホテル「グローブタバーン」
 に移り、そこに2年間住んだ。
  駅馬車の駅兼宿屋だった。
  2階にある家具つきの部屋で寝て、食事は、階下の共同
 食堂でとった。
  夜になると、リンカーンは、よく食堂で、誰かれとな
 く話しこんだ。
  すると、階上から・・リンカーンを呼ぶメアリの咳払
 いの声が聞えて来た。
  ある日は、夜中まで聞えて来ることもあった・・つま
 り、リンカーンは、新妻をほったらかしにして、夜中ま
 で話しこんでいた。
  ある朝は、怒ったメアリが、食堂でリンカーンの顔に
 熱いコーヒーをぶっかけた。
  そばにいた間借り人が、リンカーンの顔を拭(ふ)い
 て、、やけどの手当てをしたという。
  鬼嫁だった・・すれ違い夫婦だからやむを得ないか・・?
.
1882年4月19日、ダーウィンが没した(73歳)
  チャールズ・ダーウィン(1809・2・12~1882・4・19)
  神を乗り越えた「ダーウィン」。
  「種の起源」を書いたダーウィン。
  彼の頭には「ある想い」があった。
  彼の父親は、キリスト教聖職者だった。
  彼の想いを気付き、研究時間を持ちたい息子に、父は
 言った、「キリスト教聖職者になりなさい」・・と。
  それは、親として息子に、自分の職業を継がせたいと
 いう事ではなく、息子が研究にいそしむ姿を見て、その
 息子が欲しいであろう「研究のための時間」が得られる
 というのが、ダーウィンの父の考え・思いだった。
  父は、ダーウィンへ言った、「キリスト教聖職者にな
 れば好きな研究のための時間がいっぱい得られる」と。
  ダーウィンは、キリスト教聖職者になった。
  そして、キリスト教教会の中庭に、研究のための畑を
 造ったりした。
  ダーウィンの想いは、「生物の種は神の創造だという
 当時の常識を打ち破らんとした」。
  それは、彼の著「種の起源」の書きぶりを見て、また、
 読めば・・明らかだ。
  彼の凄さは、大陸が移動するという「プレートテクト
 ニクス理論」が、まだ知られていない時代に、
  また、「DNA理論」も知られぬ時代に、
  種の分化や自然淘汰の原理、大陸や海洋の歴史と種の
 地理的分布の関係などを、当時の知識で正しく見通して
 いた。
  空恐ろしいまでの凄さで、進化論を認めないのは、万
 有引力の法則を認めないのと同じだと言っている。
  また、天動説を認めないのと同じだと言っている。
  ダーウィンは、19世紀に、非科学と戦った。
  そこには、キリスト教を例外とせず、キリスト教も入
 っていた。
  今や、彼の主張するところは、動かしがたい事実とな
 っている。
  彼・ダーウィンは、最初の意気込み通り、「キリスト
 教の神を乗り越えた」のだった、
  「キリスト教の神の創造思想」を乗り越えた。
  「種の起源」の生命は、尽きることない真実を示し続
 けている。
  キリスト教の神が作ったもの、創造したものは不完全
 で・・
  だから、故に、進化するのだという、当時では認めが
 たい真実が、正しい科学的な事柄なのだと、
  キリスト教の神の創造説を、キリスト教の教義の大根
 源から崩れることを・・証明したのだった・・
  キリスト教の根源の教理を・・覆し、否定したのだっ
 た。
.
1903年12月17日、ライト兄弟が、ノースカロライナ州キテ
 ィホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて、12馬力のエ
 ンジンを搭載したライトフライヤー号によって、有人動
 力飛行に成功した。
  ライト兄弟が、初飛行に成功した時の写真は、2人に
 撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョ
 ン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試
 みられた。
  1回目: 12秒、(36.5m)
  2回目: 12秒、(53.3m)
  3回目: 15秒、(60.9m)
  4回目: 59秒、(259.6m)
  この飛行は、強風が吹く中で、風に向かって飛んだ。
  故に、実際は、もっと飛行距離は長くなると見られる。
  兄弟は、あてずっぽうに実験したのではなく、風洞実
 験をしたりして、一歩一歩、科学的に、また、工学的に
 成功への道を詰めて行った。
  グライダー試作機を作ったり、滑空飛行を繰り返し、
 操縦技術の習得など・・着実に・・そして、改良し・・
 研究して行った。
  また、安定した強風が吹く場所の選定など、研究室・・
 大学教授などの・・知的な情報も得た。
  この時も、日本の大発明が潰され、奪われた様に・・
 ライト兄弟の特許を無効にしようという動きがあった。
  民間のライト兄弟の栄光を潰そうとした勢力のグルー
 プが、有名なスミソニアンの、スミソニアン協会のグル
 ープだった。
  スミソニアンの強力な圧力は、ワシントン国立博物館
 の展示でさえ、スミソニアンの押す飛行機となり、世界
 初飛行に成功したのは、ライト兄弟ではなく、ラングレ
 ーだと思わせられる時代が続いた・・その様なアメリカ
 だった。
  ライト兄弟の特許は活用もされず、世界初の飛行機を
 製作した技術者はまったく活かされず・・不遇に過ごし
 た。
  今、飛行機の活躍を見ると、アメリカという社会によ
 って、不遇に泣き、陰に置かれた大発明家が、ここにも
 居るということを想え・・、
  アメリカという国は、まったく不正な、無謀な、不公
 正な、不誠実な事をやる社会なのである。
  偉業をたたえられず、失意と、法廷闘争に疲れた大発
 明家が・・そこに居た。
  1912年、初飛行から9年後、兄のウィルバー・ライトが、
 腸チフスで死に(45歳)、そして、その4年後に弟のオー
 ヴィル・ライトは、飛行機製造から身を引いた。
.
1941年8月1日、フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大
 統領は、日本に対する石油輸出禁止の強化を発令した。
  8割を超える石油を輸入していた日本は、それまでの禁
 輸措置と共に、完全に石油の輸入が停止された。
  ルーズベルトを良く知る「ルーズベルトの娘の夫(娘婿)」
 のカーチス・ドールは自著で書く・・
  「ルーズベルト大統領(国際金融勢力の代理人)が、
 アメリカ人をいかに操縦して、第二次世界大戦に入らせ
 たかについての真相は、最大の重要性を持っている」と。
  そして、さらに・・、
  「両国(日本とアメリカ)の普通の人たちが、この戦
 争と、その原因の恐るべき教訓を理解することが、もっ
 とも重要なことです」・・と。
  ルーズベルトを繰っていた国際主義者ら・・
  この国際主義者らは共産化をしようともくろんでいて、
 ソ連が誕生しただけでは満足せず・・、
  次に、中国を共産化するため、ソ連に南下させようと
 した。
  しかし、そこに立ちはだかったのが日本だった。
  そこで、国民党の蒋介石を日本と戦わせて・・疲弊さ
 せ・・そして、その後・・中国共産党に、政権を握らせ
 るという計略を練った。
  そして、アメリカが日本と開戦し、日本を敗戦に至ら
 せる・・だった。
  その路線の中で・・アメリカは、「不戦条約違反の『
 日本への石油の輸出の完全に停止』をして、日本に対す
 る事実上の宣戦布告をした」。
.
1950年代末、戦争花嫁
  この頃まで、アメリカに渡った日本人戦争花嫁は、
 40000人~50000人に達すると言われている。
  アメリカ兵の夜の相手をした女性もいたが、
  教養ある日本女性がアメリカ兵に嫁ぐ、そして、アメ
 リカに渡ったが・・
  2年後から、その女性が日本に帰って来る。
  アメリカでの文化の違いから嫁姑問題、そして、近所
 の人種差別(日本人は有色人種として扱われる)
  人種差別が壮烈なアメリカ、義理の兄弟からも虐(し
 いた)げられ、虐(いじ)められ・・そして、地域から
 も出ていけの嫌がらせ・・自殺する日本女性も多かった。
  また、日本へ戻る帰りの船から海へ飛び込むという悲
 惨さだった。
  ワーブライド(war bride、戦争花嫁)とアメリカ社会
 からいじめられた。
  アメリカは、伝統の無い国で、卑怯な事に、アメリカ
 兵の性の問題から逃げた。
  パリ市長が泣きを入れた様に、アメリカ兵の性につい
 て、行く先々で破廉恥な問題が多発した。
  まるで、他人に・・女性の方たちへ・・害を与える者
 を町に放(はな)って・・、
  あとは、『勝手にやってくれ』は・・無責任なアメリ
 カだった。
  アメリカが言う、「軍の統制下なら管理する」は、無
 責任きわまる発言で、前記の様なパリでの様相に日本で
 もなった。
  日本での数々の蛮行の中に・・病院に集団で、銃を持
 って乱入し、看護婦から、妊婦の入院女性にまで、やり
 たいことをやった。
  この様な事が多発し、毎日、毎日、新聞にその悪辣ぶ
 りが記される続けると、占領行政という腕力をふるって、
 新聞の記事にすることを規制し、記事にしてはならない
 とした・・卑劣なアメリカである・・
  そして、相変わらず・・街で女性と何をしようが、ア
 メリカ軍とは関係ないという態度を取った。
  性の問題が・・相変わらず・・多発し・・起きた。
  指導する責任を放棄したアメリカの結果だった。
  まるで管理すべき猛獣を、『関係ないのだ』と、管理
 なしの状態で、街に放(はな)ったような状態だった。
  アメリカは、まったく・・だらしなかった。
  町では、アメリカ兵に強姦される日本女性が急増し続
 けた。
  この様な事は、ベトナム戦争の時にも、アメリカはや
 った・・多くの混血の方々が生まれた。
  まったく節度が無かった。
  アメリカの責任放棄の結果だった。
.
21世紀、アメリカ南部地域は、北部の植民地へ?
  アメリカ南部のその重要な産業は、そのほとんどを北
 部の資本に、押さえられている。
  南部人たちは、無益だと知りながら、北部への抵抗を
 執拗に繰り返す。
  それが、単なる北部への反感や、単なる感傷や復讐心
 からではない。
  アメリカ南部の農本主義、家族主義、家長制整など、
 この地の風土は、まだ、根強く残っているが、それらは、
 南部の人たちの精神構造の中に、深く染み込み、南部の
 人たちを形造っている。
  大切にしなければならないところである。
  しかし、それを、北部が侵食し、そして、破壊して行
 った。
  今、アメリカ資本が、日本の文化や、もろもろを・・
 破壊し・・工作しているのと同じ様に・・、
  大切なものが壊されている。
  日本も、この南部と同じ状況下にあって、日本の残し
 ておきたいものが失われて行っている。
  世界は、日本ブームにあるが・・、
  また、南部には・・北部にない独特の文化があるのは、
 南部は南部で、直接、イギリスの文化の影響を受けてい
 るからで・・、
  18世紀のイギリス文化の影響を受け、北部にはない南
 部の独自性が出来ている・・
.
2002年、アーミテージは、辞任した後、政権の座を降りた。
 その後に・・
  「アメリカ国務省は、2002年頃から、北朝鮮が核兵器
 を放棄することはない・・と判断して居た」という真相
 を明かした。
  これは、アメリカ政権(ホワイトハウスと国務省)の
 本音だった。
  しかし、この本音は、日本の耳に入って来なかった。
  日本は願っていた・・六か国協議で何とかしたいと・・
 と、
  しかし、アメリカと中国の両政府の共謀で、日本には
 黙っていよう、そして、日本を騙しておこうという状況
 で・・時間は・・歴史は過ぎて行った・・
.
2015年、訪日客が増えている。
  日本政府観光局の2015年11月18日発表、
  日本を10月に訪れた外国人旅行者数は、前年同月の43.8
 パーセント増。
  182万人。好調は続いている。
  パリ同時テロが影響はしている、
  10月まで1631万人。
  内訳:
  中国24%(約2倍、44万人)
  韓国20%(49パーセント増、37万人)
  台湾19%(32パーセント増、34万人)
  香港7%、
  米国5%、
  英国1%、フランス1%、ドイツ1%、その他。
  欧州客は、長期宿泊する傾向、
  中長期的には増加傾向、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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# by suba28 | 2017-04-20 14:18 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)

題:(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月21日、日本法律学校が開校した。
  日本法律学校(日本大学の前身)が開校式をした。
  この学校は、日本の法律を研究し、国運の増進をはか
 ること目的として設置された私立の法律学校で・・、
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援し、設立された。
1890年9月29日、逓信省が、女性電話交換手を募集した。
  応募資格は、小学校高等科修了。
  応募資格に於いて・・、
  品行方正・言語明瞭・・さらに、
  「夫ナク家事ニ関係ヲ有セザルモノ」、
  「日常ノ算筆ヲ能クスルモノ」・・という条件も付い
 ていた。
  採用されたのは、14歳~25歳までの9人の「教養ある
 良家の子女」だった。
  この頃の女性の仕事といえば、女工か看護婦という、
 ごくわずかなものしかなく、
  電話交換手は、女性に開かれた数少ない仕事の一つだ
 った。
  この電話交換手には、男性もいたようで、電話創業に
 備えて・・女性を募集したものだった。
  当時、使われていたのは、ベルギー製の単線式単式交
 換機だった。
  加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャ
 ックにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジ
 ャックに、もう一方のプラグを差し込んで接続するとい
 うものだった。
  こうした交換機は、1979年の全国完全自動即時化まで、
 農村や山村の小さな局で使われていた。
  日本では、東京と横浜の間で、市外電話の通話試験を
 行って成功したのが1885年(明治18年)で、この年に、
 逓信省が創設された。
  初代大臣は榎本武揚、取り扱う業務は、電信事業・郵
 便事業、そして、灯台業務だった。
  この時から5年もかかって、電話事業がはじめられたの
 は、国営にするか、民営にするかで、政府内部で意見が
 大きく割れ、
  民営を強く主張する実業界も加わり、その調整に時間
 がかかった。
  逓信省は、試験をかねて、東京~熱海間に電話線を一
 回線引いて、1889年(明治22年)1月1日から1年間、一
 般公衆の通話を取り扱った。
  この試験通話は成功したが、用件のために電話すると
 いうより、好奇心から利用した人が多かったという。
1890年10月7日、岡倉天心が、東京美術学校の校長に就任し
 た。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1886年~1887年に、文部省図画取調掛委員として岡倉
 覚三(天心)とフェノロサは、欧米の調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものだった。
  そして、2人の報告に基いて、1887年10月、勅令によっ
 て図画取調掛、および、工部大学校内「工部美術部」を
 統合・改編し、東京美術学校が設立された。
  開校は、1889年2月。
1890年10月7日、民法財産取得編を公布した。
  明治23年法律28号 (財産編、財産取得編〈非相続〉、
 債権担保編、証拠編) 、同年法律 98号 (財産取得編〈相
 続〉、人事編) 。
  民法典(旧民法)が公布された。
  明治政府が、フランスから招いたG・ボアソナードが、
 中心となって編纂した。
  1893年1月1日に、施行される予定になっていたが、日
 本の習慣を顧慮していないということなどから、その施
 行について、断行論者と、施行延期論者との間に、激烈
 な論争が行われた (→民法典論争 ) 。
  (ボアソナードを主任としてフランス民法を範として
 作られていたため、日本になじめないところがあった)
  結局、延期派が勝って、1892年の帝国議会で、修正の
 ため、1896年まで、その施行が延期された。
  また、法典調査会によって新たな体系による民法典 (
 →民法) の編纂が進められて、1898年に施行された。
  この1896年に公布された民法(総則・物権・債権の3編)と、
 1898年に公布された民法(親族・相続の2編)によって、そ
 の公布とともに廃止となった。
  そのため、旧民法はついに実施されずに終った。
  旧民法は、全体としてフランス民法に近く、ボアソナ
 ードが関与しなかったといわれる親族相続に関する部分
 も原案は進歩的であったが、法律取調委員会、および、
 元老院の審議の過程で改正されていった。
1890年10月7日、刑事訴訟法が公布された。
  (明治23年法律第96号)
  この年に、フランス法にならって制定された日本初の
 近代的刑事訴訟法典は、治罪法と呼ばれたが、
  1890年に、それが改正され、刑事訴訟法と称されるよ
 うになった。
   1922年になって制定された刑事訴訟法 (旧刑事訴訟法)
 は,ドイツ法の影響を強く受けたものになった。
1890年10月9日、初めての電話帳である「電話加入者人名表」
 が発行された。たった1枚の紙だった。
  電話交換業務が始まった時点で、開通していた東京と
 横浜の加入者は、197名だった。
  そして、この電話帳は、1番が東京府庁で、番号順に縦
 書きに記され、
  官公庁や新聞社、銀行に交じって渋沢栄一や大隈重信
 などだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本の大発明・・ノーベル賞ものの光ファイバー大発明は・・奪われた・・
    こんなことは・・まだまだ・・ある・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  江戸期からの悲願の差別の条約が、やっと、改正され
 たのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1905年、日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜けて
 来た。
  この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
 列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  また、遠く・・キリスト教宣教師が・・衣の下に隠し
 ていた・・日本植民地化の尖兵役の暗躍を・・アジア各
 国と同じ様にならないで来た・・そして・・
  1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
 を開いたが、
  まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
  その列強各国は、その機会・・植民地にする餌食の
 機会をうかがっていた。
  日本だけが・・例外であったのではなく・・
  日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
 自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
 さら)されていた。
  アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
 は、列強各国は、当然のように持ち、狙われていた。
  明治政府が、必死に、「富国強兵策」に邁進したのは、
 明治の賢明な諸士が、そのことのアジア各国の状況を十
 分すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
1926年9月12日、光ファイバーの大発明をした西澤潤一氏が
 生誕された。
  西澤氏の著書の一端・・
  ・『闘う独創技術』日刊工業新聞社、1981年5月
  ・『愚直一徹-私の履歴書-』日本経済新聞社、1985年
    10月
  ・『独創は闘いにあり』プレジデント社、1986年2月/
    新潮社(新潮文庫)、1989年2月
  ・『西澤潤一の独自開発論』工業調査会、1986年3月
  ・『「技術大国・日本」の未来を読む』PHP研究所、
    1989年9月
  ・『私のロマンと科学』中央公論社(中公新書)、
    1990年3月
  ・『独創教育が日本を救う』PHP研究所、1991年8月
  ・『人類は滅亡に向かっている』潮出版社、1993年
    12月
  ・『東北の時代―もはや一極集中の時代ではない』
    潮出版社、1995年4月
  ・『教育の目的再考』岩波書店、1996年4月
  ・『新学問のすすめ-21世紀をどう生きるか』本の森、
    1997年9月
  ・『背筋を伸ばせ日本人』PHP研究所、1999年6月
  ・『人類は80年で滅亡する』東洋経済新報社、2000年
    2月
  ・『教育亡国を救う』本の森、2000年8月
  ・『赤の発見 青の発見』白日社、2001年5月
  ・『日本人よロマンを』本の森、2002年10月
  ・『戦略的独創開発』工業調査会、2006年4月
  ・『生み出す力』PHP研究所(PHP新書)、2010年8月
  ・『わたしが探究について語るなら』ポプラ社、
    2010年12月
.
1932年10月2日、リットン報告書が出た。
  アメリカのやり方・・立ち回り方・・
  アメリカは、イギリスやフランスなどが、アジアの国々
 を植民地にしても、何も言わず、
  俺も植民地を取りたい・・と、フィリピンなどを植民
 地にしたりしていた。
  英国人記者HS・ストークス氏が言うように、白人様の
 植民地に進攻するのは侵略となる・・有色人種の日本が、
 その様な白人様のマネをしてはいけないと・・
  たとえば、中国を一番侵略していたのがイギリスで、
 それも、北京などの中枢の中心地域を含む広大な土地を、
 地方を、広くイギリスは侵略し、そして、占領していた。
  そのイギリスへ、アメリカは、「酷(ひど)いではな
 いか」などと一度も言ったこともない。
  グル(一味)だったのである。
  こんな不公正なアメリカが、日本にとやかく言う権利
 はないのだが・・?
  さも、公平さを演じて、日本へとやかく言うのは、ア
 メリカとグルになっているイギリスの利益となる行動を
 していた・・、
  影の当事者のアメリカに・・発言権はないのである。
  1932年10月2日に出された「リットン報告書」は、日本
 の満州の権益は『 認めた 』。
  侵略だなんて言ってない・・当然だ・・日露戦争で、
 日本は、ロシアに勝利して、満州を移譲されていたのだ
 から・・
  国連(国際連盟〉調査団さえ日本の権益を『認めたの
 だ』。
  国際社会が認めたのだ。
  ただ、おかしなところは・・日本は侵略したとした。
  ならば、北京などの中国の中枢地域を侵略していたイ
 ギリスは、どうなるのだ?
  まったく有色人種は、白人のやるような行為はしては
 いけないの、有色人種(日本人)は侵略になるの・・と
 言っている行為になっている。
  「権益を認めて、侵略とする」日本への断定。
  「権益を認めて、侵略としない」イギリスへの見解・・
 まったく理屈の合わない状況だ・・どこがどの様に違う
 のだ?
  好き勝手に、右だ左だと、自分の都合の良い振る舞い
 をするアメリカがあった。
  漢民族の中国が、満州族(女真族)の地・北支を支配
 下においていて、そこへ日本が入った。
  イギリスは、漢民族の地・北京などの広い地域に入っ
 た。
  アメリカも権益を得ようと画策する北支や中国・・
  この状況で、何が言えるのか?
  要は、白人様が、今までやってきた。
  そこへ新参者の有色人種(日本)がやって来た、
  白人様がやっていることと同じ事をやるなの話なのだ。
  白人権益。白人秩序に挑戦するな・・なのだ。
.
1940年、日本工作のために、後に、アメリカの国務省の次
 官補代理になるボブ・バーネットが日本に来た。
  ボブは、アメリカのジョンソン大統領の時(1963年~
 1969年)、アメリカ国務省の次官補代理としてアジア政
 策を担当していた。
  ボブ・バーネットは、キリスト教宣教師の父を持ち、
 中国で生まれで、上海で育った。
  オクスフォード大学などを出た。
  このボブは、1940年~1941年、アメリカのスパイとし
 て日本に来た。
  そして、この頃、キリスト教宣教師が、日本とアメリ
 カを戦争に至らせようとする行動に暗躍していた。
  酷い話だ・・
.
1964年、通信には、今や、光ファイバーが無ければ文明が
 破壊するほど、「基本中の基本技術』となっているが・・
  今から50年以上も前に、日本の西澤潤一氏、佐々木市
 右衛門氏は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心
 から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、
 入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束
 型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を
 特許出願した。
  物凄い着眼で、素晴らしい発明だった・・
  自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性につい
 て発明したのだった・・
  しかし、この大発明を、日本の特許庁は、意味がわか
 らないと不受理にした??
  アメリカの圧力があったと関係者の中で指摘された。
  昭和39年・・1964年の話だった・・
  また、1970年、アメリカのコーニング社が、通信用光
 ファイバーを実用化したと発表した。
  光ファイバーの製造法とカオ論文に示された光ファイ
 バーの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九
 九一五号)を得た・・
  基本特許の大発明だった・・、
  コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ、実
 用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに20
 dB/kmの損失を達成した。
  しかし、何と! 日本の特許庁は、それが、日本の西
 澤氏が先発明していることを、つまり、先に出願してい
 ることを、そして、西澤氏の発明とと類似するものであ
 ると知りながらも・・口をつぐんだ。
  まったく・・ひどい行為をした・・
  このアメリカの特許出願が、特許になったということ
 は、西澤博士の特許出願も特許になりうる発明であった
 ということ・・である・・
  そして、先に出願している西澤博士の特許の方が、当
 然、先の出願であるので、特許の範囲が広くなり、基本
 発明となる。
  莫大な国益となった・・訳だ・・
  しかし、西澤博士の特許出願が、例え、特許とならな
 いのならば、アメリカの特許出願も、特許にならないと
 いうことになければならない。
  西澤博士の特許出願が先になされたということによっ
 て、アメリカの特許出願は、特許になる要件を満たして
 いないからで・・、
  それは・・何ら新規性が無いと言えるからで・・
  この「新規性を喪失している」から不特許となる・・
  この光ファイバーの大発明は・・まったく、おかしな
 展開となった・・
  関係者の不満・指摘は、最高度に達した・・この様な
 ことは、まだまだある・・
  西澤博士の大発明は・・奪われてしまったとしか言え
 ない状況となった。
.
1972年、日本に対する、米中の『共同封じ込め戦略』が始
 まる。
  ニクソン大統領とキッシンジャーは、中国の毛沢東と
 周恩来(首相期間:1949年~1976年)に、うまく乗せら
 れてしまった。
  その合意は、「アメリカと中国が協力して、日本をカ
 ウンターバランスする」というものだった。
  そして、この結果、1972年から、「ジョイント・コン
 ティメント・ストラテジー(日本に対する共同封じ込め
 戦略)」が始まる。
  こんなこと「近・現代史」では教えない。
  この要点は・・、
  (1)日本には、絶対に核を持たせない。
  (2)日本の自立的独立を阻止する。
    その為、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  (3)朝鮮半島と台湾の問題に、日本へ発言権を与えな
    い。
  この話し合いは、1971年秋、周恩来とキッシンジャー
 の間で話し合われ、
  1972年2月、アメリカのニクソン大統領が、訪中をして、
 北京へ行ったときに、米中首脳間で合意がなされた。
  この事は、明確に・・アメリカ政府の公開された外交
 史料に記載されている。
  当時の密約は、今、公開資料となっている。
  アメリカは、緊密な日米関係を口にするが、この様な
 事を、日本に何も相談しないで、日本の『頭越し』で、
 平気でしている。
  裏切る様な国なのだ。
  2003年以降のブッシュ政権も、手のひらを返した。
  アジア政策を「中国重視、日本蔑視」にした。
  あんなに、「ジョージとジュンイチロー」と言って、
 小泉純一郎首相とブッシュ大統領は、緊密で、親日的だ
 ったのに、アメリカは裏切った。
  日本も、必死に、イラク戦争に大金を出したり、郵政
 を民営化したりして、アメリカ企業を儲けさせていたの
 にである。
  また、特に、キッシンジャーは曲者で、注意を要する。
  『親中嫌日』の男なのだ。
  最近も、中国へ行った。
  日米基軸なんて、砂上の楼閣・・、アメリカは、どう
 でもよいとしている。
  調子の良い時は、基軸だとするが・・??
.
2006年秋、北朝鮮が核実験をした。
  反対を押し切った強行実験だった。
  この時、日本の中川昭一議員(自民党政調会長)は、
 「核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置をとれるのか、
 真剣に議論しよう」と言い・・また・・
  「憲法でも核保有は禁止されていないのだから、核の
 議論はあってしかるべきだ」・・と言った。
  この時、アメリカのライス国務長官が、急遽、東京に
 飛んで来て・・、
  「あらゆる抑止力を使って、日本に対する安全保障を
 約束する」と明言し・・そして・・帰った。
  このあらゆる抑止力を使って日本の安全保障・守ると
 いうその手段の中に、
  アメリカが、核戦争を実行するということについて、
 種々の見方がある・・
  懐疑的に・・、アメリカが、核戦争を、自国ではなく
 日本を守るために、「核戦争を始める訳はない」という
 見方である。
  この見方は、ハンティントンや、キッシンジャーや、
 ターナー元CIA長官らが、明確に・・
  「アメリカは、同盟国のために核戦争などやらない」
 と言う。
  アメリカ国務省のボブ・バーネットも・・、
  「アメリカが、日本を守るために核戦争するなんて、
 そんな事は絶対にありえない。
  アメリカは、単に、同盟国をだましているだけ・・」
 ・・と。
  中川議員に端を発した「日本の核議論」に、何故、ア
 メリカの国務長官が、すっ飛んで来たのか? また、「
 安心しろ」と言ったのか?
  「日本が、これを端緒にして、核を持つに至ることの
 ないようにと言うことが、ただ、それだけが・・すっ飛
 んで来る重要使命だった、重要任務だった」。
  ここに、「日本にだけは・・核を持たせるな」の、「
 米中密約の存在」を強く裏付けられる・・公然の存在の
 密約が・・、
  「日本の『核の傘の保障』は、その様なもの」。
  東北の東日本大震災、この時、各国の救援隊が駆け付
 けて戴いた。
  しかし、原発事故が発生し、本当に厳しい状況になっ
 た時、各国救援隊は居なくなった。
  最後まで任務を果たして戴いたのは、自衛隊の方々だ
 けだった。
  夜、その日の任務が終わって、宿舎に帰った隊員の方
 たちは、昼の任務中に見た悲惨な状況に、涙ぐんでいた
 という、泣いていたという。
  この最終的な・・奥の・・そして・・次のステージに
 臨んだ際に、どの様な行動がとれるのか?・・である。
  アメリカは、この中川議員発言の後、日本へ、陰で・・
 相当な圧力を掛けていると・・みられる。
  この類の話をすることが、「アメリカが怖くで出来な
 くなっている」という話が・・頻(しき)りになされる。
  アメリカは、結局、北朝鮮を、「テロ支援国家」から
 外した。
.
2013年3月16日、アメリカが、やっと、特許の先願主義へ移
 行した。
  アメリカは卑怯だった・・ずるかった・・先発明主義
 を、長い間、金科玉条にした・・
  「先発明主義」と聞くと・・かっこよく聞こえるが・・??
  発明をしたとしても・・、
  その行為が・・発明をしている行為であっても・・
  その発明があったとしても、その発明者が・・「発明
 をしたのだ」と気が付かなければ・・認識しなければ、
 当然のこととして、発明したことにはならない・・、
  当たり前である・・たまたま、同じことをやっただけ
 ではないか・・
  この様に説明しても・・アメリカは分かろうとしなか
 った。
  この論理をアメリカは、ズーッと理解できなかった・・
 理解できないとして来た・・卑劣である。
  立派に、発明したと認識したのなら・・願書に書いて・・
 発明したと・・公(おおやけ)に公表せよ!・・届出よ!
  この論理を、アメリカは無視してきた・・長い、長い
 期間を・・まったく、卑怯な、卑劣なアメリカだった・・
  偶然に、無意識に、『大発明と同じことをしていただ
 けではないか?』という指摘には答える事の出来ないア
 メリカだった。
  ネットにはアメリカを庇った言い方もあるが、無理筋
 の説明である。
  公(おおやけ)に発明したと主張できないのは、発明
 したと認識してないからだ・・これは、断定できる真実
 なのだ。
  しかし、アメリカは、汚い事に、先発明主義という特
 許法を、長い期間、取って・・
  そして、アメリカは、先に発明したのだからと、先願
 主義の特許を奪って来た。
  それも・・ただ・・似たようなことをやっただけなの
 に・・である・・
  先願主義で特許を・・発明したと認識し、その理由を
 はっきり理論立てて説明し・・書いた願書を、そして、
 その願書を・・特許庁へ提出しているという行動を起こ
 している発明を、アメリカは奪った。
  たまたま、ノートに・・自分の「発明ノート」に書い
 てあるという類(たぐい)ではない・・
  「だから、発明しているのだよ」と明確に発明を立証
 している、願書で説明し、主張している人の特許を、ア
 メリカは、それ以前に、アメリカ人の某が、先に発明し
 ていたよと、先願主義で先に主張していた人の特許を、
 アメリカは奪っていた。
  また、卑劣な事に、こんな事を主張しているのはアメ
 リカだけで、どこの国も、こんな筋の通らないことを言
 っていなかった(皆、先願主義の国)・・
  言うのはアメリカだけ・・先発明主義をとっていたの
 はアメリカだけ!!
  また、だから、この様な不正義な、犯罪的な言い掛か
 りで特許を奪っていたのはアメリカだけ・・だった。
  世界中から、「おかしいではないか?」という声を、
 アメリカは無視して来た。
  しかし、この先願主義の『正義の言い分』がやっと通
 って、2013年になって、やっと、この日に、アメリカは
 先願主義に移行した。
  日本の素晴らしい特許も、この被害を、大分、受けて、
 特許を奪われ、大発明が奪われ・・日本の国益・・大き
 な国益の損失をきたして来ていた。
  優秀な日本は、こんな形でも、アメリカに貢がされて
 来ていた。
  アメリカの従属国=日本の残念な姿だった。
  アメリカは、こんな事を、まだまだ、やっている・・
.
2015年12月10日、この日の(読売新聞、2015・12・10)の
 週刊新潮の広告に、「舟と遺体が次々漂着!北朝鮮で何
 が起こっているのか」・・とある。
..
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# by suba28 | 2017-04-17 05:21 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)

題:*(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月20日、フランスより、初めて輪転印刷機が輸入
 された(東京着)
  1890年、印刷局と朝日新聞社が、マリノニ輪転印刷機
 を輸入した。
  翌年・1891年、東京朝日新聞社が、民間で日本初の輪
 転印刷を開始した。
  印刷能力はそれまでの約20倍と、大幅に向上した。
  (別史料)マリノニが製造した輪転機が、日本に輸入
 されたのは1890年であり、
  帝国議会の開設に合わせて官報印刷用に導入した内閣
 官報局と、朝日新聞社に導入された。
  このマリノニ輪転機は、8ページ建ての新聞を1時間に
 3万部印刷することが可能であり、従前の旧型機の20倍に
 相当する効率であった]。
  その後、20世紀に入ると、マリノニ輪転機を参考に製
 造された国産の輪転機が普及するようになり、「マリノ
 ニ型輪転機」などと称され、ほぼ半世紀にわたって日本
 の新聞印刷機の主流となった。
  (別史料)マリノニ型印刷機の日本への到来は・・、
  (1)1890年、マリノニ社から巻取活版輪転機4台購
 入。(毎時4頁新聞15,000枚)、印刷局2台、東京朝日
 新聞1台。日本新聞1台。
  (2)『大蔵省印刷局百年史』:高橋局長は、このマリ
 ノニ式印刷機二台を製造させ、1890年9月20日に帰朝した
 が、これがわが国における輪転印刷機の初め。
  (3)『朝日新聞社史』:1890年9月27日、東朝が、わ
 が国新聞界最初のマリノニ輪転機設置を社告、11月22日、
 大朝も社告。
  (4)共同印刷株式会社『共同印刷90年史』:マリノニ
 社活版輪転機、1890年9月、フランスから輸入。
  当時の大蔵省印刷局、東京朝日新聞社、日本新聞社に
 設置。
.
  (今日の言葉)
.
  題:かつて、多くの日本の大発明は・・奪われ、そして、潰された・・
    そして、今も・・か・・?
.
1908年、「この年に、アメリカで、黒人大暴動が起きた」
 と・・この事が、歴史的事実だとして、書籍に書かれて
 いるが・・また、教科書にも書かれているが・・まった
 く違う。
  これは、白人の、そして、キリスト教徒のプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  人種がからむ、この様な、歴史的事実は・・まったく・・
 これの逆なのだ・・アメリカは、特に、この様な悪行為
 をする国となっているから・・卑劣だ。
  『白人の悪行為が、カモフラージュされている』。
  『黒人の方々が、悪者にされている』。
  この様な事が、よくなされるから・・なおさら、ひど
 い人種差別が感じられる・・
  この事件は、白人が、黒人の方々へ、ひどい暴挙を働
 いていた・・これが隠されている・・『まったく隠され
 る』という人種偏見行為の、数多くあるサンプルとなっ
 ている。
  さんざんやって来た白人の悪行為の次ぎに、やむを得
 ず起きた事件がが「歴史的な事件だとした嘘が・・記さ
 れている」。
  アメリカの白人の悪さが・・隠されている。
  事件が起きた場所は、アメリカのイリノイ州のスプリ
 ングフィールド。
  黒人の方々は、「いつも、虐げられていた」。
  あまりの酷さの中にあったが、この時は違った。
  黒人の方々は、ファイトバック(抵抗行動)をした。
  黒人の方々は、今までの卑劣な白人たちの虐げに、こ
 の時は、激しい抵抗を試みた。
  アメリカの白人たち(WASP、白人・アングロサク
 ソン・キリスト教プロテスタント、)は、それでなくて
 も、黒人の方々を「殺したり」「リンチをしたり」「人
 権を無視し、人権を奪う行為をしたり」していた。
  あるジャーナリストが、この卑劣さを公正に伝えた。
  そして、黒人の方々の当然の権利の「政治的公正さ」
 「市民的自由の保障」をすべきだと記した。
  この事などは、当然なことなのだが・・、
 非民主主義の国・アメリカは、『黒人の方々への民主主
 義は除外した』。
  最低レベルのアメリカには、この事実を書く必要があ
 るという「レベル程度の低いアメリカ」だった(今もで
 ある・・)。
  この非民主主義的行為・非人道的行為を、アメリカは、
 恥じよ!
  奴隷制度で、あれほど虐げたのに、まだ、こんな事を
 やっている。
  黒人の方々は、これを契機に、『全米黒人地位向上協
 会』を結成した(1909年2月12日)・・
  ウィリアム・E・ウォーリングのメディア活動があっ
 た。
  歴史的記述をみる時、白人の見方や、キリスト教の見
 方で、事実が逆転しているから注意をする必要がある。
  この場合も、白人の「黒人の方々への暴挙」がなされ
 たから起きたのであって、
  何もないのに、急に、黒人の方々が大暴動を起こした
 のではない。
  アメリカが、ハワイで、日本の潜水艦を5隻も、アメリ
 カが先に日本の潜水艦を攻撃して沈没させていながら、
 アメリカの発した言葉は、『日本が先に攻撃した、奇襲
 した』という『まったくの嘘の言葉』だという始末だか
 ら注意を要する。
  電信などなど完全に傍受し、日本の連合艦隊の動きを
 完全に知っていた・・「『奇襲だ』なんていう嘘が良く
 言えたものだ」の状態だった・・また・・、
  ルーズベルト大統領は『明日、日本が攻めて来るよ』
 と口を滑らせたくらいだった。
.
1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成立し
 た。
  (1913年の土地法は、「日本人移民」の土地所有を禁
 止するものだったが・・、
  今度のこの法律では、「日本人移民の子供=いわゆる
 二世」までもが、土地所有を禁じられることになった)
.
1924年、「絶対的排日移民法」が成立した。
  この法律が破廉恥なことは、これまでの排日法が州法
 であったが、この法律は「連邦法」で、アメリカは、国
 家として、日本からの移民を排斥することにした。
  この当時のアメリカ大統領は、「遺憾に思う」と表明
 した。
  アメリカ大統領は、この法律に反対だった。
  昭和天皇陛下も『失望』を表明されている。
  何しろ、何が悪いと言ったって、『人種』として日本
 が嫌いだという、理由ではない理由で、国としてアメリ
 カは日本を排斥した。
  まったく軽蔑すべき人種差別、人種蔑視の行為をした。
  これが、第二次世界大戦への、戦争への遠因の一つと
 なった。
.
1943年2月、アメリカの極東専門家の第一人者のラティモア
 が、「アジアにおける解決」を発表し、
  その中で、天皇陛下とその一族の『中国監禁』を主張
 した。
  また、ラティモアが、時々、執筆した左翼系アジア専
 門誌「アメラジア」は、天皇陛下の戦争犯罪説をキャン
 ペーンした。
  このラティモア・オーエンは、アメリカのアジア研究
 家であるが、子供のころ、父親と共に中国に渡り、12歳
 までの幼少期は中国で育った。
  1941年、蒋介石の特別顧問となり
  1943年~1944年には、アメリカの戦時情報局(OWI)
 の極東部主任となり、戦後の対日政策をまとめた「アジ
 アにおける解釈」をまとめ、天皇陛下とその一族は中国
 へ送還せよと主張した。
  1950年に、ラティモア・オーエンンは、ジョセフ・マ
 ッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップだ」と
 告発された。
  そして、下院非米活動委員会などの喚問を受け、職を
 去った。
.
2016年4月1日、日本のノーベル賞受賞者が、最近でこそ、
 毎年、受賞者のある状況となっているが・・、
  過去に於いて、いく人もの『日本人の大発明』が、ア
 メリカに奪われ、また、アメリカに潰されたことか・・、
  その隠れた日本人の大発明家は、偉業を表彰され、そ
 の功績を讃えられ、労をねぎらわれる行為すらなされて
 いない。
  埋もれてしまっている・・悲しむべき大発明家たち・・、
  白人・キリスト教徒のノーベル賞委員会は、お手盛り
 でやっている・・この日本の隠れた大発明家の方々を、
 当然の如く無視している。
  そこで・・アメリカが絡(から)んでいるSTAP細
 胞の件であるが、果たして、STAP細胞は大発明だっ
 たのだろうか?
  この日の日付で、上田眞実氏の文がある・・それが、
 以下である・・、
  表題:STAP現象、理研で再現されていたことが発覚…
    若山教授、不当に実験成果物を大量持ち出し
  文=上田眞実/ジャーナリスト
  http://biz-journal.jp/2016/04/post_14498.html
  1月に発売された小保方晴子氏(32歳)の告白本『あの
 日』(講談社)は、3月に入ってすぐ5刷りされ、販売26
 万部を超えるベストセラーとなっている。
  講談社担当者は、「読者からは多数の共感と応援を頂
 いております」といい、これからも売れ行きは伸びるも
 よう。
  本書をめぐっては、賛否両論が渦巻いているが、重要
 な点は、本書の内容が本当なのかどうかという点であろ
 う。
  そこで、本稿では、小保方氏が所属していた理化学研
 究所が開示した書類等を参照しながら、時系列で検証し
 てみたい。
  2014年3月10日、小保方氏の共同研究者であった若山照
 彦博士(山梨大学教授)が論文を撤回し、STAP細胞問題
 が表面化した。
  同年・2014年12月25日に公表された「研究論文に関す
 る不正調査委員会」(委員長・桂勳氏)の「研究論文に
 関する調査報告」(P.13)では、
  STAP細胞の研究成果は、「ES細胞の混入である可能性
 が高い」とされている。
  また、理研は、2015年3月20日に、「運営・改革モニタ
 リング委員会による評価について」のP.85で、STAP細胞
 論文は「ほぼ事実ではなかった」と宣言しており、
  STAP細胞は、その存在を完全に否定されたかに見える。
  しかし、STAP細胞が発表された直後、若山氏は、2014
 年4月17日付「日経Bizアカデミー」記事『「その時マウ
 スは緑色に光った!」若山教授が語った幻のSTAP細胞誕
 生秘話』内で、STAP細胞実験の成功秘話を克明に語って
 いるのだ。
  これには、多くの疑問の声が上がっている。
  さらに、アメリカの研究者グループが、STAP現象と同
 じ実験結果から多能性細胞をつくることに成功している。
  実は、STAP細胞論文への疑惑が取り沙汰された後に、
 理研が行った再現実験で、『STAP現象は確認されており』、
 それは『あの日』(P.220)にも書かれている。
.
2016年5月20日、また、キリスト教に偏し、アメリカになび
 くNHKの動きに、以下の事がある・・
  STAP問題、小保方氏犯人説を否定する検察判断…嘘広
 めたNHKと告発者の責任問われる
  2016年05月20日 06:13、Business Journal
  http://biz-journal.jp/2016/05/post_15165.html
  STAP細胞をめぐる問題で、理化学研究所の研究室から
 何者かが、ES細胞を盗んだ疑いがあるとして、2015年5月
 14日、元理研研究者である石川智久氏が、刑事告発して
 いた。
  しかし、1年あまりの捜査の結果、今月18日、神戸地方
 検察庁は「窃盗事件の発生自体が疑わしく、犯罪の嫌疑
 が不十分だ」として不起訴にした。
  地方検察庁が、「窃盗事件の発生自体が疑わしい」と
 いう声明を出すのは異例だが、この騒動は一体なんだっ
 たのだろうか。
  告発者の石川氏は、当時メディアに対して次のように
 発言していた。
  「私の調査から、小保方晴子氏が、若山照彦教授の研
 究室(以下、若山研)からES細胞を盗み出したと確信し
 た。
  (告発しなければ)さもないと日本の科学の信頼は地
 に落ちたままである」
  さらに石川氏は、独自に入手したという小保方氏の研
 究室(以下、小保方研)のフリーザーに残されていたサ
 ンプルボックス(細胞サンプルが入った容器)の写真を
 マスコミに提供し、
  そこにあるES細胞が動かぬ証拠だと主張していた。
  しかし、その後、ジャーナリスト上田眞実氏の調査に
 より、このサンプルボックスは、若山研が理研から引っ
 越す際にそのまま残していった、いわゆるジャンク細胞
 (使い道のない細胞)であったことがわかった。
  理研では、細胞などの試料を外部へ移動させる際には、
 MTA(試料提供契約)を必ず提出しなければならないこと
 になっている。
  だが、上田氏の取材で、証拠として示したサンプルボ
 ックスに関しては、若山研からMTAが出されていなかった
 ことが明らかになった。
  さらに、理研に対し若山研から盗難届も出されていな
 かったことも判明した。
  理研関係者に取材したところ、若山研に限らず、研究
 室が引っ越しする際に使わない試料をそのまま置いてい
 くことが多かったという。
  残されたジャンク細胞の処分問題に理研も苦慮してい
 た。
  小保方研にあったサンプルボックスも、そのひとつだ
 ったのだ。
  このサンプルボックスは、若山研が、2013年に、理研
 から山梨大学へ引っ越す際に残したものだが、その時点
 では、STAP細胞の主要な実験は終わっており、英科学誌
 「ネイチャー」向けの論文作成が佳境に入っている時期
 だった。
  石川氏の主張が正しいなら、小保方氏は、実験終了後
 にES細胞を盗み、過去にタイムトラベルをしてES細胞を
 混入させたSTAP細胞を若山氏に渡したことになる。
  このような非現実的な主張を、当時のマスコミは裏も
 取らずに大々的に取り上げ、小保方氏をES細胞窃盗犯の
 ように報道していた。
  つくられた小保方氏犯人説
  さらにこの告発には伏線があった。
  2014年7月27日に放送されたテレビ番組、『NHKスペシ
 ャル 調査報告 STAP細胞 不正の深層』である。
  同番組内では、若山研にいた留学生と名乗る人物(後
 に、Chong Li博士と判明)が登場し、小保方氏の研究室
 にあったサンプルボックスについて次のように証言して
 いた。
  「びっくりしました。
  保存しているのは全部ES細胞ですので、なぜか、STAP
 細胞に関係があるところに見つかったのは本当にびっく
 りしましたね。
  (小保方氏に)それを直接私が渡したことはないです」
 (Li博士)
  この発言を受けて、番組では次のようなナレーション
 を流していた。
  「なぜ、このES細胞が、小保方氏の研究室が使う冷凍
 庫から見つかったのか、私たちは、小保方氏にこうした
 疑問に答えてほしいと考えている」
  Li博士に対しては、石川氏も取材したといい、Li博士
 は、「(若山研では、続きの実験が計画されていたので、
 実験を)山梨大で続けるつもりだったが、ES細胞を紛失
 したことで、それを断念した」と語ったと証言している
 (「フライデー」<講談社/15年2月6日号>より)。
  そもそも、Li博士のES細胞は、STAP研究とはまったく
 関係のない種類のES細胞であることは、石川氏の告発状
 が出される時点で判明していた。
  それにもかかわらず、『NHKスペシャル』と同様に石川
 氏は、あたかも、Li博士のES細胞がSTAP研究に混入され
 たとされるES細胞と同一であるかのような告発状を作成
 し、マスコミに配布していた。
  石川氏の告発内容が、のちに虚偽であったことが判明
 したが、マスコミは、その告発状の論旨をベースに国民
 をミスリードさせていった。
  また、若山研では、ES細胞を紛失したため、実験が続
 けられなくなったと報道されたにもかかわらず、若山研
 から理研に対し紛失届が出されていない。
  本当に必要なサンプルだったのならば、実験を断念せ
 ず、理研に紛失届を出すのが自然だろう。
  それを出さずに、マスコミに「盗まれたかもしれない」
 とリークする目的はなんだったのだろうか。
  NHKや毎日新聞がそうであったように、石川氏も、若山
 研を情報源とするものが多いが、何か理由があるのだろ
 うか。
  同番組放送後、世間は、一気に「小保方氏犯人説」に
 傾いていく。
  その影響は、今なお色濃く残っている。
  NHKは、十分な取材をしたと主張しているが、なぜ、
 MTAを確認するという基本的な裏取りをせずに、このよう
 ないい加減な放送をしたのか疑問である。
  同番組は、昨年8月からBPO(放送倫理・番組向上機構)
 の審理に入っている。
  今年4月26日、BPO臨時委員会が行われ小保方氏からヒ
 アリングを行っている。
  同日出席するはずだったNHK番組関係者は、熊本地震の
 取材を理由に全員欠席した。
  NHKスペシャル、そして、石川氏による刑事告発によっ
 て、小保方氏の名誉は著しく毀損した。
  一人の研究者であり、ひとりの人間である小保方氏の
 人生を破壊しかねないこの事案に対して、今後、どのよ
 うな責任を取るのだろうか。
  そして、野次馬のように小保方犯人説に便乗し、個人
 攻撃を徹底的に続けてきた無数の人物に問いたい。
  「あなたは、あなたの無神経な批判の刃の先に倒れた
 ひとりの人間の人生を想像することができるのか」と。
  (文=大宅健一郎/ジャーナリスト)
.
2017年02月21日、そして、今年になって、やっと、その陰
 の陰謀的行為をしたNHKが糾弾される。
  STAP細胞を発明したかもしれないという・・
  大発明家かもしれないという小保方晴子氏を扱ったN
 HKスペシャルが、「人権侵害をしている」とBPOか
 ら判断された。
  その記事が・・以下である。
  表題:小保方氏のNスペでBPO「人権侵害あり」勧告 
     委員の主観で判断できるのか
  2017年02月21日 11:30dot.
  https://dot.asahi.com/aera/2017022000088.html
  会見するBPO放送人権委員会の坂井眞委員長。
  BPOは、放送倫理や放送による人権侵害などを検証
 する、民間の放送局やNHKが設立した第三者機関。
  人権侵害に基づく勧告は、BPOの判断としては最も
 重い=2月10日、東京都千代田区 (c)朝日新聞社
  疑義のあるSTAP細胞の報道をめぐり、BPOは「人権侵害
 あり」の勧告をした。
  委員の主観に頼らざるを得ない判断が、調査報道の萎
 縮につながりはしないか。
  放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は、
 2月10日、小保方晴子氏に対する名誉毀損による人権侵害
 があったとして、再発防止を求める勧告をした。
  この勧告は、発表資料だけに頼らない報道の今後の在
 り方を問うものだ。
  問題の番組は、2014年7月27日放送のSTAPスペシャル
 「調査報告 STAP細胞 不正の深層」。
  放送の半年前に、作製が容易な新しい万能細胞として
 大々的に発表されたSTAP細胞をめぐる調査報道だ。
  何が問題となったのか・・、
  名誉毀損の判断は、「一般視聴者がどう受けとったか」
 を基準とする。
  委員会は、番組前半の「STAP細胞は存在するのか?」
 から、視聴者は次の四つを「事実」ととらえたと判断し
 た。
(1)STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高い。
(2)細胞の解析によれば、小保方氏のつくったSTAP細胞は
  精子が緑色に光る遺伝子が入ったアクロシンGFPマウス
  に由来するES細胞である可能性がある。
(3)STAP細胞は、元留学生がつくり、小保方氏の冷凍庫に
  保管されていたES細胞に由来する可能性がある。
(4)小保方氏には、元留学生のES細胞を不正な方法で入手
  し、混入してSTAP細胞をつくった疑惑がある。
  番組で示されたこれらの事柄(摘示事実)が、小保方
 氏の社会的評価を下げたことは明らかだ。
  だが、公共性・公益性の認められる調査報道では、真
 実(真実性)か、真実と信じる相当の理由がある(相当
 性)ならば、名誉毀損にはならないとされる。
  委員会は(1)と(2)には真実性があるが、(3)では
 認められないとした。
  (3)で示された元留学生のES細胞は(2)のアクロシ
 ンGFPの入ったES細胞ではなく、そうだと見なせる相当性
 もないからだ。
  (3)が認められない以上、前提となる(4)にも真実
 性・相当性はないとし、名誉毀損による人権侵害があっ
 たと結論づけた。
  2人は「人権侵害なし」
  ただし、9人の委員のうち2人は意見が異なる。
  奧武則委員は、アクロシンGFPの入ったES細胞と元留学
 生のES細胞のエピソードは別の話として視聴者は見るだ
 ろうとし、(4)にも相当性があるので「人権侵害があっ
 たとまでは言えない」。
  もう一人の市川正司委員も、「名誉毀損があったとは
 考えない」が、奧委員とは理由が違う。
  小保方氏の冷凍庫にあった複数のES細胞のうち、どれ
 かがSTAP細胞の正体となった疑いがあるとの考えには相
 当性があり、名誉毀損とはいえないとした。
  ただし、複数のES細胞の中で、元留学生のものに焦点
 を当てたことには相当性がなく、不正確で勇み足だと断
 じた。
  つまり、小保方氏の冷凍庫内の複数のES細胞を全て映
 していれば、問題はなかったという判断だ。
  このパートについて、坂井眞委員長は、「取材が不十
 分だったのではなく、編集上の問題。
  アクロシンGFPのES細胞の話と元留学生のES細胞の話を
 分けて示せばよかった」と話す。
  だが、小保方氏の冷凍庫に、元留学生のES細胞があっ
 た点は真実性がある。
  元留学生の証言から、これを、小保方氏が不正に入手
 した疑惑には相当性がある。
  これが、アクロシンES細胞ではないことが明示された
 としても、視聴者は結びつけてしまうのではないだろう
 か。
  坂井委員長は、「その表現を見てからでないと判断で
 きない」と話す。
  小保方氏の冷凍庫には、ほかにも複数のES細胞があり、
 そのうちの一つが、STAP細胞の正体だったことがのちに
 わかっている。
  市川委員の意見のように、これらを全て映していれば、
 元留学生のES細胞は、入手方法の不明さを示すあくまで
 一例となり、問題にはならなかったのか。
  ここの線引きもよくわからない。
  「一般視聴者がどうとらえたか」は、委員の主観的な
 判断に頼らざるを得ない。
  委員会は、調査報道が萎縮することがあってはならな
 いと強調したが、主観に左右される「一般視聴者のとら
 え方」を相手に、どこまで疑惑に踏み込んだ報道ができ
 るのかには疑問が残る。
  (科学ライター・詫摩雅子)
  ※AERA 2017年2月27日号
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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# by suba28 | 2017-04-13 05:46 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)

題:(増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年~20世紀初頭、アメリカは、1862年の奴隷解放の反
 動の中にあり、黒人の方々を、再び、虐(しいた)げ始
 めた。
  アメリカの「この人種差別のDNAは、なかなか抜け
 ない」。
  アメリカは、良い子になっている。
 アメリカと言っても、その底には「北部の・・」という
 意識が根強くある・・その様なアメリカなのである。
  南部と北部が戦った南北戦争の意識が、今・現代でも、
 その根底に残り・・そして、流れている。
  戦勝した北部は、あからさまに口には出さないが、「
 戦勝した北部という意識」で、南部に対する優越の意識
 下の中にある。
  北部軍の最高位に居る「リンカーン大統領は、記念堂
 に飾られ、奉られている」。
  何で、リンカーンだけなのだ・・??
  その様なアメリカであるが、キリスト教の宗教観から、
 有色人種への蔑視感が強い。
  この蔑視観は、「アメリカの南北の差別観」より強く
 存在し、このキリスト教が根付かせた黒人の方々への差
 別観は、今なおぬぐえぬ『アメリカの大汚点』としてあ
 る。
  この差別観・蔑視観は、アメリカ北部にもあり、また、
 南部もあり、その差はなくアメリカに存在する。
  それなのに、アメリカ北部は、黒人の解放は、アメリ
 カ北部の理念で、「アメリカ北部が成し遂げた」と言う
 が(その逆に、アメリカ南部の方々を、そして、その地
 方を悪者にしている)、
  だから、その象徴としてリンカーン大統領を「祭り上
 げている」が・・?
  これは、アメリカのイニシアチブをとるアメリカ北部
 のプロパガンダ(嘘宣伝)である。
  アメリカ北部は、何ら黒人の方々を積極的に解放しよ
 うという行動なんかとっていない。
  リンカーン大統領にしたって、黒人の方々への差別観
 は酷(ひど)いものだった。
  アメリカ北部が行なう、プロパガンダ(嘘宣伝)で、
 その事実・真実は隠され、大きく捻じ曲げられているが、
 リンカーンは、黒人の方々を棄てたいとまで考え、そし
 て、実行した大統領だった。
  だから・・実際、アフリカのリベリアへ「黒人の方々
 を棄てた」、棄民した。
  1890年、アメリカ北部の独占資本家と、アメリカ南部
 の大農園経営者のプランターは、手を握って、連合勢力
 を作って、黒人の方々を虐(しいた)げた。
  それは、協同して黒人の方々を、都合よく処理したい
 という卑劣な考えのためだった。
  黒人の方々の地位をより低くとどめたいと、そして、
 奴隷解放以前の状況を作ろうとするものだった。
  黒人の方々の運動を押しつぶすのだった。
  黒人の方々への支配力を強くしたいという行為だった。
  そうする事によってよって、多くの利潤を搾出(さく
 しゅつ、しぼりだす)しようとした。
  そして、1890年~20世紀初頭にかけて、黒人の方々の
 選挙権を剥奪した。
  憲法に触れることを回避する方法が取られるという「
 卑劣なやり方」だった。
  その様な法律を作った。
  選挙権の事実上の剥奪である。
  「読み書きテスト」をして、字の掛けない黒人の方々
 や、字の読めない黒人の方々の選挙権を剥奪(はくだつ)
 した。
  その様な事を理由として、黒人の方々へ、選挙権を与
 えなかった。
  また、「人頭税」という法律を作って、その税金を払
 えない黒人の方々への選挙権をはく奪した。
  こんな国家=アメリカ合衆国が、民主主義の国家だな
 んて言えるはずがない。
  この根本には、キリスト教による「有色人種への蔑視
 観」があった。
  そのキリスト教の教義に洗脳された者たちの悪行為だ
 った。
  キリスト教のヒエラルキー・・序列の支配する宗教=
 キリスト教は、その序列観から、何から何までの差別観
 を与えた。
  白人を・・黒人の方々や・・有色人種の・・序列を上
 とした。
  この様な差別観を与えるという・・程度の悪い宗教=
 キリスト教だった。
  ここから、有色人種の大量殺戮が生まれ、戦争が生ま
 れて行った。
1890年9月11日、川上音二郎が、東京で初の壮士芝居を行っ
 た。
  この年・1890年、、大阪俄(にわか)を改良した「書
 生仁輪加(にわか)」の一座を組織して横浜、東京で公
 演した。
  翌・1891年に、堺の卯の日座に「書生芝居」の一座を
 旗揚げし、
  同年・1891年、東京・浅草鳥越の中村座に「板垣君遭
 難実記」やオッペケペ節を演じて喝采をあびた。
  河上音二郎(かわかみおとじろう)は、1878年(14歳)
 のとき、故郷を出奔し、自由民権運動に身を投じ、自由
 党壮士となった。
  浮世亭〇〇(まるまる)と名のって自由民権論を鼓吹す
 る。
  闘争をする中で、講釈師、寄席芸人になったり、「書
 生にわか」を試みたりした。
  1891年、堺で川上書生芝居(新派劇の前身)を旗揚げ、
 地方巡演ののち『板垣君遭難実記』で東京公演に成功。
  その年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚。
  『意外』『又意外』などホットニュースの上演や、日
 清戦争をあてこんだ戦争劇の連続上演で新演劇の基礎を
 確立、
  1895年に、歌舞伎座に進出するまでになった。
   世相を風刺した「オッペケペー節」は大流行し、
  1900年のパリ万博など欧米公演でも喝采を浴びた。
  1903年~1906年、正劇と称して、シェークスピアの『
 オセロ』など西欧戯曲の翻案物を上演し、西洋演劇を日
 本に紹介し、明治新演劇運動の先駆者となった。
  4度にわたる渡欧で海外巡演もし、川上座、大阪帝国座
 など劇場を建設したり、妻と帝国女優養成所を開いたり、
 時代の機をみるに敏で、事業欲に富む波乱の一生で、
  1911年、舞台で倒れ、47歳で亡くなった。
1890年9月15日、愛国公党、自由党などが統合して立憲自由
 党が結成された(8月25日説あり)
  大同団結運動において、東京・芝に、板垣退助、河野
 広中、大井憲太郎らが参集した。
  そして、旧自由党系の愛国公党・再興自由党・大同倶
 楽部の3派に、主導する立場の九州同志会を加え、そして、
  第1回総選挙後のこの日・1890年9月15日に結成された。
  「皇室尊栄」「民権拡張」「内政簡略」「対等条約」
 「政党内閣実現」・・を、掲げた。
  党首をおかず、党指導部は、幹事5名で構成された。
  第1議会では、改進党と民党連合を形成した。
  そして、予算案をめぐって藩閥政府と対決したが、い
 わゆる、土佐派の裏切りによって、民党側は敗北を喫し
 た。
  党の統制は乱れた。
  このため 、1891年の党大会で・・、総理1名をおくこ
 と、役員は総理の指名とすることなど・・、組織改革を
 断行した。
  総理に、板垣退助が選出された。
  党名も、立憲の2文字を削り、自由党と改称した。
  これまでの動きをは・・、
  三大事件建白運動の高揚した3年前の1887年10月・・、
 後藤象二郎(しょうじろう)は、丁亥倶楽部(ていがいくら
 ぶ)を設立し・・大同団結運動を提唱した。
  運動は、その直後の保安条例の発布によって、一時停
 滞したが、
  1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の際の大赦令によ
 って、
  福島事件・大阪事件関係の河野広中(こうのひろなか)、
 大井憲太郎(けんたろう)らが出獄し・・盛り上がった。
  しかし、同年・1889年3月の後藤の逓信(ていしん)大臣
 の入閣を機に、運動は、河野らの政社派と、大井らの非
 政社派に分裂した。
  1889年5月、政社派は大同倶楽部、非政社派は大同協和
 会を結成した。
  板垣退助(たいすけ)は、第1回総選挙を目前にして両派
 の合同を策したが実らず。
  大同協和会は、翌年・1890年1月、同会を解散して自由
 党を再興結党した。
  板垣も、1890年5月、愛国公党を組織した。
  しかし、この間、次第に、合同の気運が生まれ、
  1890年6月、自由党、大同倶楽部、愛国公党は連合し、
 庚寅(こういん)倶楽部を結成した。
  1890年7月の総選挙での民権派の圧勝を受け、
  1890年8月、三派はそれぞれ正式に解散した。
  そして、さらに、九州連合同志会も解散して、これに
 加わり、立憲自由党が結成された。
1890年9月16日、エルトゥールル号遭難事件
  木造フリゲート艦のオスマン帝国軍艦が、台風によっ
 て、和歌山県串本沖で遭難した。
  この日の夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトル
 コ)の軍艦・エルトゥールル号が、
  現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東
 方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した。
  この事件は、1887年に行われた日本の皇族・小松宮彰
 仁親王の御夫妻のイスタンブール御訪問に応えることを
 目的に、
  オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、日本へ派遣さ
 れることになったオスマントルコ帝国の使節団が来日し
 た折に起きた。
  この使節団は、1890年6月7日に横浜に入港し、
  1890年6月13日に、皇帝親書を、明治天皇陛下へ奉呈し、
 天皇陛下に拝謁した後に、帰国の途に就いたが、
  和歌山県串本町沖で、同号は、台風に遭い、座礁し、
 沈没した。
  この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、明治天皇
 陛下へ伝えられ、言上された。
  天皇陛下は、可能な限りの援助を行なうよう指示し、
 また、直ちに、医者、看護婦の派遣をなされた。
  乗員650名の内、残念なことに581名が亡くなった。
  串本町大島の住人の方々は、台風の嵐の中、総出で必
 死の救助にあたって、69名を救出したのだった。
  そして、救出された生存者の方々を、樫野の寺や学校、
 そして、灯台に収容し、介抱に当った。
  助かった方々も、58名が負傷していて、内38名が重傷
 という大惨事だった。
  住民の方々は、食糧の貯えもわずかだったにもかかわ
 らず、タマゴやサツマイモ、それに非常用のニワトリす
 ら供出するなどして、献身的に、生存者の方々の救護に
 努めた。
  また、浴衣などの衣類も供出し救護に努めた。
  この遭難を、各新聞は、衝撃的なニュースとして伝え、
 これを知った日本の方々からも。義援金・弔慰金が、多
 数、寄せられた。
  その後、エルトゥールル号の乗組員は、神戸で順調に
 回復し、
  その後、日本海軍の巡洋艦・比叡と金剛で、トルコま
 で丁重に送り、
  1891年1月2日、オスマン帝国の首都・イスタンブール
 へと送り届けた。
  因みに、この送還した船に、秋山真之(あきやまさね
 ゆき)が乗船し、従事している。
  この報は、新聞を通じて、大島村民による救助活動や、
 日本政府の尽力が伝えられ、
  当時、トルコの方々は、遠い異国である日本と日本人
 に対して、その誠意に感謝して戴いた。
  そして、この遭難で亡くなられたトルコの方々を悼ん
 で、大きな碑「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」が、
 和歌山県串本町に建立された。
  現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メル
 スィン市は、姉妹都市となっていて、この慰霊碑の他に
 もトルコ記念館も建っていて、
  町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごと
 に行われている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アラモの砦は最初から砦のつもりで造った・・
    日本は国力が出来てやっと独り立ちしたが、だが、
   列強に「がめつくしゃぶられた」。
    アメリカに卑劣な私刑が・・そして、私の殺人集団が横行する
.
1836年2月23日、アラモの戦い、(~3月6日)
  アメリカのテキサス州は、アメリカがメキシコから奪
 った領土である。
  今のアメリカのテキサス州は、メキシコの「コアウイ
 ラ・イ・テハス州」だった。
  この地の奪い取りのために、アメリカは、アラバマ州、
 サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、ルイジアナ
 州、ミシシッピ州、テネシー州、バージニア州などから
 兵を募って奪い取った。
  「アラモの戦い」は、この時の戦い。
  事の始まりは・・
  領土の欲しいアメリカは、初めは、調子よかった
  アメリカは、メキシコに言った・・、
  「メキシコさん、大変でしょうからテキサスを開拓し
 て差し上げましょうか?」・・と・・、
  「入植して差し上げましょうか?」・・と・・、
  メキシコの偉いところは、当時、メキシコは、「奴隷
 制をすでに禁止していた」・・、
  (アメリカの奴隷解放は、1862年だから、この年から
 まだ30年くらい経たないと、アメリカは奴隷を解放しな
 い))・・
  それ故、アメリカの様な奴隷制での開拓は、メキシコ
 は行わなかった・・、
  その様な経過で入って来たアメリカの入植者たち・・、
  トランプさんが嫌がる「移民である・・これが、その
 うちメキシコの土地を奪ってしまうのである」・・、
  やっぱり・・これきっかけとして、メキシコの領土が
 奪われて「テキサスとなってしまう地」に、アメリカの
 開拓民が入って来た。
  それも・・メキシコが、「奴隷を連れて来ては駄目だ
 よ」と言っているのに・・、アメリカは、奴隷にした人々
 まで連れて来て・・、
  アメリカからの人間の数を増やした・・移民を増やし
 た。
  そのうち・・、テキサスのメキシコ人が1万人の所に、
 アメリカからの人間が・・3万人となった頃に・・、
  アメリカ人たちは・・(元アメリカ人というのか??)
 「我々は独立します」・・と言った。
  アメリカは、最初からこの予定だった・・(国は前面
 に出ていないが・・後ろに隠れているが・・)
  そして、「アラモの砦」まで築いて、メキシコの土地
 を取ってしまった。
  この砦だって・・最初は、キリスト教会だよと・・言
 っていた・・最初から・・砦にする予定だったのだろう。
  今、アメリカの地で。「ニュー」と名前の付くところ
 は、ほとんどが、この様な卑劣なやり方で・・アメリカ
 が、奪った土地・・
  『ニューメキシコ』とか、『ニュージャージー』とか・・
 とか・・、
  アメリカの卑劣な所は・・この様なことを・・アメリ
 カの歴史を、学校で教えない・・
  だから・・「アメリカ人は、この様な事は知らない」・・
 卑劣な事である・・
  アメリカは、戦争をしてまでして「民主主義を教える
 のだ」と言って戦争をするが・・
  先ず、自国の子供たちに「この様な道徳」を教えよ・・
  「嘘ついて、他国の土地を奪っては駄目だ」と教えよ・・
  そして、正しい自国の歴史を教えよ・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  差別の条約・・不平等の条約が、改正されたのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も・・治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1894年、朝鮮南部で、農民暴動が起きた。
  「甲午(こうご)農民暴動」と呼ばれた。
  農民の暴動の原因は、「腐敗した役人の追放要求」と、
 「外国人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせにより出兵した。
  結果、日清両国の衝突が起きた。
  このぶつかり合いが、拡大して行き、日清戦争の原因
 となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点は、
 陸戦でも海戦でも、清国を圧倒した。
  日本は、「新兵器を装備していた」、
  また、「軍隊の訓練・規律に優っていた」、
  「日本人全体の意識が、国民として一つにまとまって
 いた」。
  ちなみに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する
 ときには、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという
 条約を結んでいた。
.
1895年、下関条約が結ばれた、そして、出る杭は打たれる
 となって行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからって、アメリカやヨー
 ロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」とい
 う利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思って、「清は、朝鮮の独立を認
 める」という条項を約させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという形にした。
  アメリカだって、『アラスカを、金出して領有しただ
 ろう』・・それと同じ。
  日本は・・奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという『
 大金を、清へ支払った』・・忘れないでくれ!
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪っていたが、『日本は、その様な事はしなかった』。
  賠償金3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本に、清は敗けた。
  清が、日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロ
 ッパ諸国が、えげつなく、俺も俺もと「がつがつと食い
 はじめ」、清は餌食となった。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも、日本の立場は、まだ、アメリカ・
 ヨーロッパ列強の諸国から・・軽んじられていた。
  何と! 戦勝国の日本に、清国から得ていた遼東半島
 の返還の圧力がかかって来た。
  三国干渉が起きた。
  ドイツとフランスを誘ってロシアが、日本へ圧力をか
 けて来た。
  その強力な軍事力をちらつかせた。
  やることは『町のあんちゃん』の様なやり方である。
  日本は、清と一対一で対決した。
  武士の世界である。
  卑怯なグル(悪事を企てる仲間)に「つるむ」ような
 ことはしない。
  しかし、東アジアが欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉を日本にした。
  日本は、やむを得ず、遼東半島を清へ渡した。
  清は、一定額を日本へ返還した、当然である。
  そして、これから・・列強諸国は、清を蝕(むしば)
 む様な事をして行く。
  ロシアの領土欲は・・強烈だった。
  朝鮮も危なくなっていく。
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に転換し、拡大
 していく。
.
1895年の後、三国干渉
  日本が、日清戦争に勝って、下関条約を結ぶと、列強
 各国は黙っていなかった。
  必死に努力して国を富ませ、米欧に追い着けとやって
 きた日本。
  種々の事情から日清戦争となったが、
  この間まで、アジアの遅れた小国・日本が、
  この様な事態になると、
  東アジアで美味しい汁を吸いたい列強諸国は・・黙っ
 ていなかった。
  強力な軍事力で、日本を脅しながら、
  また、卑怯な事にグルとなって、日本へ「いちゃもん
 を付けてきた」。
  ロシア・ドイツ・フランスの三国だった(三国干渉)。「
  「遼東半島まで清国から得る」のはおかしいじゃない
 か?という言い分だった。
  「清国へ返しなさい」と言った。
  アメリカを含めて、弱い者に対して、好きに言いたい
 事を言う国々いだった。
  有色人種の日本が、『白人のマネはするな』の気持ち
 だった。
  大いにキリスト教の「有色人種蔑視」のマインド・コ
 ントロールがあった。
  アメリカは、今・現在も、「日本の皇室の皇統につい
 て」無礼な内政干渉している。
.
1947年、アメリカで、リンチ禁止法が制定された。
  リンチは、私刑(しけい)であり、
  国家ないし公権力の法と刑罰権に関係なく、
  個人、または、特定集団により行われる私的な制裁で
 ある。
  アメリカは、まったく遅れている、この法が、やっと、
 1947年になって制定された。
  リンチによって、アフリカ系アメリカ人の何人が殺さ
 れたというのか、まったく、憤りに堪えない。
  今でも、KKK(クー・クラックス・クラン)という
 黒人の方々をターゲットとして殺す『白人組織』がアメ
 リカにはある
  また、奴隷にされた黒人の方々が、素行が悪いとか、
 共同体の規範を乱(みだ)すとかの言い掛かりで、虫け
 らの様に殺された。
  この法律の出来る背景に、1946年に、黒人の方々に対
 するリンチが多発するアメリカだった。
  あまりの酷さに・・アメリカ大統領は、調査を目的に、
 公民権委員会を任命したのだった。
  アフリカ系アメリカ人を、「二級市民」だと差別する
 実態などが・・「公的に認知されるという、おぞましさ
 だった」。
  (参考)おぞましい:接する状態に恐怖・嫌悪を覚え、
    そこから逃れたい、嫌な感情の状態。
  また、この頃、ソ連との冷戦で、アフリカ・アジアで、
 共産主義政策を採用するの発展途上国が急増していた。
  オランダやフランスやイギリスは、日本に解放された
 アジアの植民地諸国を奪い返す為に、軍隊を派遣し、酷
 い事に数百万人の独立派を弾圧した。
  第二次世界大戦で、散々、酷(むご)い戦争をしてき
 たのにである。
  日本兵の多くも、アジアの国々の独立を勝ち取ろうと、
 独立を助けようと・・日本へ帰国せずに残った。
  アメリカ大統領のトルーマンは、ソ連と情報戦に負け
 ない情報機関を作りたいと・・OSSを中心に諜報機関
を統合して、『CIA』を創設した。
  情報戦は、「人間不信であるの原則」から、二重スパ
 イを警戒した。
  それ故、CIAの暴走を監視する為に、「FBI」、
 「陸・海・空軍における別個の諜報機関」など・・「数
 多くの組織」を設置して敵対させた。
  現在、NSC(国家安産保障会議)には、15の情報機
 関のトップが出席している。
  CIAの情報収集担当者は、5,000人以上も居て、その
 下に事務員を含めて30,000人前後の専用職員がいる。
  そして、世界中の工作員を含めれば、50,000人以上と
 なっている。
  そして、機密費を含め、莫大な予算が組まれている。
  敵の機密情報を得る為には、相手を味方に引き込む事
 が最善の方法として、マネー(M)と、イデオロギー(
 I)と、コンプロマイズ(C、強制的服従)と、エゴ(
 E、欲)を最大限に利用している。
  諜報工作員の大原則は、日本人が最も嫌う、家族・友
 人・同僚までも疑う「人間不信」で、
  国家機密情報を守る為には、他人はおろか家族友人で
 も殺害する「冷血な非情さ」で・・、
  その様な様相からか・・? 日本の政治家は、情報機
 関はおろか諜報機関も作らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-04-11 05:13 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)516E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年9月)

題:(増補版)516E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年7月、東京・浅草公園の花屋敷の中の奥山閣で、蝋管
 蓄音器を設置し、役者の声色(こわいろ、役者などのせ
 りふまわしの音色・くせなど)を聞かせた。
  1877年に、蓄音機が、エジソンによって錫箔を円筒に
 巻いたレコードを使用する錫箔蓄音機が発明された。
  そして、その8年後の1885年に、エジソンとベルによっ
 て、錫箔に変わって蝋を使用した「蝋管蓄音機」ができ
 た。
  この蝋管蓄音機は、1896年頃より、日本への輸入が盛
 んになった。
  だから、この時、1890年の当時は、珍しかった。
  因みに、平円盤の蓄音機は、日本では、1907年頃より
 主流となった。
  そして、1910年に、日本初の国産蓄音機「ニッポノホ
 ン」が発売された。
  また、この明治時代には、大道で、蓄音機屋と称する
 人たちが、蓄音機で音を聞かせる商売が流行った。
1890年8月2日、中央気象台の官制が制定された(8月4日説
 あり)
  1887年1月1日に、東京気象台が中央気象台になったが、
  この時、1890年8月2日に、中央気象台官制の制定に基
 づいて、初代の中央気象台長に荒井郁之助がなった。
  荒井郁之助は、昌平坂学問所で学び、軍艦操練所教授
 を務め、江戸末期は幕臣で、明治期は官僚となった。
  江戸時代は、徳川慶喜らの要人を、大阪へ船で送るな
 どの重役を果たした。
  また、海軍副総裁の榎本武揚らと、新政府軍の支配下
 に置かれた江戸を脱出し、凾館戦争にも身を投じている。
  そして、箱館政権(蝦夷共和国)では、海軍奉行を務
 め、
  宮古湾海戦を、土方歳三の箱館政権陸軍奉行並と共に
 戦い、
  また、箱館湾海戦を戦った。
  降伏した後の、新政府が樹立された後は、死刑を免れ、
 新政府にかかえられた。
  そして、1876年に、新政府を辞任し、
  開拓使仮学校と女学校の校長を務め、気象学に励んだ。
  1887年に、皆既日食の観測を行ない、日本で初めて、
 太陽コロナの写真撮影に成功した。
  温和な性格で、ひどく謙遜家だったという。
  気象台長時代は、部下を褒め、報告書なども「至極結
 構」と常に言っていた。
  そのため、「至極結構」というあだ名が付けられ、呼
 ばれたという。
  しかし、ある夜、強盗に入られた時は、槍で猛然と立
 ち向かうという「武勇の者」でもあった。
  戸籍には、士族とも名乗らず、また、華族とも書かず、
 ただ、「平民」と記したという。
  そして、宮古湾海戦なども、「ただ、あの時は夢中だ
 った」と語るのみで、他は何も語らず・・、
  ただ、「敗軍の将、再び兵を語らず。
  牢獄から出て来た時に、剣を捨てて、生まれ変わって
 再生をしたのであるから、平民となる」と答えたという・・、
  1888年12月26日、勲六等瑞宝章
  1889年11月29日、大日本帝国憲法発布記念章
  1894年に、従五位を賜わる。
1890年8月6日、アメリカ合衆国で、電気椅子による、初の
 死刑が執行された。
  アメリカ・ニューヨーク州のオーバーン刑務所にて、
 ウィリアム・ケムラーに対して、電気椅子による初の死
 刑執行が行われた。
  この死刑執行は、悲惨なものだったと言われている。
  1回目に17秒間にわたり、(あまりにも悲惨なので、以
 下を略す)
  アメリカは、1899年に、女性への初の電気椅子による
 死刑執行をも行っている。
1890年8月12日、電気学者・藤岡市助により、初めて、炭素
 線電球が作られた。
  後に、東芝へ発展するこの電灯会社「白熱舎」で・・、
  この日、日本初の白熱電球が完成した(藤岡式白熱電
 球)
  この当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の
 国産化は、日本の産業発展の根幹をなすもので、
  自給自足の精神を叶(かな)えて行く近代国家として
 も、これは、大きな象徴的な誇りとなった。
  その技術ある、また、伝統ある東芝は、アメリカに食
 われそうになっている。
  この様に、日本が育てた会社が、度々、食われている。
  卑劣な、言い掛かり的な特許の引っ掛け話だけでも、
 目の飛び出る様な金を、どれだけの会社が奪われた事か・・
  従属国的な見方で・・言いたいことを言われている。
1890年8月17日、新聞紙の挿図(そうず、さしえ)に、初めて
 写真版が表(あら)われた。
  (参考)写真版:しゃしんばん、写真を網点(あみてん)
    の大小に置き換えて濃淡を表した凸版。
     網版と同じ意味に用いられるが、正確な意味で
    は、平版オフセット印刷の写真の部分は写真版と
    はいわず、あくまで凸版印刷での写真を再現する
    場合に用いられる。
     しかし、平版においても、線画や文字部分に対
    して写真の部分で、写真版という言葉が使われて
    しまうこともある。
1890年8月23日、電柱広告が許可される(5月28日説あり)
  東京電灯会社の電柱広告が警視庁から許可される。
  この最初の電柱広告は、三角形で三面ガラス入りの、
 行灯型タイプだった。
  この頃、道路照明がないため、電灯入りの行灯型電柱
 広告が街灯の役目も果たした。
  因みに、電柱塗り広告とトタン板に電灯付きの掛広告
 は1916年(大正5年)。
  また、「時事新報」に、1890年5月30日付で「東京電燈
 会社が5月28日、警視庁より許可を受ける」との記載があ
 るので、この日が電柱広告の始まりとする説がある。
  また、「電力百年史」「東京電燈株式会社開業五十年
 史」に、「東京電燈が1890年8月28日に許可受ける」と記
 載しているので、この日を始まりとする説もある。
1890年8月、大阪砲兵工廠(陸軍省所管)が、小型酸性平炉に
 よる製鋼作業を開始した。
  この大阪砲兵工廠は、造幣局と共に、大阪の産業集積
 の形成の役を果たした。
  この工場は、地域でのもの作りを主導した「先行工場」
 と呼ばれた。
  そして、大阪砲兵工廠は「オープン調達主義」によっ
 て、外注取引や技術開発などを通じて、集積された工場
 の地域内の中小企業と強い関係性を形成した。
  そして、兵器の開発に取り組んだ。
  そして、多面的な影響を与え合いながら、その集積に
 高度な形成メカニズムが働いて行った。
  イギリスも、政府の積極的な誘致などの関与により、
 産業集積の形成が行われ、その際の核となる工場を「先
 行工場」としていた。
  そしてまた、この年、横須賀海軍造兵廠が、重油燃料
 によりフランス式小型酸性平炉作業を開始した。
  今、防衛研究に、非協力的な動きがあるが、この明治
 期の動きをモデルとし、しっかりした防衛技術のより一
 層の確立と、産業育成に取り組んで行って戴きたい。
1890年9月5日、大阪の大火(約1800戸焼失)
  新町遊郭が消滅した。
  新町遊廓(しんまちゆうかく)は、大坂で唯一の江戸
 幕府公認の遊廓(花街)だった。
  現在の大阪府大阪市大阪市西区新町1丁目~2丁目に存
 在した。
  日本は、1872年に、すでに、人権問題の解消を促(う
 なが)す目的の中で、遊女解放の芸娼妓解放令(げいじ
 ょうぎかいほうれい)が出されていた。
  この時を遡ること、18年も前である。
  (参考)1872年11月2日(旧暦10月2日)「明治5年10月
    2日太政官布告第295号」、
     人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開
    放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件(じんし
    んばいばいをきんじしょほうこうにんねんげんを
    さだめげいしょうぎをかいほうしこれについての
    ちんしゃくそしょうはとりあげずのけん)
  日本は、女性の方々を厚く保護する国なのだ。
  韓国の取り上げる「慰安婦像の件は、デッチ上げで、
 言い掛かりであるある」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:神殿売春は正義か?・・杉原千畝は法律違反者・・
    真珠湾の攻撃を完全に事前に知るアメリカ・・そして、嘘のデッチ上げ・・
    キリスト教信仰を隠して、他国の食文化をないがしろにする行為・・
.
1920年~1933年、アメリカが、禁酒法を施行した。
  アメリカは、この禁酒法と共に、売春が盛んになった。
  アメリカは、『売春の盛んな性奴隷の国』だった。
  20世紀のニューヨークは、特に、売春が盛んな町だっ
 た。
  売春ビジネスが横行していた。
  移民して来た客を取り合った。
  乱交パーティーを開いたり、ストリップをしたりして
 取り合いのサービスで客を奪い合った(低劣である)
  また、「医師の性病チェックのサービスもあります」
 の宣伝文があるくらいだった。
  町中が、売春稼業の店だらけだった・・その様な町の
 ニューヨークだった。
  卑劣な事に、この売春業に、投資も盛んに行われてい
 た・・まったく軽蔑すべき状況。
  町の名士と言われる人まで、売春への投資やるという
 低劣なアメリカの道徳観だった。
  キリスト教の『神殿売春(神殿で町の娘に売春をさせ
 た)』ではないが、町中が低劣な状況だった。
  15ドルという「低価格の料金で働かされる女性たち」
 だった。
  競争で価格はさらに下がった。
  それも、客からもらったお金の半分は、店の主人に取
 られるという女性たち・売春婦たちだった。
  アメリカ社会は、女性の方たちを差別していた・・
  キリスト教のヒエラルキー(序列)に影響された・・
 差別社会だった。
  女性の方々に対し・・良い仕事が用意され、用意でき
 ているという社会ではなかった。
  安い給料で、女性の方たちは虐げられ、それを補う形
 で週に1日、売春をするという、しなければ暮らせないと
 いうアメリカ社会だった・・
  警察は黙認した、また、賄賂を貰う警察という状況だ
 った。
  禁酒を叫ぶようになった社会・・、
  そこでは、ホテル以外では酒が飲めなくなった。
  これが、逆に、売春を盛んにした。
  10ベット以上あれば・・ホテルと認定された。
  そのベットで売春が行われた。
  19世紀に盛んになった。
  毎年、増え続けて行った。
  地下産業として移民もやり出した。
  ニューヨークから他の都市に広がって行った。
  政治家も、「法律を作っても、無くならないから」と
 言う、あきらめの低道徳の始末だった。
  ニューヨーク市議会も、不可能と決めた・・、
  場所を決めて・・集めるという策をとった。
  アメリカは、州法で「人種差別が認められる」という
 州さえあった・・低い理念の州があった。
  黒人男性が、白人女性を売春婦にして遊ぶことが禁止
 された。
  だが、この逆は認められた。
  町を歩く人たちが・・窓から、行為をしているところ
 がのぞけるようにしたという破廉恥な店さえあった。
  これを・・世界遺産に登録せよ・・!!
.
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻する、そして、
  ソ連軍が、その16日後の1939年9月17日に、ポーランド
 侵攻した(挟み撃ち状態になった)
  ポーランドは、ドイツとソ連に、両側から侵攻され始
 めた。
  ここに、ユダヤの方々の逃避の行動が起こされる。
  この時、周辺国に逃れたユダヤの方々に対するビザ発
 給行為が、日本の外交官に発生し、周辺国で始められた。
  日本のこの周辺国の外交官は、当然、ユダヤの方々へ
 ビザを発給した。
  周辺国の一つのリトアニアに居た杉原千畝だけが、ビ
 ザ発給したのではない。
  しかし、リトアニアの外交官の杉原千畝に関する問題
 が発生した。
  杉原千畝が、キリスト教徒だということから、キリス
 ト教の組織が・・嘘をデッチ上げているが・・、
  その嘘行為は・・卑劣な事に・・日本という国を貶(
 おとし)めてまでして、杉原千畝を美化をした。
  その杉原千畝の問題点(キリスト教組織の嘘の問題点)
 が発生した。
  (1)杉原千畝が、キリスト教徒ということで、キリ
 スト教組織が応援しているが、その美化の仕方の中で、
 日本という国をひどく貶めている。
  日本が、ユダヤの方々へ「ビザそ発給していなかった
 のを、杉原千畝はビザを発給した」と、日本を貶めてま
 でして、嘘をついてまでして・・杉原を美化をしている。
  日本は、ユダヤの方々へも、差別なく、ビザを発給し
 ていた。
  「日本は、ビザ発給してよい」としていた。
  キリスト教は、この根本で、『大きな嘘をついて日本
 を貶めている』。
  それでなくても、日本の慰安婦像などで、韓国による
 日本貶め行為がある中で・・、
  キリスト教徒である杉原千畝を美化したいというキリ
 スト教の日本人が、この様な嘘のデッチ上げをし、そし
 て、日本を貶める行為は絶対にしてはならない、懺悔せ
 よ!
  (2)キリスト教は、自分たちのことを美化する事に
 ついて、その数字を大袈裟にして美化する。
  キリスト教は、いつも、この様な行為をし続けている
 が・・、
  また、中国が、南京虐殺について、日本がしていない
 行為を、「している」とし、
  また、その虐殺人数も、年々、大袈裟に、数を多くし
 ているが・・
  キリスト教もこの様な、同様な行為をする。
  「天草の乱」もそうである。
  キリスト教に偏するNHKでさえ「15000人だ」と大袈
 裟に言ったが、
  キリスト教は、「37000人だ」と、さらに大きくふかし
 た数字を言った。
  すべてが、この様なことで、中国の例の様な行為をす
 る。
  この杉原千畝のことも、キリスト教は、ユダヤの方々
 へ、「6000人のビザを発給した」と言っているが、これ
 は、はっきりした嘘の数字である。
  日本の外務省は、公式に「1200人だ」と言っている。
  キリスト教は、「5倍に、ふかして」大袈裟に言ってい
 る。
  (3)杉原千畝は、「領事代理」という身分であるが、
 キリスト教はこの資格については、この事については口
 を閉じて言わない。
  日本政府に「ビザの発給をしても良いか?どうか?」
 の了解を得なければ発給の出来ないのに・・
  杉原千畝は、その行為を怠って、杉原千畝はビザを発
 給した。
  また、杉原千畝は、ビザ発給規則を守らなかった。
  千原千畝は「遵奉者ではない」のである・・法律違反
 者なのである。
  戦時中であったという特殊の事情はあったとはいえ、
 「遵奉行為者ではない人物なのである」。
  だから、その後、杉原千畝は、日本に帰って来て「依
 願退職を申し出た」のである。
  それで、退職したのであって・・
  キリスト教が、「日本政府が、退職させた」と言うの
 は嘘であり、日本を貶めている。
  日本は、三国同盟のドイツから「ユダヤの方々を虐げ
 る行為で、共同歩調をとってくれと言われた」が・・、
  当然、日本は、『きっぱりと断っている』。
  当然の立場から、ユダヤの方々を『保護した日本が、
 褒められるべきこと』なのである。
  だから、また、当時の日本の大使館は、どこでも「ユ
 ダヤの方々へ、ビザの発給をしていた」。
  何も、特別、「杉原千畝だけが、ビザを発給していた
 のではない」。
  キリスト教の偏するNHKは、キリスト教組織と一緒
 になって、日本を貶めている。
  キリスト教へ言いたい・・、
  何も、君たちだけが偉いのではないのだ。
  杉原千畝だけではないのだ。
  日本人全体が、そして、日本の国が、褒められるべき
 行為をしたのだ。
  日本には、キリスト教の様な「人種差別はない」のだ。
  どの民族とも「民族協和して行く」というのが、日本
 の理念だったのだ。
  そして、アジアの方々の解放を目指したのだった。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われた・・が、この攻撃の
 前に、日本の特殊潜攻艇がこの攻撃に参加していた。
  特殊潜攻艇は、速力が遅いため、日本の連合艦隊より
 先行し、先に真珠湾へ向かっていた。
  実は、日本のこの連合艦隊の動きは、完全にアメリカ
 軍に把握されていた。
  逐一、ハワイへ向かって進む艦隊の行動は、アメリカ
 にキャッチされていた・・電信などで・・、
  ルーズベルト大統領が、真珠湾攻撃の前日に、「明日、
 ハワイの真珠湾が攻撃される」・・と、口を滑らして言
 うということがあったくらいだ・・、
  明確に、日本の行動は、アメリカに知られていた。
  連合艦隊に先行してハワイの真珠湾に侵入した「この
 特殊潜攻艇」も、アメリカ軍に発見されていた。
  そして、この日本の特殊潜攻艇は、アメリカ海軍の攻
 撃を受けた・・このアメリカの攻撃によって戦争は始ま
 った・・この攻撃によって、真珠湾攻撃が行われる前に、
 日本の特殊潜攻艇は撃沈されていた。
  日米の開戦は、真珠湾攻撃以前に、すでに、戦端は開
 かれていた。
  アメリカは、これを「鯨だ」と「嘘を言った」。
  アメリカは、「日本の奇襲攻撃をでっち上げたかった」。
  『戦争を回避したいというアメリカ世論』を変えるた
 めに、
  ルーズベルト・アメリカ大統領は、日本の奇襲攻撃を
 「でっち上げたかった」。
  故に、先行した日本の特殊潜攻艇を、アメリカが攻撃
 した行為を、「鯨だった」としたかった。
  れっきとした、日本の特殊潜攻艇への攻撃を、この日、
 アメリカの『交戦状態』を、「日本の奇襲をでっち上げ
 たいため、アメリカは隠した」。
  日本の特殊潜攻艇は・・5隻いた。
  その5隻のすべてが、アメリカ軍の攻撃で撃沈された。
  アメリカのデッチ上げの説明の論理性が、ここでも完
 全に崩れている。
  この5隻の日本の特殊潜攻艇との交戦を、『そのすべて
 をクジラだ』と、アメリカは言うのか?
  バカも休み休み言いなさい・・と、言いたい。
  その日本の特殊潜攻艇には、1隻に2人乗っていた、日
 本の兵士が・・、
  故に、合計10名の内、1名を、アメリカは捕虜にしてい
 る。
  この日本兵は・・『クジラでは無い』。
  9名の日本の兵士は戦死をしたが、その1名の日本の兵
 士を捕虜にしておきながら、よくも「クジラだ」なんて
 「明らかに嘘と分かること」を言うものだ・・、
  アメリカの国民の方々さえ「騙(だま)せればよい」
 というアメリカのルーズベルト政権だった。
  日本は、この戦死した9名を「九軍神」とした。
  アメリカは、この様な「ハワイのクジラ発言」ととも
 に、日本との戦争の損害を「過少発表」の嘘発表をした
 りもしていた。
.
2015年12月1日、調査捕鯨
  日本は、クジラを食文化の食材として来た。
  反対国の代表のオーストラリアが建国される前から、
 日本はクジラを食材として捕獲して来た。
  このオーストラリアなどのキリスト教国が、クリスマ
 スに七面鳥を食するのと同じである。
  食習慣・食文化なのである。
  何故、この七面鳥を殺して食べるのが良くて、クジラ
 は駄目なのか?
  卑劣な事に、キリスト教国の反対国は、この論理を降
 ろした。
  資源の確保である。
  クジラが減っているという。
  これは、まったくの嘘・・日本は、科学的な調査捕鯨
 をしているが、『クジラは増えている』のである。
  食の資源として利用可能なのである。
  しかし、捕鯨反対国は、キリスト教という宗教からの
 反対を隠して、なんだかんだと日本の捕鯨に反対してい
 る。
  かつては、鯨油だけをとるために、クジラを殺しに殺
 してきたキリスト教国なのにである。
  そして、可哀想に・・そのクジラの肉は、食さずに捨
 てていたのである・・そのほとんどを棄てていた・・
  日本は、頭から尻尾まで、100パーセントを利用してい
 る。
  クジラを「完全に生かしている」。
  オーストラリアは、「カンガルーを撲殺する行為をし
 ている」。
  オーストラリアは、自国の、この様な、野蛮な行為を
 止めることをしてから話を始めよ!
  以下に・・、この日の読売新聞を参考にして記すと・・、
  「調査捕鯨、逆風の船出」「2年ぶりの『捕獲』反発必
 至」「きょう、南極へ」とある。
  記事には・・、南極海での調査捕鯨に向けて、調査船
 が1日、下関港を出港する。
  クジラを捕獲する調査は2年ぶり。
  同海域での調査捕鯨中止を命じた「昨年3月の国際司法
 裁判所判決」などを受け、今回は、捕獲数を従来の3分の
 1程度にとどめるが、
  反捕鯨国などから激しい反発が予想される・・とある。
  オーストラリアが強い反対国で・・2010年に、中止を
 求めて提訴した。
  日本は敗訴した。
  日本の調査は、クジラを殺さない調査もしている。
  そして、調査結果も公開し、海外の研究者にも意見を
 求めたりしている。
  しかし、国際捕鯨委員会(IWC)科学委員会は、『
 捕獲数の妥当性が立証されていない」と指摘している。
  また、反捕鯨国は、「実質的な商業捕鯨だ」と批判す
 る。
  水産庁は、日本の研究者が科学的に妥当性を証明した
 として居るが、その証明に納得していないのか? これ
 による解決には至らなかった。
  IWCは、「調査を先延ばしせよ」と言っている。
  環境NGO「グリーンピース」など16団体は調査捕鯨
 中止を求める声明をした。
  また、反対の妨害行為を受ける可能性もある。
  計画通り調査が進むかは不透明。
  まったく、今は、反対の国や団体は、その根本にある
 「キリスト教の事を隠している」。
  当初にあった反対する理由に、大きく関係しているキ
 リスト教の考え方から反対するのだ。
  これが正義なのだの言い方は、筋が通らない論理と分
 かっているから、今は、まったく無い。
  論理的に主張しうる論理では無いと引っ込めた。
  この反対のエネルギーを見ても分かるように「信仰と
 いう理念」に、そのエネルギーは「ある」と、この事か
 らも分かる。
  オーストラリア牛肉を売りたい、もっと日本で「オー
 ストラリア牛肉を食べてもらいたい」もある。
  今は、「クジラは、知恵ある動物です」というキリス
 ト教の捉え方・論理は、まったくと言ってない。
  また、「クジラは、地位ある動物です」というキリス
 ト教の捉え方・論理も、まったくと言ってない。
  反対の深層にあるが、今は、まったく表に出さない。
  自分の信仰する宗教からは、やってはいけない事とな
 っているが、他の信仰を持つ人々へ、自分たちだけの、
 信仰を押し付ける行為が、まったく正義と言えない、不
 正義行為と分かったからだ。
  そして、それを隠して不正義な行為をしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-04-09 05:26 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年7月)

題:(増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年7月27日、偉大な画家フィンセント・ファン・ゴッホ
 が、悲しいかな、この日に、猟銃で自殺をした。
  歴史に大きな足跡を残した画家、ファン・ゴッホ・・
  その人生は・・幸せだったのだろうか・・?
  この日・・可哀想に、1890年7月27日、猟銃により自ら
 を撃ち、そして、2日後の7月29日に亡くなった。
  キリスト教の牧師の家庭に生まれたファン・ゴッホ・・、
  生誕は、1853年3月30日・・それ故、37歳4ヶ月の短い
 人生だった。
  弟のテオドルス・ファン・ゴッホは、この兄を一生懸
 命に支えた。
  (この弟は、1857年5月1日生まれ、4年1ヶ月の年齢差
 の弟だった。
  そして、驚くべきことに、この弟のテオも、この兄を
 追うように、5か月後に亡くなっている。
  33歳8か月の命だった・・
  この兄弟の命は、共に、あまりにも短かった)
  兄を失ったこの時は、33歳3ヶ月だった。
  ファン・ゴッホ・・その人生は・・幸せだったのだろ
 うか・・?
  彼の人生を辿ってみると・・、
  1860年(7歳)ズンデント村の学校に入る。
  自然をよく観察し、そして、よく絵を描く、その才能
 を感じさせる子供だった。
  1864年(11歳)寄宿学校に入り、親元を離れる。
  1866年9月(13歳)国立高等市民学校に進学する。
  パリで成功した画家が、ここで教えていた、この画家
 に、絵を習ったという。
  1868年(15歳)1年を残して学校をやめ、家に帰る。
  理由は不明。
  後に(30歳の時に)、弟のテオに書いた手紙には、「
 僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いてい
 る。
  1869年7月(16歳)叔父の助力で、画商に勤め始めたが、
 約4年後の1873年(20歳)に解雇されている。
  この時のことについて・・「2年間は割と面白くなかっ
 たが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。
  1872年夏(19歳)まだ学生だったテオが、ハーグに居
 るファン・ゴッホの所を訪ね、数日、滞在した。
  職場でも、両親との間でも、孤立感を深めていたファ
 ン・ゴッホは、この時、弟との親しみは深まった。
  ファン・ゴッホにとって思い出の深い日々であった。
  後に、鮮やかな思い出として回想している・・、
  レイスウェイクまでの散歩、にわか雨に会って風車小
 屋でミルクを飲んだこと・・などなど、
  ファン・ゴッホは、テオに手紙を書き・・書簡のやり
 取りが始まった。
  この10代後半の時代に、美術館で、レンブラントやフ
 ェルメールらのオランダ黄金時代の大家の絵画に触れた。
  仕事でも、新興のハーグ派の絵にも触れ、美術への興
 味を深めた。
  1873年5月(20歳)ロンドン支店へ転勤となる。
  栄転の様に見えるが、実際は、叔父と会社の上司の関
 係悪化だった。
  1873年8月末、ロワイエ家の下宿に移る。
  この下宿先の娘に恋をし、思いを告白した。
  しかし、婚約していると断られる。
  1874年冬(21歳)キリスト教への関心を急速に深める。
  1875年5月(22歳)パリ本店へ転勤。
  この同じ本店の仲間とキリスト教の本を読みふける。
  その8ヶ月後・・
  1876年1月(23歳)勤め先から、「4月1日をもって解雇
 する」との通告を受ける。
  両親へ衝撃と失望を与える。
  1876年4月(23歳)イギリスの小さな私立の寄宿学校で
 無給で教師を始める。
  教えた科目は、算術、書き取り、フランス語初歩。
  1876年6月(23歳)伝道師となって聖書を教える。
  しかし、父から、聖職者になるのは無理だと説得され
 る。
  1877年1月~5月(24歳)書店で働く・・
  この頃も、肉は口にしないとか、聖書の翻訳をしたり、
 日曜日には、カトリック教会や、ルター派教会や、ヤン
 セン派教会に行ったりした(キリスト教ならどこでもよ
 いという状況だった)
  1877年3月、聖職者になりたいという気持ちが強く、叔
 父や、母の肉親(母の妹の夫)の牧師に相談する。
  1877年5月(24歳)叔父の家に下宿して、神学教育を目
 指して勉強に励むことになった。
  しかし、その勉学に挫折する。
  精神的に追い詰められる。
  自暴自棄になる。
  パンしか口にしないなどの行動をする。
  家に入らないで、夜も外で過ごすとか・・と。
  1878年2月(25歳)父から、勉強の進み具合のチェック
 を受ける。
  そして、勉強が進んでいないことを厳しく指摘される。
  学費は自分で稼ぐように・・と、言い渡される。
  聖職者になるための勉強から遠ざかるようになる・・
  が・・しかし・・伝道師になりたいという思いを固め
 た。
  1878年7月(25歳)アムステルダムの叔父の家を出る(
 10月の試験は、すっぽかし)
  1878年8月、ベルギーのブリュッセルの伝道師養成学校
 に試行としての3ヶ月の期間を過ごす。
  1878年12月(25歳)ベルギーの炭坑地帯で伝道活動を
 始める。
  1879年1月(26歳)熱意が認められて、半年の間は伝道
 師として仮の免許ををもらい、また、月額50フランの俸
 給ももらった。
  しかし、キリスト教会の伝道委員会が、ファン・ゴッ
 ホの常軌を逸した自罰的(じばつてき、みずからを責め
 る傾向があるさま)行動を、伝道師の威厳を損なうと否
 定した。
  ファン・ゴッホは、その指摘に従うことを拒絶した。
  すると、伝道師の仮免許は剥奪され、俸給は打ち切ら
 れた。
  1879年8月(26歳)父からの仕送りに頼ってデッサンの
 模写や、坑夫のスケッチをして過ごす。
  仕事をしない状態を、家族は厳しい目を注いだ。
  テオも、その生活ぶりを批判した。
  1880年3月(27歳)絶望のうちに、北フランスへの放浪
 の旅に出た。
  金も食べるものもなかった・・ひたすら歩いた・・、
  そして、ついに、エッテン(父の新しい赴任地、オラ
 ンダ、ベルギーに近い)の実家に帰る。
  父は、常軌を逸している彼を憂慮し、精神病院に入れ
 ようとした・・
  口論となった・・クウェム(ベルギー、フランスに近
 い)に戻る。
  1880年6月頃、クウェムに戻ったファン・ゴッホに、テ
 オからの生活費の援助が始まった。
  この時期、ファン・ゴッホは、周りの人々や風景をス
 ケッチしている・・そのうち、画家を目指す事を決意す
 る。
  1880年9月、北フランスへ・・苦しい放浪の旅に出る。
  後に・・この時期を振り返って・・
  「しかし、まさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってく
 るのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いてい
 た鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた」
 と書いている。
  1880年10月、絵が勉強したいと、突然、ブリュッセル
 (ベルギーの首都)に行く。
  そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをデッサン
 し続けた。
  そして、本格的に画家を目指すのならアカデミーに進
 むように勧められる。
  1880年11月(27歳)アカデミーに短期間出席する。
  遠近法や解剖学のレッスンを受ける。
  1881年4月(28歳)ブリュッセルに住んだ・・が、その
 経済的負担に堪えかねて・・実家のエッテンに戻り、田
 園風景や農夫たちを描く。
  この頃の夏、母の姉の娘・ケー(従姉妹)と散歩をし
 たりするうちに、彼女に好意を持つ。
  ケーは、未亡人で、7歳年上で、8歳の子供もいた。
  ファン・ゴッホは求婚した。
  しかし、「とんでもない、だめ、絶対に」という言葉
 で断られた。
  ケーは、アムステルダム(オランダ)へ帰ってしまっ
 た。
  ファン・ゴッホは、あきらめられず、何通も手紙を書
 いた。
  アムステルダムまで会いにも行ったが、会うことさえ
 拒否された。
  ケーの牧師の両親から、ファン・ゴッホの執拗さに『
 不愉快だ』と非難された。
  絶望した彼は、ランプの炎に手をかざして、「私が炎
 に手を置いていられる間、彼女に会わせて下さい」と迫
 った。
  夫妻は、ランプを吹き消し、会うことを拒否した。
  1882年1月(29歳)ハーグ(オランダ)に住み始める。
  オランダ写実派の担い手のモーヴを頼った。
  モーヴは、油絵と水彩画の指導をしてくれて、アトリ
 エを借りる資金を貸してもくれて、親身になって面倒を
 見てくれた。
  また、絵画協会の準会員にも推薦してくれた。
  しかし、関係は・・だんだん疎遠になって行く・・、
  ファン・ゴッホが、手紙を出しても、返事をくれなく
 なり・・態度もよそよそしくなった。
  石膏像のスケッチから始めるようにと助言するモーヴ
 と、
  モデルを使って人物画を描きたいとするファン・ゴッ
 ホの意見の違い・・、
  ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いでも、全否定
 されたかのように受け止め、怒りを爆発させるようだっ
 た。
  モーヴ以外にも、ハーグ派の画家たちも、彼を避ける
 ようになった。
  それでも、モデルをひたすらスケッチをすることに集
 中した。
  テオの月100フランの仕送りも、その大部分がモデル料
 に費やされた。
  送金が送れると、テオをなじるくらいだった。
  1882年3月(29歳)ファン・ゴッホのもとを訪れたコル
 叔父が、街の風景の素描を12点、注文してくれた。
  その為、ハーグ市街を描き続けた。
  出来上がった素描を叔父に送ったが、それを、「商品
 価値が無い」と、ファン・ゴッホが期待したほどの代金
 は送ってくれなかった。
  1882年4月、作品:シーンを描いた「悲しみ」、素描
 (黒チョーク)がある。
  1882年7月(29歳)引っ越した新居に、長男ウィレムを
 出産したばかりのシーンと、その5歳の娘と、暮らし始め
 た。
  テオは、売れる絵を描くようにと忠告した。
  1883年5月(30歳)1年あまり共同生活をしたシーンに
 ついて、「シーンは癇癪(かんしゃく)を起こし、意地
 悪くなり、とても耐えがたい状態だ。
  以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる」
 とテオに書いている。
  1883年9月初め、ハーグでの暮らしが経済的に行き詰ま
 る。
  シーンと別れる事を話し合った。
  シーンと別れたことは父へ知らせている。
  1883年10月、ニーウ・アムステルダム(オランダ・ド
 レンテ州の村、ドイツ国境に近い)の泥炭地帯を旅する。
  1883年12月5日(30歳)ファン・ゴッホは、父親が仕事
 のために移り住んでいたオランダのニューネンの農村に
 初めて帰省した。
  ここで、2年間を過ごした。
  小部屋をアトリエとして使ってよいと言ってくれた。
  1884年1月(31歳)骨折のけがをした母親を介抱する。
  家族関係も仲良く、ファン・ゴッホの落ち着いた生活
 だった。
  近所の職工たちの家へ行ったりして、古いオークの織
 機や、働く職工の姿を描いた。
  今後、テオへ作品を規則的に送るから、テオから受け
 取る金は、自分が稼いだ金である事にしたいと言う。
  この頃の作品の多くが鉛筆やペンによる素描で、水彩
 や、油彩も少し試みているが、バルビゾン派(フランス
 に発生した派で、ミレーなど)を手本とするので、いず
 れも色調は暗い。
  しかし、テオは、モネやピサロの様な印象派の明るい
 作品を求め、意見の対立があった。
  1884年夏、村のスキャンダル事件を起こす。
  また、友人ラッパルト(オランダの画家、助言を貰っ
 た、一目置いていた友人)との関係も悪化した。
  そして、悲しいかな、再び、父親との関係も悪化。
  1885年3月26日(32歳)父親のドルス牧師が急死する。
  妹から、「父を苦しめて死に追いやったのは、あなた
 であり、あなたが家にいると、お母さんも殺されること
 になる」と言われた。
  1885年4月(32歳)作品:「ジャガイモを食べる人々」、
 ニューネン、油彩、最初の本格的作品と言われている(
 ゴッホ美術館所蔵)
  この作品は、数年間に渡って描き続けた農夫の人物画
 の集大成として完成させ、自らが着想した独自の画風を
 具体化させた。
  ファン・ゴッホ自身は大きく満足していたが、テオを
 含め周囲からは理解が得られなかった。
  友人ラッパルトからも、人物の描き方など色々と手紙
 で厳しい批判を受けた。
  ファン・ゴッホも、手紙で強い反論の返事を書き、二
 人は絶交に至る。
  1885年5月初め、牧師館から出て、前から借りていたア
 トリエに移る。
  1885年夏、農家の少年と一緒に村を巡り、鳥ミソサザ
 イの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描く。
  ファン・ゴッホの絵のモデルの女性との関係を疑われ、
 カトリック教会から、「ゴッホの絵のモデルになるな」
 と村人たちへ告げられる。
  1885年10月、アムステルダムの国立美術館で、レンブ
 ラント、フランス・ハルス等の大画家の絵を見直す。
  モデルになってくれる村人を見つけることが出来なく
 なっている。
  また、部屋を借りていたカトリック教会の管理人から
 契約を打ち切られる。
  1885年11月、やむを得ず、ニューネンを去る。
  残された多数の絵は、母親によって二束三文で処分さ
 れた。
  弟のテオは、兄の援助をし続け、弟の援助を受けなが
 ら絵を描き続けた。
  1886年2月(33歳)弟を頼ってパリに移る。
  この時は、前ぶれなく夜行列車でパリへ向かった、そ
 して、モンマルトルの弟の部屋へ、そして、住み込んだ。
  1886年6月、優しい弟のテオ、二人では狭い部屋のため、
 ルピック通りのアパルトマンに、二人で転居した。
  同居となり、二人の手紙のやり取りが無いので、この
 パリ時代は、動静が不明状態の期間となる。
  しかし、テオとの口論は、しばしばあったようだ。
  1887年3月(34歳)テオが妹へ、「うまく行っていたの
 は過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい」という意
 味の苦悩を伝えている。
  ファン・ゴッホは、この頃から、印象派や新印象派の
 画風を積極的に取り入れる様になり、絵の色調が明るく
 なる。
  テオも、これを評価する。
  ファン・ゴッホは、テオが画商として作品を購入する
 ので、その関係もあって、画家との関係を持った(ファ
 ン・ゴッホ兄弟との親交)
  ファン・ゴッホが絵の具を買うタンギー爺さんの店も、
 若い画家たちの交流の場となっていた。
  また、ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りの店で、
 多くの日本版画を買い集めた。
  この頃、日本の浮世絵にも関心を持つ、作品「おいら
 ん(1887年9月~10月)」
  また、ファン・ゴッホは、「パリ・イリュストレ」誌
 の日本特集号を、表紙が擦り切れるほど愛読していた。
  この日本好きは、ベルナールも影響を大きく与えてい
 た。
  1887年11月、ポール・ゴーギャンが、カリブ海のマル
 ティニークからフランスへ帰国し、テオ兄弟とも交流す
 る様になる。
  作品:「タンギー爺さん(1887年)」「ひまわり(1888
 年8月)」「夜のカフェテラス(1888年9月)」など・・、
  この頃、名作を次々に生み出した。
  1888年2月20日(35歳)弟のもとを去って、南フランス
 のアルルへ・・、
  この頃のファン・ゴッホのベルナールへ宛てた手紙に・・
 「この地方は、大気の透明さと明るい色の効果のため、
 日本みたいに美しい・・、
  水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み
 出し、まるで、日本版画に見る風景のようだ」・・と書
 いている。
  1888年3月、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ
 橋を描く、「アルルの跳ね橋」(クレラー・ミュラー美
 術館所蔵)
  また、アンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と・・花の
 季節の移ろいに合わせて・・果樹園を次々に描いた。
  この年1888年・5月、宿から高い支払いを要求された・・
 その為に転居・・、
  転居先には、ベッドなどの家具は無かった・・
  この頃、ゴーギャンが、経済的苦境にあることを知っ
 て・・、この家で、二人で、自炊生活すれば、弟からの
 送金で何とかやり繰りできる・・と、ゴーギャンに提案
 を書き送っている・・優しい、友達想いのファン・ゴッ
 ホだった。。
  この年・1888年7月(35歳)、アルルの少女をモデルに
 描いた肖像画に、ピエール・ロティの「お菊さん」を読
 んで知った日本語を使って「ラ・娘」という題を付けた
 絵を描いた。
  同じく、この月に、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像
 画を描く。
  1888年8月、「ひまわり」を4作続けて制作。
  1888年9月、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガー
 ルを描いた、「夜のカフェ」を3晩徹夜で描く。
  ファン・ゴッホは、手紙の中で、「『夜のカフェ』の
 絵で、僕は、カフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂っ
 た人となり、罪を犯すようになりやすい所だということ
 を表現しようと努めた」・・と書いている。
  1888年9月8日に、弟から金が贈られて来る。
  そして、この金で、ゴーギャンとの共同生活の準備の
 ため、ベッドなどの家具を買いそろえた。
  1888年9月下旬、「黄色い家」を描く。
  ゴーギャンが来るまでに自信作を描きたいという気持
 ちからだった。
  この頃、弟に送金を、度々、催促する。
  制作も重ねた。
  過労気味となり憔悴する。
  1888年10月23日、ゴーギャンが来る。
  二人が一緒に絵を描く行動が始まる。
  ゴーギャンは、ファン・ゴッホに、まったくの想像で
 絵を描くことを勧める。
  ファン・ゴッホは、思い出によって「母と妹がエッテ
 ンの牧師館を歩いている絵」などを描いた。
  しかし、この想像の絵は、満足できるものではないと
 弟のテオに伝えている。
  1888年11月下旬(35歳)「種まく人」2点を描いた。
  制作を続ける中で、次第に、2人の関係は緊張するよう
 になった。
  ゴーギャンは、ベルナールへ、
  「ヴァンサン(ファン・ゴッホ)と私は、概して意見
 が合う事がほとんどない。
  ことに絵ではそうだ。
  彼は、私の絵がとても好きなのだが、私が描いている
 と、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す・・
  色彩の見地から言うと、彼は、モンティセリの絵のよ
 うな厚塗りをめくらめっぽうをよしとするが、私の方は、
 こねくり回す手法が我慢ならない・・」・・などなどと、
 不満を言った。
  そして、12月下旬、ゴーギャンはテオに、
  「いろいろ考えた挙句、私は、パリに戻らざるを得な
 い。
  ヴァンサンと私は、性格の不一致のため、寄り添って
 平穏に暮らして行くことは絶対できない。
  彼も私も、制作のための平穏が必要です」と、書き送
 っている。
  ファン・ゴッホもテオに、
  「ゴーギャンは、このアルルの仕事場の黄色の家に、
 とりわけ、この僕に、嫌気がさしたのだと思う」と書い
 ている。
  1888年12月23日、耳たぶを切り落とす事件が発生する。
  この事件は、新聞にも報道された。
  「哀れな精神異常者の行為でしかありえない」との通
 報を受けた警察は、ベッドに横たわっているファン・ゴ
 ッホを発見した。
  そして、直ちに、病院に収容された・・と報じている。
  この翌日の1888年12月24日に、ゴーギャンは、電報で
 テオをアルルに呼び寄せてから、パリへ帰った。
  テオは、ちょうどこの頃、婚約を決めたばかりだった
 から・・、
  テオは、アルルに夜行列車で急行し、兄を病院へ見舞
 うと、すぐにパリへ戻った。
  容態は、快方に向かう。
  1889年1月2日、ファン・ゴッホは、テオへ、
  「あと数日、病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻
 れるだろう。
  何よりも心配しないでほしい。
  ゴーギャンのことだが、僕は、彼を怖がらせてしまっ
 たのだろうか。
  なぜ、彼は、消息を知らせてこないのか」と書いた。
  1889年1月7日(36歳)に、退院した。
  退院して、耳に包帯した自画像などを描いた。
  ファン・ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなったと、
 テオに書いているが、
  1889年2月7日になると、自分は毒を盛られている。
  至る所に囚人や毒を盛られた人が目につくなどと訴え
 たことから、
  近所の人が警察に伝え、病院に収容された。
  1889年2月17日に、仮退院したが・・、
  住民から市長に、「オランダ人風景画家が、精神能力
 に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、
 住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、
  家族が引き取るか、精神病院に収容するよう求める請
 願書が提出された。
  1889年2月26日、警察署長の判断で、再び、病院に収容
 された。
  1889年3月23日までの約1か月間は、単独病室に閉じ込
 められた。
  絵を描くことも禁じられた。
  1889年4月18日が、テオの結婚式で、テオも新居の準備
 などで忙しく、便りの無い状態となった。
  ファン・ゴッホは、結婚するテオに見捨てられるとの
 孤独感に苦しんだ。
  家主から、「黄色い家」の立ち退きを求められた。
  荷物を片付けたが、その時、不在の間に、多くの作品
 が、湿気などのため損傷している事に、落胆せざるを得
 なかった。
  1889年4月下旬、テオに、サン=レミの精神病院に移る
 気持ちになったので、手続きを取ってほしいと手紙で頼
 んだ。
  この病院の院長は、「これまでの経過全体から、ファ
 ン・ゴッホ氏は、てんかん発作を起こしやすい、と私は
 推定する」と記録している。
  病院で絵を描いた。
  イチハツの群生やアイリス、そして、麦畑やアルピー
 ユ山脈の山裾の斜面、オリーブ畑や糸杉、「星月夜」を
 制作・・「オリーブ畑」「キヅタ」・・
  ファン・ゴッホは、
  「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自
 由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表
 出しようとする仕事だ」と述べた。
  テオは、その兄の作について、
  「これまでになかったような色彩に迫力があるが、ど
 うも行き過ぎている。
  むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求すること
 に没頭すると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険
 がある」と心配している。
  1889年7月初め(36歳)、ファン・ゴッホは、弟の妻が
 妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑
 な心情をのぞかせている。
  1889年7月(36歳)再び、発作が起きた。
  1889年8月22日に、ファン・ゴッホは書いている、「再
 発はないと思っていたところなので、苦悩は深い。
  ・・完全に自失状態だった。
  今度の発作は、野外で風の吹く日、絵を描いている最
 中に起きた」・・と。
  1889年9月初め、意識は清明に戻る。
  自画像、「麦刈る男」などを描く、
  また、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事な
 どを描く・・、
  1889年のクリスマスの頃、再び、発作が起きた。
  この時は、収まるまで1週間程度かかった。
  1890年1月下旬(37歳)、アルルへ旅して、戻って来た
 直後も、発作に襲われた。
  1890年2月、テオの息子が、1月31日に生まれたのを祝
 って、「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて送ってい
 る。
  1890年2月下旬、ゴーギャンとの共同生活時代にスケッ
 チしたジヌー夫人の絵を描く、
  そして、その絵を、ジヌー夫人自身に届けようとアル
 ルに出かけた。
  その時、また、再び、発作が起き、意識不明となった。
  1890年4月、病院の院長がテオへ、
  「ある時は、自分が感じていることを説明できるが、
 何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わし気な
 様子になって、何も答えなくなる」と、伝えている。
  また、1890年5月、院長の記録には、
  「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵
 の具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに油を注入
 している時、その灯油を飲もうとしたりなど、
  数回にわたって服毒を試みた。
  発作のない期間は、患者は、まったく静穏かつ意識清
 明であり、熱心に画業に没頭している」・・と記載され
 ている。
  この頃、ファン・ゴッホの絵画は、少しずつ評価され
 るようになっていた。
  1890年2月の展覧会で、『赤い葡萄畑』が初めて400フ
 ランで売れた。
  テオは、そのことを、兄のファン・ゴッホへ伝えた。
  1890年3月、パリでのアンデパンダン展で、ゴーギャン
 やモネなど多くの画家から高い評価を受けたと、テオは、
 兄に書き送った。
  1890年5月、体調が回復し、ピサロと親しい医師を頼っ
 て、パリ近郊のオーベル=シュル=オワーズに転地する
 事にした。
  「糸杉と星の見える道」を描き終わってから、5月16日
 に、サン=レミの精神病院を退院した。
  翌日、パリに着き、数日間、テオの家で過ごした。
  しかし、パリの騒音と気疲れから、早々に、オーベル
 (フランス、オーベル・シュル・オワーズ)へ向かった。
  1890年5月20日、ファン・ゴッホは、オーベルの農村に
 着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。
  ファン・ゴッホは、ガシェ医師の事を、
  「非常に神経質で、とても変わった人だが・・体格の
 面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、ま
 るで、新しい兄弟みたいな感じがして、まさに、新しい
 友人を見い出した思いだ」と、妹のヴィルへ書いている。
  そして、好きな絵を描いて過ごしている。
  テオに、オーベルの素晴らしさを強調する手紙を書い
 ている。
  そして、テオへ、こちらに来なさいと・・、
  そして、何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホ
 の夢は膨らんだ。
  1890年6月8日、パリから、テオと妻のヨーが、息子を
 連れて一緒にオーベルを訪れた。
  食事をしたり、一緒に散歩をしたりと・・
  ファン・ゴッホは、「とても楽しい思い出を残してく
 れた・・また、近いうちに戻って来なくてはいけない」
 と書いている。
  1890年6月30日、テオが、ファン・ゴッホへ、仕事上の
 意見対立や、友人と共同で自営の画商を営むのが良いの
 かを迷っていると、
  また、ヨーと息子が体調を崩しているなどと、悩みを
 吐露した長い手紙を書き送った。
  1890年7月6日、ファン・ゴッホは、パリを訪れた。
  この時、ロートレックやアルベールやギヨマンも来る
 はずだったが、
  ファ・ンゴッホは、「やりきれなくなったので、その
 訪問を待たずに、急いで、オーベルへ帰って行った」と
 いう。
  この時、ファン・ゴッホは、テオやヨーとの間で、何
 らかの話し合いがされたようだが、ヨーはその詳細を語
 っていない。
  1890年7月10日、ファン・ゴッホは、テオとヨー宛てに、
  「こちらへ戻って来てから、僕もなお悲しい思いに打
 ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が、自分の上にも重
 くのしかかっているのを感じ続けていた」と書き送った。
  また、「カラスのいる麦畑」「荒れ模様の麦畑」など
 を描き上げたことを伝えている。
  また、ファン・ゴッホは、その後にも、テオの「激し
 い家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(
 手紙は現存していない)
  1890年7月22日、テオは、ファン・ゴッホに、共同自営
 問題について、ドリースとの議論はあったが、激しい家
 庭のもめ事など存在しないという手紙を送っている。
  そして、ファン・ゴッホの最後の手紙となる7月23日の
 手紙で、
  「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可
 能性も、それを脅かす嵐の可能性も、僕には、同じよう
 に納得できる」などと書き送った。
  1890年7月22日の日曜日の夕方、怪我を負ったファン・
 ゴッホが、オーベルの旅館に帰り着いた。
  旅館の主人に呼ばれたガシェ医師は、彼の様態を見た、
 傷は猟銃による銃創だった。
  弾丸は、左脇腹の下から撃たれ、心臓をそれているが、
 移送も外科手術も無理と判断された。
  絶対安静で見守ることとした。
  ガシェ医師は、手紙でテオへ連絡した。
  翌28日の朝、テオは、パリで手紙を受け取った、兄の
 もとへ急行した。
  テオが着いたときには、まだ、ファン・ゴッホの意識
 はあり、話す事ができた。
  しかし、29日、午前1時30分に・・死亡した。
  1890年7月30日に、葬儀が行われ、テオの他、ガシェ、
 ベルナール、シャルル・ラベル、ジュリアン・フランソ
 ワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。
  テオとファン・ゴッホが会話した最後の言葉の一つは、
 「このまま死んでゆけたらいいのだが」・・だった。
  そして、何と、弟のテオは、兄を追うように、この5ヶ
 月後の、1891年1月25日に、亡くなった。
  1914年4月、ヨーの手によって、テオの遺骨を移し、
 テオの墓地を移し、兄弟一緒の墓石が並ぶような墓地と
 された。
  尚、ファン・ゴッホは、自殺ではないという説がある。
  少年の持った拳銃が暴発したのだ・・という。
  それは、弾の入射角が不自然ということから、その様
 に言えるという、
  ファン・ゴッホが、少年を庇(かば)っているという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-04-07 04:38 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)514E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年7月)

題:(増補版)514E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月~1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年7月3日、アメリカでアイダホが43番目に州となった。
  アメリカ合衆国北西部のロッキー山脈にある州で・・、
  州の北は、カナダ国境に接している。
  大部分が山岳地帯で、面積は14位と大きい・・、
  農業と林業、鉱業が盛んで・・近年は・・自然を活か
 した観光業。
  英語89.7パーセント、スペイン語7.7パーセント。
  白人: 84.0%
  ヒスパニック:11.2%
  インディアン: 1.4%
  アジア系: 1.2%
  黒人: 0.6%
  混血: 2.5%
1890年7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員(きぞくいんは
 くしだんしゃくぎいん)の選挙の投票が行われた。
  皇族議員:満18歳に達した皇太子・皇太孫と、満20歳
     に達したその他の皇族男子は自動的に議員とな
     った
  華族議員:華族議員は華族から選任された。
  公爵議員・侯爵議員:満30歳に達した公爵・侯爵は自
     動的に議員となった(貴族院令第3条)。
  伯爵議員・子爵議員・男爵議員:満25歳に達した伯爵・
     子爵・男爵のうちから同爵の者の互選で選ばれ
     た(貴族院令第4条第1項)。任期は7年。
  この貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下の日
 本における帝国議会の上院。
  1890年(明治23年)11月29日~1947年(昭和22年)5月
 2日まで存在。
  当初、伊藤は、政党内閣は、事実上、主権(国体)が、
 天皇陛下から政党に移るから認められないと考えていた。
  そこで、貴族院は、衆議院の政党勢力と対抗する存在
 と位置付けられた。
  貴族院規則4条:「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ
 席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。
  ただし、皇族が、政争に巻き込まれることは好ましく
 ないという考えから、
  皇族は、議会で催される式典などに参列したり、傍聴
 することはあっても、議員として日常的に議会内に立ち
 入ることはなく、登院は、帝国議会史上、きわめて稀だ
 った。
1890年7月10日、アメリカでワイオミングが44番目に州とな
 った。
  陸地面積:全米50州の中で第10位。
  人口:約56万人(2010年)最少。
  人口密度:2人/km2、アラスカ州に次いで2番目に低い。
  ワイオミングは、インディアンの言葉で「大平原」を
 意味する。
  州の東側3分の1は、標高の高い平原地帯、西側は、山
 岳地帯と丘陵の牧草地帯。
  英語:93.4パーセント、スペイン語:4.5パーセント、
  白人: 85.9%
  ヒスパニック: 8.9%
  インディアン: 2.4%
  アジア系: 0.8%
  黒人: 0.8%
  混血: 2.2%
.
  (今日の言葉)
.
  題:その対応に、日本は、世界は、全知全能を傾けなければ
   いけない。
.
1583年、林羅山(はやしらざん)が生まれた。
  (~1657年3月7日)
  江戸時代の朱子学者。
  京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のも
 とに養子に出された。
  父は、加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝えられて
 いる。
  幼少の頃から秀才として謳われ、1595年(12歳)、京
 都・建仁寺へ、仏教を学ぶ。
  1549年、キリスト教が日本に伝わり、
  この時代は、日本全体がキリスト教に対してそれほど
 警戒していなかった。
  (キリスト教宣教師は、日本領土の植民地化の尖兵と
 しての役目も持っていて・・、日本も、アジア各国が植
 民地化されているのと同じ様な状態になるかもしれない
 日本だった・・そして・・日本は、当然、まだ、その様
 な事を知る由もなかった)
  だから、当時、日本は、キリスト教も、神道の八百万
 (やおよろず、数多くの)の神々で、仏教で言う八万四
 千の法門の一つで・・教え方は違うが・・根源である真
 理は同じと・・神職、僧ともに考えていた。
  その様な見方なので、当然、虐げる様な行為は、まっ
 たくなかった。。
  しかし、そのキリスト教の中味が・・時代とともに、
 時を経る事によって・・多神教風土の日本と・・一神教
 のキリスト教の相容れない部分が鮮明化し、また、領土
 的野心も見え始めた。
  豊臣秀吉が、マニラのキリスト教本部に、その点を諌
 (いさ)める書状を送付しているくらいだった。
  この様な経過の中に於いて・・当時のインテリの重鎮・
 林羅山が・・みずからが、キリシタンと論戦し・・やり
 込めて、勝利している。
  日本人は、本来、外来に寛容であり、弾圧なんていう
 行動は、おくびにも出て来ていなかった・・ただ、その
 キリスト教の中身の怪しさに気付き始めていた。
.
1874年、スメタナが、「わが祖国」の作曲を始めた(50歳)
  (~1879年に完成・55歳の時に完成した)
  https://www.youtube.com/watch?v=2Sp4JyDNNr8
  https://www.youtube.com/watch?v=M3SmylXuTUc
  ベドルジハ・スメタナは、チェコのリトミシュルに、
 1824年3月2日に生まれた作曲家・指揮者・ピアニストで、
  当時、オーストリア=ハンガリー帝国によって支配さ
 れていたチェコの・・祖国の・・独立国家への願望を強
 く持つ愛国者だった。
  チェコを想う・・愛する・・作曲家だった。
  国を想うスタメナは、24歳の1848年、短期間だが、革
 命運動に傾倒していた。
  そして、この24歳のスタメナは、1884年のこの年に、
 ヨーロッパを席巻した政治的変化と動乱の風潮の中に身
 を置いた・・、
  プラハには、民主化運動が起こっていた。
  この中で、スメタナは、旧友であるカレル・ハヴリー
 チェク・ボロフスキーと再会した。
  ボフロフスキーは、政治的自治を得るために、ハプス
 ブルク家の専制支配に終止符を打とうと・・主張してい
 た。
  この市民兵たち「Svornost」は、想定されうる攻撃に
 対し・・プラハを守るための防御策を講じた。
  スメタナは、愛国的な楽曲のシリーズを書いた。
  その中には、チェコ国家の番人と、プラハ大学の学生
 グループ・・そのそれぞれに捧げられた行進曲、ヤーン・
 コラールの詞に楽曲を付けた・・それが『自由の歌』で
 ある。
  この年・1848年6月(24歳)、ハプスブルク家の軍が、
 反乱の動きを鎮圧するために動き始めた。
  プラハは、アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=
 グレーツに指揮されたオーストリア軍の攻撃にさらされ
 た。
  スメタナは、市民兵のメンバーとして、カレル橋のバ
 リケードの人員を助けた。
  この初期の蜂起は、すぐに鎮圧された・・が・・、
  スメタナは、ハヴリーチェクのようなリーダー達が受
 けたような国外追放や投獄は免れた。
  スメタナは、市民兵として行動をする合間に・・、
  スメタナは、作家であり、急進派の先鋒であったカレ
 ル・サビナ(ポーランド貴族の婚外子と名のり、秘密急
 進的政治サークルを結成する活動家)に会った。
  彼は、後に、スメタナの最初の2つのオペラにリブレッ
 ト(歌詞)を提供した・・、
  そして、後年・・
  1879年、55歳のスメタナは、病身の身で・・、
  その病の悪化の中で・・、
  友人に・・、「スメタナの狂気の芽吹きに対する恐怖
 が表れている」と、表現させるように・・また、思わせ
 る中で・・
  国を愛する曲・・「わが祖国」の作曲を完成させた。
  そして、その生涯は・・、1884年5月12日、チェコの
 プラハで閉じた・・60歳だった。
  スメタナは、現在でも、チェコにおいて、チェコ音楽
 の創始者として慕われ・・そして、尊敬されている。
.
1903年8月22日、東京初の路面電車開業
  1890年(明治23年)に、東京・上野恩賜公園で開催さ
 れた第三回内国勧業博覧会において、
  東京電燈会社が行った日本初の電車の展示運転が、来
 場者の好評を博したことで、電気鉄道に対する認識を高
 めることに成功した。
  東京でも、1893年(明治26年)頃には、再び、路面電
 車の敷設計画が相次いで出願されるようになり、
  当初は、多くの計画が乱立して、互いにけん制しあっ
 ていたが、
  最終的に、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄
 道の3社へ特許が与えられ、
  最初の路線として、東京電車鉄道が、1903年(明治36
 年)8月22日に、品川~ 新橋間、
  東京市街鉄道が、同年の1903年9月15日に、数寄屋橋~
 神田橋間、
  東京電気鉄道が、1904年(明治37年)12月8日に、土橋
 ~御茶ノ水橋間をそれぞれ開業させた。
.
1945年8月17日、占守島の戦い(~1945年8月21日)
  天皇陛下の1945年8月15日の『終戦の詔(みことのり)』
 を、ソ連は、「単なる宣言だ」として、「日ソ中立条約」
 を破棄してまでして、日本へ攻めて来た。
  これは、まったくおかしい・・屁理屈である。
  アメリカのルーズベルトにそそのかされて・・ソ連が、
 「日本の領土が欲しい」と起こした行動であることは明
 らかだった。
  この時、日本は、終戦ということで「武器を置いてい
 た」。
  そのため、当然、日本側に、ひどい結果が起きた。
  終戦が成立しての後の1945年8月18日、午後1時、日本
 の領土の占守島に、ソ連が攻めてきた。
  すでに、終戦は成立しているのに・・である。
  その時、日本軍は、日本へ帰る用意をしていた。
  優しい日本人たちは、缶詰工場の2000人の女子工員た
 ちを、最優先的に・・漁船で日本へ逃がした。
  女子工員たちは、5日後に、無事に日本に到着した。
  そして、当時の日本の憲法では、「天皇陛下が開戦し、
 そして、終戦をする」ことになっていた。
  故に、その天皇陛下の「終戦の詔」は、ソ連が言う様
 な「単なる宣言」の屁理屈ではなく、憲法に則(のっと)
 った正式な、そして、合法的な日本国の終戦の宣言だっ
 た。
  また、日本は、すでに、「ポツダム宣言の受諾」を連
 合国へ通達しているので、屁理屈の入る余地なく『終戦
 は成立していた』。
  ソ連の屁理屈は・・まったく、成立しない。
  その証拠に、当然の様に、アメリカも、イギリスも・・
 日本も、インドネシアで、そして、中国で・・、皆、戦
 闘行為は止めている。
  逆に、卑劣な・・『ソ連だけ』が・・締結していた条
 約を破棄してまでして、『終戦が成立した後に』・・戦
 闘を開始し・・戦争を始めた。
  領土を奪う、強盗行為である・・ソ連の論理は・・当
 然、まったく、成り立たない。
  しかし、ソ連政府は、史実を正しく伝えていない。
  また、「日本が、奪ったものを取り返したのだ」など
 と嘘話をでっち上げたりしている。
  1875年に、日本とロシアは、正式に、樺太と千島列島
 の交換条約を結んでいて、「千島列島は、日本のものな
 のだ」・・「固有の領土なのだ」。
.
1948年5月14日、イスラエルが建国宣言をした。
  イスラエル建国のヨーロッパ各国の思惑の一つに・・、
  ヨーロッパのキリスト教国の内部にあった「キリスト
 教どうしの争い」を、イスラエルを創ることによって、
 その争いを・・、『キリスト教とパレスチナ・アラブの
 争いに転化した』。
  そして、降ってわいたように、パレスチナの方々が居
 た地に・・欧米列強の手で・・イスラエルが作られた。
  1948年5月14日(ユダヤ暦:5708年イヤール5日、紀元
 2608年:皇紀2608年) イスラエル独立宣言。 
  この時まで、ユダヤ人は、「民族言語」及び「民族中
 心の文化と宗教」を守り通して来ていた。
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ユダヤ人にイスラエル
 を建国させる事によって、『キリスト教世界に存在した』
 ユダヤとの対立を・・イスラエル対パレスチナ・アラブ
 の対立に転化したのだった。
  つまり、キリスト教徒対ユダヤ人を、イスラム教徒対
 ユダヤ人にした。
  キリスト教諸国は、キリスト教社会は・・、イスラエ
 ルとの対立を・・、世界の中心でありたいとする欧米・
 キリスト教文明圏に対する・・アラブ・イスラム教文明
 圏の衝突に、狡知に、すり替えた。
  キリスト教の考え方・教義における考え方・・、
  内なる者の異端者を外に排除して(「異教徒を殺せ」・・
 異端を排除せよ)・・その排除によって起きる中央と地
 方の対立は・・、世界にまき散らかされ・・世界中で紛
 争として起きている・・
  テリー・イーグルトン(ケンブリッジ、オクスフォー
 ドで学ぶ、マンチェスター大学教授、哲学者)は言う・・、
  「テロリズムとは、フランス革命のように、最初、国
 家によるテロとして始まったが、その内なる野蛮、内な
 る荒ぶる力を強制的に排除し、外部に追いやった後、こ
 の抑制された者達が回帰する。
  これが、現代におけるテロ行為であり、
  テロとは、文明を脅かす狂気と暴力である。
  だが、その根底には、文明の側(あるいは西洋の側)
 の暴力と排他的抑圧があった。
  テロリズムとは、最初は国家テロとして始まった。
  それを思い出せ・・」
    (『テロリズム 聖なる恐怖』)
.
1961年、この年に、アメリカへ行った人(日本人)が、便
 所に、「ホワイト〈白人専用)」「カラード(黒人専用、
 または、有色人種専用)」とあった。
  この日本人の方は、「はたして自分は、どちらに入っ
 ていいのか?」と、迷ったという。
  日本人は、明らかに有色人種だ・・日本にいる限り、
 そんなことは、認識しないが・・
  が、しかし・・、アメリカという遅れた人種差別の国
 に来ると、いやが上にも、その様な事を認識せざるを得
 ない、
  アメリカとは・・その様な遅れた国・・、
  黒人の方々や有色人種の方々を差別している。
  映画館で入場お断りと・・入場できない白人専用映画
 館がある・・その様な国。
  食堂もそうだ。
  朝鮮の方が給仕した食事を、怒った白人のアメリカ人
 が居た。
  この日本人に、白人アメリカ人が、「いいよ!あなた
 は白人専用で」と言ったという。
  だいたい、ホテルだって、白人専用という差別をする
 アメリカ・・そんなホテルへ日本人が入って行くと・・
 皆が、びっくりしたような顔で、こっちを見る・・と。
  日本人は・・アメリカでは、その様な人種に見られて
 いる。
  日本が、アメリカと戦争した頃の1941年頃の・・
 この時の20年前に・・、どれだけ・・日本が、差別的に
 考えられ、見られていたか・・である。
  その様な日本観の中で・・戦った・・そして・・降参
 して・・白旗を上げたって・・捕虜にして、面倒を見た
 くないと・・捕虜にせずに、日本兵は殺されたというこ
 とを・・その様なことを・・平気でしている・・
  その様な差別観だったことは、この1961年の状態を見
 ても分かる・・、
.
1962年2月、アメリカのFBIは、黒人のキング牧師を、ア
 メリカの秩序を乱す危険人物として監視を強化した。
  フーバーFBI長官は、ロバート・ケネディー司法長
 官に、公民権運動家キング牧師の顧問弁護士スタンレー・
 レヴィソンは、共産党員の秘密工作員だと報告した。
  ロバート・ケネディー司法長官は、キング牧師の盗聴
 許可を与えた。
  FBIは、キング牧師を要注意人物として私生活まで
 監視を強化し、『聖人として崇められているキング牧師』
 の乱れた私生活を・・嘘の話を・・赤裸々に暴いた。
.
1998年5月11日、インドは、核実験を1974年と1998年にして
 いる。
  そして、1998年の核実験は、5月11日と5月13日に合計
 5回行われた。
  1974年以降、インドは、核実験を行って来なかったが、
 1998年に入り、パキスタンが、弾道ミサイルの発射実験
 を行うなど、印パ関係に於いて緊張が高まっていた。
  また、パキスタンも、この年の5月28日と5月30日に核
 実験を行った。
  インドが核を持った時、アメリカは批難した。
  第42代アメリカ大統領・クリントンは言った、「世界
 の核不拡散の流れに逆行する」・・と・・、
  また、「インドの核実験に道徳的憤り」だと評した。
  (人類を『何回も殺すような核』を持っているアメリ
 カがである)
  しかし、数年後には、アメリカは、あっさり態度を変
 えた。
  アメリカは、インドの様な核保有国が増えると「アメ
 リカの核戦略、覇権戦略」にとって都合が悪かった。
  第44代アメリカ大統領オバマは、「核廃絶の理想」を
 口にするが・・、
  その発言を見抜いて・・、
  アメリカは覇権を放棄もしたくないという「そのアメ
 リカ」に対して・・、
  「僧服の下に機関銃を隠しながら、清く正しく高邁(
 こうまい)なお説教をするキリスト教司祭という感じだ」
 と評された。
  しかし、この様なインドは・・アメリカと近い関係に
 なりながら、ロシアやヨーロッパからも武器をたくさん
 買っている。
  インドは、「全体の3割以上、アメリカからの武器輸入
 には頼らない」・・と、
  「3割以下に抑える」・・と・・、
  その理由を・・、
  「アメリカに頼り始めると、そのうち傲慢(ごうまん)
 な態度で命令して来るようになる」・・と・・、
  そして、「われわれは、そんな扱いに堪(た)えられ
 ない」・・と、
  「だから、アメリカから買うのは3割が、マックス(最
 大)だ」・・と・・、
  アメリカと軍事同盟的関係にもなってしまう事態も避
 けたいとしている。
  その状態になると、軍事面だけでなく、「外交にも口
 出しされ」・・内政干渉も「ずけずけとされる」・・と・・、
  「政策運営にも口出しされる」・・と、
  そのようになってしまう・・と
  自立化を奪われてしまう・・と・・、
  そのインドの外交官は、日米関係を冷徹(れいてつ、
 感情に左右されることなく、冷静に物事を見通すこと)
 に見抜いていた。
  アメリカが、民主主義を根付かせるのだと・・、
  錦の御旗を掲げて・・戦争までして押し付けた「アメ
 リカの民主主義」は・・、
  押し付けられた国の主体性を奪って行う民主主義だっ
 た。
  自分が正義、自分の民主主義、アメリカの民主主義を、
 アメリカが言うようにやるのが正解なのだ・・である。
  結局、民主主義ではない「民主主義もどき」アメリカ
 の口出し(アドバイス?)付き民主主義を日本へ押し付
 ける。
  それが、内政干渉だとはと気づかず、アメリカは、そ
 の自己矛盾に気付いていない。
  そして、言いたいことを言っている。
  そして、民主主義をするのだと言いながら、民主主義
 を奪っている・・隷属している・・、
.
2015年11月18日、韓国で、慰安婦について『科学的・学術
 的に研究した』朴裕河内教授が・・起訴された。
  アメリカも同じ様な事をし、どこの国とも差異のない
 日本の状態を研究した行為が起訴された。
  起訴理由は、教授が、研究結果だとして発表した本(
 学術書・研究書)の記述で・・、
  「慰安婦の強制連行を(なかったと)否定したことで
 元慰安婦の名誉を傷つけた」・・としている。
  朴教授の研究で、嘘(虚偽)と韓国の地検が認定して
 いる朴教授の記述は・・、
  (1)少なくとも「強制連行」という国家暴力が朝鮮人
    慰安婦に関して行なわれたことはない。
    (日本は強制連行をしていない)
  (2)日本人、朝鮮人、台湾人慰安婦の場合、「奴隷
    的」ではあったが、基本的に、軍人と「同志」的
    な関係を結んでいた。
    (慰安婦と軍人は、同じ志を遂げる同志として存
    在し、それは、奴隷とは違う面で結ばれていた)
  (3)「朝鮮人慰安婦」は被害者だったが、植民地人と
    しての協力者でもあった(朝鮮人慰安婦は協力者
    でもあった)
  (4)朝鮮人慰安婦の苦痛が、日本人娼妓(しょうぎ)
    の苦痛と基本的には変わらないという点を、まず
    知る必要がある。
    (朝鮮人慰安婦と日本人との違いで、その苦痛は
    基本的に同じで、特別、朝鮮人だけが苦痛を受け
    ているという事はなく、差はなく、また、変わら
    ない。その点をまず知る必要がある)
  この度の起訴について朴教授の話・・
  「(起訴は)あるまじき行為だ。
   検察は、しっかりと(事実を)検証しているとは言
   えない」・・と。
.
2017年3月27日、日本は、防衛研究を進めるべきである。
  サイバー戦能力の向上などの研究を、官民で進め、充
 実するべきである。
  真剣に防衛努力をするべきである・・
  誠実に・・『国民を守るのだ』という研究をするべき
 である・・
  F・ルーズベルトの話であるが・・、
  F・ルーズベルトが、お粗末な知識しかないアメリカ
 大統領だったことは、彼の数々の言葉から・・、
  彼がどの様に考え、世界を捉(とら)えていたかを見
 ればわかる・・が・・、
  ソ連に、侵入したナチスを・・撃破すると・・、
  ルーズベルトは・・ソ連のスターリンは喜ぶと思った。
  そして、アメリカの援助に感謝するに違いないと・・
 思った・・、
  アメリカのルーズベルトは・・浅はかに・・その様に
 思っていた。
  そして・・ルーズベルトは・・その、アメリカの援助
 に感謝するに違いないと思っていた気持ちで・・、
  いずれソ連は、自由と民主主義を尊ぶ国になるに違い
 ないと・・ルーズベルトは・・思っていた。
  この考えは、「まったく、甘い」・・、
  そのことは・・その後の歴史を見ればわかる・・その
 歴史が示している。
  また、日本を完全に撃破したら・・、ソ連は、それで
 なくても南下したくてしょうがないから、ソ連は、アジ
 アの国々をのみ込みながら・・南下する・・、
  そのソ連の南下は、一層ひどくなるのではないか?・・
 と言われ、
  また、それは、誰が? それを防ぐことをして、また、
 防ぐ事が出来るのか?・・と言われると・・、
  ルーズベルトは言った・・「何といっても・・日本を
 殲滅するのが大事なのだ」・・
  「先決問題なのだ」・・と・・ルーズベルトは意思表
 示した。
  深く、物事を考えられないルーズベルトのお粗末さだ
 った。
  そして、蒋介石の中華民国が、将来、その役をすると
 表明した。
  中華民国は、ファシズムの国なのではないか?
  何故、そんな国と手を結ぶのか? 
  連合国に入れるのか? と、言われると・・、
  ルーズベルトは・・中華民国を入れないと、人種的な
 戦いの様相が際立つからだ・・と意思表示し、
  人種戦争と見られたくないからだという意味を言った・・
  以上は、ルーズベルトの発言から浮かび上がる。
  ルーズベルトは、一方的な、そして、貧弱な世界観で、
 また、日本への偏見、偏った見方から、武力を使ってで
 も潰そうとし、それを実行した男だった。
  そのお粗末な考え方から、何千万人もの人々が、世界
 中で死んだ。
  今、核戦争の時代、その数は、何十億人となる。
  人類の半分が死ぬということが、今、普通に起きると
 いう時代となっている。
  このルーズベルトの様な男が、異常な国ではなく、普
 通の国に出て来る可能性があるという恐ろしさを考える
 必要がある。
  北朝鮮のミサイルは、7分で日本に着弾する・・
  中国のミサイルは、10分で日本に着弾する・・
  最近のニュースで、北朝鮮のミサイルが4発、日本海の
  秋田県沖に・・云々と・・報じられるが・・
  そのニュースが、結果の話ばかりなのは、逃げるとい
 うような時間が無いということ・・報じる時間がそうな
 のだからなのだ・・
  つまり・・貴方が、7分後どうなるかは、全く不明なの
 だ・・、
  広島の如くなるということが否定できない『今なのだ』。
  遠い、過去の話だけと思ってはいけないのだ・・
  国の防衛について・・『のほほん』としていては駄目
 なのだ・・
  日本の全知全能の知恵を働かせて、日本人の生命と財
 産を守ることについて、しっかり考えなければいけない・・
  7分や、10分という時間は、貴方のかわいい子供に、レ
 ストランで、アイスクリームを食べさせてあげている時、
 それが、食べ終わらないうちに、着弾するという時間。
  人間は、この様な愚かな殺人システム・絶滅システム
 を作ってしまった。
  その対応に、日本は、世界は、全知全能を傾けなけれ
 ばいけない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-04-06 03:28 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月~1890年7月)

題:(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月~1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年6月18日、利根運河が開通し、竣工式が開催された。
  利根川・江戸川間の運河開通
  利根川と江戸川がつながる。
  水害防止などを目的として、江戸時代初期に行われた
 利根川東遷事業などの河川工事により、関東地方の川筋
 が大きく変えられ、
  利根川は関宿で、銚子にいたる現利根川と、東京湾に
 いたる現江戸川とに分流された。
  この結果、東北地方の太平洋岸と、江戸を結ぶ水運の
 ルートとして、房総半島をまわるルートのほかに、
  銚子から利根川に入って遡り、関宿を経由して江戸川
 を下る、というルートが開拓された。
  このルートには、一部に浅瀬があって、大型船が通航
 できず積み替えが必要だったこと、距離が長かったこと
 などの理由から、関宿まで遡らずに、途中を陸路でショ
 ートカットする場合があった。
  明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、こ
 の陸路でのショートカットの部分に、運河を開削すると
 いう計画が立てられた。
  調査にあたったのは、1873年(明治6年)に来日した
 オランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケだった。
  そして、東京府、千葉県、茨城県の陳情により、1886
 年(明治19年)に、内務大臣の山縣有朋が政府の事業と
 して認定した。
  しかし、翌年・1887年(明治20年)には、内務省が、
 財政上の理由として中止を命じ、民間企業として建設す
 べく利根運河株式会社が設立された。
  運河開削とは別に、利根川と江戸川間を結ぶ鉄道(ド
 コービル鉄道計画)を、航運会社(いろは丸を就航)関
 係者が計画した。
  この計画は、江戸川左岸の加と利根川右岸の花野井間
 約10kmを、フランス人のポール・ドコービルの発明によ
 る軽便鉄道で結ぶもので、
  1883年(明治16年)5月、航運会社社長・林千尋や、石
 川島造船所(後のIHI)の平野富二が、地元豪商等14人と
 ともに千葉県に出願した。
  しかし、航運会社が他社との競争に敗れたことと、利
 根運河が計画されたため、実現しなかった。
  工事を監督したのは、1879年(明治12年)に来日した
 オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルで、
  この計画は、単に、利根川と江戸川を結ぶだけではな
 く、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の
 建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようす
 る壮大な計画の一環であった。
  1885年(明治18年)に、ムルデルが、江戸利根両川間
 三ヶ尾運河計画書を提出し、
  1886年(明治19年)1月12日に、改修計画に着手した。
  1889年(明治20年)5月9日に、千葉県庁へ利根運河開
 削願を提出し、同年11月10日に許可が出た。
  開削許可に先立ち、1888年(明治21年)7月14日に起工、
 約57万円の費用と延べ220万人により、1890年(明治23年)
 2月25日に通水、
  同年・1890年3月25日に通船、
  同年・1890年6月18日に、竣工式を開催した。
1890年6月20日、農商務省水産局を廃止し、農務局に属する。
  水産局が縮小されたが,、水産調査所は、その重要性
 が顧みられて、1893年4月に、その代行機関として、調査、
 および、研究業務を系統的にするため、水産調査所を独
 立させた。
  庶務規定に、「水産物製造の調査ならびに試験」と記
 され、水産製造試験・調査も行った。
1890年6月21日、軍人恩給法が公布された。
  近代恩給制度は、1875年の海軍退隠令、及び、1876年
 の陸軍恩給令に始まり・・
  1883年には、文官恩給令が制定され、同時に、太政官
 に恩給局が設置された。
  この他にも・・
  1882年には、警察官、
  1890年には、教員に関する恩給制度が制定されている
 が、当初は、部署によってバラバラに恩給制度が制定さ
 れたために複雑になってしまった。
  そのため、1923年に、恩給法が制定され、制度の一本
 化が図られた。
  なお、1890年6月20日には、「陸海軍軍人現役定限年齢
 の件」(勅令第99 号)が制定され、定年退職の年齢を既
 定していた。
1890年6月30日、佐渡の相川町で米騒動が起きた。
  6月28日から7月5日にかけて、鉱夫を中心として、2000
 名以上が蜂起した。
  鎮圧するのに軍の出動が必要だった。
1890年6月30日 行政裁判法を公布した。
  プロイセン,オーストリアの制度を範として設けられ
 た。
  また、行政裁判所が、民事事件・刑事事件を管轄する
 司法裁判所ないし通常裁判所とは別に、
  行政事件を管轄する裁判所が設けられた。
  一審制の裁判所で、判決に不服があっても、大審院に
 上訴することはできなかった。
  行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件(明治23年法
 律第106号)では、以下を、規定している。
  ・租税及び手数料の賦課に関する事件(関税を除く)
  ・租税滞納処分に関する事件
  ・営業免許の拒否又は取消に関する事件
  ・水利及び土木に関する事件
  ・土地の官民有区分の査定に関する事件
  その他にも、土地収用法、市制、町村制、府県制など
 個々の法令によって、裁判権を有する事項について細か
 く規定した。
1890年6月27日、長崎でコレラが発生した(~12月)
  数年、鳴りを潜めていたコレラが、6月下旬、突然、長
 崎市内から全国へと拡大した。
  感染は、長崎港への入港船からと推定されたが、病勢
 は猛烈で、たちまちの内に、長崎県、福岡県から九州一
 円へと広がり、
  山口県から兵庫県、神奈川県へと全国に伝播した。
  中でも、流行のすさまじかったのは大阪府で、年内に
 8815人がかかり、7486人が死亡した。
  東京府では、7月23日に初めて発生し、年内の患者4027
 人で3307人死亡。
  ともに、その死亡率は、8割を超えた。
  流行の最盛期は、9月で、全国で2万1466人がかかった
 が、
  10月に入ると、病勢は衰え、
  12月は、全国の患者数114人と減少した。
  この年の全国患者数:4万6019人、死亡者:3万5227人、
  死亡率:76.5%
  明治期の大流行年における最大数値となった。
  内務省が、長崎市をコレラの流行地に指定した。
  日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥー
 ルル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。
  (内務省衛生局編「法定伝染病統計」などを参考にした)
1890年7月1日、第1回衆議院議員総選挙が行われた。
  第一回衆議院議員選挙が本州、四国、九州で実施され
 た。
  選挙権資格者数は、45万2,474人(人口4,007万2,020人
 の1.13%)
  選挙区は、257の「小選挙区制」
  結果は、民党(反政府系)の立憲自由党130、同じく民
 党系の立憲改進党が41で、議員定数300のうち171を占め
 た。
  このほか大成会79、国民自由党5、無所属45。
  有権者の資格は、直接国税15円以上を納める(または、
 3年以上、所得税15円以上)納め、25歳以上の男子で、府
 県内に1年以上住むものだった。
  代議士の過半数が、地主出身の地方の名望家だった。
  11月25日に、第1回帝国議会が開会された。
  大日本帝国憲法下で、天皇陛下の主権下の最高立法機
 関として、1947年まで存続した。
1890年7月1日、イギリスとドイツ両国が、ヘルゴランド=
 ザンジバル条約を締結した。
  ドイツは、北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現
 在のナミビアのザンベジ州)、及び、ドイツ領東アフリ
 カの核となるダルエスサラームの海岸を獲得した(後の
 タンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)。
  ドイツは、条約で、ケニア海岸沿いにある小さな保護
 領ウィトゥランドの権益を、イギリスに譲与し、イギリ
 ス領東アフリカの一部とすることを認めた。
  その場所は、イギリスにとって決定的なもので、ビク
 トリア湖に至る鉄道を建設するために必要だった。
  また、イギリスが、ザンジバルに関して、侵略し掠奪
 する行動について、ドイツは干渉しないことを約束した。
  その後、1890年に、イギリスは、ザンジバル・スルタ
 ン国を掠奪し、保護国化を宣言した。
  1896年の、イギリス・ザンジバル戦争によって、以後、
 実効支配した。
  そのうえ、条約は、ドイツが関心を持っていたドイツ
 領南西アフリカ(現在のナミビア)の権益を確定させ、
 ドイツ領トーゴラントと、イギリス領ゴールドコースト
 植民地、および、ドイツ領カメルーンとイギリス領ナイ
 ジェリアの国境問題を解決した。
  尚、ザンジバルは、奴隷貿易、香辛料貿易、象牙貿易
 の拠点で、
  アフリカの方々の人身売買を含む、多様な資源を、我
 がものにしようとする白人たちの欲の拠点だった。
  ヨーロッパ列強の白人のイギリス人とドイツ人による
 アフリカ分割(山分け)の条約の話・・、
  1896年には、当時のスルターンの甥ハリド・ビン・バ
 ルガシュが、王位についた。
  しかし、イギリスが退位しろと要求したが・・拒絶し
 たため・・(当然だ)・・
  駐留していたイギリス艦隊の艦砲射撃(戦艦など持た
 ない弱いアフリカの方々への武力行使)により、
  わずか37分23秒で・・宮殿は破壊された。
  哀れなハリドは、対岸のドイツ領タンガニーカに亡命
 した。
  このイギリス・ザンジバル戦争は、「史上もっとも短
 時間の戦争」として『ギネスブックに掲載された』・・
 白人・ヨーロッパ列強の非人道的行為の記念碑である・・
  奴隷制もほしいままにやっていた・・卑劣な事である。
  日本は、当然、奴隷の「ど」の字もやってない。
.
  (今日の言葉)
.
  題:消えた・・民族・・これからも・・
.
紀元前3500年、ケルト民族の方々は・・?
  かつて、キリスト教に殺戮されてしまったケルトの人々
 は、今、どこに居るのか・・?
  永遠に、消えてしまったのだろうか・・?
  その民族は絶えてしまったのだろうか・・?
  ケルト文化・言葉を残して・・?
  インド・ヨーロッパ語族ケルト語派の方々だという。
  中央アジアの草原に居た方々が、馬と車輪のある乗り
 物で・・ヨーロッパに来て、そして、ヨーロッパの主(
 あるじ)になったという。
  おそらくだが・・ケルトの方々は、青銅器の時代に、
 石器の代わりに青銅を利用した道具を使った青銅器時代
 (メソポタミア・エジプトでは紀元前3500年ごろが青銅
 器時代の始まりという)に、この頃に・・ヨーロッパに
 広がって行ったという。
  それから・・紀元前1世紀に頃から、各地のケルトの
 方々は、他民族の支配をうけるようになり・・、そして・・
 征服されてしまう地方もあって・・
  ローマ帝国(紀元前27年~紀元後476年)の支配も受け・・
  また、紀元後100年くらいから・・キリスト教が広まっ
 て行って・・ヨーロッパから駆逐されて行った方々・・、
  ローマ帝国に滅ぼされるまではブリテン島にもいた・・、
  この頃は・・鉄製の武器を持ち、戦車にも乗るという
 部族の社会だったという・・
  ブルターニュ半島に逃げ、移住した人々もいたという・・、
  アイルランドにも、わずかな関連性があるとかと・・
  アイルランドでは、キリスト教改宗後も、教会や聖所
 の装飾に、ケルトの習慣である多くの人頭があしらわれ
 ているという・・
  ピレネー山脈のあたりに・・とかとも・・?
  だから・・この部族の歴史は・・3500年~・・?
  ケルト・キリスト教独特の制度は、12世紀までにはヨ
 ーロッパからほとんど姿を消したという・・
  今、考古学では・・このケルトの後裔(こうえい、子
 孫)の方々が居られるのかが・・関心の中にあると・・
  現代でも、ケルト語派の言語が話される地域がある・・
  その地域は・・その先は海だという・・海に落ちそう
 な半島の先っぽに・・わずかに居られる・・と・・、
  しかし、話者は年々減少し・・近年、ケルト語再生運
 動が行なわれて、言語の衰退を止める事がなされている
 という・・
  キリスト教は、砂漠の地で、生きる糧の少ない所に多
 くの民族の居る場所で・・その様な地で・・、
  その様な地で生まれたキリスト教聖書は・・初めは・・、
  その様な地での・・我が民族が・・生き残るためのマ
 ニュアルだった。
  我が民族よ・・生き残ってくれという・・そのマニュ
 アルの各事項が・・口伝えに伝えられ・・そして、口伝
 えから・・字に書かれ・・まとまって行った・・その様
 なこと・・
  だから、その教えは大切にされた。
  だから、その中にあるのは・・自民族が生き残るため
 のなすべき事々だった。
  他民族の生き残りのことなど・・当然・・まったく・・
 ない・・、
  その様な性格の宗教=キリスト教に駆逐されて行った・・
 異民族だったケルト族だった・・、
  この宗教・キリスト教の根底に流れている性格は・・
 考えは・・教義は・・今・現代でも・・当然・・変わら
 ずに・・流れている・・
  自民族さえよければ・・良い・・である・・
.
431年、多元主義・・多元論とも言い、総合的に多様性を
 容認する・・、
  また、肯定をするという・・立場。
  この概念は、多岐にわたる分野において、様々な意味
 に用いられる・・が・・、
  政治では、国民の興味や、関心や、信念の多様性を認
 める。
  これが、最も重要な近代の民主主義なのだと考えてい
 る。
  アメリカは、アメリカが良いとする「アメリカ流の民
 主主義」の押し付けであった。
  多様性など、全く認めない・・アメリカのやり方の民
 主主義である・・
  この様な性向は、キリスト教がそうである・・
  違いを・・その『異』を・・『異』なのだからと・・
 異端と捉えて・・だから・・排除するのだとして・・容
 認しない。
  「異教徒は殺せ」・・である。
  わずかな考え方の違いでも、キリスト教の最高会議で
 ある公会議(ローマ法王が出席する会議)で・・殺戮さ
 れるか、または、放逐した。
  その様に、431年のエフェソス公会議において放逐され
 て・・
  「キリスト教ではないのだ」とされた景教(ネストリ
 ウス派)が・・流れ流れて、7世紀に、唐代の中国にやっ
 て来た。
  このキリスト教ではないと言われた景教と、日本の仏
 教の接点があった・・と・・
  だから、キリスト教は、日本仏教にキリスト教が入っ
 ていると言うが・・、
  日本の仏教が・・景教に入ったのであって・・、
  また、元々、『キリスト教ではない』と言われた宗教
 であって・・キリスト教とは・・関係ないのである・・、
  因みに、ネストリウス派は、コンスタンティノポリス
 総主教ネストリオスによって説かれた異端とされた宗教。
.
522年、人間は『逃れる事の出来ない原罪』を背負っている
 というキリスト教。
  この『催眠的な』キリスト教の教義によって、人間は
 いかほど、良い社会を創ろうという意欲を、そがれたこ
 とか・・嗚呼・・
  ただただ、「神に祈れ」では、人間は幸せになれない・・
  人間は・・素晴らしいのである・・
  人間には・・可能性がある・・
  まただから・・人間は、「可能性がある」と信じる所
 からスタートしなければならない。
  見目うるわしき乙女よ・・貴方は、無限の可能性を秘
 めています・・
  もし・・キリスト教に惑わされているのなら・・離れ
 なさい・・
  良き道が探れるものを・・
  最良の・・改善の道を探れる「可能性を持つ人間」だ
 と信じる所からスタートしなければなりません・・
  そう、貴方は、その意味で、『無限の可能性を持つ人
 間として』・・この世に生を受け・・無限の可能性を秘
 めた境地に至れる方なのです・・
  「仏に至ることの出来る」、無限の可能性を持ってい
 る方なのです・・
  生きとし生けるものには、皆、仏性が宿っています・・
  『 一切衆生悉有仏性 』
  (いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
  日本への仏教伝来については・・
  古代の・・倭には・・古くから多くの渡来人(帰化人)
 が・・連綿と渡来して来ていて・・、
  その多くは・・朝鮮半島のからの方たちであった・・
  この方たちは・・日本への定住にあたって・・氏族と
 してグループ化した・・そして・・、
  氏族内の私的な信仰として・・仏教をもたらしていた・・、
  仏教を・・信奉する人々もいた・・そして・・、
  この方がたの・・手によって・・公伝以前から・・す
 でに仏像や経典は・・もたらされていた・・、
  522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)・・
  この人などは・・その好例となっている・・
  すでに・・大和国高市郡において・・本尊を安置し・・、
 「大唐の神」・・仏像を・・礼拝していたと・・『扶桑
 略記』に記されている・・、
.
1840年5月7日、偉大な作曲家・チャイコフスキーが生まれ
 た。
  ロシアのウラル地方、ヴォトキンスクで、鉱山技師の
 次男として生まれた。
  家系は、現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウク
 ライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。
  幼少のころから、音楽的才能を示した。
  しかし、両親は、息子を音楽家にする意志はなかった。
  10歳で法律学校に入学し、寄宿生となった。
  14歳で母を失う・・コレラだった・・、
  母は、40歳という若さだった。
  チャイコフスキーの衝撃は、当然、大きかった。
  19歳の時、卒業・・法務省に官吏として務める。
  21歳の時、妹が結婚し、ウクライナに嫁ぐ・・
  チャイコフスキーは、妹の嫁いだこの地が気に入り、
 毎年の様に訪れ、この地で楽曲を作曲する。
  チャイコフスキーの兄弟姉妹は、後年に至るまで仲が
 良く、チャイコフスキーを支え続けた。
  そして、この年、チャイコフスキーに転機が訪れる。
  この年の秋の頃、知人から、音楽教育を行なっている
 帝室ロシア音楽協会を知った。
  チャイコフスキーは、このクラスに入学した。
  この音楽クラスは、翌・1862年に、アントン・ルビン
 シテインによってペテルブルク音楽院に改組され、ここ
 で、チャイコフスキーは、音楽を本格的に学び始めた。
  そして、本格的に音楽の道に進むことを決意した。
  1863年4月、23歳の時、法務省の職を辞し、音楽に専念
 する事になる。
  1865年12月、25歳、ペテルブルク音楽院を卒業する。
  1866年1月、26歳、モスクワに転居し、帝室ロシア音楽
 協会モスクワ支部で教鞭をとる・・以後、12年間つづい
 た・・モスクワが活動拠点となる。
  この年に、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の
 初演があり、また、初のオペラである『地方長官』を完
 成させた。
  以後、めざましい活躍をして戴いた・・資金援助をす
 る方も現れた・・が、しかし・・
  一度、結婚をするが、不幸にも離婚し、大きな打撃を
 受けたチャイコフスキーは自殺をするほど精神的に追い
 詰められるということも起きた・・、
  37歳で、作曲に専念するため、モスクワ音楽院の教職
 を辞した・・ヨーロッパ各地を巡り歩く・・
  40歳の時、父を失う・・
  41歳の時、色々と助けられたりもした親友のニコライ・
 ルビンシテインも失う・・
  親友の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲に
 着手する・・
  翌年、完成・・ニコライの一周忌に初演した・・
  作曲原稿には、「ある偉大な芸術家の思い出のために」
 と書かれていた・・
  45歳、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に落ち着く・・
 旅の生活に終止符を打つ・・
  以後、この地域に住み続ける・・かつての恋人、デジ
 レ・アルトーと旧交を温める機会もあった・・
  50歳の時、フォン・メック夫人の財政援助を打ち切ら
 れる・・
  チャイコフスキー、大きな打撃を受ける・・
  51歳、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲・・
 アメリカへ、カーネギー・ホールのこけら落としに出演・・
  53歳、ケンブリッジ大学音楽協会からサン・サーンス
 や、グリーグらとともに・・名誉博士号を授与される・・
  1893年10月16日、53歳、交響曲第6番「悲愴」(作品74)
 初演・・
  その9日後の・・1893年10月25日に・・惜しいかな急死
 する・・
  死因は不明であるが、コレラ及び肺水腫と言われてい
 る・・
  ロシア皇帝アレクサンドル3世は、その死を悼み国葬を
 決定し・・国葬によって葬られた・・53歳だった・・
  https://www.youtube.com/watch?v=HQjSs7oXFLU
.
  そして、下記のコメントのある大切な曲・・
.
  https://www.youtube.com/watch?v=8iuYxdXFPbc
.
  ロシアのСирена Береговаさんのコメント
  自国の国歌を歌わない国民が居ると聞いてびっくり。
  こんなにも美しくて優しい歌でもあるのに。
  誇りを棄てさせるという侵略のプロセスは完了しつつ
 あります。
  日本は、四季の美しい景色、慎ましくて親切な人々、
 剣道、柔道、アニメ、治安の良さ、技術力の高さなどた
 くさんの誇れる文化があります!
  日本人の方々、どうか目を覚ましてください!
  君が代にこめられた先人たちの意志を継ぎ、この大切
 な大切な国を護らなければなりません! 
  ・・・・
  まったく素晴らしいコメントを、ロシアの方に寄せて
 戴きましたが・・、
  この様なコメントを読むにつけても、考えされられる
 ことは、キリスト教組織の「国旗と国歌に対する反対運
 動」です。
  そして、キリスト教の偏するNHKの、同様な・・「
 国旗と国歌をないがしろにする行為」です。
  そのNHKの卑劣な行為の1例を上げれば・・
  NHKは、ある時期より、オリンピックで日本選手が、
 金メダルを取っても、NHKは、まったくその選手を表
 彰し、その健闘讃えるシーンを放送しなくなった。
  日本の国旗掲揚シーンを「まったく放送しないし」、「
 国歌演奏の音声も流さない」。
  その点をNHKに指摘すると・・びっくりすることに、
 アメリカの表彰シーンを放送した。
  それも、フルバージョンで・・、
  延々と、アメリカ国旗が掲揚されていくシーン、アメ
 リカ国歌が演奏される音声を・・完全に放送した。
  だからといって、日本のその様な放送はまったくない。
  NHKの「いじわる」な、そして、「ひねくれた」オ
 リンピック放送であった。
  また、放送開始時と終了時の「国旗と国歌の放送」も、
 しなくなったNHKとなっている。
  今の様なNHKなら、日本のためにならないNHKとな
 っているので、皆様のためにも、NHKは、「ない方が良
 い放送局」です。
.
1953年3月5日、ソ連のスターリンが死んだ。
  (1878年12月18日~1953年3月5日)
  ヨシフ・スターリン、ソビエト連邦の第2代最高指導者。
  ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョー
 ジア国)のゴリ市で生まれる。
  キリスト教正教の神学校で教育を受ける。
  国家権力を握ると、反対派に対する厳しい弾圧を合わ
 せ・・多数の犠牲者を出す。
  また、失政の農業政策の混乱によって、深刻な食糧不
 足が発生。
  その影響から、1932年~1933年に、飢饉へと繋がった。
  また、スターリンの政治は、非情で・・グラーグ(収
 容所)に収監された者だけでも100万人以上だと、
  そして、これを免れた数百万人も、シベリアなどの
 僻地に追放処分した。
  スターリンの強権支配は、『大粛清』と呼ばれる大規
 模な反対派摘発で頂点に達した。
  また、軍内の将官を含めて数十万人が処刑され、また、
 追放された。
  スターリンの虐殺は、卑劣な事に約2000万人である。
  この当時のソ連総人口が、約1億人であるから、いか
 に酷い事をしたかが分かる。。
  その概略数は・・、
  強制収容所で、1200万人・・、
  粛清で、    100万人・・、
  農村で、 600万人・・、
  その他で、 100万人・・、
  ナチス・ドイツ以上の極悪人だった。
  また、中国の毛沢東が、このスターリンを上回るとい
 う・・7000万人という信じられない数字がある・・
  真剣に防衛を考えなければ・・消えていくしかない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-03-30 16:55 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)512E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年5月~1890年6月)

題:(増補版)512E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年5月~1890年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年5月31日、三菱長崎造船所で日本最初の鋼製商船の筑
 後川丸が完成した。
  大阪商船が発注した貨客船の鋼船で、総トン数が610
 トンだった。
  1985年頃までは、鉄船の時代で、この頃から、設計法・
 建造法が進歩して、現代に続く鋼船の時代となった。
  因みに、1896年に公開奨励法ができ、また、1896年に
 は造船奨励法が出来た。
  また、日本の経済の発展に伴い、1911年には、日本の
 商船保有量は120万トンに達して、世界第6位に発展した。
  また、1920年には、アメリカ、そして、イギリスに次
 いで世界第3位の海運国となった。
1890年5月、喫茶店が、次第にふえた。
  江戸時代の徳川綱吉の頃に、長崎の出島でオランダ人
 がコーヒーを振る舞った。
  大田南畝(おおたなんぽ)の『瓊浦又綴(けいほゆう
 てつ)』には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とある。
  日本初の喫茶店と言われている店は、1735年、京都東
 山に高遊外・売茶翁が開いた茶亭・通仙亭と言われてい
 る。
  その後、黒船の来航の頃より、長崎・函館・横浜など
 の開港地に西洋料理店が開店し、そのメニューの一部と
 してコーヒーが出された。
  1866年に輸入関税が決定し、正式にコーヒーが輸入さ
 れ、そして・・、
  1877年頃には、コーヒーを商品として取り扱う地盤も
 でき、浅草境内に「油絵茶屋」ができ、
  1874年には、神戸元町に「放香堂」が開店(1878年説
 あり)、
  1886年には、東京・日本橋に「洗愁亭」などが現れた。
  そして、現代にも通じる本格的な喫茶店としての形態
 をはじめて持ったのは、
  1888年4月13日に、東京の黒門町に本格的に開店した
 「可否茶館」で、
  経営者は「コーヒーを飲みながら知識も吸収し、文化
 交流する場」を経営方針とした。
  1920年代は、日本で喫茶店がブームとなった。この頃
 のコーヒーは、一杯が10銭。
1890年5月、米価高騰により東京で餓死者。
  米価騰貴(前年の約2倍)、東京・大阪でも窮民が増加し
 た。
  そして、東京で餓死者が発生した。
  1889年は凶作で、この年・1890年は、米価が暴騰し、
 1月18日には、富山県を中心に北越地方で米騒動が起き
 ていた。
  4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県、下関市、高岡市
 などでも暴動が相次いだ。
1890年5月、相撲の番付に初めて横綱が登場した。
  西ノ海嘉治郎。
  自らも相撲をとられることの多かった明治天皇陛下だ
 った。
  また、その意を受けた伊藤博文らが尽力し、1884年、
 天覧相撲が実現された。
  大相撲は、社会的に公認されて行った。
  この時の、天覧相撲の力士は、58連勝(史上3位)を
 記録した15代横綱の初代・梅ヶ谷藤太郎だった。
  東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形
 態が確立した。
  1890年に、入幕から39連勝で、大関に駆け上がった初
 代・小錦八十吉と、横綱免許を受けた大関初代・西ノ海
 嘉治郎の不都合を解決するために、初めて、番付に「横
 綱」の表記が登場した。
  そして、これをきっかけにして、横綱・大関が、実質
 的な地位として確立した。
1890年6月12日、東京農林学校が、帝国大学に合併した。
  東京農林学校(とうきょうのうりんがっこう)は、日
 本の旧制教育機関で・・、
  現在の東京大学農学部の前身にあたる農学に関する日
 本の総合教育・研究機関。
  後進の帝国大学農科大学、東京帝国大学農学部から、
 さらに筑波大学生命環境学群生物資源学類、東京農工大
 学農学部が発祥した。
  1886年に、農商務省の財政難により、所轄の駒場農学
 校と東京山林学校が合併して、東京農林学校となった。
  農林学校では、両校の設置していた学科を元に、農学
 部、林学部、獣医学部を設置した。
  1888年に校則改正を行い、また・・、
  1889年に再改正をした。
  そして、、時の農商務大臣井上馨の判断で、各学部の
 卒業生には、農学士、林学士、獣医学士の各学士号が授
 与されることになった。
  また、同年1889年に、東京農林学校の既卒業生と旧駒
 場農学校の卒業生は、
  「高等試験ヲ要セス其修メタル学科ニ関スル行政官試
 補ニ採用スルコトヲ得」とされて、実質、帝国大学卒業
 者と同等の処遇を受ける事になった。
  ここに、学士号付与の賛否の問題が起きた。
  色々、物議をかもしたが、農学校を文部省に移管する
 意味で農林教育をさせるべく、1890年6月9日に、文部大
 臣と農商務省大臣が、連名で、時の首相山県有朋に、農
 科大学設置の閣議請議文を提出した。
  ここでもまた、当時の先進国で総合大学に農学がない
 と言った意見や、農林学は専門学校程度とするなどの反
 対論が依然として起こった。
  評議官は総辞職した。
  結局、1890年(明治23年)6月12日に、東京の帝国大学
 に、従来の理学からも分離を行い、農学科を二つにわけ
 て1つを農芸化学を主として学び、その後、植物学、物理
 学、動物学、農芸化学に専攻させる方針をとった。
  また、文部大臣が説得にあたり、6月17日の評議会設置
 がで決定され、駒場の地に農科大学を設置した。
  農科大学は、帝国大学令第十八条に規定された。
  そして、農学科(第一部と第二部)林学科、および、
 獣医学科を設置し、修業年限を三年と定め、帝国大学を
 六分科大学制にした。
1890年6月15日、紡績第1次操短を開始した。
  「1890年不況」と言われる経済不況を受けて、大日本
 綿糸紡績連合会は、1ヶ月8昼夜休業の第1次操業短縮を
 始めた。
  1880年代後半までは、イギリス綿糸や、その植民地で
 あったインド綿糸との競合は無かった。
  1881年(明治14年)に、官立の愛知紡績所の設立を始
 めとして、日本はすでに政府購入の紡績機の払い下げを
 して、2000錘の民間工場が操業を開始していた。
  そして、競合問題もなく操業していた(番手の違い)。
  1890年頃から、輸入綿糸、特に、インド綿糸が、日本
 国内市場から急速に駆逐され始めた。
  そして、同時に、国内紡績業者は、海外輸出へ行動を
 起こした。
  1894年頃より、国内綿糸は、本格的に中国市場に輸出
 され、1900年代の初めは30%台にまで増加した。
  国内綿糸紡績業は、極めて短期間のうちに、輸入から
 輸出産業へと発展して行った。
  この様な経緯の中で・・
 ・1890年不況に国内市場が供給過剰に陥ったため、その
  対処として操業短縮と共に、海外輸出が試みられた。
 ・この時、輸出ダンピングと損失の共同負担という方策
  が採用されたが、国内紡績各社には、これに耐えうる
  体力がなく、結果として失敗に終わった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:チャーチル首相が、タルタル人のジンギスカンの様な
   戦いを、その何も残らない完全殺戮の戦いを、「我々=
   アメリカやイギリスが、やるようになってしまう」
   ・・と言ったのは正しかった。
    その後、日本は、原子爆弾の完全破壊をされ、じゅうた
   ん爆撃などで女性や子供たちまでもが全滅殺戮をされた・・、
.
1834年、この年に、本格的に始まったアメリカの卑劣な奴
 隷制の前の段階=アメリカに供給される年季奉公人制が
 イギリスで始まる。
  キリスト教の教義があるとはいえ・・、
  つまり、『キリスト教の神』が赦(ゆる)すとはいえ・・、
  また、キリスト教の聖書に、キリスト教の神が叫ぶ
 「奴隷にせよ、奴隷にせよ」とはいえ・・、
  キリスト教徒たちへ、隣国の民を奴隷にする行為を許
 すという行為が・・記述されているとはいえ・・、
  アメリカというキリスト教国の奴隷制は、まったく卑
 劣な行為であり、卑劣な制度だった。
  アメリカの白人プランターたちは、労働力を得たいと、
 その労働力を得るために、初めは、イギリスの浮浪者た
 ちをアメリカへ連れて行った・・『拉致(らち)』であ
 る。
  そして、その需要が増し、供給が追いつかない中で、
 都市の貧民や窮民(きゅうみん、貧乏に苦しんでいる人
 たち)たち・イギリス社会の底辺の方々を連れて行った。
  誘拐をした、また、略奪をするという『非合法な方法』
 も行なわれた。
  「数千人の人々が、イギリスの諸都市の路上で殴り倒
 され、残忍な紐(ひも)に引きずられて・・」、無理や
 りアメリカへ送り込まれた・・と、記す記録もある。
  イギリスは、浮浪行為を犯罪とした・・、犯罪とされ
 た。
  「イギリス社会が悪いから」なのにである。
  自国の民を虐げて、アメリカへ送った・・アメリカも
 要求した・・一蓮托生・・悪のつながり連中・・、
  そして、政治犯や罪人もまた、アメリカへ送られた。
  そして、アメリカに着けば・・アメリカでは、「勝手
 な結婚はするな」と、人権が奪われ・・結婚もできなく
 された。
  また、酒も買ってはならないとされた。
  逃げれば鞭うたれ、焼き印も押された。
  腕(うで)や胸に焼き印を押された。
  別の主人に売られたりもした。
  奴隷とまったく同じだった。
  しかし、アメリカは、供給が追い付かない事と・・、
  永久に拘束できないイギリス出身のこのかたたちに、
 プランターの経営者たちは・・不満を持った。
  年季奉公人と言われたこの人たちに不満を持った。
  アメリカは、無期限に働く人々を求めた。
  年季奉公が明けて去り、自由な独立生産者となる年季
 奉公人・・その様にならない家畜同然に働く人々を求め
 た。
  キリスト教聖書に洗脳された・・まったく非人道的な、
 軽蔑すべき発想がキリスト教国・アメリカにあった。
  黒人の方々の奴隷制がここに生まれて来る。
.
1861年、エドワード・E・ダンパーが、この年に、アメリ
 カが、アフリカの方々を、何人、奴隷として、アメリカ
 に連れて来たか?・・の、研究した結果の数字がある。
  アメリカの「アフリカの方々を拉致(らち)した人数
 である」。
  16世紀には、 88万7500人。
  17世紀には、275万人。
  18世紀には、700万人。
  19世紀には、325万人・・という人数で、
  総計 ・・約1,400万人ものアフリカの方々を、アメリ
 カは拉致した。
  卑劣な事である。
  また、しかも、この時、一人のアフリカの方を拉致し
 て連れて来る時、
  アメリが、酷(ひど)い、非人道的な扱いをしていた
 ために、
  5人の方々が、途中で亡くなった・・死んだ。
  また、W・E・B・デュボイスの研究結果からも、
  総計7,000万にものアフリカの方々が、アメリカによっ
 て無残にも、母国からアメリカへ奪い去られた。
  ウィリアム・Z・フォスターも、この数字を「少なく
 とも6,000万人」としている。
  いずれにしても、まったく筆舌に著わすことの出来な
 い大罪悪事をアメリカはしでかした。
  キリスト教の聖書に、キリスト教の神が「奴隷にせよ、
 奴隷にせよ」と叫んでいるが、
  家族から離れさせられ・・拉致するという・・極悪事
 を平気でさせるキリスト教の洗脳に「憤りを覚える」。
  世界記憶遺産に登録せよ!!
  長崎を登録する前にこれを行なえ!!
.
1941年8月末、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベル
 トが、イギリスのチャーチル首相と会談をした。
  カナダの東海岸にある島ニューファンドランド湾の沖
 合に停泊したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェール
 ズだった。
  この時、ルーズベルトは、この会談で言った・・、
  「戦争が終わったら、私は、日本を永久に武装させな
 い」、「武装介助する」・・と、
  この時、アメリカは参戦していない。
  アメリカ国民の方々は、「戦争なんてまっぴらイヤだ」
 の世論だった・・その様な時の発言である。
  ルーズベルトは、日本の真珠湾攻撃で、その奇襲によ
 って(奇襲でも何でもないのだが)その奇襲によって、
 日本との戦争を決断した・・と、言っているが、この言
 葉は、まったくの嘘なのだ。
  ルーズベルトは、真珠湾攻撃の3か月も前のこの時にも、
 「戦争する前から・・日本との戦争をする事を決めてい
 た」。
  そして、「日本を永久に武装解除する」と決めていた。
  ルーズベルトは、「大の日本嫌い」で・・、
  ルーズベルトは言った・・、
  「日系移民を(アメリカ人の)他の民族と結婚させる
 な」・・と、
  「ジャップ(日本の蔑称)は劣等人種だから、ジャッ
 プと他民族を交配させると、必ず欠陥児が生まれる」・・
 と・・、
  ルーズベルトは、若い頃より、日系移民を憎み、いつ
 か日本を叩き潰してやろうと思い、そして、考えていた。
  そして、この時、日本と戦争をして、その戦争に勝つ
 ことを予想していて、そして、日本には永久に武装解除
 すると、すでに、決めていた。
  この発言は、1942年の春頃にも、ルーズベルトは、ソ
 連のモロトフ外相と、ワシントンで会談したときにも言
 っている。
  ルーズベルトは、ハワイの真珠湾攻撃が有ろうと、無
 かろうと・・日本と戦争をしたい・・戦争をするのだと
 決めていた。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(無条件降伏要求)
  カサブランカ会談が行われた(1月14日~1月24日)
  不幸を生んだアメリカ大統領ルーズベルトの、『日本
 に対する知識不足と思い込み』。
  ルーズベルトは、日本に対する知識が無く、ある意味
 では「日本に、未開民族的な理解」を持っていた。
  そして、その様なレベルの日本が武力を持っていると
 思っていた・・理解していた。
  キリスト教に強く影響されているルーズベルトは、そ
 の様な見方で見ていた。
  また、キリスト教の「有色人種蔑視観観」の考え方・
 見方・教義から偏頗(へんぱ)な見方で見ていた。
  千数百年間も有色人種は、キリスト教に、これで虐げ
 られて来ていたが、
  スペインによる南米などの大虐殺の如く、卑劣な虐げ
 の歴史の中にあったが、
  このルーズベルトも、その延長線上にある人だった。
  日本は、1300年以上も前に、すでに、男女同権があり、
 知的な教育システムを持ち、兵役もない、非武装の社会
 が出来上がっていたのだが・・
  その様な日本・・日本文化のことを知る由もなかった。
  平安時代という、アメリカが、影も形もない、遠い遠
 い昔から、その様な社会を日本は経験して来ている国だ
 ったのだが・・、
  アメリカが、戦後、領土支配的に、上から目線で、日
 本へ色々としたが、日本を本源的に理解していない行為
 だった。
  日本人が、「本当に、あんなに多くの漢字を知ってい
 るのか?」と、(知っている訳はないという思いで・・)
 テストを実施したくらいのアメリカだった。
  また、そのテストの出来の良さに「びっくりするアメ
 リカ」だった。
  アメリカは、自分の理解不足を反省した方が良い。
  この様に知識不足・理解不足を反省すべきだったルー
 ズベルトは・・、
  キリスト教の「シャロームの完全破壊」の教義に影響
 されて、このカサブランカの会談に於いて、日本に「無
 条件降伏を要求した」。
  イギリスのチャーチル首相は、大変、驚き、「それで
 は戦争が、タルタル人の時代に戻ってしまう」と反対し、
 反論した。
  しかし、ルーズベルトは、キリスト教に洗脳された理
 解の仕方によって、今後の方向性を決めるという、一種
 の信仰的決定行為で・・決定がなされた。
  そこには、すでに、思考の無い判断があった。
  そして、無条件降伏に固執し、反対論を突っぱねた。
  チャーチル首相は、タルタル人のジンギスカンの様な
 戦いを、その何も残らない完全殺戮の戦いを、「我々=
 アメリカやイギリスが、やるようになる」と言ったのは
 正しかった。
  そして、ルーズベルトのタルタル人の如くの行為は「
 原子爆弾による完全蒸発の卑劣行為となり」、
  また、「蟻一匹も生かしてはおかないという卑劣なじ
 ゅうたん爆撃を、一般市民の女性や子供たちの頭上に、
 爆弾を雨の様に降らし・・投下した」。
  タルタル人以下の事をするアメリカの戦い方だった。
  そこに名誉も誉(ほまれ)も有るわけはなかった。
  そこには、キリスト教の神の正義である「完全殺戮の
 シャローム」があった。
  国際社会は、すでに、ウェストファリア条約で、この
 様なアメリカの様な非人道的な行為はしないと取り決め
 ているのに、国際法を完全無視のアメリカだった。
  イギリスのチャーチル首相は、あまりにひどいルーズ
 ベルトの考え方に、数日間、抗議し、抵抗した。
  しかし、ルーズベルトは頑(かたく)なだった。
  そして、カサブランカの卑劣な宣言となって行った。
  ドイツも、当然、この宣言に関係していたが、これを
 聞いたドイツは『絶望した』という。
  そして、第二次世界大戦の戦いは、より卑劣な野獣的
 戦いとなって行った。
  名誉を守りたいというドイツの人々は、逆に、ヒトラ
 ーの戦いに加担する人たちも出た。
  ヒトラーの暗殺計画も未遂に終わった。
  カサブランカ宣言以降、ドイツは、見違えるように強
 くなったと言われている。
  この宣言以降、戦いが1年半も続いた原因は、この宣言
 にあったと言われている。
  この間に亡くなった方々も多かったが、ルーズベルト
 が、その原因者だと言える。
  あの悪行為をしたソ連のスターリンでさえ、アメリカ
 のルーズベルトに言った・・、
  「ヒトラーへ膝まずけと要求するような戦争をするも
 のではない」・・と・・、
  また、「ヒトラーはいずれ去っていく・・
  そのヒトラーが居なくなっても、ドイツ民族は残る・・
  我々・スラブ民族も残る・・
  そして、その後も、ドイツ民族とスラブ民族の付き合
 いは長く続くのであるから」・・と・・
  スターリンが言いたいことは・・
  「アメリカの君たちも残り、そして、付き合いを続け
 て行くのに、そこまで要求するのか?」・・と・・、
  そんなひどい、そして、酷(むご)いことはするな・・
 と・・、
.
1946年、アメリカ軍は、白人優位の軍隊であり、黒人の方々
 や黄色人種の『非白人は差別された』・・
  そして、弾除け(たまよけ)に激戦地に送り出されて
 いた。 
  (差別された日系アメリカ人が、その差別を克服する
 ために激戦地で凄まじい戦いをしたことは、有名な話と
 なっている・・また・・、
  アメリカ海軍には、差別から、黒人の方々は、入隊で
 きなかった。
  食事を作る役目ぐらいだった・・)
  戦争が終結すると・・、国外で戦っていたアメリカ軍
 (陸軍)のアフリカ系アメリカ人兵士(黒人兵)は、英
 雄として故郷に帰還した。
  だが、卑劣な事に、そこ(アメリカ本土)には、依然
 として『人種差別』と『貧富の格差』が存在するという
 階層社会・差別社会であった。
  (白人に都合の良い法律をつくったり、選挙の投票を
 黒人の方々にさせないという、アメリカだった。
  経済活動においてもしかり・・当然の差別状態だった。
  遅れているアメリカだった)
  南部を中心として、北部においても、アフリカ系の帰
 還兵に対するリンチ殺人事件が多発した・・英雄扱いの
 真逆だった。
  白人の「キリスト教徒の人種差別主義者(クー・クラ
 ックス・クラン・・など)」は、56名の、アメリカのた
 めに戦ったアフリカ系帰還兵を殺害し、それ以上のアフ
 リカ系帰還兵に重軽傷の怪我を負わせ・・卑劣この上な
 い行動をした。
  2月25日、テネシー州コロンビアの黒人居住区ミンクス
 ライド襲撃事件などがある。
.
2014年4月、この月の号の月刊誌『文藝春秋』に・・、
  「欧州で教会離れが進んでいる」・・と・・
  教会が売り出され、いつしかモスクに!?
  金権体質とスキャンダルで、脱会者が急増中
  欧州経済で、「ひとり勝ちといわれるドイツ」で、教
 会離れが進んでいる。
  現在、ドイツのキリスト教信徒の数は・・、
  カトリックが・・・・2,400万人
  プロテスタントが・・2,300万人
  全人口の・・60%・・
  しかし、その数が、毎年、50万人ずつ減少している。
  このままで行くと、20年後には、人口の50パーセント
 以下になり、キリスト教徒は、近い将来、少数派になる
 ・・と・・、
  日本のキリスト教信徒は、全人口の約1~2%で、約200
 万人しかいない・・が・・
  因みに、仏教徒の数は約8,500万人で、全人口の約70%。
  また、因みに・・、
  ドイツのこの25年間のキリスト教徒の減少は・・、
  プロテスタント600万人、カトリック200万人となって
 いて、無宗教も珍しくないという。
  この様な現象は、欧州全体にもあって、ドイツが特別
 な状態という訳ではない・・と・・、
  2013年1月に、有名なリサーチ機関が、カトリック信者
 を対象に行なった「面白い聞き取り調査結果」が発表さ
 れた。
  ・信者の多くが、自分には信仰はないと思ってはいな
   いが・・、信心深いとも思っていない・・と・・、
  ・神や宗教について、定義は極めてあいまいと思って
   いて、神と自分との関係には関心がない・・積極的
   に問うてみる必要性は感じていない・・と・・、
  ・死んだ人が復活するというキリスト教の教義を信じ
   ている人はいない、
    また、当然、マリアの処女懐胎をそのまま信じて
   いる人もいない。
  ・2005年の前回の調査と比べると、一層、キリスト教
   離れになっていて、カトリック教会は多くの信頼を
   失っている。
  ・特に、熱心なキリスト教信者が、『幼児虐待』のス
   キャンダルなどに深いショックを受けていて、
    また、教会の持つ『女性蔑視の体質』や、『離婚
   者』や『同性愛者への差別的態度』、また、避妊の
   禁止などを非難するようになっている。
  ・キリスト教会に生き方まで支持されたくないと思っ
   ている人が増えている。
    価値観が多様化して、教会離れになっている。
  ・日曜日のミサに定期的に参加する人は、わずかで、
   人口の2%程度(50人に1人)。
  ・毎週、教会に通う人も、田舎に住んでいる人でさえ
   かなり少ない。
  ・宗教に対する態度は、地方と都会で、そして、年齢
   によって、大きな違いと開きがある。
  ・キリスト教会が、いつしかモスクになるのではと思
   えるほどだ・・、
  ・キリスト教を標榜する政党は、今でもある・・、
   与党のCDU(キリスト教民主同盟)と、CSU(
   キリスト教社会同盟)で、
    宗教は、学校で必修科目となっている。
    そして、ドイツの教育は、州の管轄事項なので、
   州ごとに決められ、若干の違いはあるが・・、
    必修科目であることは憲法で定められている。
    しかし、最近では、最終学年が近くなると、宗教
   の代わりに、『倫理』を選択できるところも多くな
   ってきている。
    しかし、基本的には、宗教の授業は、大学に入る
   まで延々と続く。
    これは、「時代に即しているとは言い難い」と思
   っている人は多い。
  ・だんだん減少して、先細りのキリスト教だが・・
   そのキリスト教と違い、イスラム教は、どんどん伸
   びている。
  ・売り出された教会が、モスクになってしまったとこ
   ろもある。
  ・移民の多い州の学校では、宗教の時間に、カトリッ
   クや、プロテスタントと並行して、イスラム教の授
   業も始まっている。
  ・移民が、これからも増えるので、公立学校でのイス
   ラム教の授業は、早晩、常態化して行くと予想され
   る。
  ・それに備えて、イスラム教の教師を養成する科を新
   しく作った教育大学もある。
  ・イスラム教の授業の主導権を、ドイツが握りたいと、
   イスラム教師を正式に育成するためのもの。
  ・イスラムの授業を、イスラムの聖職者に任せると、
   反ドイツ的な教育が為されるかもしれないと、危惧
   しているからである・・、
  ・今、ドイツでは、すでに、キリスト教のカトリック
   も、プロテスタントも、肝心な『教え』が信じられ
   ていなくて、人々の心を掴んでいない、共感をもた
   らしていない。
  ・多くのドイツ人にとって、キリスト教や宗教は、反
   動的で、反民主主義と捉(とら)えられている。
  ・この様な、キリスト教が作った空洞に、入り込んで
   来たのが、さらに厳格な一神教であるイスラム教で
   あって・・何とも皮肉な状態になっている。
  ・今、ドイツは、弱まるキリスト教に、強まるイスラ
   ム教となっていて・・、キリスト教教会の地盤沈下
   は深刻になっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-03-27 16:20 | 皆様とともに 幸せになりたい

(増補版)511E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年4月~1890年5月)

題:(増補版)511E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年4月~1890年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年4月21日、呉鎮守府の開庁式
  明治天皇陛下の御臨席のもとに挙行された。
  「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として参謀部・
 軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・
 監獄署などが置かれた。
1890年4月26日、商法(明治23年法律32号)公布
  この商法は、「商ノ通則」「海商」「破産」の3編から
 構成されていた。
  これを審議した元老院は、施行を翌年・1891年1月から
 と定めた。
  しかし、ここに商法典論争が起きた。
  この年、秋から帝国議会が開かれるようになると、民
 法典論争の煽りを受けた。
  そして、この新しい商法に対する反対論が噴出した。
  この論争には、法学者のみならず、商工会議所に属す
 る商工業者からの抗議もあった。
  その意見は、「民法と商法とは密接な関係にあるにも
 関わらず、民法はフランス系で、商法はドイツ系で、法
 体系が違っており、双方の間に重複が多すぎる」・・と。
  特に、「契約作成能力」や「委任契約」に至っては、
 2つの法律の間に矛盾さえあった。
  また、御雇い外国人のロエスレルが・・、
  日本の商慣習を、「曖昧で前近代的で全く考慮に値し
 ない」と評して・・慣習法としての価値を全く認めよう
 としなかった。
  穂積陳重(ほどみのぶしげ、東京帝国大学法学部長)
 らが・・、
  「商法は、そもそも商慣習の集成に由来するのに、現
 地の商慣習を無視した商法はありえない」・・と、主張
 した。
  この事もあり、実際の商法では、商慣習を認めたもの
 の、低い地位に置かれた。
  だが、同じ商工会議所でも、海外貿易の盛んな大阪で
 は、早期施行を要求する嘆願が、
  逆に、東京では、施行延期を求める嘆願が出されるな
 ど・・複雑な展開となった。
  結局、商法の施行は、2年間(後に期限は更新された)
 延期されることになった・・その後も・・もめた・・
1890年4月26日、佐世保鎮守府の開庁式典が、明治天皇陛下
 の御臨席を賜わり、挙行された。
1890年4月27日 民法第一、第二、第三編が公布された。
  民法は、1896年の(明治29年4月27日法律第89号)であ
 るが・・、
  旧民法は、1890年に公布された。
  しかし、民法典論争により施行延期となり、そのまま
 施行されずに終わった。
  御雇い外国人ボアソナードらの起草に成る民法典、い
 わゆる、旧民法と言われる『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 『民法財産取得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98
 号)のこと・・
1890年4月、逓信省が、電話加入者募集の告示を、新聞に掲
 載した。
  この頃、一般の方々の電話に対する認識が無く、
  はじめ、なかなか、この募集に応じる人は集まらなか
 った。
  宣伝活動を・・色々と苦労して行った。
  電話に対する評判が盛り上がるどころか、「電話をつ
 けるよりも小僧をやとったほうが得だ」という反論が出
 たりした。
  この頃、東京にコレラが流行して、このコレラ病が、
 電話線を伝わるのではないかなどという流言が広まった
 りもした。
  当時、電話局が困って、三井財閥の益田孝氏に相談し
 た。
  氏の見解は・・、
  「普通教育が発達すれば、丁稚小僧を得る事は困難に
 なるから、電話は必要」というものだった。
  苦労の末・・、
  東京215名、横浜45名の申し込みを受けた。
  そして、開通時は、東京155名、横浜42名で、1890年12
 月16日に、電話交換を開始した。
  (日本電信電話公社広報部発行の電話100年小史を参考
 にした)
1890年4月、民・商法は、わが国の慣習に反す(法典問題)
1890年5月1日、第1回国際メーデーが行なわれた。
  世界で初めてのメーデーが開催された(労働者の祭典
 といわれるメーデー)
  このメーデーで、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラ
 リア、ラテンアメリカの労働者が、8時間労働制を要求
 した。
  労働者が団結し、権利を要求する日であり、世界的に
 毎年5月1日がメーデーとされているが・・、
  kのメーデーのきっかけとなったのは、1886年5月1日、
 アメリカの合衆国カナダ職能労働組合連盟(後の、アメリ
 カ労働総同盟)が、8時間労働制を要求して行ったストラ
 イキが始まりだった。
  当時の労働者は、低賃金で、1日12時間以上働かされる
 など、過酷な生活を強いられていた。
  これを改善するために、労働者自らが立ち上がった。
  3年後の1889年に、パリで開かれた第2インターナショ
 ナル創立大会では、8時間労働制実現のデモを行うことが
 決議され、
  さらに、5月1日を労働運動の日に設定した。
  これ以降、メーデーは、国際社会に広がることとなっ
 た。
 日本で初めてメーデーが行われたのは、1920年、東京・
 上野公園で、集まったおよそ5000人とも1万人ともいわれ
 る労働者らが、8時間労働制や最低賃金法の制定などを訴
 えた。
1890年5月4日、内国勧業博覧会で、電車が運転された。
  1890年4月1日より、上野公園を会場として開催された
 この第3回内国勧業博覧会で、電車が運転され・・、
  これが、日本で最初の電車の運転だった。  
  電車は、東京電燈スプレーグ式電車(とうきょうでん
 とうスプレーグしきでんしゃ)で、
  日本初の電力会社であった東京電燈会社(東京電力の
 前身の一つ)の技師長であった藤岡市助が、
  同社社長と共に、海外電灯事情の調査に訪米した際、
 購入した電車だった。
  この電車は、博覧会における展示物として、運賃を取
 って来場者に体験乗車をさせるデモ運転電車だった。
  公園内に、170間(約310 m)の60ポンドT型レールを敷
 設して実施した。
  この間、7月31日の会期最終日までに、天皇陛下、皇太
 后陛下、皇太子殿下、小松宮殿下と、皇族の方々も会場
 を訪れ、この新しい乗り物を御体験されている。
1890年5月5日、板垣退助、総選挙に備えて、愛国公党大会
 で自由党と大同倶楽部の合同を提唱した。
  因みに、愛国公党は、1890年5月、板垣退助が主唱して
 結成した政党で、
  後藤象二郎の入閣によって、大同団結運動が、大同倶
 楽部と大同協和会の2つに分裂したのをみた板垣は、
  最初、自由党の名のもとにこれを統一しようとしたが、
  結局、不可能と判断し、愛国公党の結成に方向を転じ
 た。
  この年・1890年、第一回総選挙後、自由党・大同俱楽
 部と合同して立憲自由党に発展した。
1890年5月6日、千歳座が焼失した。
  明治時代からの長い歴史を持つ千歳座は、今、「日本
 橋明治座」と言い、東京都中央区日本橋浜町二丁目にあ
 る劇場。
  1873年(明治6年)に、喜昇座(きしょうざ)として
 創建されたこの劇場は、初期には焼失と再建を繰り返し
 ながらより大きくなって行き、
  その度に、名称も久松座(ひさまつざ)、千歳座(ち
 とせざ)とめまぐるしく変わっていった。
  1893年(明治26年)に、初代市川左團次が、千歳座を
 買収して座元となり、これを明治座と改称するに及んで
 やっとその名が落ち着いて、今日に至っている。
1890年5月7日、上野公園パノラマ館が開場した。
  戊辰戦争を描いて評判となった。
  この館は、上野公園内の護国院前に、東京府から約200
 坪の敷地を借り受けて営業を開始した。
  円筒形の建物は、直径22メートル、高さは11メートル、
 外部は煉瓦造、内部は木造だった。
  掲げられたパノラマは、戊辰戦争における白河の戦い
 を描いた「奥州白川大戦争図」で、矢田一嘯(やだいっし
 ょう)の筆。
  また、これは、開館から6年後の1896年8月12日に、上
 野駅に近い、擂鉢山(古墳)の南東に場所を移して再開場
 した。
  閉館は1908年・・、
  尚、歌人の斎藤茂吉が、山形県から上京したばかりの
 少年時代について、『三筋町界隈』というエッセイで回
 想して記したが・・、
  そこに・・上野パノラマ間の事が記してある。
  「その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノ
 ラマがあって、これは実にいいものであった。
  東北の山間などにいては、こういうものは決して見る
 ことが出来ないと、私は、子供心にも沁々(しみじみ)
 とおもったものであった。
  十銭の入場料といえば、そのころ惜しいとおもわなけ
 ればならぬが、
  パノラマの場内では、望遠鏡などを貸して、それで見
 せたのだから如何(いか)にも念入であった。
  師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の
 煙が上って、天を焦がすところで、その煙がむくむく動
 くように見えていたものである」・・と。
1890年5月12日、東京音楽学校が開校した(5月23日説あり)
  東京音楽学校(とうきょうおんがくがっこう、現=東
 京芸術大学音楽部)は、
  1887年、東京府下谷区に設立された官立(唯一)の音
 楽専門学校で・・日本で最初の音楽教員・音楽家・音楽
 鑑賞家の養成機関だった。
  当初は、西洋音楽の教育を中心とした。
  そして、新校舎(奏楽堂)も竣工し、「新築披露音楽
 会」も開かれた。
  奏楽堂は、文部技官・山口半六と、久留正道の設計に
 よって、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学
 校のオーディトリウム(演奏会場)として、この年に建設
 された。
  本館は、木造二階建ての桟瓦葺で、中央家と翼家から
 なり、中央家2階にある講堂兼音楽ホールとなっている。
  1972年(昭和47年)、老朽化のため大学構内から愛知
 県犬山市にある博物館明治村への移築保存で合意された
 が、
  日本建築学会、音楽家グループ、市民らの反対により
 撤回され、
  1983年(昭和58年)に、台東区へ譲渡された。
  1984年(昭和59年)、台東区は、解体・修理後に上野
   公園内へ移築を行い、
  1987年(昭和62年)10月から一般公開が開始した。
  翌・1988年(昭和63年)1月、国の重要文化財に指定さ
   れた。
   建物の傍らには、瀧廉太郎の銅像が設置されている。
1890年5月17日、府県制・郡制が公布された。
  府県制・郡制は、国会開設に先だって、この時に、地
 方自治制度の一環として制定された制度で・・、
  これによって、府県と郡は、初めて、自治体としての
 組織と機能を持つことが出来た。
  府県会・郡会は、複選制で、
  府県会の選挙権者は、市会議員・市参事会員・郡会議
 員・郡参事会員で・・、
  被選挙権者は、直接国税10円以上納入者であった。
  郡会は、その3分の2を各町村会が選挙し、3分の1は、
 地価1万円以上の土地を所有する者が互選で選んだ。
  いずれも、一般国民は参加できない地方有力者中心の
 自治制であった。
  これらの議会の権限は狭く限られており、また、官選
 の郡長・府県知事や内務大臣の厳しい監督と規制が加え
 られ、自治体としては不完全であった。
  1899年(明治32年)、町村の政争を激化するという理
 由で、複選制は廃止され、直接国税3円以上納入者による
 直接選挙となった。
  日本の実状にあわない郡会の大地主議員も廃止された。
  北海道には、1901年3月、北海道会法が公布されて、あ
 る程度の自治権が与えられ、
  1922年(大正11年)に、ようやく府県制に準拠して扱
 われることになった。
  日露戦争以後、地方制度合理化の見地から郡制廃止法
 案が何回も議会に提出されるが、貴族院の反対で日の目
 をみず、第44議会に至って成立し、1923年に、郡制は廃
 止された。
  1926年には、郡役所も廃止され、郡は単なる地理的名
 称となった。
  府県制は、大正末から昭和初期にかけて、普通選挙制
 採用、議会権限拡充、自治立法権付与などの自治拡充政
 策がとられたが、
  1943年(昭和18年)には、自治権を制限する反動的改
 正が行われた。
  同年・1943年、首都に対する国家的統治を強めるため
 に、東京市をなくし、東京府を東京都と改める都制が敷
 かれた。
  1947年(昭和22年)地方自治法の施行によって、東京
 都制、道府県制の不完全な自治制は覆され、知事公選を
 柱とした民主的な地方自治制が確立した。
1890年5月22日、浅草に日本パノラマ館が開業した。
  (5月21日説があるが、当時の新聞広告は、5月22日と
 記している)
 上野のパノラマ館に続く、日本で2番目のパノラマ館で
 あるが、
  このパノラマ館は、20万人が来場するという人気であ
 った。
  その人気は、円形小屋の直径36メートル、全高約30メ
 ートルという巨大な建物で、
  華族女学校や農商務省舎を手がけた工部大学校出の建
 築家、新家孝正(にいのみたかまさ)が、その設計を行な
 った。
  そして、サンフランシスコ直輸入の本格的な南北戦争
 図を配したその圧倒的なパノラマは、開館直後から大人
 気となった。
  5ヶ月間で20万人もの観客が動員された。
  この上野と浅草での人気に乗じて、日本各地に同様な
 施設が出来た。
  翌年・1891年(明治24年)1月には、大阪難波、
  同・1891年7月には、京都新京極・・と、
  パノラマ館は大都市を中心に各地で作られた。
  最も多く常設館が作られた東京では、他にも神田錦町
 の「新パノラマ館」(明治24年)や、
  神田三崎町の「帝国パノラマ館」(明治30年)、
  靖国神社に献納された「九段下国光館パノラマ館」(明
 治35年)などがあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:世界最強の情報機関を・・このレベル差によって大きく影響される・・
    そして、戦争を止めるためにも存在すべきだ・・
    戦争を始めるのは、何時も何も知らない政治家・・、
.
1944年8月19日、フランス・パリ解放の戦いが行われた(
 ~1944年8月25日)
  しかし、パリの若い女性の方たち・パリジェンヌの方
 たちには、ひどい、つらい日々の幕開けとなった。
  アメリカ兵の性の乱れが、あまりにも酷かった。
  アメリカ軍には、伝統的な根強い人種的偏見が存在し
 ていた。
  人種差別的厳罰主義から、白人兵士を軽罰に、有色人
 種を重罰にした。
  危険な爆弾運びは、アフリカ系兵士が行なった。
  25人のアフリカ系アメリカ人兵士が、フランス人達の
 前で処刑されたと言われている。
  保守的なフランス人は、アメリカ人兵士の横暴な振る
 舞いに不快感を示した。
  しかし、ドイツ軍から祖国を解放する為には、アメリ
 カ軍に頼るしかないと、目を逸(そらす、視線を転じる)
 らした。
  アメリカ軍が駐屯する地域では・・、
  一般女性をアメリカ軍兵士の強姦から守る為に、集め
 られるだけの娼婦を集め・・、
  足りなければ、戦闘で住む家を失い、家族を亡くした
 若い女性をやむなく仕立てた。
  また、やむなく家族を食べさせる為に、個人的にアメ
 リカ人兵士に身体を売る可哀想なフランス人女性方もい
 た。
  都市部の建物の多くが破壊された為、アメリカ人兵士
 とフランス人女性達は、人目を気にせずに・・公園や墓
 場などでセックスを行っていた。
  そのあまりの酷さ・乱れに、フランス市長は、たまら
 ず、その是正を、アメリカ軍へ申し入れた。
  また、風紀の乱れを憂慮したフランスの方々は、アメ
 リカ軍に対して、軍専用の慰安所設置を懇願した。
  アメリカ軍は、アメリカ本国における慰安所反対の女
 性運動に配慮し、その軍専用の慰安所設置要請を却下し
 た。
  「軍が、セックスを規制するなど論外だ」。
  「そんな施設をつくれば新聞記者達が嗅ぎ付け、兵士
 の乱交振りが故郷に報じられるだろう」・・と・・、
  だが、アメリカ軍も、アメリカ人兵士の中で性病が蔓
 延し、戦力が低下する事を憂慮し、公式には否定しても
 非公認の慰安所設置を決めた。
  フランスの公認売春宿(メゾン・クローズ、娼婦の館)
 を、ドイツ軍に協力していたとして没収し、非公認の連
 合軍の専用慰安所にした。
  そして、『将校用』、『白人兵士用』、『黒人兵士を
 含む有色人兵士用』の三タイプを設けた。
  さらに、アメリカ国内への言い訳にする為に、平服着
 用を義務付けた。
  また、このニュースには、以下のニュースもある・・、
  中国が、日本を貶めるために、上海ユダヤ難民記念館
 を造り、世界記憶遺産へ申請するという。
  日本人は、ユダヤ人の方々を『救っていたという事実』
 があるのにである。
  中国は、以下の様な行動をする・・、
  歴史戦と称して・・中国が、上海ユダヤ難民資料を記
 憶遺産の申請へ・・旧日本軍が保護の史実を隠蔽したと、
  「抗日戦勝70年」の一環だと・・
  「世界記憶遺産」として登録申請の準備を進めている
 中国上海市内の上海ユダヤ難民記念館・・だと・・
  日本は、アジアの解放を目指したのに・・である。
  (2015年8月9日、産経ニュースを参考にした)
.
1948年5月14日、イスラエルが建国された。
  建国と共に・・『諜報』の大事さが問われた。
  それは、戦争が起きることを防ぐためでもあった・・、
  日本に、この視点があるのだろうか・・
  また、しっかりしたこの様な組織があるのだろうか・・?
  イスラエルのデヴィッド・ベン=グリオンは・・、
  この日・1948年5月14日、イスラエル国家の設立を宣言
 したが・・、
  彼は、イスラエル独立宣言の中で、新しい国家は「人
 種、信条、性差に偏見を持たず、市民の完全な社会的、
 政治的平等を守る」と述べ・・、
  1949年5月11日に、イスラエルの国連加盟を実現させた。
  そして、この独立直後に・・第1次中東戦争が勃発する
 が・・その期間中に・・ベン=グリオンは、初代イスラ
 エル首相に選ばれた。
  イスラエル初代首相デヴィッド・ベン=グリオンは、
  1949年、周囲を敵に囲まれたイスラエルを守るには・・
 『世界最強の情報機関を創設する事が急務だ』とした。
  そして、諜報機関ハガナーを中心として、民間の情報
 組織・テロ組織であるイルグンやスターンを統合して・・
  『モサド』を設立した。
  世界三大情報機関であるモサドは、首相直轄の組織と
 して、政府や外務省はおろか軍からも独立し、『絶対の
 権限』を持った。
  そして、独自の行動した。
  ベングリオンは言った、
  「一番大切なのは情報だ」。
  「幾ら強い兵隊を抱えていても、彼らが何処を攻撃す
 べきか、情報がなければ分からないからだ」・・
  尚・・、
  マーカス・ヴォルフ(元東ドイツ諜報機関シュタージ)
 の言葉・・、
  「我々諜報員は、戦争を止める為に存在する」。
  「戦争を始めるのは、何時も何も知らない政治家だ。
  知らないと怖くなり、怖さから相手に挑もうとして、
 戦争を始める。
  それに対して、我々は、双方の国にとって利益になる
 ように動いている」・・と。
  イスラエルの指導者の多くが、諜報機関に関係した人
 達によっている。
  この年・1949年5月24日、西ドイツは、直接占領統治か
 ら独立して、憲法としてドイツ連邦共和国基本法を制定
 し、
  ソ連・東欧陣営の侵略から祖国を防衛する為に再軍備
 を行った。
  秋 スターリンは、ソ連軍が占領している東ドイツで
 軍隊に近い待機警察を設置する様に命じた。
  西ドイツでは、ソ連・東ドイツ・共産主義陣営から祖
 国と自由・民主主義を守る為に、憲法改正と再軍備を求
 める世論が起きた。
  この頃は、『力には力で対抗する』のが、世界の常識
 だった。
.
1960年代、ヨーロッパの各国は、景気が良く、労働者不足
 だった。
  そして、その労働者を確保する為に、積極的にイスラ
 ムの国々から、イスラム圏などから・・移民を行った。
  まったく、勝手な行動であった。
  その時には・・それが、自分に都合が良かったからだ
 った。
  だから・・景気の良い時は・・何ら問題は起きなかっ
 た・・、
  ・・が・・しかし・・、経済が悪化すると・・、
  イスラムの方々は・・余剰の労働力と見なされた・・
  まったく、ひどい話である・・
  企業のリストラが本格化した・・
  この様な、社会の風潮になると・・ヨーロッパ各国の
 自国の労働者たちは・・自分たちが失業するのではない
 か・・と、恐怖が湧いた・・
  その恐怖から・・移民排斥運動が起きた。
  2014年における、フランスの移民数は・・470万人で、
 全人口の7.5%である。
  ドイツでは・・500万人で・・全人口の5%・・、
  そして・・貧困率は・・6人に・・1人・・
.
2017年、北朝鮮は、日本を直撃するミサイルを300基所有し
 ている。
  これから日本を防衛するためには、「MDシステム」
 では防げない。
  日本は、巡航ミサイルを持つべきだ。
  巡航ミサイルは、小型の漁船や貨物船からも発射でき、
 自由に航路を変えながら低空を飛行するため、MDシス
 テムではほとんど捕捉が不可能・・、
  高価なMDシステムを買うよりも、安価な巡航ミサイ
 ルを数発同時に発射するだけで、いつでもMDシステム
 を迂回することが出来る。
  日本は、「いざという時は、やりますよ」という姿勢
 を持たなかればならない・・、
.
2017年、チャイナ・ロビーに繰られる日本
  中国は、大量のロビイストを日本に送り込んでいる。
  (参考)ロビイストとロビー活動:
    ロビー活動(ロビーかつどう、lobbying)とは、
    特定の主張を有する個人、または、団体が、政府
    の政策に影響を及ぼすことを目的として行う私的
    な政治活動。
     議会の議員、政府の構成員、公務員などがその
    対象。
     ロビー活動を行う私的人物・集団はロビイスト
    (lobbyist)と称される。
  中国の送り込んでいるロビイストは、政治だけでなく、
 あらゆるジャンルで日本を繰っている。
  NHKの放送が繰られ、中国寄りの放送がよくなされ
 ている。
  2014年2月7日~2月23日に行われたロシアのソチ・オリ
 ンピックは、中国の放送局の放送の様だった。
  NHKは、中国に対し、特別にNHKの一室を与えて
 いる。
  中国政府が、ロシアにロビイスト(工作員)を送り、
 ロシアの内政と外交を親中の方向へ誘導しているという
 ことはよく知られている。
  アメリカのシカゴの新聞社は、今年・2017年に、中国
 資本に下ったという情報もある。
  大量のお金が動いているという。
  中国は、金と人を大量に送り込んでいる。
  世界中で止まらない『慰安婦女性像の設置』も、この
 様な金が使われていると言われている。
  卑劣な事である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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# by suba28 | 2017-03-24 03:37 | 皆様とともに 幸せになりたい


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